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色絵の創出

中国では明時代後半景徳鎮の民窯が著しく発展し、藍一色の染付けから、金襴手(きんらんで)、萬暦赤絵(ばんれきあかえ)、呉州赤絵(ごすあかえ)など様々な色絵磁器が作られました。これらの磁器は日本にも輸入され、茶道具や宴会を飾る器として使われたほか、磁器焼成に成功して間もない有田にも影響を与えました。

時代的背景
14世紀に起こった明も17世紀に入ると衰退をはじめ1644年に李自成の乱により滅亡しますが、それに先だって景徳鎮での磁器の生産・輸出は滞り始め、日本への磁器輸出は1641年を最後に途絶えてしまいました(亜細亜文化研究所『南亜細亜学報』)。当時色絵磁器は全てを中国からの輸入に頼っておりましたので、その主な需要家であった大名、有力商人などは、磁器創出後四半世紀を経た有田で代替品を国産化することを考えたと思われます。
ところで、有田の焼物は伝統的に朝鮮の影響を強く受けてきましたが、朝鮮では儒教的な価値観から色絵は作られませんでしたので、色絵磁器を焼成するには中国からの技術導入が必要でした。折から明末の混乱により、中国から九州各地に逃れてくる人民が多かった(『通航一覧』)ことも伝えられています。その中には陶工や画家など色絵を始めるのに必要な人材も含まれており、その人達の技術をもとに色絵磁器の創出は始まりました。

初期色絵(古九谷様式)の登場

以前は酒井田柿右衛門が最初に色絵磁器を焼いたと言われていましたが、考古学的な調査により柿右衛門が作陶した楠木谷窯よりはやく、1640年代に有田西部の山辺田窯で色絵を焼成していたことがわかってきました。更にその頃山辺田窯で焼かれていたのは、驚くべきことに古九谷様式の大皿だったのです。
山辺田窯ではそれ以前から染付の大皿を製作しており、この特殊技術のおかげで有田西部の窯が軒並み閉窯になった1637年の窯場整理統合も生き延びることができました。またそのことが1640年代になって中国から色絵大皿の輸入が途絶えたとき、その代替を求める大名や商人が山辺田窯に着目した理由でした。
初期伊万里染付から色絵古九谷様式への変化は、絵付けが変わるだけでなく、高台径の大きさや素地の厚みなど成型技術にも変化が見られますので、色絵磁器の需要を見越した相当大規模なプロジェクトとして推進されたと思われます。当然のことながらそれには莫大な費用が必要になりますが、これを負担したスポンサーの有力な候補は、加賀藩前田家とその御用商人塙市郎兵衛です。
『三壺聞書』によると加賀藩三代藩主前田利常は、寛永14年(1637年)御側衆黒板吉左衛門に長崎に赴き「古き唐織の切」並びに「茶の具」などを買いととのえるよう申しつけ、それを受けた黒板吉左衛門は矢野所左衛門と瀬尾権兵衛に買い付けを命じ、二人は京都の商人吉文字屋庄兵衛を伴い長崎・平戸で町人になりすまして「無双の古き切共、有るに任せて価構わず買い取りて」帰国したと記録されています。その後も加賀藩は長崎・平戸に藩の出張所を設け、海外からの輸入品を買い付ける家来を常駐させましたので、当然彼等は中国からの磁器の輸入が滞っていることを早い段階で察知し、藩に報告したものと思われます。
それを受けた加賀藩では、支藩の大聖寺藩で鉱山開発を行っていた九谷村で1640年代前半に後藤才次郎により良質の陶石が発見されていたこともあり、自藩での色絵磁器焼成を目論みます。この顛末については別項で詳しく記載したいと思いますが、とりあえずその第一段階としての初期の古九谷は、加賀藩前田家の注文により伊万里の古九谷様式として有田山辺田窯で焼かれたと思われます。
また塙市郎兵衛は、後に酒井田柿右衛門が色絵の焼成に成功したとき、柿右衛門が長崎に赴き「加賀筑前様御用聞塙市郎兵衛と申す人に売初」(『酒井田旧記』)とあるように、加賀藩の御用商人として長崎で活動した人です。

初期色絵(古九谷様式)の意匠
古九谷様式は「五彩手」と「青手」に大別され、歴史的には五彩手の方が早く1640〜50年代、青手は1650年代と言われています。古九谷と言えばその大胆なデザインと強烈な色彩が思い浮かびますが、どのようにしてあの意匠が生まれてきたのでしょうか?中国の色絵に影響を受けていることが指摘されていますが、実際にそれがどのような焼物であったのかを視覚的に確認するため、古九谷様式のお手本になったと思われる中国の色絵磁器古九谷様式色絵をいくつか比較してみました。


これを見ると、古九谷様式の絵付けは
 @呉州赤絵萬暦赤絵の華やかな五彩の使い方
 A天啓赤絵の輪郭線にとらわれない絵具の載せ方と濃淡の使い方
 B華南三彩や黄地緑彩磁器の地色の使い方
と、日本的な絵画観が融合して生まれたものと考えることができそうです。また、このデザインには御用絵師が関わっていたことも推測されていますが、詳しくは別項で述べたいと思います。
更に、1650年代になると楠木谷窯などでも古九谷様式の中小皿が作られるようになり、その後の柿右衛門様式へと繋がっていくことがわかります。

近世日本陶磁器の系譜