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文法研究ノート抄

1)みかた・みがまえ など

雑感 ── 認識と行為      恣意性 と 一般性        分節 と 二重分節

モノの を格の 相関図式    を格の 連語 一覧    テンス・アスペクトの概要

ながれ drift    -素 -eme と かた pattern   Geist / genius / ことだま

ことばの しなじな       きれつづき       文法的な 意味の ありかた

形式名詞/吸着語/つなぎ むすび   推想態 (evidentials)   無標と ゼロ記号


■雑感 ── 認識と行為

 さて、大学は いま「改革」にゆれている。おおゆれ である。しかも、内発的な要因は少なく、ほとんど外発的な要因 いわゆる「外圧」であるから、かなりヒステリックである。窓際族を決めこんでいた私も、年齢から来る「立場」上 引きずり込まれそうになっている。「一宿一飯」以上の恩義はあるから、やくざな私も 立たざるをえないのかもしれない。

 その渦中で、私ども 大学教師は、自らの行動において「したいこと」と「すべきこと」との間の、乖離や分裂や葛藤や矛盾に悩むことになる。「できること」と「できないこと」、「して(も)よいこと」と「して(は)いけないこと」、「なりがちなこと」と「ならざるをえないこと」、などの 見定めと見極めに 苦しみ 惑い 迷っている。また、そうした 認識と行為との間の、世にいう <言行> の一致・不一致という倫理の岐路にも、しばしば立たされる。さらに………
 「哲学者は、世界を ただ さまざまに <解釈> してきたにすぎない。肝腎なのは、それを <変革> することである。」[Karl Marx(1845) "über Feuerbach"]
───そう、その通りなのだろう。私ども「古い人間」にとって、若いころ 何度も反芻してきたことばだ。いま 声高に叫ばれている 日本経済の「構造改革」を どう見るかについては、政治・経済の素人ゆえ ひとまず さておく(ことにさせてもらう)として、では、自分の領分 現代の言語の世界では どうなっているのかといえば、一方で「言語学者・国語学者」の多くは、かつての哲学者より もっと慎重に、言語の体系(system)における構造的な推移相を解釈し 評価することすら禁欲して ひたすら「客観的な実態」の記述に徹しようとし、そして他方では「言語論者・国語国字論者」(評論家・随筆家・運動家)の多くが、言語事象の推移相の解釈はおろか 実態を理解する努力すら怠って、相も変わらず 規範の 墨守やら復古、革新やら撲滅 を叫んでいるように見える。また、一人で その二役を苦もなくこなす やや分裂症気味の向きも いるかに見える。そんな、認識と行為との、もしくは 記述・分析と 判断・評価との、つながりや かかわりあいの 断ち切られた <二極分解> 的な状況の中に、いま 私たち言語研究者は 身を置いているのではないか。

 こうした 種々の状況の中にあって、言語学の一研究分野としての「叙法性(かたりかた)組織」──それは <認識系>と<行為系>との "対立と統合" の中に たたずんでいる、と私は見ている──についての理論も、その射程の広さが、その分析の深さが、この現実の「危機」的な状況において 試されているのだ、とも 私には 思えてくる。状況という砥石によって 研ぎすまされることが可能になるような <具体>のレベルにまで、私の理論的仮説の射程が 分析の細やかさが とどいているのか どうか………。しばらくは、私の研究の ひとつの正念場である のかもしれない。

 あるいは、状況のドラマが、あっけなく 陳腐な茶番劇に終わるだけ なのかもしれない。───巧言令色、鮮矣仁。

 はたまた「妄想」とは、こういう筆のすさびのことを さすのであったのだろうか。(01/09/18)



「叙法性(かたりかた)組織」──それは <認識系>と<行為系>との "対立と統合" の中に たたずんでいる
と 上に書いたが、急いで 次のように書き加えなくてはならない。
───これは、近代日本語の体系組織であって、古代日本語のものではない と。

★古代語の主要な叙法性形式、

    肯 定 | 否 定 |
   ─────┼─────┼────
    せ む | せ じ | 仮想
   ─────┼─────┼────
    すべし | すまじ | 潜勢
   ─────┴─────┴────

という4形式は、それぞれ 認識的な「推量」も 行為的な「意志」や「当為」も、うちに含んでいる。あるいは、とけ込ませている。これらが共通にもつ 一般的な意味特性は、<非現実性> であろう。

 この、古代の<現実realis−非現実irrealis>の対立・統合を軸にした体系から、近代の<認識episteme−行為actus(dynamis)>の対立・統合を軸にした体系への 構造的変化、および それを引き起こした要素的対応の変化、たとえば、

    せ む─┬─しよう   意志
        └─するだろう 推量

    すべし─┬─すべきだ  当為
        └─するはずだ 推論

のような事例における、変容や交代、分岐や合流、消滅や発生といった変化の様相と その要因の探求は、日本語の叙法性の研究にとって きわめて重要な研究課題であり、これについては、あらためて書くこととしたい。(01/09/19記 20補正)

 

恣意性 と 一般性

 「近代言語学の父」と いわれる F. de ソシュールは、記号の、能記と 所記との 関係の「恣意性」を 強調した。E. バンヴニストに、<能記と 所記との> 関係ではなく、<記号と 指示物との> 関係である ことに 修正は うけたが、この「記号の 恣意性」は 比較文法成立の 根拠として 定説と いっても いい。しかし、一方で <音象徴(擬音・擬態)> 性の 手段による 記号(象徴)を もたない 言語の 報告も きかない。意味が 指示物(referent)と ちがって 一般化 抽象化を うけた ものである ことも、言語学の 基本である。とくに だれが いいだしたかと 問題に される ことも ないと おもうが、やはり 定説である。しかし、はなしてを 基準として ゆびさし しめす ことを 基礎とする <指示語(コソア)> という 現場性の 記号(信号)を もたない 言語の 報告も きいた ことが ない。「単純に わりきれない …… 」、単細胞な 自然科学者の 神経を さかなで しそうな こうした 現象は どうして おこるのだろうか。こうした 疑問から、人文科学は 出発する。「言語の (自然)科学」など、はじめから 無理・無謀なのである。「かたりえぬ ことは 沈黙すべきである」と いった、かねに いろめを つかわない 研究者も、かつては いましたね。いまや「巨大科学」の 時代、科学と 技術との さかいも ぼやけてきて、そんな 奇特な ひとは とても いきては いけない 時代ですかね。
 いやみな 冗談は これくらいに して、単純には いかない 「矛盾」した ことが、どうして 現実には おこるのだろうか。
    善は 急げ。      ⇔    急がば 回れ。
    努力の たまもの    ⇔    たなから ぼたもち
    まごにも 衣装     ⇔    ぶたに 真珠
    楽 あれば 苦 あり。  ⇔    冬 きたりなば 春 とおからじ。
など、ことわざの たぐいにも 意味の ほぼ 反対の ものが おおい。バランスの 感覚、中庸の 精神 という ものであろうか。近代主義者 A. マルティネなら、言語の「経済性(economy)」を いい、効率という 定量化されうる 面の 説明に みがきを かけようと こころみるだろうか。古典主義者 E. サピアなら、言語構造が 本来 もつ「合理化されない(unrationalized)」性質という、単純な (近代)合理性に 基準を おかない 特性を 主張するだろうか。【市販本の「非合理的」は 誤訳、「前合理的」は 前提とする 評価に 難がある。この "-ed" 形は、まだ 形容詞化していない、動詞の (過去/完了)受動分詞として 理解すべき ものである。】
 量的には、<ことなり> は 音象徴も 指示語も それほど おおくは ない。しかし その 使用頻度も かんがえに いれた <のべ> は けっこう おおい のではないか。<ことなり> が 語の レベルの 範例(paradigma)の "記憶" 量の 問題だ とすれば、<のべ> は 文の レベルの 連辞(syntagma)の "使用" 量の 問題であり、どちらか 一方だけを 重視する というのも、問題なのではないか。教科書的な「常識」に 安住しない ほうがいい。安住できる ほど よく 吟味された ものは おおくなく、安直な 類推が おおい。

 はなしは とぶ ようだが、「ことばの しなじな」の 図表は、こうした「常識」に 安住したり いなおったり する ひとには 理解されない かもしれない。「副詞」との ながい 挌闘の なかで、音象徴の 語と 指示性の 語とを はじめに 別あつかいに くくりだしておけば いいのだ という、この アイデアが ゆめまくらに あらわれた ときには、狂喜乱舞した ものである。このまま みすてられるか;「コロンブスの たまご」と なるか;どっちにしても、わたしの いきている あいだには わからない のであろう。
こころも あたまも、いっそ、こどもの こだまの ような としよりに なりたい。(ものくさ しろう)

いざ こども やまべに ゆかむ さくら みに あすとも いはば ちりもこそ せめ (はるの 良寛)
こころ なき ものにも あるか しらゆきは きみが くる ひに ふるべき ものか (ふゆの 良寛)

 

分節 と 二重分節

 「ことばの要素」としての「語」を 言語形式の もっとも 基本的な ものと かんがえるか;意味を もった ことばの 要素か、それ以前の その 表現手段か、という レベルの 差を 問題に せず、「表意単位」「表音単位」を ひとしなみに ことばの「単位」と かんがえ 等質化してしまうか、いわば 定性化より 定量化を 優先してしまうか;ここに 古典精神と 近代精神との 根本的な ちがいが あるのだ と おもわれる。20世紀の 学者で いえば、E. サピアが ちがいに こだわった 古典精神を もち、A. マルティネが ちがいを 等質化する 近代精神を もつ と いえるであろう。日本の 学者で いえば、前者を 「親愛」した 新村出が 古典精神を、後者の 監訳を した 泉井久之助が 近代精神を もつ ことに なるであろう。「アプレ」(第一次世界大戦後)か どうか、「失われた世代(lost generation)」か どうか は、欧米だけでなく、とおく 東洋の 日本の 学者にも 影響を およぼした ように おもわれる。あるいは、日本の ばあいは いつ「関東大震災(後 復興期)」を 経験したか も、おおきく 影響する かもしれない。
 より 抽象的な「二重分節」が 人間言語の 普遍的な 特徴である ことを 否定しよう とは おもわないけれども、言語と 意味と その (表現)形式との 関係において、どこに 重点を おいて かんがえるか という 研究の 基本的な 視座 ―― おまえは どこに いて、どっちを むいているのか? ―― の 問題であって、抽象的であれば いい という 問題でも ないだろう と おもう。
 フンボルト、サピア、それに 近代日本の 森重敏、そして かれに「論外」と いわしめた 鈴木重幸、そのうらに 指導的助言者として 奥田靖雄が おおかれ すくなかれ 関与していた ことは まちがいない と おもうが、これらの ひとびとに 共通する ことは <意味> への こだわりである。意味 あるいは 精神(Geist, genius) なき ものは、もじどおり ことばとして 意味がない ―― これが 「二重分節」に 一般化 普遍化 抽象化する ことに こだわる 近代人 マルティネには ない、わたしの いう 意味での「古典精神」という ものかもしれない。一般化 普遍化 抽象化の 程度を たかめた 単純(simple)で 純粋(pure)な ものほど 「科学的」である、という 科学信仰の たちばには たてないのだ。うまく いえないが、はだあいが あわない。感覚的に そんな 貧困(poor)で 簡単(easy)な ものでは ないだろう と おもってしまう。うまれて はじめて 意識的に とりくんだ 問題が 「大学問題・公害問題」だった ためであろうか。「科学」は いつも カギカッコつきである。「生活」の ほうが 価値が 上位に ある 問題なのだ。

 この「論外」論争の もとになった 書評(1966)が (国語研所員) 鈴木重幸の なまえでなく、(教科研/言語学研究会 常任委員) 奥田靖雄の なまえで なされていたら ── もっとも、『國語學』の 書評が 依頼される はずも ないとは おもう けれども ── と 夢想する ことも ある。森重敏の あたまには、『話しことばの文型 (2)』(1963)の 構文部分の 著者(南不二男と 共同して 担当)には いわれたくない という おもいも あった ことだろうと おもうのだ。森重敏も、『日本文法通論』(1959)以来の 「難解だ」etc. の つめたい 反応の おおさに やや 被害妄想の 気味も あったとは おもうのだが、書評者を 学界の「主流派」の 代表と みなしてしまった ような 誤解も あった ように みえる。書評の のった 号が 学界展望号であったのも、わざわいした かもしれない。三上章への 書評の ばあい(『言語生活』1963)と おなじ はずも ないが、奥田靖雄 名義であったなら、もっと ちがった 展開も あった かもしれないと 妄想してしまうのだ。筆者名や その かたがきと 文章の 内容や その 形式との ちぐはぐさが、おもわぬ 誤解を うむ ことも あると おもうのだ。『國語學』と『言語生活』との 編集姿勢における 権威性と 見識性との ちがいも ふくめて、「たられば」の はなしで もうしわけないが、『日本語学外史』の 余録として ひとこと しておきたい。「反実仮想」の はなし という ものは、はかなくも たのしい 空想でも あるけれども、うれしくも せつない 願望でも あるのだ。
 ともあれ、わたしの めには 森重と 奥田は 両立すべき 人間に みえるのである。おなじ 土俵に いるから こそ、はげしい たたかいも ある。反義語は、ひとつ 上位の レベルでは 同(類)義語 synonym である。『日本文法通論』という 書名や 『日本文法 ─ 主語と述語 ─ 』の 版型が 全書版であり 章だてが 第1章「立場」第2章「方法」と なっている ことが、田辺元『哲学通論』に あやかる オマージュに なっている ことも、ついでながら、わかい ひとむけの 注として しるしておく。「西田幾多郎・田辺元系統の哲学」が 森重文法の 理論的背景に ある という 書評者の 指摘が ずぼしでは あっただけに、その「おちょくる」ような かきかたは、さぞかし げきりん(逆鱗)に ふれた ことだろう。奥田も、自分の 文章なら、もっと 別の かきかたも あっただろうに ……… と、タラレバばなしは、もう きりが ない。おいの くりごとも、もう ここまでの よみきり(なりけり)と、きりと けりを つけておく ことに しよう。
 記述言語学の「-素 -eme・異- allo-」の 原理より、言語変化についての (人為では どうしようも ない 自然の)「ながれ(漂流 drift)」や、言語構造についての「かた(pattern)」や「心理的な リアリティ(現実み〜真実性 psychological reality)」などを だいじにする E. サピアの たちばを、わたしが このんで えらんでしまうのも こうした「生活」重視の ためである。【"reality" を「実在性」と 訳すのは、かぎりなく 誤訳に ちかい。記述言語学の 素朴実在論に とらわれた 予断的な 誤読だろう。】ことばの <分節か 二重分節か>の 問題が、<生活か 科学か>の 問題に ダブって みえてしまう 人間も いるのだ。本来、二者択一を すべき 問題では なく 目的−手段の 両立すべき 関係に あるのだが、現実に「矛盾」し「対立」する 問題として 現象する ことも あるので やっかいだ。出 隆 的に いえば「言語学以前」の 問題だろうが、たまには こどもに もどっても いいだろう。
意味 意味 … と、生活に 意味も ない、言語の 意味の 意味を とう、意味なき 人生の 意味 (意味の 形而下学)

わくらばに とふ ひとも なき わが やどは なつこだちのみ おひしげりつつ (なつの 良寛)
いざ うたへ われ たちまはむ ぬばたまの こよひの つきに いねらるべしや (あきの 良寛)
 

モノの を格の 相関図式

    時間軸   ─────────────→
             動 き の 過 程
    空間軸
     |     接触 ─→ 変化 ─→ 結果    モノ自体の形態〜状態変化
     |位
     |置       /    \          全体の  部分の
     |の    除去        付着    着脱(状態変化+位置変化)
     |移     :         :       カラ/ニ   ヲ
     |動     :         :
     ↓     (起点)  移  動  (終点)    移動(モノ全体の位置変化)



▼奥田 靖雄 の 連語論「を格の名詞と動詞とのくみあわせ」の 第一章第一節「物にたいする はたらきかけ」を 学生に 説明する 際の <相関図式>の メモとして あみだした もの。
 大学生に 説明する 便宜上、もようがえ=変化、とりつけ=付着、とりはずし=除去、うつしかえ=移動、ふれあい=接触、の ように、漢語に おきかえている ─── 大学生にとっては 漢語の ほうが 日常語なのだ ─── が、この 6つの 連語の かたの 相関図が 奥田の いう「唯物弁証法」を いくらかでも うきぼりに していれば さいわいである。留学生からの 質問に よく ある、「とりつけ=付着」なのか 「うつしかえ=移動」なのか、どちらかに ふりわけないと 気が すまない ような 質問には、物理的には 連続的なのであって 中間的な ものを みとめざるをえないが、日本語学としては 「〜の ところ」による「空間化」が 必要か どうか という 「言語形式」の 問題が きめてだ という ことを、説明する ときに 便利だった。表現を いちぶ、おなじ 授業を 担当していた 早津 恵美子 先生の ご意見で 修正した 部分が ある。【最終案 更新日時 2008/06/30】


★うえの 図は、6つの 連語型が 成立した あとの システム図であるが、これを 歴史的な 発展の 観点から 動的な 成立過程を 想像すれば、
第1段階としては、時間軸の ものの 状態変化としての「もようがえ」と、空間軸の 位置変化としての「うつしかえ」の 2つが はじめに あり、
第2段階としては、身体 (および その 延長としての 道具) に かかわる 表現において、

   梅の実を 梅の木から 手に とる。
   梅の実を 梅の木から せなかの かごに いれる。

のような 空間的な「うつしかえ」の 連語は、自分の 領域への「到着」であり、そとからの「とりはずし」であると ともに、自分の 身体や 補助道具(うち)への「とりつけ」でもある。身体表現は まさに 自己中心的である。それが 身体から はずした 外界の 表現としては

   梅の実を かごから とりだし、(梅の実を) つぼに いれる。

といった ぐあいに、「とりはずし」と「とりつけ」とが 2つの 事態の 連鎖として、一体の 空間移動「うつしかえ」から 分離され、それぞれが 注目点として あらたな 連語型として 成立する。
 ついで 第3段階として、空間的な 出発点 = とりはずし箇所からの 展開で、時間的な 状態変化の 起点 将然段階としての「ふれあい」段階が 注目され、空間的な 到着点 = とりつけ箇所からの 展開で、時間的な 状態変化の 終点 完了段階としての「結果」段階が 注目され、それぞれ ものの 時間軸における 状態変化の 一段階として 特異な 対象(を格)化される ように なって、やはり あらたな 連語型として 成立する。つまり、から格 に格 という とりまき(状況)として とらえられていた ものが、を格 という もの(始動対象 作品対象)として とらえられる ように かわった のである。むろん より 根源的な 連語型は あらたな 連語型が 成立する ごとに それとの 関係で みづからを 限定し 機能を 分化させていく。単なる 時間変化「もようがえ」・空間変化「うつしかえ」から、身体表現による 行為分類 = 着脱(内外)分割「とりつけ・とりはずし」を へて、開始=試行「ふれあい」や、制作=製造「結果」をも、人間の 対象的な 行為〜動作に 拡大的に とりこんだ のである。変化以前の「ふれあい」を 試行努力の 行為の 一種と みなしたり、変化以後の「結果」作品を 行為の 対象と みなしたのは、"普遍論理" というよりも、《人間生活》の 必要である。

 という ことで、ものの を格の システムは、基本的に 6つから 構成される のであって、みかた しだいで いくらでも 6つ以上に より くわしく できる といった ものでは ない。連語は、個々の 語彙の 意味分類などでは なくて、相互に 対立と 統合の 関係に ある 諸項目が、語と 語との むすびつき(構造)を 少数に パタン化され、それが さらに 抽象化の 発展の タイプ(種類)を なす 文法システムなのである。E. サピアの「根源的な 形式(直観) fundamental forms (form intuitions)」(『言語』「言語構造のタイプ」の 章に 2回 登場)の イデア(理念)と 関連が ある ように おもう。人類言語の 100程度の 《根源形式》を 「詩人の 空想」に おわらせて いい ものだろうか。【この項 2014/05/29 補 2017/10/24 説明加筆】


◆ただし、語が 言語(language)の 基本単位であり、文が ことば(speech)の 基本単位である のとは ちがい、連語は なにかの 基本単位 なのではない。語=材料性を 文=構造性へと くみたて、言語=法則性から ことば=文体創意性を つむいでいく、橋渡し=仲介的な 形式(単位)なのである。語から みれば、基本単位ではなく くみたてられ性が あるし、文から みれば、現実との関係 = 陳述性は もたない くみたて的な 材料(語句)でしか ない。基本単位ではないが、語と 文との 中間の 単位であって、どちらかといえば くみたて性は あっても なづけ的な意味(非陳述的な意味 材料性)を あらわす 点で、語と おなじ 「言語の単位」と かんがえている(奥田靖雄「言語の単位としての連語」)。動詞の 結合価 valency の 問題ではなく、連語の型が paradigmatic な 体系を なしている ことに、連語が 単位として 存在する 根拠を みいだしている。「独自の 体系性」が だいじな ことであり、「単位」は ともかく、連語が 独自の 体系性を もつ「パタン・タイプ化できる 形式」である ことは まちがいない。
 ところで、類似・連想的な 関連づけの メタファーと、結合・構成的な 関連づけの 連語とは、すくなくとも 「外的な形式(音声形式)」(フンボルト)ではないし、どちらも 「内的な形式」の 基本例と かんがえるらしい A. マルティは よく かんがえてみたい のであるが、小林智賀平『マルティの言語学』や 中島文雄『意味論』の 解説が わたしには えらく 難解で ………。文法システムとしての 連語論だけではなく、「文体」としての 連語表現法も 必要なのか。ヴィノグラードフは、視野も ひろく 洞察も ふかいが、つながり 展開が 難解では ない。【この項 2017/10/15 補】


を格の 連語 一覧 (奥田靖雄 1968-72「を格の名詞と動詞とのくみあわせ」)

 T 対象的なむすびつき
  第1章 対象へのはたらきかけ
   第1節 物に対するはたらきかけ
    aもようがえ  [具体名詞]を([結果状態]ニ/ク )[もようがえ動詞]
             肌を      黒く       やく  
             ノートを    まっくろに    よごす
    bとりつけ   [具体名詞]を [具体名詞]に  [とりつけ動詞]
             名札を     胸に       つける
             げたを    <足に>      はく
    cとりはずし  [具体名詞]カラ/ノ[具体名詞]を  [とりはずし動詞]
             首から/の   包帯を      はずす
            <頭から/の>  髪を       刈る
    dうつしかえ  [場所]カラ[場所]ニ/マデ[具体]ヲ  [うつしかえ動詞]
             現場から 品川沖に 死体を    移す
                 窓のそばに ポスターを  運ぶ
                cf. 窓 に  ポスターを  はる
    eふれあい  ([具体名詞]で)[具体名詞]を  [ふれあい動詞]
             手で      頬を       さする
             針で      顔を       さす
           cf. 針を      顔に       さす (b)
            (ほうきで)   床を       はく (e? a?)
            (床の/カラ)   ゴミを      はく (c)
    f結果的   ([具体名詞]デ/カラ) [具体名詞]を [生産性動詞]
             紙で      飛行機を     おる(つくる)
             米から/で   酒を       つくる
           ([場所名詞]に)[具体名詞]を  [出現性動詞]
             山に      坑道を      ほる

   第2節 人に対するはたらきかけ
    a生理的な状態変化  [人名詞]を [生理的状態変化の自動詞使役形]
                友達を    笑わせる
                子どもを   死なせる
             cf.  子どもを   殺す  (1a もようがえ)
               眠っている子を おこす (=おきさせる)
             cf.  ころんだ子を おこす (1a もようがえ)
    b空間的な位置変化  [人]を [場所]に/マデ[移動他動詞(自動使役)]
                こどもを   学校へ    行かせる
                女房を    くにに    かえす
               [場所]から [人]を
                いなかから  人を     よこす
    c心理的な状態変化  [人名詞」を [心理状態の自動詞使役形]
                書生さんを  うらやましがらせる
                 女を    なかせる
              cf. こどもを   なかせる(a 生理的)
                かれを    きずつける
              cf.  木を    きずつける(1a もようがえ)
    d社会的な状態変化  [人名詞]を ([結果状態]ニ) [自動詞使役─他動]
                社員を          やめさせる
                学生を   家庭教師に  やとう
    eよびかけ      [人名詞]を [よびかけ動詞]
                人を    うながす─せきたてる─そそのかす
                花子を     おしえる
              cf. 花子に 英語を おしえる(3-2 通達)

   第3節 事に対するはたらきかけ
    a変化    (〜の)[動き状態]を [変化動詞]
            船の  ゆれを     しずめる 
         cf.  船を          沈める(1a)
           世界の  平和を     みだす
         cf.  髪を          みだす(1a)
    b出現    (〜に)[動き─状態]を [出現動詞]
                 いい家庭を   つくる cf. 家をつくる(1e)
            国民に  混乱を     ひきおこす

  第2章 所有のむすびつき
    aやりもらい [人]に/から[所有物]を[やりもらい動詞]
            友達に    ノートを  かす─あげる─うる
            友達から/に ノートを  かりる─もらう─かう
    bものもち  [ありか]に [所有物]を[ものもち動詞]
           (銀行に)   金を    ためる
            いなかに   土地を   もっている

  第3章 心理的なかかわり
   第1節 認識
    a感性的   [具体─現象]を  [感覚動詞](見る─聞く─嗅ぐ─味わう)
    b知的    [抽象─コト]を  [思考動詞](思う─考える)
            彼の意地悪さを         見抜く─理解する
    c発見    [ありか]に [具体─抽象]を [発見動詞]
            自然のなかに  調和美を    みつける(みいだす)
            手紙のなかに  彼の本心を   よみとる(よむ)

   第2節 通達  ([人]に/から)[抽象─コト]を[言語活動動詞]
                    外国のことを  はなす
             あの人に   身の上話を   うちあける
             友達に/から 学校のようすを きく
                  cf. 学校について (後置詞)

   第3節 態度
    a感情的な態度 〜を [感情─評価動詞](にくむ─きらう─たのしむ)
    b知的な態度  〜を [内容と/ニ/ノヨウニ ][思考─判断動詞]
            夫を  生活の道具と   みなす
            雲を   煙に      まちがえる
    c表現的な態度 〜を ([内容]と)[態度表現動詞](ほめる─けなす)
            娘の  非常識を     しかる
            娘を  非常識だと    しかる

   第4節 モーダルな態度
    a要求的 ([人]に)[動作]を[要求─願望─禁止etc.]
            父に  許しを  こう
            彼に  出席を  うながす
    b意志的   [動作]を [意図─決心─約束etc.]
            自殺を   くわだてる
            結婚を   ちかう

   第5節 内容規定 [心理活動の内容]を [心理活動動詞]
    a体験  疲れを 感じる   みじめさを 味わう   反感を 覚える
    b思考  策略を 考える  真偽を 確かめる
    c通達  人に 冗談を 言う   客に 口上を 述べる


 U 状況的なむすびつき    
    a空間的     [動詞は、移動動作をしめす自動詞]
     イ うつりうごき:廊下を 走る   通りを 行く   お釈迦様の手のなかを 飛ぶ
     ロ とおりぬけ :峠を 越す   薮を 抜ける   道を 横切る     [対象性あり]
     ハ はなれ   :岸を 離れる   横浜を でる   故郷を 去る
    b状況的     :雨のなかを 故郷を 去る(道を急ぐ)
    c時間的     :夏休みを 軽井沢で 暮らす
    d時間−量的   :大阪までの一時間余りを 窓ぎわに 立ちつくしていた
    e空間−量的   :わずかな距離を 歩いた


★具体から抽象への派生関係★                         【<心理>より みぎは 2014/05/30 補】

  <モノ>    <ヒト>     <コト>  <所有>     <心理>   (対物/対人関係)   (モダリティ)

 もようがえ───生理─心理─社会───変化        ……┐
 ふれあい ───よびかけ                 ……┴…認  識………(対物的な)態度 ⇒ 認識的な モダリティ
 結   果           ───出現   ものもち …………内容規定    (引 用 句)  ⇒ (引用 話法の 複文)
 とりつけ(ありか─相手)      ……┐        …………(発 見)    (側面/観点)  ⇒ (存在 現象出現 文)
 とりはずし             ……┼…… やりもらい…………通  達………モーダルな態度 ⇒ 行為的な モダリティ
 うつしかえ───空間的       ……┘



▼これは、注釈の 必要は ないであろう。ただ、「モノの を格」を 基底にして、ヨコと タテに 文字どおり 立体的に 構造化されている、という ことは 強調しておいてもいい かもしれない。


テンス・アスペクトの概要   【もと「日本語の文の時間表現」の 改訂増補版 執筆用メモ】

1)時間表現の 分化:叙述文・疑問文 という モダリティにおいて 典型的に 分化する。
1-1) テンスやアスペクトの表現は、客観的な現実界の個別・具体的な出来事を表わす文
  (物語り文)で、典型的に分化する。したがって、形式的には、<動詞文> つまり、
       [モノゴト ドウする/している/した/していた]が 基本構造。
    きのう 田中さんが 山に登った/っていた。
    きょう 鈴木さんが 山に登っている。
    あした 佐藤さんが 山に登る。

1-2) ものごとの一般・抽象的な特性(種類や性質)を述べる文(品定め文)は、時間的限定
  を受けていない、いわゆる「超時・恒時」の表現である。形式的には、
   [モノゴト]   [ナニ(名詞)・ドンナ(形容詞)だ]が 基本的構造。
    くじらは      哺乳動物である。   <名 詞文>
    ぞ うは      鼻が 長い。     <形容詞文>

1-3) 動詞文も、出来事の 具体性・個別性が、抽象化・一般化されれば、超時となる。
     100度で ふっとうする(ものだ)。 超時 品定め文
    cf. お湯 台所で ふっとうしている。   現在 物語り文

    酒は米から作り、ビールは麦から作ります。
    あの子は、感心によく働きます。(=働き者です)

1-4) 名詞文・形容詞文も「一時的な状態」を表わすものは テンスを もつ。過去形は、
  状態=存在動詞「ある」の助けをかりて(なかば「動詞文」化して)作られる。
    その日は 暗い夜だった(でアッタ)。 寒かった(くアッタ)。
    かれは、まだ 小学生だった/だ

     白くて 冷たい <ものだ>。  超時(の モノの 性質の) 品定め文
     白くて まぶしい<ことだ>。  現在(の コトの 知覚の) 物語り文


2)時間表現の諸形式 (手順別の 一覧)

  1) スルとシタ(接辞「−た」の ありなし)
    書く ── 書いた     ある ── あった
  2) 補助動詞
    書く ── 書いている / 書いてある  書いてしまう  書いておく
                 晴れてくる  ふえていく
  3) 複合動詞
    書きはじめる  書き出す  書きかける  書きつづける  書きおわる
  4) 組み立て形式
    消えつつある  着いたばかりだ  沈もうとしている


3)テンス・アスペクトの 基本的な組織【とき(時間性 temporality)の 基本システム】

<基本形式図>│ 非 過 去 │ 過   去   <アスペクトの 機能>
   ────┼───────┼────────
    単純 │ 読   む │ 読 ん だ   <点 ・> 出来事の <連なり>
    継続 │ 読んでいる │ 読んでいた   <線 〜> 出来事の <出会い>


<詳細用法図>   │ 非  過  去  │   過     去
          │未来│ 現在  (完 了) 過去  │(前過去)
   ───────┼──┼───────┼───────┼───────
    単純    │読む│ある・いる  │  読んだ  │
    継続(動作)│ 読│んでいる   │    読んで│いた
      (変化)│  │  疲れている≒疲れた (既に)│死んでいた


4)テンス・アスペクト対立に もとづく 動詞の 分類【金田一(奥田改編1977)的段階】

 a)状態動詞:アスペクトの対立が なく、形容詞に準じた性格を もつ
    テンス(する−した)は、<現在−過去>の対立 [スルは 超時(脱時間)も多い]
    アスペクト(する−している)の対立がない。実質は 形容詞。
  @ ス  ル形のみ:ある いる (いらっしゃる)  *未来にも用いる
            熱すぎる 長すぎる / 危険きわまる 卑劣きわまる
  A シテイル形のみ:そびえている すぐれている 似ている ずば抜けている
     [「単なる状態のシテイル」とも言われる。連体形はシタの形]

  a')=aとbの中間物(融合性〜両面性) 「動作=状態動詞」とも いう
    融合性:スル−シテイルの対立が「中和」(見せかけの対立)
     存在する(している) 実在する(している)/(特徴を)持つ(っている)
     異なる(なっている) 違う(っている) 相当する(している)
    両面性:スルが 現在(超時)も 未来も 表わし、また、シテイルも ある。
     わかる  見える  聞こえる / (薬が)効く

 b)運動動詞[動作動詞とも] :テンスは、基本的に<未来−過去>の対立
  イ)動作動詞[継続動詞とも]:シテイル形の基本的な意味が<動作作用の継続>
   @主体の動き・動作を あらわす 自動詞
     歩く 走る 泣く 働く        流れる 動く 回る 燃える   ┐
   A対象に変化を もたらさない 他動詞                    |
     叩く 蹴る 読む / 食べる     流す 動かす 回す 燃やす   ┘
   B対象に変化を もたらす 他動詞
     作る 塗る 結ぶ / 積む      開ける 切る 壊す 乾かす   ┐
  ロ)変化動詞[瞬間動詞とも 結果動詞とも いう]:シテイル形が<結果の継続> |
    主体の変化を あらわす 自動詞                      |
     死ぬ 結婚する / 行く 来る    開く 切れる 壊れる 乾く   ┘

 ※二側面動詞(動作と 変化の どちらも あらわすもの)
  @移動(位置変化)・状態変化動詞 [=変化過程動詞]
      (結果としての変化面ももち、その変化過程=動作・作用面にも着目するもの)
    上がる 登る 降りる 近づく 渡る 進む 転がる
    増える 減る 溶ける 焼ける 煮える
    坂を登っている   階段を降りている   雪がぽたぽた溶けている
    上に登っている   階下に降りている   雪がほとんど溶けている
  A再帰的他動詞(主体の動作の結果、対象が主体に着脱して主体が変化する)
    着る はく かぶる 脱ぐ 着替える (髪を)結う (ひげを)剃る


5)アスペクトにもとづく 動詞分類 体系図式【奥田(1988)的段階】

    │    目標あり(telic)   (ゆらぎ)  目標なし(atelic)     │
────┼────────────────┼────────────────┼────
ヒ ト │ A=【イB】行為(改変・変更) │ B=【イA】動作(起動・始動) │めあて
意 志 │   切る 付ける 取る   (焼│く)   回す 燃やす (光らす) │他 動
────┼────────────────┼────────────────┼────
モ ノ │ C=【ロ】 変化(転化・変異) │ D=【イ@】現象(発生・偶発) │おのれ
無意志 │   切れる 付く 取れる  (焼ける)   回る 燃える (光る)  │自 動
────┴────────────────┴────────────────┴────
★【 】内は、うえの 4b)運動動詞の分類(工藤1982「シテイル記述」)との 対応。

    #「している」の意味:行為・動作・現象 ⇒ 動きの持続(継続)
               変化       ⇒ 結果の存続(継続)
    #奥田の「動作」は、基本・中核としての 「行為」のことではないか。
     全体を包括する「一般化」が 必要なら、「動き」が いいのではないか?


<5') 動詞分布図> ―― 星雲〜山脈〜氷山 状に 「中心と周辺」の 大局的な 配置

        限界(終了)あり     │      限界(終了)なし
――――――――――――――――――――┼―――――――――――――――――――――
ヒ意   A 行為(改変・変更)      │    B 動作(起動・始動)      他め
       切る 付ける 取る    │      回す 燃やす
                    │                    あ
     A’摂取・再帰行為  (「知覚 感情」)  B’接触・交流動作[を〜に〜と]
       くう 着る もつ  みる きく おもう   さわる 突く あう    動て
               ………………………………………………………………………
     C’位置・姿勢変化  (「活動 職務」)  D’移動・行動様態      自お
ト志     ゆく すわる   かよう つとめる    あるく あそぶ
…………………………………………………………………                の
モ無   C 変化(転化・変異)      │    D 現象(発生・偶発)
 意     切れる 付く 取れる   │      回る 燃える
ノ志      腐る (太る)      │       光る (泣く)      動れ
――――――――――――――――――――┴―――――――――――――――――――――
■A’〜D’の ダッシュつきの 動詞の、分布位置と 意味種類とに 注意されたい。

▼中央に カッコに いれて 注記した「知覚 感情」と「活動 職務」とは、いままで 話題になった 特徴的な グループを いれたまで。一般・抽象性の点で 他と ことなっており、同一平面に ならべるべき ものではないが、左右の項に 関係する 位置に 便宜的に 挿入した。できれば、立体的に 垂直方向(凸凹)の 位置に イメージ(模式化)してみてほしい。(この 5小節は、2017/10/27に 表を みやすく 微調整)


6)シテイル形の 意味 (多義の 構造)

    ミクロ(微視的)な 視点     │    マクロ(巨視的)な 視点
  A)基本的な意味 主語「が/は」 ─┼→ B)派生的な意味 主題「は」
   個別・具体的な出来事 描写的  │   一般・抽象的な状況や事情 説明的
   動詞の種類によって、多義    │   動作動詞・変化動詞の区別なく使われる
───────────────────┼──────────────────────
  1)動作動詞:動き・動作の継続 ─┼→ 3)習慣〜習性(スルとの対立が 変容)
     走っている 書いている   │    毎日 走っている ふだん 閉まっている
───────────────────┼──────────────────────
  2)変化動詞:結果・痕跡の継続 ─┼→ 4)完了〜履歴(シタとの対立が 変容)
     閉まっている 死んでいる  │    もう 死んでいる 十年前に 書いている


7)シテイル形の 基本的な意味の 相互移行
7-1) 動作動詞のシテイル形が結果の継続になる場合
 1)分類のB「主体の動作と対象の変化」を表わす動詞は、
  基本的に、主語が意志的動作主(人間)で<動作の継続>を表わす。
    お父さんが雨戸を閉めていた。
    トラックの運転手が荷物を積んでいる。
  しかし、人間の意志が直接問題にならない場合、<対象の変化結果>を表わす。
    きのう行ったら、あの家は雨戸を閉めていましたよ。
    そのトラックは、たくさん荷物を積んでいた。
    雑草が大きく繁った薮を作っていた。

 2)@に属す<伝達動詞>も、動作より情報に重点がある場合、結果的になる。
    この手紙の中で、田中さんは私を妖婦だと書いているわ。
    あの日は大変な人出で百十万人とか、新聞が書いていましたね。
                   cf. 新聞に書いてありました
    「どこのビルだろう」「有楽町にあるビルと聞いていますけど」

 3)数量を表わす修飾語がついた場合
    この足の豆の様子では、十里くらい歩いているよ。
    伸子は、その人の作品はほとんど全部読んでいた。
    この蚊は、こんなに血を吸っている。

7-2) 変化動詞のシテイル形が動作(動き)の継続になる場合
 1)動きや変化の様子を表わす修飾語(副詞)がついた場合
    紀子の新しい家が着々と出来上がっている。
    この町も刻々と変わっているんだな。
    ドアがギーギー音をたててゆっくり閉まっている。
 2)動作や移動の行われる場所を表わすデ格やヲ格がある場合
    山の上で雨にぬれていたのですか。
    庭でさくらが散っている。    cf. 庭に
    この雨の中をあの人が帰っているのかと思うと、  →帰っていく


8)シタ形の連体用法:従属節の 用法
 1 絶対的テンス(発話時<以前>):きのう来た人は、田中さんです。
 2 相対的テンス(主文時<以前>):田中君が来た後(*前)に、鈴木さんが来た。
 3 アスペクト (<完了>の局面):大阪に来た時に、佐藤さんに出会った。
 4 単なる状態  (「連体詞」化):曲(りくね)った道 とがった鉛筆 違った(≒違う)色


9)シタ形の特殊用法:非叙述文・非記述文における ムード的用法
 1 差し迫った要求(命令・決定):さあ、行った、行った!   買った!
 2 予期・期待の実現(発見):あ、こんなところに、いた(落ちていた)。
 3 忘れていたことの想起:明日は 試験だった(があった/を受けるんだった)。
 4 ていねいな確認:たしかお酒は、お好きでした(お飲みになるんでした)ね。
 5 反事実的な過去:そうと知っていたら、行かなかった(のに)。


10)スル形の特殊用法:非叙述文・非記述文における ムード的用法
 1  すまん、すまん、あやまるよ。  この件は、せっかくだが、断る。 <態度>
 2  僕は、このように考えます。   この点は、彼の方が正しいと思う。<判断>
 3  そんなこと、急に言われても困る。あの子にも、弱るなあ。  <感情的評価>
      cf. 困った(なあ)  弱った(なあ)  まいったよ
 4  ああ、手がしびれる。      ああ、ムズムズする。      <感覚>
      cf. つかれた  はらがへった  のどがかわいた
 5  どこからか楽しそうな歌声がする。この魚は変な味がする。     <知覚>
など、話し手の場合に限って、スル形が現在を表わす特例は、<感情・感覚表出>という
独特のモダリティによる、テンスの変容と言っていいだろう。

 6  (君は)そんなひどいことを、よく言うね。 聞き捨てならないことを言うなあ。
    ほら、また、犬みたいな真似をする。/ ああ、いい風が来るね。
などが、(一人称主語でないのに)現在を表わすのは、話し手の<評価性>のためか、
あるいは、次の例と同じく<眼前描写>という現場性のためだろう。
 7  ああ、沖を船が行く。      あっ、お嫁さんが通る。
    あっ、ランナーが走った! 走る、走る! 速い! すべりこんでセーフ!


▼以上も、学生への 説明の ための メモである。(最終訂補は 2010/01/18 最終授業 準備時。その後も 字句修正は あり)
 5)アスペクトにもとづく 動詞分類 体系図式【奥田的段階】 5') その 詳細分布図と、6)シテイル形の 意味 (多義の 構造) あたりに、あるいは 検討に あたいする ものが あれば うれしいのだが、どうだろうか。
 奥田 靖雄 氏の 研究が なければ、わたしが 動詞の 語彙的な 意味や 動詞述語の テンス・アスペクトを まじめに とりあげる ことは なかっただろうし、それが 密接に 文の モダリティと からみあってくる ことに 気づく ことも なかった かもしれない。


■ながれ drift

 ことばが かわりやすい ことは だれでも しっている。としよりが わかものの ことばづかいを なげくのは 日常茶飯事だと いってもいい くらいである。みなもでは ちいさな みだれやら ゆれやらを くりかえし、はやせとか よどみとかを とおりすぎながら、みなぞこには ひとりの ちからでは どうにも ならない けれど、しらず しらずの うちに、ある 一定の 方向に おしとどめがたく うごいていく いきおいが ひそんでいる。日本語では 古代から 近代にかけて、<連用的な 格関係>が ふるくは「に・と」という 明示的には ふたつしか なかった ものが、いまでは「が・を・に・と・へ・で(<にて)/から・まで …… 」といった ように ふえてきている。ふるくは 連体の ほうが「が・の・な・つ・*た(<くだもの けだもの)」の ように おおかったと 推定される ことは、歴史的に 興味ぶかい。連体優位から 連用優位へ という ながれも 実証の かぎりでは ないが 臆測できる からである。また 連用優位の 時代に かぎっても、うえの ような いわば「語格」関係の ものばかりでなく、いわば「句格」関係とも いいうる「接続(助)詞」による 複文関係の 発達や、さらには「文格」関係とも いいうる「接続副詞」による 連文関係の 発達も 視野には はいってきて、一般に「関係表現の (論理的な) 明示化」という ながれを 指摘する ことも できる かもしれない。
 こうした 個人では どうにも ならない ながれの ことを、アメリカの 文化人類学者・言語学者である E. Sapir は、"drift(漂流・ながされ)"という 日常語で よんだ。「漂流」が おこるのは 個人では どうにも かえられない 一定の ながれが うみの 潮流に あるからである。つまり この ことばは 一定の 自然現象を 人間の たちばから いった ことばなのである。「駆流」(泉井久之助)とか 「偏流」(安藤貞雄)とか いった 苦心の 迷訳も ひろまっている ようだが、うえの ような 日常語による、雄大な 自然と ちっぽけな 人間との 対比という、軽妙洒脱な 命名法が わかっていない ばかりか、人間言語の 本質的な 特性が 「語」と「文」との ふたつの 単位を もつ ことに ある ことも よく わからずに、語レベルの 単位に だいじな 意味特徴を すこしでも おおく とりこもうと して、「チンプン漢語」(亀井孝)の 学者ジャルゴンに おちいってしまった 好例と いうべきなのかもしれない。
 "drift" には、漢語で「(風成)海流」という 意味も 専門用語として ある ようであり、より 一般的には 和語で「ながれ」と 訳す ほうが ふさわしい かもしれない。わたしも、いろいろ 遍歴を かさねてきたが、最終的には これを とりたい と おもう。この 表現に 独自な、付加・表情的な 意味や ふくみ ―― ねづよい/無意識な/方向づけられた/底流の etc. ―― は、文の レベルで 修飾語で あらわしわけるべきであろう。サピア原文も おおむね そうしている ように みえる。文脈・文構造に 意味の 識別を まかせたり たよったり しようとしない、いわば 孤立無援の <同音語・多義語(ambiguity) 拒食症> <漢字(ideography) 過食症>とでも いうべき インテリの 内向的な 性向も、ねは おなじ 摂取障害と いうべきであろう。ここで、翻訳における「等量の移植」(小林英夫)という 理想/幻想/妄想の ひきおこした、翻訳文化の ひかり(栄光)と かげ(悲惨)とを おもいおこしておく ことも 意味が あるかもしれない。"genius" と あれば、いつでも どこでも「精神」という「等量の移植」を しないと 気がすまない、という 律義に 硬化した「頭脳」の もちぬしには、諸言語に 種々の 様相を もった「分節」が あるという ことの 本質的な 重要性が いまひとつ よく わかっていないのである。「論語よみの 論語しらず」とは こういう てあいを いうのだろう。
 ところで 河野六郎は、『言語学大辞典6 術語編』の 序文で ひとこと ことわった うえで、音訳「ドリフト」を 採用し、「駆流」「偏流」は、どちらも 紹介は するが、みだし項目としては 採用しない。辞典としては 異例であろう。解説の なかみは よみごたえが ある。その 批判的紹介の 簡潔な 記述に 河野歴史言語学の エッセンス という けわいも ただよう。<学問の 芸術的な 散文>の 一例として ひとに すすめたい。「サピアの 言語学」も 秀逸。推敲の しかたを しのばせる 痕跡を とどめた 逸品。

 「竹馬の とも」亀井孝の、やや 饒舌ぎみの「かたり」文体と 好対照で、むだの ない「はなし」文体と いえる。
 ウェブ上の 全文データベース版は 便利な ものだが、河野の 貴重な 補筆部分は 無視される。機械的な 検索、つまり 情報を かきあつめる という ことは、本来 こまぎれな 段落単位の ものなのかもしれない。現行の 全文範囲 段落単位 検索の ほか、簡単な みだし項目 全文 検索を 用意できない ものかなぁ。著作権侵害にでも なるのかしら。
 ともあれ、より 体系的に「学問を しる」ことを のぞむ ひとは、図書館ででも 書籍版を よんでいただきたい。


■-素 -eme と かた pattern

 「意義素だかァ 味の素だかァ しらねぇが ………」と、服部四郎 門下生の まえで こう たんかを きって 「意味の はなし」を はじめられた 亀井孝という 大先生の 講義に 接してから もう 40年ほどが たつ。たしか 修士の 大学院生の ときだったかと おもう。アルバイトで 高校の 非常勤講師を つとめていた、その 授業の 曜日と 先生の 講義の 曜日とが かさなってしまっていた ため、大半は きけなかったのだが、来週から 意味の はなしに はいりそうだと 毎週 でていた 学生から ききつけて、高校には わるいが 急病になった ことにして、その 講義を ききに かけつけたのだった。いいそうな ことは おおよそ 見当は ついていたが、ちょくせつ はなしが ききたかった。ひごろ 服部四郎の 「メンタル」な 機械主義 ―― 機械的な ご都合主義、有坂音韻論が「目的・観念」を 論じたから というだけで メンタリズムと (当時は) かたづけた つもりに なっていた 操作主義 ―― への 反発から、亀井孝や 泉井久之助の 系統の ものを よみあさっていた 時期だった。
 そんな むかしばなしは ともかく、音素 形態素(記号素) 意義素 語彙素 と、現代の 日本語学でも 「-素」という 用語は、「色素」「栄養素」を はじめと して、庶民の「要素・元素」愛好=ルーツ探求 趣味にも あっていて、「構造重視」を うたう 時代の 現代に なっても、基本的な 用語として 流通している ようである。「構造重視」であっても その「要素」を 重視したって もちろん けっこうだが、「語」は あいまいだから 最小の「形態素(記号素)」を もとめる という「精密化」の いきつく 20世紀的な「精神」(= 虚構の 心理 > かってな 解釈)において、「意味」は 文脈的な ふくみ ふくらみが おおく あつかいが やっかいだから、情意を 排し 知的に 操作しやすい「意義素」を 抽象的に もとめる という「技法化」の いきついた ところが、「-素」を もとめる 心理であったのであろう。これが ブルームフィールドに 愛用された 用語法である ことは よく しられた ことだろう。
 だが この ブルームフィールドと ほぼ 同時期に 活躍した E. サピア という 学者が、「かた pattern」という 用語を 「音型 sound pattern」「形式的な かた formal pattern」といった くみあわせで よく 問題にしていた ことは、現在 ほとんど わすれさられている ように みえる。要素を「おと sound」とか「音声(の) phone(tic)」とか いった 常識的な 語で よんでおいて、そうした 要素の ほうより その 結合体 構造体としての「かた pattern」の ほうを 重視する という、この 構造的で ゲシュタルト(Gestalt)的な かんがえかたが 言語学 日本語学に ねづかなかった ように みえるのは どうした わけなのであろうか。日本語学にたいする 佐久間鼎の 影響力は、アクセント構造と 文法構造との 表面を かいなでに しただけの ものだったのだろうか。

 「アクセントの 式と型」という 佐久間鼎流の 図式・類型化と、「アクセント素と アクセント核」という 服部四郎流の 要素・還元化とは、いま はたして どちらの ほうが 学界において 優勢 有力に なっているのであろうか。
 文法の 分野では 意味と かかわって、橋本進吉や 時枝誠記の ような 形式主義者でさえ 文の「かた・くみたて」という ことを いわざるを えなかったが、そのために かえって、いものの「いがた」や たてものの「くみたて」の ような 物的な「ワンパターン」な ものとの 類推に 安住してしまい、専門用語としての 本質の 究明が おくれている。
 服部四郎の 敬愛していた R. ヤコブソンの、二項対立理論という 究極分解主義が 通用する 人工知能の 配線図と、「心理的な リアリティ」(psychological reality. これも サピアの 用語)の いきて はたらく 人間活動の 生活界とが きりむすばない 不幸。それを 不幸とも おもわない 人間機械論の 甘美な 桃源郷に、ずいぶん ながい あいだ あそんでいた ものだと おもう。
 素粒子の 世界で いかに ちいさな 単位の 新発見が あろうとも、それだけで 人間の 生活の なかで 物質の 分子構造を 問題にする 化学が 無用になる わけではない という しごく あたりまえな ことが、言語学 日本語学には いまだに 通用しないらしい。科学崇拝の 傾向の つよい はずの 学問が なんとも レベルが ひくい というか、レベルの ちがいの 問題が まるで わかっちゃいない という 感じである。人間に リアリティを もつのは ことばの 「音韻(音素)」か 「音韻特徴(素性)」か、ちいさけりゃ いい って もんでも あるまいに。言語学を 数学的に 精密化する という ことは、言語が いきて はたらいている 人間の 世界の リアリティや パターンを 無視していい という ことには ならないと おもうがな。サピアの ばあい、無内容な なづけ(「サピア・ウォーフの仮説」)ばかり ことごとしく、基本的な 精神(かんがえかた 方法)や 姿勢(みがまえかた 手法)が まっとうに うけつがれている とは とうてい おもえないのだ。日本の 出版界には、心理学者 キャロルを とおして ウォーフと ひとしなみにしか サピアを 理解できておらず、自分で ことばの 研究など した ことが ない (らしい) 三流評論家が はいて すてる ほどに おおい。
 うきよの なりわいの ことは さておく としても、サピアの 基本的な 論文の 黒川新一 訳注(1958年 大修館 英語教育シリーズ 11) など 学術的な ものは、当時の 学界の 混乱、というか 評価の 倒錯ぶりを いたいほど よく うつしだしている。「音素は音声と特別に区別され」ていない ことを 訳注(10)で わざわざ 弁明していて、サピアは 用語は 未分化だが かんがえかたは まちがっていない と いいたげなのである。機械的な「分布主義」の ほうが 「科学的に」すぐれている という アメリカ直輸入の モードが ファッションに なっていたのだろう。ところで、その "distribution" という アメリカ構造言語学の 中核的な 技法用語(術語)を、かつて 別の 分野で おなじ 語を 19世紀 植物(地理)学の 比喩として 「[方言]分布」と していたのに ひきずられて、ほんとは 20世紀 電気工学の 比喩として 「[構文]配置/配列」と すべき ところなのに、ばかの ひとつおぼえ(用語の「統一」?!)の ように、ふるい「分布」という 訳語を 意味も かんがえずに 惰性で 採用した あげく、「構造主義言語学の基本概念」と 意味も わからずに 直訳する ことだけは わすれない 律義ぶりを 発揮しながら、その一方で、サピアの 用語には「明確な定義も見当らない」と 律義に 不平を ならす ……… "A(c)"の 輸入学問とは こんな「ピーマン」みたいな ものなのであろうか。戦後の 一時期を 風靡した「アメリカ記述主義」の 流行は、いま いったい なにを 学問上の 遺産として のこしてくれて いるのだろうか。「二重分節」にかかわる 「-素」という 要素主義的「構造主義」の 単位だけ というのでは、あまりに さびしくは ないか。

 語学力を いかして 理論の 紹介や 検討ばかり していて、研究として「対象への沈潜」も「ことばとの挌闘」も しないのが、戦後の 一時期、おしゃれな「文化人」の みすぎ-よすぎ という ものだったのだろう。(悪魔 改訳『迷解 英語音韻論 笑辞典』)


    あおい おそらの そこふかく、
    うみの こいしの そのように、
    よるが くるまで しずんでる、
    ひるの おほしは めにみえぬ。
      みえぬ けれども あるんだよ、
      みえぬ ものでも あるんだよ。
    ちって すがれた たんぽぽの、
    かわらの すきに だァまって、
    はるの くるまで かくれてる、
    つよい そのねは めにみえぬ。
      みえぬ けれども あるんだよ、
      みえぬ ものでも あるんだよ。

                        「ほし と たんぽぽ」金子みすゞ(1903-30)


■ Geist / genius / ことだま

 "Geist"は フンボルトの、 "genius"は サピアの、「ことだま」は なりあきら(冨士谷成章)の、それぞれ 愛用した ことばである。「等量の移植」を こころみるべきでは ないけれども、おのおのが ことばの たいせつな はたらきを しめす ことばとして だいじに あつかっていた ことは、ことあげ しておいても ゆるされるだろう と おもう。これらの だいじな はたらきを、なんのかのと 御託を ならべても、けっきょく「体系の剰余(residue)」という 消極的で 定量的な 概念でしか うけつげなかったのが、20世紀後半の 代表的な 知性の うちの 上質な ほうだった とすれば、積極的だが 定量化は できない「古典的な 精神」の 重要性を 多少 強調しておいても、たいした 時代錯誤には ならないだろう。
 なお、これらの ことばが いわゆる 専門用語だと いうのではない。基本的である と同時に 日常語である ことが 肝腎なのである。ある いみで 幾何学の「公理」の ように 定義の 不要・不能な ところが ある。サピア原本の 索引にも ないのである。ここの 理会・体得が できているか どうかは、したがって 翻訳として より 深刻である。翻訳技能の 問題などでは ないのである。
 ところで、江戸期国学の『あゆひ抄』「おほむね」の、

なを もて ものを ことわり、よそひを もて ことを さだめ、かざし・あゆひを もて ことばを たすく。この 四の くらゐは はじめ ひとつの ことだまなり。 …… あめつちの ことだまは ことわりを もちて しづかに たてり。その はじめは なにも あらず、かざし よそひ あゆひにも あらず。 …… たがひに ことわり かよはず といふ こと なし。
という ことばも、翻訳ではないが、むすこ 御杖の いろめがねを とおして 理解すべきでは ない。一般に、成章の 学説は、現代の たちばからは (よんでいなくても) ゆるしがたい 冨士谷御杖の「ことだま」説を とおして 理解される ことが おおく、正当に うけつがれている とは いえない ように おもう。平田篤胤 ほどでは ないが、タブー視されていると いっても いい。だが、
よそひに「いぬ」と いひ、あゆひに「ぬ」と いふ、まさに ふたつならんや。ありなに「あり」と いひ、あゆひに「あり」と いふ、もと ただ ひとつなれど、かく わかれて のちは、「いにね」とも「あるならむ」とも かさねよみて、こころを たすくる ことに なれるは、 ひとの ひとを おひて ゆくらんが ごとし。
という ことわり(理り<事割り)の 透徹した 認識は、山田孝雄の「存在詞」という 混濁した 便法より はるかに まさっている。「いぬ」の 語頭音の 省略/脱落が「ぬ」だ という、大野晋の 音韻(縮約)論より 禁欲的に よほど すぐれている。
 フンボルト・サピアについては、泉井久之助の 精力的な 解説・翻訳で かなり 知識が 普及している とは おもうが、その 知識の 泉井的な ゆがみ(近代科学主義)を ただしておかなければならない。服部四郎と 泉井久之助とは、一見 対立する ように みえて、つまる ところ「おなじ あなの むじな」であった ような 気も する。「沈黙は 金」という ことを ほんとうに 理会していた ひとたちは、いったい どういう かたちで しごとを のこしてくれているのだろう。20世紀後半の バブル現象も、経済だけの 問題に おわった はずは なく、まさに 上部構造(文化 culture 耕作地)も、バブルだったのだろう。あぶくも きえ、ながれと よどみが はっきりしてきて、歴史的に 判定が くだせる ように なるまでには、もうすこし 時間が 必要である のかもしれない。
 フンボルトについては、わたしは えらそうな ことは いえない。『言語と精神』の 訳者 亀山健吉が 哲学者であって、言語学には よくも わるくも 毒されていない ために、原文を わきに おいて じっくり よめるのなら、あるいは たすかる かもしれない。どちらにしても、泉井的な いろメガネを はずして、一から よみなおした ほうがいい ことだけは 直感〜直観している。
 サピアについては、市販の 訳本だけで 3種も あるが、木坂 千秋 訳・新村 出 序(監訳)の 最初の 訳(刀江書院版)が この「古典的な 精神」の 理解には いちばん いい ように おもう。大学の 演習で 「親愛書」として なが年 よみつづけた 新村出には 「古典的な 精神」が まだ いきていたのだろう。木坂千秋も、よき 薫陶を うけ、よく それに こたえている ように みえる。
 ひがしの 服部四郎・時枝誠記、にしの 泉井久之助・遠藤嘉基ら 以降の ひとたちは、「古典的な 精神」が もはや 理解できなく なっていたのだろう。基本的に「アプレ」である。わたしは、この ひとたちに 言語学・国語学の 基礎を しこまれたのだ。
 フンボルト・サピア・なりあきら については、あらためて 本格的に 論じなければならず、この ノートは、その 序説の まえがきの はしがき でしか ないが、ひとまず かきちらしておく ことを おおめに みてほしい。ほねの 髄まで しみついているのだ。
感傷に ながれていた。よけいな 部分は けずったが、「本格的に 論じる」気力は、いまの わたしには ない。(2014年 はる)


ことばの しなじな

   ┌象徴的 ─┬─ 独立的 ―― 間投詞(「-と」) [派生名詞(ワンワン/うんこ/チンドン屋/チンする)]
   │(symbol) └─ 従属的 ―― 擬音詞(「-と」[ドタンバタンと] ⇒ 副詞語尾[ドンと・バタッと])
   └記号的 ─┬─ 指示詞 ―― 名詞/形容詞/副詞 etc.に 下位区分
    (sign)  ├… 境遇詞 ―― 時間(いま・本日/そのとき・当日)・空間(往来:ゆき-き/受益:やり-くれ)
         └─ 品詞類   (以下 通常の 品詞分類)

▼ポイントは、「音象徴性 sound symbolism」や「指示性 deixis」の ものを、通常の 「素材表示的 referential」な ことばと 別あつかいに して、はじめに くくりだしておく こと。
 典型的な 人間言語が もつ という「恣意(無動機)性 arbitrariness」(F. de Saussure)や「脱現場(転移)性 displacement」(L. Bloomfield)に 問題の ある ことばを 別あつかいに する 処理でも ある。
 それによって、品詞を ことなった 基準で クロス分類する ことを さける ことが 可能に なり、
        純粋に 文法的 機能と その 表現形式とによって 分類する ことが 可能に なる。

★「境遇詞」(<三上章『序説』p.33-4)については、中間的・二面的な ものとして、いわゆる 品詞以前に 指示詞との からみで 一般的に とく とともに、品詞の 下位用法の ところで、一定の 基準(いま、うち etc.)に もとづく 特殊な なづけかたの ものとして 具体的な 用法を とく、というのが 現実的な 解決の しかたであろう。

「こだまでしょうか」(金子みすゞ) ――― ことばの 通じあい (communication 言語交通) の ねもとに
                    こだまの ように ひびきあう (共鳴する) こころ と こころ

 「あそぼう」って いうと
 「あそぼう」って いう。

 「ばか」って いうと
 「ばか」って いう。

 「もう あそばない」って いうと
 「あそばない」って いう。
 そうして あとで、
 さみしく なって、

 「ごめんね」って いうと
 「ごめんね」って いう。

 こだまでしょうか、
 いいえ、だれでも。


きれつづき

 時枝誠記は、『日本文法 口語篇』(1950)の「動詞 活用と接続」(pp.99-100)の なかで、
ここで大切なことは、動詞の活用の意味である。語が変化するといふ点だけを問題にするならば、英語、ドイツ語、フランス語等の verb の conjugation も活用であるといふことが出来るのであるが、conjugation と国語の活用とは、同じ語形変化でも、その性質が根本的に異なつてゐる。conjugation は、一語が、人称、単複数、時、法、に従つて形を変化することを意味するのであるが、国語の場合は、これと異なり、動詞が他の語に接続したり、或はそれ自身で終止したりする場合に起こる語形変化である。国語の動詞の変化とは、動詞の断続による語形変化であつて、これを動詞の活用といふのである。国語の活用の意味が以上のやうなものであることは、活用研究の歴史が明かにこれを示してゐるので、例へば、本居宣長の門下である鈴木朖に、『活語断続譜』といふ著書があるが、ここに云ふ断続とは、終止及び接続の意味で、断続譜とは今日で云ふ活用表のことである。
と のべて、日本語の 活用(別名 はたらき)と 西洋語の conjugation(原義 つながり)との ちがいを 強調している。
 奥田靖雄(布村政雄)1975「連用、終止、連体 ……」は、この 時枝の 発言に 言及しつつ、伝統的な 文法理論が「構文論的な事実から出発している」ことに 注目し、「古代日本語の 動詞の 連用形、終止形、連体形 ……」が、「構文論的な要素としての動詞の distributional な 特徴の 形態論的な表現」である ことを おもく みている。さらに、日本語の 終止形も、西洋語の finite form(定形)も、この 構文の distribution【引用注:(部分の) 配列・配分・わりあて】の 形式的な 側面から なづけられている とすれば、内容的な 側面からは、どちらも predicative form(陳述形 述定形)である という 点で おなじである。ただ その 構成要素(下位体系)が、日本語では 時制と 叙法から なるが、西洋語では 人称 数と 時制 叙法とから なる、という ちがいが あるに すぎない、と いう。つまり、時枝と ちがって、奥田靖雄は、日本語と 西洋語との 相違点だけでなく 共通点も みていて、むしろ その 個別(日本語)における 一般性の 解明の ほうに ちからを そそいでいるのである。
 この 普遍(世界)の なかでの 特殊性重視の 時枝と 個別における 一般性重視の 奥田との 中間を いくのが 河野六郎1989「日本語の特質」(『言語学大辞典2』「日本語」の 項)であろう。「語順」「連辞性(syntagm)の原理」という 統語原理に したがい、「対照性」「任意的膠着性」という 形態原理、つまり 必要に 応じて 補語の 先行と 接辞の 添加(後続)という 限定を くわえる「アルタイがた(型)言語」に 属する 日本語と、印欧語タイプ ――「照応」「範例性(paradigm)の原理」という 統語原理に したがい、「対立性」「集約的融合性」という 形態原理を もつ ―― に 属する「西洋語」との、類型としての (類外部との) 相違性/非連続性と (類内部における) 共通性/連続性とを 指摘する ことになる。河野言語類型学 日本語構造論については、詳論されない まま 他界された ことが 後進としては 残念であるが、研究者 ご本人としては 『大辞典』の 編纂という 大目標が 成就し、術語編で 方法の おおよそも しめせて、しあわせだった と いうべきかもしれない。
 奥田の 系列に、外見上 意外に おもわれる かもしれないが、森重敏 川端善明 という 主語を 重視する 学者が 属し、河野の 系列に、こちらは 容易に おもいつく ように、三上章 渡辺実 といった 主語否定 主題重視の 学者が 属す ことになる。この 両陣営の 対立には、「主語」という 用語・概念の 意味・用法に にじみでてくる、史の 古今と 洋の 東西とに わたる 微妙な ずれ・きしみや くいちがい・すれちがいが からんでいて ―― しかも おおくは 無意識的である だけに あつかい・さばきが やっかいであり、容易には 解決しない。わたしの 半生も、この 両陣営の 対立の なかで うろちょろしていた だけで、いまなお すっきりと 解決した わけでは ないが、いちおうの わたしの みとり図は、「しごと」の ページの「語 と 文 の 組織図」の 下段(文構造)に しめした とおりで、「主語」を 必須と かんがえない、つまり 結果としては 河野に ちかい 結論に たどりつくが、奥田 森重 川端の 具体的な「主語論」から まなんだ もの ―― 部分を 等質化しないで、全体の 意味関係的な 構造を とらえるべき ことなど ―― は まことに おおきい。すくなくとも 河野の ように、「主語(subject)」は 論理的な 表現;「主題(theme)」は 心理的な 表現;と 19世紀「心理的主語」論(パウル)的に わりきって すます ことは できない。というより むしろ H. パウルが「文法」化された「主語」以前の <意味> 的な ものとして「心理的主語」と いったのに 対して、河野が「論理」と「心理」とを 対比する とき、知情意を すべて ふくむべき「心理=主題」が 情意に かたより;文法的な「主語」が 知に かたよる;おそれさえ 生じ、理論が 後退しかねない。河野も、辞典解説ゆえに 単純化しているのだとは おもうが、ほかに 論述が あるだろうか。
 この 主語論 主題論を はじめとする 文構造論については、また 稿を あらためて くわしく 論じなければならないが、その 日本語の 文構造の 基底に あると みられる、江戸国学以来の「きれつづき」という 用語で しめされる 構文現象の ことを、奥田は「構文の distribution(配置 配列)」と いい、河野は「連辞性の原理」と いうのだ。その うけつぎかたは 別に 論じたい。
 この「きれつづき」の 構文機能を めぐっては、日本の 文法学史の うえに さまざまな 悲喜劇を ひきおこす。ここでは それに ふれておく ことにする。まず、江戸期の 本居春庭 東条義門から 昭和期の 橋本進吉 時枝誠記に いたる 解釈文法系統では、「形態素主義」つまり、古代語と 現代語との 一対一的な 解釈的な 対応を 問題に する だけで、自立語の 語彙的な 意味と 付属語の 文法的な 意味との 構文機能の ちがいは 無視され、構文上の「きれつづき」も レベルの ことなる 助辞との 形態上の 接続と 同一視される ことに なって、「きれつづき」の 外面だけが 注意される。全体(文)と 部分(語)との 構文関係は、古代語と 現代語とに ちがいが みいだせない ため、関心外と なっていく。つぎに、時枝も 直観的に 察知していた ように、この「きれつづき」の 機能は、西洋文典に ぴったりした 相当物が 存在しない ために、その 近代文法としての 位置づけかたにも 混乱を ひきおこす ことになる。副詞が 品詞論の はきだめであり、連用修飾が 文成分論の はきだめである としたら、文法的カテゴリー論の はきだめは 「(叙)法(mood)」である。その 西洋的「法」と 日本的「活用」とを むすびつけ、動詞の 活用の 法に「折衷文典」として 有名な 大槻文彦1898『広日本文典』が 「終止法 連体法 不定法 中止法 連用法 ……」などを いれた こと、明治期末には、三矢重松1908『高等日本文法』が mood との 関係を 明示しない まま 「直説法:終止法 連体法 連用法、命令法、前提法:仮定 確定 不定」などを 活用に 関連づけて 整理した こと、同時期、山田孝雄1908『日本文法論』が この点は 未分明な ままに、mood の 採用を (さすが 国士として 感覚的に) 拒否した ―― とき tense を 否定した だけでは ない ―― こと、途中 おおはばに はぶいて 昭和後期に いたっても、寺村秀夫1984『日本語のシンタクスと意味 U』が 「各活用形の用法とムード」において 「保留形(連用 中止) 条件形」を 「ムードの諸形式」の ひとつに いれて、「実用文法」的に 解決しようとした こと、といった 苦渋の 決断、いいかえれば、法・ムードという うけざらの 選択や 拒否、または 理論と 現実との 折衷 受容(cf. あんパン カレーパン)が おこなわれたのである。

 どうして こう なったか というと、西洋文典では「きれつづき」という 構文機能が 重要な 用語・概念装置としては 整理されておらず、「非定形(non-finite form)」の ひとつとして、分詞形(participle)/不定法(infinitive)/動名詞(gerund) といった ふたつの 品詞に またがって はたらく 下位品詞の 一用法として 別個に ばらばらに あつかわれていた だけだからである。西洋文典の 文法範疇・文法機能に 不足が あろうとは、これらの 学者には おもいも つかなかったのであろう。平凡な 日本文典は 一般に「ないない づくし」である。日本語の 名詞には 性が ない、数が ない、格も 助詞で あらわされる ……… 。品詞全般に 待遇(敬語)が ある、名詞には 特堤態・題目態が ある、動詞には 利益態が ある、と 指摘した 松下大三郎が 一流の 研究者だと いえるのは その 積極性ゆえに である。くちさきだけでなく、対象に 沈潜して、あたらしい カテゴリーを 発見した からである。
 大槻と 三矢・山田とは、まだ 理論摂取の 過渡的な 時代の 問題と いって すましても いいが、昭和期の 寺村は どう かんがえたら いいだろう。師匠の 三上章という 研究者が なやみつつも 拒絶した「普遍・折衷化、教材・解説化」を、20世紀後半の 日本語教育ブームの なかで 実行したのである。遺産相続人の 普及活動とは そうした ものだろうか。佐久間鼎と 寺村秀夫との 時代の 差は 象徴的で、ともに 國語學の しろうとだが、一方は 「事理」優先の 革新を となえ、他方は 「実用」優先の 保守に したがった。


文法的な 意味の ありかた

0)奥田靖雄に「語彙的な意味のあり方」(1967)という いい 論文が あるから、<文法的な 意味の ありかた> については とくに かかなくても わかりきった ことの ように おもっていて、助詞「か:疑問/不定」 助動詞「ようだ:様態/推定」 語形「-た:過去/以前/完了 〜 想起/回想/詠嘆」といった 文法形式の 主体面と 客体面との からみあい(融合〜相即)を 指摘しておけば じゅうぶんかと おもっていたのだが、どうも そうでも ないらしい。熱心な だけで、まじめな しごとに なるもんか、なぁ …… 懐疑派の 二葉亭四迷(くたばって しめえ)さん よ。

1)たしかに、アスペクト論において「パーフェクト」という、おそらく 過渡的に おもしろい 現象 ―― 歴史的には 「矛盾」を はらむ 現象、別の たちばから いえば「両義的な」現象 ―― が 論じられはじめてから、文法カテゴリの 体系性についての 感性・知性が バランスを かく ように なった ように みえる。元凶は、おそらく B. コムリーの アスペクトについての 教科書に あり、それが 奥田靖雄(実質的な 翻訳者)から 記述人をとおして 日本語学に もたらされたのだ と おもうが、そのさい 本来 歴史的「通時的」に 論ずべき 現象が 静止的「共時的」に 記述される 対象と なってしまった ことに 不幸の はじまりは あった。国語学的な 研究の 蓄積が じゅうぶん 熟していなかった ――「完了」という カテゴリに 関連する 研究は 当時 混乱の きわみに あり、「"陳述"とは何もの?」という 論文が 成立する ような 状況と 並行している 感じであって、理論的な 整理・整頓が 必要だった ―― そうした ところに「拙速」的に 理論的な あてはめを してしまった と いうべきなのか、それとも じっさいの 記述人に「歴史文法」という 方法が 欠如している ための 混乱と いうべきなのか、そろそろ はっきりさせても いい ころだろう。どっちにしろ、いまの アスペクト・パーフェクト・テンスにかかわる システム(「形態論」的カテゴリ?)の 図式は、わたしの システム感覚を 満足させないし、歴史的な「発展性」(W. von フンボルト)も、「潜在性 potentiality」(V. マテジウス)も、感じさせは しないのである。

コムリー『アスペクト』の 訳本が 出版されるのが 1988年10月、それを 前後から はさむ ように 奥田の「時間の表現(1)(2)」が『教育国語 94 95』に のるのが 同年の 9月と 12月である。当時は よみとれなかったが、(2)の p.32【著作集02 言語学編(1) p.144】には、
   コムリーの【アスペクトの】規定が破綻におちいるのは、パーフェクト perfect の所属においてである。
という 一文も あった。全体に、研究史を よく ふまえて かかれた、よみごたえの ある 時間論に なっている。(1)では「結果」「特性」「状態」など かつて <静的な さま> として 混同されてきた ものが 運動論的に 適切に 区別されており、(2)では ロシアを 中心とした ヨーロッパの 時間論 とりわけ 内的時間と 外的時間との 関連づけに 関連して「アスペクチュアリティのなかにおけるアスペクトの優位」の 問題が あつかわれているが、その 連載の 中断は、思索の 未完と いうよりも、弁証法的な 一巡に よる 中断と いうべきであろう。「拙速」性の 自覚だったのだろうか。
 服部四郎の くちまねを して、ことばの 通時面と 共時面との 関係を「研究上の両輪」だと 正当化しようと する うごきも あった けれども、部分と 部分との 関係には なく、部分に きりはなせない 側面/観点の ちがいの 関係に ある ものを 部品状に ばらばらに しておいて、あとで くみたてようと いっても、きりくちが ちがい 無理だろう。部分としての「両輪」も、一輪車2台では ないのだから、10年以上も たってから つけたしを しておいて「2度目の転換点」に したいと いっても、ご無体な 要求という ものだろう。比喩も、よく かんがえて つかったらいい と おもう。「みちに まよったら、わかる ところまで もどれ」が やまあるきの 鉄則であるが、みちに まよった 自覚が なければ すくいようも ない。奥田の いいのこした という ことも、「歴史面」を 部品みたいに つけたして すむ ような、外面的で 部分的な ことでは ないであろう(『ことばの科学10』自己解説)。部分(構造内)と 側面(観点別)、部分(内在)と 部品(外在材料)との 区別だけは、ちゃんと 整理した ほうがいい。
 奥田の ことば(『ことばの科学3』解説)は、「180度の転回」であって「180度の転換」ではない。研究の <方向> が おおきく かわった という ことであって、性格の ことなる 別の ものに かわった という ことではない。あくまで「研究の出発点になるだろうと、かんがえてのことであ」り、「これから飛躍的な発展をみせるにちがいない」問題として、「した」や「している/た」の かたちが「表現する一次的な意味と派生的なパーフェクトとのあいだにどのような関係があるか」、「テキストのなかで具体的な出来事を時間のなかに配列していくときにはたす、これらの アスペクチュアルなかたちの機能」を 考慮しつつ、アスペクトから パーフェクトを へて テンスへと「移行」していく ことについて、「文法的な意味の全体系のなかで、語彙的な意味との関係のなかで、歴史的な過程として確認しなければならない」と、「批判めいたこと」を いっているのである。
 口頭発表「"完了" をめぐって」(1987)を 展望の ない 旧国語学的な 作業と みなして、「現代日本語のパーフェクトをめぐって」(『ことばの科学3』1989)に "転回" する ように 指導した 奥田の 方針が、適切な「助言」だったのか、「拙速」な 助長であったのか。奥田の 研究計画【同号解説 参照】に そった 研究の やりなおしも できなくは なかったとは おもうが、問題は やりなおす 必要の 認識と 目標への 意志が、記述人に 生じたか である。『10号』の 自己解説では、「わかっていても 標準語では かけない」という 弁解なのか。
 奥田の「180度の転回」という ことばは、もじどおりに 理解すれば Uターン、つまり もとの 方向に もどる ことを 意味するが、「日本におけるテンス・アスペクトの研究」において もどるべき ながれは あったのか。もし あった としたら、正統的な 西洋言語学に まなびつつ 移植に 苦心した 小林好日−佐久間鼎の 系統であろうか。そうだ としたら「国語学的な 研究の 蓄積」に 関する 理解の しかたに おいて、奥田靖雄と 工藤浩との あいだに さほどの 差は なかった のかもしれない。研究史的に 一度は「もどるべき ばしょ」(奥田)と みるか、「整理 克服し 発展させるべき ばしょ」(工藤)と みるか の 研究の 順序の ちがいに すぎなかった とも いえる。「研究アプローチ → 路線討議」は、奥田には 「分派活動」と みえた のだろうか。「内発的/外発的」「内的発展/外的移植」なんて 刺激的な ことばは、不愉快であった ことだろう。高橋太郎〜宮島達夫(国研グループ) なみの うるさい「悪魔の弁護士」のように 奥田には みえた のだろうか。あるいは、さすがの 奥田も、古稀ちかくに なって 「円満な 世代交代」を ひそかに のぞみはじめていた のだろうか。

2)<文法的な 意味の ありかた> については、もう あらためて かきおろす 体力が つづかない。「作品は作家とはなれた独自の意味をもつ」という 奥田の 発言(宮島談)に ならう わけでもないが、連帯責任を おうべき 旧論文「シテイル形式の意味記述」(1982 武蔵大学人文学会雑誌 13-4) を その気で よんでもらいたい。文法的多義に かかわる 意味派生の 移行〜確立的な かんがえかたは、この 論文の ほねぐみに きざみつけられているし、「完了 perfect」に かかわる 小修正については、この おなじ HPの「テンス・アスペクトの概要」の、3)時間性、5)動詞分布、6)シテイル多義構造の 各節を 参考に していただければ さいわいである。そもそも この 論文は、奥田アスペクト論文(1977)を よんで、その 重要な 論点を 論争的から 記述的に 整序する 目的で かいた ものであった。「経験(記録)」を 「現在有効な、過去の運動の実現」(="perfect"の 解説骨子)と なづけかえたのは なんの ためだったのか。それを 音訳語「パーフェクト」に かえても、「完了」の 混乱は おさまらず、さらに 文法的な 含意まで、《過渡・移行的か、意味・不変的か》と 無自覚に 基礎教養の 差で かわってしまう。音訳語は、基本的に 翻訳不定なのであり、基本問題の さきおくり(未決)か、たなあげ(不問)である。著者も アスペクト論者も、そろって 細部に 熱心な 学者と みえて、perfect の 特殊性や aspectuality などの 細密性に かまけていて、時間性(temporality)表現の 歴史という、近代の ものがたりは わすれている ように わたしには みえる。時間システムは、現在(いま)の 生活に 関心する はなしあい(会話 discourse)と、事件の 時期(いつ)に 注目する かたり(歴史 history)との ふたつの 面(plane)に わかれる、と E. バンヴニストは いってたっけ。わたしの「"時間の表現" その後」は、検討の 捨て石にも ならないか。

 ちなみに、叙述法(断定)の 現在形/過去形「する/した」の 反復・習慣や 一般化などの 表現 (認識思考の 抽象化) は、ムード(叙述法)の 問題か、テンス(ありか非限定)の 問題かと 択一的に えらぶべき ものではない。階層的な 複合カテゴリ なのである。その 抽象化表現に 日本語の アスペクトは どう からむのか。ロシア語の アスペクト学は、完了体/不完了体動詞の 語彙・文法的な 基礎システムを もっている。日本語の 自/他動詞は 語彙・文法的な 形態ペアを もっているが、アスペクトは どんな 形式システムなのか。語彙・文法的な 基礎形式(fundamental form) ―― 構文結合性も ふくむ ―― の ありかたが 言語によって ちがう ことを かんがえれば、「アスペクト論」などと 気楽に 借用しない ほうがいい。

 かつて「どうしても考」(1996)を つぎのように むすんだ。副詞論も 細部に こだわるが、ほんとに「神は 細部に やどりたまふ」のか。

「どうしても」という副詞が、そうした陳述度の硬化という構文的機能をもつのはなぜかといえば、文の対象的内容の個別・具体性という広義の <時間性> と、記述的ないし判断的な叙述という広義の <叙法性> とに関わる、という陳述的な性格を、副詞化した「どうしても」が、みずからの語彙的な内容としてもつに至ったためなのである。

(30年まえの できごとを つきはなす ように、第1節末尾と 第2節とを かきかえた。2017/10/28, 11/01. 補訂、2011年秋 初稿)


■形式名詞/吸着語/つなぎ むすび ――― 松下−佐久間−奥田を つなぐ もの ―――

0)「病気で 欠席した」という 因果関係に ある ふたつの できごとを いわゆる 単文で 表現した もの、それを「病気に なったので、欠席した」とか「欠席したは 本当に 病気だったのだ」とか いった ように「の」を つかって 複文で 表現する ことも できる。単文が 複文に 拡張したのか、複文が 単文に 凝縮したのか、相互移行は どちらの 方向の ものも あり、その 順序や 方向の 具体的な すがたや 両者の あいだの 位置どりも 興味ぶかい 問題だが、しばらくは たなあげと しよう。こういう、かたちは ちいさい ことば(小詞)だが (従属)文全体をも うけとめて、それを 範疇(カテゴリー)化し 特殊な 構文的な 機能を あたえる ものに 注目し、「形式名詞」と なづけた ―― ただし「従来の九品詞では説けない」とも いった ―― のは 大正期の 松下大三郎であり、名詞的とは いいきれない 用法の 存在にも 積極的に 注目し「吸着語」と なづけたのは 昭和前期の 佐久間鼎であった。品詞論的に ちいさく 合理化した 三上章(昭和中期)の「準詞」を へて、起原は 名詞と しながらも 転成後の 機能によって、従属節と 主節の あいだに おかれる「つなぎ(接続詞)」と 主節の あとに おかれる「むすび(繋辞)」とを よびわけた 奥田靖雄(昭和後期)に いたる、研究の ながれが あった。通常の 文法(論)史では とかれない おもしろい 議論の 深化が 大学アカデミズムの そとで すすんでいたのである。しかし、奥田の 死去に よって、問題は きちんと 体系化されない まま おわってしまった。後継者は いまのところ わたしには みえてこない。わかぎの まま かれさせてしまうのは あまりにも もったいない。微力だが、問題の おおきさと 解決の 方向だけでも はっきり させておきたい。問題の とらえかた、命名の しかたは、最初の 松下が 出発点としての 対象を とらえて なづけ、佐久間・三上が 変化途上の 過渡的な 機能を とらえて 命名に 苦労し、最後の 奥田が 到達点の 機能で 対象を なづけ とらえている、と (推測だが) おおよそは いっていいだろうと おもう。『にっぽんご 4の下』と その 解説『日本語文法・構文論』が 未刊の まま、奥田靖雄(と、しばらくして 高橋太郎)が 死去したのが おしまれる。いきた <口語文法> を あいてに する、松下−佐久間−奥田を つなぎ つらぬく <民間学> の 伝統を たやしては ならない。


1)まず、日本語を 古代語と 近代語に 二大別する メルクマールとして、従来の 通説では、「終止・連体同形化」や 「係り結びの消滅」や 「二段動詞の一段化」といった 形態的な 変化が 無秩序に あげられるのが つねであるが、―― 秩序が あると すれば、この 順序の 因果継起のみには 言及するが、そんな めに みえる 外形の 変化より、連用格(語格)表現の 明示化、接続表現(句格〜文格)の 明示化 ―― あわせて 論理的な 関係の 明示化 ―― という 意味機能的な 変化の ほうが、連続的な 推移として あらわれ、形式的に 一線では きれないけれど、「近代化」という 内容には よほど ふさわしい。外形的な 変化も、むしろ、この 意味機能的な 変化の 波及的(二次的)な 結果だと かんがえた ほうがいい。じっさい、「が・の:連体助詞 ⇒ 主格助詞」⇒「連体どめ(喚体句)の 表現性の 喪失」⇒「旧連体の 新終止兼務化」⇒「係り結びの 消滅」「未然・連用 ⇔ 旧終止の 母音(最小)対立の 消滅」⇒ 語幹安定 ルレ膠着変化へ =「二段動詞の 一段化」といった、論理的な 語格関係の 明示化から 通説的な 形式的な 変化への 因果継起が 想定しうる。そして、この 意味機能的な「論理的な 関係の 明示化」の うち 句格=接続表現の 明示化は、「ほどに/さかいで/ものの」「ところ(が/で)」「とき/ばあい/うえ/ため/くせ (に)」「ので/のに」の ように、まえに テンスの 対立を もった 連体節の かかっていく「形式名詞/吸着語」によって、主として ゆたかに なってきたのである。
 そのさい、古代語における 未然形+ば=仮定条件と、已然形+ば=既定条件 という 体系 ――― 論理的には 仮定/確定[松下大三郎・阪倉篤義]、未定(将然・未然)/既定(已然)[東条義門・富樫廣蔭]という セットの ほうが 常識的に わかりやすいのだが、「仮定/既定」と あえて ねじれた 関係で とらえた 教科実用文法 (提唱者 未詳)の 記述にも 実証的な 説得性が あり、簡単には 否認しない ほうがいい と おもう。後述の ように、古代語から 近代語へ システムが 移行したと すれば、その 移行過程に「ねじれた」不均衡な システムが あった ことを すくなくとも 排除は しないであろう ――― つまり、条件(つづき)か 終止(きれ)か という「きれつづき」の 対立が まず あって、その 下位体系として 「仮定/既定」という ムード〜テンス的な 対立 が ある ――「仮定/確定」でも いいが ―― というのが 古代語の システムである のに対して、「つづき」の 下位体系の なかで、テンスの 対立を もたない コト(ありよう)を うける「-ば・と・たら」という 条件形(用言の 活用形)と、テンスの 対立を もつ コト(できごと)を うける「ほどに・さかいで/ために・くせに/ので・のに/から・が」といった 「つなぎ」接続形式(従属節述語の 補助形式)とが 階層構造的に (同位)対立/(上位下位)包摂〜重層する 関係に あるのが 近代語の システムなのである。たんに 量的な「明示化」に とどまらず、質的な「システムの くみかえ」にまで、「量から 質への 転化」(エンゲルス)を とげているのである。
 アカデミズム内で この 研究に 先鞭を つけた 阪倉篤義や その 亜流(現存アカデミズム)の 条件〜接続表現の 研究が、まだ じゅうぶん 体系的に とりこめていない 部分である。「助詞 助動詞」という 形式しか めに はいらないのであろう。極度に 意味機能の 変化した ものだけが 「複合辞」として あつかわれる ようだ。「氷山の一角」だけが 散発的に あつかわれるのである。
 体系性に かけるとはいえ、田中章夫/野村雅昭・岡昭夫(国語研以前) といった 東京教育大学系の 学者によって、こうした「近代語の分析的傾向」が あつかわれてきた ことも 注目しておいても いいだろう。早稲田大学(文部省外郭団体)系に 湯沢幸吉郎→(白石大二→)森田良行、国語研(西尾実所長時代)系に 中村通夫→(林大→)永野賢、といった 傍流・支流が あった ことも 無視は できないが、いまは ながれが たえている。ふたりの 国語学会 歴代代表理事 以降の 両組織の 人事管理の ありかたであった。ふたりの 個人の、というより 時代の ながれの ありかた ―― 学閥知名度優先、計量研究優先 と いうべきなのだろう。

小詞(補助的な単語)としての「つなぎ/むすび」か、それぞれの「くっつき(助辞)」か、という 形態論的な 処理の 細部には ふかいりしない。「むすび(の くっつき)」については、鈴木重幸1972『日本語文法・形態論』の 第12・16章でも ふれられているが、「つなぎ」については、『形態論』の p.495に 注記が あるだけだった。第4章「あわせ文」は、小学生用の 教科書の 序論だ というので、「くっつき」の ほうには 言及が あるが、「つなぎ」には ふれられていない。なお、山田・松下文法 以来の「接続副詞」の ことを「接続詞」と 学校文法と 同様に よんでも 矛盾しないのは、『4の上』『形態論』が 過渡期の 所産である ことを しめしている。全般に「副詞・独立語」の 部分に よわい。

【補記】「さかい(で/に)」は 語源を「さかい(境)」に みとめる 通説に したがって うえに あげたが、柳田國男に、地方語「し/す + けに」の かたちが「京童」の「粗忽」によって「改まつた一つの例」(hypercorrection)だ という うがった 説も ある。亀井孝(1936)「理由を表はす接続助詞『さかいに』」(方言 6巻9号)は、これに対して 通説を 擁護する たちばからの 吟味であるが、亀井の 言及した 柳田國男「そやさかいに」(方言 4巻1号)は『定本 柳田國男集』には 収録されていない。うえの 紹介は、のちに『國語の将来』に おさめられた「方言の成立」(1938)に よった。
 また 戦後に なるが、折口信夫(1958)「さうや さかいに」(全集19 所収)という、折口らしい ねばっこい うんちくも あり、亀井孝の 通説擁護説は、柳田 折口 両者によって 民俗学 地方語優先の たちばから 無視 否定された かっこうであるが、亀井の まじめな 方言地理学的な 対応 解釈が しりたかった。初期の 亀井が 文法に おおいに 発言していながら、後年、音韻 語構成に とじこもりがちだった ことを やむをえないとは おもいつつも 残念に おもっている。【うえに「まじめな …… 対応 解釈」と わざわざ ことわったのは、亀井の 性格から かんがえて、別の 主題の 論文の なかに、柳田 折口 両説を 念頭に おきつつも なざしは せずに、ありにくい 音韻変化の 例として 一般的に 言及する ことは ありうるな、という ぐらいの ふくみである。専門を ことに する ものとして いかに ひまだと いっても、論文集の すみから すみまで よむ わけにも いかず、もし すでに ご存じの かたから ご教示 ねがえたら、あるいは、音韻 方言など 専門の ちかい かたから ヒントや 蓋然例を ご教唆 ねがえたら、まことに ありがたい。】

【追記】国語研OB会の 連絡が 最近 あって、その 関係で 国語研OB会の メールアドレス帳が てに はいり、うえの 補記に ついての 質問を ぶしつけにも 佐藤亮一さん 真田信治さん 小林隆さんら 方言関係の かたがたに 集団メールで おききする 機会に めぐまれた。「全員に 返信」機能を つかって なんども やりとりが あり、ひさびさに 学生〜わかて研究員の 気分に もどって 議論の 醍醐味を あじわったのだが、結論だけを 要約してしまうと、柳田・折口と おおすじは おなじ「けに」系統説の かた、「サカイ(境)」説も すてがたいと いう かた、「からに」からの 音韻同化による 変化を 基本に「境」の 意味の 関与も かんがえる かた、という ぐあいに 三者三様の ご意見であった。このように 専門家の 意見が わかれて 並立する 以上、「さかい(で/に)」の 語源を「さかい(境)」に みとめて うえの 本文に しめした <通説> は、証拠例/典型例としては とりさげた ほうがいい という ことに なる と おもう。
 ただ しかし、かりに「さかい」を 形式名詞と みるのが「語源俗解」だとしても、その「俗解」を うみだす という <あやまった 類推 analogy>を さそう ほどに、<形式名詞の 文法化・接続(助)詞化>という 構文的な 現象が 文法の「かた pattern」として 当時 社会に 厳然と 存在していた (状況)証拠には なる と おもうのである。
 また 一般に、わたしたちは 歴史や 語源に 関して ひとつの「源流」に「遡源」したがるが、複数の「ながれ」が「合流」する 事例も 積極的に みとめていい と おもう。(cf. 時枝誠記の「河川図式」『続篇』pp.215-9) つまり、いわゆる 通説や 亀井説を 全否定する 必要も ないのである。「さかい(で/に)」形式の 確立していく 過程の どこかに、わりきって いえば 因果的に ひきおこし的(causal)な 要因としてか 結果/確立的な 要因としてか、機能的に 根幹/主機能的か 枝葉/副機能的か などと ちがっても、どちらも 部分として 位置づけるべき かもしれないのである。
 結論が どう なるにせよ、語源・語誌は やはり むずかしい。今回の ことは わたしには「通説」を 盲信しては いけない という つよい いましめとして のこった。以上、うえの 本文で「さかい(で/に)」を「さかい(境)」という 名詞の 文法化の 証例としたのは 不用意だったので、とりさげる。ただ すくなくとも、名詞の 文法化の 傍証とは なる。
 ――― という ぐあいに、ひとまず 訂正しておきたい。   (2012/05/17 補)

2)さて つぎに、ドイツ語学で 「名詞文体」という ことが よく いわれる。その 趣旨を 日本語で かんがえてみよう。
   太郎が はしった。    ⇒ 太郎が、運動場を いやいやながら 一周 やっと はしった。       (動詞文体)
   太郎が かけっこを した。⇒ 太郎は、けびょうを つかってでも はしりたくない と おもっていた、運動場を 一周する
                かけっこを、先生に しかられて、いやいや しなければ いけなくなった。 (名詞文体)
うえ(動詞文体)の 例の 連用修飾=語では、対象(範囲)や 道具の 指定か、動作の 様態や 程度量の 限定に ほぼ かぎられるが、した(名詞文体)の 例の 連体修飾=節(文)では、質的にも 量的にも 理論的には 無限の 可能性が あたえられる。表現の くわしさが いわば 伸縮自在なのである。そうした 名詞文体(Nominalstil)が かきことばに ふえてくるのが「現代ドイツ語の文構成の大きな特色のひとつである」と いうのが ドイツ語学の 通説らしい。しかし、これは ドイツ語に かぎった ことでは ないだろう。
 表現=思考の 発達過程を すなおに かんがえれば、語=概念の 形成の 中心は 名詞に あるのである。「えを かく・すなばで あそぶ・なかまから はずれる」と 連語で いえば すむ ものを、幼児教育で わざわざ「おえかき・すなばあそび・なかまはずれ」という 複合名詞を つくって こどもに しめすのは、この 概念の 形成を 促進する 効果を 期待しての ことなのである。さらに、そのため 連体修飾(関係節)という 限定を 無限に うけうる という 重要な 構文的な 性格を もたされる 概念=名詞の 部分が もっとも かんたんだった 従来の 日本文法は、もっとも「常識」に 反する 文法であって、無意味な 形式的な 暗記を しいられて 「文法ぎらい」の 国語教師が おおく うみだされる という 皮肉な ことになるのも、かんがえてみれば あたりまえなのである。格助詞を 名詞から 単語として きりはなし、名詞を 構文的に 無機能な ものだと する 理論(代表 山田文法・渡辺文法)が 当然 おちいる 結果なのである。しかし じっさいには、名詞が 構文的に 複数の 機能を もつからこそ、格助詞を したがえて 格変化するのである。その したがえかたが 語尾(屈折)か 接辞(膠着)か 補助語(分析)か、あるいは 自身は 無変化で 語順(構文)に まかせるか など、文法的な 手段という 形態上の 問題は、この 構文機能の 問題に くらべれば、二のつぎの 問題である。もちろん 逆方向に、形態の 独立性の 差が 機能の 派生的な 差異に 影響する ことも みのがしは できないけれども。ともあれ、明治以降の「理論」文法は そろって みごとに「さかだち」しているのである。「ヘーゲルから マルクスへ」は、もう ふるいかな。
1933年うまれの もと(除名)日共党員 反スタ理論家・哲学者が「今こそマルクスを読み返す」と (もっとも もう 20年以上まえに) いい、最近では、1930年うまれの もと日共最高幹部が「マルクスは生きている」と いっている くらいだから、どうなのかな 「断末魔の さけび」なのかな。それでも いい、旧人類の こころ意気、いうだけは いわなくちゃ。

3)佐久間が 日本語の「吸着語」に 注目する きっかけにも なった 西洋語の「関係節 relative clause」と、その 吸着語に かかる「連体節 adnominal clause」の 重要性は、名詞の 限定における 回帰性(recursiveness)に ある。マザーグースの うた(ことばあそび)、たとえば「チーズを かじった ねずみを おいかけた ねこを つかまえた 女中を しかる 主人を けなす 女房 ………」(戯訳)は、この ことばの 回帰性/無限性を 利用した ものだし、明治期に 複文の なかに「有属文」の 存在する こと[文 ⇒ 語の 転換]に 注目した 山田孝雄も、この点は (獨文典の ひきうつしだが) さすが 近代的な「大文法」と いうべきなのである。
 「影響する/される」が すでに あるのに、さらに「影響を あたえる/うける」という「機能動詞」表現が 近代に おおく みられる ように なるのも 同様の 事情に よる。修飾の 質と 量の 差は、例を あげなくても あきらかだろう。(cf. 村木新次郎)
 いわゆる 助動詞に、「ようだ・そうだ・ふうだ/のだ・わけだ・はずだ/つもりだ・気だ ……」などが おおく 参入してくるのも、「文末名詞文」(新屋映子)とか 「体言締め文」(角田太作)とか あだなされる「ありさまだ・ようすだ・かたちだ・かっこうだ・ていたらくだ ……」などと すそのが きれめなく ひろがるのも、おなじ 事情だろう。そして その 基底には、「ぞうは はなが ながい」(-は-が 形容詞構文)に 対応して「ぞうは ながい はなだ」(特徴名詞文)も 表現可能な 文として 存在する ことを おもう とき、日本語学における こうした「名詞」表現に 注目する ことの 重要性は、いよいよ ましてくるだろう。
 そのさい「ぞうは ながい はなだ」「ながい はなの ぞう」「ぞうは ながい はなに よろこんだ」とは いえても、「ぞうは はなだ」「はなの ぞう」「ぞうは はなに よろこんだ」とは ふつう いえないから、『4の上』『形態論』では 「ながい はな だ/の/に」全体を 合成(あわせ)述語/規定語/状況語などと する。【「ながい はな」の 部分だけを 合成名詞句と する ほうが 単純だが、後述の 第4-3節も 参照。】基本的には というか 簡単な 文では、単語(品詞)=文の部分(parts of speech)であるが、歴史の 発展過程には 形式と 内容との 矛盾形態も 生じてくる と かんがえるのである。その 矛盾形態の 位置に「形式名詞/吸着語」が はいり、常識的に「異分析 metanalysis」を うける までに 意味的に 主従の 価値を かえ、形態的には 三上章の「ガノ可変」を うしなう までに 前接部の 非「連体節」化が すすみ、その結果、"(連用)従属節" や "主節" に つく 小詞/助辞と みなされる ように なった ものが、『4の上』『形態論』に いう「つなぎ」や「むすび」と、それぞれの「くっつき」なのである。
 うえの「文末名詞文」(新屋映子)と「体言締め文」(角田太作)とを リンクするのは、高橋太郎である。前者は 東京外国語大学での、後者は オーストラリアの 大学での 学生である。高橋太郎自身に この 問題に 関連する 専門的な 論文は ない ようであるが、個人論集 高橋太郎1994『動詞の研究』の 第2部「動詞の連体句節と名詞のかかわり」所収の 諸論文と 高橋太郎1975「文中にあらわれる所属関係の種々相」(『国語学』103)とに 問題は 分散して あつかわれている。あふれでる アイデアに 試行錯誤を かさねるかの ように、きりくちや 観点 接近法が さだまらず ゆれうごいていた。だが 高橋の ばあいは、教科書『にっぽんご 4の下』の 編纂作業の 停滞と 前後する ようにして、連体句 ⇒ 動詞連体形 ⇒ 動詞らしさ という ぐあいに、複文の 問題から とおざかり、語論としての 動詞論に 収斂していった。

 なまえは なんなら、「助詞」でも「助動詞」でも、「補助動詞」でも「複合辞」でも、かまわない。気にならない ひとも いるのだろう。「〜したところ(で)」を「接続助詞(的な複合辞)」と よんだり、「〜だもの!」を「終助詞(的な複合辞)」と よんでも、なんの 矛盾も 比喩性も 感じない ひとも いる。21世紀にも なって、わかい ひとたちが 単行本の タイトルに「複合辞」を つかって 得意げな 例が 2つも あるのだ。永野賢、もって 瞑すべし。歴史は 一巡し、かつての 進取の 気象は いまや 退嬰的な 慣行と なった。「分析的な傾向」を 駆逐し、はれて 市民権を えたのだ。

4)ながれの おおすじは 以上だが、出発期の 松下大三郎と 過渡期の 佐久間鼎を 中心に、細部を もうすこし みておこう。

4-1 松下大三郎は、『標準日本文法』(1924)の「名詞の細分」の 項で、「形式名詞」を、
   形式的意義ばかりで実質的意義の欠けた概念を表はす名詞である。(p.206)
と 定義し、文章「説話」の なかでは「他語を以て …… 実質的意義を補充しなければ意義が具備しない」と して、
   者 筈 の ため こと 由 所 かた
を つかった 文例を あげている。文例は ここに 略すが、後述の「名詞」性の たかい ものが ここでは 優先されている。
 また、「概念の表はし方が分業的であるから …… 名詞の最も発達したものである」とも、「欧州語には形式名詞がない」とも 指摘し、「事物を名づける」という 名詞の 定義では、形式名詞は「這入らなくなる」と 問題の おおきさも 予感している。
 そして「形式名詞の細分」で、3種に わけるが、ここに 関係するのは 「1)連体格の下に用ゐられるもの」のみである。具体例を 9ページに わたって くわしく 検討した のちに、
   用法によって形式名詞性副詞や形式名詞性動詞の名詞部になるものがある。
   様(ヤウ)などは形式名詞性動詞の名詞部になる場合の方が多い。
とも 指摘する(p.226)。前者(副詞)が「つなぎ(接続詞)」、後者(動詞の名詞部)が「むすび(繋辞)」の ことを さしている。
 松下大三郎1930『改撰標準日本文法』(訂正版)では、第三種(寄生)の 形式名詞を 廃止し 2種と した うえで、「代表的なものは モノ コト ノの 三つ」と し、詳説 略述を 整頓は しているが、その他の 学説上の おおきな 変更点は ない ようである。
 松下大三郎1930『標準日本口語法』(p.24-5)では、
   問題は形式名詞を従来の所謂る名詞の中に入れるかどうかにある。
   従来の品詞別、名詞、代名詞……は不合理である。
と いい、さらに、頭注部に、
   従来の九品詞では説けない。
と わざわざ 注記する。この 実質的に 最後の 著作において 松下大三郎は、形式名詞に おおきな 問題の ある ことにだけは 気づいていて、その後の 発展が おおいに 期待されたのだが、ちからが つきたのか、翌年 脳溢血に たおれてしまうのである。

4-2 これを うけて 佐久間鼎は、『現代日本語の表現と語法』(1936) 前篇(名詞篇)において、なまえは「形式名詞」の まま、
   10 「形式名詞」としての「の」
   11 「形式名詞」の種別
   12 品詞の転用・転成
   13 コソアドと「形式名詞」
の 各項で 問題を 拡大し、『現代日本語法の研究』(1940)の「24 吸着語」では、名詞以外の 用法にも 注目し 改名して、
    A 名詞的な吸着語
   (B) 性状についての吸着語
   (C) 副詞的/接続詞的な 吸着語
   (D/C1) 時に関する吸着語
   (E/C2) 条件・理由についての吸着語
とに わけて、語例 文例を 集成 整理した。その後 『日本語の特質』(1941) 『日本語学』(1951)で「構文における役割」の 説明を 啓蒙的に ふかめていき、戦後の 復興増訂版の 『現代日本語の表現と語法』(1951) 『現代日本語法の研究』(1952)では 用語や 説明の 整理・増訂は みられるが、実質的には、この 1940年(著者 52歳)の ものが 基本的な 図式だと いってよい。『日本語の特質』(1941)の 戦後版『日本語のかなめ』(1955 著者 67歳)の 「第11章 吸着語の効用」の 末尾に みづからの 研究の ながれを 総括した うえで、なざしで 三上章『現代語法新説』の「準詞」の 考察に 期待を 託す。うえの 分類記号の うち 原文に あるのは Aのみで、他は わたしが おぎなった もの という 分類の 不体裁は、増訂版でも そのままであって、用例の 増訂は ない。

4-3 一般に、文の なかで 語は 前後の 語句と 関係を もつ。つまり、文の なかに もちいられた 語は、先行の 語句を うけ、後続の 語句 に つづけるか、そこで きる(「きれつづき(断続)」)。格変化を もち 「対象語」的に つづけるのが「形式名詞(吸着名詞)」であり、副詞的 接続的に つづけるのが「つなぎ(接続詞)」であり、文末(述語)で きるのが「むすび(繋辞)」である。
 佐久間の「吸着語」という なまえは、「先行の句または文に吸着してそれを一括するといふ特徴に着眼して、むしろ吸着語の名称をえらんだ次第です」(『特質』p.240)と いう ように、まえの 語句との 関係に 着目して なづけた ものであり、この 基本的な みかた「うけ」の 機能が、橋本進吉の「準用辞」と 折衷され、三上章の「準詞」として 品詞論的な 合理化を うけたのである。両者ともに、うしろの 語句との 関係も「吸着 名詞/形容詞/副詞」「準 名詞/形容詞/副詞」などと よんで、特殊の 下位形式に 適用される 副機能として あつかいは するが、一般(の 語基部)に 適用される 主機能としてでは なかったのである。
 これに対して、奥田(教科研)文法の 特徴は、文内の 語の 機能として 「うけ」の 機能よりも 「かかり」という 後続の 語句との 関係表示の 機能を 優先させた ことに ある。あえて 差を 拡大して いうなら、「うけ」の 機能は、その 語の うけ=受動的な はたらきであって、「かかり」の 機能が 主体=能動的な やくわりである こととは ことなる ことに 注目したのである。
 以上の ことは 「きれつづき」という、国学以来の 伝統的な かんがえかたとも 一致する。また 本居宣長以来 ながらく うけつがれてきた「かかりむすび」が、近代的 相対的な「かかりうけ」に かえられていない ことも、単なる 惰性では ないであろう。相対的な 定量化:等質化〜関係化を こばむ もの <要素主体(独自)性> が、文の 構造 構成には はたらいているのである。


4-4 奥田靖雄(1968『4の上』)よりは おくれるが、佐久間の「吸着語」という 構文論的な あつかいを アカデミズム内で ―― といっても 傍流において と いうべきだが ―― 発展させたのは、むしろ「隔世遺伝」として、三上章「準詞」を とびこえ、寺村秀夫1978「連体修飾のシンタクスと意味 ―― その4 ―― 」の「底の名詞の形式化と構文的機能の分化 底の接続助詞化 底の助動詞化」(『論文集I』所収)であった。『日本語の文法(下)』(1981 国語研 指導参考書5)の「18. 被修飾名詞の形式化」にも ひとつの 簡潔な 整理が ある。そこには、松下「形式名詞」への 言及も あって、研究史としても 的確に 問題点を 把握している。用語が「接続助詞化」「助動詞化」である ことには めを つむろう。傍流に たちつづける 覚悟の 用語である。無知では ない。
 心不全による 急死(61歳)の ため、著書『日本語のシンタクスと意味』―― 上記論文と 後半(主名詞部)が おなじなのに 注意。寺村の 基本的な 視角なのだ ―― は、生前 第U巻までしか 刊行されず、文末(むすび)の「ムード」は 記述されたが、複文篇(つなぎ)は やはり 記述を うけない ままである。上記の『日本語の文法(下)』を 発展させ、くわしく 記述する 予定であった。
『日本語の文法』の 刊行を めぐっては、直接の 編集担当者 日向茂男さんや (その 先生すじで、未刊の『4の下』の 著者団 総括でも あった) 高橋太郎さんも まじえて、国語研内の 宿泊施設で 寺村秀夫さんを かこんで 談笑する はずが、徹夜での 議論に なってしまった、わたしには たのしい おもいでが あり、いろいろ かいておきたい ことも あるが、『日本語学外史』に ゆずる。中途半端は できないのだ。その後、寺村さんは ホテル利用に かわったと きいた。
 アカデミズム内 傍流においては、松下−佐久間の 提起した 構文的な 機能に とむ 小詞(補助語)を めぐる 問題は、「底=うけ」に 注目した 三上と「形式化=かかり」に 注目した 寺村の 2代に わたって 継承され 発展した、とも みなせるだろう。

 つづく 第5・6節は 脱線ぎみの 余説として しるされる。削除するには しのびないので のこすが、主題の ほんすじからは 脱線する。今日の アカデミズムの ある 傾向にたいする 批判と 揶揄、かつまた 君子豹変の あてなくも 切なる ねがいである。


5)主文末に 位置する 形式「むすび」の 構文環境としては、「うけ」だけではなく、いわゆる「場面と文脈」が あり、
   場面(素材世界+ききて)との 関係づけを 主とした「ことだ・ものだ/のだ(説諭)」など
   文脈(前後の 位置の 文)との 関係づけを 主とした「のだ(説明)・ようだ/はずだ」など
が ある。こうした 分類と くらべて、「のだ」を 「対事的/対人的 ムード」「認識系/伝達系」などと 分類しようとするのは、歴史の 逆行である。「場面」を 分析した、渡辺実・芳賀綏の「陳述:述定/伝達」の ふるき 時代への ノスタルジーも けっこうだが、もう ゆっくり おちついて、わくぐみの ちがいを よく かんがえた ほうがいい。かれらは、1)場面の 問題と 文脈の 問題とを;2)程度差の 濃/淡の (連続的)推移相の「変」の 問題と、性質差の 異/同の (非連続的)転換態の「化」の 問題とを:とりちがえているのである。
 a)「対事的/対人的」「認識系/伝達系」といった とらえかたが、「のだ」の、主機能とは いえない 場面(素材世界+ききて)機能の、しかも「用法差」という 程度差・量的な 問題を とらえており;b)三上章の「逆/順」の「続き具合」、奥田靖雄の「つけたし的/ひきだし的」な 説明といった とらえかたが、「のだ」の 主たる 文脈機能の、しかも 性質差・質的な 問題を とらえている;という 2つの ことは まったく 質的に 別の ことであり、いっしょくたに 論じる わけには いかないのである。ただし、主 副 どちらの 機能も 記述する 必要は ある。理論(わくぐみ)としては「歴史の 逆行」でも、実態の 分析としては、部分として ── ただし 源流:渡辺実・芳賀綏の「陳述:述定/伝達」の ほうを 亜流より おおく ── とりこんで 止揚してこそ、「弁証法的な 発展」と いえるのである
 従来の「のだ」の 研究史は、労作と いっても いいが、この いちばん だいじな ことの 位置づけ 価値づけは みまちがっている。研究史の 質は、その 研究者の 研究の 質に 規定される。「木を見て森を見ず (道に迷う)」たぐいであり、学界「主流」の 研究は 「対象的に 不毛」だと いいたく なるのだ。三上章(正)と 林大(反:会話機能と「対立」関係との 指摘)と 奥田靖雄(合)との 三者で、「のだ」の 研究史の だいじな ねっこと みき(根幹)は えがけるのである。ただし、えだは(枝葉)として えがかれても よい ものは、この ほかに かずおおく ある(の)だろうが
 なお ついでながら、三上章の「既成(命題)」を、「既定/既得」などと いいかえて「継承」した 気に なってしまうのも、日本語学者としては ラフな 言語感覚だと いうべきであろう。のんきで つきあい じょうずな 人間が、サロンを つくって、たわいない おしゃべりを する。バブルは、経済・風俗の 問題だけには おわらなかったのである

……… ひるの おほしは めにみえぬ / みえぬ けれども あるんだよ / みえぬ ものでも あるんだよ (金子みすゞ)

「もう 9時だ。いいこは はやく ねるんだよ。」………「10時 すぎたよ。だまって ねなさい。いいこで ねるんだ。」


【練習問題】うえの 下線部の「のだ」の 用法を、場面と 文脈 ── 引用の しかた [話法・引用表現法:ex. 直接/間接/擬似(もじり みたて)- etc.] も ふくめて ── に 注意して、分析してみよう。

 構文的な「場面と文脈」の 問題は、『4の上』と その 解説であるべき『形態論』との あいだの 差が はげしい ところでも ある。晩期の 奥田が 精力を そそいだ ふたつの「説明 のだ」が 「地の文」編と 「話しあいの文」編とから なる ことを、重大な 方法の 問題として うけとめるべきだと おもう。『4の上』§15「はなしの 文」に 関する『形態論』の 解説は、ものたりない、というか 問題意識が あったのか さえ うたがわれる(p.169)。『形態論』の 本である 以上、たかのぞみは できない と いうべき かもしれない。しかし そうだからこそ、『にっぽんご 4の下』『日本語文法・構文論』が やはり 必要なのである。また、形態論的な「きもち mood」や「むすび」の 体系記述も、構文論的な モダリティの 構造分析を ふまえて、かきかえが もとめられるだろう。かつて、名詞の「格・とりたて」の 体系記述が 連語論と 主語論との くわしい 構造分析を ふまえて なされた ように。


6)「つなぎ(接続詞)」については、奥田 寺村の 死去によって 体系的 全体的な 分析 記述は できていないが、要素的 部分的な 記述や 下位体系についての アイデアや デッサンは 着実に すすめられており、とくに いま いう ことも ないだろう。
 ただ、「-ば・と・たら」という "条件"形(用言語形)が テンスの 対立を もたない コト(ありよう)を うけ、問題の「ために・くせに/ので・のに」「とき/ばあい/うえ(に)」といった「つなぎ("接続"詞)」が テンスの 対立を もつ コト(できごと)を うける という 階層構造(対立/包摂〜重層 関係)に なっている ことは、強調しておいても いいかもしれない。「-なら」も 「〜したなら」の かたちは あるが、まともな テンスではない。反事実性という ムード性が まとわりついている。(本来 テンスの 不要な) 判断文出身と みられる「-なら」が、条件と 接続との 中間的な 様相を しめす ことも、興味ぶかい「反例」と いうべきである。
おとこ [なら/だったなら:なのだから/× だったのだから]、ちゃんと やってみなさい。
先週 ほんとに ちゃんと 勉強した(の)なら、試験で こんな 点数を とるのは おかしい じゃないか。
わたしが そらを とべる とりだったなら、あなたの そばに すぐにでも とんでいけるのに。
といった、事実の「修辞的仮定〜既定」の 例を 比較したり、過去の「修辞的な 仮定疑問 ⇒ 仮定部の 否定推理」や 現在の「反実仮想」の 例を 参考にして、ムードと テンスとの 相互移行的な 関係について あれこれ かんがえてみると いいだろう。そのさい、「中間:二重/二面」的な 例は、分類に こまる「あいまいな」例 というよりも、むしろ 分類項の あいだを つなぐ「移行/媒介的な」例と かんがえた ほうがいい。すくなくとも そう かんがえる ほうが、分類に まえむきの 関心と 勇気が わく。
 テンス語形の 対立は、意味的に [個別(できごと 事態)/一般(ことがら 命題)]の 対立にも なる。うえの「ほうが(いい)」の 前接部を 参照。「反復/習慣/慣習/習性」など <くりかえし> 的な「ならい」は、どのような 位置どりに なるのだろうか。
この [個別/一般] の 対立も、通常の 論理学では、a) 要素の 量的な 面に 着目して と みられる [個別/普遍] の 対立と;b) 関係の 質的な 面に 着目して と みられる [特殊/一般] の 対立;として 別個に とかれるのが ふつうだと おもうが、それを、日本語の「習慣」「時間ばなれ(超時)」なども ふくめた テンス・アスペクトの 研究では、[個別/一般] の 対立 という ねじれた 関係で とらえる ほうがいい と いいだしたのも、奥田靖雄だった と おもう。要素と 関係、量と 質、その どちらも「体系」の 研究には 必要だ、という ことの 端的な 表現ではないか と わたしなりに 推察している。このほか、文表現における、確認(知覚)〜判断(思考)の 両領域に わたっての [いいきり(措定〜断定)/おしはかり(推量)] という [欠如/等値]的な 対立や、「が(格 B段階)/は(係 C段階)」という、構文条件しだいで [包摂/対立]の 両面を みせる、文法形式の おもしろい 一対(ペア)など、通常の (形式)論理的な 対立を こえた 独自の 対立を いう までに、言語形式の システムの 探求に 徹するのが、真に 論理的な 言語学だと いえるだろう。
 ひとしく「できごと」と いっても、テンス・ムードの もちかたで 意味機能を ことにするだろう。接続助詞「が・から」を「C段階」(南不二男)だと かってに きめない ほうがいい。だれかも いっていた ように、「B段階」的な 用法も あるだろう。
[みなさま、すでに ご存じでしょう] が/から、………    導入(平接)  C段階
[きみを みこんだからこそ、やらせている] のだ。      因果(順接)  B段階
[たばこ すわない さけ のむ] ので、………      対照(逆接)  B段階
社交的(phatic)な 平接(開始 導入)の 用法と 論理的な 順接/逆接 ── うらに 評価的な 想定の 内/外 ── の 用法とが、おなじ 段階だと おもいこむ ほうが よっぽど おかしい。(形式優先の たちばに たつ) 南不二男でさえ、すくなくとも「-ながら」と「-は」は、2つの 段階に 分属させたではないか。「-と・たら」は、仮定/既定用法 という 構文意味的な ちがいに 応じて 構文機能も ことにするだろう。「段階」も ことにする かもしれない。……… と、文構造の 歴史的な 発展の 必要を みさだめて その 機能システムを 法則化しようとする 研究者には、問題が ひろがり ふかまっていくだろう。簡略な「常識」に いすわる「古典教師」には、今日も 明日も みえないのだ。

……… 我々は今最も厳密に、大胆に、自由に「今日」を研究して、そこに我々自身にとっての「明日」の必要を発見しなければならぬ。必要は最も確実なる理想である。……… (石川啄木「時代閉塞の現状」末尾部分。1910年[明治43年] 8月稿)

7)「むすび」が「場面と文脈」を 環境と し、「つなぎ」が「従属節と主節」という 複合事態を 環境と し、その 環境の なかでの 関係を 表示する ようになるのは、「ならべ(並置 juxtaposition)」という もっとも 始原的な 文法的手段(サピア)に よって、構成体(文/文章)の 要素(語/節/文)が、その 固有の 性質と 音調とに よって、対等/従属/包容 といった 種々の [文/節/文の 部分]間の [文脈:連文/複文/構文]的な 関係や、叙述/質問/命令 といった 種々の 場面との 陳述的な 関係を うみだす ことになるが、その 結果、要素に 付着した 形式(小詞/助辞/語尾)が その [連文/複文/構文・陳述]関係の 表示の やくわりを もつ ようになる からである。逆では ない。自立語が 関係を つくりだし、付属語が その 表示を うけもつのであり、無機能な 自立語に 付属語が 関係表示の 機能を 付与するのではない。[構成/機能]概念の 重視(ex. ヴント/カッシーラー)という 近代に 特徴的な 傾向の 偏重/単純化 によって、20世紀初頭の 山田孝雄から 後半の 渡辺実まで アカデミックな「理論」的な 文法は、みごとな までに みんな さかだちを しているのである。構成や 機能を 重視する ことを 批判しているのではない。その 対応物としての 要素や 実体を 重視しようと せず、バランスを かき 本末転倒に なっている と 批判しているのである。この ばあいの 要素や 実体 というのは、言語においては、語の レベルの「語彙的な もの」、文の レベルの「内容的な ことがら」である。哲学の 領域では「物質的な もの」であろう。問題の 根底には 唯物論と 観念論との 対立が ひそんでいるのである。
「物質的な もの」を、この さき モノが さきか コトが さきか と とう ことは、ことばの「分節」において 「語」が さきか 「文」が さきか とか、「システム」において 「部分」が さきか 「全体」が さきか とか、空間認知において 「うち」が さきか 「そと」が さきか、「ずがら(図)」が さきか 「ぢづら(地)」が さきか とか とう ことと おなじで、あまり 意味が ないだろう。これらは 相互前提的に 同時対立する ひとくみ(pair)として 区別されるのである。

 「ソ連崩壊」以降は はやらない ようだが、政治・経済の 問題は ふるびても、哲学・言語学の 問題は かんたんには ふるびない。奥田靖雄の「日本における言語学の展望と反省」(1952)と「言語の体系性」(1980)における <ソシュール(学) 批判> も、基本的には ふるびていない。「主観主義」と 批判する(1952)か 「構造主義」と 批判する(1980)か に 時代の 雰囲気の 差は 感じるが、前者も、「言語の現象形態(話しコトバ)のうちに本質的なものを見ること」(⇒口語文法)を 方法として 重視し、「はたらき(エネルゲイア Energeia)としての言語」(W. von フンボルト)において 「言語の発展の生きた法則」を もとめる ことを、言語学の <対象> と <つとめ> と かんがえる など、著者 30歳代前半の わかがきの 文章とは 信じがたい くらい、やや 生硬な 表現が みられる とはいえ、ただしい まっとうな ことを いっている。この 1952年の 論文は、のった 雑誌(別冊)特集名が 民科の 主要課題であった『言語問題と民族問題』であり、奥田の 「活字」になった 言語関係の 最初の 論文であり、しかも 論集の 活字本の 刊行と ガリ版ずりの 機関誌の 発行との 時間差を かんがえれば、執筆時期としては 言語関係の 最初と いうべきなのかもしれない、いわば 民科言語部会 "新世代" の <決起宣言> であった、という ことを かんがえれば、もはや「古人の あとを もとめず、古人の もとめたる ところを もとめ」(松尾芭蕉「柴門ノ辞」) ようと する 新世代に 期待する ほうが よいのかもしれない。
 ただ 当時においても、この 無名の 著者の 哲学的な 論文は よみにくかったらしく、誤植も おおく、補注の レイアウトも 工夫が たりない ため、よみにくさが ましている。著作集版では ぜひ よみやすい 定本/校訂本を つくってほしい。解説は なしでも、かけない ものは いたしかたないが、時代的な ことに関しては、編者注が 必要な 部分も あるのではないか。これの 作成が、ひょっとしたら 新旧世代の 最後の ひきつぎの しごとに なるかもしれない。新世代に 『にっぽんご 4の下』の 完成 ── なまえには こだわらない ── を 期待するのは 無理・無茶であろうか。

 内容から みて、発表順とは 逆で、1952年刊「日本における言語学の展望と反省」の 補注を のぞく 本文の 部分が さきに かかれ、1951年刊「言語過程説について(1)」が 続編 または 姉妹編 として あとに、すくなくとも ほぼ おなじ ころに かかれ、そのあと 前者の 刊行までに 編集部との 質疑 および/または 時代の 急変 などに 応じて 補注が かきくわえられた、と かんがえる ほうが 自然な 気が するが、当時 両誌の 編集実務に 関係した かたからの 編集・刊行に関する 情報を、研究史の 資料として おききできれば ありがたい。「理論編集部 菊池つとむ/おさむ」さんの 記憶/記録は いかがだろうか。【ある 関係者と おもわれる かたから「 …… 記憶・遺品は,まったくありません」と メールが あった。「記憶・遺品」が ならべられる ところに 前者の よみがえりの 希望が まったく ない わけでも ないとは おもうが、こんごは のこされた 作品群からの「内的再建」の 推定に みがきを かける ように したい。】
 こんど よみかえしてみて、当時の 流行語であった レーニン(ソ連共産党)由来の「帝国主義」に かかわる 部分と、民科に 特有だった「(非)国民的 言語学」の 部分と、補注の 時評的な 部分を のぞけば、ほとんど そのまま 現代にも 通用する ように おもえた。その 時代色に 関しては、いうまでもなく、奥田の 責任を とう ことは できない。
 どちらにしても、松下大三郎(1901)『日本俗語文典』以来 脈々と うけつがれてきた、<口語> 文法から 出発して その 法則化を めざす という、「観念」より「現象」を だいじに する <民間学> の 精神を 継承する しごとが われわれには のこされている。民科以来の「民間/反体制 がわ」の 問題は、鈴木重幸(1972)『文法と文法指導』の 解説(松本泰丈名義)でも、鈴木の 経歴紹介 として はじめに とりあげられていて、アカデミズム体制との 対比で「科学の進歩のにない手」は どちらか という 問題として、奥田靖雄の おおきな 関心事でも あったのである。鈴木の 還暦記念『ことばの科学4』(1990)でも 参照を 希望している。奥田自身の 古稀記念『ことばの科学3』でも 同様の 組織論が 巻頭を かざる(湯本昭南名義)。奥田の 持論であり 一家言であった。


■推想態 (evidentials) ――― 松下大三郎の 先駆性 ―――

 松下大三郎『改撰標準日本文法』によると、動詞の「相」として、文語のみに 「らむ・らし・めり・なり」などの「推想態」(evidentials) が あり 口語には 存しない というが、平成の 現在なら「ようだ・みたいだ」を みとめた かもしれない。松下大三郎の いきていた 時代には、「推想態」としての「ようだ・みたいだ」が いまだ 成立しておらず、夏目漱石などを みても、江戸時代以来の 様態・例示的で「比況」的な「やうだ」は あり、また「みたいな」の 前身「Xを みた やうな」は あっても、「推想態」としての 用法は 成立していない。「らしい」も、推想態としての 用法の 確立は おくれる。
 文語の「せむ・せじ」や 口語の「しよう・だろう」は、「時相」[テンス・ムード]の 下位類としての「未然態」[=未来予想]として、この「推想態」とは 区別して あつかっている ことは 注目すべき ことであり、一般には なぜか あまり 注意されていない ようだが、その あつかいは、やや 混雑した 議論も ふくむ とはいえ、世界的に みても 先駆的だと いっていいと おもう。
 松下の 一インフォーマントとしての 報告「口語には 存しない」も 尊重しつつ、なぜ 近代初期に「推想態」――― 一般化して <事象と その 情報源と 言語内容との (話者 非関与的な) 関係> である「証拠性 evidentiality」――― が 確固とした 形式表現を うけなかったか、日本語史の 問題として かんがえてみたい。「近代」的な 認識/思考の 問題と 無関係だ とも おもえない。
 まず、古代語の「らむ・らし」が 存在動詞「あり」の 動詞や 形容詞の 派生形に 由来する ことは 想像に かたくなく、「めり・なり」が 「mi(見) me(目)」や「na(名) ne(音)」と 存在動詞「あり」との 融合に もとづく ことも 通説と いっても いいだろう。つまり、ある 派生/拡張した 動作局面や 状態の 存在の 記述や、視覚 聴覚的な 存在の 確認、さらに いいかえれば、より 客観の がわに よった「様態」的な 表現であった 可能性も あり、松下の「推想態」という とらえかたは 近代を さきどりする ものであった、と みる ことも できる。「いまだ こぬ 未来」の さきどり。このあたり 実証家の 意見 批判も ききたい。
 近代語の「推想態」が、「ようだ そうだ」など 様態的な <形式名詞> 出自の あきらかな もの、「らしい」の ように 様態的な 接尾辞 出自と おもわれる ものから 変質 発展してきた と あとづけられる ことは、『国語学』や『国語国文』に 実証的な 論文が かつて のっていた ように 記憶するが、いま ふる雑誌で たしかめる てまを はぶかせてもらう。松下にとっては、いわば「みはてぬ ゆめ」であった わけで、近代語においては、皮肉にも 松下の 死後に、「様態態」から 「推想態」が 成立したのである。どっちにしろ、 松下(や 通説)に したがえば 中世から 近世にかけて「推想態」は 空白であった という ことに なり、どのような (代用)表現を うけ/うけない 状態に あった と いうのだろうか。専門家の 納得の いく 説明を ききたい ところである。
 松下の 汎時論的な 傾向の あやまりは 訂正しなければならないが、大正〜昭和初期において、テンス ムードとは 別に「推想態」を 指摘した 先見性は、驚嘆に あたいする。時流 同時代人に さきんじていた。もしも、松下大三郎が 1931(昭6)年 脳溢血に たおれ 「言語さえ不自由な重い病床」に あって「奥様の通訳」を 必要と する こと 4年、1935(昭10)年に 脳溢血を 再発する 不運も なく、あのまま ながいきして 戦後民主主義の 世界も みていたら、と 想像してみる 夢想は、せつなく いたましい。
 「証拠」に もとづいて「推想(推定)」する ―― これは まさしく 近代法の 精神であり、近代国家に ふさわしい。大正デモクラシーの 精神であり、その 表現である。古代 万葉の 世界は もっと「見ゆ」の 世界に よった (様態)表現では なかったか。

   はる すぎて なつ きたるらし しろたへの ころも ほしたり あめの かぐやま (万葉集)
   はる すぎて なつ きにけらし しろたへの ころも ほすてふ あまの かぐやま (新古今集)
この 有名な うたの 通説的な 理解は、「らし」は 客観的な 推定だ という ものであるが、眼前の 風景か 伝聞の 風景か の ちがいは あっても、われに「みゆ」る 風景の「らしさ」の ほうに 重点が あるのではないか。事実世界か 伝承世界か という 素材的(referential)な 世界の 抽象性 虚構性の 問題と、客観的な 素材世界よりに 表現するか 主観的な 表現主体よりに 表現するか という 表現性 構想性の 問題とは、むろん 無関係ではないが いっしょには できないだろう。「推定」を いうのは 近代に ひきつけすぎた みかた、近代主義的な 解釈ではないか。個々の 表現形式だけで 判断してはならない。表現世界を 全体的に 論じなければならない。語彙 文法の 体系的な 意味史が 必要なのだ。
 社会的な 文法(制度)は いつも あとおいであり、個人的な「言語形成期」は はやく すぎさってしまう。社会の なかに 文法的に 確立するのを まえにして たおれる 先駆者の 悲劇を、またも 行動の ひと「畸人」松下大三郎に みてしまうのである。

 おおよそ ここまで かいた ところで、東外大 留日センター 准教授の 花薗悟さんから メールを もらい、1930(昭5)年の『標準日本口語法』では、「不確の動助辞」の 項(p.192)に いわゆる 伝聞の「さう(だ)」ひとつが あげられている ことを 指摘され、また その直後の 同年(訂正版)の『改撰』の「推想態」が evidentials と いえるだろうか という 遠慮がちな 疑義も だされた。わたしの『標準日本口語法』の 該当箇所にも よんだ しるしは ついていたが、記憶からは すっぽり ぬけていた (ほかにも うっかりミスの 指摘も うけたが、ここには はぶく)。ここでは、自分の うかつさを たなに あげて、仮説の 補強として 4つの ことを 追加して 指摘しておきたい。臆説に 臆説を かさねる、いわば「屋上 屋を 架す」ことに ならなければ いいのだが。
 1つめは、動詞の 相として 体系的に とらえようとする『改撰』と、助辞中心に 要素解説的に 普及を ねらった『口語法』とでは、前者の 体系的な とらえかたの ほうが 真実に せまる ちかづきかた(approach)を している という ことである。おなじ ことは 「単説」(助辞ゼロ)の「題目態」(『改撰』p.600)についても いえるだろう。一般に、無標形式の あつかいについて、『口語法』の 要素主義の 限界と いうべきだろう。ただし『口語法』の「連用格の提示」(p.443)も 参照の こと。研究者の「妥協」という ものは せめて こう ありたい ものである。あつかう ばしょが ばらばらには なるけれども、言及は わすれないのである。
 ついでだが、橋本=学校文法の わくぐみの なかで テンス・アスペクトを もっとも 良質に あつかうのは、やはり ばらばらには なるが、助動詞「た」の ばしょで 過去・完了の「た」と ともに 現在(の経験)の「する」も それと 比較して あつかい、補助用言の ばしょで 進行中・結果の「ている」を あつかう、という ものであろう (林 大 編著1961『新しい国語』「文法指導の手びき」東京書籍)。学校文法の 延命には、知恵ぶくろの ぢみな 努力・苦労も あったのである。しかし もし、林 大 が 橋本進吉の むすめむこで なく、文法に もっと 自由だったなら、という おもいは すてがたい。あたまが よすぎるのも、悲劇なのだ。
 2つめは、『口語法』に いう「他説」、いまで いう「伝聞」=聴覚的情報は、「証拠性 evidentiality」の システムの なかでは 中心的とは いえず、「ようだ/らしい」も 未分化的に/多機能的に ふくむ 用法だ という こと。松下の 説明の「混雑」(不足・不徹底) も、ここら あたりでは あからさまである。もっとも、この 文法的 カテゴリーの 創始者と される R. Jakobsonも、W. Chafe たちや A.Y. Aikhenvald も、にたような ものだが。データの 報告は ふえても、理論の 発展は あまり みられない。ヤコブソン流の 言語理論の 一般的な 特徴だが、言語の 諸要因(ex. 事象・言語内容・話者 etc.)を くみあわせた 普遍的な 論理図式に データを あてはめていく だけの 論理主義であって、言語の なかに 文法法則を 発見しようとは しないからであろう。
 3つめは、ここの 文脈で いえば、「伝聞」は 「証言」に あたり、前近代の「大岡さばき」などでも 証拠の 一部として あつかわれているが、その 証言の 証拠力に 制限を くわえていくのが <近代(法)化> だったのだろう という ことである。
 最後 4つめは、伝聞「そうだ」が テンスなどを うしない、不変化助動詞化 → 終助辞化していく ── なんと『口語法』も すでに 指摘している。また 先行形式に「〜(だ)って。」も ある。── のにたいして、様態/推定の「ようだ/らしい」が テンスなどを 堅持し、「助動詞」の ままで いる ことも、その 理由と ともに <のべかた=陳述性> の システムの なかに きちんと 位置づけて 説明しなければならない、というのが、松下を うけつぎ 発展させたい わたしの ちいさな 研究課題である。
 まだ あやふやな ことも ふくめて、あらいざらい 明言してしまう きっかけを つくってくれた 花薗さんに ひとまず 感謝しておきたい。この かるくちは、としの せいも てつだっている けれども、後悔の たねに ならぬ ように いのる ばかりである。


■無標と ゼロ記号

     単説 一般格 / 原動態 肯定態 現在態 明確(態)

 この 1行 すべて、松下大三郎の 用語である。助辞の つかない 詞(単語)が 断句(文)の なかで もつ 職能(格・相)の なまえである。最初の 2つは 名詞の <とりたて/係> や <格> の 用法に 関連していて、

   あの方、どこの方ですか、、存じません。    (単説題目態) 『改撰』p.600
   敵軍 来襲す    洋服 着た 人         (一般格)    同  p.485-6

の ような 用法を いう。動詞の「原動態 肯定態 現在態」は 例を あげる までもなく あきらかだろうから、略す。
 「明確(態)」とは 「動詞の相」の 一種「推想態」に 対して その マークの ない <断定> 的な もの、

   花 散る / 花 散りけり  [⇔ -めり/けむ]   (判定性の明確) 同  p.453

の ような 例を いう。
 いまで いう「有標 marked / 無標 unmarked の 対立」が、世界的に みて、理論的に 明言されたのは、トゥルベツコイ(初版1939, 再版1958)『音韻論の原理』が 最初だと いうのが 学界の 通念だと おもうが、実質的に うえの ような「無標項」が 記述された 松下『改撰』が 出版されたのは 1928(昭3)年の ことである。たしかに、トゥルベツコイの ように「欠如的 privative な 対立」という ような 理論的な わくぐみの 整理は ないけれども、「詞の副性論」として「格・相」の 論を「文法学の体系」に くみこんだ からこそ 可能に なった ことであり、単に 無自覚的に ふれた という ことで なしに、自覚的に「体系」の「無標項」を 世界に さきがけて 記述した ことは、もっと 顕彰されて しかるべきだと おもう。「体系 system」の、「部分と 全体の 相関」という、20世紀を 特徴づける 自覚 なしには ありえない ことである。過渡期の 文法として、文=全体に かかわる 断句論 陳述論 複文論の ない、所詮は「語論・形態論時代の 大文典」という 望蜀の 嘆は きえない けれども。

 正否は わたしには 判定できないが、松下に「ア氏の相対性原理は迷妄なり」(1923) が ある ことも、おそらく 偶然では ない。わかりも しない ことを 有名だから という だけで ただしいと 信じこむ 人間と、誤解が あるかもしれないが、自己の 信ずる 理論に したがって それに 論争を いどむ 人間と、はたして どちらが「研究者」に ふさわしい と いうべきだろうか。ひとは けっして 結果だけに いきは しない。せけんから 変人あつかいを うける だけだ。
 おなじ ような あつかいを うけがちだが、F. de ソシュールの「(記号)ゼロ」は、名詞の 曲用体系や 関係節の 構文構造(語順)を 例にして だされた、文内で もつ 語の 意味機能の ゆたかな 関係を、その 表現手段としての 簡素な 要素の 能記 signifiant の 有無に 還元して、説明を 簡便化する 処置という 感が ただよう(構造主義の 簡便化)し、時枝誠記の「零記号」に いたっては、詞辞(峻別)理論の 整合性を とりつくろう ための でっちあげ(虚構) という 感が つよい(図式主義の 虚構化)。ほんとうは、「有標 marked / 無標 unmarked の 対立」という 関係(構造)の とらえかたと、「記号ゼロ/零記号」という 要素(還元)の とらえかたとの、決定的な ちがいを よく かんがえてみる べきなのである。「構造的」と「構造主義的」との ちがいは、おそらく ここに 発する。自他の <関係> の なかに 成立する ものを、独自の <項/要素> に すりかえ、線を 点に きりきざむ。「ゼロ記号(φ)」は、「単説 一般格 / 原動態 肯定態 現在態 明確(態)」etc. の 多義を もつ と、構造主義者は いうのだろうか。その 多義の 成立する 条件・環境は なんだと いうのだろうか? ─── こういうのを ご都合主義的な「結果論」と いうのでは なかったか。構造主義は、みためは ひとを あざむくが、19世紀 要素主義の 20世紀における「おにっこ」なのである。奥田の いいたかった ことの ひとつも ここに あったのだろう と おもう。「言語の体系性」(1980)が、未完の まま、自分の ための ノートの 域に とどまり、啓蒙の 域には 達しなかった ことを おしみ 補完すべきか、後進の 無知 無関心を はじ 反省すべきか。
要素主義と 構造主義との あいだで なやみぬき、「(記号)ゼロ」の「錯覚」をも 自覚した F. de ソシュールが、いつしか「構造主義の父」に なり 教科書の 主人公に まつりあげられるのだから、時代の 流行主潮 というのは こわい。
 松下も 奥田も、ともに 脳卒中に たおれた 孤独な 先駆者だった、というより、「先駆」者である かぎり 孤独は 必然だ と 日常的には さとっていた ことだろう。徳田政信「大家の一語」(『改撰』複刻版)に ある「人間の一生は、きめられた軌道があって、人はただそれを知らないだけだ」(解説篇 p.40)という 松下大三郎の ことばや、『ことばの研究・序説』(1984)「あとがき」の「日本の言語学が100年ぐらいの年月をかさねて、ゆっくりのぼっていかなければならない坂道を、いっ気にかけのぼったようなもので、そこには拙速の原理がちゃんとはたらいている」(p.303)という 奥田靖雄の ことばを、わたしは そう 理解している。
 だが ひとは、いそがしさに しばしば 不摂生し、ときに 激する ものである。脳卒中は、一気に しねて 後遺症が のこらなければ、本人は かえって しあわせと いえるかもしれない。しかし、松下は、教授歴 5年、言語不自由な 病床に 4年、「気の毒」の 一語に つきる。奥田は、中途半端に 回復せず あのまま しねて、かえって よかったのだ。あとは しっかり ひきつぐ のみ。


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工藤 浩 / くどう ひろし / KUDOO Hirosi / Hiroshi Kudow


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