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文法研究ノート抄

2)語の 形態・手段性 など

不変化助動詞      推想態・複述語構文と 動作様相       テンスの 変質

連語論と 陳述論      アスペクトと 評価        アスペクトと もくろみ

行為の 開始局面       蓋然性と 確率性        ゆとりとしての 副詞

「時間の表現」その後      「二語文」の 基礎       「副詞」論の 不毛


■不変化助動詞

「つれづれ」の「きつねと こうもり」の 第2節に ことの ついでに、1953年に 金田一春彦によって となえられ、渡辺実「叙述−陳述連続説」に ひきつがれて 定着した、<「不変化助動詞」[=第3類助動詞]は 主観的 辞的な モドゥス(modus)[=陳述]である との かんがえかたは 迷妄である>という 趣旨の ことを かいたら、もうすこし 説明してもらわないと わからない と、質問 というより 抗議に ちかい ものを うけた。かく ばしょを かえ、基本に たちもどって、はじめから かんがえてみよう。「不変化助動詞」という 現代日本文法学の 基本的な みかた(paradigm)も、人間で いえば、もう 来年で 還暦を むかえようとしている。半世紀以上に わたって 現代日本文法学を 支配しつづけてきた、ねづよい 迷信とも いっていい。「20世紀後半の 基本思潮」とでも いうべき 過去の 思想に はやく なってほしいのだが。迷信にも 一理あり、よってきた かんがえの みちすじを たどってみよう。
「つれづれ」の ほうの 文章を よんでいない ひとも いるだろうから、すこし 復習しておくと、

「かもしれない」は 活用するから 客観的な ディクトゥムだが、「かもね。」は 主観的な モドゥスに なる;「しなくちゃならない」は 活用するから 客観的な ディクトゥムだが、「しなくっちゃ。」は 主観的な モドゥスに なる;どこか 論理が おかしくは ないか。活用する ほうは 多機能だが、活用を うしなった ものは 単機能化してくる という かんがえは、因果関係が 逆の 結果論だとしても 関連自体は まちがっていないが、その 単機能化 という ことと 表現の 主観化や 形式の 文法化 という 問題とは 直接の 関係は ないだろう。客観的な ままの 単機能化も あるだろう(動接辞の 静接辞化)し、単機能化する 語彙化も あるだろう(動詞句の 副詞化)。
という ことであった。《文法化》と 《主観化》との 区別も つかない、学界の 一傾向にたいする からかいであったのだが、もと教師として おおまじめに いえば、連体詞「うがった」の「た」の ような「動接辞の 静接辞化」や 副詞「どうしても」の ような「動詞句の 副詞化」などと、「不変化助動詞」が 決定的に ちがうのは、《文末》という 位置に おかれた《述語》という 構文機能を あわせもつ という ことなのである。「主観的 陳述的」という 性格を もたせる ものは、「不変化」という 形態的な 性格ではなく、「助動詞」が《述語》という 文の 部分に たつ ときに もつ 構文機能なのである。じつは 金田一の「不変化助動詞」が 述語機能を 密輸入していて、動詞の シンタクスや 活用形組織の 問題として とらえなおす 必要が ある ことは、三上章1955『現代語法新説』(p.376)などが 当時から みぬいていた ことである。《文末》という 位置についても 機械的に 理解すれば、
あめが ふっている()。/ きょうも ふってきたのか()。
あめが ふってきた()。/ かさを もっていきなさい()。
の ように、すでに 文の 叙法性(modality)が さだまった あとに 付加的に つく 間投助詞 ―― なくても 文は 成立する もの ―― が、もっとも「主観的」だ というのは まだ いいとしても、もっとも「陳述的」だ という ことに なってしまう。機能性ぬきに 《位置》を メカニスティックに かんがえる 形式主義者は もう いないだろうし、また、こういう 理論 わくぐみを 変だと おもわない「珍言語学者」「脳変形学者」も もう いきのこっては いないだろう と 期待したい。ただ、<「のだ」は、実質的には 不変化助動詞化している のだから、説明 というような 客観的な 意味機能と かんがえるのは おかしい>と 得意げに のべる 学者も まだ いきている らしいから、油断は できない。ただ 学問的に あいてに する 必要は もう ないだろう。20世紀の 遺物として 博物館にでも かざっておいて もらいたい。
 《述語》という《位置》に たつ「不変化助動詞」が、その 構文機能から「陳述的」に はたらく ことは 理論的に 説明できるが、主観的か 客観的か という 問題については、ちっとは ましな 哲学書を よんでもらいたい。わたしの ごとき ものが 仰々しく 論じる までも ないだろう。デカルト以来の 近代哲学の 基礎中の 基礎の 概念では あるが、日常語における やや かたよった 慣用を かんがえてみれば、学問用語としては 不用意には つかえなくなる という ものでは ないだろうか。
 「説明」が「客観的だ」という ひとは、《客観的/主観的》という 一対(pair)と 《知的/情意的》という 一対との 区別に 混乱が あるのではないか。情意(感情+意志)的な 面も 知的な 面も もつ「説諭」の 用法(「はやく ねるんだよ」)との 連絡を どう つけるのだろうか。《客観的/主観的》という 一対の 概念だけで とける ほど、「のだ」の 用法は 貧困では あるまい。人間の やる ことだから、「主観」に もどしておけば たいてい つぶしがきく とでも かんたんに かんがえている のだろうか。
 ついでながら、《知的/情意的》という 20世紀 英米哲学的な 二項対立の わくぐみと、《知・情・意》という 18-19世紀 ドイツ観念論的な 三項鼎立(不均衡「矛盾」⇒ 正反合)の わくぐみとの、時代精神とも いうべき 基本的な ものの みかたの ちがいも、進歩か 退歩か というような 二項対立的な みかたから はなれて、じっくり かんがえてみるべき 時期ではないだろうか。
 「のだ」や「た」や「そうだ」などが 「不変化助動詞」化している というのが ただしい としても、「説明」や「過去」や「伝聞(情報)」という 客観的な 意味ではなく、もっと「主観的」な「二重判断(措定断定)」「回想」「伝承(伝言)」といった 意味だ、という 結論には 論理的 学問的には ならないのだ。「不変化助動詞」化して 意味機能が 単機能化した としても、主観化する とは かぎらないのである。テンス・ムードの 機能・語形を うしない「不変化」に なって、発話現場に しばられた「一語文・未展開文」的な ものに 単機能化する ことを「主観化」だ と いいたいのなら、たしかに 日常語的な 意味での「主観的=不分明・未分化」では あるかもしれない。しかし、まじめに 研究者として 自覚・反省的に いうなら、述語化 ⇒ 主観化 という ことは、「のべる・陳述する」ことは「人間主体」の 表現行為である、という 証明不要で 不能な 公理(直観)レベルで しか いえないのではないか。それを「原理」を とう 文法理論だ と いなおりたいのなら、どうぞ 同好会で すきに やっててください。
 金田一春彦 渡辺実 芳賀綏らに よる、1950年代前半の わくぐみ(時枝修正理論)以降、学界主流には、めだった 進歩は みられない ように おもう。さきに 引用した ところに すぐ つづけて、
論理的には そう なる はずなのだが、文末の 終助詞こそ もっとも 陳述的だ という ことに なってしまう わくぐみとしての、表現論的な「線条性」に 基礎を おく 理論 ―― 代表としての 時枝文法。その 尖鋭化としての 渡辺文法、のちの 南 文四段階理論も 同断。金田一春彦も なんの かんのと いっても 基本的な みかたは 時枝文法の てのうちに ある という こと。―― の 問題(迷妄)は、いまから 半世紀も まえ 1962年に、森重 敏「文法理論の根本問題」(文学語学25)【『日本文法の諸問題』所収】が 根底から 批判しているのだが、「意味」的に 高級すぎたのか、学界には 無視 黙殺された。無恥にも 無知の ふりだった のかもしれない。
と かいておいた ように、学問的な 討議が まともに おこなわれない 学界に 発展は ありえないのだろう。
 森重敏にたいする ほとんど 唯一 議論らしい 議論の めばえが 鈴木重幸(+奥田靖雄)による 書評という かたちで あらわれたが、それが「論外」という 不幸な 応答で おわり、また とき あたかも、1960年代なかば アメリカでは チョムスキーの 標準理論、日本では 南不二男の 文4段階理論などが ではじめていて、それ以降の 学界の おもて舞台は、はなやかに 価値が 多様化した というか、各自 かってに あたりさわりの ない ことを いいあう ところに なっていった。こまかい ことは さしひかえる。


■推想態・複述語構文と 動作様相

0)「推想態」「複述語構文」といった ことばを きいて、ああ あれの ことかと すぐ おもいつく ひとは どれだけ いるだろうか。提唱者は おおまじめに 新発見を 自負していた と みられるが、そのまま 継承は されなかった ように おもう。しかし、いま これらを ひろいあげて 述語論として 再吟味して、あたらしい 動詞の 下位カテゴリの 提唱を こころみてみたい。

1)松下の「推想態」という カテゴリ(らむ らし めり なり / けむ)は あいまいである。ここでは その 欠陥を あげつらうのではなく、継承すべき 点を さぐっていきたい。松下が この カテゴリを 新設した 理由の ポイントは つぎの 2点だと おもう。
   a) 形式的には、第二活段(連用形)と 第三活段(終止形)へ つく こと、
   b) 意味的には、「既存の事の不明確」であり、「未存を … 予想する」時相の 未然態ではない こと。
 とりわけ、時相の 未然態(ならむ だらう)と 推想態とが ことなる こと、つまり 推想態の 時相は 現在または過去という 既存の事であって、第一活段(未然形)接続の 未然態の あらわす 未然(未来 仮定 予想)の 事件としての「観念の取扱方」と あいいれない ことに 注目した ものと かんがえるべきであり、a)の 一部である 第二活段(連用形)接続の「けらし」「けむ」は、「既存の事」という b)の 共通点から 周辺に いれられた ものであり、推想態の 中心ではない、と 中心/周辺的に みるべきである。
 古代日本語の いわゆる 未然形接続ではなく 終止形接続の 叙法性の システムが まずは 問題なのである。つまり 意味の 問題というより、古代日本語の 形態に もとづく 述語の システムの 問題なのであって、ヤコブソンの「証言性 evidential」(『一般言語学』p.157)の ような 論理的な 範疇は 参考には なるけれども、日本語文法理論の 出発点では けっして ないのである。

2)「みゆ」「あらむ」「あらし」などの 終止形接続の 構文を「複述語構文」と よんで、その 構文論的な 特異な 機能に 注目したのは、馬淵和夫1968『上代のことば』第4章 文法(北原保雄 執筆)であった。

「複述語構文」は、二つの述語を有するということからの呼称であったが、その二つの述語は、以上の諸例に見たように、決して等価等質のものではないのである。前部述語が主格語の動作や状態についての客観的な叙述であるのに対して、後部述語は、言語主体の対象把握の仕方についての表現である。(『上代のことば』pp.161-2)
と のべて、「文節の孤立性」が いまより たかかった 上代に 特有な「複述語構文」という 構文を みとめるべきだ と 主張したのである。馬淵の「はしがき」の かきかたから 馬淵+北原 共同説と みておく。
 北原たちが つよく 主張している 「文節の孤立性」が いまより たかかったか どうか は 別にしても、この ふたつの 表現は 単語(=文節)内部に おこりうる 意味要素である。ヴァンドリェスの 有名な「セマンテーム」「モルフェーム」を おもいおこし、単語が 文の 要素=部分だ という ことを 基本的に みとめれば、この ふたつの 要素 ―― 山田孝雄の ように 属性+陳述 と かんがえようとも、奥田靖雄の ように 語彙+文法 と かんがえようとも、その 両側面 ―― を 単語が もつ ことは、普遍・一般的に みとめられる 単語の 基本特性である と かんがえられる。橋本進吉・時枝誠記を 頂点とする 形態素主義 ―― つまり 解釈文法として、体系・構造的な 意味・機能を 重視せず 要素・成分的な 形態的な 対応を 一対一的に 偏重する 方法 ―― の たちばから みれば、ひとつの 単語内に 同居しえない 表現として、「複述語」と みなさざるをえない かもしれないが。
 しかし おちついて 言語学の 常道、たとえば A. メイエの「文法化」の かんがえかたに したがえば、自立語の 付属語化 もしくは 内容語の 機能語化、つまり いわゆる「本動詞」の「補助動詞」化 と かんがえれば いいのではないか。つまり、「終止形接続」の 構文は「終止述語法」の 補助・詳細化であり 範例(paradigm)化である と かんがえれば すむ ことではないか。「複述語構文」は、(形態)音韻論に さおさす 馬淵+北原に よる、「推想態」という 述語機能体の 形態素主義的な 錯覚なのである。
 おなじ 言語現象に であった としても、他に 応用の きかない 特異な「複述語構文」と 一般化するか、適用範囲の ひろい「文法化」と 一般化するか、おそらく その ちがいは、その 研究者の 視野の ひろさや 資料の ゆたかさに 比例するのだろう。

3)1989年「文の叙法性 序章」の 段階の システムでは、「たしかさ」や 「みなしかた」という、ダブルテンス(ex. しタようだっタ)を もち、前部テンスを もつ「A 基本的叙法性」も もちながら、後部テンスを もつ「B 副次的叙法性」も もつ という、二重性格の 下位叙法形式群の あつかいに こまっていた。いま 松下の「推想態」の 着想を うけて、現代日本語に 動作様相態 という あらたな カテゴリを 新設して、より 整合性の たかい システムを 構築する ことが 可能になる かもしれない。
 「動作様相」は、構文論・述語論的には 動詞述語の「文法的な 分析形式」(合成述語)であり、単語論・品詞論的には 終止述語の 位置に たつ「むすび(繋辞 copula)」である。動詞の 叙法(mood)の 補佐組織であり、述語の 叙法性(modality)の 拡張組織である。ちなみに のこりの 推量(だろう) 説明(のだ)などの 基本的叙法性は 活用語形であり、兆候(しそうだ) 希望(したい)などの 副次的叙法性(様態系 感情系)は 動詞派生態である。「ても/ば/と/たら いい」などの 評価系の ものの 位置づけは、いまだ 暗中摸索の なかに あるが、動作評価態 という 一部類を つくる 方向で いまは かんがえている。まったくの こころおぼえに システムの あらましを かきとめておく。批判的に みていただいて、ご意見 ご感想を おききしたい。「語と 文の 組織図」や「あゆひの システム」との おりあいも つけなければならず、前途 遼遠たる ものが ある。当分は ボケても いられそうに ない。
動詞の 叙法       (動詞活用形)   (ふ  つ  う)         (ていねい)
                    記述      説明
    叙述  断定  現在      する      するのだ
            過去      した      したのだ
        推量  現在      するだろう   するのだろう
            過去      しただろう   したのだろう
    意欲  勧誘          しよう               (しましょう)
        命令          しろ                (しなさい)

動詞の 派生態      (動詞拡張態)
    様態  しそうだ しがちだ しやすい / (態様) してしまう してある しておく
    感情  したい / してほしい / (意図) するつもりだ する気だ [前部テンス変質]

述語の 分析形式     (合成述語態)
    様相  ようだ らしい そうだ はずだ / (確信度) かもしれない にちがいない
    評価  ても/ば/と/たら いい    ては/ば/と/たら いけない


■テンスの 変質

 テンス(とき 時制)が、できごとや 行為を あらわす 動詞文の 終止述語の 位置において 全面開花する ものであって、その他の 位置では システムが 変容して 相対的テンスや アスペクトに なったり、未分化のまま ふるい 意味の 残存として 事態発生や 状態持続の 確認の 表現(原ムード)であったり する ことや; さらには 形式名詞の 文法化した むすび(繋辞/判定詞)の 叙法性や つなぎ(接続詞)の 従属性に よって、テンスの 喪失(欠如/中和)や 変質(細分/移行)が おきる ことも; すでに よく しられた ことかと おもう。本来は おおきな 問題なのだが、いまは ゲリラ的に、特殊問題だけを パターン化して ざっと ながめておく。

 1) テンス対立の 喪失
  1a 欠如(他方への 固定)
      叙法性 きれつづき   継起/順序−場面/舞台性
    × した ことができる  した まえ    した うちに   した たびに
    × する ところで    する あと    する あげく   するが 最後

  1b 中和(うわべの 対立)
    特徴を も つ もの   ち が う いろ   文法に 関する 問題
    特徴を もった もの   ちがった いろ   文法に 関した 問題

 2) テンス対立による 形式名詞(むすび)の 意味の 変質
    する つもりだ(意図:未来の 事態への 自分の きもち)
    した つもりだ(心算:過去の 事態への 自分の きもち)

    する ことが ある(稀少:一般的な 事象の 可能性)
    した ことが ある(経験:個別的な 事態の 生起性)

 3) テンス対立と 形式名詞との 双方の 変質
    する ことだ(道理:主題にたいする 一般的な 叙述・判定)
    した ことだ(感動:事態についての 個別的な 表出・提示)

    する ほうが いい(一般的な 比較:適切性)
    した ほうが いい(特定的な 勧告:適切性)

 1)の テンス対立を 喪失した ものは、a)欠如にしろ b)中和にしろ、形式の 有無や「知的意味」の ちがいの 有無といった 音韻論レベルの 明確さで 記述できるが、2)と 3)との 意味的な 相違(対立)は、情意的な 意味や 文体的な 意味といった ちがいも からむ だけに、どう 学問的な 批判に たえる 定式化を したら いいか 問題に なる。念のために いうが、
    この パーティに あつまった うちには、大会社の 社長さんたちも おおく いた。
    かれが 大演説を ぶっていた まえには、未成年の 男女も おおく いたのである。
といった 例のように、ある 集合体の 範囲や 空間の 位置などを あらわして、時間的な 意味では もちいられていない ばあいには、もちろん この テンス制限は ないのである。したがって この 意味と 用法(意味の 実現条件)との 関係は やや トートロジカル(同語反復的)にも みえるが、その 実質上の 無意味さ(新情報が ない こと)を 事実上 たちきってくれるのは、現実(使用)の 用例に 対応させつつ くわしく 記述される 多義(要素)の 構造である。部分や 要素だけを いくら みつめていても、みえてこない ものも ある。全体の システム(体系)の なかで しか みえてこない ものも あるのである。せわしない かっこだけの アメリカニズムの 流行に、つい おいの くりごとを こぼしたくも なる。よのなかに たえて「博士」の なかりせば …… のどけからまし

 2)の 形式名詞の ほうに 主として ちがいが あらわれる ばあい、その かっこ内に 簡潔に しめした ように、相違点:独自性も もちろん もつけれども、共通点:一般性を 抽象できる ようにも おもえるのである。多義的に とらえた ほうが 教育に やくだつのだろうか、一義(意義素)的に とらえた ほうが 研究的と いうべきなのか。そのさい、意味を どこまで 細分して 記述するか という 問題が、言語(language)の レベルでの 問題なのか、ことば(speech)の レベルでの 問題なのか、という 意味の 抽象・一般化の 限度の 問題(目的しだい)にも ひろがっていく。記述する さいの 具体的な 問題としては、叙法性の 意味の 文のなかでの 具体的な ふるまいによる ちがい、つまり「場面・文脈的な意味」(文法論者) あるいは「文体・表現的な意味」(文章論者)の、付加〜中核性 もしくは 任意〜必須性を、研究の 目的との 関係で どう かんがえるか という 問題に なっていくのである。
 たとえば「するつもりだ・することだ・するはずだ」などを 「文末名詞文」(新屋映子)の なかでも 叙法性の システムのなかで 独自な 位置を しめる 形式と いえるか どうか という 問題に なるのである。歴史的に 過渡期に 位置して、「共時体系」のなかでは 中間的で あいまいな ふるまいを みせる 形式を どこに ちかづいてくる 形式と みるかは、研究目的にも よるのである。目的 なしに 視座も なく、視座 なしに はたして 動体視力が 生じる ものだろうか。ものの 方向と 程度(ベクトル)を 静止的にしか みられない システム感覚では ことばを 対象に するのは やめて「論理」を 対象に した ほうがいい ように おもう。ベクトル性を みぬく ことをも「主観的」だと いうのなら、研究自体 人間の する 行為で「主観的」なのだ と いなおる しか ない。

 3)は テンスと 形式名詞との 双方に 相違点も 共通点も 感じられる ものである。―――「ことだ」という 本来 テンス対立が 不要な 名詞述語(化)形式の ために; また 「ほうが いい」という 叙法性形式の 未実現性 という 性質(意味側面)が、「未来−過去」という テンス的な 意味対立との 共起を 拒否する ために; 「一般−特定(個別)」という ことがら(とくに 主語名詞)の ありかたの 対立に 変容し、その 結果、述語の 位置に たつ 形式名詞の ほうにも 独自性を 付与する ことと なったのである。
 どちらも、「名詞述語(化)」「適切性」という 共通点(変化の 原型)を 前提(母胎)に している ことは あきらかだろう。

 以上の ことは、文のなかで はたす テンスの 特殊な 消極的な 機能に 注目した 考察であり、本来は テンスと ムードとの「相関性/反比例性」といった 一般的・法則的な 関係のなかで 議論すべき ことなのであろうが、いまは ちからが およばない。


■連語論と 陳述論

1)陳述論に 対するのは 連語論か 構文論(文構造論)か
 陳述が 文の のべかた つまり 表現の 形式の カテゴリだとすれば、その 相対的な 土台を なす 文の 内容の カテゴリは 文の (文法的な) 構造である。連語ではない。主語の 部分/側面 を あらわす、いわゆる「再帰構造」の 文においては、文の 主語との 関係が 文の 部分としての 機能を ふつうの 他動構造の 文と ことに して、たとえば、連語「あしを おる」は、

わたしは スキーで あいての あしを おった。補語(手段)+補語(対象)+述語  「他動構造」
わたしは スキーで (自分の) あしを おった。状況語(状況〜原因)+合成述語  「再帰構造」
のように 文の レベルでは 構造が ちがっていて、文の 陳述の ほうも、意志的な 行為の 過去(終結)と、無意志的な 事態の 過去(発生)という ふうに ことなる。終結と 発生は、ことなった 場面の なかで ことなった 展開(他の できごととの 関係)を みせるだろう。テンス・アスペクトの いわゆる テキスト論的な 機能とは、微視的には まず こうした ちがいとして あらわれる のである。
 奥田も を格連語論 第1章の 最後 35項(p.79)で のべている ように、この 問題は 文の レベルの 問題であって、連語としては ひとつ(同一)である。ちがいは 陳述的であって、文の 陳述論において まずは 意志的行為か 無意志的事態か の 問題として あらわれ、ついで それとの 相互作用のなかで 対他的な 対象を もつか どうか という 文の 構造(他動/非他動=自動)論に ちがいを もたらすのだが、そうした 文全体の のべかた(陳述)に かかわる 性格は 連語論においては 単語論と 同様に 捨象される のである。

 以上の ような しだいであるが、通常の 文では 一様に 主語を もつから、文の 文法的な 構造の 形式的な 面においては、再帰構造や とりたての 問題を のぞけば、を格以降の 動詞連語論を 文構造論と みなしても おおきな まちがいは 生じない。そして 具体的で 内容ゆたかな 記述は 連語論が 先行していて、文構造論に とくに みるべき ものが まだ ないから、事実上 陳述論者にとって 連語論が いまだに 必要で、土台を なす もので ありつづける のである。


2)連語論の 方法の 基本
 奥田の を格連語論は、『日本語文法・連語論』(1983)の「編集にあたって」では「唯物弁証法を日本語の文法現象のなかに発見して、具体的なかたちでさしだした最初のものである」(p.17)と 位置づけられているが、より 具体的には おおよそ、
実体的な ものと、その 対他的 関数的な 関係    実体:機能(function)
語彙的な 内容と、その 環境的 文法的な 形式    内容:形式(form/rule)
と 図式化しうる ような「実体と機能」「内容と形式」といった 基本的な かんがえかたを 根柢に、実証的 体系的な 記述を おこなっている。そこには「方法論上の重大な問題」「いくつかの領域にかかわっての重大な命題」が みうけられる と いい、例として 語彙論と 慣用句論が あげられているが、構文論 モダリティ論も、方法として 通底する という 意味で あげても いい(なお 後述)。
 「言語の単位としての連語」(1976) ―――「理論的な総決算」で「いちばんできがいいと、自分で思っている」と みづから 解説する 論文 ――― では、連語という 舞台においてこそ「要素としての 単語と 構造としての むすびつきとの 相互作用」が 理解しやすい (単純な) かたちで みられる と いい、さらに、連語の 構造は、まずは「syntagmatic な valence の 構造的な むすびつき」として あるが、その 構造的な タイプは、相互に 関係しあう「paradigmatic な 体系を なしている」と いい、「体系的 systematic な アプローチ」を 実践しているのである。【cf. 結合価文法の「構造」、ソシュールの「体系」、サピアの「タイプ・パタン」】

 はなしを もうすこし 具体的に しよう。もっとも 基本的な「物に対する はたらきかけ」の 6つの タイプの うち、

    aもようがえ  [具体名詞]を([結果状態]ニ/ク )[もようがえ動詞]
             かぼちゃを   ふたつに     わる
             だいこんを   ちいさく     きる
    bとりつけ   [具体名詞]を [具体名詞]に  [とりつけ動詞]
             名札を     胸に       つける
             げたを    <足に>      はく
    cとりはずし  [具体名詞]カラ/ノ[具体名詞]を  [とりはずし動詞]
             首から/の   包帯を      はずす
            <頭から/の>  髪を       刈る
    dうつしかえ  [場所]カラ[場所]ニ/マデ[具体]ヲ  [うつしかえ動詞]
             現場から 品川沖に 死体を    移す
                 窓のそばに ポスターを  運ぶ

の 4つは、めに みえる 形式を 重視する 構造主義者にも 比較的 理解しやすいかと おもうが、

    eふれあい  ([具体名詞]で)[具体名詞]を  [ふれあい動詞]
             手で      頬を       さする
             針で      顔を       さす
    f結果的   ([具体名詞]デ/カラ) [具体名詞]を [生産性動詞]
             紙で      飛行機を     おる(つくる)
             米から/で   酒を       つくる

のように、外形としては「aもようがえ」と 区別しにくい ものを ひとつの 連語型として みとめるべきか どうかには、まよう ひとも すくなくないだろう。しかし これらは、他動構造に おかれた、動詞と 名詞の「カテゴリカルな意味」によって 表現を うけている 構成体であり、「モノの を格の 相関図式」のように 図式化できる 配置で、paradigmatic に 関係しあっている のである。
ささにしきで ごはんを たく      f結果的
ささにしきを ごはんに たく      aもようがえ(変化) [← 外形は 結果=付着(移動終点)構造]

ほうれん草で おひたしを つくる    f結果的
ほうれん草を おひたしに つくる    aもようがえ(変化) [← 外形は 結果=付着(移動終点)構造]
の ような おなじ 現実を、「もようがえ」「結果的」の どちらでも 表現でき、
ほうきで 茶の間を はく   eふれあい(接触)
茶の間の ほこりを はく   cとりはずし(除去=接触はずし)

はりで かおを さす     eふれあい(接触)
はりを かおに さす     bとりつけ(付着=接触づけ)
の ような にた/おなじ 現実を ことなった「かた」で 表現できるのも、この 連語型が、言語的な 事実であって、体系的に はりあっている ことを ものがたる。とともに、連語システムの 問題を valence の (syntagma)構造の 問題に 還元/解消できない ことをも 意味する。全体としての システムの 問題は、部分/要素としての syntagma/valence の 問題に 解消は できないのである。
 要素 element が 関係し 構造化されて つくられる syntagma と paradigma とは、たがいに 密接不可分に 相互作用して 全体の システム(体系)を 構成している のであって、L. イェルムスレフが 分離 分析する ように、syntagma「構造」と paradigma「体系」とが 別々に 機能する「独立変数」として 存在する のではない。特性として 分析は できるが、実体として 分割してはならない。
奥田1980「言語の体系性」の 目的の ひとつは ここ、つまり 構造主義の 批判 克服に あったのだ と かんがえられる。
それは、残念ながら いまのところ、研究会幹部会員によっても 正当に うけつがれている ようには みえない。
ちなみに、わたしは「体系」の 不変 不易的な ニュアンスを きらって、「システム」の 動態性 dynamism を このむ。

3)動詞の 派生的な 意味と 文法化
 奥田靖雄1967「語彙的な意味のあり方」が 動詞「みる」を 例に していること、まなでし 村上三寿2012「<きこえる・みえる> を述語にする文 ―― 文の人称性とモダリティ ――」(奥田没後10年シンポ)が、
この報告では、<きこえる・みえる> を述語にする文について記述・検討しながら、文のモダリティ全体をとらえていくための手がかりのひとつをさぐっていきたい。
と かきだされている ことに 注意したい。村上の 研究計画の うらには むろん 奥田の 指導が あった と かんがえられる。
 いわゆる 分析的な モダリティ形式に「と みえる(≒らしい)」「と きく(≒そうだ)」「と おもう(≒だろう)」のような 知覚〜思考動詞が つかわれている ことは 周知の ことだが、たんに 分析的〜語彙的な 形式として 記述するに とどまらず モダリティ論の 基礎づけに しようという 方法(視座)は いかにも 唯物弁証法論者 → 語彙文法論者 → 単語文法論者 奥田に ふさわしい。
 奥田靖雄1967 が 動詞「みる」を 例に しているのも だてではなく、語彙と 文法との、文法における 内容と 形式との 関係の 根幹に かかわる 問題として、どこまで 自覚的だったかは ともかく、考察されていたのである。同訓異字の 問題(見/観/看/診 … み)さえ、奥田にとっては 文法法則の (波及)問題としての、連語的な 意味派生の 余波なのである。
 「引用を うける」「主語が ない」といった 文のなかでの 機能に しばられて 「みる」の 意味が 派生する 問題 ――― 知覚 → 判断 → 叙法(「繋辞」) ――― は、「いう・きく・おもう」の 文には、知覚を 言語/思考に かえれば ほとんど そのまま 適用でき、「みえる・きこえる」の 文には、に格成分の 有無として 応用できる。また 所有(have)「Xが Yを もつ」と 存在(be)「Xに Yが ある」との 関係における 個別/一般の 問題(所持〜所有〜包含 滞在〜存在〜内在)にも 波及するだろう。
これを 応用可能な 方法の 問題として よみとれるか どうかは、よみての 研究の 質の 問題にも 関係するだろう。自分なりにしか よめない というのも 残念ながら 真実である。古典的な 著作は なんど よんでも あたらしい 発見が ある と よく いわれるのも、じつは よみてが 成長した ためだ という ばあいも おおく あるのだろう と おもう。
 以上が 活字版の 第3章 第1節 認識と 第2節 通達とに かかわる「文法化」の ながれだ としたら、第3節 態度と 第4節 モーダルな態度 という 連語的な 意味の 分化は、前者が 認識的な モダリティに、後者が 行為(意志)的な モダリティに 対応し 、ついでに いえば 第5節 内容規定は 引用/話法に 対応する と かんがえられるのだが、この あたりは 1960年の 草稿版と 1968〜72年の 活字版との あいだで 分類が 完全には 一致せず、草稿版の 校訂者注などを みても 推敲の あとが みられ(とくに 注41 42)、その ちがいも 興味ぶかい ものが あるが、たちいって 吟味する 知力 体力が つづかない。わかい 世代に 期待したい。
ついでだが、「編集にあたって」p.16 に ふれられている 草稿版の 第3章第5節「動作的な態度」だけでなく、第1章第4節「論理の表現」と 第3章第7節「論理的な関係の表現」も、活字版では すくなくとも 表面上 目次から きえている。この あたりの 事情も 関連が ある かもしれない。いっしょに くらべて、かんがえの うつりかわりを みてもらいたい。
 を格連語論が しあがっていく 過程(1960〜1972年)で モダリティの おおわくは できあがっていった というか、モダリティの おおわくへの みとおしが 連語の システムの 分類に 影響していく というべきか、いづれにしても 両者は 無関係な ふたつとは みなされていなかった と かんがえるべきである。【結合価文法 格文法などの たし算的な 図式との 決定的な ちがいは ここに ある。】
ねえさんは ぼくを 生活上の 必要の 道具と みている だけで ……
ぼくの いう ことを 理想と きく/いう ようじゃ、……
ふたりは ちかぢか めでたく むすばれると きく/いう/おもう。

アメリカの 帝国主義者は これだけでは 不足と みえて ……
わたしには かれの ことばが 福音に きこえた。
これが わたしの みはてぬ ゆめとも いえる。
しかし とおい 将来 実現不可能とも おもえない。
といった 知覚〜言語〜思考 活動の 動詞、および その 自発〜実現〜可能 形態が、モダリティへの 文法化の みちすじを、一直線に ではなく 複数の 経路で たどりそうな ことに 注意したい。複数の 経路とは すくなくとも、格成分の 主格/与格の ちがいや、人称性の 定/不定の ちがいが からみ、さらに 定:当事者(1・2人称)/傍観者(3人称)、不定:不特定(だれか) /一般(だれも)の ちがいが からんで、外見に あらわれるだろう。文の 陳述の センターとして はたらく 述語の 部分では、時間性(temporality) 叙法性(modality)の ちがいとして 現象するだろう。つぎの「ちがいない」の 例では、内容としての 実体の カテゴリカルな 意味の (連語論的な) ちがいに 応じて、文の 機能が 変化していく かたちで 文法化が すすんだ と 推定して よさそうである。に格連語論の「内在のむすびつき」(第1節b)から 派生する「陳述的なくみあわせ」のうちの c) かかわりのむすびつき「興味がある・関係がある」などと くらべてみると、そこには 名詞の カテゴリカルな 意味が「関係があ」って「興味がある」文法現象が みられるだろう(p.286-7)。「-に ちがいない」の 形成には、カテゴリカルな 意味の ちがいの うえに、否定態でのみ もちいる という「慣用的なむすびつき」の 条件も はたらく。「らしい」では、連体(形容詞)修飾 名詞述語 といった 用法(機能)から 動詞述語へと 用法(機能)を 展開 拡大する ことが、形容詞派生の 接辞用法から 推定判断の 助動詞化「文法化」の 促進 定着に はたらいていると かんがえられる。
Aと Bとに ちがいは ない。   (おおもと 存在/非在文 → 異同関係文)
正方形は 四辺形には ちがいない。 (ふたつの 名詞の あいだの ちがいの 有無 判定)
かれが 犯人に ちがいない。    (名詞文で 主 述の ちがいの なさ = 同一 判断)
かれは きたに ちがいない。    (動詞文に もちいられて、できごとの 臆測)

あめらしい あめが ふらない。   (連体修飾 接辞)
武家屋敷らしい 門構えが みえた。 (連体修飾 接辞〜助動詞 両面性)
あの 家屋は 武家屋敷らしい。   (名詞述語 助動詞〜接辞 両面性)
武家屋敷にも いってきたらしい。 (動詞述語 助動詞)
 よほど 注意しないと、単純な 図式への 希望的な 観測に おちいる おそれも あるが、連語構造に しばられた とき (語彙的な ふつうの) 派生的な 意味が 生じ、文の 機能に しばられた とき 「文法化」(機能変化を ともなう 派生的な 意味 機能) が 生じる ことが おおい、とは いってもいい かもしれない。そのさい「文の 機能」も、最低限 <むすびつき・統語(連辞)関係に かかわる もの>と <かかわり・状況(範例)関係に かかわる もの>とに 下位分類する 必要が あるだろう。前者は 品詞転成(「語彙化」の 一種?)に、後者が いわゆる「文法化」に、おもに かかわっていく ことに なるだろう。
 今回は「単語の くみあわせの 理論」(1958)には 関説しない ことと したが、研究史的な 興味が ない わけでは ない とだけは 言及しておきたい。【体力 根気が つづかない。あとに つづいてくれる ひとが いる ことに 期待する。】

 「語彙的な意味のあり方」の ことを、『ことばの研究・序説』の「あとがき」(p.305 自分名義)では、「ヴィノグラードフの 翻訳」に たとえながら、「よく理解できたということ」には「やはり私が存在している」と "自己批判" 的に かたっているが、これは、奥田の 自負の 表現と よむべきである。あるいは、「わたしたちは、ソヴェート言語学のさしだした一般的な命題を、日本語に機械的にあてはめようとしたことはない。日本語の具体的な研究のなかに発見できるものだけをうけとめて、うけとったものをすこしは発展させているつもりである」(『日本語研究の方法』「はじめに」C 編者 松本泰丈 名義)と おなじ ことを いっている、と いってもいい。【cf.「カントを 理解するは カントを 超越するの 謂なり」】

   ▼次節は、削除するに しのびない かんがえを ふくんでいるので のこす ことにするが、
    研究会 発表草稿としては 除外して かんがえる。    [ある 研究会の 発表草稿]
4)陳述性と 主体性
 一般に「といえる」を「だ・である」の 語彙的な 分析的な 形式だと みないのは なぜだろう。国文法では そもそも「だ・である」は 陳述論の 対象ではないかの ようである。戦後国文法を リードしてきた 渡辺実も、断定(第1類)「だ」は 論理的で 叙述的、推量(第3類)「だろう」は 情意的で 陳述的、推定(第2類)「らしい」は その中間、と みている。断定には 客観的/論理的 証拠/理由が あるけれども、推量には それが ない ばあいも ある、という わけだろうか。断定と 推量とを 対立と みない、こうした 通念を ただす ためには、推量/推理 inference と 想像/構想 imagination と 空想/夢想 fantasy/dream との あいだの こんがらがった 関係を 整理する 必要を 感じるが、基底においては 心的/心理的な ものを 主観的/情意的な ものと みなしてしまう (思考心理学者を いたたまれなく してしまう ような) 通念が 戦後の 日本語学者の 大半を 支配している のだから、病根は ふかい。
 たしかに、思考は ひとつの 意味で 「主観」的かもしれないが、たんに 情意的な ものではなく すくなくとも 知的(論理的)な 面を 基本的に もつ。「客観」テストにも たえる ものでなければ ならないのは 教育者の 常識であろう。もう そろそろ 論理/心理 の 区別と 客観/主観の 区別とは 別種の 区別だ という ことだけは 日本語学の 基礎知識に なってもらいたいのだが。
 もっとも、ヨーロッパでも 19世紀の H. パウルの「心理的主語」を 「論理的主語」に かえるべきだと 主張した、20世紀の A. ガーディナーの 論調にも にた ひびきが あり、この 傾向は 全世界的に 20世紀を 席巻した 風潮であったと みるべきかもしれない。パウルの「心理的主語」は、文法化される まえの 主語 ⇒ 心理的 発話機能的に 主語あつかいされる もの という くらいの おおざっぱな 意味であった と 推測される のに対し、ガーディナーの 論理・心理は [論理 ⊂ 心理]という 包摂(上位下位)の 関係ではなく、より 細分化された [論理 ⇔ 心理]という 対立(同位)の 関係で とらえられているのである。それは [知 ⇔ 情意] もしくは [論理 ⇔ 感情]という とらえかたに ほんの 一歩の ちかさである。
 なお、20世紀では [知 ⇔ 情意]という 二項対立であって、カント以来の [知−情−意]という 三項鼎立でない ことにも 注意しておきたい。サイバネティクス〜IT を 基礎づける ON/OFF 的な 二項対立 というか 二律背反 的な 思考が 20世紀の 主潮を 特徴づけているのである。中庸精神や バランス感覚は どっちつかずの 優柔不断と みなされる のである。三項鼎立は 安定を かく とき、共時 体系的には ゆれ(潜在性) potentiality として 現象的に あらわれ、通時 歴史的には 正 These − 反 Antithese − 合 Synthese という 弁証法的な ながれ(発展)の すがた(展相)を みせる。
 はなして としての わたしに おきる こと、知覚 言語 思考 活動などが 叙法性の 基礎に ある ことは まちがいなく、日本においては 時枝が、ヨーロッパにおいては バンヴニストや ライオンズが、「主体性 subjectivity」を つよく 前面に おしだしたのは 学問の 発展のため 方向転換のためには 必要な ことでは あったが、そのことから 陳述性や 叙法性が 主体性の うちに ある という ことには ならない。陳述性や 叙法性は 状況(客体)との 関係も もちろん うちに ふくんで 成立してくる のである。奥田や 村上が「人称性」という 構文論の 用語に とどまって 研究しているのは、流行に のりおくれている わけではない。また「人称性」に 関連して、バンヴニストと ライオンズとを 同一視する ことも できないだろう。バンヴニストは 分析レベルを わきまえた 言語学者である。むろん、だれにも 時代的な 制約は あるが、文の 問題を 「発話 談話」のなかでの「主体」の たちあらわれかたの 問題と 短絡させ、構文的な 構造や 機能の 問題を みおとしてしまう ような ことは ない。文と 文章(テキスト)とは、相互依存の 関係に ある とはいえ、相互に 別の 独立した 構造体なのである。人称性は、言語によって 語形態の 問題であったり、文構造の 問題であったり する。むろん 文章構成の 問題にも からむであろうが、一流の 言語学者が そうした 区別、レベルの 問題を 混同しは しない。


■アスペクトと 評価 ――「してしまう」の 意味の ありかた ――

0)10年 ひとむかしと いうのに もう ふたむかしも まえの ことで 恐縮ですが、としよりの 時計は ときに とまってしまう ことも あるのでして、壮年期の にがい おもいでを めぐる くりごととして おおめに みて ゆるしていただきたく おもいます。
 藤井由美(1992)「『してしまう』の意味」について、『ことばの科学5』の 事務局長名義の 解説では、「彼女が高校の教師であるということばかりでなく、事実の観察に徹底していて、アプローチがもっとも研究会らしいのである。」と はじめに この 論文で 巻頭を かざった 理由を のべ、「むしろ、吉川からはなれて、事実から出発したから成功したのである。結果として、藤井には吉川の仕事がみえるようになった。」と 解説を しめくくる ように、ほとんど てばなしの ほめようであるが、はたして そう いっていい のだろうか。
 1970年代後半の アスペクト論争の ときと おなじ ように、高橋太郎や 鈴木重幸は 理論的に あやまっているが、吉川武時は 事実を 正直に 記述している、とでも いいたいのだろうか。藤井は「あとがき」に 奥田靖雄から「たくさんの教え」を うけた ことを 告白しているが、奥田は 自分で 事実を たしかめないで ほんとうに だいじょうぶだった のだろうか。ことは、高橋−吉川連合と 奥田−藤井連合との 代理戦争の 様相も 呈しており、当時は 気がるには くちを はさみにくい 雰囲気であったのだが、奥田没後 10年も すぎ、そろそろ 奥田晩期(古稀以降)の ことについても ひとこと しておきたく なった。


1)「してしまう」の 基本的な 意味が、アスペクト(終結態)に あるのではなく、<失望や困惑や感慨、不都合やしくじり> という「話し手の現実に対する感情・評価的な態度」(p.21-2) に あるのだと 主張する さいに、1ページ以上に わたって 藤井が あげている 例文の かたちは、すべて「 … おりてしまった・買ってしまった・見てしまった・笑ってしまった」という 過去形である。過去の 確定した 事態は たしかに 評価を くだしやすい 構文事態 構文環境では あるが、「してしまう」の もちいられる 機能的な 位置 position は それに つきる わけでは けっして ない。形態の システムの ことを すこしでも かんがえた ことが あれば、わざわざ いうまでも ないであろう。
 <感情・評価的な態度> 以外の 用法のなかで、藤井が 「してしまう」の あわせもつ アスペクト用法として「限界達成性」の 意味を 検討するのは、
   無限界動詞が 始発の 限界を こえる 意味を もつ ばあい=いわゆる「実現」用法
   対象変化動詞=動作と 変化に「時間的なずれ」の ある ポテンシャルな 限界動詞
という ふたつの ばあい だけであり、この 用法をも ふくめて 説明する ためだろうか、
   限界達成に ともなう ところの 感情・評価の 表現 という 複合性
と 修正した ものを 「してしまう」の 基本的な 意味と みる ことで すませている。この「複合性」という ことばで 具体的に どんな ことを 意味させているのか が 問題であるが、藤井は、論文の 最後に「調査が不十分である」ことを 抽象的に いう だけで、「複合性」を 具体的に ときあかしては くれない。
 それは ともかく としても、「人称別に「してしまう」を述語にする文を調べてみよう」とする こと自体は いい ことであって、1人称文の ばあい 決意の かたさを しめす「断っちまった・決めちゃった・ブン殴ってしまう」例が ある ことを 指摘し、また 努力が 実現した「喜びの感情」を 表現する ことも ある ことも 指摘している。論理的な 関連の 整理が じゅうぶんに できていない ように 感じるのだが、「複合性」を 用法の ゆれの 一種と 理解して よければ、貴重な 用法の 指摘だとは いえるだろう。
    一日の よごれを おふろで あらいながしてしまって、さっぱりと する。
といった ように、1人称の 意志的な 行為文では、行為の 完遂(終結)という アスペクト面と よい 評価(陳述面)とが 共存しても ふしぎは ない。
 以上の ほか、問題に なるのは「はやく たべてしまいなさい」や「はやく やってしまおう」のような、未確定の 事態についての <意欲的な 叙法> の 文とか、「はやく かいてしまいたい」や「さっさと やってしまってほしい」といった <希望的な 叙法> の 文とか、ふたつ以上の できごとが つらなり <前後関係 taxis> が 問題に なる 従属節とか に もちいられた ばあいである。藤井も、後者については やや 唐突ながら 論文の 最後に つけたし的に 説明しているが、前者の 叙法に 関連しては、

命令の形でも「してしまう」はつかわれる。この場合、「してしまう」でさしだされるのは、話し手が期待する、あるいは好ましく思うところの聞き手の動作や変化なのだが、命令する以前には、話し手にとって不都合な出来事が前提としてあるのが普通である。話し手は、その不都合な出来事を回避、解決するため、自分にとって都合のいい聞き手の動作や変化をうながしているのである。(p.32)
と のべているが、これは 混乱の おまけの ように みえる。この リクツは、「してしまえ」だけでなく、対立項の「しろ」にも いえるのではないか。つまり 命令の 叙法一般の 特徴であって、その 下位項の「してしまえ」だけに あてはめるべき 特徴ではあるまい。「レベルのことなるふたつの現象の混同である」(p.37) という 批判は ここに 適用すべき ものではないか。


2)つまり こういう ことである。過去という 時間性(temporality)のなかに あるか、未実現事態の 意欲〜希望文という 叙法性(modality)のなかに あるか、事態の 連鎖という 前後関係(taxis)のなかに あるか、といった 構文機能 構文環境が、「してしまう」の 多義性に 関連しているのであって、アスペクトに かかわる カテゴリカルな意味(動作/変化/限界 etc.) だけが 関与しているのでは ないのである。吉川や 藤井が どちらも 理論的に 検討しそこなった ところであるが、「研究会らしい」やりくちだ とも いえる。高橋や 奥田の 指導を かんがえれば、ふしぎは ないだろう。非陳述的な 形態論 連語論の 分野に 顕著に みられる「カテゴリカルな意味」だけではなく、構文的な 機能が 相互作用の あいて(counterpart)に なる ことが、時間・叙法・評価性といった 陳述的な 構文論においては、おおいのである。「感情・評価」が 基本的だと いいながら、それに ふさわしい 記述方法が とられていない。いつまでも 連語論 アスペクト論の 方法の 応用に とどまっている のである。
 もうひとつ 実例を みていれば、「してしまわない/なかった」という 否定形式の 自立した 終止形や 連体形の (単独)用法は 極端に すくない こと、おおくは
    はやく 〜してしまわない と/かぎり、こまった ことに なる。
    〜してしまわない ように 注意しないと あぶない。
という ような、危険 警告的な (形式連体の) 複文の かたちで もちいられ、「〜してしまえ」ば いい 結果に なる ことを うらがえしに いう 用法である、という ことに 気づかない はずは ない。つまり 否定文脈においても 「してしまう」は、わるい 評価ではなく、アスペクト的な 終結(限界達成)を あらわす 用法に もちいられている のである。
 古代語の 完了の「しつ・なりぬ」が 否定形を もたぬ ことは よく しられた ことだと おもうが、現代語の「して/なって しまう」にも おなじような 構文制約が あるのである。つまり 終結と いっても たんなる 時間的な 動作局面(おわり)だけではなく、その 実現も あらわす、つまり ただの 事態の 終結ではなく、場面の 交代であり、新状況の 発生なのである。アスペクトか 評価か と 二項対立的に かんがえて すむ ほど、簡単明瞭な 状況に おかれ、単純明快な 事情を もつ という わけでは ないのである。


3)問題は、「終結(限界達成)」という アスペクト面と「期待外(制御不能)」という 評価(ムード)面とが、どのように 関連し 移行するかを きちんと 説明する ことである。
 まずは、高橋 吉川や、さらに さかのぼって、松下大三郎や 佐久間鼎らをも ふくめて 整理しておこう。もっとも 用法を こまかく わけている 吉川を 基準に おおまかな 図式に しめせば、
                吉川 高橋 鈴木 松 下 佐久間鼎 藤井
1) 終了             有情 他動 過程 (完全動) 動作完結
2) かたづけ めんどうない    有情 他動 変化 対抗的 事象終結
3) とりかえしが つかない    非情 自動 結果 逸走的 結果発生
4) 無意志化 制御不能性     有情
5) 不都合 反期待        非情                ○
のように なり、時代的に ふるいほど 本動詞「しまう」の 原義に ちかい アスペクト的な 面を 基本的な ものと かんがえ、あたらしいほど 評価用法を 基本的な ものと かんがえる 傾向が あるが、その 多義的な ふるまいについての おおよその 一致は 議論の 前提であった と いっていい。藤井の 位置は よく わからない。いっている ことと やっている ことが ばらばらにも みえる。
 ここで、評価用法で なぜ わるい 評価に かたよっていくのか 説明する ことが だいじに なってくるが、そのためには、松下の「対抗的」にせよ「逸走的」にせよ、事態の「完全動」が とりかえしの つかない 不可逆性を もってしまう ことや、意志が おもいどおりに ならない 制御不能性〜反意志性を もつに いたる ことと 関係づけて 説明する 必要が あるだろう。
 おなじ ひとつの ことがらであっても、意志的な 行為:意志で コントロールできる <しごと> と とらえるか、無意志的な 事態(変化):意志による コントロールが うまく できない <できごと> と とらえるか、という ことで その 評価が ちがってくるのではないか。過去の 世界を いまさら かえられない できごととして 回顧的に かたるか、未来の 世界を 意志的=目的志向的=計画的な 行為として あたまに えがくか、という ことによって 評価の ちがいが 生じても ふしぎは ない。過去の 行為や 変化の アスペクト つまり 具体的な うごきの 局面に 無縁な できごとが 失敗と うつり、あかるい 未来が 行為の 完遂(目的達成)に ゆめを 託される ことは ありうる ことではないか。

 つぎのような 移行状態を 仮定しても いいだろうか。
        過程局面        結果面
    行為  限界達成    →   不可逆
     ↓
    評価  制御不能    →   不都合
 つまり アスペクト的な 完結(終結)用法も、評価的な 制御不能〜不都合 用法も、構文環境 機能や カテゴリカルな意味の 条件の もとに、どちらも もっており ゆれうごいている、というのが 実態だと おもう。
 「完全動」(アスペクト面)に 注目した 松下と、評価・感情面に 注目した 藤井との ちがいに、「してしまう」の 歴史的な 推移の 方向を おおざっぱには みとめる ことができるが、推移 移行は まだ 完了しては いないのであり、「してしまう」は、近代語文法の システムにおいて 用法が ゆらぎ potentiality の なかに あるのである。
・意志的 目的志向的な 行為(表白)文:おもいどおりに なった 満足 → 一件落着(あとくされ なし)
・無意志的 制御不能な 認識(描写)文:おもいどおりに ならぬ 不満 → 不本意(期待/あて はずれ)
という、典型的な ふたつの 文の 位置を 2焦点にした 楕円領域のなかを、いわば およぎまわっている のである。
当時の わたしの 反応の しかたとしては、「どうしても考」(1996)を 高橋太郎の、「評価成分をめぐって」(1997)を 渡辺実の、古稀記念論集に それぞれ 寄稿する ことであった。記録によると、1992年から 1996年までの 5年間 白馬日本語研究会の 口頭発表を この 関連で つづけている。そういう 状況 文脈のなかで これらの 論文を みてもらえると、当時 いいたかった ことが より はっきりする かもしれない。この あたりまでは まだ 学問的な 展開 継承だった のであろう。

4)以下は 蛇足かもしれない とは おもいながらも、藤井が どのように 単純化の みちに はまってしまったのか、について かんがえてみる ことにする。藤井が、
吉川は、「してしまう」のあらわす意味が、かなり強い程度にムード的であることに気づいている。鈴木が副次的な現象とみている感情調は、ここでは、多義的な意味のうちのひとつとしてとらえられている。(p.18)
と 特徴づける ときから すでに 事実との ずれ 一般化の まちがいは はじまっている。吉川の「多義的な意味」が すべて「動作/行なわれる」という 規定を ともなっている ことを、藤井は みおとすか または みそこなっている。つまり、評価の 質が 問題になっている のではなくて、評価の しかた、評価を くだす 条件が 問題になっている のである。いいかえれば、動作結果が 不可逆か どうか、意識的=意志制御的か どうか、期待どおりか どうか、が 問題の (意味)用法なのであって 、その 結果として マイナス評価の ばあいが おおくなる としても、その 評価の マイナス性自体が 意味なのではない。

    円相場は 一気に 円やすに うごいていってしまった。
という 文(発話)を、輸出業者は、しめしめ、うりこむ いい チャンスだと おもいながら いい、輸入業者は、こまったな、かいつけに 苦労する と おもいながら いう かもしれない。たちばが ちがえば チャンスと ピンチとは 同一事態の ふたつの 逆の 側面/観点として 両立するのである。生活上は だいじな 差だが、言語(意味)上に いつも いいあらわされる 差では ない。専用形式を もつか どうかは、語彙化 文法化の 問題であり、民族語の 分節の しかたの 問題である。論理 哲学の 普遍問題では ないのだ。
    白状してしまえば 楽になる。
というのは、刑事の がわから いえば 動作の 終結(完遂)が 問題なのであって 評価は その えさに すぎないだろうが、被疑者の がわから いえば 事件には 不利な ことだが 気は「楽」になる ことだ という ぐあいに、評価性は 単純に わりきれる ものでは ないのである。ジレンマは そうして おこるし、ときには 冤罪を ひきおこす ことだって あるのだ。単純な 評価は つみなのだ。
 言語の じっさいの 歴史においては どちらかに かたよる ことがある にしても、それは 言語を 実践行為的に もちいるか、観照認識的に もちいるか という 使用傾向の 差として まずは 生じるのであり、どちらか一方の 用法のみが 定着する という ことは まず あるまいと おもう。副詞句で いえば、
   評価の 性質の「あいにく・さいわい/おりあしく・おりよく」などよりも、
   評価の 方法の「さすが・やっぱり/かえって・むしろ」の ほうに ちかい。
つまり「してしまう」は、評価の 質そのものではなく、評価を くだす 動作環境・構文条件が 問題に なっているのである。
 評価を めぐる「かざし(副詞)」と「あゆひ(助動詞)」との やくわりの 分担について もうすこし いいたい ことも あるが、「かざしノート」のほうに 別の 機会に 別の きりくちから かんがえる ことにしたい。「おしはかり(推量)」をめぐって 「かざし(副詞)」と「あゆひ(助動詞)」との やくわりの ちがいを おしえてくれたのは、具体的には 奥田であり、一般的には 森重 川端であった。藤井は そこを みそこなったのだ と おもう。かんたんに かんがえすぎた のではないか という 気がする。


■アスペクトと もくろみ ――「してある」と「しておく」――

0)前項で とりあげた「してしまう」を 『ことばの科学5』(1992)で 藤井由美が「『してしまう』の意味」として とりあげたのに つづいて、次号『ことばの科学6』(1993)では 笠松郁子が「『しておく』を述語にする文」を かいている。こんどは 文法論的には この「しておく」の かたちが アスペクトに 所属するか もくろみに 所属するか という 文法的な カテゴリの 問題として たてられているが、現実の 行為の 問題としては、人間の 行為における 様態と 時間との 関係の 問題であり、行為の どのような 側面 局面に 注目して 言語/文法化しているか という 問題である。現実には、様態の ない 行為も なければ、時間(持続)の ない 行為も ない わけで、両者が からみあって 存在している ことは まちがいない。問題は 日本語という 民族語における 文法化の しかた(質)と その 程度(量)である。


1)たとえば、典型的な 作例を つかって いえば、
    きのう 会場の 準備として 放送設備の 点検調整を しておいた。
    けさ 壇上の 花ビンに はなも いけておいた。
という 「準備」行為を 事前に しておけば、
    いまは 会場の 放送設備の 点検調整が してあり、花ビンに はなが いけてある。
という 「結果」状態に いまは なっている はずである。
 従来は、どちらも 「すがた(動作の ありかた Aktionsart)」に いれられ 「解決態・結果態」といった なまえで 別個に あつかわれていたり(ex. 教科研『文法教育』)、「しておく」は 「もくろみ」、「してある」は 「すがた(aspect)」という 別々の カテゴリのなかに 整理されたり(ex. 『4の上』『形態論』) していたが、たがいに 密接に 関連する ものとして あつかわれる ことは なかった。しかし、
     しておく    →    してある
     準備行為         設営状態
    (変化局面)        (結果局面)
という、一定の 目標を もった 一連の 行為連関(計画)の 過程のなかの 局面の ちがいとして 位置づける こともできる。等値的な 対立関係として、それぞれ 完成(する)相 継続(している)相 相当の 位置に たっている という 整理も 可能だと おもう。
 一連の 行為連関を あらわす 文法的な 形式を ドイツ文典に ならって 動作様態 Aktionsart と よんでおけば、「しておく」も「してある」も、「もくろみ(目的)性」「すがた(アスペクト)性」といった ちがいを 外見上 もつにしても、そうした 性質を あわせもった 複合的な 性質の 動作様態(/行為連関)という カテゴリとして 整理する 可能性も あるのだ。


2)「しておく」も「してある」も、動詞の 部分には 意志(行為)動詞だけが くるのが 原則であり、「たおれて/はずれて/ついて/ふとって/ひかって−おく/ある」などとは ふつうは いわず、「たおして/はずして/つけて/ふとらして/ひからせて−おく/ある」などと、他動 もしくは 自動の 使役の かたちを とって 意志的な 行為にするのが ふつうである。
 それだけではない、この ふたつの 形式は、どちらも「している」形式 つまり 持続相を もたず、「*しておいている・してあっている」とは いわない。アスペクト対立を もたない という 共通性も もつのである。「してある」が「してあっている」と いわないのは、「ある・いる」という 状態的な 動詞だから という ことで わかるが、「しておく」が「しておいている」と いわないのは なぜか、それほど わかりきった こととは おもえない。「しておいてある」は なくは ないが、本動詞性の たかい 例が おおく、補助動詞(準備)用法は 極度に すくない。それとても「やまの なかの 山中で うまから おちて 落馬して …」といった 冗長性 ないし 強調性の 感じられる 例が ほとんどである。なお、「とっておいてある・いれておいてある」などの 用例も めだつが、「とっておく・いれておく」は、「ほうっておく・うっちゃっておく」「いってくる(・もってこい)」「もっていく・つれていく」などとともに、慣用的な 用法に 固定された、中止形出身の 特殊な 複合動詞と みとめるべき かもしれない。


3)なぜ「しておいている」と いえないのだろうか。準備行為は、動作でも あり 時間はば(持続面)も あるのだから、「継続(持続)相」を もたない 理由が わからない。基礎から かんがえなおして、つぎのように かんがえたら どうであろうか。

 @「する−している」の 対立を <単純−持続>(鈴木) <完成−継続>(奥田) の 対立ではなく、<全一−結果> の 対立と みる。動作動詞の 進行・継続相も 変化動詞の 結果・継続相も、あわせて 結果(存続)相と みる。動作動詞の ばあいは その 開始局面が 実現した あとの 結果局面 ―― それは 動作の 持続局面でも ある ―― が 問題に なるのである。
    している = して 中止(確認状態) + いる 存在 > 結果相    cf. 寺村秀夫「既然」

 A「しておく」は 目的とする 結果を のこす 準備行為の 局面であり、「してある」は 目的とする 結果を 維持する 存続局面である。

 B「しておく」の「結果を のこす 行為」という 文法的な意味が 結果相の 存続状態という アスペクト特性と 近親憎悪的に 相性が わるく、共起しない。システムの「あきま」を うめるように、有標の「してある」が その 位置を しめ、ますます 必要性が ひくく なる。

 @のような やや 大胆な 仮説を ふくんでおり、もじどおり おぼえがきとして しるしておくが、厳正な ご批判を ぜひ おねがいしたい。


4)ここで、まえの 項目の「してしまう」の 感情・評価について いいおとした ことを ふくめて、議論を くりかえしておけば、
    シャワーで からだの あせを ながしてしまえば、さっぱりする。
と 不定人称的に いっても、
    さっさと いってしまえば、気が 楽に なる。
という 文を 2人称的に いっても 1人称的に いっても、評価の ぬしは 主語(動作主)である。はなしてではない。述語動詞の 主語(動作主)の 意図に からみついた 評価である。しかし、
    まわりから おだてられたり そそのかされたり して、太郎は つい うっかり しゃべってしまったのだ。
という 文の「してしまった」の 評価は、主語(動作主)「太郎」の ものではなく、はなしての ものである。相互承接順序としては テンス・ムードの まえだが、事態(文)全体に対する 陳述性としての 評価である。「-ました・でした」と おなじく、特異な 述語構造内の 位置を しめる 形式という ことになる。「-ました・でした」が 主語−補語関係の 謙譲から はなして−ききて関係の ていねいに 移行した ように、「してしまった」も 主語(動作主)の 動作評価から はなしての 事態評価へ 推移 移行しかけているのだろう。
 問題は、
    a) わたしは、ローンを くりあげ返済してしまって、気分が すっきり してしまった。
    b) わたしは、ローンを くりあげ返済してしまって、気分を すっきり させる ことができた。
の うち、a)の ようには いえず、b)の ようにしか いえない という ひとが どの 程度に ふえているか である。いま 用法を 過去形に かぎっての はなしである。移行は この 部分から おきている 可能性が たかい。
 ひとしく 評価といっても、ボイス現象も からんで、はなしてのもの 主語者のもの 動作主のもの などを 区別する 必要がある。区別といっても 、歴史的に 移行する 関係に あるから、過渡状態も あって さかいめが はっきりしない ばあいも 当然 あり やっかいだ。ていねいな 記述は 今後に 期待したい。


5)行為連関 目的志向の 主体は、はなしてでは なく、人間(有情主体)であれば だれでも よい 人間主語 もしくは「動作主」である。文の「ことがら−陳述」といった はなして基準の 二大別の 構文論では 等閑に 付されがちな 中間地帯であった。南不二男流の 用語で いえば、B段階の 領域である。体言化を うける という 点では「ことがら」の 領域に属するが、主語の 問題の おこらない 修飾句的な A段階と ちがって、主語(有情/無情)が 問題になり テンスも 必要とされ、できごと(事態)/しごと(行為) という 対立も 生じる 「ことがら」の 領域では もっとも 複雑化した B2段階 と いうべき 領域である。のこされた 課題は あまりに おおい。
【ちなみに、B1段階とは 主語や 否定(みとめかた)が あらわれるが テンスは もたない 条件節を 代表とする。】

 あと、日本語の 動作様態(動作の ありかた)として、特記しておきたい かたちとしては、
    1) 試行/直前的 開始局面に関する    「しようとする−してみる(−しかける)」
    2) 実状性(現実性) actuality に関する  「しそうだ−しがちだ−しやすい」
    3) 制御可能性 controllability に関する 「してしまう−してみせる(−してやる)」
などが ある。「していく−してくる」「したい−すべき」「する つもりだ・気だ・予定だ etc.」など、いままでも よく 注目されて きている ものは 別にしての はなしである。
 予告だけ しておいて、さきを いそがず おいおい かいていきたい。流行に 無縁な はなしだから、のんきな ものである。


■行為の 開始局面 ―― 努力/試行と 中断/挫折 ――

0)ある 目標 目的を めざして、どんな 行為が なされたか、どんな 準備が なされ どんな 成果が えられたか、それとも 努力/試行までは なされたが 中断した ままなのか、そんな ことが 現代日本人の 生活の 関心事に なるのだろうか。文法的な カテゴリとしても、表現網(あみのめ)が こまかく 分化している といった ことが しばしば おきる。前項で 準備と 成果 「しておく」と「してある」を あつかったから、ここでは 「しようとする」と「してみる」、ついでに「しかける」の ちがいを みてみたい。

1)ばめんの ちがいが めに みやすい かたちで あらわれる ものとして「てがみ」の ばめんを 典型例として とりあげる ことにする。ちがいが 中和して めだたない ばあいも あろうが、なるべく ちがいが あからさまな ばめんを おもいうかべる ように していただきたい。ちがいが 中和する 条件を あきらかに できれば、こまった「例外」ではなく、特殊性も 同時に 説明でき、法則の 適用条件も あきらかに できる「典型例外」と なるのである。「例外」を おそれてはならない。しかし ないがしろに してもいけない。
    てがみを かきかけたが、おもいなおして、やめておいた。     開始直前
    てがみを かこうとしたが、きもちの 整理が つかず、かけなかった。開始直後
    てがみを かいてみたが、できが 気に いらず、ださなかった。   終結局面
どうだろうか。わたしには あきらかに ことなった 段階が めに うかぶ。「かく まえ」に やめた 段階、「かきはじめたが、かきおえなかった」段階、「かきおえは したが、満足できなかった」段階 の 3つである。
 「かきかけた」は ちょっとでも「かきはじめた」あとは いえないのか などと きかないでほしい。あらわしうる 局面は 図表的には、
        ├―――――――――――┤
        開始    かく     終了
    ―――――――――           しかけた
      ――――――――――――      しようとした
          ――――――――――――― してみた
の ように かさなっている と かんがえられる。ちがいが 中和する ことも あるのである。でなければ、わたしたちも 類義語として 比較しようとも おもわないであろう。
    てがみを かきかけたが、途中で おもいなおして、やめておいた。
    てがみを かこうとしたが、おわりまで かけなかった。
    てがみを かいてみた(のだ)が、事情を うまく かけなかった。
では 段階的な ちがいは 中和して、どれも「かく」終了局面までは 到達できなかった ばあいと かんがえられる。
    睡眠薬いりの 紅茶を のみかけて やめたので、ころされずに すんだ。
    コップいりの バリウムを のもうとしたが、なかなか のみこめなかった。
    強精薬を 毎日 1か月ほど のんでみたが、あまり 効果は みられなかった。
でも、ちがいは あきらかだろう。後2者には 努力や 試行の 意志が からんでいるが、「しかけて やめた」のは 偶然の めぐりあわせであって、意志と 関係ない ことも ありうる。
 中断の 原因については さまざまだが、ちがいを 針小棒大に いえば、「しかける」は 行為の 開始の 中断であり、「しようとする」は 行為完遂の 中断であり、「してみる」は 試行は なされたが、大目標には いたらない 段階、つまり 成果成就の 中断である。

2)「かいてみる」開始の 局面や 「かいてしまう」完了の 局面や 「かいてある」結果の 局面に 注目した 文法的な 形式を もつ ことは 自然な ことである。それを「かきはじめる−かきおわる/かいている」といった 時間的な 局面に 特化した カテゴリ つまり アスペクト としてしか システム化できない としたら 不幸であろう。行為の 連関として、意図や 目的、希望や 当為を もった 生活のなかの 一連の 行動として、つまり「動作様態」として 広義の「すがた」として 記述する ように つとめなければならない。

    はつひのでが のぼりかけたが、あつい くもに おおわれてしまった。
    あたりは しだいに よが あけようとして、やまのはが しらみはじめていた。
    よが あけてみると、むしの 死骸が あちこちに 散乱していた。
といった 無意志事態の 用法も あり、アスペクト的な 分析が 可能であろうが、いまは 言及しない。

 民族語の 言語形式が さきに あって、その 論理的 一般的な システム化は あとに くる、という あまりにも あたりまえの ことを わすれてはならない。初心 わする べからず。言研 第一世代の 構想の 構築は まだ 途上に とどまっている のである。


■蓋然性と 確率性

    この くもゆきでは 今夜あたり あめが ふりそうだな。
    こどもは、あつい 季節ほど おなかを こわして、病気に なりがちです。
    ひるま 天気が よければ よいほど ゆうだちが おきやすい。
 「しそうだ」が 具体的な 状況のなかでの できごとの おこりやすさ つまり 蓋然性(反復頻度)の 判定に、「しやすい」が 一般的な ことがらの おこりやすさ つまり 確率性(生起傾向)の 判定に、「しがちだ」は、後者に おおきくは 属するが、ややもすると あまり このましくない (わすれがちな) 結果に おちいる 傾向性(趨勢 習性)の 判定に、もちいられる とでも いったらいい のだろうか。後2者は、共起する かたちに つぎのような 語彙的な 制限が あり、文法的な 形式とは よびにくい。
    欠席し/おこられ がちだ       このましく ない 事態
   ? 出席し/ほめられ がちだ       標準的で 普通の 事態
    たおれ/病気に なり やすい     意味が 事態の 確率性  (文法的 動作性)
    たおし/病気を なおし やすい    意味が 動作の 難易性  (語彙的 状態性)
さらに「おもしろそうだ」と 内面的な 形容詞に 接続する 用法も「しそうだ」には あるが、後2者は 「* おもしろ がちだ/やすい」などと いわない。つまり 後2者は、語彙的 共起制限が たかく、語彙・文法的な 形式なのである。難易性の「やすい」は 語彙的と みなす。
「あんがい」な 高確率を もった マイナス評価の 傾向性の 判定に 注目する など、(言語外の) 状況と (言語者の) 評価とが からむ、いかにも 日本語らしい 表現=文法カテゴリである と いっていい かもしれない。確率的な 数量面を 共通の 基礎に しながら、判定の さいの 状況証拠 evidence との かかわりかた「証拠性 evidenciality」において その 実状性 actuality が 相違している とも みなしうるだろう。視覚情報(ex. めり/ようだ)か 聴覚情報(ex. なり/そうだ)か という 情報源の 性格 区分ばかりが 日本語学の 話題ではない かもしれないのだ。R. ヤコブソンの 有名な 動詞範疇分類、あの 論理的に 固定した わくぐみと 規定法を のりこえて、民族語の きめこまやかな 特殊性を みすえた うえで 言語の おおらかな 普遍性も みすかした 分類を めざさなければ いけない はずである。

 形態的な あつかい としては、「しそうだ」は 動詞の 文法的な 派生形態、「しがちだ」は 語彙文法的な 形容動詞派生系列、「しやすい」は 語彙文法的な 形容詞複合系列、と すこしづつ ちがう。後2者は 語彙論でも 単語つくり論として あつかわれるが、文法論としては 語構造論 および 品詞論において それぞれ かたちつくり(非動詞)の 面、カテゴリ(動詞)の 面を 主として あつかう ことに なると おもう。「しそうだ」は 文法接辞 一般として かたちつくりを 論じれば すむ。
 「したい」を 希望の 派生形容詞と あつかう ことや、可能動詞(よめる etc,)を たちば(voice)に いれる こと とともに、この「しそうだ」を 派生形容(動)詞と あつかう ことは 『4の上』『形態論』(p.454)に みられる「(アメリカ式) 形態素主義」の 一傾向(妥協の 産物か?)である。教科研『文法教育』では 動詞の 希望態 外見態 という あつかいであった。形態素重視の 形態論主義の 復活とも いえる ものであり、『宮城版 にっぽんご』も よみくらべてみると、一直線には 理論が 教科書に 反映しない 好例と いうべきなのだろう。
 否定形式を B. ブロックの ように 否定形容詞と しなかっただけ よかったとも いえるが、これは さすがの 服部四郎も がえんじなかった ところである(金田一春彦「日本語 V文法」(『世界言語概説 下』)に対する 監修者注6)。そうしない 理由は、形態論的な 現象(語形変化)より 構文論的な 現象(統語型)を 重視した ことに ある。服部が 凡百の 海外事情評論家に くらべて 傑出しているのは こういう 研究者としての バランス感覚である。動物的な 勘(直感)と いってもいい。
 金田一春彦の あつかいかたは、理論的な 過渡期、潮流的な 啓蒙期としては ありがちな ことであるが、論理整合性の 点で 矛盾/混乱が あって、つぎの ような 説明に なっている。――― 問題の 形式は、否定態 希望態と よばれ、動詞の 派生形に いれられるが、その「派生形」とは、「形が再変化するもの。これは宮田幸一氏の述語【→ 術語】を借りれば派生動詞・派生形容詞 …… となる。派生形とかりに呼ぶ。」(p.171)という ものである。そして、否定態 希望態は「全体が一つの形容詞のやうな性格をもつもの」という 分類項目(p.172)に いれられているが、服部の 監修者注6も ここに つけられているのである。
 三尾砂 宮田幸一 三上章 あたりから 戦後復興し、反主流派として ながれを 形成した 民間学の 歴史的な ものがたり(イストーリア)を まとめる 必要を ひしひしと 感じる。戦後の「形態論時代」を 郷愁の 対象に おわらせてしまっては、ローマ字論の 歴史としては よくても、民間学の 歴史は みえてこないだろう。語構造の 問題、ことばつくりや かたちづくりや わかちがきの 問題ばかりが 注目される ことになり、語から 文を 構成する 法則である 文法論にとって、一次的に 重要な 構文関係の 面に めがむけられない ことになるのである。
 文が 語に 分節されている ことが 人間言語の 本質的な 特性だとしたら(W. von フンボルト)、その 単位としての 語の 形態に 注目が あつまるのも 歴史的に 当然では あるが、その 語が 文を 構成する 構文の 面(とくに 語形態に あらわれない 面)も つぎに 問題に しなければ、つまり 分析段階の つぎに 総合段階が こなければ、人間言語の 本質的な 特性を 解明する ことには ならないだろう。
 「二重分節」(A. マルティネ)という 20世紀的な「普遍」思想は、意味の かけがえのない 重要性を みうしなう という おおきな 代償を ともなう。<おと sound> を「ことばの 要素」にも 「言語の 形式」にも いれなかった、E. サピアの 古典精神を おもうべきである。

 はなしが 連想式に ながれている。いやん なっちゃうけど、これも おいの くりごと なんだ、ゆるして たもれ。


■ゆとりとしての 副詞

 二分法的に わりきって 分類していきたい。明治の 山田孝雄も 大正の 松下大三郎も、自分の 品詞分類が 厳密なる「二分法・両分法」の 結果である ことを ほこっている。学問の 方法、つまり 対象の 分類の しかたが 二分法的に 明瞭である ことは もとめられて 当然である。だが、対象自体が 二分的に きれいに わかれるか どうかは 別問題である。汚職か どうか、俗にいう くろか しろか 決着を つけようとしても、断定不能の はいいろの 部分が のこる ものである。Aか 非Aかという 分割法は 二分法であるが、どちらとも いえない というのは (現実の) 排中律に 違反している のではなく、Aと 断定(同定)できない という (現実の) 認識の 問題なのである。認識の 方法と 対象とを とりちがえては いけない。これは 山田 松下 といった 大文法においても、いえる ことである。明示的に しめされる 分類基準が 少数に 精選されていれば、ぼろが でにくい という だけの ことである。これは みんなに いえる ことだから、ほうっておけば、諸説続出の 百家争鳴の 状態に なって、収拾が つかなくなる。理論内部の 論理的整合性を かんがえる だけなら、無矛盾の 理論体系は 無限に ありうる とか いわれる。したがって、現実(認識対象)との 対応、俗にいう mapping における 説明能力の 優劣で、理論を 評価しなくてはならない。経験科学としては 当然であって、具体的な 手法(てつづき)としては 「実証性」が もとめられる のである。念のために いうが、研究方法が 実証的である ことは、研究目的(対象範囲)も 方法(手段)も 「実証主義」的に 制約されてしまう 一流派の 主義主張と、同一視されては ならない。
 「どん(と)」は 情態副詞か、無活用の 象形動詞か。「しずか(に)」は 情態副詞か、形容動詞連用形か。「はやく (走る)」(様態修飾)は 形容詞連用形か、副詞(洋文典 奥田=新川)か。「きれいに (咲く)」(結果修飾)は 形容詞(洋文典も)か、副詞(奥田=新川)か。――― 対象の 分類結果も 二分的に きれいに わけようとすれば、ざっと こんな ぐあいに 諸説続出と なる。むろん、すべてを 許容する なんて 研究の 基本精神に 反する。しかし、副詞が 従来「品詞論の はきだめ」と よばれてきたのは 二分法の 適用が 不徹底だったから なのだろうか。それが ないとは いわないが、対象の「副詞」自体に わりきれなさが あって、方法・手法を みがけば 解決する という ものでも なさそうに おもわれる。じつは、この問題は 副詞だけの 問題ではなく、名詞と 形容動詞との あいだにも ある ことは 有名だし、ほかにも「茶色 の/い/な」「心配 を/する/な」など、品詞の 境界地帯や 新開地には おおかれ すくなかれ あるほうが ふつうなのである。ただ、副詞は 形態的に 不変化詞である ために、どうしても 名詞 動詞 形容詞(形容動詞)といった 変化詞(活用語)に まけて、「はきだめ」に なりがちだ という ことなのである。「はきだめ」とは、ツルも まいおりる ぐらいの えさばであって、検討不十分な 語の 回収箱(recycle box)だ とも いえる。じっさい、はきだめと よんだ 渡辺実は かれなりの 再生 再構築を はたした。なお、副詞を さわりづらく ふたをしておきたい「ゴミタメ」に たとえるのは、にていて 非なりで、対象に対する みがまえかたが とわずがたりに ちがっているだろう。こちらは だれとは いわないが、『日本語教育』に くわしければ わかるだろう。ちなみに、"recycle box" を「ごみ箱」と 日本MS社は 訳している ようだが、副詞を「ゴミ箱」と かつて よんだのは 浜田敦で、やはり『国語副詞の史的研究』を 企画し、研究を リードした。「護美箱」とも ときに あてて、「ゴミタメ」とは ずいぶん 語感が ちがう。研究を 自分では しないで、用語の かっこうだけ あたらしがると、なかみから しっぺがえしを うける、という いい みほんだろう。
 形態基準だけに したがえば、ゆれは すくなく なる。「茶色・心配/親切」といった 同語異品詞が ふえる だけであり、あつかいが ゆれる わけではない。しかし 形態基準だけでは、副詞も 接続詞も 連体詞 (後置詞) も、区別できなく なる。それで いいと いう 学者、たとえば イェスペルセンも いるが、じっさいの 記述では、不変化詞に 構文機能による 下位区分が ほどこされている。大分類は 二分法を まもり、下位区分は 枚挙的でも やむをえない といった ところで、常識的な 革新家 イェスペルセンの 面目躍如である。ここに ディレンマが ある。形態と 機能と、それを したで ささえる 意味との かねあいが 問題に なる。われわれは、わからない=わけられない ものを、あえて 単純に ふたつに わけて=分類して、それを くみあわせて わかろう=理解しよう とする わけである。もういちど いう、対象と 方法とを とりちがえては いけない。研究の 目的と 手段とを みまちがえては、研究は 混乱する。

 さて、自家用車の ハンドルには「あそび」が ある。ないと なかなか まっすぐには はしれない そうだ。スピードを きそう F1専用車には ない という。あっては かえって 危険な ことは しろうとにも 見当が つく。F1車は しじゅう ハンドルに 神経が いっている。ちょっと まげても 猛スピードで カーブする。あそびなんて 危険だ。しかし、自家用車は ちがう。しじゅう ハンドル操作に 神経を つかっていては つかれて 目的地に つけないだろう。実用に ならない。ものの「あそび」は、ひとの こころに「ゆとり」を もたらす のである。
 実用に 供される 言語の システムにも「あそび」が あり、その 分類結果にも ゆとりが もとめられる。――― 40年以上 副詞の 分類に 翻弄され 難儀してきた ものとして (たぶん)最後に たどりついた 想定である。かつて わたしも、「程度副詞をめぐって」から 「情態副詞の設定と 存在詞の存立」に いたるまで、二分法で 処理しようと 努力してきたが、どこか 無理だった ような 気がする。「体系の剰余」(泉井久之助)といった 消極的な 無規定量として ではなく、「(理論)システムに 必要な ゆとり」として、また 文から 語へ 沈殿していく ところ (未定着の 中間地帯)として、主として 擬音擬態(オノマトペ)系の 語を 「副詞」に のこしたいのである。

 いま おうちゃくを して、結論だけを 代表語形で 暗示的に しめす ことを ゆるしてもらえる なら、

    はやく  (走る):イ形容詞の 連用形
    しずかに (話す):ナ形容詞(形容動詞)の 連用形

    どんと (はでに いこう)    :擬音語出身の 様態副詞
    どんと (机を たたく)     :擬音語副詞(擬態語副詞も)
    ドドンガ ドンと(太鼓を たたく):オノマトペの 引用(副詞句)

 以下、「副詞」とは べつに たてられる、「かざし」の 下位類

    ときおり (来る):様相詞(時間関係 tense 的)
    わざわざ (言う):様相詞(意向関係 mood 的)
    かわりに (行く):様相詞(人間関係 voice 的)
    とても (はやい):程度詞
    きたる (○○日):連体詞 (規定詞とも)

    けっして …ない:叙法詞
    さいわい …した:評価詞
    とくに Aは … :対照詞 (とりたて詞とも)

といった ぐあいに なる。

 ポイントは、「どんと」の 類を 「(連用形だけの) 不完全形容詞」と する といった 二分法的な 処理 ―― かざし[文補助]か、ありざま[状態用言]か ―― に とらわれた 分類を やめて、消極的には 「かざし」と「ありざま」との 中間(緩衝)地帯として、積極的には 語生誕の みちすじとして、副詞(描写詞) という ばしょを のこした ことに ある。「描写詞」という なまえは 宮田幸一1948『日本語文法の輪郭』から かりた ものであるが、「ぐっと おもい」のような 程度詞の 方向も、「とんと わからない」のような 叙法詞の 方向も、「ぴったりな 服」のような 形容(動)詞の 方向も あり、まだ 文法的な 性格が さだまらない 「るつぼ」状態である。「とかとんとん とかとんとん とかとんとん と、あの トカトントンが きこえてくるのです。」といった ぐあいに、擬音の 引用の ばあいも、その ひとつが 名詞化を うける ばあいも ある。
 この 選択を した うらには、ことがら(属性)か モダリティ(陳述)か といった わくぐみ[山田 渡辺 奥田 etc.]も、(体制として) 非叙述的な 語の くみあわせか 叙述的な 句の うちあいか といった わくぐみ[松下 森重 川端 etc.]も、自立か 付属か、活用か 不活用か といった わくぐみ[橋本 教科文典 etc.]も、相互に 排他的に 対立し、択一される 関係に ある わけでは なく、止揚され 共存できる ものであろう、という 希望的観測も ひそんでいる。その おおよその イメージは、いままでの 論文と この文章とで わかってもらえそうに おもうが、「語と 文の 組織図」や「ことばの しなじな」の 図表も 参考に してもらいたい。諸説の「止揚」に 必要な 議論の うち、奥田=新川の 副詞論への 批判は、言語学研究会の 副詞論の 歴史にも ふれ、「Uriel Weinreich の意味論」(奥田解説 p.10)にも できれば ふれて、くわしく 別に 論じたい。
 そのさい、英語の "-ly" の かたちの adverb についても いいたい ことがある。"quickly" は、副詞 という「品詞(word class)」なのでは なく、"quick" という 形容詞の 動詞後形 という「活用形(word form)」なのではないか。"quick" という 形容詞は、名詞前形(規定用法)と 叙述形(述語用法 be+__)をも 基本的に もつ、と 活用系列に くみこむのだ。英語の 形容詞は、いわゆる 比較と 修飾関係とで 語形変化する、つまり、他の できごと(文)との 程度比較と 他の ものごと(語)との 結合関係という、構文機能の 固定化としての 形態変化を もつ と かんがえるのだ。こう かんがえれば、E. Sapir(1921) Language. が、不変化語への ながれ(drift)との 関係で、形容詞と 意味と かたちが ちかすぎる -ly副詞は、形容詞に おしのけられて、きえていくだろうと 予想している(p.169) にもかかわらず、その後 1世紀ちかく たっても -ly副詞が きえていきそうに ない ことも、その "-ly" は 語形変化の 語尾であって、不変化語への ドリフトに しぶとく 抵抗する、(まだ じゅうぶんには 解明されていない) 文法的な「形式渇望 form cravings」の シンボル化の ひとつなのだ、という 説明が 可能に なる。

[形容詞+名詞]の 性・数・格による 照応(一致)の なくなった 英語と、まだ のこっている ロシア語とでは いっしょには できないだろうが、ロシア語の「副詞」の かたちは、形容詞 短語尾形の 中性形と 一致する。ロシア語の 形容詞は、名詞規定(長語尾)用法では 性・数・格で 照応し;(短語尾)述語用法では [動詞過去形(もと完了分詞)と おなじく] 性と 複数のみで 照応し;副詞用法(動詞後形)では 照応しない;といった ぐあいに、形容詞の 活用系列として 処理する わけには いかないだろうか。


■「時間の表現」その後

1)奥田靖雄1988「時間の表現(1)(2)」が、論文の しめくくりに、

… ぼくたちは、ふたたび、動詞のアスペクトの対をなしている、完成相と不完成相との、アスペクチュアルな意味の考察へもどらなければならない。
と かきつけて、探求を 中断してから というか、「世代交替」に 期待を かけてから かれこれ 四半世紀も たつが、その後「アスペクト論」「時間論」に めだった 進展が みられたであろうか。不勉強の せいなのか、わたしの めには はいってこない。アスペクト(論)の 記述や 検討に いちじ いそがしかった ひとびとも 方向を みうしなったのだろうか、なりを ひそめている ようなので、このままでは もったいない という ことも あって、おいさきみじかい としよりが 問題の 交通整理だけ しておきたい と おもう。これは けっして 研究と よべる ような しろものではなく、研究方向の スケッチに すぎないので、論文にまで しあげてくれる ひとが あらわれる ことに あわい 期待を かける しか ない。

2)「完成相と継続相との対」ではなく、「完成相と不完成相との対」と いっているのは、できごとの 完成=全体を まるごと とらえるか、できごとの 不完成=部分に 注目して できごとの 局面(内部構造)を とらえるか、という とらえかた(文法形式)の ちがいが 日本語の アスペクトの 本質であって、その 土台の もとに、動作(部分)様相 Aktionsart や 局面 phasal 動詞などの アスペクチュアリティ(文の アスペクト性)が 意味分化するのだ、という ことを 主張しているのである。奥田の いう「アスペクトの優位性」とは、具体的には こうした 階層的な構造の 文法システムの ことを いっているのであって、そこには、意味機能的な カテゴリとしての "aspectuality" が ごみため化するのを ふせごうとする ねらいも あるのである。
 また、「継続相」と とらえれば その 下位類には「動作継続」か「結果継続」か という ような 対立しか かんがえられないが、「不完成相」と とらえれば、「動作継続(進行)相 progressive」と 「結果相 resultative」という 下位類とも かんがえられ、さらに 後者は「状態のパーフェクト」とも とらえなおしうる カテゴリに なる。
 つまり、「している」の、判断文(三尾砂)における 派生的な意味としての「動作パーフェクト」、
あの ひと わかい ころ こんな ことを いっている
この 女性 この とき この ばしょで 犯人と なんどか あっているのです
といった 用法とともに、
あの ひと いまごろ もう ねている(だろう)。
この 女性 いま 傍聴席に きています
といった、場面解説 ないし 現状記述の 文を「状態のパーフェクト」と とらえる ことも 可能に なる。

3)という ことは おおすじだけを 図式化して いえば、
・アスペクト形式の 多義の 構造
    完 成 相 = 全体相 = 事象全一相
    不完成相 = 部分相 ┬ 動作継続相
              └ 変化結果相 ―┬― 結果効果 …… 現在の 叙述
               (派生解説文) └― 動作記録 …… 過去の 解説

・パーフェクトの テンス化
    「した」の ばあい    :状態パーフェクト   現在「はらが へった」
     歴史叙述として     動作パーフェクト   過去「やまに のぼった」

    「している」の ばあい  :現状記述〜判断「いまは (きっと) もう ねている」
     場面解説として     経歴説明「わかいころは こう いっている」
といった ように、《歴史叙述・場面解説》のような 文の叙法性の ちがいも ふくめて、アスペクト・パーフェクト・テンス・ムードを 総合的に とらえる ことが 可能に なるのである。念のために いうが、以上は 理論的な 移行関係を かんがえた だけであって、じっさいの 日本語の 歴史においては、「した」の ばあい アスペクト → パーフェクト → テンス の 移行が 歴史的には 基本的に 完了している、つまり 特殊な 条件下には ふるい 残存用法も のこっている という 歴史的な 事例だが、「している」の ばあいは 現在 進行中の リアルな 文法変化である。

 そのさい、動詞述語の 語彙的な意味の 範疇的な 種類が、時間の 文法変化に 関与したのは 当然だと しても、
いま ―― きた/いる/いく。          完了と過去 / 状態と現在 / 将然と未来
いま/もう/まだ ―― ねている。        観点(現在/既然/未然)と、未完了(進行/始動/未了)

きのう かれが きた ときにはぐーぐー/もう ねていた。      擬音記述の 過去進行と、観点既然の 過去完了
きのう たっぷり ねた/しっかり ねている ので、きょうは ……。   量記述の 過去と、量評価の 現在完了
など 時間の 状況成分も、時間評価的な 限定成分も、ただの かざりの 成分、動作の 様態修飾成分では なく、時間表現の 語彙・構文的な くみたて形式(パタン)として、時間形成的な 機能を はたしてきた ものと かんがえられる。    (この 最終段落、2017/11/05 補)


■「二語文」の 基礎

1)この「二語文」または「二項文」と 訳される two-member sentence という 用語が 言語学の 世界で どれほど 一般的に 通用している ものなのか よくは しらないが、奥田靖雄は、これこそ 人間言語の 本質的な 特徴だ という ところで つかっている(「文のこと」『ことばの研究・序説』p.239)。文の 基本構造から 拡大構造へ、この 用語の 展開をめぐって すこし かんがえてみたい。
 「一語文・二語文・多語文」と、いかにも (科学的な) 発達心理学らしい 定量的な 使用法については 論じない ことにする。

2)「二語(項)文」の「二語(項)」とは、たとえば O. イェスペルセンの つかいかたにしても、主語と 述語 という「二語(項)」であって、それを 文法構造の 基本と みての なづけである。「アッ、ワンワン」「ママ、ジューチュ」などを 二語文と いいかねない 心理学者とは 基本的に ちがう。ただ 日本の 心理学者にも 同情の 余地は ある。西洋の おおくの 言語と ちがって、日本語の 文構造は 主語が 必須ではない。「まんま たーべた」でも「こうえん いった」でも りっぱな 二語文と かんがえなくては、日本語の 言語発達の 研究としては おかしな ことに なる。
 世界の 諸言語の なかには 日本語以外にも 主語を 必須成分と しない 言語も おおく あるし、また 能格 ergative 構造や 活格 active 構造といった、構造化の 基礎を ことにする 言語も ある という。思考機能としての 普遍性によって ではなく、言語形式化の 特殊性を ふくみこんでの 普遍性を かんがえるのが 一般言語学の つとめだとすれば、文が ふたつ以上の 語に 《分節》されている ことが 人間言語の 本質的な 特徴であって、その くみたての なかみは 西洋語的な 主述関係とは かぎらない、と かんがえる べきである。
 主語述語が 文構成における「のべられ〜さしだし」と「のべ〜ときあかし」といった 機能的な 分割であり、それを 文法化した 言語は 人間諸言語の 一類型に すぎないと すれば、もっと 現実対象に 即した 分割、「モノ 体言 名詞 noun」か「コト 用言 動詞 verb」か という 意味的な 分節のほうが 普遍的だと かんがえた ほうがいい。「体言」は 機能上 主語でも 補語でも 客語(目的語)でも よく、「用言」は 機能上 述語として まず はたらく という 原則に 反する 事例は きかない。「二語文」の 二語は、種類の ちがった 二種の 語の くみあわせ であれば よく、「アッ、ワンワン」「ママ、ジューチュ」など 一語文の ならべられた ものを 排除できれば よい。
【ただ 言語発達的には、これらの 例も 一語文と 二語文との 過渡形態として 重要な 注目点に なるかもしれない。】

3)奥田靖雄1985「文のこと」(『教育国語』80 p.43)は、二語文を 主述ではなく、体言用言で 説明した うえで、「文の基本的な構造」とも いいかえている。1988年の「文の意味的なタイプ」など、主語述語の 構造を 論じている 論文では、「文の対象的な内容の一般化」という 用語が つかわれていて、「二語文」という 用語は つかわれていない。用語の つかいかた たかめかたは きわめて 厳密に なされている。厳密なのは、論理の 展開が であって、定義 規定が きつく 固定している という 意味ではない。形式的な 論理の 技術的な 整合性は、むしろ 精密という ことばの ほうが ふさわしい。
 E. Sapir1921 Language の「V. 文法概念」の 章の 末尾(p.119)にも、おおよそ 《はなしあいの 題目(subject)は noun と なり、叙述の はたらきを する ものが verb と なる。この noun と verb との 区別を まったく しない ような 言語は ない。》という ような ことを いっている。ここの "sub-ject" は、文法的な 主語ではなく、談話(discourse)の「お題」(したに なげられた もの)であり、文法化される まえの 「心理的な(=意味的な) 主語」(H. パウル)である。「二語文」という 用語も、文法構造化 以前の 《文−語 分節》の レベルの 用語と かんがえた ほうがいい と おもう。

4)ただ この さきに 分岐点が あらわれる。いわば「主要な 品詞」の 拡大を めぐる「副詞」の 位置づけである。

名詞=主語 ―――― 形容詞(連体修飾語):呼応 一致(concord) あり
  |        |
  |        |
動詞=述語 ―――― 副 詞(連用修飾語):呼応 一致(concord) なし
という 4項並立=二重二項対立の 一員と みるか、
名詞=補語
  |  \    連体形「きれいな はな」
  |   形容詞(修飾語=相言)
  |  /    連用形「きれいに さく」
動詞=述語   ( … 副詞「ひっそり さく」   別名:描写詞 擬音詞 おとまね語)
という 3項鼎立から はずれた 特殊な 位置づけと みるか、という わかれみちが あらわれる。

 西欧の 学者は 当然のようにして、うえの 4項並立の 図式を えらぶ。"concord”の ありなし という 形式的な ちがいが あるからであろう。"concord”を そもそも もたない 日本語を 対象と する 奥田も、なぜか うえの 図式を えらんだ。構文機能の 人類普遍性という みとおしが あったのだろうか。この 副詞の あつかいを めぐっては、宮島達夫ほか1963『文法教育』(絶版)『語彙教育』(刊行中)から、奥田靖雄 直接指揮1968『にっぽんご 4の上』へは 重要な 変更が なされており、研究会内部での 深刻な 意見対立を うみ、のちの 教科書作成における 妥協も はかられおり、喜寿を むかえた 奥田靖雄+新川忠の 共同研究(1996)も いちおうは だされた。これについては 節を あらためる。


■「副詞」論の 不毛

1)新川忠1996「副詞の意味と機能 ―― 結果副詞をめぐって ―― 」は、その 第1節に、

……「副詞と動詞とのくみあわせ試論」という論文において、私は、…… 学校文法でいうところの、形容詞の連用形のうち、連用修飾語として機能しているものは副詞である、とためらいなく認めることができた。だが、《結果的なむすびつき》のところでは、このタイプのむすびつきをつくる副詞が、ほんとうに副詞なのか、形容詞なのか、ということについては、はっきりとした結論はださず、今後の課題として残しておいたが、最近になってようやく、それは副詞にほかならない、という結論をえることができた。
と のべている。「副詞と動詞とのくみあわせ試論」(1979)から この「副詞の意味と機能」(1996)まで、15年以上 かかっている。『にっぽんご 4の上』(1968)の 副詞の 解説 もしくは「理論的な 根拠づけ」としてなら、25年以上を 要した ことになる。なが年に わたる 詳細な 記述的研究に 敬意を 表したいと おもうが、問題の 論点は はじめの いりぐち付近に あるのである。新川の 労苦は、そのまま 形容詞連用形の 修飾用法の 記述の 成果として のこる。品詞システム内での 位置づけ、他の (下位)品詞との 配置が かわり、文の「部分」の 機能と; 語という「部品」の 性能(品詞性)とを; どう 関連づけて ことばの しくみを みるか という 視界が かわり、ながめが ちがう。―― シテ ワキ ツレ(シテヅレ ワキヅレ) などの 配役が かわるだろう という たとえは どこまで 真に せまれるだろうか。

2)「あかい はな」は 《物》の 《特徴》(特性)だが、「あかく さく」は 《特徴》(変化)の 《特徴》(結果)である、と いう。その とおりである。しかし それは、文における 関係の ちがいであって、語 品詞の 性能の ちがいか どうかは まだ わからない。なにを ひとつの 語として まとめるか が きまらなければ、その ちがいが なにの ちがいなのか が きまらない。形容詞と 副詞という 品詞の ちがいなのか、形容詞の 連体形と 連用形という 同一品詞の 活用形の ちがいなのか、が きまらない。『ことばの科学』創刊時(1986)に うたわれた「構文論的な アプローチ」が 風化して、語論 品詞論を ないがしろに する 雰囲気を かもしだしていないか。
 「あかい/あかく」の 例で いえば、構文機能の 差を いう まえに、形式において「あか‐」という 語幹部分の 共通性が あり、その 語彙的な意味においても 共通性が おおきい、という ことに まず 注意しない ようでは 言語学として おかしくないか。わたしたちは、「文の 構造」を 言語分析している のであって、「判断の 構成」を 論理分析している のではない。「そらを とんだ アヒル」と「うちに とんで かえる」、「ひどい ひと」と「ひどく いたむ」、「きれいな はな」と「きれいに わすれる」といった ぐあいに おおきく 意味が かわっている ばあいは 副詞として あつかう という 学校文法の ほうが、語の 意味に もとづいている という 点で はるかに 常識的である。念のために いうが、新川が 力説する 形容詞と 副詞との 品詞の 差は、学校文法では 形容詞連体形と 連用形との 活用形の 差に そのまま 平行移動する。そのうえに、連体形の 用法と 連用形の 用法とに 共通する 性質も 形容詞の 性質一般として 論じられる。動詞の 連用 終止 連体 … といった 活用形が 意味用法に 差を もちおり、一般的には 活用形が 同一品詞内に 差を もつ ことは、下位システムである 以上 あたりまえの ことである。
 「構文論的な アプローチ」は、語彙的な意味と 構文的な機能と、その どちらに 優先権を あたえるのか とまでは といつめない にしても、語彙的な意味の 共通性を ないがしろに して、「きれつづき」の 差を 重視するのは 「単語文法」として 本末転倒ではないか。理論における「意味と機能」の バランスが くるっている としか いいようが ないではないか。

3)文法的な意味から 語彙的な意味に わたる《意味》の 問題から めを 転じよう。新川は 検討していない ようだが、
赤の広場
クレヨンの あかが なくなった。
のような「あか」は 通常 名詞と あつかう。形容詞の 語幹用法とも しない。格変化(格助辞の膠着)の システムを 不完全ながら もつし、連体修飾も うける、といった 形態的にも 構文的にも 形容詞とは 基本的に ことなる システムを もつし、語彙的な意味も《もの性》といった「カテゴリカルな意味」に かわると かんがえられる からである。しかし 論理の 順序に 注意してほしい。形態(形式) 構文(機能)が さきで、意味は あとである。ことばの しくみとしては 意味が 土台だとしても、研究の 順序は、感性 知覚に とらえられる 語形態 構文形式の 検討から はじめて、直接には とらえがたい、異論の でやすい 意味は 最後の 矛盾が 生じないかの 確認作業と なる。
 語形態は 不変化の 語形(品詞/活用形)が 問題に なっているのだから、もちろん 検討材料には ならない。構文機能 なかでも 構文形式(くみたてかた)に ちがいが 生じないかと かんがえると、かろうじて 形容詞の 格支配 従属主格や、比較構文 程度修飾 といった 構文型が みえてくる。
・格支配
    文学に あかるい ひと
   ×文学に あかるく (わかりやすく) 説明する。  連用形中止法と みれば ○

・従属主格 (が/の/φ/も 選択)
    ものごしの/が やわらかな ひと
    ものごし(も) やわらかに あいさつする。    (連用修飾句非主格 対象項)
    cf. あのひとは ものごし やわらかだ。    (述語節主格)

・比較構文
    ちちおやより おおきい むすこ
    ちちおやより おおきく そだった むすこ    (結果)

    ちちおやより つよい ちから
    ちちおやより つよく おす           (様態 量)

・程度修飾
    とても は や い ともだち
    とても は や く あるいた
   ? とても てきぱき あるいた
   ??とても さっさと あるいた
うえの 形容詞(連体形)は 格支配や 従属主格の (質的な) 用法を もつが、したの 副詞(形容詞連用形)は もたない、うしなう と いえそうだが、比較や 程度修飾の (量的な) 用法は 差が でず、かえって 形容詞連用形と (学校文法の) 状態副詞との あいだに 微差が でると いえる かもしれない。 形容詞(終止形と 連体形)が 格支配や 従属主格の 用法を もつ ことは、形容詞の (修飾性より) 叙述性に ともなう 性質と おもわれ、副詞(形容詞連用形)が これを うしなうのは 副詞が 修飾(限定)性を 純粋に はたす ためだと おもわれ、奥田らの 副詞論に 有利な 構文特徴と いえる かもしれない。だが 逆の 識別特徴も あり、どちらにしても たいした おおきな 差とも いいがたい。こうした 検討は、豊富な 例証が えられる 領域でもない ために、珍妙な 作例に たよって 判定も 微妙な 検討に したがわざるをない 不安が のこる。

4)こんな ささいな 問題を むきになって 論じても 「副詞論」もしくは「かざし論」が より ゆたかに なるとも おもえない。副詞派の 記述であっても、形容詞連用形派の 記述であっても、質量ともに 大差は ない。しかも じっさいの あつかいでは、西尾寅弥1972『形容詞の 記述的研究』が 情態副詞を いっしょにして 比較していたり、仁田義雄2002『副詞的表現の 諸相』が 語の 品詞性を 問題に しているのか;文の 機能を 問題に しているのか;(おそらく あえて) あいまいな ままに「‐表現」と よんでおいたり、といった あつかいが 学界に 流通しているのである。要するに、性質 quality、状態 state、様態 manner、… といった 静的(非時間的)な「カテゴリカルな意味」を どう 構造化するか という 問題であって、奥田が べつの ところで いっている ように、「副詞」は その 意味と 機能とが わかちがたく とけあっている ために、不変化詞=副詞という ように 文法的機能優先で とらえても、変化詞の一語形=形容詞連用形という ように 語彙的意味優先で とらえても、それほど おおきな 差と なっては あらわれないのだろう。
 そんな ことも あって、正直な ところ、いままで 『4の上』『形態論』の 副詞を 批判の 対象に する 気は あまり おこらなかった。ただ、『文法教育』から 『4の上』への 変更に 際して、鈴木重幸の とった「集団行動」と、『にっぽんご 6 語い』の 編集(刊行の おくれ)や 『語彙教育』(副詞の 注1 p.68)の 刊行継続に みられた 宮島達夫の とった 対抗行動とを (国語研内外で) みききして、研究者としての 気を ひきしめた ものであった。当時 宮島さんは、研究者集団には 「悪魔の弁護士#」的な 議論や 検討が 必要だと、さかんに 国語研の お茶の時間などに 熱弁を ふるっていた。
#「悪魔の弁護士」とは、「悪魔の代弁者」とも 訳され、"ラ advocatus diaboli = 英 devil's advocate”であり、「かつてカトリック教会において設けられていた、列聖や列福の審議の際にあえて候補者の至らぬ点や聖人・福者たる証拠としての奇跡の疑わしさなどを指摘する職」(Wiki)だが、1983年ころに 廃止されたらしいので、その 話題を ふまえた 表現だったのか。

5)新川忠1996の のっている『ことばの科学 7』の 解説は、「今回はぼくの名まえでかくことにする」と わざわざ ことわって 奥田靖雄名義で かかれているが、新川論文の 要領の いい 解説を した のちに 最後の 段落には、
新川が副詞の存在を動詞の語彙的な意味の結合能力の観点からとらえているとすれば、60年代から70年代にかけての Uriel Weinreich の意味論を踏襲しているようにもみえる。しかし、新川は Weinreich をよんではいないだろう。………
と、みょうな 注記が かきくわえてある。日本では、ドイツ語流に ヴァインリッヒとも、英語流に ワインライクとも よばれた この 夭折した 言語学者は、いまでは なまえを しる ひとも すくないのではないか と おもわれるが、わざわざ こう しるした 奥田の きもちを あえて 推測すれば、奥田の 意味論の 源流に Weinreich の 意味論が ひそんでいる という ことであろう。1926年に うまれ 1967年に 41歳で しんだ、Weinreich の 意味論の ことを 「70年代にかけての」と 修飾しているのは、ソヴェートロシアの 言語学 意味論の 論議が 奥田の あたまには あったからだと かんがえるべきだろう。
 "linking"(連結) と "nesting"(包摂) などを 基礎に した "Combinational Semantics"(結合意味論)を 第3章として ふくむ、"ON THE SEMANTIC STRUCTURE OF LANGUAGE"[in Universals of Language(1963)]を わざわざ 自分の ルーツとして 披露した 奥田には 老境が せまっていた のだろう。ロシア語訳は みていないが、この本の つづく 第4章は「意味構造と 語彙内容」である。ワインライクの 30歳代の 力作は たしかに 将来の 大成を 夢想させる 魅力を もつが、奥田>新川 副詞論を 正当化は しないと おもう。

付)鶴峯戊申1833『語学新書』や 馬場辰猪1873『(通称)日本文典初歩』の (初期)ナショナリズムによる「普遍文典」を 評価しなおし、明治初期の school grammar に もとづく「模倣文典」(山田孝雄)の 副詞論にさえ、《構文的な 機能》を 優先した 貴重な 実験を 評価しようとした 奥田靖雄の 研究史は、また 展開の みちすじ(process)においては 過渡期の 評価かえも ありうる かもしれない。


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工藤 浩 / くどう ひろし / KUDOO Hirosi / Hiroshi Kudow


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