乾山と猪八について調べてゆくと、三人の法親王(出家した皇族)が二人の人生に深く関わっていたことがわかってきました。そのうちの一人は、乾山がお伴をして江戸に下向したことで有名な公寛法親王ですが、私は別の二人の法親王に注目しました。
その二人とは、公寛法親王亡き後輪王寺門跡となった公遵法親王と、猪八が窯を築いてお仕えした聖護院門跡忠誉法親王です。

この二人には不思議な共通点があります。まず生没年が同じです。

   公遵法親王  忠誉法親王
 生年月日  享保7年(1722年) 1月3日  享保7年(1722年) 11月5日
 没年月日  天明8年(1788年) 3月25日  天明8年(1788年) 4月11日
 父  中御門天皇
 第二皇子
 中御門天皇
 第三皇子

二人は享保7年(1722年)に中御門天皇の第二皇子、第三皇子として同い年の兄弟として生まれ、また、はからずも天明8年(1788年)の春に相次いで没しました。

二人の皇子は、子供のころから門跡となることを運命ずけられていました。
公遵法親王は、将来の輪王寺門跡となるべく、享保15年(1731年)に親王宣下を受け、翌享保16年(1732年)には京都山科の毘沙門堂で得度しました。毘沙門堂は「毘沙門堂門跡」とも呼ばれ、代々輪王寺門跡が兼務したことから、敷地内には歴代輪王寺宮の墓地があります。その後享保19年(1734年)には輪王寺門跡付弟となり、元文2年(1737年)に江戸に下向しています。元文3年(1738年)に公寛法親王が没すると輪王寺門跡を継承しました。乾山が没した寛保3年(1743年)の輪王寺門跡は公遵法親王で、『上野奥御用人中寛保度御日記』に、乾山の葬式などの世話をした地主次郎兵衛に上野宮様が費用として一両を下されたと書かれてあるのが公遵法親王です。

また忠誉法親王は、先代の聖護院門跡道承法親王が正徳4年(1714年)に若くして亡くなっていたので、生後半年の享保8年(1723年)4月に聖護院を相続しました。享保17年(1732年)に親王宣下を受け、翌享保18年(1733年)には聖護院で得度しました。乾山が元文2年(1737年)に著した『陶磁製方』に「愚子猪八ニ伝、唯今ハ京鴨川ノ東、聖護院宮様御門境ニ而、本焼内焼共相勤罷有候」とある聖護院宮は忠誉法親王です。

二人の共通点は他にもあります。二人とも門跡を一度退き、その後再度門跡になっているところです。

     公遵法親王  忠誉法親王
 享保8年 1723年    聖護院相続
 元文3年 1737年  輪王寺門跡継承
 宝暦2年 1752年  8月21日 隠居  12月 辞聖護院門跡
 明和7年  1770年    9月 再聖護院門跡
 明和9年  1772年  9月22日 再輪王寺門跡  

公遵法親王は、宝暦2年(1752年)に門跡を公啓法親王に継承して隠居しますが、この時上野の北、根岸に「根岸御殿(御隠殿)(注1)」を建設し、そこを隠居所としました。公啓法親王は明和9年(1772年)に亡くなりましたが、後継が決まっていなかったため、隠居していた公遵法親王が再び輪王寺宮に復帰することになりました。その後公璋法親王を輪王寺門跡付弟として定め、安永4年(1775年)に京都から江戸に下向させましたが、公璋法親王は翌安永5年(1776年)に17歳の若さで亡くなってしまいます。その結果公遵法親王は、公延法親王が次の輪王寺門跡となる安永9年(1780年)まで門跡を続けることになりました。
(注1)根岸御殿(御隠殿)は現在の根岸薬師寺(台東区根岸2-19-10)一帯に、3千坪の広大な敷地を持った屋敷として造営され、歴代輪王寺宮は風光明媚で四季の情緒に富んだこの地で、公務の息抜きや隠居後の余生を楽しみました。建物は幕末、上野の戦争で焼失していて、現在はその面影は全くありません。

一方忠誉法親王は、宝暦2年(1753年)に聖護院門跡を増賞法親王に継承して北白川の照高院に隠居しました。増賞法親王は明和7年(1770年)に亡くなりましたが、やはり後継者が決まっていなかったため、忠誉法親王が再び聖護院門跡となりました。その後将来の聖護院門跡として忠誉法親王に預けられていたのが師仁親王(後の光格天皇(注2))ですが、安永8年(1779年)師仁親王が9歳のとき、時の後桃園天皇が22歳の若さで急逝され、後には生まれたばかりで満1才にもならぬ欣子内親王だけが残され、皇統は断絶の危機を迎えました。そこで、急遽、後桃園天皇の養子として師仁親王をその後継者に迎えることになりましたが、皇統の連続性を示すため、中御門天皇直系の血を受け継ぐ唯一の皇女であった欣子内親王が新天皇へ入内することがあらかじめ計画されていました。即ち、女系において皇統がつながる形を取ったわけです。この結果聖護院門跡は師仁親王の同母弟の盈仁法親王が継承することになりました。
(注2)光格天皇は第119代天皇で、朝廷の権威の復権に努め、朝廷が近代天皇制へ移行する下地をつくったと評価され、近世の名君の一人に数えられています。光格天皇の父は閑院宮典仁親王、母は大江磐代といい、鳥取倉吉出身の医師岩室宗賢と鉄問屋の娘「おりん」の間に生まれた娘でした。現在の皇室の直接のルーツになる光格天皇ですが、その両親が「庶民が皇室に入る」という先例をつくっていたことは非常に興味深いことです。ちなみに、これまで登場した公璋法親王、公延法親王は閑院宮典仁親王の第三、第四皇子で、光格天皇とは異母兄弟に当ります。

              中御門天皇から明治天皇に至る天皇家系図

私がこの二人の法親王に興味を持ったのは、国会図書館蔵の「陶器密法書」の奥書に、乾山(二代乾山猪八のことと思われる)が「晩年蒙於準(准)后宮之命、赴東武、暫住根岸、製陶器」と書かれている内容を検証したいと思ったからです。

この准后宮は公遵法親王のことと考えられますが、公遵法親王が准后宮(准三宮)となったのは寛延2年(1749年)7月13日で、宣下を受けるため同年3月末から約4ヶ月間京都に滞在していたことが『通兄公記』からわかります。
『浅草寺日記』(注3)(国会図書館蔵)によると、この時から公遵法親王が二度目の隠居をする安永9年(1780年)までの間に上洛したのは以下の3回です(江戸発着日)。
 ①寛延2年(1749年) 3月中旬(3月29日京都着)~8月23日(8月4日京都発)
 ②宝暦3年(1753年) 1月9日~10月7日
 ③宝暦11年(1761年) 10月13日~明和9年(1772年)8月14日
①は『通兄公記』によると、公遵法親王は最初中御門天皇の十三回忌法要で導師を務めるために上洛しましたが、4月11日に法要を終えた後も京都に残り、7月13日に准三宮宣下を受けました。
②は前年に隠居をしていますが、何のための上洛かは不明です。
③は出立前に暇乞いをしている記録があるので、京都で余生を暮らすつもりだったと考えられますが、11年後公啓法親王が明和9年(1772年)7月16日に急逝したため、急ぎ江戸に戻ったものです。
(注3)『浅草寺日記』は浅草寺寺中の年次別日並記録です。浅草寺は推古天皇36年(628年)創始の江戸最古の寺院で、徳川家康が江戸に入府した時には浅草寺を祈願所と定め、寺領として五百石を与えましたが、天海僧正が寛永寺を建立すると祈願所は寛永寺にあらためられ、以降昭和にいたるまで、浅草寺は寛永寺に従う寺という位置づけでした。従って、『浅草寺日記』には輪王寺宮の動向も記録されています。この中には例えば宝暦11年(1761年)3月4日の条に「今日八ッ時頃、准后様爰元江被為成、御土器師新左衛門、小玉や権左衛門、四郎右衛門、平吉、被為成鞠被仰付」とあるように、知り合いの平民を招いて蹴鞠をさせたことなども書かれています。ここに書かれている「御土器師新左衛門」は、『新編武蔵国風土記稿』(文化・文政期に編まれた武蔵国の地誌)の坂本村の項に「村内に土器の御用を勤る松井新左衛門と云もの住し」とあるのと一致します。



ここからは私の推測を交えて書きますが、①か②の上洛の時に公遵法親王と猪八は会っていたのではないかと考えています。①のときはまだ輪王寺宮在職中でしたので、隠居後の②の方が可能性は高いかもしれません。
輪王寺宮の京都での滞在場所は、御所の東側、鴨川沿いにあった日光御門跡御里坊です(ただし、①の時は『通兄公記』によると、御所の東の盧山寺でした。また、隠居後もここを利用できたかは不明です)。鴨川を渡ると聖護院までは1km足らずの近所です。4ヶ月または9ヶ月の滞在期間中、弟の忠誉法親王に会いに行ったことも十分考えられます。そこで聖護院宮のために焼物を焼いている二代目乾山猪八のことを聞き、また直にお目通りになったかもしれません。公遵法親王は、江戸で初代乾山が亡くなった時に、葬式などの世話をした地主次郎兵衛に費用を下賜したことを思い起こされ、縁を感じたことでしょう。猪八の方からお礼を申し上げたかもしれません。
初代乾山が先代の輪王寺宮公寛法親王のお伴をして江戸に下向し、入谷で焼物を焼いたこともお聞きになっていたでしょうから、猪八に一度江戸に来ないかとお誘いになったのではないでしょうか。もちろん猪八は聖護院宮にお世話になっている身ですから、忠誉法親王の了解も得ることが必要だったはずですが、そこは同い年の兄弟の事、暫くの間ということでおゆるしになったのではないでしょうか。



猪八の生没年は不明ですが、猪八が二代仁清である清右衛門の息子であること、乾山と清右衛門は鳴滝窯で一緒に焼物を焼いたことから同世代または近い世代だと推測されること、乾山が江戸に下向した享保16年(1731年)頃には猪八が窯を任せられる年齢になっていたこと、「猪」がつくので「亥年」の生まれと推測されることなどから、猪八は元禄8年(1695年)乙亥の生まれと推測されます。この場合、公遵法親王にお目にかかったのが①とすると、その時猪八は55歳に、②とすると59歳になっていたことになりますので、その後江戸に赴いたとすると「晩年」と言ってもおかしくない年齢です。

また、「陶器密法書」の奥書によると、猪八は「晩年蒙於準(准)后宮之命、赴東武、暫住根岸、製陶器」と書かれているので、江戸では根岸に住んでいたことがわかります。私は根岸の記録から猪八が江戸に来ていたことがわからないか調べていたところ、東京都立中央図書館に『根岸人物誌』という本があることがわかりました。編者は不明ですが、根岸の地に一時的にせよ在住した各界の人物名を挙げ、その略伝を記してあるものです。この中に尾形乾山の項がありましたが、残念ながらそこに記載されていた略伝は「陶器密法書」の奥書の内容で、新たな証拠は見つかりませんでした。

 
 

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(番外編) 二人の法親王
近世日本陶磁器の系譜