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幾何学手と青手の意匠のルーツ

前節では、 花鳥、風景、人物画などが中国明時代後期に出版された八種画譜を参考にして描かれたという斎藤菊太郎氏の論文を紹介しましたが、本節では古九谷のその他の意匠「幾何学手」「青手」についてもそのルーツを探ってみました。

幾何学手
幾何学手は、菱形、方形、亀甲などを単位文とし、器の全面をこれらの幾何学文で覆い尽くすものです。同様の意匠が桃山〜江戸時代初期にかけての小袖や内掛の衣装の文様としても見られます。

   古九谷 色絵亀甲文花鳥大皿             古九谷 色絵菱畳文八角大皿


「段に草花と変わり文様小袖」桃山時代〜江戸時代初期   寛文美人図(MOA美術館蔵)

上記の左は京都の高津古文化会館蔵の「段に草花と変わり文様小袖」(出典:別冊太陽「色絵絢爛」)ですが、丸文の中に幾何学文を充填している様は、まさに古九谷の「亀甲文皿」や「菱畳文皿」を見るようです。また、上記右のMOA美術館蔵の「寛文美人図」に描かれた遊女の小袖にも幾何学文が見られます。

青手
青手の意匠にも小袖の文様との類似性が見られるものがあります。寛文7年(1667年)刊行の小袖雛型本「新撰御ひいなかた」に掲載された文様の例をいくつか見てみましょう。(出典:別冊太陽「色絵絢爛」)
まず最初は葡萄文です。

       古九谷 色絵葡萄文平鉢
次は瓜文です。

       古九谷 色絵瓜文平鉢
もう一つは兎を正面から描いた図で、これは葡萄や瓜の絵とは異なり特殊な構図ですので、どちらかが他方を参考に描かれたことは間違いないでしょう。
ただし、古九谷の図柄は「波うさぎ」と呼ばれ、謡曲「竹生島」の
 緑樹影沈んで 魚木に登る気色あり 
 月海上に浮かんでは 兎も波を奔るか 面白の島の景色や

という一節に由来するものです。特に江戸時代初期には好まれ、海を渡る兎の色々な姿が古伊万里の染付などに描かれています。

    古九谷 色絵真向兎文平鉢
前節で取り上げた古九谷の花鳥、風景、人物画については、明で作られた八種画譜を参考にしていましたが、「新撰御ひいなかた」を参考に古九谷が描かれたかというと、必ずしもそうとは言い切れません。というのは、古九谷の作成年代は1640年代〜1650年代と言われていますが、「新撰御ひいなかた」が刊行されたのは寛文7年(1667年)で、その元となった「御ひいなかた」が刊行されたのも、その前年の寛文6年(1666年)であったからです。(出典:丸山伸彦「江戸モードの誕生」)

青手のもう一つのルーツと考えられるのは、金碧障屏画です。金碧障屏画は、安土・桃山時代から権力の象徴として城などの壮大な建造物に描かれてきました。大名が宴の場で使用する大皿に、金碧障屏画を描こうとしたのは当然と言えます。

     狩野探幽筆 二条城大広間四の間 鷹に松図襖絵
上記は狩野探幽筆 二条城大広間四の間 鷹に松図襖絵です。老松は金碧障屏画によく描かれる素材ですが、古九谷にも老松を描いたものが見られます。一例をあげます。

      古九谷 色絵老松図平鉢
以上、「幾何学手」と「青手」についてその意匠のルーツを見てきましたが、どちらにも桃山時代から受け継がれてきた「傾き(かぶき)」のコンセプトが強く感じられます。古九谷の大胆で前衛的とも思える意匠がこの時代に現れたことは一見驚くべきことに思えますが、当時の世の中の「傾き(かぶき)」という風潮を皿や鉢に写し取ったと思えば納得できるのではないでしょうか。
この風潮は戦国時代末期から江戸時代初期に見られましたが、時代が安定するにつれ次第に姿を消していきました。それと同時に「幾何学手」や「青手」古九谷に対する需要も無くなっていったのかもしれません。

 
 
近世日本陶磁器の系譜