作者  道具名   贈り主/贈り先
 寛永15年   1638年  5月20日  粟田口作兵衛(注7)   茶入  大平五兵衛(注8)/承章(承章が切形を渡して注文したもの)
 寛永17年   1640年   3月13日  粟田口作兵衛   内海之茶入  大平五兵衛/承章
      4月6日  清兵衛  青薬之茶入、香炉、掛薬香合   大平五兵衛/承章
      6月20日   粟田口作兵衛   茶入  大平五兵衛/承章(承章が切形を渡して注文したもの)
      7月8日   作兵衛  文淋茶入・肩衝茶入  
      11月8日   粟田口作兵衛   肩衝茶入  大平五兵衛/承章(金森宗和 の切形によるもの)
  寛永18年   1641年   正月5日   粟田口太左衛門  高麗五器茶碗   大平五兵衛/承章
      5月20日   粟田口作兵衛   茶入  大平五兵衛/承章(承章が切形を渡して注文したもの)
  寛永20年   1643年   3月5日   作兵衛  玉津嶋茶入、五器手茶碗   書院での茶の湯で使用
      3月27日   粟田口作兵衛  飴薬之唐之似物の丸壺茶入  
     10月20日   清水焼   水建(建水)   大平五兵衛/承章
      10月22日   作兵衛   茶入   大平五兵衛/承章
  正保2年   1645年   2月25日   作兵衛  似唐物之飛騨帯茶入   大平五兵衛/承章
  正保5年   1648年   1月9日   御室焼   茶入  賀茂之関目民部/承章
関目民部は上賀茂神社の社家の出の地下官人。御室焼の開窯に関係していたと思われる。
  慶安元年   1648年   3月25日   仁和寺焼  茶入(金森宗和 の切形によるもので、トウ(胴)四方也 シマノ袋)  金森宗和が承章や松屋久重らを招いて開いた茶会の席で使用
 慶安2年  1649年  8月24日  清右衛門  水指・皿・茶碗  承章が金地院の最岳元良などと共に仁和寺造営奉行木下利当を訪れた際、清右衛門が轆轤で挽くのを実見した
     11月23日  粟田口焼  茶碗・水指  金地院にて後水尾院御製の宸翰を掛軸としてお披露目した茶席で使用
     12月12日  御室焼  水指  三十三間堂修理奉行桑山一玄の茶席で使用
 慶安3年  1650年  正月1日  粟田口焼  高麗五器手茶碗  大平五兵衛/承章
     1月25日  粟田口焼  茶碗  承章/臼井喜兵衛
正月に大平五兵衛から贈られた茶碗
     2月6日  粟田口理兵衛  似唐物 瓢箪茶入  粟田口理兵衛/承章
     3月5日  仁和寺焼  茶入  承章/前田八左衛門
前年木下利当方で入手した「仁和寺焼之茶入」に茶を詰めて贈った
     10月25日  御室焼  茶碗  桑山一玄/承章
     11月3日  御室焼  茶入(宗和の蓋・袋)  承章/仙洞御所
桑山一玄が御室窯に申し付けた茶入
 承応2年  1653年  1月3日  御室焼 茶碗   袖岡宇右衛門/承章
     10月26日  御室焼  茶入  承章/金森宗和
     11月12日  御室焼  茶碗  勧修寺経広/承章
勧修寺経広は権大納言で、承章の甥
 承応3年  1654年  正月1日  御室焼  茶碗  大平五兵衛/承章
 明暦元年  1655年  5月24日  粟田口焼  香合  金地院/承章
     8月1日  御室焼  茶碗  袖岡宇右衛門/承章
 明暦2年  1656年  2月20日  御室焼  水指・花入・茶碗  仁和寺門主性承法親王/承章
     4月11日  御室焼  茶碗  河路又兵衛/承章
 明暦3年  1657年  6月14日  御室焼  薄茶々椀(碗)  承章/西川瀬兵衛
西川瀬兵衛は承章の従者の一人で鹿苑寺の奥向きを司っていた
     11月26日  御室焼  茶碗  一條昭良/承章
一條昭良は摂政・関白で、後水尾院の弟
 明暦4年  1658年  正月9日  御室焼  茶碗  河路又兵衛/承章
 萬治元年  1658年  11月25日  御室焼  茶碗  承章/善応院光岳中伝
 萬治2年  1659年  4月10日  御室焼  茶碗大小  承章/北野能通
     12月28日  御室焼  茶椀(碗)  承章/林光院三明瑞宥
 萬治3年  1660年  1月2日  粟田口焼  天目(茶碗)  袖岡宇右衛門/承章
     4月17日  粟田口焼  高麗茶碗之似物
イラ坊之手之茶碗
 霊叟翁/承章
     5月4日  粟田口焼  イラハウ手茶碗  安養寺長老/承章
     10月19日  御室焼任世(仁清)  錦手赤絵□茶椀(碗)  安養寺龍空/承章
寛文元年  1661年  7月18日  任(仁)清焼  薬鍋  清子内親王/承章
清子内親王は後陽成天皇の第三皇女、鷹司信尚室
 寛文3年  1663年  正月12日  御室焼  茶椀(碗)  鈴鹿能登/承章
     7月28日  任(仁)清焼  錦手之茶椀(碗)  承章/由良外記
     8月1日  任(仁)清焼  大茶椀(碗)  袖岡宇右衛門/承章
 寛文4年  1664年  正月3日  御室任世(仁清)  茶椀(碗)  袖岡宇右衛門/承章
     8月1日  御室焼  茶椀(碗)  袖岡宇右衛門/承章
 寛文5年  1665年  正月6日  御室焼  大茶椀(碗)  袖岡宇右衛門/承章
     正月7日  粟田口作兵衛  文淋尻太茶入  
     2月18日  御室焼  有耳水指
[無蓋、赤色也]
 承章/北野能通
     8月27日  粟田口焼  茶入(蓋・袋・家共)  
 寛文6年  1666年  正月26日  任(仁)清焼  菓子焼物鉢  仁和寺内若林采女/承章
 寛文7年  1667年  正月22日  作兵衛焼  茶入  

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京焼色絵再考 −仁清

京焼色絵については、7.4項で簡単に述べましたが、古九谷同様詳細に見てみたいと思います。先ずは仁清についてです。

京焼の起源
一般に「京焼」の名で呼ばれるやきものは、茶の湯の流行と普及を背景に江戸時代の初めごろから東山地域を中心として広がった京窯で焼かれたやきものをさしています。(桃山時代、長次郎のもとで始まった「楽焼」は、ふつう京焼のなかには含まない独立したやきものとして考えられています)

京焼の歴史については、以下のような諸説が伝えられています。
@室町時代宝徳年間(1449年〜1452年)に、小松谷清閑寺の職人であった音羽屋九郎右衛門が茶碗坂の窯跡を発見し、深草に窯を移して陶器を作った。
A永正年間(1504年〜1521年)に、渋谷の工人元吉が深草式の方法で京焼を改良し、釉薬による新しい工法を発明、その後清水に窯を移した。
B桃山時代から江戸時代にかけた天正・慶長年間(1573年〜1615年)に、正意万右衛門、宗三、源介、源十郎といった陶工が現れ、音羽・清閑寺・小松谷・清水などの地で製陶を行った。

さて、京焼という言葉が初めて文献上にみられるのは、博多の豪商神谷宗湛の日記の慶長10年(1605年)の条に記される「肩衝京ヤキ」があげられます。この「京ヤキ」が今日でいう京焼のことであるかどうかは明らかではありませんが、少なくとも桃山時代の慶長初年頃には、京都に窯業が始まっていたことがわかります。
その後、寛永元年(1624年)に瀬戸の焼物師三文字屋九右衛門が粟田口蹴上に窯を築いて粟田口焼を始め、数多くの唐物写しの茶器を焼きました。

野々村清右衛門(仁清)と御室焼
京焼色絵の祖と言われる野々村仁清は、丹波国桑田郡野々村(現・京都府南丹市美山町旧大野村)の生まれで、名前を清右衛門といい、若い頃は丹波立杭窯や上記の京都粟田口などで陶芸の修業をし、その後瀬戸で轍櫨引きの技術に磨きをかけたのち京都に戻り、正保4年(1647年)に前年再建された仁和寺(注1)の御用窯として、仁和寺の門前に御室窯(おむろがま)を開きました。
その後、清右衛門は明暦2年(1656年)仁和寺門跡の性承法親王(後水尾院の第七皇子)から受領号「播磨大掾」と、「仁」及び「藤原姓」を授けられ、仁和寺の「仁」と清右衛門の「清」を併せて「仁清」と号すようになりました。また、自分の作品に「仁清」の印を捺すことでブランドを主張しました。
また、仁清は明暦3年(1657年)4月には出家(注2)しましたが、その後も40年近く焼物を焼き続けました。

(注1)仁和寺応仁の乱(1467年-1477年)で伽藍が全焼して以来荒廃していましたが、1637年(寛永14年)から1646年(正保3年)にかけて徳川幕府により伽藍が再建・整備されました。同じ門跡寺院の青蓮院が御用窯として粟田焼を庇護していたように、仁和寺も再建にあたって御用窯を持ちたいと考えたのでしょう。仁和寺は門跡寺院として皇子や皇族が歴代の門跡(住職)を務めており、仁和寺再建当時の門跡は後水尾院の兄覚深法親王でした。
(注2)「色絵輪宝羯麿文香炉」(藤田美術館蔵)の裏面に「明暦三年 播磨入道 奉寄進 仁清作 卯月」とあります。

 
   色絵輪宝羯麿文香炉            明暦三年 播磨入道 奉寄進 仁清作 卯月
   (藤田美術館蔵)                  蜷川第一拓本『京洛の古陶』


御室焼の推進者
清右衛門の御室窯の一番の推進者は何と言っても金森宗和(重近)でしょう。金森宗和と仁清(清右衛門)とは深いつながりがありますので、ここで宗和について説明しておきましょう。
金森宗和は飛騨高山城主金森可重の長男として天正12年(1584年)に生まれましたが、慶長19年(1614年)大坂冬の陣で徳川方につく父可重らを批判したことで廃嫡され、一時山代国宇治に身を隠しました。その後元和4年(1618年)に京都に移り、御所八幡上半町(現在の同志社大学付近)に居住し、大徳寺の紹印伝双に参禅して、剃髪して「宗和」と号しました。
宗和の父可重は茶道を千道安に学んだ茶人でもありました。宗和は飛騨に居る時に父可重によって道安流の茶道を学びましたが、その後古田織部(重然)小堀遠州(政一)の影響を受けながら、後水尾院をはじめ公家との交流のなかで「姫宗和」と呼ばれる優美な茶風を築きあげました。宗和は京都で茶道を始めた頃、茶道具を粟田口の陶工に作らせていました(注3)ので、粟田口で修行をしていた清右衛門を見出したものと思われます。
(注3)「粟田口焼之肩衝茶入予所持 為欲見于大平五兵衛今日持参…金森宗和 被切形 而於粟田口而作兵衛焼之茶入也」『隔冥記』寛永17年11月8日条。
清右衛門は御室窯で宗和好みの茶入れや茶碗などを作り、宗和はこれを茶会で使用して宣伝し、さらに蓋や箱(宗和箱)、袋(仕覆)をあつらえることにより付加価値をつけて公家や武家に斡旋しました。以後、金森宗和は明暦2年(1656年)12月に亡くなるまでの9年間、強力に清右衛門と御室焼をプロデュースしました。


余談ですが、宗和は加賀藩3代藩主前田利常から召し抱えの話があったとき、自身はこれを辞退し、息子の七之助方を寛永2年(1625年)前田家に出仕させて、これより代々金森家は金沢にあって加賀藩に仕え2000石を領するとともに、加賀の地で宗和流の茶道を普及させました。その後宗和は慶安元年(1648年)に前田利常の小松城内葭島書院路地造営の完成茶会に招かれ加賀を訪れたり(『新山田畔書』『三壺聞書』『菅家見聞集』)、慶安3年(1650年)加賀に滞在して小松城の前田利常より銀子五十枚を拝領したり(『半田六郎左衛門宛宗和書状』)と、加賀藩との関係を続けています。
これらの結びつきから加賀藩には多くの御室焼が流入し、藩主前田家、家老の本多家などに多数伝世したことが記録されています。(『加賀前田家表御納戸御道具目録帳』『本多家古文書』)

また資金面でのサポートを考えると、仁和寺の再建費用は徳川幕府が出しています(注4)ので、御室窯の築窯費用についても幕府が負担したと考えるのが妥当でしょう。そうすると、仁和寺造営奉行の木下利当がもう一人の推進者に挙げられるでしょう。木下利当は御室窯開窯2年後の慶安2年(1649年)8月24日、鹿苑寺の鳳林承章、南禅寺金地院の最岳元良、竜安寺の偏易の3人に、清衛門が水指、皿、茶碗などを轆轤で挽くところを実見させています。
もう一人幕府側の人間としては、大和新庄の領主で三十三間堂修理奉行を務めた桑山一玄が挙げられます。一玄は、慶安2年(1649年)12月12日、鳳林承章も参加した自身の茶会で「水指御室焼」を使用したり、慶安3年(1650年)10月25日、「御室焼之茶碗二ケ」を鳳林承章に届けたりして御室焼を宣伝しています。また、同じく慶安3年(1650年)11月3日、鳳林承章が仙洞御所に献上した「茶入」(宗和の蓋・袋付)は桑山一玄が御室窯に申し付けたものでした。(以上『隔冥記』)
(注4)徳川幕府は元和元年(1615年)に「禁中並公家諸法度」を発布して天皇や公家の活動を制限しましたが、その一方で寛永年間から明暦年間にかけて御所や離宮の造営のために莫大な資金を提供し、宮中の懐柔を図りました。
 @寛永7年(1630年) 後水尾院の仙洞御所と東福門院(徳川和子)の女院御所を造営
 A寛永11年(1634年)〜13年(1636年) 仙洞御所に小堀遠州による庭を築庭
 B寛永18年(1641年) 後光明天皇の御所(内裏)造営
 C寛永18年(1641年)〜正保2年(1647年) 桂離宮造営
 D承応3年(1654年) 前年焼失した内裏の造営
 E明暦2年(1656年)〜萬治2年(1659年) 修学院離宮造営


御室焼の変遷
仁清の御室窯の製品を、以下の3つの年代に分けて見てみます。
@御室窯が開窯した正保4年(1647年)から金森宗和が没した明暦2年(1656年)
A宗和没と前後して色絵の技術を完成させた明暦2年(1656年)頃から、丸亀藩が江戸上屋敷を造営した延宝3年(1675年)
B延宝年間(1673年〜1681年)から没年:元禄7年末〜8年初(1694〜95年)(注5)
(注5)没年は『前田貞親覚書』の元禄8年8月26日条にある、前田家から将軍綱吉の母桂昌院に献上する御室焼香合についての「仁清二代二罷成下手ニ御座候」と、その献上品揃えの準備が始まった元禄7年11月の間と推定しました(岡佳子『国宝仁清の謎』による)

@:「宗和好み」茶器作成時期
この期間の製品には後に尾形乾山が「陶工必用」で「金森宗和老人好み之茶器仁清専製之」と述べたように、金森宗和の好みが大きく現れています。いわゆる「宗和好み」とは具体的にどんなものだったのでしょう?「宗和好み」と伝えられている作品をいくつか見てみましょう。
   色絵金銀菱重茶碗(MOA美術館)
銀菱文茶碗の中に金菱文茶碗が納まる、入子式の重ね茶碗。仁清の中でも類例のない斬新な意匠で、金森宗和好みと伝わっています。
両碗とも高台に「仁清」小印があります。後水尾天皇の皇后・東福門院(2代将軍徳川秀忠の娘和子)への献上品として作られました。


 銹絵水仙文茶碗(京都国立博物館蔵)    
金森宗和とその母の菩提寺、天寧寺に宗和が施入した茶道具一式の内のひとつ。宗和好みを示す典型的な作例です。高台内に「仁清」の小印が押されています。





   色絵茶碗 銘片男波(MOA美術館)
茶碗の外部に白釉で片男波の模様が精巧に焼き出されているのでこの名があります。もともとは宗和が自分の好みから仁清に注文したものと思われます。宗和印が捺されています。






  色絵鱗波文茶碗(北村美術館蔵)
この茶碗は先の2つの茶碗と同じ形状をしており、仁清が最も得意とした優美な形態です。本作品は釉流れと鱗波文という幾何学文をみごとに融合させた創意に富む優品であり、付属の桐内箱蓋表に「鱗の紋薬切 金森所持/仁清茶碗」の墨書がありますので、宗和好みと言っていいでしょう。

以上の茶碗から言える「宗和好み」の特徴とは、以下のようなものです。
(1) 轆轤挽きされた端正な形状(「織部好」みのように「かぶいた」り、「へうげた」ものではない)
(2) 絵や文様によるテーマの表出(「利休好み」のように質素で内面に秘めるものではない)
一般に 「宗和好み」=「仁清」=華麗な色絵 と捉えられがちですが、仁清の色絵が華麗なものになったのは宗和没後のことで、宗和の指導を受けた「宗和好み」は上述のように意外とシンプルなものでした。

A:色絵陶器完成時期
この期間は、宗和が亡くなった後御室窯の色絵が完成した時期で、良い意味で仁清の感性が自由に花開いたと言っていいでしょう。
この時期の製品で最も良く知られているのは、丸亀藩2代藩主京極高豊が桜田久保町に新築した上屋敷の書院を装飾するため、狩野派の絵師田中八兵衛が描いた下絵を渡して発注したと考えられている一連の色絵茶壷です。
仁清は受け取った下絵を見事に壺の表面に再現したばかりでなく、壺という絵画とは異なる3次元のキャンバスが持つ特性を存分に活かした立体的な作品を生み出しました。これらの茶壷は現在私たちが最も仁清らしいと感じるものです。
 
  色絵鳳凰文共蓋壺(出光美術館蔵)       色絵吉野山図茶壷(福岡市美術館蔵)
 
  色絵山寺図茶壺(根津美術館蔵)       国宝 色絵藤花文茶壷(MOA美術館蔵)

色絵月梅図茶壷(東京国立博物館蔵)

B:色絵陶器展開時期
この期間は御室窯の最隆盛期にあたり、技術的には色絵、造形共究極の域に達しています。それを代表するのが動物の形を忠実に再現した彫塑的な香炉です。

延宝6年(1678年)土佐国尾戸焼の陶工森田九右衛門が藩主山内豊昌の命で江戸に向かう途中、各地の窯業を視察した記録『森田九右衛門日記』には「御室焼別替儀、釜迄無之候、掛花入ニしゃくはち有、かうろニえひ有、おし鳥・きしなと有」とありますので、この頃にはおしどりや雉の香炉が既に製品化されていたことがわかります。
なお、この日記で九右衛門は御室焼の焼手を「唯今之焼手野々村清右衛門と申也」と報告しています。初代仁清は明暦3年(1657年)4月には出家していますので、この「清右衛門」は初代仁清の息子を指すのかもしれませんが、初代仁清はまだ健勝で御室焼の品質は維持・管理されていたものと思われます。
 
  国宝 色絵雉香炉(石川県立美術館蔵)  色絵法螺貝形香炉(静嘉堂文庫美術館蔵)

色絵おしどり香合(大和文華館蔵)

「仁清」の銘と印について
仁清以前の京焼(粟田口焼、八坂焼、静閑寺焼など)でも焼物に印を捺していましたが、これは製造した窯を区別するためで、陶工や作者を識別するためではありませんでした。
仁清は自分の作品であることを主張するために作者の名前「仁清」を焼物に捺した最初の陶工です。

仁清の印については以下の通り何種類かあることが知られています。(この他にも数種類あるようです)
・仁和寺門跡から賜った「幕印(大内山印)」
・宗和から授けられた「宗和印」
・「小判型大印・小印」
・「繭印」

   幕印(大内山印)     色絵雌雉香炉 仁清幕印
 幕のように見えるのは、大内山の「内」を仁にかぶせているものです。大内山は仁和寺の山号。



     宗和印?       「片男波」の茶碗に捺された印は宗和印と言われています。


    小判型大印         色絵若松図茶壷 仁清小判型大印

底中央に「仁清」繭形小印
     繭印?         色絵花笠香合(石川県立美術館蔵)

ところで、仁和寺門跡から幕印を賜ったのは明暦2年(1656年)に「播磨大掾」を授けられた時と考えられます。この時同時に「仁清」の号を授かったとすると、仁清の印があるのは明暦2年以降に造られた作品だけということになりますが、実際は唐物写の茶入や高麗写の茶碗など、比較的初期に造られたと思われる作品にも仁清の印(刻銘)があるものが見られます。

肩衝茶入 加賀前田家伝来(昭和美術館蔵)    
底部には「仁清」の刻銘がある     

また、宗和が亡くなったのは明暦2年(1656年)の12月ですので、宗和から「仁清」の宗和印を授かったのは清右衛門が「仁清」の号を授かってから宗和が亡くなるまでのわずか数カ月の間ということになります。
従って、仁清の号、および印(「幕印(大内山印)」以外)は、実は明暦2年(1656年)よりかなり前から使われていたのではないでしょうか
出典:http://www.awatayaki.com/chronology.htm

(注6)鳳林承章は、准大臣・勧修寺晴豊の六男で鹿苑寺の住持。後に相国寺の第95世となります。伯母は後陽成天皇の母で、後水尾院とは姻戚関係にありました。また、勧修寺家は武家伝奏を務めた家柄で在京武士とも交流があり、更に承章は茶道を通じて唐物屋など京都町衆ともつながりを持ちました。その結果、鹿苑寺は宮中、寺社、武家、町衆をつなぐサロンとして寛永文化の一つの中心になりました。

(注7)高松藩初代藩主松平寄重公に正保4年(1647年)召し抱えられ、 慶安2年(1649年)に高松へ移り栗林荘の北に窯を築いて高松藩の御庭焼を始めた「森島作兵衛重利」という粟田口の陶工がいました。その後作兵衛は名前を「紀太理兵衛」と改めたため、その焼物は「理兵衛焼」と呼ばれましたが、明治以降「理平焼」と改め現在に至っています。初代理兵衛の作風は仁清のものと類似しており、「古理兵衛」あるいは「高松仁清」と呼ばれました。『隔冥記』に登場する「粟田口作兵衛」は、寛永年間は頻繁に名前が見られますが、正保2年(1649年)以降の日記には現れなくなります。もしかすると理兵衛焼の「森島作兵衛」と『隔冥記』の「粟田口作兵衛」は同一人物かもしれません。


(注8)大平五兵衛は唐物屋で、粟田口焼、八坂焼など京焼から瀬戸焼、備前焼、伊万里焼、唐津焼など幅広い陶磁器を扱っていました。また古画や骨董なども扱い、加賀藩前田家の美術品蒐集にも関わっていました。
(参考) 『隔冥記』に見る京焼
鹿苑寺の鳳林承章(注6)禅師の日記『隔冥記』には、寛永、正保、慶安、承応、明暦、萬治、寛文年間に承章が関わった京焼の茶道具が数多く登場します。鳳林承章は、これらの茶器を主に贈答品として贈ったり、贈られたりしていました。寛永年間は粟田口焼が殆どでしたが、正保4年(1647年)に清右衛門が仁和寺門前に窯を開くと、その後は御室焼(仁清焼、仁和寺焼)が俄然多くなりました。
また、粟田口焼では茶入が多かったのに対して、御室焼では次第に茶碗が多くなったことがわかります。
近世日本陶磁器の系譜