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評価成分をめぐって

工 藤  浩


0)はじめに
1)概観
2)構文的な諸特性
3)全体から部分へ ───「も」のつかない場合 修飾成分などとの関係
4)おわりに ───「他の副詞との相関図」
  〈参考文献〉




0)表題の「評価成分」というのは、湯沢幸吉郎(1934)や時枝誠記(1936)に先駆的な指摘や分析があり、渡辺実(1949、 1957、 1971)に至って、いわゆる陳述副詞に類するものとして「註釈(の誘導副詞)」「批評(の誘導形)」「解説(の中止法)」という名で分析が深められたものに関係する。先学の驥尾に付して、自分なりに詰めてみようとして、かれこれ20年近く前に、「注釈の副詞をめぐって」と題して口頭発表してはみたものの、基本的なところで分からないことが残り、活字化しないままになっていた。このたび、渡辺実先生の古稀のお祝いに加えていただくにあたり、この、出し遅れたレポートのようなもので、誠に恐縮ではあるが、ご批評をいただければと思って、提出することにした。長い間放っておいただけで、いかほども進歩していないのが恥かしいかぎりである。

1)概観
1-1
本稿に「評価成分」と称するものは、次の1a)〜3a)の下線部のような用法に立つ、文の成分をさす。
   1a)さいわい 朝のうちに雨はあがった。
   2a)あいにく 主人は外出しております。
   3a)意外にも ヤクルトが優勝した。
その形式上の特徴として、
  ⇒1b)朝のうちに雨があがったのは、さいわいだ(った)。
  ⇒2b)主人が外出しているのは、あいにくです。
  ⇒3b)ヤクルトが優勝したのは、意外だ(った)。
のような、ひっくりかえし文の述語に変形できることが挙げられることが多いが、これは、評価成分が意味的に、後続のことがら内容全体にかかわっていることのあらわれであり、この操作はあくまで、そのことを見やすくするためのパラフレーズなのだと考えた方がいい。この変形的な特徴を一次的な特性だと考えると、
     きのう 田中くんが来た。  ⇒ 田中くんが来たのは きのうだ。
     ここで 田中くんと遊んだ。 ⇒ 田中くんと遊んだのは ここだ。
のような「きのう」や「ここで」などの状況成分も同様だ、ということになってしまうだろう(この点を捉えて、一時期の英文法がそうしていたように、状況成分をも含めて「文修飾副詞」を立てるというのなら、それはそれで筋は通る)。
 また、a)の文では、文の主張 assertionはあくまで、述語の「あがった」等の出来事の記述にあるのに対し、変形したb)では、「さいわいだ」等の評価判断の方に主張がある、という重大な違いが両者にはある。a)とb)には、評価と、その評価対象としての出来事という、意味的な関係の等価性があるだけで、文の陳述性は同じではない。
 ところで、後続のことがら内容に対する〈確認〉を表す「もちろん・たしかに」も、
   4a)もちろん あしたまでには仕上げます。
   ⇒b)あしたまでに仕上げるのは もちろんです。
   5a)たしかに きのうかれは来ました。
   ⇒b)きのうかれが来たのは たしかです(*でした)。
のように変形できるところから、この評価成分と同一視されることが多い。工藤浩(1978)の「注釈の副詞」も、その立場であった。だが、渡辺実(1949)に言及しながら、川端善明(1958)がつとに指摘しているように、両者には次のような違いがある。意味的に「評価」(川端1958の「批評」)を表わす方は、
   1c)朝のうちに雨があがっ、さいわいだ(った)。
   2c)主人が外出してい、あいにくです。
   3c)ヤクルトが優勝し、意外だ(った)。
のように、出来事を中止形「〜して」にした重文構造に変形でき、評価述語はテンスの対立を持つのに対して、意味的に確認という下位叙法性(川端1958の「注釈」)を表わす「もちろん・たしかに」などの方は、
   4c)*あしたまでに仕上げ、もちろんです。
   5c)*きのうかれが来、たしかです(でした)。
のごとく、中止形の重文構造がとれない。このように、出来事を記述した節と対等の重文の述語にはなれず、b)のような、出来事を主語節とするひっくりかえし文の述語になれるのみであり、しかもテンスの対立を持たない(cf. 5b)ということは、それだけ、実質的な意味と多機能の叙述性とを持つ〈用言〉としての性格が弱く、意味の形式性ゆえに単機能化する〈副詞〉としての性格が強いことの現われだと言ってよい。「もちろん・たしかに」は、「当然・明らかに・いうまでもなく・まちがいなく」などとともに、下位叙法副詞と考えた方がよいと、今の私は考えている(工藤1982参照)。なお、これらのうち「当然・まちがいなく」は、次のような形でも用いられるが、
     彼は、謝っ 当然だ/然るべきだ/あたりまえだ。
     これを副詞と考え まちがいない/よい/かまわない。
これは、もはや重文ではない。叙法的な補助用言(脚結)へ、移行しかけた用法である。「当然(に)──(て)当然だ」「まちがいなく──(て・に)まちがいない」「うべ──(う)べし」「あに──(あ)ぬ」など、挿頭と脚結とが並行的に生成発展することは、よくあることである。
 以上のように考えて、本稿では、問題の「評価成分」を、
     文の叙述内容に対する話し手の評価を表わす、先行する独立的成分
と、位置・機能・意味の面で、規定しておくことにする。「評価」には、情意的なものもあれば、知的なものもある。個人的な予想や期待を基準にした評価もあれば、共同主観的ないし社会的に定着した評価、いわゆる評判や定評もある。評価を単に「主観的」なものと見なす風潮もあるようだが、それは、評価の一般化としては、狭すぎる。

1-2 叙述内容=コトガラは、意味的に大きく命題・出来事・人の行為などに分けうるが、先の「さいわい」の類の評価対象がそのすべてにわたる(2-1-1節 参照)のに対し、次の「感心に・親切に(も)」の類は、〈人の行為=ヒトのするコト〉に対する評価に限られるが、叙述内容に対する評価の重要な一部として、評価成分に含めて考えていくことにする。
   6a) 感心に かれは よく はたらく。
    b) かれが よく はたらくのは 感心(なこと)だ。
    c) かれは/*が よく はたらい 感心だ。
    d) かれ よく はたらくのが 感心だ。
   7a) 親切に(も) かれは 道を ていねいに 教えてくれた。
    b)(?)かれが 道を ていねいに 教えてくれたのは 親切(なこと)だ。
    c) かれは/*が 道を ていねいに 教えてくれ 親切だ。
    d)(?)かれ 道を ていねいに 教えてくれたのが 親切だ。

以上を、比較の便宜上、人間主語構文に統一して図表化すれば、次図のようになる。
┌────────────┬──────┬────────┬────────┐
│            │確認的叙法性│ ことがら評価 │ 人行為評価  │
│            │勿論 確かに│ 幸い 意外にも│感心に 親切にも│
├────────────┼──────┼────────┼────────┤
│b 人ガ………ノハ───│ +  + │ +   +  │ +  (+) │
│c1 人ガ………シテ───│ −  − │ +   +  │ −   −  │
│c2 人ハ………シテ───│ −  − │ −   −  │ +   +  │
│d 人ハ………ノガ───│ −  − │ −   −  │ +  (+) │
└────────────┴──────┴────────┴────────┘
 この、変形されうる統語型の違いは、その成分の〈範疇的な意味〉の違いに基づくところが大きいものと思われる。とくに問題になる〈人の行為〉に対する評価成分について考えてみよう。西尾寅弥(1972)では、「人に関する属性」を表わす形容詞が、「持続的性質と一時的態度・ようす」の観点から、次のような三種に分けられている(pp.124-132)。
  A:人の持続的・内的な性質・特徴を表わすもの。
     無口な 勝ち気な 内気な はで好きな 凝り性な / 意地っ張りな
  B:AとCとの両面性を持つもの。
     大人しい 親切な 快活な 正直な 勝手な
     頑固な 強情な 真面目な 几帳面な のんきな 
  C:人の一時的・外的な態度・ようすを表わすもの。
     かいがいしい そっけない* 大げさな* 婉曲な
     真剣な 本気な 念入りな 丹念な 気楽な*
 文法的な面では、A類は、構文機能的に、人への連体修飾が多く、構文意味的には、人を主体にするものであり、C類は、構文機能的に、連用修飾、または動作名詞への連体修飾が多く、構文意味的には、人の動作・態度などのコトを主体にするものであり、そしてB類は、A類とC類の両面性をもつものである、とされている。
 この分類に従って言えば、評価成分には、B類、つまり人の性質(属性)であるとともに、行為の様態(偶性)でもあるものが多いと言える。A類は、より純粋に人の性質を表わすために、人への超時間的な連体規定用法にかたより、時間性をもつ行為・出来事にかかわる連用修飾用法には立ちにくいが、「−も」を付けて、構文的な独立−遊離化を鮮明にすれば、評価用法には用いうる。C類は、行為の個別・具体的な様態だから、「−も」の形にしても、行為限定性つまり修飾性がぬぐいきれない。ただし、*印を付けた語は、「気楽な人」「大げさな人」「そっけない人」という連体用法も、「−も」の形の評価用法も可能であり、B類に準じて考えてもよいのではないか、と思われる。

1-3 評価成分は、機能的には「文の叙述内容に対する」もの、つまり対立するもの、独立するものであって、一次的には叙述内容を詳しくするものではない。したがって、次のような意味的には評価を表すといえるものでも、行為や出来事(状態変化)のあり方を(について)限定するものは、本稿でいう「評価成分」ではない。
     太郎は 上手に 歌を歌った。
     ご飯が おいしく 炊けた。
これらは、文の叙述内容としての、行為(中)の様態や、出来事の(成立後の)状態を、価値の側面から限定するものであって、これらには、事態の修飾性つまり叙述内容の拡大−詳細化が、明白に認められる。それらが叙述内容の内部にあることは、
     太郎、上手に 歌を歌え/歌おうよ/歌ったか
     ご飯が おいしく 炊けない/炊けたらなあ/炊けたか
など、種々の叙法性をもつ文に自由に用いられ、叙法性の種別に基本的に関与しないことから、確認できる。
     太郎は、地図を書いて、道順を親切に教えてくれた。
     太郎は、親切にも、地図を書いて道順を教えてくれた。
の場合、動詞の直前に置かれた「親切に」の方は、「やさしく、ていねいに」といった意味の方向にずれており、行為の様態を限定する修飾用法と見られるが、主題の直後に置かれた「親切にも」の方は、行為自体は限定しておらず、太郎の行為に対する評価用法と見られる。次のように「親切に」は命令文にも共起可能だが、「親切にも」は不可能であって、確定した行為の叙述文(いわゆる平叙文)に、ほぼ限られる(2-2節 参照)。
     太郎、地図を書いて、道順を親切に教えてあげなさい
    *太郎、親切にも、地図を書いて道順を教えてあげなさい
 以上のように、評価成分と、評価的な修飾成分とは、基本的に区別しうるが、次のような連続相−相互移行の現象もある。
 まず、評価成分の「さいわい・あいにく」が、先の1a)2a)のような文に用いられた場合には、その評価の対象面としての「時機(タイミング)の一致・不一致」がいわば <裏面> に潜むわけだが、それに関連して、
     タクシーが ちょうど いいあんばいに 通りかかった。
の「ちょうど」や「いいあんばいに」のような境界事例が問題になってくる。
 また、多くの学者が代表例として挙げる「珍しく」も、
     珍しく、田中さんが出席した。
では「出席が久々だ・稀だ」といった間隔や頻度の時間的側面を〈含み〉として持つ。
 こうした「さいわい」や「珍しく」が裏面や含みとしてもつ叙述内容の〈装飾〉性は、「上手に」や「おいしく」が正面から文字通りの意味として叙述内容を限定する〈修飾〉性とは、基本的には区別できる。個別的な境界が微妙になることがあることは、分類の無効を意味しはしない。大事なことは、相互移行が起こる諸要因を確認することである。
 なお、次のような「解説」的な中止用法と、評価成分との差は微妙である。
     太郎は、親切(な人)でね、地図を書いて道順を教えてくれたよ。
これを、二肢述語文の前句と捉えるか、評価成分と捉えるかの問題である。これについては、形容詞・名詞述語(判断文)と動詞述語(記述文)とが組み合わさる二肢述語文の用法の種々相について見極めがついていないので、最終的な判断は保留せざるをえない。

1-4 ここで、評価成分の〈代表的な型〉と〈代表的な語例〉を整理しておくことにする。谷部弘子(1986)と細川英雄(1989)を参考に、私見を加えて整理すれば、次のようになるだろう。[  ]に括った例は、境界事例として問題になる例である。

 a)「−φ」形式:「−も」不要 評価用法のみ
  コト:あいにく(ト) さいわい(ニ、ニモ、ニシテ) 不幸にして(ニモ) [あたら めでたく]
     運悪く 運よく 折悪しく 折よく / 不運に 幸運に [さすが(ニ・ハ)]
       [ちょうど 都合よく いい按配に いい具合に  (動作修飾へ)]
     珍しく 不思議に(ト、ヤ) 奇妙に    [妙に 変に  (状態修飾へ)]
  ヒト:かわいそうに 気の毒に 感心に 生意気に 物好きに お節介に

 b)「−も」形式
 b1)形態が固定的なもの
    奇しくも いみじくも はしなくも ゆくりなくも はからずも
       [早くも(時へ) / 辛くも 脆くも 心ならずも(動作修飾へ)]
       [よくも 曲がりなりにも / いやしくも 仮にも(叙法副詞へ)]

 b2)修飾用法が稀で、ほぼ評価用法専用 (「内容」の連用用法はある)
  コト:残念にも 惜しくも 不本意にも 無念にも 心外にも 
  ヒト:奇特にも 卑怯にも 非常識にも 不覚にも 無能にも 

 b3)評価用法「−も」 ⇔ 修飾用法「−φ」 両用型
  コト:うれしくも 悲しくも なつかしくも 情けなくも 愉快にも 不愉快にも
     不当にも 空しくも 皮肉にも / 意外にも[案外(ニ) (程度・叙法へ)]
  ヒト:大胆にも 不用意にも うかつにも 親切にも けなげにも 頑固にも

以上のa)とb1〜3)が代表的な評価成分である。
 ここで、品詞論的処理について付言するなら、形態的に固定しているb1)と、その形での用法が評価専用であるa)は、品詞としても「評価副詞」としてよいだろう。b2)は「−に思う」のような内容の連用用法を別扱いしてよければ、評価副詞に含ませうる。b3)は、形容詞と扱うべきだろう。
このほか、次のc)〜f)も、評価成分、またはそれに準ずるものと考えられる。

 c)「−ことに(は)」  
  形容詞:うれしいことに 悲しいことに 不思議なことに 気の毒なことに
  動 詞:驚いたことに 困ったことに 馬鹿げたことに びっくりしたことに

 d)「−(もの)で」
    変なもので 妙なもので 正直なもので 意地の悪いもので / 案に相違で

 e)「−ながら」
    残念ながら 遺憾ながら はばかりながら 失礼ながら 不本意ながら
    当然のことながら 簡単なことながら ばかばかしいことながら

 f)その他、前置き節・挿入句など
    恥かしい話ですが  まことに残念ですが  / 事もあろうに
    あに図らんや  果せるかな  悲しいかな  やんぬるかな

このうち、d)e)f)は、それぞれ基本的には、中止・逆接・前置きなどの形で、意味機能的にさまざまなものが含まれるものであって、評価的に働くのは「妙」とか「残念」とかの形容詞の意味の働きによるところが大きい。d)中止の形の評価成分についての位置づけや範囲は、先述したように未確定であるが、評価成分らしき例文をあげておく。
・「だけどね、おじさん、変なもので、はじめは、ほんの自分の商売の、まあいわば『だし』のつもりで借りていたんだけど、この頃じゃあ、妙なもので、あたし、太一ちゃんの顔を見ないと寂しい気がするのよ。───」(子を貸し屋)
 cf. 人間というのは妙なもので、若いときに貰った奴がどうしても一番好いような気がするね。(破戒)
    #これは、重文(あるいは二肢述語文)の例である。
正直なもので、彼の胸中には、もう、五百助や駒子のことは、影も留めなくなった。
・ところが、意地の悪いもので、その日に、カラリと、梅雨が晴れたのである。(以上の二例 自由学校)
・馬鹿野郎、と思って出来上がるのを見たら、案に相違でたいへん繁盛している様子である。(私の人生観)
【補記:最後の例は、「案に相違して」という「解説」成分の変種(variants) と考えるべきであったのだろう。「解説」成分の位置づけについては、用言の中止形 ないし 重文・複文の 本格的な研究に まつほかないこと、先述の通り。】

 逆接ないし前置きの形のe)とf)は、次のように決断文や依頼文にも用いうる点で、a)b)の代表的な評価成分と異なる。【補記:この点を捉えて、「注釈」成分という別種を立てる余地もある。[cf. Greenbaum(1969)]】
    まことに残念ですが、お断わりします/断ってください。
   *まことに残念にも、 お断わりします/断ってください。

 c)「−ことに」の形は、形容詞のみならず評価・感情的な動詞からも作られ、一般に修飾用法と紛れるのを防ぐ利点もあってか、現在もっとも生産的と言ってよい型である。たとえば、b3)のうち「うれしくも」などの感情形容詞類の多くは、文体的に文語体に限られ、口語体では「うれしいことに」の方が用いられる、といった傾向が見られる。
 ただこのc)は、とくに「−ことに」の形の場合に顕著なのだが、次のようにテンスをもつとともに、話し手以外の評価主体を顕在化しうる点で〈節clause〉性が高く、a)やb)の評価成分が語形態で、評価主体は原則として話し手に限られるのとは、異なる。
・が、たぶんおせきももうその家にはいないだろう、と予想していったおみのの意外だったことには、ちょうどそのとき彼女の順番だったと見えて、そこの店の、ガラスのはまった障子の向こう側に、厚化粧をしたおせきが、客を呼ぶためにすわっていた。(子を貸し屋)
・が、三郎の安堵したことには、さすがの明智も、節穴から毒薬を垂らして、そこをまた元々通り蓋しておくという新手には、気づかなかったと見えて、天井板が一枚もはがれていないことを確かめると、もうそれ以上の穿鑿はしませんでした。(屋根裏の散歩者)
 ちなみに、この点は「彼が言う(の・こと)には〜」「ぼくの考えるには〜」「私、思いますに〜」などの下位叙法の成分にも同様の例があり、共通の源をもつのだろう。こちらも、主体を話し手に制限しながら、「思うに」「考えてみるに」などを経て「案ずるに」「要するに」「加うるに」などの下位叙法副詞や接続副詞に連なっていく。
 次の例は、評価成分「〜ことには───した」が主題構文「〜ことは───ことだ」と構文的な混線 contaminationをおこしたものと考えてよいだろう。その際、文末の「ことだ」が、形式名詞の述語か、詠嘆的な叙法助動詞化したものか、という多義性ないし曖昧性も関わっているだろう。この点も、同様な現象が逆の方向への移行だが、「実は・本当は・要は」といった主題形式出身の下位叙法副詞に、見られる。
・ところで、哲学者にとってまことに厄介なことには、実証科学が、疑いもなく万物に共通な性質、すなわち量というものを引き受けてしまった後には、質の世界しか残っておらぬということです。(私の人生観)
・今頃主婦の部屋へ何の用があるのであろうと思っているうちに惜しいことにはもう私は仕事の疲れで眠ってしまった。翌朝また眼を醒ますと私に浮んで来た第一のことは昨夜の屋敷の様子であった。困ったことには考えているうちにそれは私の夢であったのか現実であったのか全く分からなくなってきたことだ。(機械)
意外なことには、五百助は、公務執行妨害の現行犯で、引致されたので、逮捕に向った一隊が狙ったホシ(犯人)の一人では、なかったことであった。(自由学校)

2)構文的な諸特性
2-1 文の意味的な構造との関係
2-1-1 叙述内容の意味的なタイプ───述語の種類

 渡辺実(1949)がすでに指摘している通り、動詞述語、形容詞述語だけでなく、次のように、名詞述語とも共起し、いわば、述語の品詞・意味的種類を選ばないものもある。
・家は廟か何からしく、幸い煉瓦造りの壁に囲われた堅固な建物である。(麦と兵隊)
幸いに芝の祖父でも本郷の父でも賢い人々だった。      (暗夜行路)
あいにく両氏とも東北大教授であれば、あるいは大学が離すのを肯んじないかもわからぬ。(総長就業と廃業)
・敏感な高橋少年は一目見たばかりで、一座の中心人物は陸軍大臣でもなく参謀次長でもなく、意外にもこの怪老人であることを直感した。(偉大なる夢)
運悪くリヤカーは病院のものではなくて、お町さんを乗せて来たものであった。(本日休診)
・逃走中のトラは十一日がくしくも満一歳の誕生日。あわれな命日となる可能性も。(新聞記事)
しかしまた、「ありがたくも・無惨にも・皮肉にも」などコトガラ評価のものでも、名詞述語文の例が考えにくいものも多い。
・そして大急ぎの穴ふさぎが、ありがたくも私たちの小劇団に仰せつかったのだ。(火の鳥)
・女雛の顔は、無惨にも、鼠に噛りとられている。    (シナリオ 婉という女)
・この高木理恵子の死が、皮肉にも容疑者と理恵子の関係を裏づける結果になったのであります。(シナリオ 砂の器)
はしなくも、明治大正の教育と、戦後の教育との、大きな落差がここに露出されたかたちだった。(人間の壁)
叙法的な「もちろん」などや状況的な「昔・家では」などと異なり、評価成分はその評価対象としての叙述内容との間に、意味的な共起制限があるからである。なお、名詞文といっても「通りかかったのは、ありがたくも友軍だ」「彼は皮肉にも冷酒だった」といった「ひっくりかえしの名詞文」や「はしょりの名詞文」および「〜した様子だ・形だ」といった擬似的名詞文(新屋映子1989の「文末名詞文」)は、別扱いにすべきである。また、
・屋根も廂も、おそらくは土台迄も傾いた古家で、この新しいもの好きでは今正に東京を凌駕してアメリカに追随しようという大阪に、不思議にも多く残っている景色である。(大阪の宿)
・意外にも、古いが特長のある斑痕が目についた。珍しく、上部の切れた斑痕である。(本日休診)
など、一見、名詞文の例に見える例もあるが、それぞれ「多く残っている」「上部の切れた」の部分を評価対象とする、連体節内部での用法と考えるべきであろう。前者は、「それは[不思議にも多く残っている]景色だ」という構造であって、「不思議にも[それは……景色だ]」という構造ではないし、後者も「それは[珍しく上部の切れた]斑痕である」という構造である。また、
・一人の老教授だけが大胆にも首を横にふった。(夜と霧の隅で)
などの〈人の行為〉に対する評価の場合は、意味的に当然のことながら、基本的に動詞文に限られる。ただ、行為評価の多くが、個々の行為を対象にする傾向が強い中にあって、「感心に」など、それだけでなく習慣的な行為をも対象にする性格をもつために、性質を表す形容詞句とも共起しうるものも、ある(「かみさんは感心に口の堅い方ですね」)。

2-1-2 評価対象としての、〈主語〉と〈動作主〉───ヴォイス
 人の「行為」評価といっても、受身構文も含む。たとえば「おろかにも」の場合、
    警察は、おろかにも田中氏を逮捕した。
    田中氏は、おろかにも警察に逮捕された。
のように、能動にも受動にも用いられ、それぞれ〈主語〉に立つ人間(や組織)の行為の「おろか」さを評価している。それに対し、
    太郎は、花子に上手にだまされ(てしまっ)た。
     cf) 太郎は、上手に、花子にだまされ(てやっ)た
    その仕事は、太郎によって見事に成し遂げられた。
のような行為についての評価的限定の場合、通常、主語の人間ではなく〈動作主 agent〉に対する評価である(通常でない例はcf参照)。ただし後者「見事に」は、見方を変えれば主語「仕事」への評価とも言え、それだけコトガラ評価に近いとも言える。ちなみに、
    新入社員は、恐ろしそうに/恐る恐る係長に声をかけた。
    係長は、新入社員に恐ろしそうに/恐る恐る声をかけられて、気分を害した。
のような心理面での動作限定の場合も、通常、動作主の心理である。
 また、「不運」の場合は、
    不運にも、その老人は、その子を車でひいてしまった。
    不運にも、その子は、その老人の車にひかれてしまった。
のように、能動受動ともに、それぞれ主語の人間が「不運」だとも言い得るが、
    不運にも、雨が降っていて、車がスリップしたのだ。
とも言える点、基本的にはコトガラ全体への評価と考えるべきだろう。
 以上、大雑把ではあるが、「不運に−おろかに−見事に−上手に」の順に、叙述内容への食い込みの程度が強まり、述語に対する独立の程度が弱まると言えるであろう。

2-2 文の陳述的なタイプ───テンス・ムード
 前小節までに挙げてきた例からも知られるように、評価成分が用いられる文は、叙法的には、〈叙述文〉と、次のような〈確認ないし問い返しの疑問文〉に限られる。
・「おいおい、めずらしく妙な興味を起したんだな?」西本がひやかした。(霧の旗)
しかも、大多数を占める動詞文において、時間的には「した・している」の形と共起することが多く、〈実現・確定したことがら〉がほとんどである。「さいわい、あした主人が帰ってくる」が言えるのも、未確定の未来というより、現在の〈予定〉だからである。
・女を監禁している悪漢に対し、自分は義血侠血に富むひとかどの役柄を引き受けて、目出度く救い出そうという緊張した場面を想像していたのに、………(大阪の宿)
という例では、「めでたく」が決意文に用いられているが、この「めでたく」は、評価から、行為の様態(錘尾よく)ないし結果(垂゚でたい形に・成功裡に)の修飾へ 一歩踏み出した境界事例であり、評価成分としての例外と見なくてもよいのではないかと思われる。
 評価成分は、「勿論・確かに」などの下位叙法副詞より叙法制限がきつく、命令文・決意文のみならず、当為的な叙法性(様相性)にも用いないのを基本とする。
    *さいわい───すべきだ/してもいい/した方がいい。
「さいわい、その会議室はタバコを吸ってもよかった」は可能だが、このテンスをもった場合は、当為文としての許可というより、評価文としての許容である。「あいにく、出掛けなければならない」が言えるのも、当為(行為の当然)の「べきだ」と比べて、事態の必要性という当為性の低いものだからだと考えてよいだろう。(工藤1989参照)
 なお、前述したように「−ながら」や「−だが」の型の評価は、以上とは異なる。
   残念ながら、お断わりします。 /  気の毒ですが、お引き取りください。
   *残念にも、お断わりします。 /  *気の毒にも、お引き取りください。
                    
2-3 複文−従属節における用法───「陳述度」
 連体節・因果節・条件節など、南不二男(1967)のB段階の従属節にあらわれうる。
・処罰問題となって教授会の席上までのぼったが、それが幸い大した結果にならなかったのは、彼の行為に思想的背景のないことが明らかになったからだ。(故旧忘れ得べき)
・───生憎そよとも風のないその日は、木々がまるで死んだみたいに動かなかった。(故旧忘れ得べき)
・ハタと当惑したが、幸い、誰も見ていないので、手早く、ズボンの下に、それを匿した。(自由学校)
生憎、丁度鮪を口に入れて、モゴモゴやっていたところなので、その、娘娘した豊かな頬に読みとろうとした微笑の影などは、まるで曖昧にされて了った。(多情仏心)
・それで貴方がもし幸ひにそれを承諾して下さるとすると、一刻も早くお願ひしておく方がいいと考へたんで───(青銅の基督)
・まあ、では、わたしは不幸にもあなたの御専門について理解できないとして───これだけは伺へるでせう? (伸子)
 前小節で見たように、評価成分は、実現・確定した事態に対して評価を下すのが基本であるから、テンスを持ちうる連体節や因果節にあらわれることは、不思議ではない。条件節の例も、いったん実現・確定したものと仮定するのであるから、あっても矛盾はしないが、実際にはきわめて少ない。条件のなかでも「−とすると」「−としても」や「− (ノ)なら」など、判断の成立を仮定するものはあるが、出来事の単純な仮定の例は、少ないのではないかと思われる。また、一般的な事態にも個別的な事態にも用いる「さいわい・あいにく」と比べて、「意外にも・不思議にも」のような個別的な事態にしか用いないものの方が、単純な条件節に用いにくいと言えるだろう。
    あいにく、あした 雨が降ったら/た場合には 映画を見に行こう。
   ?意外にも、あした 雨が降ったら/た場合には 映画を見に行こう。
「さいわい (ニ・ニシテ)」は「〜ので」などの因果節と共起する例が多い。「さすが (ニ・ハ)」は、「それでもやはり」の意の「さすがに」は別にして、主として社会的な評価(評判)に一致する意味の場合は、「−だけ・に/あって」「−だから」などの因果節に用いられることが、かなり多い。「さすが横綱だ。強いもんだ」のような連文の因果性も含めてよければ、因果性の叙法副詞と言ってもよいかもしれない。これらは、「なまじ〜よりは/ために」「へたに〜すると/しては」「どうせ/おなじ〜するなら」などを中間領域としながら、「せっかく〜のに/のだから」「なにせ〜だから」「いくら〜でも」のような評価性をあわせもった条件的叙法副詞に、連なっていくものと考えられる。

3)全体から部分へ───「も」のつかない場合 修飾成分などとの関係
3-1 程度副詞との関係
については、工藤(1983)でも触れたので簡略にする。
    おそろしく巨大なビル / すばらしく大きな椿
    異様に大きな目    / 猛烈にさみしそうな顔
    意外に早かった    / さすがに見事だ
    本当にたわいない人  / まことに不思議な作用
などは、もともとコトガラ全体に対する評価であったものが、形容詞の直前に位置して、コトガラの中核のひとつであるアリサマに対する評価となり、さらに、その評価の対象面であった程度限定性が表面化しかけているものと考えられるが、「けっこう・なかなか」などの評価性を裏面に持つ程度副詞に連続する。なお、程度限定性の感じられない、
    妙に静かだ / 変にだるい / 不思議に平気だった
などは、次のような「不特定(副)詞」(仮称)へ連なっていくのだろう。
    なんか変だ / なんとなくだるい / どことはなしに似ている

3-2 〈人の行為に対する評価〉に関連しては、1-3節や2-1-2節でも、図式的に触れたが、「情態修飾」との関係が問題になることが多い。
・でも、やっぱり出来ないで───時々ここへ来ては、未練がましく、出したり取り散らかしたりして見るのですけれど───(河明り)
・明子は興奮した中で、耳ざとくそれを聞き止めた。 (くれない)
・二人は、来春、めでたく結婚にゴール・インするはこびとなった。(新聞記事)
・まだ三才になったばかりの○○ちゃんが、親の死も知らずに、無邪気に遊んでいる姿は、参列者の涙を誘った。 (新聞記事)
これらは、行為や動作そのもの(全体)に対する評価なのか、行為や動作の様態についての評価的な限定なのか、微妙である。連体における「装飾」用法と「限定」用法との違いが意味的に微妙になることがあるのと、軌を一にするように思える。ただ、
・ユキが手を差しのばして取ろうとすると、徹男、意地悪くヒョイと竿を引く。(シナリオ 津軽じょんがら節)
・月の始めから再三重役会を開いて懇談しても、ねちねちと意地悪く絡んで来る相手方の態度に憤慨して、田原も───華々しく決戦しようとした。(大阪の宿)
のような「意地悪く」の二例が示すように、一般に〈語順〉が前にあるほど、つまり動詞から離れているほど、従属性・限定性が薄らぎ、独立性・評価姓は強まる、とは言える。「−も」がはたす成分独立化の機能を、語順(文内の位置)も、はたしうるのである。
 また、〈コトガラ評価〉に関連しては、たとえば、
・山下門で下りて、京橋の旅館に行くと、父親は都合よく在宅して居た。(蒲団)
・社長は私が話した海の上の男と、娘との間の複雑した事情は都合よく忘れて仕舞い、二人の間の若い情緒的なものばかりを引き抽いて、────   (河明り)
・───ヘンなことしたら横ッ面ピシャッとやって恥かかして帰ってやろうかと思ったの、巧い工合に小関さんが来てくれてよかったわ───(故旧忘れ得べき)
・月がうまい具合にその顔を照らしてくれる時を除いて、女の顔は影に包まれて見えた。(潮騒)
のような例は、述語が、広義の存在(滞在や出会い)を表す「在宅する・来る」か、行為や変化の「照らす・忘れる」か、といった述語動詞の範疇的意味、ひいては、文の叙述内容の意味的タイプが、評価的か修飾的かという識別に関係していることを示唆しているように思われる。また〈評価主体〉に関しては、「都合よく」の例で言えば、前者『蒲団』の方は、主語「父親」の都合ではなく、作者が視点をおく登場人物(「話し手」に準じるその場の「主役」)の都合であり、後者『河明り』の方は、主語「社長」の都合である。と、書きつけていけばキリがないが、おそらく、広義「連用」において、全体と関わるか部分に食い込むかということは、柔軟で融通のきくものだというのが、肝心なことなのだろう。実際のところ、事実的にも表現的にも、大差はない場合も少なくないのである。

4)紙幅が尽きた。とりたて副詞にも「たった・たかが・せいぜい」など、評価性を持つものがある(工藤1977)。時間副詞にも「もはや・とうとう」などがある(工藤1985)。要するに「評価」は、叙法・程度・情態・とりたて・時間といった、さまざまな成分にも「かぶさる」ような形で存在するわけで、独自の領域を持たせるほどのものではないのではないか、とも疑われるのであるが、第1節第2節で見てきたような意味上・構文機能上の特性により、「幸い・奇しくも・大胆にも・驚いたことに」など、評価を本務とする文の成分を立ててよいと考える。品詞としての「評価副詞」がどの範囲で立てられるかについては、紙幅の関係で、暫定的な考えを 1-4節に注記するにとどめた。
 最後に、あらいものながら、他の副詞との相関図を示せば、次のようになる。
                            
   評価成分─┬─叙述全体に−ことがら評価:驚イタコトニ………さいわい:評価副詞
        ├─叙法部分へ−のべかた評価:さすが………せっかく:叙法副詞
        ├─時制部分へ−なりたち評価:早くも………とうとう:時間副詞
        ├─相言部分へ−ありさま評価:意外に………けっこう:程度副詞
        ├─用言部分へ−やりかた評価:親切に………きちんと:情態副詞
        └…体言部分へ−ものごと評価:優 に………たかだか:取立副詞
                            
〈参考文献〉
湯沢幸吉郎1934『口語法精説』(国語科学講座)
時枝 誠記1936「語の意味の体系的組織は可能であるか」(京城帝大『日本文学研究』)
渡 辺  実1949「陳述副詞の機能」(京都大『国語国文』18-1)
─────1957「品詞論の諸問題──副用語・付属語──」(日本文法講座1)
─────1971『国語構文論』(塙書房) 
川端 善明1958「接続と修飾──「連用」についての序説」(京都大『国語国文』27-5)
─────1983「副詞の条件──叙法の副詞組織から──」(『副用語の研究』)
南 不二男1967「文の意味について 二三のおぼえがき」(国学院大『国語研究』24)
Greenbaum,S.(1969) Studies in English Adverbial Usage. Longmans.(邦訳1983)
工 藤  浩1977「限定副詞の機能」(『国語学と国語史』)
─────1978「『注釈の副詞』をめぐって」(国語学会春季大会 発表要旨)
─────1982「叙法副詞の意味と機能」(国語研『研究報告集(3)』)
─────1983「程度副詞をめぐって」(『副用語の研究』)
─────1985「日本語の文の時間表現」(『言語生活』No.403)
─────1989「現代日本語の文の叙法性 序章」(『東京外国語大学論集』39)
宮島 達夫1983「状態副詞と陳述」(『副用語の研究』)
小矢野哲夫1983「副詞の呼応──誘導副詞と誘導形の一例──」(『副用語の研究』)
内田 賢徳1983「嘆きの挿頭──係り方の考察──」(『副用語の研究』)
鈴 木  泰1983「中古における評価性の連用修飾について」(『日本語学』2-3)
西尾 寅弥1972『形容詞の意味・用法の記述的研究』(国語研報告44 秀英出版)
谷部 弘子1986「話し手の評価を担う形容詞」(『日本語学』5-11)
細川 英雄1989「現代日本語の形容詞分類について」(『国語学』158)
新屋 映子1989「"文末名詞"について」(『国語学』159)

[付記]
 私は、時枝誠記(1936)が 意味記述に苦闘し、渡辺実(1949)が 機能分析と格闘し、川端善明(1958)が 論理解析を整頓した、その 古い 確かな道を、たどたどしく ときに脇見をしながら 歩いてみたにすぎない。近くを、もっと軽快で 快適そうな バイパスが走っていることを 知ってはいたが、そこを走り抜ける気には、私は ならなかった。古い道でしか出会えない 景色や草花に、私の興味は あったのだから。

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