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これを見ると、李参平をはじめ高原五郎七、家永庄右衛門、酒井田柿右衛門らは、泉山で陶石が発見された1616年に相前後して、有田外山の小溝や南川原に来ていたことがわかります。高原五郎七は南川原に来て、「その辺の川を見たら明礬が流れているのを見つけ、上流に上質の土があるはずと考え川筋を上ったところ泉山に白土があるのを見出した」(六代柿右衛門『口上手続覚』)という話があるように、この辺りには何か引きつけるものがあったのでしょう。いうなれば、この4人は等しく陶石発見のチャンスがあったとも言えますが、記録上発見したのは李参平で、彼はその後陶石発見の功績で石場の管理を藩から委託され、無税で採掘を許されました。

有田内山で磁器の生産が始まると内山には数多くの陶工が集まり、その中には陶技を覚えて独立した窯を開く者も多くなってきました。それに伴い窯の燃料としての樹木乱伐が問題になってきましたので、鍋島藩は1637年に有田郷で7ヶ所所、伊万里郷で4ヶ所の窯場を閉鎖し、826人の日本人陶工を追放しました。この結果有田の窯場は内山の13ヶ所に集約され、由緒ある日本人以外は韓人の窯だけが残る結果となりました。実は、この裏では李参平が「私が一手に焼きものをしたいので」と、日本人陶工の追放を願い出たという話も残っています。なかなかの政治家ですね。
鍋島藩は陶器である唐津焼より有田の磁器に将来性を感じており、藩の政策として磁器の生産を推進しましたので、窯場を内山に集約して生産効率を上げ、管理しやすくすることは藩の方針とも一致していたわけです。実際この5年後には運上銀の額が、銀2貫目100から銀20貫目と約10倍に増えました。(『山本神右衛門年譜』)

その頃鍋島藩として幸いなことには、中国明王朝が衰退し、同時に景徳鎮の磁器生産も衰退したため、中国から磁器を輸入していたオランダ東インド会社はその代替を日本に求め、その後清王朝で景徳鎮の生産、輸出が再開されるまでの約40年間、有田磁器が世界を席巻することとなりました。

近世日本陶磁器の系譜
肥前磁器の黎明

安土桃山時代までの日本の焼物といえば陶器でしたが、明の青花磁器や高麗青磁、李朝白磁が既に輸入されており、その清廉高貴で華麗な姿は日本の有力者たちの権力の象徴でした。また、戦乱の世が終わるとともに一般民衆の生活も安定してきていましたので、そういう贅沢品としての需要の他に、生活雑貨としての磁器の需要も拡大するだろうと予測した大名、商人、陶工たちにより磁器の創出が動き始めました。

肥前を中心とした北部九州は文禄慶長の役以前から朝鮮半島との交流があり、磁器を焼くための窯の技術は既に韓人陶工によりもたらされていましたので、磁器の創出という炎を燃え上がらせるためには、材料の陶石を発見することが何よりも待ち望まれていました。
主要人物足跡陶石を探し求めた主な人物の足跡を右表で追ってみました。また、この表に登場する地名と窯の場所を現在の広域航空写真に重ねて示しましたので、合わせてご覧ください。
肥前広域地図肥前広域地図

有田地区地図有田地区拡大地図