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尾形乾山に関わる陶法伝書として様々な名称で呼ばれる文書が存在しているか、または存在していたことを前項で述べましたが、それらの内いくつかは名称が異なるものの、内容はほぼ同じで、同じ文書を写したと考えられることがわかりました。
仁清と光悦の伝書は除いて考えると、乾山の陶法伝書は「陶磁製方の一群」、「陶工必用の一群」および「乾山楽焼秘書の一群」の3つの系譜に集約されます。

1.陶磁製方の一群
「陶磁製方」は「佐野伝書」とも呼ばれ、下野佐野の鋳物代官大川顕道をはじめとした、須藤杜川、松村広休など佐野の好事家のために書かれたものです。この文書は佐野の大川家に代々伝えられ、現在は栃木県氏家の滝澤家が所有しています。この伝書は由来がはっきりしていますので乾山の自筆に間違いなく、乾山の自筆判定の基準となるもののひとつと言ってよいでしょう。
また、写しが大川家の親戚にあたる足利の丸山家に伝わっており、この写しを郷土史研究家の篠崎源三が被見したことから、昭和17年(1942年)のいわゆる佐野乾山の発見につながりました。更に、壺桂楼月弓という人が写したものが存在することを、篠崎源三が自著「佐野乾山」の中で述べています。
陶磁製方の伝承経路


          陶磁製方 (栃木県氏家 滝澤家蔵)
(注1)篠崎源三氏は著書「佐野乾山」のなかで次のように述べています。
「私の眼に触れた伝書の写本が佐野付近に四通ある。一つは足利の丸山瓦全大人の家に伝わったものである。一つは佐野町故大川留平氏宅に保存されたものである。他に私の借覧中のものが二通ある。その一つには文政十二年丑年末秋日写、壺桂楼月弓と筆写の年と、筆者の雅号らしいものが記されている。何れも其の内容は全く同一であるから、一つの原本を臨写せるものであることは明らかである。 (中略) 大川留平氏の遠い親戚にあたる大川純三郎氏は留平氏宅で確かに此の伝書の原本、乾山自筆の本物を目撃したと言うていた。また、内窯も見た覚えがあるとのことであった。それを博物館に寄付すると懇望する者があり、譲ってしまったことも知っていた。」
また、陶説67「佐野乾山について(上)」(昭和33年10月号)では、同じ佐野近傍に存在する伝書の写しについて次のように述べています。
「わが佐野付近に乾山の陶器伝書の写しが四通散在している。そのうちの一通が所謂足利市の丸山家に伝わっている丸山本である。他の一通は当佐野市の某家で骨董屋から求めたもので、物々しい桐箱に納められ、西の内の紙に丁寧に筆写されている。これは為する所あって写したもののように思われる。現に乾山の真跡というふれこみで某家に売り込まれたものである。もう一通も丁寧に筆写されているが、これは後半、即ち「内窯焼陶器の事」に関する部分だけで、奥書は「元文二巳年重陽、雍州乾山陶工紫翠深省」と結んであり、更に 文政十二丑年末秋日写 壺桂楼月弓 と模写した年月と筆写の雅号らしきものが付記してある。これは極めて忠実な模写である。更にもう一通は、緒言も奥書もなく、秘伝の内容だけが書かれている。文字も極めて拙くたどたどしいが、内容には間違いなさそうである。さて、前三通を見ると全部が同文同書である。文字のくづしまで同じだから、一つの原本があってそれを模写したことは明瞭だ。」


二つの内容は微妙に異なっていますが、これを総合して整理してみるとと、大川留平氏宅に保存されていたものが乾山自筆本で、その後骨董商の大川峯三郎、鉄竹堂の手を経て滝澤家に渡ったものと思われます。

2.陶工必用の一群
「陶工必用」は「江戸伝書」とも呼ばれているため、江戸系の乾山に伝承されたと思われがちですが、この書は俳人の一枝庵蘭渓に渡され、その後同じく俳人の水上芦川に伝わりました。その後の経緯ははっきりしませんが、大正になってから札幌で発見され、財界人で政治家の池田成彬の所蔵となりました。(出典:「陶工必用」解説)
「陶工必用」は世上にはほとんど知られませんでしたが、昭和17年(1942年)乾山200回忌にあたり川喜多半泥子が著書「乾山異考」において紹介し、世間の知るところとなりました。
陶工必用の伝承経路


  陶工必用 大和文華館蔵 書き出し部分(左)と「錦手絵具之方」の冒頭部分(右)
この伝書は、伝世という意味では由来が不明確です。乾山自筆と言われていますが、それを証明するにはこの伝書の筆跡と「陶磁製方」の筆跡とを比較すればよいでしょう。幸い両伝書は同じ年(元文2年)に書かれていますので、年齢に伴う筆跡の変化は考慮する必要がないため、両伝書に共通する文字をいくつか比べて見ました。すると、下記の通り非常によく似た筆跡であることがわかります。私は古文書の筆跡鑑定の専門家ではないので断定はできませんが、「陶工必用」も乾山自筆と言って間違いないと思います。
          
               陶磁製方(左)と陶工必用(右)の筆跡比較

3.乾山楽焼秘書の一群
「乾山楽焼秘書」については、初代乾山が口述し、二代乾山次郎兵衛が筆記した「口述伝書」が元になっていると思われます。この伝書は後に多数の写しが作られ後世に伝わっています。
乾山楽焼秘書の伝承経路 1

(仮説1)をとる理由は以下の通りです。
・伝書の中に、「存命のうち」「存命次第」「存命計り難く」「息才に居候はば」など、
 話し手が病身であることを伺わせる記述がある。
・伝書の「赤絵」の項目に「同名致せられ候時分には金珠と申す物これ有(中略)
 今にては其薬種無く云々」という記述があるが、乾山自筆の「陶工必用」
 「陶磁製方」では仁清が赤絵具の処方において金珠を使っていたことを
 書いている一方、自身の処方には「山黄土に緑礬のやきかへしごう礬」を
 用いるよう指示していることから、乾山の時代には既に金珠は入手困難で
 あったと推定される。すなわち、猪八が書いたとすると上記の「同名」は乾山を
 指すことになるが、乾山の時代には金珠が無かったと推定されることと矛盾する。

しかし、一方では「乾山が亡くなる前に口述した」ということに疑問を持たせる記述や伝承もいくつかあります。
・金焼付の方法において、乾山が「陶工必用」「陶磁製方」では強く否定していた
 「焼き返した硼砂」を用いることについて、「乾山楽焼秘書」「陶器密法書」では
 否定せず、当然のことのように淡々と記述している。これは猪八が書いたとして
 も不自然な記述である。(金焼付の手法について、乾山から何も教えられなかった
 とは考えられない)
・土拵の調合において、仁清の時代から受け継がれてきた「黒谷土+山科藤尾石」
 の組み合わせが、「乾山楽焼秘書」「陶器密法書」では「黒谷土+安井山のまぜ
 土」という異なる調合になっている。これも、猪八が書いたとしても理解できない
 内容である。
・黒楽に白絵入る方法を絵具の調合を含めて非常に詳細に記述しているが、
 乾山の作品でこれに該当する物は知られていない。一方、猪八の作品には該当
 するものがある。
                  
  猪八作 黒楽宝珠文茶碗 聖護院蔵      猪八作 黒楽山家図茶碗 フリーア美術館蔵
・「乾山楽焼秘書」「陶器密法書」では本焼きの釉薬についての記載がなく、代わりに
 「薬三条窯にても五条窯にても細工人方にて薬かけ、焼代遣し候事」という記述が
 ある。これは、作者がこの文書を書いた当時本焼きの窯を持っていなかったこと、
 および京都に住んでいたことを推測させる。二条丁子屋時代に書かれたものか。
・萬古焼の開祖沼浪弄山は、猪八直筆の伝書(「陶器密法書」の原本)を猪八の
 弟子清吾から入手して、乾山がまだ健在であった元文年間に萬古焼を始めたと
 言い伝えられている。


【詳細検討内容】
「乾山楽焼秘書」の解読文と、「陶工必用」「陶磁製方」との違いを詳細に検討し、下記のpdfファイルにそれぞれまとめました。これらのことを踏まえて、「乾山楽焼秘書」「陶器密法書」の原本の作者、およびそれらの関係については今後更に研究する必要があります。
 「乾山楽焼秘書」(国立国会図書館蔵)の解読文
 「乾山楽焼秘書」と「陶工必用」「陶磁製方」との違い
(注)ここでは「乾山楽焼秘書」を中心に話を進めますが、「乾山楽焼秘書」とほとんど同じ内容の「陶器密法書」については、「乾山楽焼秘書」との細かい違いを末尾の注記説明のところに記載してありますので、参考にしてください。



江戸系
「口述伝書」は二代目次郎兵衛から三代目宮崎富之助に伝えられましたが、富之助には弟子がなく、富之助没後伝書などは遺族のもとで保管されていました。
文政6年(1823年)12月、乾山の弟子の子孫を探しだした抱一上人は、三代目宮崎富之助の妻はると二代次郎兵衛の孫彦右衛門から陶法伝書、および「乾山自筆奉弔崇保院和歌懐紙」「二代乾山ヨリ三代乾山ヘ譲状」などを譲り受け、大小二つの箱に納め箱書しました(出典:陶説57「五代乾山西村藐庵」鈴木半茶)。この陶法伝書が「口述伝書」で、その後代々の江戸系乾山に受け継がれ、現在国立国会図書館に「乾山楽焼秘書」としてその写しが残っているものであると考えられます。
また、「古画備考」の著者朝岡與禎が、抱一上人の手許にあったこの「口述伝書」を被見してその奥書を写し、「古画備考」の乾山の項に記しました。(参照:京焼色絵再考-乾山)ただ、不思議なことに、この奥書は三浦乾也の元で作成された「乾山楽焼秘書」などの写しには書かれていません。従って朝岡與禎が写したのは、伝書に書き加えられた奥書というよりは、次郎兵衛から宮崎富之助へ乾山号を譲った際の譲状、または証文として別に保管されていたものであると考えるのが良いかもしれません。
京都系
京都には猪八自筆とも伝えられる「陶器密法書」が存在しました。この内容は基本的に「乾山楽焼秘書」と本文は全く同文で、「乾山楽焼秘書」と同じものを写していると推定されます(前述)が、同じ部分でも漢字のくずし方が異なったり、違う変体仮名を使用したりしています。
しかし、江戸と京都の乾山の弟子に同じ伝書が伝わっていたことは非常に重要で、京焼の技術伝承における乾山と猪八との関係を再検討する必要があると思われます。
 
        陶器密法書                乾山楽焼秘書
             書き出し部分 「土拵用」の比較
京都にいた猪八がどうして「口述伝書(乾山楽焼秘書)」を写すことができたかについては以下のように推測します。
国立国会図書館蔵の「陶器密法書」の奥書には、乾山について「晩年、蒙於準后宮之命、赴東武、暫住根岸、製陶器、後又帰洛、而終焉」とあることから、この乾山は初代乾山ではなく二代猪八で、その猪八は準后宮(輪王寺門跡)の命で江戸に下向し、暫くの間根岸に住んで焼物を焼き、その後京都に戻って亡くなったと考えられます。この時の輪王寺門跡は、公寛法親王亡き後門跡となった公遵法親王だと思われますが、公遵法親王が准三宮(准后)になるのは寛延2年(1749年)7月なので、猪八が江戸に下向したのは乾山が亡くなって6年以上が経ってからということになります。
どれぐらいの期間江戸に滞在したのかはわかりませんが、その間に江戸系二代次郎兵衛と会う機会があって「口述伝書」の存在を知り、猪八が写しを作成したと推測されます。

乾山楽焼秘書の伝承経路 2(江戸系)
三浦乾也の元で2つの写しと1つの派生本が作成されました。

(注2)三浦乾也が「口述伝書」を質入れしたのには次のような理由がありました。
乾也が仙台藩に招かれ日本初の洋式軍艦の建造にあたったことは前に述べました。仙台藩に仕えていた時、乾也は藩から鉱山調査を依頼され、細倉の亜鉛や東山の岩鉄、切込の陶土などの資源を発見し藩に報告しましたが、藩は財政難から開発に着手しようとしませんでした。
殖産興業の思想に強く傾倒していた乾也は、資金を自分が調達して仙台藩に貸付け、それを鉱山の開発資金に当てようと考えたのです。そこで乾也が思いついたのが大阪の銀相場で一攫千金を狙うことでした。乾也は親戚や知人から資金を集めて大阪にでかけましたが、運悪く慶応4年(1868年)に鳥羽伏見の戦いが始まって銀相場は暴落し、乾也は大損してしまいました。この時の借金が後々まで乾也を苦しめ、西村藐庵から譲り受けた伝書や譲状を質にいれることになってしまいました。(出典:「幕末の鬼才三浦乾也」益井邦夫)

(注3)井伊直弼は、彦根藩の後継者になることが決まって江戸屋敷に移ってから三浦乾也に焼物の指導を受けました。直弼自作の焼物が彦根城博物館に残っています。「緒方流陶術秘法書」は、乾山の青緑焼の釉法を、直弼の求めに応じて三浦乾也が写させたものですが、釉薬(上薬)や地薬、色絵具の調合は「乾山楽焼秘書」のものとは異なります。因みに、乾也がこれを書いたのは、藐庵から「乾山楽焼秘書」を伝授されてから3年後、乾也27歳の時のことでした。参考までに「緒方流陶術秘法書」の解読文を下記のpdfファイルにまとめました。
 「緒方流陶術秘法書」(彦根城博物館蔵)の解読文


乾也が伝書などを質に入れたまま他界してしまいましたので、没後3年経って乾也と親しかった人々が相談し、友人であった大槻如電が受け出すことになりました。その時乾也の養子の松次郎が大槻如電に宛てた下記の添書により、乾也が藐庵から譲り受けたものが明らかになっています。

一、 乾山陶法     一冊 但初代乾山口述二代乾山筆記
一、 同和歌懐紙   一冊 但自筆奉弔崇保院宮和歌
一、 同辞世和歌幷偈 一葉 但添書略譜アリ
一、 譲状        三通 二代乾山ヨリ三代乾山ヘ譲状 三代後室ヨリ抱一上人ヘ譲状 抱一上人ヨリ西村藐庵ヘ譲状 
右大小両箱入共ニ抱一上人箱書アリ


右ハ西村藐庵ヨリ先代三浦乾也ニ譲ラレ申候品ニ御坐候、先年仔細有之、松沢氏ヘ相預置、先人没後モ其侭ニ相成居処、今度先生ニ於テ同氏ト御熟儀ノ上、御所蔵相成候旨被申聞、当方聊差支無之候間、何卒御愛蔵下サレ度、将又乾也門人中技芸上達ノ者ヘ更ニ御被為度思召是立御厚志之程難有存候、先人ト先生トハ三十余年来ノ御別懇ニモ有之、旁地下ノ霊モサコソト一入忝ク存上候
明治二十五年六月三日
                                             三浦松次郎
大槻如電先生


2つの写し「乾山楽焼秘書」と「乾山秘書」は、下記のとおり全く同文同体裁です。(出典:「幕末の鬼才三浦乾也」益井邦夫)
 

           黒楽窯の形 「乾山楽焼秘書」(左)と「乾山秘書」(右)
また、「口述伝書」の次郎兵衛筆原本は、大槻如電のもとで関東大震災により焼失したという説(出典:「幕末の鬼才三浦乾也」益井邦夫)もありますが、伝書と一緒に保管されていたと思われる「乾山自筆奉弔崇保院宮和歌懐紙」と「抱一上人ヨリ西村藐庵ヘ譲状」が後に池田成彬の所蔵となり、その後「陶工必用」と一緒に大和文華館に譲渡された(出典:「陶工必用」解説)ことから、次郎兵衛筆の「口述伝書」も、大槻如電のもとで焼失したということはないと考えられます。
(注4)乾也が藐庵から受け継いだ品のうち、「口述伝書」の他にも池田成彬の所蔵にならなかったものがあります。それは「乾山辞世和歌幷偈」「二代乾山ヨリ三代乾山ヘ譲状」「三代後室ヨリ抱一上人ヘ譲状」の3つで、これらは現在行方不明です。

乾山楽焼秘書の伝承経路 3(京都系)
猪八自筆の「口述伝書」の写しは、猪八から弟子の清吾に授けられました。京都系三代は宮田呉介と伝えられていますが、呉介が活動したのは文化・文政・天保年間で、猪八とは年代的な隔たりがあります。「陶器密法書」写本の奥書によると、猪八が伝書を授けたのは清吾です。
その後は2つの経路に伝わっています。ひとつは桑名萬古焼の沼浪弄山に伝わり、もうひとつは、途中の経路は不明ですが、江戸の茶人芳村観阿に伝わったと推定されます。
同じく「陶器密法書」写本の奥書によると、弄山は清吾から「乾山自筆之書」をもらいうけて萬古焼を始めたことになっています。一方で芳村観阿に伝わった伝書は、梅屋菊塢が百花園に築いた隅田川焼の初窯開きのパンフレット「すみだ川花やしき」によると「伊八(注5)乾山ノ薬法ノ直書ヲ浅草観阿雅君ヨリ譲受所持ス」(出典:陶説57「五代乾山西村藐庵」鈴木半茶」)とありますので、どちらも猪八自筆であると主張しているわけですが、どちらか一方は写しであったと思われます。
また、隅田川焼の初窯は文政3年(1820年)5月ですので、抱一が次郎兵衛筆の「口述伝書」を宮崎富之助の妻はるから相伝する2年半程前に、菊塢は「口述伝書」の写しを「陶器密法書」として入手し、隅田川焼に応用していたことになります。
ここで不思議なのが、菊塢は「陶器密法書」を事前に入手して内容を知っていたにも拘わらず、その後抱一が次郎兵衛筆の「口述伝書」を入手したときにその内容を見なかったのでしょうか?一瞥すれば同じ内容であることはわかったはずです。抱一は隅田川焼の窯で焼物に絵付けをしたりしていたので、交流が無かったとは考えられないのですが・・・。
(注5)「猪八」は初代仁清の孫で、初代乾山の養子京都系二代目乾山ですが、各種文書の中で「猪八」と「伊八」という2種類の表記が用いられているのが見られます。「陶磁製方」の中で乾山自らが「愚子猪八」と書いているところから、「猪八」が正しい表記だと思われますが、「伊八」と書かれることがあるのは、小西家旧蔵光琳関係資料のなかの尾形家由緒覚書に「右深省之子に尾形伊八郎と申人有之、是も焼物細工いたし被居候由、二代目乾山と云」と記されていることによると思われます。

沼浪弄山に伝わった伝書の原本は、沼浪家代々に伝わったと思われますが、戦時中の桑名空襲で焼失したと思われます。(出典:「幕末の鬼才三浦乾也」益井邦夫)
また芳村観阿から梅屋菊塢に伝わった伝書も、向島百花園の佐原家代々に伝わったと思われますが、同じく戦時中の東京大空襲で、佐原家の住居やその他の貴重な宝物、資料類と共に焼失してしまいました。(出典:「江戸の花屋敷」東京都公園協会刊)

「陶器密法書」の内容を「乾山楽焼秘書」と比べて見ると、前項で書き出し部分の「土拵用」の項が同じであることを示しましたが、「黒楽窯の形」については「陶器密法書」と「乾山楽焼秘書」には微妙な違いがあります。
 
       黒楽窯の形 「陶器密法書」(左)と「乾山楽焼秘書」(右)
(注6)沼浪弄山は元文年間(1736~41年)に乾山伝書を入手して古萬古焼を始めたと伝えられていますが、そうすると乾山が亡くなった寛保3年(1743年)より前に「口述伝書」を入手していたことになってしまいます。従って、「口述伝書(乾山楽焼秘書)」および「陶器密法書」の成立時期と古萬古焼の開窯時期については、合わせて検討する必要があります。
(注7)「萬古堂三世」については、「万古陶来由記」(竹川竹斎編述)に、森有節が有節萬古を始めるに当り弄山の孫(惟長)へ、自分の製した陶器に「万古」の印を押す許しもらいに何度も足を運んだが、単に「万古」印を押すのでは申し訳なく、また世間も贋作と勘違いするので、そばに「有節」の印を押すことを望んだという話が伝わっています。この「惟長」が「萬古堂三世 浅茅生隠士 三阿」ではないかと考えられます。
(出典:http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/bussan/detail.asp?record=526)


(参考)乾山世代書
「乾山世代書」は、藐庵が抱一の命により探し出した伝書や譲状を元に、江戸系乾山の系譜を書いたものです。三浦乾也に伝えられましたが、乾也没後は弟子の奥村乾昇が所持しており、乾昇が埼玉県大里郡冑山の根岸家で古美術品の図録を作るために寄居していたとき同家に置いて行ったものです。
この文書は陶法伝書などと一緒に藐庵から乾也に伝えられたものと考えられますが、これだけが質入れされずに奥村乾昇の手に渡ったのは、他のものが抱一が箱書した箱に入っていたのに対し、これは別に保管されていたためだと推測されます。

藐庵は寛永の三筆の一人として知られる近衛信尹(このえのぶただ、三藐院)を始祖とする近衛三藐院(このえ-さんみゃくいん)流の書を得意としていました。また、天保5年(1834年)には法橋位を受領しています(出典:「幕末の鬼才三浦乾也」益井邦夫)ので、書の腕前も相当のものであったと推測されます。
善養寺に伝わる「乾山世代書」を見ると、「力強く豪快」と言われている近衛三藐院流の書風に加えて、流麗で美しい名筆であると思います。

                  乾山世代書 (善養寺蔵)
念のため他の藐庵筆の作品と筆跡を比べて見ると、以下の通り非常によく似た筆跡であることがわかります。
                    

「乾山世代書」             「三十六歌仙貝合画譜」       「茶家印譜」
歌仙庵 藐庵宗先 金龍山中住居    歌仙庵 藐庵               金龍山中 哥仙庵老人


(注8)乾山世代書では三代目宮崎富之助を「同入谷村」としています。江戸時代の入谷は豊島郡坂本村の一部で、正式な行政地名として「入谷村」は存在しませんでしたが、抱一が伝書などを収めた箱の箱書に「江戸東叡山坂本入谷村居住 従乾山三世宮崎富之助妻はる相伝」と書いているように、当時から通称として「入谷村」と呼ばれていたことが想像されます。
この「入谷」はどこにあったのでしょうか?江戸時代の入谷の位置を調べ、現在の入谷と比較してみました。
嘉永6年(1853年)の地図(下左図)では「此辺入谷ト云」と記された場所があるのがわかります。この場所を現在の地図に当てはめてみる下右図のようになりますが、現在の入谷(一丁目、二丁目)の範囲と比べると非常に狭い限られた範囲で、嘉永6年当時の入谷の場所は現在の入谷の範囲には含まれないことがわかります。しかし、この辺りは昭和42年に町名変更されており、それ以前の旧入谷町を見ると、昭和通りの反対側にある嘉永6年当時の入谷まで含む町割りとなっていたことは興味深いところです。

  
      嘉永6年(1853年)の地図          現在の入谷との比較

 
 
乾山陶法伝書の系譜
近世日本陶磁器の系譜