美濃では古くから良質の陶土が多く産出され、平安時代から焼き物の生産は盛んでした。醍醐天皇の『延喜式』には、大和、河内、和泉、播磨、備前、讃岐、筑前等とともに陶器調貢の十箇国のうちにあげられてています。
鎌倉時代・室町時代になると、東濃地方で焼かれた平安時代の『瓷器(しき 灰釉陶器)』の技術は無釉陶(山茶碗)の生産へと引き継がれ、戦国時代になると瀬戸から移住した陶工により施釉陶生産技術が導入されました。

近世の美濃焼においては、以下のような要因により製品の種類が変化しました。
(1) 窯の形式の変化
瀬戸・美濃で伝統的であった「穴窯(大窯)」から、唐津から導入した「連房式登り窯」への変化です。穴窯(大窯)では黄瀬戸・瀬戸黒・志野が焼かれ、連房式登り窯では織部が焼かれました。
(2) 中国伝来の台子茶から日本独特の侘び茶への変化
中国から伝わり書院における格式の高い茶であった「台子茶」から、小さな茶室を用いた「侘び茶」への変化により、使用される茶碗などの道具も、唐物の完璧なもの(天目茶碗など)から、素朴で簡素な朝鮮の井戸茶碗や国産の茶碗(黒楽・瀬戸黒など)に変化しました。
(3) 茶人の好みの変化
時代の変化に伴い、静かで内包的な「利休好み」から、無骨で荒々しく、大振りで自在に変化のある「織部好み」へと変化しました。これにより、使用する茶碗も黒楽・
瀬戸黒・黄瀬戸などから、志野・織部などに変化しました。

以下、それぞれの要因について詳細に見ていきます。

利休好み
利休好みとは、一言でいえば「余計なものを全て削ぎ落とし完成したSIMPLE IS BESTの世界」です。茶碗でいうと黒楽茶碗や瀬戸黒茶碗です。
利休本人が好んだ道具を、千家十職といわれる職人方に作らせました。利休好みの寸法・型が、型紙や木型の形で残っています。楽茶碗をはじめ、棗の利休十二器や懐石道具の黒椀(一文字椀、上り子椀、丸椀)、朱引盃・盃台、利休箸、釜(阿弥陀堂、四方、布団、雲龍、尻張、丸など)、黒塗手桶水指、露地下駄など、利休形と呼ばれるものは多岐に渡っています。
  
   黒楽茶碗 銘俊寛              利休12器とその木型          

織部好み
古田織部(重然)は「利休七哲」と呼ばれる7人の高弟のうちの一人で、二代将軍秀忠の茶道の師となり、利休亡き後天下一の茶人となりました。
利休は常々「茶の湯は自由闊達な創意ある工夫を凝らすべきだ」と弟子に説いていましたが、織部は戦国を生き抜いた槍一筋の武人であったので、その行う所の茶は、静かで内包的な利休の茶に対して、無骨で荒々しく、大振りで自在に変化のある「織部好み」と言われるものでした。代表的なものが志野や織部の茶碗ですが、それ以外にもダイナミックな道具が好まれました。
 

穴窯(大窯)の時代
穴窯の構造穴窯は古い形式の窯で、下半分が地下で、上半分だけがアーチ状になって地上に出ている単室の窯です。燃焼効率があまり良くなく、温度が上がりにくいため、焼成には長時間を要する不経済な窯でしたが、古くは古墳時代から安土・桃山時代まで長年にわたって使用されてきました。
平安末期から鎌倉時代初期の頃、愛知県の猿投窯において、燃焼室の直後に焔を左右に分けるための土でできた大きな柱(分煙柱)を設ける技術が開発されました。これにより、焔が安定して焼成の成功率が高まりました。
また、室町時代になると穴窯は次第に大型化し、天井のアーチを支えるため、焼成室(しょうせいしつ)に3~4本の柱を設けるようになり、「大窯」と呼ばれました。

穴窯で焼成されたのは、黄瀬戸・瀬戸黒・志野などです。効率は良くありませんでしたが、長石釉の志野などを焼くには適した窯でした。

登り窯の時代
割竹形連房式登り窯『瀬戸大竈焼物並唐津竈取立由来書』によると、加藤景延が慶長2年(1597年)築後守に任ぜられてから間もなく、唐津から美濃に来ていた森善右衛門という浪人が景延の窯を見て「惜哉大分火すたる」と評し、是非唐津の窯の「用躰」を見分して「薬法焼様の委細」の相伝を受けるようにとすすめました。これが縁となり景延は善右衛門に同道して唐津へ赴き、窯の「用躰焼様」を相伝して帰り、元屋敷の地に唐津式の登り窯を築いたと伝えられています。これが元屋敷窯で、織部の優品の多くがここで焼かれました。
登り窯は、それまでの大窯に比べてはるかに燃焼効率と経済性に優れていましたので、美濃の大窯は次第に登り窯にとって変わられました。最初美濃の陶工たちは引き続き伝統的な志野を作ろうとしましたが、昔の大窯で作ったようなあたたかい駘蕩の志野はできませんでした。志野の魅力とされた緋色もでなくなり、絵ははっきりと現れるようになり、釉薬の調子も単調になりましたが、美濃の陶工たちはこの新しい窯に適した新しい焼物を作り上げていきました。それが織部です。

 
 

黄瀬戸


黄瀬戸 平茶碗
 
黄瀬戸(朝比奈)

黄瀬戸は室町時代からの朽葉色の古瀬戸の流れをくむもので、志野のように桃山時代に始められた釉薬ではありませんが、桃山時代の黄瀬戸は釉調が特に美しく、独特の趣を持っています。肌にいくらかザラメがあって、じわりとして光沢が鈍く、非常に品がいいものを「あぶらげ手」もしくは「あやめ手」と呼んで、古来茶人が珍重してきました。
元々向付として作られたものを茶碗に見立てているものがほとんどですが、「朝比奈」は茶碗として作られたものです。
黄瀬戸では、素地が生乾きのときに木か竹の先で線描を描き、そこに銅の胆礬(タンパン)を打ちました。胆礬は酸化銅のことで、焼成すると緑色に発色し、コゲと合わせて黄瀬戸の見どころのひとつとなっています。




瀬戸黒(小原女)

瀬戸黒
天正の頃初めて作られたので、一名「天正黒」と呼ばれます。また、焚きあがると真っ赤なうちに窯から引き出すので「引出黒」とも呼ばれます。
形状は筒形が多く、高台は極端に低く作られています。
釉薬は鬼板風のものに灰を混ぜたもので、窯が1100℃くらいになったところで鉄の鋏で色見穴から引き出すと、急冷によって黒くなります(水で急冷する場合もあります)。このとき鋏ではさんだ跡が必ず残り、これが一つの景色になっています。
同じような黒茶碗に京都の「黒楽」があります。ともに焼成中の窯から引き出し急冷させることで、鉄釉を漆黒色に発色させる技法を用いることは同じですが、京都の黒楽が、手捻り成形の低火度焼成であるのに対して、美濃の瀬戸黒は轆轤成形で高火度焼成という違いがあります。



志野
志野は純白の雪のような肌が特徴で、日本に初めて生まれた白い焼物です。また白いからこそ、そこに絵を付けることが可能で、筆によって絵付けされた日本最初の焼物でもあります。
『志野焼由来書』によると、「伝言文明大永年中、志野宗信という人ありて茶道を好む故に、其頃加藤宗右衛門春永に命じて古瀬戸窯、椿窯にて茶器を焼出す是を後志野と称す」とあります。また、『本朝陶器攷證』収録の『陶器攷』には「志野宗信物ズキニテ呂宗白楽の沓鉢ヲ茶碗トス、是ヨリ志野茶碗ン名出ル、後今井宗久ヘ伝ハリシ由、名物記ニ唐物トアリ、此茶碗ノ出来振ヲ尾州ニテ写シタルヲ志野焼ト云」などと伝えられてきました。これらの記載により、志野は瀬戸にて焼かれたものと永い間考えられてきましたが、昭和5年(1930年)に荒川豊蔵が志野の陶片を美濃大萱の古窯跡で発見して、志野が美濃で焼かれたことが明らかになりました。

 
白天目茶碗 徳川本家伝来

白天目茶碗 尾張徳川家伝来
 
白天目茶碗 加賀前田家伝来

初期の志野茶碗として「白天目」と呼ばれる茶碗があります。

現在伝世している白天目茶碗は3つあり、一つは徳川本家伝来のもので、これは明らかに朝鮮製の刷毛目茶碗です。

後の二つは武野紹鴎が所持していたもので、一つは尾張徳川家に、もう一つは加賀前田家に伝来したものです。前田家伝来の方には、「紹鴎セト白天目」と利休の箱書・添状もついています。また、『玩貨名物記』『古今名物類聚』『古名物記』などにも記載された和物名物茶碗で、その作行き、釉の調子、土などから言って、ほぼ同時代、同種の作品と言えるものです。
この二つは、荒川豊蔵によると「志野天目であることは疑う余地がない」ものですが、いつごろ、どこの窯で焼かれたものであるかは、まだ明らかになっていません。

ちなみに、美濃で白天目が出土する古窯は、大萱の牟田洞、窯下、大平、久尻元屋敷(下記:<参考>美濃の古窯参照)などですが、大平や元屋敷から出土する白天目は右写真のように胴に段がついており、かなり時代が下がる(慶長以後)ものと思われます。

                                        段付きの白天目茶碗


志野茶碗の名が記録上最も早く現れるのは『津田宗及茶湯日記』で、天文22年(1553年)から天正14年(1586年)までの間に、志野茶碗は200回以上も用いられています。
また、『今井宗久茶湯書抜』の天正6年9月15日の自会にも志野茶碗が出てきますが、宗久の日記によれば、志野茶碗を使用しているのは紹鴎と宗及と自分(宗久)の3人だけということなので、従って志野茶碗も3個しかなかったのではないかとも思われます。
このことは、『山上宗ニ記』の「天目之事 紹鴎所持一ツ。天下三ツ内二ツ関白様ニ在リ。引拙ノ天目堺油屋ニ在リ。何レモ灰カツキ也。灰カツキノ方ニ上中下在リ其数知ラズ。但、右三ツハ昔ヨリ数ノ台ニ居リタル天目名物也」や、『諸家茶器録』の「一 炭(灰)襜 元紹鴎所三之内 一 炭襜 三内元引拙後油屋浄悦号縲猿光義卿 一 白天目 三内炭襜也元紹鴎後秀吉公光義卿」の記事とも一致し、現に伝存している白天目の数とも一致しています。


無地志野(卯の花) 
 
絵志野(卯花墻)
 
鼠志野(峰紅葉)
 
赤志野 撫子文鉢
 
練込志野(猛虎)

白天目に続いて焼かれた志野茶碗には、以下のようなものがあります。

無地志野 :白素地に志野釉を掛けただけのもの。
絵志野  :鉄(鬼板)で素朴な文様や絵の描いてあるもの。「卯花墻」をはじめ志野の名品と言われるものは、ほとんどが絵志野です。
鼠志野  :美濃地方特有の「もぐさ土」と呼ばれる白素地に鉄(鬼板)で化粧をし、その上から志野釉を施したものです。鼠志野には無地のものと、象嵌したように白い彫り模様のあるものとがあります。
赤志野  :鼠志野の手法と同じですが、鼠にならないで赤く変化したものを指します。また、白素地に鉄分のある志野釉を薄く施すと、素地と釉薬に含まれる微量の鉄分が反応して赤くなる作用を利用したものもあります。
紅志野  :白素地に「赤ラク」と呼ぶ土で化粧し、その上から志野釉を施したものです。
練込志野 :白土に赤土を練り込んで作ります。混ぜ加減によって種々変化したものが出来ます。

志野は室町時代中頃から焼かれ始め、連房式登り窯が登場した慶長の初め頃まで焼続けられました。







青織部 
 
志野織部
 
黒織部

総織部

絵織部

鳴海織部
 
赤織部

伊賀織部
 
唐津織部

織部
織部は連房式登り窯で焼かれた美濃焼で、量産を目指した最初のものです。織部には以下のような種類があります。

青織部  :器の一部に緑釉を施し、余白に鉄絵文を加えたものです。織部を代表する様式です。
志野織部 :志野と同じく鬼板で文様や絵の描き、志野釉を施して登り窯で焼いたものです。光沢のある肌になり、絵は明瞭に出るようになります。
黒織部  :黒織部といえば沓茶碗を連想するほど、遺品としては沓形の茶碗が多い。瀬戸黒と同様に鉄釉を施して、窯中から引き出して急冷することで光沢のある黒が得られますが、釉薬を一部かけ残して、そこに白釉をかけて鉄釉で絵を描いているものを黒織部、全部黒にしたものを織部黒と言って区別しています。
総織部  :器物全体、或いは大半を緑釉で覆ったものです。単純な皿や鉢類に用いられ、釉下に線彫り文様や印刻文様のあるものが多い。
絵織部  :白地に鉄釉だけで文様が施されているものです。つまり、青織部の緑釉の無いものといってもよいでしょう。志野織部とも区別され、純然たる織部の作調を示しています。
鳴海織部 :鳴海手とも呼ばれます。緑釉と染め分けの余白の地が白地ではなく黄土を用いた赤土となっているものです。緑と赤褐色の対比が美しく、魅力となっています。
赤織部  :鳴海織部で使われた赤土を素地とし、それに鉄絵文を描いたものです。或いは、それに白泥を補助的に加えたものもあります。
伊賀織部 :美濃伊賀・織部伊賀とも呼ばれます。織部の中でも異色の作品で、激しく異様に見える造形感覚は、古伊賀の花生や水指(前述の伊賀耳付水指 破袋参照)などに見られるものと同一です。
唐津織部 :織部の窯で焼かれた絵唐津風な作品です。加藤景延が元屋敷窯を開いた時に連れてきた唐津の陶工が焼成したものの可能性もあります。また、逆に唐津にも志野や織部風を模したものが認められ、唐津と美濃の技術者の深い交流が想像され興味が湧きます。

<参考>美濃の古窯


「利休好み」から「織部好み」への変化
割竹形連房式登り窯
お茶が一般に知られ始めたのは、鎌倉時代の初期、日本に禅宗を伝えた栄西や道元によって薬として持ち込まれた抹茶が、禅宗の広まりと共に精神修養的な要素を強めて広がっていったものでした。
お茶が文化的な色合いを濃くしていったのは、室町期の東山時代といっていいでしょう。東山文化といえば、銀閣寺などに代表される書院造りが連想されますが、この頃のお茶もその影響を大きく受け、一般には「書院台子茶」と呼ばれています。特徴は、茶道具や装飾など、端正・華麗な「唐物」を愛好する多分に貴族趣味的なものです。そして、そのお茶の席に、文字通り貴族や上流武家が集い、絵画や茶器、茶道具などの芸術的価値を楽しむといった趣向だったようです。

中国的な華麗さがすべてであった書院台子茶に対して、これを基本としつつも素朴・簡素といった和様化いわゆる「侘び茶」への方向を与えたのは、村田珠光です。その後珠光の弟子たちによって、そうした新しい価値感をもった茶の湯が各地に広まっていきましたが、その中でもとりわけブームになったのは、武野紹鴎から千利休へと続く堺の町衆たちの間でのことでした。

書院台子茶を代表する茶碗は天目茶碗、利休時代の侘び茶を代表する茶碗は黒楽茶碗、瀬戸黒茶碗などです。
台子茶から侘び茶への変化

窯の形式の変化


本文へジャンプ
桃山美濃陶のいろいろ
美濃焼の起源
伊賀耳付水指 銘破袋(五島美術館蔵)
この水指には、古田織部が大野主馬宛に出した次のような消息が付属していました。
「内々御約束之伊賀焼ノ水指令進入候 今後是程のものなく候間 如此候 大ひゞきれ一種候か かんにん可成と存候」
穴窯の構造
近世日本陶磁器の系譜