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古九谷仮説

素地の観点から
これらのことから、古九谷の産地(生産の歴史)について前期・後期から成る一つの仮説を立てることができます。


(前期:有田での生産期)
1640年代の中頃から、伊万里の初期色絵として、外山の山辺田窯を中心として鉢や大皿の生産が行われ、1660年頃まで続きました。一方、中・小皿は内山の楠木谷窯において、1650年代後半まで色絵古九谷および藍九谷の優品が生産されました。
加賀藩前田家は伊万里の古九谷様式の鉢や大皿に特に注目し、これを盛んに買い付け、発注を行いました。


(後期:九谷での生産期、または九谷+有田での生産期)
加賀藩前田家は、九谷で発見された陶石を使って九谷で古九谷様式の磁器を生産することを計画し、1655年頃九谷一号窯を開窯しました。ここでは実際に磁器が焼かれ色絵付も行なわれ、伊万里の古九谷様式を倣ったものも製作されましたが、何らかの事情(注1)により生産を継続させることができなかったため、現存する加賀産古九谷と言われるものは非常に数少なくなっています。
(注1)加賀藩は後藤才次郎を有田に派遣して色絵磁器の技術を入手したと言われていますが、



加賀藩前田家の夢はこの時は達成されませんでしたが、それから約150年後、加賀藩の後裔達によって再興九谷として夢は叶えられ、その後今日まで日本の代表的磁器として揺るぎない地位を確立しているのは、感動的な話ではないでしょうか。


絵付けの観点から
次に、絵付けの観点からもいくつかの仮説を立てて検証してみたいと思います。

(仮説1)
「花鳥、風景、人物画などは、中国明時代後期に出版された八種画譜を参考にして描かれた。」

この説は、仮説というよりは既に定説として広く知られた説ですが、実際に古九谷のどの皿が八種画譜のどの絵を元に描かれたかというのを見たことがありませんので今回調査しましたところ、昭和43年9月と10月の陶説186号、187号に斎藤菊太郎氏が「古九谷山水図と八種画譜」という論文を掲載されており、その中で古九谷と八種画譜との対応を写真付きで詳細に記述しておられることがわかりました。
そこで、本稿では別章古九谷山水図と八種画譜を設けてその論文内容を詳しく記載したいと思います。

(仮説2)
「狩野派の久隅守景が絵付け、または絵付けの指導をした。」

この説は、江戸末期の大聖寺藩士岡村鶴汀が『 岡村鶴汀道具帳抜書』で「中皿二枚 探幽彩門人、久隅半兵衛守景画、後藤才次郎焼、九谷製、延宝頃の者也、代銀六匁、右安政五年午求之」と記載したように、江戸時代から言い伝えられているものです。では、久隅守景とはどういう人物で、どういう絵を描いたのでしょう?

久隅守景狩野探幽門下の四天王に数えられ、「山水・人物を得意とし、その妙は雪舟と伯仲、探幽門下で右に出る者なし」とたたえられました。寛永18(1641)年、狩野尚信信政と共に知恩院小方丈下段之間の襖絵「四季山水図」の製作に関わり、翌年には探幽に率いられ尚信信政らと聖衆来迎寺(大津市)客殿障壁画制作に携わりました。

久隅守景と加賀藩との関わりは、加賀藩第二代藩主・前田利長の菩提を弔うために、第三代利常が創建した瑞龍寺(高岡市)の書院襖絵「四季山水図」を明暦年間(1655〜58)に描いたことに始まります。この頃の守景は探幽風を基本としながらも、画中の岩の輪郭線などに守景特有のぺったりとして野太い筆使いがみられ、独自の画風を形成してゆくさまがみえます。


             瑞龍寺 書院「四季山水図襖絵」

この時は9年間に渡って金沢に滞在しました。この時期は九谷一号窯が開窯した時期と重なり、守景が古九谷の絵付けまたは絵付けの指導をした可能性も否定できません。

守景はその腕を見込まれ、探幽の姪 国と結婚して一男一女(姉弟)をもうけました。二人とも狩野派の絵師になりましたが、寛文12年(1672)に息子の久隅彦十郎が悪所通いの不行跡を咎められて狩野派を破門され、その果てには刃傷沙汰を起こして佐渡に島流しとなってしまいました。更に、娘の清原雪信は同じ狩野門下の塾生(尼崎藩家中)と上方に駆け落ちをしてしまいます。(因みに、その後雪信は上方で着物絵柄の流行作家として活躍し、井原西鶴好色一代男にも京島原の遊女が雪信に秋野を描かせた白繻子を着て登場します)
我が子の度重なる不祥事に心を痛めていたためか、守景の次のような話が伝わっています。(安西於莵『近世名家書画談』)

「探幽は或る大名から絵の依頼を受けていましたが、忙しさに紛れて筆が進んでいませんでした。催促に耐え兼ねて漸く筆を執り、左右に山水、中央に人物を配した絵にあとは落款を押すだけとなりました。その時、酔っ払った守景が絵を置いた部屋に入ってきて、「これは素晴らしい絵」だと感じ、酔興に任せて加筆してしまいましたが、それは描かれた山際から男根の行列が歩いて来る情景でした。描き終えた守景は、酔い潰れ、仰向けになって高鼾。其処に絵の催促が来たため、探幽は、さて落款を押せば完成と絵の部屋に行って見ると、男根が行列しているのを見つけて慌てて催促の使者に事情を話しました。使者は主人の大名に報告すると、其の殿様「あぁあの守景なら、やりかねんな」と思い、「その男根の行列が見たい」と言い出しました。探幽が仕方なく絵を持参して披露したところ、男根行列が素晴らしく芸術的に描かれていたため、殿様はすっかり感心し、そのまま男根行列(付きの)画を引き取りました。」

これらの事件があったため狩野一門に居づらくなったのか、守景も狩野派を離れ、延宝年間(1673〜1681)に加賀(金沢)に赴き6年間滞在し、そこで充実した制作活動を送りました。久隅守景の代表作「四季耕作図」はこの時期に盛んに描かれました。



重要文化財「四季耕作図(部分)」 京都国立博物館蔵



この頃の守景の画題は中国的なものから日本的な田園・農村風景に移っていました。古九谷との関連で言うと、この時期は九谷一号窯が閉窯された時期にあたり、古九谷の人物・風景に中国的なものが多いことを考えると、この時期に守景が古九谷に関与した可能性は低いと思われます。

この頃の守景と加賀前田侯との関係について、『近世畸人伝』には以下のように書かれています。

「加賀前田侯(五代藩主・綱紀?)に招待され金沢に滞在すること三年。しかし前田侯は守景を抱える気配を見せません。守景は失望して加賀を発とうとしました。家臣から報告を受けた前田侯は、「あいつは素直に人の求めに応じて絵を描くような玉ぢゃない。扶持を与えれば働かなくなる。だから貧乏な状態で放置し、人の求めに応じて描くよう仕向けたのだ。三年経って領内に作品を多く残したことだろうから、褒美をやることにしよう」と。」

守景の絵の腕前が高く評価されていたことは間違いなく、また、相当の変人と見られていたことも間違いありません。このような絵師であれば、古九谷の躍動感のある絵を描けたかもしれませんね。

最後に、守景最晩年の作と考えられている国宝「夕顔棚納涼図屏風」を紹介します。大名趣味の画題しか描かれなかった時代に、親子3人の農民の姿を深い愛情をもって詩趣豊かに表現した名作です。晩年の守景は金沢を離れ、京都で茶三昧の生活をしたそうです。

国宝「夕顔棚納涼図屏風(部分)」

 東京国立博物館蔵



以上、久隅守景が古九谷の絵付けまたは絵付けの指導をした可能性は無いとは言えませんが、今のところ確証はありません。

最後に、久隅守景筆と伝えられる「古九谷色絵布袋図平鉢」を紹介します。

         古九谷色絵布袋図平鉢
見込みに染付線描きで円窓をあらわし、そのなかに布袋に稗をあしらった構図は、まことに軽妙で奇抜ですが、また禅画をみる趣をもみせています。黄と緑の二彩の絵具を基調に、わずかに稗の穂の部分に赤を点じているのみですが、三彩とは思えぬ色彩効果をかもし出しています。筆致に少しの渋滞も見られず、のびのびとして柔らかく、構図の巧みなところから、この作品の下絵は、当時加賀藩に在住した狩野派の絵師久隅守景が描いたのではないかとの伝説を生んでいます。

 
 
近世日本陶磁器の系譜