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【資 料】
単語の くみあわせの 理論

1958.1.27
おくだ・やすお


 つぎのような文を ならべてみると、単語と単語との関係が二重になっていることが、よくわかる。そして、その二重の関係が、ふたつの側面に たやすく分離できる。(つくった文は ぎこちないが、説明をすっきりさせるために、がまんしていただきたい。)
    (A)のグループ
     (1) にまめを たべる。
     (2) にまめは たべる。
     (3) にまめも たべる。
    (B)のグループ
     (1) にまめを たべる。
     (2) にまめで たべる。
    (C)のグループ
     (1) にまめで たべる。
     (2) にまめでは たべる。
     (3) にまめでも たべる。
 (A)のグループの みっつの文を くらべてみると、つぎのことが わかる。ふたつの単語のあいだには、共通の むすびつきが存在しているのだが、その むすびつきは、それぞれの文のなかで、はなし手主体の おかれている条件におうじて、なんらかの修正をうけている。いまここで、この修正の本質を規定しないで、ひろい意味における陳述であると理解しておこう。このことは(C)のグループの文にも あてはまる。
 ところが、(B)のグループの ふたつの文を くらべてみると、(A)と(C)のグループに みうけられる陳述的な修正は うしろに しりぞいて、ふたつの単語の むすびつきだけが前面に おしだされ、それの ちがいだけが気にかかる。しかし、(B)のグループの文が陳述的な修正から ときはなされている わけではない。「にまめを たべる」という文を(A)のグループに、「にまめで たべる」という文を(C)のグループに おしこむと、陳述的な修正のたちばから、ほかの文と対立してくる。
 こうした事実から、文のなかにある ふたつの単語の関係は、ふたつの側面から研究しなければならなくなる。(1)ふたつの単語は どういうふうに むすびついているか? (2)このふたつの単語の むすびつきは、どういうふうに陳述的なたちばからの修正をうけているか? もしも、陳述を 文がなりたつための基本的な条件であるとみるなら、(2)の問題は 文の問題として、文の部分のあいだに存在する 陳述的なかかわり方の問題として、とらえなければならない。(1)の問題は、やはり文章論の領域での しごとであるにしても、陳述から ときはなされたところで、研究しなければならない。(1)の問題の解決は、(2)の問題を解決するための前提条件になるだろう。
 こうして、わたしたちは 文章論のなかに 単語のくみあわせ Word-group を研究する領域を あたらしく設定するか、あるいは 従来の文章論のなかで、文の理論から それを分離させなければならなくなる。
 わたしたちは 文のなかから 単語のくみあわせを ぬきとるわけだが、この単語のくみあわせを「にまめを たべる」「にまめで たべる」というかたちで代表させるのは、きわめて便利であるようにみえる。しかし、「にまめを たべる」という単語のくみあわせが、全体として、単語とおなじように 文の部分として はたらくということに注意するなら、陳述からの解放、したがって文の部分が単語のくみあわせに固定していく過程は、このかたちをとおして 歴史的に進行しているということになり、こうした代表のし方は理論的な よりどころを みつけだすことができるのである。(たとえば、「にまめを たべるのは、おなかに わるい」というような文のな[か]での「にまめを たべるのは」。)
 単語のくみあわせは、文のなかに はいるとき、あるばあいには ふたつの文の部分になるし、あるばあいには 全体がひとつの文の部分になる。こうして、単語のくみあわせは、単語とおなじように、現実にたいする名づけとして、事物や現象の表示の手段として、はたらいているにすぎない。文をとおして、はじめて通達の機能をはたす。
 しかし、単語のくみあわせは、ふたつ、あるいは それ以上のかずの独立語が一定の法則にしたがって くみあわさっていて、そこには 文章論的なむすびつきが存在しているということで、単語とは はっきりちがっている。つまり、単語のくみあわせが 全体として現実のものごとの名づけとして はたらくのには、そこに はいりこむ単語が それぞれ自分の語彙論的な意味を たもちながら、一定のむすびつきのなかに はいらなければならないのである。いいかえると、名づけの単位としての単語のくみあわせの意味は、それをくみたてる単語の語彙論的な意味と それらのあいだの むすびつきから なりたっているのである。
 単語のくみあわせのなかにある単語の語彙論的な意味は、字びきに かいてある。したがって、それらのあいだの むすびつきが 単語のくみあわせの文法的な意味を なしていて、それの研究を 文章論の 単語のくみあわせの理論が うけもつのである。
 単語のくみあわせのなかには、たんに事物や現象が反映しているだけではなく、事物や現象のあいだの関係も反映している。この点で単語とは ちがっている。したがって、単語のくみあわせが このむすびつきを表示しなくなったときは、形式的には ふたつの独立語のくみあわせであっても、意味的には 単語にひとしくなる。こうしたところに、フレーズのような語彙化の現象がある。(たとえば、「はらを たてる」「ほねを[お]る」「みみを かたむける」など。)
 単語のくみあわせのなかでは、ふつう、ひとつの単語がシンになっていて、主役を はたしてお[<を]り、そのシンに もうひとつの単語が つきまとっている。つまり、シンになる単語が もうひとつの単語に つきそわれて、自分の意味を具体化しているのである。単語のくみあわせの 形式的な構造と意味的な構造とが、基本的には シンになる単語の品詞やその形態論的な質とによって、決定されるという事情は、単語のくみあわせの こうした特徴から でてくるのである。
 単語のくみあわせの構造は、文法的な意味においても 文法的なかたちにおいても、まずカザラレの品詞によって規定されている。カザラレは、自分の拡大と具体化にさいして、特定の品詞とその形態論的な質をカザリに要求しているのである。副詞が動詞をかざる品詞であるということを考えれば、このことは容易に理解できる。いわゆる連体修飾と連用修飾とのちがいは、単語のくみあわせの形式的な構造のちがいを しめすものであるが、それは同時に 意味的な構造の ちがいをも しめしている。連体修飾と連用修飾の文法的な意味のうえでの並行は、単語つくりの結果 おこってくるが、この並行性は 単語のくみあわせの全体を つかんではいない。このことを証明するために、「祖国を愛す」と「祖国への愛」とを くらべてみるだけでよい。「へ」の格をとる名詞(カザリ)と動詞(カザラレ)とのくみあわせは、おなじ格の名詞(カザリ)と名詞(カザラレ)とのくみあわせと、むすびつき方において、ちがったものなのである。このことは、格助詞を単語のくみあわせの形式的な構造から ぬきだして、その意味を あきらかにすることが、不当な一般化であることを証明する。
 他方では、名詞と動詞とのくみあわせは、さらに構造的に いくつかのグループにわけられるが、それらが相互に関係しあっていて、ひとつのカテゴリーに まとまっている。こうしたことは、名詞と名詞とのくみあわせについても いえる。名詞と動詞とのくみあわせが、副詞と動詞とのくみあわせに、形式的にも意味的にも ちかいのは、カザラレ=動詞の同一によるのである。このことを理解するためには、名詞の副詞化が ここで おこっていることに注目すればいい。こうして、単語のくみあわせは、シンが動詞であるもの、名詞であるもの、形容詞であるもの、副詞であるものに わかれる。
 つぎに、単語のくみあわせの 形式的な、意味的な構造を つくるものは、カザリになる単語の品詞と その形態論的な質である。たとえば、シンが動詞であるばあい、カザリが名詞であるか、副詞であるか、名詞であるとすれば、その名詞がどの格をとっているか、こういうことが 単語のくみあわせの構造をきめている。こうして、シンが動詞である単語のくみあわせは、構造的なたちばから つぎのように 分類される。
    (1) 名詞と動詞とのくみあわせ
     (A) 名詞が「を」の格をとる場合
     (B) 名詞が「に」の格をとる場合
     (C) 名詞が「へ」の格をとる場合
     (D) …………………………………
     (E) …………………………………
    (2)副詞と動詞とのくみあわせ

 単語つくりによって、すべての動詞が名詞に移行するわけではないし、すべての名詞が動詞に移行するわけでもないから、名詞と動詞とのくみあわせと 名詞と名詞とのくみあわせには、完全な並行性は考えられないが、「東京までの たび」「東京まで たびする」のような並行性がある以上、単語のくみあわせの 文法的な形式と意味とに 単語つくりが関係していることを みとめないわけにいかない。しばしば、単語つくりをとおして 意味的に統一している いくつかの単語は、おなじような <むすびつく能力> [原文 下点]を もっているのである。
 より一般的にいえば、単語はすべて、語彙論的な意味に規定されながら、ほかの単語とむすびつくのである。いいかえれば、ある種のむすびつきを表現する単語のくみあわせに はいることのできる単語は、語彙論的な意味から、きびしく限定されているのである。たとえば、「を」の格をとる名詞と 自動詞とが くみあわさって、空間的なくみあわせが できるが、しかし このばあい、自動詞は移動性のものに かぎられているし、名詞は空間的な意味をもつものに かぎられている。(もし そうでないなら、空間化の手つづきが必要である)。
 単語がもっている <むすびつく能力> は、語彙論的な意味の一般化としてみれば、語彙論的なカテゴリーであるが、それは 文章論的なむすびつきと からみあっているから、語彙・文法的なカテゴリーである。こうして、単語のくみあわせの構造は、むすびつく能力という語彙・文法的なカテゴリーと からみあって、形式的にも、意味的にも、はるかに複雑なものになってくる。「を」の格をとる名詞と動詞とのくみあわせが、いくつかの むすびつきを表現しうるのは、それ自身 複雑な形式的な構造をなしているからである。

(1958 研究会報告)【要旨『言語学研究会ニュース 9』】

★校訂記号:[ ]は 脱字の おぎない、[< ]は 誤字の 訂正。よみにくいと おもわれる 部分には 部分的に わかちがきを した。


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