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古九谷再考 − 「後藤才次郎」と「加賀産古九谷」

前に古九谷の産地について少し述べましたが、ここでは古九谷の創始者として知られている後藤才次郎について、家系図、役職、俸禄、領国貨幣の廃止、加賀藩大聖寺藩との関係などから、古九谷の開祖「後藤才次郎」という人間の実像を掘り下げます。
また、現在古九谷と言われるものの多くは肥前産の伊万里古九谷様式であるというのが定説になっていますが、加賀産素地の古九谷について伝世品と発掘品で一例を紹介します。

後藤家について
京都の後藤家は室町期に始まる彫金師の家系で、室町時代に始祖・後藤祐乗が足利義政に同朋衆として仕えて以来、江戸時代末期まで金工の第一人者・宗家として栄えました。また分家には金座や分銅役所預り所等の通貨の鑑定の役割も担いました。こうして、江戸時代には後藤家は通貨造幣(金座)の頭役も務め、茶屋家や角倉家と並ぶ京都3長者の1つに数えられる程になりました。

古九谷の開祖として語り継がれている後藤才次郎も越後の金工の家系で、京都の後藤家との血縁は定かではありませんが(注1)(注2)、同じく金工を生業としているところから京後藤の分家か弟子の家系であろうと思われます。
(注1)後に文政13年(1830年)京都の後藤東乘が金沢を訪れた際、止宿先に表敬訪問した後藤七兵衛清恒に対し、出自をめぐり後藤姓の使用禁止を命ずる事件が起こりました。
(注2)前田家は、秀吉から「封内宝達山等の金銀を掘りて、封内通用の貨幣を製造せんため」後藤用介の下向を許されました。この後藤用介が加賀後藤家のルーツである可能性もあります。因みに、同じく徳川家に下向したのが後藤庄三郎光次で、その後世襲で江戸幕府金座当主として金の流通を支配することになりました。


加賀後藤家系図
定次の父後藤才次郎吉定は、慶長18年(1613年)前田利常に知行100石で招かれて越後から金沢に移り、吹座役(注3)として貨幣鋳造を命じられました。彫金師としても作品を残しており、白山比め(口偏に羊)神社蔵の大太刀の装具に「寛永五戊辰暦十一月吉日加州金沢住後藤才次郎吉定」との銘があります。
(注3)吹座役の仕事は貨幣鋳造の他、金・銀の見立て、彫金などの細工物の鑑定などです。

出典:金沢金工の系譜と変容(http://d-arch.ide.go.jp/je_archive/english/society/wp_unu_jpn35.html)


定次の父後藤才次郎吉定は、慶長18年(1613年)前田利常に知行100石で招かれて越後から金沢に移り、吹座役(注3)として貨幣鋳造を命じられました。彫金師としても作品を残しており、白山比め(口偏に羊)神社蔵の大太刀の装具に「寛永五戊辰暦十一月吉日加州金沢住後藤才次郎吉定」との銘があります。

吉定の「知行100石」というのは加賀藩では「平士」と呼ばれる中士身分に相当し、工人としては破格の待遇です。これは吹座役(貨幣鋳造役)という特別な職責に対して与えられたものと考えられます。

(注3)吹座役の仕事は貨幣鋳造の他、金・銀の見立て、彫金などの細工物の鑑定などです。


(参考)加賀藩発行の銀貨(領国貨幣
 
        加賀花降銀(一両)                   加賀南鐐銀(一分)


「後藤才次郎」関連の事跡
上記の家系図で示したとおり、江戸中期加賀大聖寺両藩で「後藤才次郎」を名乗った人間は、吉定、定次、忠清の三人いました。三人の「後藤才次郎」に関連する加賀大聖寺両藩の年表を以下に示します。

 吉定→  慶長13年  1613年  後藤才次郎吉定、前田利常に招かれて越後から金沢に移る。
 吉定→  元和5年  1619年  金沢に銀吹座開設。後藤才次郎吉定吹座を命じられ知行百石を受ける。(加賀藩)
   寛永2年  1625年  幕府、各藩での発行通貨実態調査実施。
 吉定→  寛永4年  1627年  後藤才次郎吉定、士帳に百石銀座後藤才次郎と載る。(加賀藩)
幕府、各藩での発行紙幣(「楮鈔」という表現を使っている)使用禁止命令。金銀貨は適用外。
 吉定→  寛永5年  1628年  白山比め神社蔵の大太刀の装具に「寛永五戊辰暦十一月吉日加州金沢住後藤才次郎吉定」とある。
   寛永12年  1635年  参勤交代制始まる。
   寛永14年  1637年  加賀藩前田利常、唐織の切、茶道具を購入するため家臣矢野所左衛門、瀬尾権兵衛を平戸・長崎に派遣(6月)。
佐賀鍋島藩、窯場整理統合。日本人陶工826人を追放(3月)。
   寛永15年  1638年  領国銀(朱府銀)一元使用令発布。
   寛永16年  1639年  六月、前田利治(実性公)、大聖寺へ七万石として分封され十二月入城する。前田利常小松に隠居する。
 定次→  寛永17年  1640年  後藤才二郎定次 知行百石 『吉田屋文書』
   寛永18年  1641年  加賀藩オランダ東インド会社に、「内側・外側とも赤青白に三分割され、その上に多彩色で小花模様を描いた高台のついた菱形皿、方形皿、丸皿などを 各大5枚、小30枚」注文する。(T.フォルカー著『磁器とオランダ東インド会社』)
 定次→  寛永19年  1642年  「百五十石、後藤才次郎、内五十石本年加増」の記載(『大聖寺藩分限帳』)。
 定次→  正保元年  1644年  大聖寺藩初代藩主前田利治、この頃、土田清左衛門に九谷鉱山について後藤才次郎及び山師 そのほかの折衝について指示する(『土田文書 前田利治書簡 土田清左衛門宛』)。
(注)土田清左衛門は、禄200石の大聖寺藩九谷金山奉行。
この頃、九谷村に陶石鉱床発見か。
 吉定→  慶安5年  1652年  後藤才次郎吉定没(『後藤七兵衛由緒帳』)
   明暦元年  1655年  この頃には、九谷一号窯開業。
「九谷の宮に花瓶一対あり。田村権左右衛門明暦元年六月廿六日と藍にてあり。是は焼物手初に此の花瓶を焼き、奉納したると云伝う。」の記載(『ばっ憩紀聞』)
→田村権左右衛門は利治の命により定次が京都から迎えた陶工という説もあるが、この頃の京都には磁器を焼いた実績はまだ無い。また、『大聖寺藩史』では田村権左右衛門を「御細工人」としている。
 @→      「此山中を九谷と云。明暦年中、実性公(大聖寺藩初代藩主前田利治)後藤氏に命じて土器を焼かしめし所也。又其外の焼物有、南京焼と同じ。中頃制禁有、今は絶えたり。」の記載(『加越能大路水径』)
→「今」はこれが書かれた正徳4年(1714年)を、「中頃」は明暦元年と正徳4年の中頃の1685年前後を指す。また、「明暦年中」とあるが、明暦は元年(1655年5月)〜4年(1658年8月)と比較的短期間に絞られる。
   明暦3年  1657年  この頃には、大聖寺城下で九谷色絵磁器完成か。
   万治元年  1658年  九谷金山奉行土田清左衛門任地で没す。前田利常没。
加賀藩、オランダ東インド会社にオランダ風の草花文で黄、緑のついた杯二十個を注文する。
   万治3年  1660年  前田利治没。前田利明大聖寺藩二代藩主となる。
 A→  寛文元年  1661年  「大機公(大聖寺藩二代藩主前田利明)御代に後藤才次郎を肥前の唐津に被遣、陶り御ならはせ被成、妻子不持者には伝授せず、仍て唐津に於て妻子持ち、伝授の後妻子を捨て迯帰る。
其後九谷に於てやく」の記載(『秘要雑集』)。
→万治2年(1659年)に唐津に赴き、三年後寛文元年(1661年)に帰還という説あり。
   寛文3年  1663年  幕府の『異国より調候儀無用之品覚』に「皿鉢」が指定される。皿鉢の輸入禁止。
   寛文4年  1664年  加賀藩鋳造貨幣を幕府製造の通貨に切り替え。
   寛文6年  1666年  初代大樋長左衛門、金沢に来て大樋焼を始める。
   寛文7年  1667年  加賀藩正式に貨幣鋳造廃止を通達。
   寛文9年  1669年  加賀藩領国貨幣から丁銀への切り替え実施。
   寛文10年  1670年  九谷一号窯、考古地磁気測定によると、この頃廃窯。
   寛文12年  1672年  「大正持(大聖寺)焼茶碗」の記載(『加賀往来』)。
B→  延宝元年  1673年  「中皿二枚 探幽彩門人、久隅半兵衛守景画、後藤才次郎焼、九谷製、延宝頃の者也、代銀六匁、右安政五年午求之」の記載(『岡村鶴汀道具帳抜書』)
C→  天和元年  1681年  大聖寺藩内飢饉におそわれ死者二千五百八十七人でる。
「後藤右兵衛清永の弟後藤才次郎吉定、大聖寺飛騨様より知行百石頂戴慶安五年病死 才次郎跡今に大聖寺に罷在焼物師是也」の記載 (『後藤七兵衛由緒帳』天和貞享頃編)。
→利治、利明ともに飛騨守であるが、吉定が知行をもらったのは加賀藩前田利常(肥前守)からであるので、誤記か?。
また、「今に」はこの由緒帳が示す「天和貞享」の頃、すなわち1681〜1687年である。
   天和2年  1682年  大聖寺藩江戸上屋敷、大火で焼失。本藩、富山藩ともに焼失する。
(東京大学構内旧大聖寺藩江戸上屋敷跡より中国・伊万里磁器とともに青手・色絵の古九谷陶磁片出土)。
 定次→      天和年間に「制禁」をもって九谷窯での御用品製造停止。才次郎定次は罪人として唐丸籠に乗せられ九谷村から大聖寺城下に移された。(山口隆治著『大聖寺藩産業史の研究』)←「罪人として・・・」の件出典未確認
 定次→  天和3年  1683年  後藤才次郎定次没(『実性院過去帳』)。→実性院は大聖寺藩前田家の菩提寺。田村権左右衛門没。
   貞享3年  1686年  大聖寺藩家老神谷内膳の茶会に「水指 九谷やき」が使用される。(『臘月庵日記』)
   元禄5年  1692年  前田利明没。
   元禄6年  1693年  七月大聖寺城下大火。大聖寺藩初期の記録焼失。
   元禄13年  1700年  「大聖寺焼染附茶碗」の記載(『三州名物往来』)。
 忠清→  元禄17年  1704年  後藤才次郎忠清没。
   宝永7年  1710年  九谷2号窯、考古地磁気測定によると、この頃、廃窯。
   天明4年  1784年  大聖寺藩の古文書集『秘要雑集』成る。
   享和3年  1803年  『ばっ憩紀聞』成る。


後藤才次郎定次のこと

後藤才次郎定次は吉定の嫡子でしたが、前田利治が大聖寺に分封になった時に知行100石をもって大聖寺藩に移りました、この高い俸禄はひとえに九谷金山開発責任者としての成果を期待されてのものに違いありません。更にこの僅か二年後に150石に加増されましたが、これは九谷からまとまった量の金が採掘されたことに対する報償かもしれません。
また、定次の「知行100石」というのは数字上は父吉定と同じですが、加賀藩100万石の100石と大聖寺藩7万石の100石では10倍ぐらい重みが異なりますので、前田利治が定次をどれだけ高く買っていたかが伺えます。おそらく定次は鉱山技術者として、鉱石や陶土に関する特殊な技術や知識を持っていたのでしょう。
前田利治から九谷金山奉行土田清左衛門にあてた書簡(『土田文書』より)からも、定次が山師の取りまとめ役であり、「こうまん者(高慢者)」であったことが伺えます。

【前田利治から九谷金山奉行土田清左衛門にあてた書簡(『土田文書』より)】
今度山師一人雇遣候。就夫後藤才次郎かたへ。山共見立させ可申遣候へ共、其方常々見聞及如申候、彼才次郎事之外こうまん者故、何も山師共もごき申候而、不知事に指出候条、十日計の逗留にて、九谷迄倉地加左衛門・同弥八郎・山路長兵衛三人替々来月中先遣、山共見廻之様子。又山師次第才次郎に申、入用共申付候様に尤に候。委は青山新左衛門・鴨野伊兵衛かたより才次郎かたへも可申遣候。又其方へ山本弥右衛門かたより様子具可申入候。隠密にて三人へ可被申渡候。猪俣仁左衛門方へも申遣候。殊今度遣候山師は一てつ者にて、少もかざり無之、才次郎又さし出候ば、何角捨置可帰候。其段其方よりも才次郎かたへも可申遣候。又金山大つるに付申とも、家中むざと沙汰いたさざるやうに尤もに候(中略)。内々其心得尤に候、又歩者一両人、弓・鉄砲之者二三人ほど、小松辺より金沢ほどより聞に来候者、不入様に其上山にて猥成義無之様に堅々申付、隠横目可被申付候。佗言あるまじく候。かしく。
三月廿一日       飛騨(利治)
土田清左衛門との


また、陶工としての定次に繋がる記録としては上記年表の@Aに
@明暦年中(1655年5月〜1658年8月)大聖寺藩初代藩主・前田利治が後藤氏に命じて土器を焼かせた
A大聖寺藩二代藩主・前田利明の御代(1660年5月〜1692年6月)に後藤才次郎を肥前の唐津に派遣し、陶技を習得させた
とありますが、この「後藤氏」「後藤才次郎」が定次を指すのか、それとも忠清を指すのか明確ではありません(吉定は明暦の前の慶安5年に没しているので対象外です)。

後藤才次郎の派遣先および時期については以下のような諸説があります。

【前田利治が後藤才次郎定次を有田に派遣したという説】
上記の記録とは別に「大聖寺藩初代藩主の前田利治は、領内の九谷村で鉱山開発中に陶石が発見されたのを契機に磁器生産を企画。九谷鉱山の開発に従事して錬金の役を務めていた後藤才次郎(定次)を肥前有田に陶業技術修得に遣わした。後藤は帰藩後九谷の地で窯を築き、田村権左右衛門を指導して、明暦元年(1655)頃に色絵磁器生産を始めた」という言い伝えもありますが、これによると定次は1655年以前に有田に派遣されていなければなりませんが、これに対応する記録は見つかっていません。


【前田利明が後藤才次郎定次を高麗に派遣したという説】
「本朝陶器攷證」には、大聖寺藩二代飛騨守様(利明)は楽焼が好きで、自ら手製の焼物を焼いていましたが、その近臣で楽焼の手伝いをしていた後藤三次郎(才次郎?)に、高麗に渡って3年の内に陶技の伝授を受け帰国するよう命じたとあります。三次郎は慶安3年(1650年)に渡航しましたがなかなか伝授されなかったため、現地の住人に婿入りして一子を設け、ようやく伝授を受けることができ、その後日本に逃げ帰ったということです。その時出発から既に6年が経過しており、利明公も逝去されていました。利明公は臨終の席で、三次郎という者が帰国しても用いないよう家老に仰せつけられていたので三次郎の処遇が問題になりましたが、評定の結果九谷にて焼物を焼く事を許されました。また、その頃狩野派の絵師久隅守景が絵の修行で加賀を訪れていたので、九谷に行って下絵を描いたとのことです。この説であれば、年代的には帰国したのが1655年で、記録に残る古九谷窯開窯の年代と一致しますが、当時の朝鮮では色絵磁器は焼かれていませんでしたし、古九谷の器形(高台径や肉厚など)は高麗系磁器とは異なりますので疑問が残ります。

【大聖寺公が後藤才次郎定次を対馬に派遣したという説】
「本朝陶器攷證」には、田内梅軒著「陶器考」の記事として、遠州時代
(注)に後藤才次郎という者が大聖寺公の命を受けて対州(対馬)に行って陶器を習い、帰国して九谷にて焼物を焼いたとあります。また、彩色については、唐人が加賀に渡ってきて教えたと書かれています。
(注)遠州時代というのは、遠州が家光が三代将軍となった元和9年(1623年)から没年正保4年(1647年)までの期間将軍の茶頭を務めたと考えると、前の利明公派遣説と比べると、一代前の時代、即ち大聖寺藩初代藩主前田利治(在位:1639年〜1660年)の時代ということになります。

【後藤才次郎定次は密かに中国に渡ったという説】
大河内正敏著「古九谷」によると、上述の3説に加えて「支那に行った」という説があることを紹介しています。これは、当時色絵の技術を持っていたのは中国だけだったことに基づくものですが、中国に渡ることは即ち国禁を侵すことになりますので、後述の「才次郎が罪人として捕われた」という結末につながる説でもあります。


また、肥前に行ったのは忠清だとする説もあります。ここで問題になるのが忠清と大聖寺藩の関係です。忠清は吉定の兄清永の孫にあたりますが、定次が大聖寺に移ったことにより、金沢の後藤家の養子となって加賀後藤家を継承することになりました。これは加賀藩の吹座役(貨幣鋳造役)を継いだことを意味しますので、基本的には忠清の主人は加賀藩前田家で大聖寺藩ではありません。しかし、大聖寺藩は創立時から経済的、人的に加賀藩の支援を受けていたという経緯がありますので、大聖寺藩が必要とする人材を加賀藩が派遣した可能性はあります。
ところで、この頃江戸幕府は封建制度を確立するため各藩での貨幣製造を制限する方向に動いており、それを受けて加賀藩でも新たな貨幣鋳造を取りやめたため、吹座役という役職が廃止されたのではないかと推測されます(注4)。これを裏付けるのが忠清の俸禄です。先代の吹座役吉定は知行100石でしたが、跡を継いだ忠清はその約四分の一の5人扶持で、これは上手な銀細工師の俸禄に相当します(注5)。従って、吹座役という職を失った忠清が大聖寺藩に陶工または上絵職人として派遣された可能性が出てきますが、残念ながらこの可能性を裏付ける資料はまだ見つかっていません。
(注4)忠清が後藤家を継いだのは1640年頃ですが、加賀藩が正式に貨幣鋳造廃止を通達するのは寛文7年(1667年)のことです。
(注5)忠清の実兄広清は白銀細工に長じ「奇麗にして力あり。上手といふべし」(装剣奇賞)と評されましたが「4人扶持」でした。


また、上記年表のBCには「後藤才次郎焼」「才次郎跡今に大聖寺に罷在焼物師是也」など、これも定次を指すのか忠清を指すのか明確ではありませんが、後藤才次郎が焼物師であったことは間違いないと思われます。

その後定次は、天和年間に「制禁」をもって九谷窯での御用品が製造停止となるまで焼物を焼いていたと思われますが、「制禁」となったのにあわせて罪人として捕われ、間もなく死亡しました。一緒に古九谷窯を開窯した田村権左右衛門も同じ年に亡くなっているのは偶然ではないでしょう。「制禁」となった理由は定かではありませんが、藩のために苦労した結果が禁制品を作った罪の押し付けいうのは、何とも気の毒な話です。


九谷古窯の開窯について
定次或いは忠清が肥前に修行に赴いたのが1655年の九谷一号窯開窯以降だとすると、一号窯を築くための技術・知識はどこから得たのでしょう?これについては、作家坂口安吾の先祖に関する以下の言い伝えを参考にすると、1600年頃には加賀大聖寺で焼物(陶器?)を作っていた唐津の陶工がいたことになります。材料さえあれば唐津を焼く窯で磁器も焼けることは、有田での発掘調査で証明されています。

【坂口家の言い伝え】
坂口家の先祖は肥前国(佐賀県)坂口村出身の唐津の陶工で,加賀国(石川県)大聖寺で九谷焼を作っていたが,慶長年間(慶長3年(1598年)と推定)に殿様(溝口秀勝と推定)が国替えで越後国(新潟県:新発田6万石と推定)に移ったため,いっしょにきたという。やがて阿賀野川沿岸の湿地開拓に乗り出し,巨大な富を手に入れた。


また、寛永14年(1637年)3月に行われた鍋島藩の有田窯場整理・統合により職を失った日本人陶工(826人)の一部が加賀に来た可能性があります。この時有田を追放された陶工は、ほとんどが有田で最初に磁器が焼かれたと考えられる有田西部の陶工で、この時期は最初に磁器が焼かれてから20年以上が経過しており、有田の一般陶工も磁器焼成技術を身につけていたと考えられます。
この可能性を裏付けるように、同じ年の6月に前田利治は矢野所左衛門、瀬尾権兵衛を長崎・平戸に派遣し、唐織の切れなどを購入させていますが、これは表向きで、実は有田の陶工の稀少性を良く認識していた利治が、リストラされた優秀な人材を集めに行かせたとも考えられます。


大聖寺藩では御細工人の田村権左右衛門がこれらの陶工の力を借りて九谷一号窯を開窯したと考えられます。後藤才次郎定次は、金山を含めた大聖寺藩の「九谷プロジェクト」の総責任者としての立場で九谷一号窯の開窯に関わったのではないかと思われます。『ばっ憩紀聞』に「九谷焼は後藤が焼きたるにはあらず。田村権左右衛門と云ふもの焼きたりと云う」とあるのは、九谷焼を「最初に」焼いたのは後藤才次郎ではなく、田村権左右衛門であるということだと解釈できます。ただし、その後は後藤才次郎定次自身も陶工として焼物を焼いていたようです(上記年表のBC参照)



『ばっ憩紀聞』に
「九谷の宮に花瓶一対あり。田村権左右衛門明暦元年六月廿六日と藍にてあり。是は焼物手初に此の花瓶を焼き、奉納したると云伝う。」と記載のある染付在銘花瓶破片
(出典:カラーブックス 日本の陶磁13 九谷)

この花瓶は染付で文字が書かれているだけで、見たところ肉厚も厚手で、我々が認識している古九谷と言うには稚拙過ぎるものです。正に手はじめに焼いた作品という感じがします。








加賀産古九谷色絵磁器
伝世品の古九谷の多くが伊万里産であることは既に定説ですが、加賀産の素地を用いた古九谷も確かに存在していたと言われています。実際どのような「加賀産古九谷」があるのかを伝世品と発掘品から見てみましょう。

石川県立美術館所蔵の「古九谷青手松竹梅文平鉢」は、「半磁胎の素地で、荒い貫入がはいり、高台が比較的小さく、口紅や染付、目跡がないこと、しかも器形が九谷古窯発掘の陶磁片と酷似していることなどにより、九谷古窯で生産した素地を使用し、絵付をしたものと考えることができる」と解説されています。しかし、絵のタッチは伊万里産古九谷様式の青手と全く同じであるので、絵付が同じ所(肥前か加賀)で行われたか、若しくは同じ上絵師が肥前の素地と加賀の素地の両方に描いたかのどちらかであると考えるべきでしょう。

 
   加賀産古九谷青手松竹梅文平鉢        九谷古窯出土 皿鉢陶磁片
     (石川県立美術館蔵)

また、東京大学本郷キャンパス加賀藩江戸屋敷跡発掘調査出土品の中に、従来「古九谷」と位置づけられている製品群とは成形、施文、施釉などの特徴は異なりますが、化学分析の結果九谷産と確認された色絵皿と染付小杯があります(下記写真)。いずれも釉調や高台づくりなど、石川県山中町にある九谷古窯から出土した陶片と類似していることがわかります。(西秋良宏編『加賀殿再訪』)
因みに、東大本郷キャンパスからは化学分析の結果伊万里産と確認された、所謂伊万里古九谷様式色絵磁器も同時に出土しています。


        東大本郷キャンパス出土 九谷産色絵皿と染付小坏

              九谷A遺跡出土色絵磁器


最後に、「加賀産古九谷色絵磁器」の価値について、江戸末期の大聖寺藩士岡村鶴汀の『岡村鶴汀道具帳抜書』には、「中皿二枚 探幽彩門人、久隅半兵衛守景画、後藤才次郎焼、九谷製、延宝頃の者也、代銀六匁、右安政五年午求之」とあり、当時の貨幣価値(注6)からすると中皿二枚が約6,000〜25,000円でそれほど高額ではありませんので、この加賀産古九谷中皿については(どのようなものだったかわかりませんが)、美術品・骨董品としての評価はそれほど高くなかったものと思われます。
(注6)
【幕末の貨幣価値】
日銀のHPによると、天保年間(1840年頃)の貨幣価値は以下の状況だったようです。幕末にかけては、値打ちが下がって1両80,000円にしかならない時もあったそうです。(ちなみに安政五年は1858年、明治元年は1868年)
出典:http://ameblo.jp/tasogarekinnosuke/entry-10510388678.html

 米一石 0.9両
 1両 で 銀75匁(もんめ) 銭6,300文(もん)

 金一両 約30万円
 銀一匁 約4,000円
 銭一文 約50円

 
 
近世日本陶磁器の系譜