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品詞論の はなし

序論:ことばから 言語へ ―― 語 と 文 ――

第1章:文の はたらきと くみたて   第2章:語の 語彙性と 文法性   第3章:文の 階層性と 対立性

本論:品詞論の 概観 ―― 自立的な 品詞と 補助的な 品詞 ――

第4章:名詞の 関係構造の 変化   第5章:動詞述語の パラダイム

第6章:形容詞 ただしくは 状詞(相言)   第7章:描写詞 ―― ゆとりとしての 品詞

第8章:制限詞の 二段システム   第9章:補助詞の 普遍性と 個別性


はじめに

 としの せいか、気ままに 日本語文法が 簡潔に かきたく なった。文法序論と 品詞論とを 中心に、あまり きちんとした 計画も なく、気楽に かいてみたい。文法入門期は おえた 専攻探索期の 学生を 読者に 想定して かいてみる。かえりみて、いちばん 勉強していた 時期だった ような 気がする。すくなくとも 興味や 議論が 純粋だった ように おもう。ウェブの あちこちに かきちらしていた ことを コンパクトに まとめておきたい。ことばの 基本的な みかたとして E. サピアと 奥田靖雄とだけを 基底に おいて 議論を すすめていく つもりなので、安全な 教科書的な 叙述には とても ならないだろうが、おもいがけず 課題開拓的な 議論として うけとってもらえれば とても うれしい。議論の すすめかたが いきつ もどりつ みえながら のぼっていく ばあいも あるだろう。思考の スイッチバック(登山鉄道)/つづらおり(登山道) というのも、急勾配では 必要だ。上空から みおろして ばかり いないで、いっしょに のぼってみてほしい。なお わかちがきの やりかたも、補助語の きりかたなどで ゆれはばを ためしてみる つもりなので、ゆとりの ある 表記法として おおらかに みてほしい。

 かきあげて よみなおしてみると、わたしの 勉学開始期における 三上章の 問題意識や 課題群が 意外に ふかく わたしに 刻印されている ことに あらためて おどろいた。わたしの した ことなどは、三上の アンチ(論難 抵抗)体質の ものを、日本文法論の あるべき 組織に 位置づけなおした だけなのかもしれない。いうまでもなく 山田孝雄も 三上章も、画期の 研究段階である。(この 最終段落、ほぼ 1年後の 2016/11/18 補)

【「品詞論の はなし」の 基礎は、「日本語文法の かなめ」と いい、2015年の 10月〜12月に かかれた。】


序論:ことばから 言語へ ―― 語 と 文 ――

1) 人間は、ひとびとと ものごととの 関係を つくりながら、ことばを つかって 通じあっている。むつかしく いえば、「社会的な 対象的な 活動」の なかで ことばの コミュニケーション(communication 言語交流 通じあい)を おこなっている。その 通じあいの 行為を くみたてる 基本的な 単位は 《文 sentence》と よぶ。ふつうは 辞書や 記憶という、いわば 倉庫に たくわえられている ちいさな《語 word》を くみあわせて その《文》を つくるのだが、その 文を さらに くみあわせて、《段落》とか 《文章》といった よりおおきな 構成体も つくる。
 そのさい、文より ちいさな 語を くみたてる 「言語 language」には 構造の 法則性が はたらくのだが、文より おおきな 文章を つくりだす 「ことば speech」においては 構成の 創造性も はたらく。言語には 社会制約的な 規則の 面を みるのだが、ことばには 社会に しばられながらも、あたらしい 面も つくりだす ような 創造的な 面も みられる。言語の 構造を 任意的に くみたてて つくる という 使用法(これも ことば面)にも 創造性は はたらくが、さらに 文章(ことば)の 構成には、必須 必然性より 任意 偶然性のほうが つよく はたらいて、人間の 創意的な 制作 art を うながすので、あたらしい ものを あみだし つくりだす 文化の ちからも ことばには そなわってくる のである。
 文より おおきな ことばの 創造面についての 全面的な 解明は、将来の 心理学や 人工知能学などに 期待するしか ないが、いわゆる「言語学」は、文より ちいさな 構造の 法則面と その 使用面の 研究に 限定される けれども、それだけでも 未開拓の 部分は まだ おおく のこされている。ちっぽけな 領域に かぎられるが、構造面も 固定している わけではなく、文法の システムも 古代から 近代に かけて 社会の 変化に 応じて 展開する 歴史的な ものである。人間の 社会的な システムに 変化しない ものなど ない。言語学でも よく つかう "system" という 用語も、「体系」と 漢語で 訳すと 固定=「共時」性を もちやすく、「システム」という 外来語を 採用しなければならなかった。

 システムと いうと、要素(成分)と その 選択と 構造 という 構成関係も 連想しやすく、「要素なき 構造主義」つまり 要素捨象の 全体関連優先も ふせぎやすい かもしれない。「社会システム」にしても、「ステレオ・システム」「システム・キッチン」にしても、要素の 構成が 当然 問題に なるし、歴史的な 変化も つきものである。ことばの 音声の 物質面が 形式化・数学化しやすい ために、一時 言語学が これで できると 勘ちがいした。しかし、ことばの 内容面=「意味」に関しては、形式化できる 抽象的な 意味論では、ことばの エネルゲイア(活動的総合形式)の 面が とらえられなかった のである。人類言語の 形式(form)は、ただの 成形の 鋳型(mold)ではなく、ことば=思想を 文のなかに かたちづくる(form)、総合(構成)的な 創造性を ひそめている のである。「所与の 文型」の 慣用面だけではない。E. Sapir(1921)Language の 4・5章「言語への(in) かたちづけ(form)」を みていただきたい。コンセプト(意味の 代用語)も "form" の 一面なのである。なお、マルティネの「二重分節」は、人類言語の 特性としては「表意単位」において 貧弱すぎる のではないか。サピアが 物質文化の 差にかかわらず 人類言語に そなわる という、100種程度の「基礎的形式(fundamental forms)」(p.22, p.124)については、内容類型学的に 検討できれば いいのだが。(この 段落、2017.09.16. 加筆)

2)「これ、ぞうさん。」「それ、キリンさん。」と 絵本を みながら 名詞を ならべる だけの こどもの 文。しかし、立派に 文法的な 構造が できている。《文》においては、語の ならべ(並置)と イントネーションとで まとまり(構文性)が もっとも 始原的に つくられるし、《語》においては、音声パタンと アクセントとで まとまり(分節性)が つくられる のである。もちろん いわゆる 助詞や 助動詞といった 文法的な 手段によって より 精密で 細密な 構造が つくられてもいくが、そうだとしても 分節(要素)と 結合(構造)との 土台には 《配置と リズム》とが 底流に ながれている のである。純朴な 言語の 形式を わすれない ように した ほうがいい。すくなくとも、アクセントや イントネーションや 強調音(はねる音 つまる音 ながい音)などの ことを 文法分析に わすれない ほうがいい。文字言語にのみ 視界が せばめられない ように 努力する 必要がある。たとえば、資料の 問題は ある にしても、「う しも」という 2語=句としての 用法か、「どうしても」という 1語としての 用法か、といった 記述の 可能性を 念頭に おかなければならない。「あかい はね」が 2語の 服飾の はなしか、1語の 募金活動の はなしか、ポーズ(きれめ)の ちがいで わからないのでは、はなしに ならない。「やまの きのこ(茸)」と「にわの きの こ(木に乗った子)」とを 場面的に 区別するのが さきだ。

 ちいさな ことから いきなり 反対の おおきな ことに とぶが、表現を 効果的に する ためには、つかいふるされた 語の ありふれた「感情調」(feeling-tones)に たよる のではなく、「内的な形式」(フンボルト−サピア)の 可能力を くみたてて、自分の「文体」を くふうすべきである。《配置と リズム》を 重視する とともに、「内的な(構成)形式」たとえば、いきた 比喩表現や めずらしい 連語構成を くふうして、既製品の 陳腐な 虚飾は すてた ほうがいい。学者の 世界にも、みたくもない 美文調の 愚作も あれば、どっちでもいい 紋切り型の 定番も あるし、ひとを うならせる 達意の 力作も ある。達意の 文に であえるか どうかも、それまでの 読書の 質と 量に かかわる のだろう。


第1章:文の はたらきと くみたて

1) ひとびとが いろいろな ことを 通じあう なかで 文を つかうのだが、まず 知識や 行動の やりとりを する 目的に よって、叙述文と 疑問文と 意欲(はたらきかけ)文との 基本的な 3つが 「通じあいの(communicative) タイプ」として わけられるのが ふつうの ようである。

叙述文:あめが ぽつぽつ ふってきた。/ふってきました。
疑問文:あめが そろそろ ふってきた?/ふってきましたか。
意欲文:(いいつけ) かさを もっていけよ。/もっていきなさいね。
    (た の み) おおきい かさを かして(くれ)よ。/かして(ください)ね。
    (さ そ い) 自分の かさを もっていきましょう。/もっていこう。
 この 分類については、コミュニケーションの 普遍面に したがう 部分が おおく、とくに 説明する ことも ないのだが、「意欲文」においては、いいつけ(しろ)・たのみ(してくれ)・さそい(しよう) といった 形態や 意味機能が 言語(日本語)によって 独自性が あって、分類の しかたに 考慮しなければならない。とくに、
      〜してくれよ。   〜して。   〜してちょうだい。   〜してくださいね。
という ふうに もちいられる「たのみ」の 形は、出身の 形式としては「〜してくれる」という クレル派生態の 命令形だが、現在の 日常用法としては 「〜する」という 中立基本動詞の《したしい たのみ〜ねがい》として 機能している。叙法詞「どうか・ぜひ/きっと・ぜったい」などとの 呼応用法や 文音調(intonation)に 注意してほしい。ひとつの 活用形として たててよいと おもわれる。とくに、後略の「〜して」の形が 独自の (要求)音調で もちいられる。「〜して、」という 中止形の 文中の ポーズ(休止音調)とも ちがうし、「きのうから かぜを ひいてしまってね。」の 文末音調とも ちがっている。「形態論」しだいではあるが、文としての 音調区別も 形態区別の 条件(環境位置)と かんがえておく。
 叙述文や 疑問文は、文構造性や 叙法性(modality)によって 下位分類する ためにも、「文の くみたて」の おおよそを みておいた ほうがいい。はなしの ながれ(話線)の、《タテ:線状・結合軸 syntagma の パタン》と 《ヨコ:連想・選択軸 paradigma の タイプ》の はたらきかたを、交互に みていった ほうがいい ことが おおい。大学生用の 理論的な 文法においても、おおすじは システムの 順序に したがって すすむ としても、はなしは タテからも ヨコからも だして、複眼的に (ためつ すがめつ して) みた ほうがいい。
 なお、この 語の 縦横の 見方を 重視 峻別した 学者としては、ソシュールや イェルムスレフが 著名だが、研究観点として 二分すべきである だけではなく、研究側面(平面 plane)として 区別しつつも、両者を 関連づけて 体系づけるべき《もの(対象)》と かんがえたのは、自称「古典的精神」の サピアである。要素も なく、現実〜意味も 無視する 構造主義は、まちがいなく 軽薄志向の 近代主義に いきつく、

 もっとも 始原的で、一語文的な イントネーションの 区分によれば、つぎの 3区分が 普遍的に みとめられる のではないか。
   みず。   いく。   \ (下降音調)
   みず?   いく?   / (上昇音調)
   みず!   いく!   ― (持続音調)
この《告知−疑念−欲求》という 原型(普遍基底)の うえに、諸言語の 基本−派生用法を たてる ほうがいい かもしれない。つまり 欲求の 持続音調の 基礎に、意欲(はたらきかけ)文を たてていいか、が 問題である。有標形の 意欲文(いいつけ さそい)は 音調の 独自性を うしないがちだが、たのみの「〜して。」のような 無標的な 形は 音調の 基本を のこす と かんがえて いいか。疑問詞や 疑問助辞「か」の ありなしの 疑問文において 上昇調の 必要度が いろいろ ありうる、と かんがえればいいか。cf. 疑問詞疑問文の 音調を 日英対照。


2)
「動物言語」も 一語文に 相当する 記号は もつが、人間言語の 二語文は、動物と 決定的な ちがいを もって 文化的な 能力を 発揮する。近代西洋の 言語では 二語文とは 主語と 述語とに 分化している 文の ことを いっているが、西洋語ではなく たとえば 類型「アルタイ型」の 諸言語では、主語が 必須ではない。主語が なくても、「ジューチュ のんだ」とか「こうえん いった」とか いって、立派に 人間言語の くみあわせ(構造)能力を 発揮している のである。主−述は 構造の ひとつに すぎないと 主述神話から 自由に ならなければならない としたら、モノと コトとに、つまり 体言と 用言とに 意味的に 分析する ことが 本源的であり、機能構造的には 補語と 述語とに 分割する ことで じゅうぶんに 二語文構造=分析総合機能を 発揮しうる のである。「能格言語」では、対象語(無標の 絶対格)と 述語とで まにあうだろう。
 能格構成や 活格構成 といった 構文をも、多総合的な 言語をも、じゅうぶんに よく しっていた 人類言語学者であった E. サピアも、おしゃべり(discourse)の 話題(subject)と なっていくのが 《ひと(person)》や《もの(thing)》を 中心とした《名詞》であり、おしゃべりの はなし(predicating)と なっていくのが 《うごき(activity)》を 中心とした《動詞》である; 名詞(noun 体言 もの)と 動詞(verb 用言 こと)との 区別を しない ような 言語は 存在しない; 品詞の なかで この ふたつは、言語の「いきるの(生 セイ)」(life < live)に 不可避に もとめられる、と いっている。Language p.119 第5章「言語への かたちづけ(Form in Language):文法の なかみ(con-cepts < con-ceive)」の 終結部に。
 言語の起源の 過渡期を 想像すれば、ある 形式が 文か 名詞か 動詞か、未分化な 状態に あった という ことも あっただろうが、人類言語が いきて はたらいている ばあいは、音声・語彙・文法の 3点セットが みんな そろっている と いう(p.22)。体言 用言の 最低 二種の (自立語)語群が なければ、語を くみあわせる 文法規則も うまれない ではないか。一品詞では、一語文 連呼か、二語文 構造か、どう 区別できるのか。


 わが 日本では、江戸期の 国学者 冨士谷成章は 『あゆひ抄』(1778)の 「おほむね」(総説)の 冒頭において、つぎの ように いう。
名をもて ものを ことわり、よそひをもて ことを さだめ、
かざし あゆひをもて ことばを たすく。
有名な ことばだが、引用できる いい 解説は ない。それは ともかくと して、「名」とは 体言 名詞、「よそひ(装)」とは 用言 動詞の ことであり、その ふたつで 基本的には 「ことば(自用語)」を つくるのだが、「かざし」とは 副用語(上部の 文補助)で、「あゆひ」とは 助詞(下部の 文法補助)であって、ことば ―― 語としては 自用語であり、文としては 基本構造(核文)である ―― を 補助する、というのである。そのさい 「ものを ことわり」 つまり《ものを こと(=ことがら)から わって とりだし》、「こと(=文)を さだめ」る(=述定する)と いうのである。未分析の 対象「こと(がら)」から、生産物としての「もの」が とりだされ、「こと」も 文が さだめられる とともに、「こと(動詞)」や「さま(形容詞)」も とりだされる、というのである。従来の 学者が いうように 4品詞分類の 最初であるから というよりも、文構造の 基本的な つくりと その 4要素を みさだめた ことのほうが 重要なのである。語要素と 文構造との 基本的相関 = 分析総合の 機能が みぬけた ことは ずばぬけて すぐれた 考察であったが、成章の 早世(42歳)の ゆえも あってか、残念ながら 継承発展は されなかった。


3) 現代日本語の 文の部分(成分)と 構造の システムは、結論を さきどりすれば、つぎのように 3行3列に 図式化できる と おもう。
   [モノ]       [サマ]       [コト]

   独立語       評釈語       挿入語   :付加 遊離(ふちかざり)
    :         :         :
     ……………………………………………………
    :         :         :
   題目語       状況語       陳述語   :拡大 設定(さしだし)
    :         :         :
    ┌───────────────────┐
    |                   ↓
   補 語 ←――(連体) 修飾語 (連用)――→ 述 語   :基本 骨格(ほねぐみ)
    ↑                  (連 体)
    └───────────────────┘

             文 法
              
             意 味

    ┌───────────────────┐
    |                   ↓
   モ ノ  ←――  サ マ  ――→  コ ト   :土台 反映(ことがら)
    ↑                   |
    └───────────────────┘
 現実反映の 意味的な 土台としては、モノと コトとが 両極的に 対立し、その あいだに サマが 位置して、モノと コトへの かざりとして はたらく。それに 構文機能を つけくわえた「もの(補語) ← さま(修飾語) → こと(述語)」の 回帰的な 限定関係を もつ 骨格構造が 文の 基本に あり、その うえに 表現設定の 拡大構造として、補語を 話題設定化して「題目語」(-は -も etc.)に し、修飾語を 場面設定化して「状況語」(いま ここで etc.)に して、述語を 叙述設定化(先行放出)して「陳述語」(たぶん じつは etc.)に する、と 必要に 応じて 表現される。その そとには 「独立語 ― 評釈語 ― 挿入語」といった 遊離的な ものが 付加されるが、文法法則性は よわく、文体創造性は たかい とだけ いっておく。
 以上は、三上章の 主語否定論や、河野六郎の アルタイ型類型論に まなびながら、自分なりに 理解できた ところを 図表化した ものである。たとえば 「題目語」の あつかいなどは、三上の 主語否定論の 形態優先(ガ=格/ハ=題)と、奥田の 主語(特立)論の 機能優先(主語=主格+とりたて)との あいだを、折衷〜調停して 解決した つもりなのだが。さて、ふたりの 研究の 長所を ぜんぶ 吸収、解決できるか どうか。

 例文を しめして、具体的に みていこう。
おいしい ごはんが たけた。     連体修飾語 ― 主格補語 ― 述語
ごはんが おいしく たけなかった。  主格補語 ― 連用修飾語 ― 述語
きれいな はなを かびんに いけた。  連体修飾語 ― 対格補語 ― 位格補語 ― 述語
はなを かだんに きれいに うえた。  対格補語 ― 位格補語 ― 連用修飾語 ― 述語
会場では けさ はなも いけかえた。  状況語 ― 状況語 ― 題目語(対格補語) ― 述語
じつは きょう わたしは でかけます。 陳述語 ― 状況語 ― 題目語(主格補語) ― 述語
文の部分(成分)の 名称つきの 例文によって イラストレート(例解化)すれば、とくに 説明する ほどの ことも ないと おもう。用語の 定義や 解説が 必要になる ばあいは、鈴木重幸『日本語文法・形態論』が 解説書として つかえると おもう。とくに 議論しない ところは、奥田靖雄−鈴木重幸の 文法システムに 基本的に したがう。この 品詞論の はなしは、その 部分修正的な (ただ 肝要な) ものと かんがえてほしい。
 拡大の 表現設定の 陳述語 状況語あたりの 表現については、真に「副詞」的な 表現の 出発は 中世に ある という 言が 浜田敦に あって、興味ぶかい。近代語への 展開も 注意すべき ものだろう。題目語の 歴史に 関連しては、あとで 名詞の ところ(第4章)で みる 予定である。
うえに「補語」と よんだ ものは、出発としては「対象語」であろう。というより、意味的には「対象語 object」でもあり、機能的には「補語 complement」でもあって、両者を 二者択一的に とらえる べきではない。なまえは どちらに しても、他の「題目語・状況語」などとの 関係においても、意味モノ性と 機能オギナイ性との 両性格を もつ ものとして 規定すべき ものであろう。

(以上の 1〜3節は、文中加筆。2017.09.17-8.)


4) 近代西洋においては、二語文の モノ=名詞=主語の 部分を 拡大する ものとしては <形容詞> が うまれるし、二語文の コト=動詞=述語の 部分を 拡大する ものとしては <副詞> が うまれる という ように、二語文を 拡大して「主要4品詞」の システムが うまれてくる。
名詞=主語 ――― 形容詞(連体修飾語):照応(concord) あり (性 数 格 による)
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動詞=述語 ――― 副 詞(連用修飾語):照応(concord) なし (中性語尾化 派生接辞化)
と、照応(concord)の 有無も くわわり、西洋語は 4項並立=二重二項対立の 均整の とれた 4品詞の みかたが 定説化する。

 しかし そもそも 名詞と 形容詞との「照応 concord」を もたない 日本語を 研究対象と する 奥田靖雄が、なぜ この 主要4品詞の みかたを えらんだのか。日本語には、上記の「もの(補語) ― さま(修飾語) ― こと(述語)」に 対応する 《3主要品詞 = 名詞−形容詞−動詞》、ひろく 東洋思想的には《体−相−用》の 鼎立(▽形)の みかたが あったのに、なぜ えらばなかったのか。「形容詞」は、連体形(おいしい)と 連用形(おいしく)との 形態(語幹部分)を 共通させて <活用> すると みるのが、江戸期 国学以来の 常識であり、明治の 大槻文彦以降の 近代的な 組織化であった にもかかわらず、奥田は、形容詞「おいしい」と 副詞「おいしく」との あいだを 品詞の <転成> と みなす、つまり 活用(語尾)ではなく 派生(接辞)の 差だと みなす のであるが、それは 構文的な 機能変化が おおきい ために 同一品詞の 活用形と 統一できないから なのだろうか。日本語の 実態を 検討した うえでの かんがえ というよりも、ラテン文典が 「論理的 普遍文法」とも いわれた ように、人類普遍性を なのりながら じつは 西洋中心主義に すぎなかった、ひとつの 理念(理想)分類に とらわれていたから ではないか。

 20世紀の 末期にも なって、新川忠(+奥田靖雄)の 副詞擁護論(『ことばの科学 7』1996)が 必要に なった こと自体に おどろくのだが、この 論文が 文機能の ちいさな 用法差を いまさらのように 指摘してみせても、活用組織は まったく 否定できない。活用形の あいだに 用法の 小差が ある ことは、そもそも 複数の ちがった 活用形を まとめようとする 活用システム論の 前提条件〜論理要件 なのだから。
 おなじことを べつの 例で かんがえて、類比してみよう。奥田自身、動詞の 活用については「連用・終止・連体 …」の 用法の ちがいを 指摘しているし、たとえば 中止形の 用法(そらを とんで/とんでいて)と それの 副詞への 転成(とんで かえる)とを ちゃんと 区別して 論じている。格支配性 時間性など 動詞性の 喪失も、ちゃんと 指摘している。名詞の 活用ならぬ「曲用」の、たとえば「で格」の 用法は、手段(補語)用法と 場所・原因(状況語)用法と 様子(修飾語)用法とを 連語論に もとづいて 詳細に 区別していた ではないか。新川の 論理を 機械的に 適用すれば、「で格」という 名詞の 格は なく、手段格と 場所格・原因格と 様子(擬似)格=副詞形とが あるだけだ という ことに ならないか。「かれの おおごえで」(で格)と 「夢中で」(形容詞連用形〜副詞)とを 区別するのに 連体を うけるか どうか という 名詞性の 有無を 問題にしないのは 検証の 不足だ。連体「かれの」の 有無によって 「おおごえで」の 意味機能が 手段(名詞)性と 様子(副詞)性との あいだで ゆれる ことも みのがせない。新川論文は 「カテゴリカルな意味」の 見込み調査に はしり、形式的な うらづけが 欠落している。
 みかたを かえて、意味より 形式に 注目してみよう。西洋語の 副詞においては、フランス語の "-ment" も 英語の "-ly"(<like)も、歴史的に 派生接辞である ことが 明白であり、日本語の「-く・き」は 母音交替であって、活用(屈折)語尾に みられやすい ものである。ただし 連用「-く」は、ク語法 つまり 情態言(名詞〜副詞)出身で、名詞転成の 副詞とも かんがえられる(cf.「ながい-こと・はやい-とこ」といった 副詞句)。連体「-き」のほうが 問題であって、独立化辞 "i" が 関与するらしい ものを 連体に むすびつける とすれば、名詞前置の 独立形の 機能、つまり 副詞+i=名詞 → 同格並置と みるべきだろうか。ただ いづれにしても 「-く・き」の 関係は、派生の 意味関係、品詞の 差とは みられず、連体か、独立か、前置か など、きれつづきの 機能、つまり 活用形の 差と みられる のである。形容詞活用の 成立で いえば、連用の 副詞機能形が さきで、連体の 形容詞機能形のほうが あとなのである。形容詞−名詞の 名詞句同格照応を 重視する 西洋語と、(補語→)副詞→動詞の 修飾(動詞句前置限定)を 重視する 日本語とでは、品詞成立の 順序も 逆なのである。新川副詞論に 「歴史(文法)」(奥田初期)の みかたが ないのは、『4の上』(1968)以来の 方法の 欠落と いうべきだ。
 ともあれ、問題は 相違(区別)が あるか どうか だけではなく、共通(統一)が あるか どうかも 論じる ことが 必要なのである。
 一般・普遍的な 特性が、言語の システムのなかの ある 特殊な レベルと 平面(plane)において、個別的な 特徴として あらわれる ことも ある。たとえば、文の「修飾」としては おなじ ものが、語の「品詞」としては ちがった ものに なる:英語では 形容詞と 副詞の 2品詞として あらわれ、日本語では 「さま」(状詞。冨士谷成章)の 1品詞の 活用形として あらわれる。言語に、一般言語学的な 普遍的な 特性も あれば、個別言語学の 対象言語も 多様に ある。なんでも いいが、たとえば 「犬」は、一般としては「意味」(辞書)として あるし、特殊的に 種々の 品種も あるし、個々の なまえを もった 対象物(referent)も いる。言語も、普遍性と 多岐性 という 一見 矛盾する 性格が、レベルと プレインとを 区別する ことによって、ふしぎもなく 共存できる のである。「ものは みかた」であり、研究は 複眼的に みるべき ものではないか。元気な ころの 奥田なら、「唯物弁証法」と いった ことだろう。(上の注 全部と この段落 一部、2017.09.17-8. 加筆)


第2章:語の 語彙性と 文法性

1) ことば行為(speech < speak)の 基本的な 単位である《文》という ものは、必須の 基本構造の 法則面ばかりでなく、必要の 拡大構成や 任意の 付加構成の 創造面も あわせもつ。中間の 拡大設定の、《有題(判断)文/無題(記述)文》の ペアや 《状況設定の 事態(できごと)/一般的な 事象(ことがら)》の 記述/判断などは、表現の「必要」に 応じて 設定される ものであって、法則面も 創造面も もつであろう。ことば行為として 文を つくりだす ためには、語を くみあわせ なければならず、言語の《材料 部品》としては、語は とりだし可能な 社会慣用的な 性格も もたざるをえないが、ことば行為としての 語は、つくりだす 文の 《成分 部分》として、構造面ばかりでなく、創造的な 制作(art)としての 面を もちはじめる。文化発展の 可能性を もつのだ、このさき、人間の ことば(行為)の ふしぎな しくみ・からくりを くわしく かんがえる ためには、そのまえに 言語の 土台的な くみたてについて ひとわたり みておく 必要が ある。

 辞書的な 語の まとまりとして みた 面での「語彙的な意味」は、外界の 現実世界や 人間の 内界の 心理世界を うつしたり 言及する ことができ なければならない。文のなかに ゆたかな 情報を つたえる ためには 名詞動詞など 主要品詞の 語彙的な内容が ゆたかに ならなければならない。ここまでは、とりあえず いうまでもない ことだろう。だが 文法の 歴史において、より複雑な 思考を 表現できる ように 文構造を 発展させる ためには、名詞動詞など 主要品詞ではなく、文法的な 《補助品詞》を つくりだす 必要があった のである。日本語では つぎの 3種が 代表的であり、構文機能の あらわれ自体は かなり 普遍的に おおくの 言語にも みられるが、語形式(表現手段)の あらわれかたは 多種多様である。

・「後置詞」(あとおき)の「〜について・〜において・〜をめぐって」などは いわば 語の 格の 補助であり、
・従属節の おわりに ついて、「つなぎ(接続詞)」として 複文関係的に はたらく「スル/シタ ところ・ものの・さかいに・ほどに」「スル/シタ(ダロウ) し・から・ので・ために」などは、節(clause)の 接続 つまり「句格」の 補助として はたらく。
・主文の おわりの 述語部分に もちいられる「むすび」(繋辞・助動詞)は、現実界との「陳述的」な 関係の 補助として、叙法性「ようだ・そうだ/かもしれない・にちがいない」や 時間(局在)性「シタ ばかりだ・シテイル/スル ところだ」などの 詳細化に はたらく。
こうした ものは、形式的には 独立しながら、機能的には 補助する ものとして、文法専用的な 語(機能語とも)として 発展してきた のである。国語学者の「助詞・助動詞」は べつであって、リズム単位の 語に ならず、助辞(は・も/が・の)や 接辞(す・る/つ・ぬ)と みるべき ものである。

 そのほか、いわゆる「接続詞」と よばれる もの(ex. しかし だから etc.)は、文のなかで 文法関係として 義務的に つかう ものではなく、意味関係として 任意的に つかう もので、「承前詞」とでも よぶべき ものである(三上章『現代語法序説』p.318)。山田・松下文法では、「副詞」であって、おおきくは くるわない。この 承前詞も ふくめ、いわゆる 陳述副詞(ex. たぶん けっして etc.)や 間投詞(ex. ああ あのう etc.)や 応答詞(ex. はい いいえ etc.)といった 語も、後置詞などの 文法的な「補助品詞」とは ちがうが、語彙的な意味とか なづけ的(referencial)な意味とかを もっている 主要品詞 ではなく、文法的な意味、つまり 陳述的な意味や (連文)関係的な意味を あらわし、文を 全体的に 補助する、補助(的)品詞の 別種(小詞 particle)と みておく。

2) 補語 述語 修飾語 … など 文の部分は、基本的には 語において はたらく (機能する) ものである。日本語の「品詞」という ことばは、英語の "parts of speech" の 訳に 由来する ように、語 = 品詞 = 文の部分(話部) との あいだには 基本的な 照応が あったのである。ところが、補助品詞が 言語の 歴史のなかで うまれてくると、語と 文の部分との あいだには 形式的には 1:1の 対応を しない ように なってくる。つまり 形式的には 2語によって 内容的には 1成分を あらわす 特殊成分(橋本文法の 補助文節)に なってくる。
 「陳述副詞」などでは 2語が 呼応して 1成分に なり、連接的な (ふつうの) くみあわせ に対する 「非連続的な 形式の くみあわせ」という みかたも いちおう なりたちうるし、「ことばに さきだつ てにをは」(鈴木朖)や、「一つの辞(の分裂した表現)」(時枝誠記)など、じじつ ある みかたであるが、陳述副詞の 先行補助成分の 独立機能(ex. 誘導〜予告)が 半分 その じゃまを する。なお、亀井・河野が 係結び・呼応は 構文的には 支配の 一種だと いっている ようである(術語編)が、係り「徒・ぞ・こそ」と 結び「り・る・れ」と どっちが どっちを 支配するのか。「けっして」と 「ない」と どっちが どっちを 支配するのか。呼応は いわば、半分づつ 支配しあって 見合う 相性、つまり「うちあひ」なのではないか。呼応と 支配とは 別の はたらきを もっていて、従 → 主の アルタイ型の 基本語順の 機能の 弱点を 補助するのが 呼応ではないか。西洋語の 支配と 同平面で 比較するのが そも まちがいではないか。西洋語の 相関語句は 日本語の 呼応と 機能が おなじだろうか。

 文法的な 補助品詞だけでなく、「おおきな こえで しゃべる」「ながい かみの 少女」「むねを はって あるく」といった 連語表現も、2語で 1成分と みなくてはならない。「こえで しゃべる」「かみの 少女」「はって あるく」などと いえないから、下線部の 2語の ひとまとまりが 文のなかで 機能するのである。補助品詞のほうは 品詞論のなかに 位置を ちゃんと 用意して 記述できるが、ここの 例のほうは、語彙的な 連語結合(word group)の 問題なので、品詞論の 特定項目ではなく、品詞序論の 「文と 語」の 1項目で、語彙的な 連語結合の パタンの 代表タイプとして あつかえばいい。
 シンタクスの 世界で、三上章が さかんに あつかっていた「ぞうは はなが ながい」や「ぞうは ながい はなだ」といった 構文は、意味的な だけではなく、文法的な 構文として 考慮しなければならない。やはり、「ぞうは ながい」とか「ぞうは はなだ」とか いえないのだから、意味分割と 機能分割とが 一致しない、独特な 文型として 考察しなければならない。かりに、いわゆる「総主構文」を

「主語 + 述語節」の 複文文型   ただし 主語=「総主」(ぞうは)
と みると すれば、その 下位種として
述語節=主語+述語   「はなが ながい」
述語節=連体+体言述語 「ながい はなだ
の 2種も たてられ、関連づける ことも できるだろう。「はなが ながい」の 系列には、「はらが たつ」「気が ある」〜「関係が ある」「必要が ある」「興味が ある」などに 関係が ふくらんでいき、「ながい はなだ」の 系列には、「おおごえを あげる ありさまだ」「あしたに こまる ていたらくだ」〜「あした いく 予定/つもり/はず だ」へと つらなっていく。「が・は」の 簡潔な 解決を 啓蒙する ために、「一本調子」(奥田書評)に なりがちだった 三上の 課題にも ふくらみが でてくる。

ぞうは からだが おおきく、あしが ふとい。
ぞうは おおきい からだで、ふとい あしだ。
という、ハガ構文(二重主語文)と 題目語−体言述語構文とが いわば 「交配」し、
ぞうは からだが/の おおきい 原因/関係で、あしが/?の ふとく なった なりゆき/いきがかりだ
のような 段階を へた うえで、従=連体節から 主=補充節へ「異分析(再解釈)」して、
ぞうは からだ おおきい ので、あし ふとく なった ようだ。 cf.「かれが/の いう ような/に」
の ごとく、「ので」の《つなぎ》(接続詞)や、「ようだ」の《むすび》(補助述詞)が 発展してくる。これは、品詞としては (形式)名詞から 補助品詞への 機能変化であり、文論としては、並列の 重文から 因果関係 推定の 複文へ という 構文パタンの 増強であって、ことば=文が 発展する、ひとつの おおきな みちすじなのである。この みちすじの 発見には、松下大三郎の 形式名詞、佐久間鼎の 吸着語、三上章の 準詞などの 研究の つみかさねが あった。「ガノ可変」(三上『序説』索引)も、この 構文発展の 記述のなかで、じつは きたえられた と いっていい。

(この章、全般に よみやすく 例も 説明も 加筆して、むだぐちは 削除した。2017.09.19-20.)



第3章:文の 階層性と 対立性

1) 説明の ために つくった、典型としての 作例であるが、

  ねえ、多分 太郎は きのう 特に 花子にはね 全然 写真を 見せなかった のだろうね。
といった 日本語の 文において、「ねえ … ね … ね」「多分 … だろう」「(太郎)は … のだ」「きのう … した」「特に … (花子に)は」「全然 … (見せ)ない」といった、前後の ことばとの あいだに 呼応(うちあい)を する 現象が ある。「太郎は 花子に 写真を みせなかった」といった 「文の部分」どうしの 構造とは ちがう。ならべ的な 同位の 結合関係ではなく、呼応しあった 構造は、別の 呼応構造とは たがいに 重層的な 「入れ子」的な 関係を みせる。「多分 きのう 全然 …… なかっただろう」という 典型的な 語順と 助辞順序の 文において、もっとも そとの 推量「たぶん … だろう」が、その うちの テンス「きのう … た」を つつみ、テンスが その うちがわの 否定「全然 … ない」を つつむ、と 解釈する。つまり、カッコくくりで 表記すれば、[多分 {きのう (全然 … ない)た}だろう]に なる。この 関係を 「階層 hierarchy」と 同義と かんがえて いいか 問題だが、多数派の 理解に 付和雷同する。cf.「格の ハイアラーキー」= 序列性。 ex. が > を > に > と etc.

 a) 以前、南不二男の 文段階論の B段階を 2種に 下位分類して、いくつかの 小修正も つけくわえて、つぎのような 立体的な 図表化を こころみてみた ことが ある(日本語学会 2005年度 春季大会 シンポ報告)。
        太郎        花子      写真  見           (素材)
                   に       を  せ(る)         A
         (が)            全然      な(く)        B1
           きのう 特に    は          (あっ)た       B2
     多分   は                         のだろう  C
  ねえ                  ね                 ね D
 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
  ねえ、多分 太郎は きのう 特に 花子にはね 全然 写真を 見せなかった のだろうね
 おおきな 修正ポイントは、南の B段階を B1段階と B2段階とに わける ことである。テンスの 対立を もつか どうかが その 判定基準である。テンス対立を もつ B2段階の 成立は、「さかい・ほど・ところ/が・し・から …」といった 「つなぎ(接続詞)」の 成立でもある。複合事態の 条件関係と 複合事態の 時間関係との 分析・総合を くりかえして 発生してくる、無テンスの 条件と、有テンスの 接続との 表現分化である。近代語の「分析表現化」の なかで うまれてきた ものである。表現形式量が 単に 量的に ふえた だけではなく、質的な システムが 二重組織に かわった のである。歴史的な 転換期とは、まさに これである。エンゲルスは 「量から 質への 転化」と 一般化して いっていた。
 古代語の 時間表現は「つ・ぬ・り・たり/き・けり」の 6つ あったものが、現代語では「た」1つしか ない、という 自虐的な 俗説に ひとこと。―― 必要に 応じて つかう 膠着助辞は、慣用化した 複合表現を ふくめても たいした 数の 表現を あらわしわけない。しかし 現代語では、義務的な 対立の テンス「する−した」、アスペクト「する−している」を くみあわせると 4つ、それに 対立ではないが 表現選択にかかわる、しごと完遂(つ)〜できごと発生(ぬ)性「してしまう」と、伝聞(けり)性「するそうだ」の 派生態の 意味の 有無(ex. 伝聞/体験)が あり、ほかに 準備性の「しておく−してある」や 変化方向性の「していく−してくる」の 注意面の 付加も ある。数量化は しにくいが、
  4×2×2+2+2=20
 対立 選択  付加
には なる。
 「赤・黄・青」の 交通信号は そのまま 3つの 意味しか つたえられないが、「赤・白 2種の 旗信号」は、両手の 位置と 動静とを くみあわせて、たくさんの 意味が つたえられる という ことは、こどもにも わかる リクツだろう。コンピュータは、電気信号の オン/オフの 2つだけを くみあわせて、チェスや 将棋では プロを まかせる 状況判定能力を もつ ようになる ことは、こどもにでも 推量だけは できるだろう。「二進法」を ならった ときの、はじめの 困惑と 用途が わかった ときの 感動の 落差ったら。いまなら 「PS細胞」の 画期的な 意味、その もとに ある 細胞分裂じたいの 意味を かんがえてみると いいだろう。じつは 人間言語の 秘密の しくみ というか からくりも、この 《分析=分節化》と 《総合=構造化》とに あるのだが、その 構造化にも、文の形式:線状性に 対応する 並置 結合構造だけではなく、文の内容:階層性に 対応する 堆積 重層構造も かんがえられる かもしれない のである。要素軽視の 構造主義は、分節 単位に かたより、構造化 総合には むかわない。

 古代語が 「未然形/已然形 + 条件」という ふうに、時間表現と 条件(前件)表現とを 融合〜複合的に あらわしていたのを すこし こまかく みておこう。「未然形+ば」は 非テンスで 未然=未定だけを あらわす 仮定条件であり、動作様態は あって、「てば・なば」が それであろう。「已然形+ば」は、已然 つまり もう すんだ ことで、継起する 事態の 前件(きっかけ) と きまっていた から、時間・論理的にも 既定/確定(=過去+現在)に 制限されていた。「条件」表現自体は、「ば」の 順接と、「とも/ども」の 逆接の 2種だけであり、条件2種、順逆2種、あわせて 4種が 基本である。なお、古代末期(院政期)の 物語文学の 時代から 「が・を・に/ものの …」など「(準体法+) 格助辞」の 接続的な 用法(接続詞の 先駆用法)が あらわれたが、既定の 事態と 癒着した 状態であり、過去から 現在も 未来も 分離する ことも まだ できない。既定の 事態を ものがたりながら こまかな 接続表現を くふうしたが、時間表現は いまだしい 状態で、過渡期の、つまり 中世的な 現象と みるべきだろう。
たとえば「よのなかに たえて さくらの なかりせば」の「せ」を 過去「き」の 未然形だ という 山田以来の 通説は、その 形式的根拠も 不確実で 信用できず、形式用言(サ変)「す」の 未然形だと かんがえた ほうがいいと おもう。意味も 過去(回想)性の ない 例ばかりで、「(〜と) すれば」という「す」の 設定性が 利用された 表現であると おもう。「〜たなら/たら」と 現代語訳できるので 勘ちがいしやすいが、これは、それこそ「た(り)」の 過去ではなく、完了(実現 存続)の 用法である。古代語から ある 反実仮想の「さくらが なかったなら/たら」と、近代語特有の 過去疑惑仮定の「ほんとに きのう 準備した(の)なら/*たら」とは、反実仮想の 下位種として、条件形の 用法分布が ことなる、別の 表現である。古代語のほうは、事態を 否定するにしても、時点の 過去事態を 反事実的に 設定-判断する「した-のなら」のではなく、存続している 現在の 状態を 否定 想定する「ないと したら)」のではないか。

 b) 節(clause)と 句(phrase)とを 区別する 尺度として 「主語」が つかえる 西洋の ことばと ちがって、主語が いつも 表現される わけでもなく 文法的な 判定基準に ならない 日本語においては、主語の かわりに 「述語」の テンスや ムード、さらには アスペクト ヴォイス といった 文法カテゴリー(範疇)が つかえる。主文述語の 陳述形や 従属節述語の 陳述形は、どうやら 並置的ではなく、重層的な 構造を なしている らしいのだ。というのは、日本語では、語形態が「膠着的」タイプだと いわれ、語の 分離性・順列性が みやすいし、述語部分と 文中部分との 意味機能的な 呼応が「入れ子」的で 重層的な 関係を もっている と 推定されるのだ。個々の くわしい 吟味は はぶかして、つぎの 代表的な 図式分類で すましてもらう。南不二男1974『現代日本語の構造』(第4章 文の構造)は 必読(批判)文献と する。なお、三上章1953『現代語法序説』第4章「単式と複式」の《単式・軟式・硬式・遊式・ト式(引用)》の 着想は、先駆的な 構文層別分析である。重要参考文献。
    段 階:代   表   語   形  代表 機能  代表 文法カテゴリー  「主語」

    A段階:して/しながら/しつつ    修飾 補充  格支配 ヴォイス    対象格性 #
    B1段階:すれば/したら/すると    条件 中止  肯否 アスペクト    主格補語
    B2段階:ので−のに/ために−くせに  原因 目的  テンス 述語様相 ##   とりたて
    C段階:から/け(れ)ど(も)/が/し  理由 前置  叙述法(推量・説明)   題目提示
    D段階:と/なんて (との・という)   引用 話法  命令法 勧誘法     (よびかけ)

 # 対象格性:ex.「かきは えだも たわわに みのる。」「選手は あしおとも たかく 行進した。」
「○○台風は、勢力が おとろえながら (cf. 勢力を おとろえさせながら)、早朝 東方海上に さった。」

 ## 述語様相:ex.「ようだ らしい そうだ はずだ / かもしれない にちがいない」
       (後述 第5章の パラダイム 参照)


【階層構造 典型作例 二種】
・文頭密 (密>疎) タイプ     「[{(……A) ……B1} ……B2] ……C」……D。
 「[{(なかよく てを つないで)A ちゃんと 道路の はじを あるいていたら}B1 暴走オートバイに ひかれそうに なってしまったので]B2、道路が こわくなってしまった のでしょうけれど」C、その後 なにかと いって そとに でたがらない のですよD。

・文尾密 (疎<密) タイプ     D 「……C [……B2 {……B1 (……A)}]」D。
 みんな きいて、「みんなも ちっとは きいてるでしょうけどC、[こんど 会社を やめる ことに しましたのでB2、{家族 みんなで ちからを あわせればB1、(たすけあいながらA、おなじ 場所で はたらく) ことができるB1}ようになったB2]のですC」よD。

 この 南の 文段階論は、陳述論と 複文論とを 総合しうる モデルとして 興味ぶかい ものであるが、歴史的に 変化しない 図式では けっして ない。B2段階と C段階が 近代に 生じた 重層(段階)である ことは あきらかであろう。のこりの A B1 Dの 段階も、中古の かなものがたりの 連綿と つづく 文章を みていても、並置的 連想的な 非階層的な つながりであった ように みえる。ものがたる ことは、できごとが《前件:きっかけ〜条件 ―― 後件:なりたち〜帰結》の点で どう つながるかが いえれば 十分である。A(こと関係)は できごとの ものがたり(B1)の 内容に ふくまれ、Dは、別の 階層ではなく、たとえば「せむ」は、ものがたりの 変種の 《実現の 想定》(推量〜命令・意志)(B1)と あつかえるだろう。つまり A・Bの 2層である。三上の「コトと ムウド」など、文の 二大別観も あんがい 射程が ふかく、文法分化の 始原である のかもしれない。中世の 史書や 説法などが、中国思想の 影響下 どう 論理を かえ、近世の 多様な 文章が どう モデル化できるかは、しろうとには 見当が つかない。philologist は モデル化には 協力的ではないし …


2) 厳密な 用語や 用例の くわしい 吟味は はぶいてしまったが、代表的な 文法的なカテゴリーの ありかたについては、いくつか 問題を 検討しておきたい。同位−対立の 関係か;包摂−階層の 関係か;という 二重の ふるまいを しめす 問題を 3つ あつかう。「が―は」や 「条件-接続」や 「断定―推量」を えらぶ。それぞれ 文中助詞、文・複文の 拡大、文末叙法の 代表である。

 a) まず「が」と「は」との 関係の ありかたであるが、明治の 山田孝雄は 《格助詞と 係助詞》という 本性の ちがいが あると 強調しているし、南の 位置づけでは、「が」は B段階であり、「は」は C段階であると なる。いわば おおくの ばあいにおける「本性」の 所属の あつかいであり、大局的には まちがっても いない。しかし 山田の 用語を つかって いえば、「運用」の 条件によって ちがってきて、たとえば 名詞述語文の 使用場面においては、他の 場面や 文脈によっては 機能対立の しかたが ちがってくる のである。

わたし この 会社の 社長です。    主題  既知
わたし この 会社の 社長です。    指定  未知
                   (陳述 → 情報)
といった、名詞文における「が」と「は」との 用法の つかいわけは、日本語教育で よく あつかわれている。《格・B》と 《係・C》との ちがいだ という「本性的な」説明法では、用法の 説明にも ならない。
 山田孝雄は 無条件に「本性的な」区別が あると のべる だけなのだが、そもそも、条件ぬきに 構造記述など できるのだろうか。名詞述語文の 条件においては、題述構造(〜とりたて)としては「主題:指定(総記)」という 対立を もつし、情報構造の 面から みれば「既知(旧):未知(新)」といった 対立を しめす ことになる。おおざっぱに いえば、「主題:指定」という 陳述(のべかた)機能の 表現差が まず あって、「既知(旧):未知(新)」という 情報論的な 結果を ともなう のである。どちらか ひとつで いいと おもうのは、単純(simple)な 理論志向と かんたん(easy)な 解説志向との 混同であろう。「場面や文脈」の 条件に 関連して、もうひとつ「吾輩は猫である」から 引用しよう。
吾輩猫である。名前まだない。
   ………
そのうちに暗くなる、腹減る、寒さ寒し、雨降ってくるという始末で ………
あまりにも 有名な 冒頭の しなさだめ文(名詞文「猫である」、形容詞文「ない」)においては、「は」は 中立的な 主題 (いわゆる 判断主語性) を しめすし、文中の 場面描写においては、「は」は 対比という とりたて性(B2段階性)、「が」は 中立的な 主格補語性(B1段階性)を しめしている。さっきとは ちがって 小説の 冒頭としては、「吾輩猫である。」という 文は、「吾輩猫である。」とは 対立しないので 「中立的な 主題=主語」なのである。小説の 冒頭における 主人公の 設定としては、たとえば「吾輩(珍野)苦沙弥である。」とは 対立しうる。つまり、「猫の目」を とおして えがくか、「(珍野)苦沙弥」の たちばから えがくか という 設定の しかたは 対立しうる。その ふたつの 主題が「並列」される 文脈なら、「対比性」も でてくるだろう(cf. 昔話かたりだし)。それに対して「吾輩猫である。」という 文が ありうるとしたら、主人公「猫」が 有名に なってしまった、映画化や 脚本化の パロディや「贋作」の ばあいである。「吾輩」と 指定され、未知(新情報)として 登場させる ような 場面である。小説や シナリオを たのしんで よんでいれば、つまり しんだ「(文献)作品 Ergon」としてではなく、いきた「(ことば)活動 Energeia」として よんでいれば、まずは 「場面や文脈」を よみまちがえたりは しない ものである。(参照:W. von フンボルトの よみかた)
 文学の 愛好者だった 読者が、「場面や文脈」を ぬきに 言語の 無機的な 分割や 無条件な 分断を してしまう ことも ない わけではない。だれしも 多量の しごとを こなさなければならない ばあいには、作業が 自動化し 惰性化する おそれも ある。環境条件を ぬきには 記述も 説明も ありえない という ことは、20世紀の ゲシュタルト心理学や 場の理論の 洗礼を うけた 研究としては うたがいようも ない ことであろう。条件を 慎重に 一般化した 本性論は あるだろうが、条件づけも しない、本性論も 運用論も ない。


 b) テンス対立の ない 「ば・と・たら」の 条件形と、テンス対立や ムード対立(推量や 説明)を もつ 「から・ので・ために/し・が・けれど・のに・くせに」といった 接続詞(つなぎ)とが、用法を 分担している。条件形は テンスを もたず、アスペクトを もつ B1段階の 形式である のに対して、接続詞は テンス ムードを もつので、B2〜C段階の 形式である。中間に 「スル/シタ なら」の (判断の) 条件形が あって、「過去形」は 過去用法から (ムード的な) 反実仮想用法まで もっているのである。いわば、《条件》は 語の 動作の きっかけ・状況設定であり、《接続》は 節の 事態の 連結状況であり、その あいだを つなぐ(媒介する)のは 「うごき設定を できごと状況に かえる」(一般)名詞文叙述の 判断(のなら)条件性ではないか。「動詞準体法+なら(なれば)」が (単文の)名詞句から 動詞文従属節への 変換を 準備した のではないか。ともあれ 現在は、同位対立ではなく 階層(包摂)的な 用法分担に なっている。つながりも あり 歴史=論理的な 発展関係を かんがえてみたい。
 阪倉篤義らの 「条件表現の変遷」の 研究は 表現論的には おもしろいのだが、文法論的に ぬけている みかたは、この 文法システムが 歴史的に (質的に) 発展する という 観点である。松下文法の、「従来の九品詞では説けない」と いう、革新的な「形式名詞」をも 「肥大」と 量的にしか とらえない。せめて 佐久間鼎の「吸着語」と とらえていれば。接続機能には とどいていただろう。

 松下文法の「動詞拘束格」の 分類も、古代語の 普遍的 論理意味的な 区分体系であって、阪倉篤義らの 変遷を みる わくぐみとして 利用されている わけだが、やはり 近代語の 発展を みる 観点が なく、「あめが ふった、かさが ない。」の 接続助辞を みとめず、格助辞と 同一に 処理する ために、「ふった」は 連体準体法だと 強弁した。起源的には まちがいでも ないが、「きれいが/ふるだろうが」といった 断定 推量の 近代的な 表現形式を みおとす ばかりでなく、「ふったが」が 後続の 主文「かさが ない」に対して なんで「主格」なのか、意味機能を 吟味する 気も ない。自分でも いう ように、語形態の みやすい「連詞論」までにしか 視野が とどかず、「断句(=文)論」は むろん、複文論も その 階層的な 背景(地 ground)にも あっても、視野には はいってこない のだろう。

 《形式》と いえば みやすい 語形態だけでは なく、たとえば「わらった こどもが すぐ ないた / ないた こどもが すぐ わらった」といった 語の 配置(語順)の ちがいや、「あそば-せ-ている-べきだっ-た-のだ-そうだ」「-のだ-そうだ / -そうな-のだ」「した-ようだ / する ようだっ-た」といった ぐあいに 複雑に あらわれる、語の 文法的なカテゴリーの 結合(いわゆる 助動詞承接順序)の パタンの ちがいや、「する/するだろう」(対立 推量)「ようだ〜らしい〜そうだ」(拡大 証拠性)「かもしれない〜にちがいない」(拡大 確実度)といった 形式の 対立/拡大という 選択の タイプの ちがいも、言語の「構造」においては 《形式(形成) form》として はたらくのである。サピア1921『言語』の 第5章「言語の形式(形成) : 文法の概念(なかみ)」などに みられる かんがえかたである。「構造(くみたて) structure」「タイプ(型) type」(型式/類型と 訳しわけ?) は 次章 第6章だけの 問題ではない。いづれの ばあいも 意味内容ぬきに 言語形式は かんがえられない。言語の 形式と 内容とは 文字どおり きりはなせないのだ。形式を 安易に 容器の 比喩で かんがえていると、なかみの はいっていない 容器は ありうるから まちがえる。この種の 誤解が おおい うえに、日本漢語「形式」が 名詞用法だけである ために、"鋳型" のような 固定した「紋切り型」や ぬけがらの「形骸」のように みがちであるが、英語の "form" は、動詞「かたちづくる」でもあって、そんな ものではない。言語の 形式(形成)は、文構成を くみたてる ことによって、思想や 意見や 感情を (内的にも、比喩表現 連語型使用など) "かたちづくる" ものなのである。

 c) 「断定」と「推量」と その もとの「措定」の ありかたも、

あめが しとしと ふっていた。           現象描写(措定)
あめが しとしと ふっていた のだ。         状況説明(断定)
あめが そっちは ふっていただろう。        状況推量

かれが 犯人だ。                  判断断定
かれが 犯人だろう。                判断推量
のように、かならずしも 同位対立の 関係ではない。名詞文=しなさだめ文=判断文では、形式も「だ−だろう」という ふうに どちらも 有標で「等値的な対立」であり、機能的にも 《断定−推量》と 同位的な 対立である。しかし 動詞文=ものがたり文=現象文では、形式的にも 無標/有標の 「欠如的な対立」であり、機能的には 単純ではない。《描写(措定)−推量(説明)》という 非同位の ねじれた 関係に ある。最初の 現象を 描写した 文は 直接的な《知覚》によって とらえた 現実の 事象であり、「−のだ」や「−だろう」の 累加した 動詞文は 説明や 推量という、間接的な 認識《思考》によって とらえた 状況(場面)の 想像である。《知覚》は テンスを もった B2段階であり、《思考》は 「断定〜推量」「記述〜説明」といった ムードを もった C段階である。描写と 記述、措定と 断定とは、厳密には レベルの ちがう 階層的な 関係に あるのだろうが、言語分析に 実際的に やくだたせられるか どうかは、実現は していない《未来》の 世界の 分析において であろう。
 ある 教科用の 古典文法では、助動詞「なり」の 代表的な 意味を 「指定(表現)」とも よんでいる。「なり なる/ならず ならむ/なりけり なりし/ならば なれば …」といった、きれつづき的とも;ムード的とも;テンス的とも;条件的とも;いわれる 諸用法に 共通する ものを、安易に「断定の助動詞」と よばずに、「指定の助動詞」と よんでいたのは 一定の 見識であった。
 現代文法に もどって、「たぶん あのこも くるよ。」といった、「だろう」を つけずに 「たぶん」を つける 未来動詞文は、いったい どんな パタン(構造)と タイプ(種類)とを もった 文システム なのであろうか。「だろう」が つこうと つくまいと、《未来動詞文》は、確定した「現象描写文」とも ちがうし、時間を こえた「しなさだめ(判断)文」とも ちがって、未来の「できること − ことがら proposal」は 人間の 想定の なかにしか ない。いわば はじめから 推量であって、「たぶん」は その 程度を つよめるに すぎない。叙述文の「確認」の モーダルな意味は、「主体的な リアリティ」に対する ものであって いちおうは いいが、対象の 記述性 = 実現・未定・予定性など にしても、主体の 判断性 = 想定・予想・計画性など にしても、主体が 推理したり 想像したり 決定した ものである。いわば「有時間の 判断文」である。「きのうは …… できた、いい 一日だった」といった 過去事態の 判断文とも 比較すべきだろう。事態の 既定/未定の 差や、事象の 予定/予想の 差を どのように みて、どんな システムを かんがえたら いいのか。そもそも 未来や ひとに「期待」を かけて どうなるのか。

(この章、ちいさな 加筆に とどまった。2017.09.21.)


本論:品詞論の 概観 ―― 自立的な 品詞と 補助的な 品詞 ――

 品詞論の わくぐみは つぎのように かんがえているが、「副詞」が ない ことに 注意してもらいたい。文の 構造論における "主語" だけではなく、語の 品詞論における "副詞" の「廃止」が、わたしの "必死の しごと" に なった ようである。

・自立的な 品詞
   1) 名 詞
   2) 動 詞
   3) 形容詞(→ 状 詞)   #「転成副詞」は この 連用形に もどす。
   4) 描写詞(← 擬音語)   # 副詞ではなく、品詞供給の 原品詞と かんがえる。
   5) 指示詞(← 代名詞)   # 描写詞・指示詞 ともに、品詞分類以前の 原品詞
    # 英語の 代名詞は、文法的で、前文の 文脈指示(anaphora)の 義務表現。
      日本語では、代名詞表現は 任意的な 語彙表現であり、
            現場指示の 指示詞が 文法的(コソア)で、状況設定の 基本。

・補助的な 品詞
   6) 制限詞 6類:《陳述》 叙法詞 評価詞 対照詞 / 《限定》 様相詞 程度詞 決定詞
   7) 補助詞 3類:[名詞句+]後置詞 / [従属節+]接続詞 / [述幹部+]補助述詞(むすび)
   8) 遊離詞(群):[疑問文_]応答詞 / [連文間の]承前詞 / [位置自由]間投詞(感動詞) etc.
    # 制限詞とは、陳述副詞や 程度副詞や ときの副詞など、「情態副詞」とは ことなる もの。
      遊離詞は、文法的には 付加的で、こわけせず 感動詞に 合併する ばあいも おおい。

(#の 注を つけた。2017.09.24.)


第4章:名詞の 関係構造の 変化

 名詞の 格と とりたてとの 助辞を つけた 補語 状況語 題目語としての 用法と、「だ である」(むすび 補助述詞)を つけて 用言化した 名詞文述語の 終止形 中止形(で) 条件形(なら) などの 用法とについては、すでに よく 研究されている。鈴木重幸『日本語文法・形態論』に コンパクトに まとまっていて、この 領域には 議論すべき ことは あまり のこっていない ように おもう。
 そこで ここでは、1) 名詞の 内部的な 関係構造が 歴史的に どう 変化したかの 問題と、2) 名詞の 用言化した かたちが やはり どう 変化したかの 問題とについて、問題提起 注意喚起だけに おわりそうだが しておきたい。

1) 山田文法は、古代語では 係り結び関係が 優位に あるが、係り結び関係が 崩壊した のちの 時代は 格助詞が おおく もちいられる と とく。森重敏1959『日本文法通論』では、情意的で 機能的な 係結的断続関係と、論理的で 意味的な 主述的格関係とを 文の 両面性として みとめる とともに、前者の 卓越から 後者の 卓越への 文法史の 時代と 区分をも 明言している(p.79-, p.294-)。さしている ことは わたしと ほぼ おなじであるが、ふたりとも、古代語「係り結び」を おおきく あつかうのは いいと しても、その 崩壊は、あたらしい《格+とりたて》の 縦横関係の 認定構造への 発展的な 交代であったとは みない のである。それに対し わたしは、文を くみたてる 文の部分(成分)の 基本機能が 変化・分化し、あたらしい 表現として 必要な 《格+とりたて》構造に 分化・展開したと みる のである。定式化すれば、つぎの ように なる。

     ★ 古代の《卓立》機能から、近代の《格+とりたて》機能へ、名詞構造が 変化する。


 古代の 卓立の システムを くわしく のべる まえに、従来の 通説と ちがいが おおきいので、全体を 図式化して 展望しておく。

   ■無標卓立
      機能\領域   独 立 節   従 属 節 #

      個 別 化   (分離)   (指定)   (破裂音)

      類 縁 化   (包含)   (包容)   (鼻 音)

               (唇音)     ――

    # 独立節= 単文〜重文・逆接節、 従属節= 連体・順接節



   ■有標卓立 こそ=強調逆接(述体)  ぞ なむ や か=連体倒置(喚体)


       cf. 体言構成:つ=空間/所有  (cf. と=定位)
              -な *-た=被覆形(非独立)

と なる。

 a) 第一の ポイントは、「は」と「も」とが 卓立(prominence)の 二大種別である ことに あり、あえて「係り」という 伝統的な なまえを かえた。分離「は」は、「ひきわけて」と いう 成章;「排他的」と いう 山田;「分説」と いう 松下と おなじだし、包含「も」も、「ひきいれて」と いう 成章;「包括的」と いう 山田;「合説」と いう 松下と おなじである。この みかた自体は 通説と いってよく、うけいれやすいと おもうが、有標(連体已然形)の「ぞ・こそ」などより、無標(制限なし)のほうが 基礎的な 卓立だという ことは わかってもらえるか。「係り結び」と ちがって、卓立の 本質は、曲流形(連体已然)との 有標的な 呼応に あるのではない。無標のばあい、卓立が 作用する 範囲(作用域)の ひろさに 応じて、たとえば、「やすみしし わが おほきみの、あしたに とりなでたまひ、ゆふべに いよりたたしし みとらし(弓)の あづさのゆみの なかはずの おと すなり」(萬3)で いえば、まえの「は」は 連用(中止)形と 呼応し、あとの「は」は 連体(述語)形に かかる。「やまとに むらやま あれ …」(萬2)で いえば、「ど(已然逆接)」と うちあっている。已然(逆接)呼応は 「こそ」の 専売ではない。いわば どこにでも つかえ、呼応する 用言語形は、なんでも かまわない。「は・も」が 独立節に おおいのは、無標卓立の のこりの「が・の」が、「連体語」から 連体従属節を 発生させて、「は・も」と 領域を はりあう 関係に はいった からであろう。「ゆふべに」が 連体従属句の「いよりたたしし」にも かかるのは、「あしたに … ゆふべに …」という 対句表現の 対比機能が 優先される のであろう。無標とは、表現の 基礎であり、基本的に 自由なのである。

 b) 「は・も」が 文全体のなかで つかわれていた 一方で、「が・の」はと いうと、連体語から 従属節を 発生させて、複文の 拡大を もとめていた。連体語「わが つま」⇒「わが おもふ つま」「わが こふる つま」といった ように、[名詞指定 ― 名詞] から [名詞指定 ― 動詞連体 + 名詞] へと 拡大して、従属節への 重要な 一歩が ふみだされる のであるが、さらに [(名詞主語 + 連体述語) ― 名詞節] と、従属節に 再分析が すすむ ように 動詞連体から 連体述語への 長大化も すすんだ のである。そのさい、その 従属節の 範囲確定を していたのは、「が・の」が 卓立範囲として 指定なり 包容なり していた 範囲であり、のちには「従属主語」として 従属述語までとして まとめていた ことの 結果である。
 「が」と「の」については、「わが つま」の 段階に 注目して、まず 連体格助詞に 所属させた のであろうが、そうではなく、連体語「わが つま」の 段階でも、連体節「わが おもふ つま」の なかでも つかわれて、卓立機能を しめす 助辞だと かんがえる のである。「が」は 基本的に 連体節での 指定要素の 卓立であり、「の」は 連体節を 包容する 場所・場面(「にある」)の 卓立であると かんがえる。連体助詞としての 用法が 「従属主語」も ふくめて、「が」は せまく、「の」は ひろい という 通説は、卓立機能の はたらいた 結果の 事態 なのである。つまり 卓立機能の 作用範囲が 従属(連体)節に 局限された ことが、結果として 連体助詞だと みられた のである。通説の なかでも、

「の」「が」を比べると「の」の方が用法が広いが、もともと「が」は所有格(いわば「が有するところの」の意)を表わすもの、「の」は所属位置(いわば「にある」「に属するところの」の意)を表わすもので、それが次第に受ける語を分担しつつ、共通の一般連体格や主格を表わすに至ったものではなかろうか。(林大1955「萬葉集の助詞」『萬葉集大成』言語篇 所収。原稿の「現代かなづかい」に もどす。)
といった 「所有/所属」の 指摘は 注目されたが、それも 「分類の枠をはめる」ことを さけて、あえて 五十音順の 記述に したがった 研究だった。連体従属節における「指定/包容」という 卓立機能が うみだした 個別的な 意味の 基本が「所有/所属」なのではないか、と おもいついた のである。記述には したがって、それを みる 視角を かえ、連体か 卓立かの あとさきの 関係を 逆転してみた のである。「が」の 形式の 成立については、つぎのように 推定した。林論文の 五十音順は、連濁関連には 有益であった。
1) 基本:「かれ・かく」などの 指示詞「か」が もとに あり、
     文の 位置や おとの パタンなどの、文の 形式(サピア)を かえて、
2) 連濁:文中の 対象語の 体言に 強調下接し 連濁して、
     連体従属節における モノの 指定(卓立)辞「が」が うまれ、

3) 位置:文末の 述語の 体言や 用言連体形に 下接し 終助辞化して、
     文末の 上昇音調と ともに、(情報焦点化の)疑問〜詠嘆辞の「か」が うまれ、
4) 連濁:「も…ぬか」「(も)か」などの 影響下に 連濁し、
    (文末の 持続音調と ともに) コトの 希望(欲求)辞「(も)が」が うまれた。
このうち、1) → 3)は、もと 歌人学者 林大の 直観説であり、3) → 4)は もと 浜田敦・林大(公表順)の 推理説であるが、1) → 2)の 指定(卓立)辞の 成立の ヒントに なったので、あわせて 多義派生図として システム的に まとめておいた。

 以上を まとめると、「は―が」の 《分離―指定》が 要素の 個別化であり、「も―の」の 《包含―包容》が 関係の 類縁化である という ことに なり、4つの 基本助辞は 4項並立=2重2項対立の 《卓立》の 関係に あった のである。古代から 中世に かけては、「が・の」は 連体節の 敬語待遇性の ちがった 従属主語としても つかわれるが、これも 貴人を 指定(が)は しない 結果 うまれた 用法差であろう。のち 主文でも 同様に なっていく。終止・連体 同形化による 連体どめ文の 表現性の 消滅や、用言準体法の 消滅に より、「の」の 準体助詞性の 獲得を へて、「が」は 中立主格用法に 用法を ひろげ 主格助辞と なり、「の」は 連体・準体の 機能に 専門化するが、格機能とは 別ものであった。それぞれ 独自に 機能分化して、現代にも 中心的に はたらく ものとして いきつづけた のである。

 c)「有標卓立」とは いわゆる「係り結び」の 形式の ことであり、とくに 卓立性については いうまでも ないが、已然形系統の「こそ」が 結合的な 叙述による 述体的な ものであり、他の 連体形系統の 「係り」は 倒置的に うまれた 喚体的な ものと みられる。已然呼応の ほうは、「問題 あり、…」が 「問題こそ あれ(ども)、…」という ぐあいに 補語の 卓立強調が 述語逆接性を 譲歩的に くわえる ものであり、現代でも「問題は あるけれど/あっても、…」のように、おなじような いいかたが ある。連体呼応の ほうは、「… しつる(は)、われそ。」のように 連体準体法の 題目形が 倒置して「われそ … しつる。」のような 連体形どめの (準)喚体的な 表現と なった ものである。どちらも、形式の 呼応的な 現象を 誇張しがちだが、無標の「は・も」の 卓立構造のほうが 古代・近代に 共通して 基本的であって、有標の 係り結びは 卓立システムの 特殊な もので、歴史的にも 確立から 崩壊まで 一時代のみを 特徴づける 古代的な 現象だ というのが だいじな ことなのである。
 最後の「体言構成」の 参照図は、上古ほど 体言句 体言複合などの 助辞が 近代より こまかく 表現しているらしい という ことを ついでに 表示した まで。用例が すくないので 臆測だが、「つ−と」の 関連に 注意を こう。「-な *-た=被覆形」は、「な−に−の」「た−つ−と」の 母音交替を 想定し、被覆形として 独立性は よわかったと 推定。「*-た」は、現存の「け(だ)もの[毛(だ)物]・くだもの[木だ物]」「え-だ[枝]・から-だ[空>体]・は-だ(=み =か =し)[端>肌(身) 裸 裸足]」などから 推定。連体部独立の「こ-な(=ゆき)・み-づ(=うみ)」も 同様の 語彙か。

 d) 現代においては、「格」と「とりたて」に よる、名詞の タテと ヨコの 2重の 関係づけである。微細すぎる 有標卓立の 強調の こまかさよりも、名詞を 二重に みる 表現のほうが 必要と された。古代説話においてさえ、卓立過剰より、状況記述のほうを 必要とした。軍記物等における 和漢混交文の 確立においても、卓立という 感情調よりも 描写力を めざしていた。中世文体の しろうとは もう やめた ほうがいいだろう。ただ、「副助詞」(山田)という という 性格の 助辞は、どんな うごきを とったのか。過渡期の うごきについて、くろうとに ききたい。
 「格」と「とりたて」とに 分離されているのは、現代でも「−には・−へも・−とまで・−からさえ」などであって、主格や 対格の 領域においては、「がは」も「は」、「をは」も「は」のように 機能的に 融合した 形態に なる。現代も 文体的に ゆらぐ「をば」や「をも」といった 形態は、歴史的に 検討 要であろう。「格」と「とりたて」が どこから どう 分離し 明示していくのかは、くわしい 調査結果を しりたい。現代の「は」と「が」、「は」と「を」といった ねじれた 対立が どのようにして 成立したのか、あるいは「がは」や「をは」の かたちが なぜ できなかったのか。――― まったく あてずっぽうであるが、「が」の 指定卓立性や 「を」の 間投詠嘆性 という もともとの 情意的な 性格が、「は」の 分離〜対比性や 「も」の 包含〜共存性 という とりたて性との 共起を きらった ために、対立選択的な 関係を むすび、連接結合的な 関係が できなかった、なんて こと ないだろうか。

 なお、「は」と「も」との 語の 基本対立が 従属節(条件)関係に 延長拡大されると、「ば < むは」と「とも・ども」といった 順接条件と 逆接条件との 二大別に 利用され、古代(上代)語では 基本的に この 2種に かぎられるが、近・現代語に むけては、「しては/も」などの 条件関係の ほか、「つなぎ(接続)」関係が 分析的に 表現され、飛躍的に ふえていくが、そのさい「ときは/も」「ばあいは/も」「状況では/も」といった ペア形式も つかわれる。このように、この 2つの 助辞は、日本語の 古代〜現代を 通じて、基本的な 文構造を つくる 基礎助辞なのである。

2)「おとこは みんな おおかみよ。」と 述語位置に もちいられた「おおかみ」が、位置(position)から あたえられる 叙述機能から 比喩表現(metaphor)を 経由して《特徴づける》という 形容詞化の みちを すすむ。「親切 安心 健康 / 陽気 つみ」など、名詞と 通称「形容動詞」とに またがる 語として よく 問題に されるのも この みちすじに あって、新旧の 意味が どちらも 多義的に のこっている ばあいである。判定に 問題が ある 例として、「達者な 陰気な」は、文語/専門語として でなければ 名詞用法は なくなっているだろう。「達者 陰気」と 「達人 陽気」とは、にて みえて 非なる ものである。こうした 意味変化は 主要品詞間の 語彙論的な (単)語つくりの 方向の ものである。

 それに対して、意味が 抽象的で、補充の 必要な カテゴリー(わく)的な 意味の 名詞の ばあい、

   学生が いま やるべき ことは、しっかり 勉強する ことだ。

という 「形式名詞」用法から すすんで、話線の 混線(contamination)や 「こと」の 補助詞化によって

   学生 いま しっかり 勉強する ことだ

という 動詞文の 述語の 「むすび(補助述詞)」として 半分 独立して 外部化(作用域は 文全体)する 用法に すすむ。また、

   犯人は、倉庫の すみに かくれている ところを/が 警察に みつかった。

は、状況 コトガラ的に とらえられた 補語(対象語)としての 形式名詞の 用法だが、

   犯人は、いまさら 倉庫の すみに かくれた ところで、にげられも しない。

は、意味は モノ性も トコロ性も なくなり、論理的な 関係が 逆接的な「つなぎ(接続詞)」に 転化している。

 まえの 語彙的な意味に かかわる ものに対して、こっちは 文法論的な 語形つくりの 延長としての 補助詞化の 方向だと いっていいだろう。くわしくは、補助詞の ところで のべるべき ものであろうが、問題の 淵源が 名詞に あるので ひとことだけ しておいた。

(第1節前半は 結局 ほとんど かきなおし。2017.09.25-8.)


第5章:動詞述語の パラダイム

1) 動詞の アスペクト テンス ムードなど くわしい 記述も かなり すすんでいるし、連体形や 中止形や 条件形 といった きれつづきの 用法記述も くわしく なっているが、肝腎の 述語の 終止形の、パラダイムの システムが よくは みえない、というか 動詞述語は 複雑すぎて あまり 意見が でない。研究は、いわば「木を見て 森を見ず」といった 感も あるので、議論の たたき台として 私案を だしてみたい。図式的な 展望にも とりえが あると おもっていただく しか ない。


動詞の 陳述(叙法) [終止活用のみ:義務的な テンス・ムード対立を 組織]

                    記述      説明
    叙述  断定  現在      する      するのだ
            過去      した      したのだ
        推量  現在      するだろう   するのだろう
            過去      しただろう   したのだろう
    意欲  勧誘          しよう
        命令          しろ
        依頼          して(くれ)


・動詞の 陳述(時間) [連体活用にも:アスペクト + みとめかた = コトの 義務的な わくぐみを 組織]

      \ アスペクト      完成(全一)           不完成(継続)
    テンス\みとめかた   みとめ    うちけし     みとめ     うちけし

    現 在         す る    しない      している    していない
    過 去         し た    しなかった    していた    していなかった

 +アスペクト性:方向性 していく してくる / 準備性 しておく してある / 局面性 しはじめる etc.


・動詞の 派生態    (derivation /動詞複合体 verb complex)
    様態  しそうだ しがちだ しやすい / しうる できる / してしまう / するつもりだ
    情意  したい してほしい / すべきだ しなければならない /してみる してやる


述語の 分析形式   (合成述語 complex predicate)   cf. 品詞論的には 補助詞「むすび」
    様相  ようだ らしい そうだ はずだ / かもしれない にちがいない
    評価  ても/ば/と/たら いい    ては/ば/と/たら いけない

この 図表は、奥田靖雄の 一連の モダリティ論(著作集 言語学編 参照)に 原型として もとづきながら、動詞述語の 活用表と かたちづくり別の 文法形式とを あつめた ものである。「形態論体系」というより、文のなかで 動詞が 述語として はたらく 意味機能の システムの 図表化である。「動詞(用言)複合体 verb complex」は、動詞の 派生レベルと、述語の 分析レベルとに、 二分されている。これは 動詞と 補助品詞と 別々に あつかう こともできるし、動詞に 補助品詞が ついた 合成述語形を 動詞派生態と ともに あつかう こともできる。相互移行を かんがえるには、おなじ ばしょで あつかった ほうがいい。なお、諸形式は 網羅的には あつかえておらず、周辺域などは まだ 試作の 途上である。あくまで 検討の たたき台だと かんがえてほしい。

 推量の「するだろう」や 説明の「するのだ」とかの 膠着形式であったり、不完成相の「している」に いたっては 補助動詞の 分析形式なのに、「活用」に あつかったのは、動詞述語の つかいかた(用法)として、断定/推量、記述/説明、完成/不完成(継続) という 選択表現(paradigma)が 《義務》的だと 認定した ための 処置である。つまり、活用か どうかの 問題は、屈折か 膠着か 分析か という 形態独立性の 問題より、その 形式が どんな 文法的な 意味や 機能が 義務的な 表現として 選択されるか という 文の 表現形式(かたちづけ form)を 重視した ことになる。
 「して」「してくれ」「してください」の 一連の かたちを 依頼形 という 独立の 活用形として たててみた。「してくれる」の 命令形ではなく、「する」の 依頼形として あつかってみた のである。「くれ・ください」の 補助動詞部分の ない かたちも 日常語では 多用される。いままでの 形態「体系」の 慣用保守性より、文の 用法くみたてが 「文法的な 機能(対立)」を もった、動詞の エネルゲイア(生動)性を 優先した のである。

 「動詞の 派生態」は 広義であって、語構成的な 複合/派生形式も、おもに 動詞接続の 分析形式も ふくむ。できた 全体が 動詞の 形式か どうかが 問題であって、つぎの「述語の 分析形式」の ばあいは、動詞にも 形容詞にも 名詞にも つく 分析的な 形式(合成述語)である。いづれにせよ、この 派生と 合成述語は、義務というより、《必要》な みかた・表現形式であって、不使用によって、その 欠落に 意味(効果)を もつ。「したい」が 希望表現だとすれば、それを もちいない 表現(「する」で 代表)は 事実認識の 表現であるのが 正常である。なんの かたちづけの 必要性も なく、ただの ことがらとして 記述するのは、語彙的な 表現の 平叙文であろう。cf. 〜することを ぼくは さっきまで 希望していた。
 「おおく/可能で なければならない」は まだ 標準的な 日本語と みとめず、「おおく/可能 ならなければならない」のほうが ふつうの 日本語だと みとめた ことになる。あとにも みるが、「−べきだ −なければならない」は、いま 新人類の 俗語口調と、旧人類の 翻訳文体とにおいて、「動詞の 派生態」から 「述語の 分析形式」への ゆらぎが みられる。どっちにしても、義務的ではなく、必要的な 動詞述語の 拡大的な カテゴリー(modality < predicativity)であるが、より中心的か より周辺的か という 位置の 差は あるだろう。「よ・ね」などの「もちかけ」は、さらに そとに 付加的に 位置していて、動詞述語に かぎらず 他の 文の部分にも もちいられる。

2) 動詞の 派生態の 「情意」のなかに いれてある 「したい」と「すべきだ」は、意味としては 希望と 当為との 代表であるが、構文機能としては 叙述文のなかに まずは いれられながら、命令依頼文としても はたらきうる 移行的な 形態でもある。近代日本語の 叙法システムは、おおきく 「認識系」と「行為系」とに 表現分化すると みた うえで、その 行為系叙法の もつ 叙法形式の 特徴と みなすのである。奥田靖雄の「まちのぞみ(文)」の あつかいかたとは ちがう。よく 比較して かんがえてもらいたい。

 いま「叙述文」の 形式の 概略承接図を みて、概略の 複合体の 連結関係を つかんでおいて いただきたい。

できごと ─┬ (なりゆき) ── ものの なる:ことがら ─┬─ みなしかた ┬─ 推量
【認識】  └─ しごと ─┬─ できる ひと:ありかた ─┤       |
             ├─ すべき こと:なしかた ─┤       |
             └─ したい さま:のぞみかた ┴─ たしかさ ─┴─ 説明
        【行為】          【行為】    【認識】   【認識】

                      行為様相    述語様相   基本叙法
                          \  /      /
                          副次叙法(様相)  /
                            \     /
                              叙法性
1989年の「序章」の 叙法形式一覧表を、形式承接図式の かたちに ととのえた ものである。行為様相の うち、「べきだ」と「したい」の ふるまいが とくに 活発であるが、まちのぞみ文「したい」には 奥田論文が すでに あるので、「べきだ」から みていこう。

2-1) まず 分類化(群化)の 中心的な 形式の 問題に なるが、「しなければならない」の 発生よりも、「すべきなり → すべきだ」が「すべし」から 独立する ほうが 歴史的に 先行していて、「しなければならない」の 普遍的な 意味の 論理分析より、「すべきだ」の 歴史的な 形式の 機能分析のほうを、基本(先決)事項として 研究すべき なのである。奥田靖雄1999「現実・可能・必然(下)―― しなければならない ―― 」という 論文の ことを 念頭に おいて いっているのであるが、《当為(当然)》の「すべきだ」が 漢文訓読の 影響も うけて さきに うまれ、その あとに「しなければならない・せざるをえない・せずにはいられない・しないわけにはいかない」のような、<否定+不可能>の 構成を もった、《必要(必然)》の 分析的な形式が 周辺的に (おそらく 西洋翻訳語的に) 発生した のである。記述の 順序は、普遍的な 論理分析に たよる よりも、言語の 歴史的な みちすじに あわせた ほうがいい。晩期の 孤高の 奥田靖雄は、論理主義に おちいりがちだった。しかし かつては ………

2-2) 近代の 東京語では、「しよう」という 意志形と 「するだろう」という 推量形とが 「表現分担」を ことに している、と 東京語の 実態を 記述したのは 中村通夫1941「東京語における意志形と推量形」[『東京語の性格』(1948) 所収] であった。この するどい 観察を 活用表に とりいれたのは、民科言語部会の ひとつの 共同研究として はじまった、じっさいに みられる 文章の 欠陥の「ことばなおし」を 理論づける ものと いわれた 奥田靖雄1953『正しい日本文の書き方』(第5章の「動詞のカワリカタ」)に 採用された 活用表なのである。その「歴史文法」は、気象通報(気象庁専権)の「ふりましょう」は 「ふるでしょう」に かえるべきだと 訂正するのである(pp.13-5、p.86)。「した」の 系列に 「したろう」という あまり つかわれなくなった かたちを 過去推量の 活用形として いれるのが 田丸文法や 宮田幸一1948『日本語文法の輪郭』の ローマ字文法の 常道であるが、「しただろう」という 膠着的(形態半独立的)ではあっても じっさいに よく つかう かたちを 活用形の 代表と したのが 奥田靖雄の みかたなのである。この ことばの「はたらき(Energeia 活動体)」(W. フンボルト)の すがたこそ 言語学の ほんとの 対象だ という かんがえかたに たって、その後 「している」という アスペクトの かたちも、「するのだ」という 説明の ムードの かたちも、形態法が 膠着であろうと 分析であろうと、動詞述語の 問題として あつかえる ように なったのである。念のために いうが、「している」や「するのだ」の 文献での 使用量も、もっとも 外的な (数量化できる) 形式である。文法機能の「愛用される かたち」の あらわれという、だれにでも わかる かたちである。

 奥田靖雄1953の「歴史」の 説明を 図式化して いえば、古代語「せむ」は、
    せ む─┬─しよう   行為:意志(勧誘)
        └─するだろう 認識:推量
のように、近代語に かけて 意志(しよう)と 推量(だろう)とに 分析的に 表現しわける ように なってきた と みるのであるが、このことは 奥田(教科研)文法の 活用の 最重要ポイントの ひとつとして みのがす ことは できない ことである。つまり、かたちの つくりを みただけでは、「したろう」のような 衰退形と、「しただろう」のような 新興形との 区別は つかず、(語)形態の 類似ではなく、(文)使用の 実態が 本質的な 問題に なる。しかし、通常の 形態論の ように 形態の 類似を 優先すれば、「雨が ふろう」「問題が あろう」という 文語形と、「雨が ふる」「問題が ある」という 口語形とが 混在し、「雨が ふるだろう」「問題が あるだろう」は (形式語)膠着の 形式として、動詞の 活用から 排除されがちである。形態は むろん 重視すべきだが、記号としての 言語の 使用法を 重視するよりも、形態の あいだの 整合性〜関連性を 優先する ような 研究手法を、現実界に よりそわない「形式主義」だと 批判する のである。形態は、慣例の のこりかすでないか、実態調査が 必要である。
奥田靖雄が 「形式」に関して、「形態論的な 形式(体系)」と いうよりも、みづからは「文法的な 形式(対立)」を 一貫して つかっていた 理由の ひとつも ここに あったと おもわれる。言語の 形式(= つかいかたの 表示)は、語の 形態だけではなく、文の 構造(配置)にも あるし、形態論的な 体系は どうしても 保守的に なりやすく、文法的な 対立関係(用法の 実態)は 現在の うごきを 反映しやすい からである。ただ、宮田幸一と 奥田靖雄との この ちがいが 「実質的にはそうしている」ものの「再編成」にしか みえない、ローマ字文法の たちばも ある(『ことばの科学 2』p.118)。奥田の いう「形態論主義」の 問題に なるが、著名学者の 用語で いえば、ソシュールの ラングの 語の 形態(慣例)として みるか、フンボルトの エネルゲイア(活動体)としての 文の 機能くみたてとして みるか、という 方法(ちかづきかた)の ちがいにも なる。使用のなかの 語は、うごくものであって、慣例にのみ しばられは しない。

2-3) この 歴史的な 分化発展という みかたを さらに おしすすめて、わたしは、古代語の「すべし」も 近代語では、
    すべし─┬─すべき なり──すべきだ   行為:義務
        └─すべき はづ──する はずだ  認識:推論
のように、分析的に 表現しわける ように なってきている のではないか、と 推定するのである。中古時代から「すべきなり」が 「すべし」とは べつに (とくに 漢文訓読的な 文脈に) もちいられており、中世近世には 口語の「−べい(ならば/うちは/ため)」とともに、文語の「すべきなり」も つかわれており、途中 調査が 不足するが、近代初期の たとえば 福沢諭吉『学問のすすめ』は「すべきなり」を もちつづけており、明治後期の 夏目漱石や 二葉亭四迷は「すべきだ」を つかいはじめている。古代の ものがたり文体から、中世 近世の 思想的な 文体(宗教 史書など)に 対応して、「なり・ぢゃ・である」文体、つまり 判断文連結が 一般に めだつ なかで、「べし」ならぬ 「べきなり/だ」の 多用であった。
 「べきだ」は、「連体形 + だ」という 学界的な「連語」形に うまれて、ながく 処遇も 大損した。見出し項目にさえ ならなかった。学界としては、研究の "あな" の ままであると おもう。………

 現代の 使用実態は、新聞(スポーツ)資料も ふくめれば、語形が みじかい ことも あってか、「すべきだ」が 「しなければならない」より おおい。わたしの 近代語データベースでは どちらも 1万を かるく こす という 点では 大差ないが、はなしことばでは、「すべき(だ)」の 頻用には 注意すべきであり、それは、「きょうは おとなしい べきよ」「だち(友達) べきかもね」といった 補助詞(むすび)への 機能拡張の 兆候さえ、わかいひとたちに みられる くらいである。逆に 「−で/く なければならない」の 同傾向は 知識人の 翻訳文体で すすんでいたが、さて こんごは どうなるか。日本語の 歴史の もちまえの ながれ drift なのか、つかのまに きえていく さざなみなのか。
 なお はなしことばでは、「しなくっちゃ」「かもね」といった 短縮(後略)形の 使用の ほか、「〜じゃん?」「(〜と) ちゃう?」といった 方言(音融合)俗語の 採用にも 注意していく ことが 必要だろう。やはり、歴史の ながれか、さざなみか と。

 よく しられている ことだが、現代の 過去形の ばあい、
きのう やっておか なければならなかった
きのう やっておく べきだった
では、「なければならなかった」のほうは、やった という、必要の 実行の ニュアンスを ふくみ、「べきだった」のほうは、やらなかった という、義務の 不実行の ニュアンスを ふくむ。「したかった」の かなわなかった 希望との 関係で、ひとことしておくが、希望より 当為のほうが 表現が 分化している とも いえる。

(全般に かきたし、かきなおし。2017.09.29-30.)


第6章:形容詞 ただしくは 状詞(相言)

0) 議論する まえに、つぎのような 意味関係が 日本語話者には ごく 自然な 形式感覚である。

    ┌───────────────────┐    モ ノ ────── コ ト
    |                   ↓      \       /
   モ ノ  ←――  サ マ  ――→  コ ト      \     /
    ↑                   |        \   /
    └───────────────────┘ または     サ マ
と 意味的に 表記するか、
    ┌───────────────────┐    名 詞 ────── 動 詞
    |                   ↓      \       /
   名 詞  ←――  状 詞  ――→  動 詞      \     /
    ↑   連体形       連用形   |        \   /
    └───────────────────┘ または     状 詞
と 品詞的に 表記するか は ともかくとして、3項の 鼎立関係であって、
    名詞(主語) ――― 形容詞(連体修飾語)    ex. 「きれいな はな」(が)
      |       |
      |       |
    動詞(述語) ――― 副 詞(連用修飾語)    ex. 「きれい状に さいた」(派生接辞)
という、二語文を それぞれ 拡大する 4主要品詞の 体制では ない。わたしにとって、思考以前の 形式感覚(直観)である。
 つまり「きれいな」と「きれいに」とは 同一品詞の 活用形の 別であって、別の 品詞か という 問題の たてかたは 考慮の そとであった。「きれいな」と「きれいさ(が/を…)」とは ちがう …… なんて、記述は まずは 不要であろう。明治の「模倣文典」としか おもえない。
 「形容詞(形状詞)」「副詞」と 和洋折衷に おわった 大槻文彦以来、山田孝雄、橋本進吉、時枝誠記、といった 大文法家にも (英文法の 借用が) ひきつがれる 慣例なので、ここでも 「形容詞」の 通称に しばらく したがって、副詞否定の 議論だけは すすめる ことにする。

1) まず 形容詞が 基本的に、修飾に はたらく ことも あって、その他の 構文的な 特徴は、動詞と くらべると とぼしいが、それでも、

    いえは えきに/から ちかい。
    かれは 文学に くわしい。
    ぞうは はなが ながい。

    あのこは [あし/きず/かどっこ]が いたい/いたかった。
    かれは ひとの やさしさが うれしかった。
    かれは せけんの しうちが つらかった。

といった 例が よく あげられる。うえの「状態 性質」の ばあいは、テンスを 表現せず しなさだめ文の「性状文」〜「(評価)判断文」である ことが おおいのだが、したの「感情 感覚」の ばあいは、一時的な 心理 感覚の 状態なので テンスを もつ ことが おおく、人間の 心理 生理にかかわる 身体〜心身の ものがたり文の「現象文」である ことが おおい。感覚の ばあいは、「が格」が 場所的であって、身体部分でも 身体状態でも 外界の対象でも ありうる ことが 注目される。

 以上の、格や テンスの 構文特徴に 注目している ためも あって、主として 終止形で 論じられるのだが、連体修飾の ばあいも、同様に いえる。わざわざ かきあらためる までもないが、

    えきに/から ちかい いえは …
    文学に くわしい かれは …
    はなが ながい ぞうは …

    [あし/きず/かどっこ]が いたい/いたかった あのこは …
    ひとの やさしさが うれしかった かれは …
    せけんの しうちが つらかった かれは …

という ふうに いえるが、うえの テンスの ないのは 連体語という 補語かざりの 単文に ちかい 感じだが、したの テンスの ある ばあいは 連体節を ともなった 複文という 感じである。ただの 連体かざり というより 「原因」的な よみが つよいと おもう。むろん、
    しろい ゆきに あかい ちが したたりおちて、あざやかだった。
など、1語であっても、「しろい」ものに 「あかい」ものが ついたので 「あざやか」に みえる という ニュアンスも うまれるから、連体の「装飾(非制限)」用法の 問題のほうが 決定因 なのであろうが、その 意味的な「装飾」性と 文法的な「節 テンス」性とは 無縁でもなく、いわば 媒介的な 相関変数の ような 関係に ある のだろう。装飾 → 説明 → できごと → テンスの ある 節 といった 連鎖関連か。

2) ところが、以上の 「格支配」や 「部分主格 が格」の 性格は、連用形修飾法においては うしなわれる。

     いえは えきに/から ちかく たっている。  cf. 状況語的な 形容詞の 名詞形(連用分詞)。
    * かれは 文学に くわしく 説明する。     cf. 文学を … 説明する。
    * ぞうは はなが ながく あるく。(cf. が格消去して、はな(を) ながく(して) あるく は、可か)

記述しなければならないのだが、それを してみれば、連用形の 修飾語用法は 格支配や 部分主格の 用法を うしなうと 判明して、形容詞連用形修飾法を「副詞」への 転成と みる 説に 有利な 構文的な 形式特徴を つけくわえる ことになる。だが じっさいには 新川らは このことを 指摘しておらず、重視も していない。この 構文的な ちいさな ちがいが、語幹部=語彙意味基幹部の 共通性を もった 活用形説を しりぞける 理由に なるとも おもえない。構文的にも、程度限定(非常に、−ほど etc.)と 比較構造(−より、−と くらべて etc.)という 結合パタンは、《形容詞》の 諸活用形に 共通している のだから 同一品詞で よく、形容詞と「副詞」とに 品詞を かえて 記述を くりかえすのは、むだであろう。

 連用形修飾法においては 「格支配」などの 性格が なぜ うしなわれるのか というと、『形態論』の (299)節も いうように、連用形(副詞)においては 「属性(用言)の属性」であって、形容詞の 連体形と 終止形においては 「もの(体言)の属性」であるのと ちがうからである。つまり、ものの属性を 表現する ためには、他の ものごととの 関係を いう 必要のある ばあいが あり、それが 格支配という 結合能力として あらわれるのだが、属性(用言)の属性 つまり「ようす」や「分量」を くわしく 表現する ためには、「程度」や「比較」という 他事態との (対照)関係表現が 必要になっても、「格支配」という 他物との (メンバー構成)関係表現は 必要にならない からである。
 こうした 構文的な 意味関係は かなり 普遍的だろうとは おもうが、その 構文関係を 語のレベルで どんな 品詞の かたちで あらわすかは 言語によって いろいろ 特殊(特質)でありうる。「比較表現」の 日英対照「〜より A : A-er than 〜」を してみれば、共通点(接続詞)も あるが、相違点(形態変化 -er)も あきらかだろう。構文機能の 問題と 品詞所属の 問題とは、(基底は 照応していても) 区別すべきだ という ことは 大槻文彦 山田孝雄らの 強調した ところであり、日本語の 文法学が 独立していく 過程における 重要な 一論点であった。

 形容詞という 品詞名は 洋文典において なづけられはじめた 用語であるが、ふるく 国学の 冨士谷成章は「さま(状)」と よび、鈴木朖も「ありかたの ことば(形状詞)」と よんでおり、現代風には「状詞」または「相言」と よんだ ほうが 品詞の 性格には ふさわしい。「名詞−動詞−状詞」「体言−用言−相言」という なまえも、よく 均整が とれた かたちに ならんで 三項鼎立すると おもうが、大槻文彦 山田孝雄 橋本進吉 と 継承してきた ものを 変更するのは 無理だと おもう。唯一、時枝誠記に のぞみを かけたのだが、やはり 無理だった。
 わたしは これでも、時枝の 晩年(1967年) 最後の (公認 早大ニセ)学生なのである。(「ノート」の かたすみの 随想を ご笑覧)

 蛇足かもしれないが、『形態論』の (301)節で「検討を要する」と いって、
i)  かべを しろく ぬる/かえた。 は、動詞限定で 副 詞、 cf. 名詞に格「みどりいろに ぬる/かえた」
ii) かべを しろく 感じる/思う。 は、合成述語で 形容詞、 cf. 形容詞引用形式「しろいと 感じる/思う」
iii) かべを しろく する/なる。  も、合成述語で 形容詞、 cf. 形容詞(状態)+める/まる=(変化)動詞転成
 ただし p.470の (注)で、「ii)と iii) は 保留とせざるをえない。…」と いう。

# 工藤注:i) は、洋文典なら 形容詞に ちかいと いうだろう。かたちも "-ly" は つかない。翻案ではなく、cf. の 名詞に格が「あわい みどりいろに ぬる」に対して「あわく しろく ぬる」だが、その「しろく」は 形容詞連用形とも 副詞とも いえる、か。
といった かなり くるしい 検討を している。ここで「ボタンの かけちがい」に 気づかないのは かなりの 確信犯である。内容の 概要は 新川論文に 先行している。雑誌『教育国語17』の「形態論6」(p.81)と、単行の『形態論』(pp.468-70)とでも、微妙に 変化する。
この部分の 実質的な 執筆は、『文法教育』(1963)の 統一責任者である 鈴木重幸 というより、『4の上』(1968)の「指導的な地位にある」奥田靖雄の「直接指揮」の 執筆だと 推定した ほうが、用語法から みても 自然だと おもうが、決定的な 証拠は ない。ここで 用語法と いうのは、たとえば「属性の属性 合成述語 合成かざられ / 変化(動詞) 結果(の状態)」など、構文論・アスペクト理解における、用語の つかいかたや 論理の 展開の しかたの ことである。ただし、当時は ここまで よみこんでいなかった。
 新川論文に すけて みえてくる ように、語の「語彙的な意味」の 共通性よりも、「カテゴリカルな意味」の 相違性のほうが 重視されるのだ とすれば、文法の 土台は 根柢から 転倒される ことになる のではないか。もの名詞が 基底に あるからこそ、「ながれ」という 転成の うごき名詞を 語構成の 部分に つけくわえれば いいのだ。その 転成名詞の 部分に、格 とりたて 被連体修飾 などの 説明を くりかえす 必要はない。品詞は 用法を 拡大 発展させる のだ。なのに、転成副詞の 説明のほうが 本末転倒的に くわしいのは なぜか。「一群の (本来の) 副詞」が べつに 存在すると 『形態論』の (299)節は いうが、擬音語を のぞけば、動詞を「様態」修飾する もの(副詞)なんて そもそも あったのか。このあと この点「描写詞(擬音語)」と「制限詞(かざし)」という みかたを とって、西洋文典の みかた(副詞)と 最終的に わかれる。

付) 逆に、形容詞−名詞に 照応の なくなった 英語などにおいては、"-ly" に おわる 副詞を 形容詞の 一活用形、いわば 連用形として あつかう ことも ありうると おもう。「"-ly" 副詞」の 微妙な 位置については、E. サピアも、"Language" の「VII. Drift」の p.169 に、

"-ly" 副詞は、もとの 形容詞に おもく もたれかかっていて 独自の 活力は もたず、(リーと) ラリって のばして いっている 感じだ ("-ly" drags psychologically)。(副詞と 形容詞とが) いごこちよく いっしょに している ためには、意味の 実際上の 範囲も ほとんど おなじだし、ニュアンスも ちかすぎるので、"-ly" 副詞は、あきらかに やくにたつ かおは していても(in face of …)、《不変化語(invariable word)》に むかう ながれ(drift)に のみこまれて、そう とおくない 将来に きえていきそうだ。
と 1921年に 予想していたのだが、ほぼ 1世紀後の 現在も なくなっては いない ようである。英語専攻の 安藤貞雄も、わざわざ 訳本に 訳注(49)を つけている。これは どうした ことかと いえば、この "-ly" は、もはや 品詞転成の 派生接辞では なくなり、"-s" (三単現/複数)と おなじ ように、不変化語への ながれに 抵抗する (活用の) 語形(form)と なって、よくは まだ わからない「形式渇望 form cravings」を シンボル化する (かたちどる) 形式に なったのではないか。「三単現」= 人称 数と 時称とは、つまりは 主−述関係に かかわる 語形変化である。修飾関係の 照応は なくなっても、《主−述関係》、つまり 文事態の 主体と 時間の 形式化に 「うえ かわき(cravings)」に にた 感覚(feeling)は のこるのだ としたら、なかなかに おもしろい。バンヴニストの「主体性」の 問題提起も、あわせて かんがえてみたい。
 さらに、副詞(連用形)−動詞は、時間的に なりたつ 行為や できごとの「様態 状態」であり、無時間的な 特性化の おおい「形容詞」との 時間面での 対照が、やくにたつ みかけではなく、独自の 活力として 実在したので 共存できた という 可能性も なくも ないが、不変化語への ながれが 語彙の 分野では すすんでも、文法の 語形変化には およびにくい という ながれの 傾向を おもくみて かんがえるなら、"-ly" 副詞は 形容詞の 連用形(動詞後形)だと みるほうが、語彙的な 不変化語への ながれとは 並行的に 説明できる。ただ どっちにしろ、この差は じっさいには ちいさく、語彙+文法的な 主要品詞の 周辺部に あって、補助品詞の 文法性も 未成熟な、どっちでも いい 語彙=文法 融合域での 区分なのだ。他の 補助品詞の 「文修飾」的な particle 類との 用法識別と 分類のほうが、じっさいには 肝心なのだ。
人称 数 時称に、分詞形、(状態)比較級、(動作)様態 … と 語形変化の ものを みてみると、文の 主語の やくわり(person)や、述部の できごとや ありさまにおける 時間的で 具象様相的な 特徴だとは いえないか。限定が ゆるすぎて、なんでも はいるか。

(この章は、もう なおしようも なく、0)節の まえおき 挿入。2017.10.03.)


第7章:描写詞 ―― ゆとりとしての 品詞

1) 常識的な「副詞」としては、

かれは ごはんを ゆっくり たべた。
雑草が ぼうぼうと はえていた。

かれは ごはんを すこし たべた。
雑草が いっぱい はえていた。

ことしは ゆきが とっても ふかい。
となりの ひとは ずいぶん ほがらかな ひとだ。
といった 例であろう。ここまでは、『にっぽんご 4の上』から 基本的に かりた。第2群の「すこし いっぱい」は 数量副詞とも よばれるが、「少量 多数」といった 数量名詞(数量詞)のなかに いれて、そのうち 主として 連用用法として もちいられる ことの おおい ものと あつかう ことにする。「すこしの・いっぱいだ」といった 名詞用法も 説明しやすくなる。
 第3群の「とっても ずいぶん」は ふつう 程度副詞と よばれる ものだが、本稿では 次章で「程度詞」という「制限詞」に いれた。「ようす」の 副詞は 語彙量が あいた open システムであるが、程度副詞は 語彙量が とじた closed システムである。境界付近の 周辺現象であって、名詞と 補助詞(助詞)との ちがいほどには はっきり あらわれないが、あえて いうなら、「ようす」は 語彙的で 増産可能な 製品であるが、「程度」は 文法的な 生産手段の 部品である。「ようす」は、ひとにも よるが、オノマトペを たくさん つくりだし、創作の 描写表現に 利用できる。程度は、増産可能な 部分は「ようす的な 程度」(ex. ぐんと ぐっと etc.)や「批評的な 程度」(ex. すんごく(い) めっちゃ(に) etc.)ぐらいで、ときどき 新奇を ねらって わかものことば的に ふえるにすぎず、基本的には 語彙的な「副詞」とは みないで、文法的な「制限詞」(particleの 類)と みたのである。主要品詞の 連用/連体の 区分秩序を みだしがちに なるのも、程度詞の 特徴の ひとつだ。

2) さて 第1群の「ゆっくり ぼうぼうと」といった「ようす」の例は、いま いった オノマトペ、擬音語や 擬態語とも いう。じっさいに 音の でるのを まねするのが 擬音語で、じっさいには 音の でない ようすを 音の 感じで まねして 比喩的に えがいたのが 擬態語である。副詞という 品詞を みとめるのなら、この 擬音語と 擬態語を 副詞と よんでもいいのだが、結論を さきに いえば、描写詞と なづけたい。まず、

オッペルときたら大したもんだ。稲扱き器械の6台もすえつけて、
のんのんのんのんのんのんと、……… やっている。      引用文

ピカドンが 一発で 広島を 焼け野原に してしまった。    名詞
あたためる ように 料理を チンする。            動詞
ぴったりな 洋服を きていた。               状詞(形容詞)

めっきり あきらしい 季節に なってきた。          制限詞(様相詞)
きっと いつか できるだろう。               制限詞(叙法詞)
のように、「副詞」用法に かぎらない からである。宮沢賢治の「オッペルと象」冒頭の 例など、語というより 擬音事態の 引用文と いった ほうがいいし、第2群は 名詞 動詞 状詞(形容詞)といった 主要品詞の 用法も 定着していく 方向に あるし、第3群の 制限詞の 転成も 確立している。臨時的な 用法まで いれるなら すべての 品詞用法も あって、品詞別を 縦断して 交差分類に なるというより、品詞分類以前に 無動機的な 記号 sign か;動機づけの ある 象徴 symbol か;と わけた ほうがいい。ついでに、「指示詞」も、はなして基準から さししめす ものとして、体言用法(これ こっち etc.) 連体用法(この こんな etc.) 連用用法(こう etc.) … を 名詞や 形容詞・連体詞や 副詞などに わける まえに 「品詞以前」に 統一した ほうがいいと おもう。ひとつの 章を たてる ほどでも ないだろうが、「描写詞」と「指示詞 #」は、《品詞以前の 品詞》である。この ふたつは、symbol 性や deixis 性といった 特性を もつ 点で、通常の 品詞が 一般的記号性を もつのと ちがっているのである。通常の 文法特性とは 「交差」する 特性で、二分法的な 論理には やっかい あつかい されがちである。
#「指示詞」の 補注:いわゆる「指示代名詞」と「人(称)代名詞」とを いい、むろん「名詞」以外も ふくめる。「代名詞」は "pronoun" の 訳からで、アナフォラ(文脈指示)用法に 注目した ものと おもわれる。人称語尾とか 人称代名詞とかの かたちで 人称表現が 義務的な 西洋語には 「代用表現」が 必要なのだろう。日本語では、この種の 語は 「指す語」が 本質だと 佐久間鼎が 解明してから 「指示語」(漢語) または「こそあど」(和語)が 標準化している。佐久間が だいじな 論点は ほとんど 整理していて、湯沢幸吉郎らによって 一般にも 普及しているので、わたしは 章を たてなかったが、解説的に ポイントだけ 付記する。
 いわゆる「人(称)代名詞」も「指示代名詞」も どちらも「指されるもの」が 本質であり、前者が 「対話者の層」、後者が「所属事物の層」と 下位分類される 対応関係に あると 指摘し、また 語彙量が「人代名詞」のほうが 「わたくし わたし あたし あたい わて うち …」のように おおく、コソアドのほうは 代用できる ものは すくないし、歴史的な 変遷にも 差が ある とも 指摘していて、日本語では 人称表現より 指示表現のほうが より基礎的だと ほのめかしている。cf.「あなた そなた こちとら」etc.
 指示表現の 延長には、「(して)いく (して)くる / (して)やる (して)くれる」といった 空間〜時間方向 / 授受〜利益関係や 「きのう きょう あした」といった 時期表現にも、はなして(発話時)を 基準にした「境遇」(三上章)的な ことばが ある。

 もとに もどって いえば、洋文典の 副詞が 悪名たかき 数種類以上の 混合的な 品詞である こととは いっしょに ならない ように、日本語でも「はきだめ」と よばれた「副詞」の 解体 再編成に 努力してきた のである。副詞「ゆっくり ぼうぼうと」などの 動作「様態」修飾用法と、制限詞「めっきり きっと / わざと じつは / あらためて けっして / つねに まさしく」などの 動作〜文 成立制限(「文修飾」)用法とに、(述語部分に ともかく かかわる といった)「残飯 雑炊」という 以上の 共通性を みとめる ことが できるだろうか。「副詞」という 概念の なしくずし的な「不当領土拡大」であろう。制限詞についての くわしい ことは、また 次章で あらためて 説明する。ただ 品詞を 合理的に 再編成できた としても、もちろん 品詞が 移行する 関係は みとめる わけだけれども、それだけではなくて、品詞システムには 緩衝用の ゆとりか あそび といった ものが 必要になる かもしれない という おもいが なぜか のこった。「移行」では すまない なにかが ………

 おなじ ことを べつの 角度から いえば、文のなかで 語が 誕生していく みちすじとして、描写詞という 通過地を のこした のである。「描写詞」という なまえは 宮田幸一1948『日本語文法の輪郭』から かりた ものであるが、「めっきり … に なる」のような 様相詞の 方向も、「きっと できるだろう」のような 叙法詞の 方向も、「料理を チンする」のような 動詞の 方向も、「ぴったりな 洋服」のような 状詞(形容詞)の 方向も あるが、まだ 文法的な 性格が さだまらない、沈殿していく 途中の 未定着の ものも ある。「とかとんとん とかとんとん とかとんとん と、あの トカトントンが きこえてくる のです。」(太宰治 改変)といった ぐあいに、擬音(オノマトペ)の 引用の ばあいも あり、その ひとつが 臨時的に 名詞化される ばあいも ある。つまり すべてを 分類しきる というより、品詞へと ゆらぎ うごいていく、《品詞以前》の 未定着の みちすじ(通路) というか、ゆとりとしての 一種の 品詞(補給路) という ふうに かんがえてみようと おもうのである。
 「わたしは おなかも パンパン(に) いっぱいに なったので、…」といった 例で 「おなかも パンパン(に)」のように 主−述関係に いえるから、松下大三郎が「無活用の 象形動詞」だと したり、川端善明が 「がたっと(たおれた)」は 「連用形だけ」の「不完全形容詞」(* がたっとした 倒壊)だと したり する ことには、論理的には 矛盾は まったく ないのであるが、二分法区分を すみずみまで 徹底しようとして、「重箱の すみを つつく」ような 分類に おちいっていないだろうか。まちがっちゃ いねえが、なんか いきぐるしい っていうか ……… ゆとりとしての 描写詞を あえて のこそうとした ゆえんである。うごきが とれない ような 品詞システムには したくなかった のである。


第8章:制限詞の 二段システム

1)この「制限詞 restrictive」に関しても、まえは「かざし」(冨士谷成章)とか 「副用語」(山田孝雄)とか、ひとの 用語を 総称的に 近似的に もちいていた。その なかみも、研究の すすむに つれて、なまえも かえていたので、まず、いまの 最新の なづけで みわたす ことにする。

     意 味 類│ [もの]     [さま]     [こと]
     品 詞 系│ なまへ     かざり     よそひ
     機 能 別│ 体言系     相言系     用言系
────┬────┼───────────────────────
 ・ ・│文・呼応│ 対照詞     評価詞     叙法詞
 こ し│    │  :       :       :
    │[制限詞]│   …………………………………………
 と な│    │  :       :       :
    │語・限定│ 決定詞     程度詞     様相詞
 の じ├────┤  │       │       |
    │主要品詞│  ↓       ↓       ↓
 は な│[自用語]│ 名 詞 ←── 状 詞 ──→ 動 詞
────┴────┴───────────────────────
 「制限詞 restrictive」は、いまでも これで いいのか かんがえているが、ひとまかせの 用語ではなく、自分なりに 積極的な なづけを こころみた ものである。主要品詞の 名詞 動詞 状詞の 意味を 「修飾」するのではなく、文全体や 述語と 関係して、その 文法的な ありかた(機能)を 「制限」する もの という 趣旨で なづけた。ヨコに 二段 「限定 + 陳述」機能に 内分され、タテ 三列の 品詞制限系にも わけられて、あわせて 6種の 制限詞に こわけされる。語の 数量は 主要品詞と ちがって、もともと さほど 多数ではない。助辞よりは おおく、「半閉」である。
 うち、改名が はげしいのは 左列の 体言系の ふたつである。「決定詞」は、「連体詞 → 規定詞 → 限定詞」を へて、「連体語」のなかでも、英文法の "determinative" に いちばん 性格が ちかそうだと おもって、いまは 「決定詞」と よんでいる。「限定詞」も すてがたいが、時枝文法の「限定」以来 学者による 多様な 使用法も おおいし、英語学でも "determinative" も "restrictive" も 訳すと、「限定」に なってしまう らしいので、さけるべき 多義性と みて、やめた。学者の あせの しみこんだ 用語なので、下3類の 総称に のこした。「対照詞」は、「限定副詞 → とりたて副詞 → とりたて詞」を へて、表つくりも かんがえて、いっそ 二字漢語で そろえて 「対照詞」に おちつけた。
 「○○副詞」から「○○詞」への 変更は、もう 説明不要であろう。副詞の 解体作業の けっか 用法によって、1)「制限詞」という、いわば「叙法詞 modal word」または「小詞 particle」に、または 2)「状詞連用形」か、3)「描写詞(擬音擬態語)」かに、3分し 整理しなおしたのである。「副詞」は、「品詞の はきだめ」としては 便利すぎて、文の 機能について すじの とおった 議論を するには、むだな 雑事が おおかった。みづからは つかわない ように したいとは おもうが、「主語」と 同様、学界的に「抹殺する」のは 無理だろう。世にも 重宝な あいまい表現なのだから。

2)「様相詞」と「決定詞」以外は、すでに 記述分析した 論文が ある。はじめに 「制限詞」全体の 概観を 展望し、ついで のこった「様相詞」と「決定詞」について 簡潔に 説明しておきたい。

 《文・呼応》の「対照詞・評価詞・叙法詞」については、それぞれ「限定副詞評価成分叙法副詞」の なまえで 論文を かいている。山田孝雄の「陳述副詞」、渡辺実の「誘導副詞」を もとに、構文的な 諸機能に 改訂を くわえ、再編成を こころみた ものである。《語・限定》の「決定詞・程度詞・様相詞」については、「程度詞」のみ 「程度副詞」の なまえで 論文を かいている。程度詞に ことがら/陳述の 二面性を みた もので、いちばん うけの いい 論文だろう。「副用語研究会」で 渡辺実・川端善明 両先生と 議論も でき、指導も うけられた 記憶も、いまなお いきている。

 ついで 「様相詞」とは、つぎのような ものが 代表である。指摘する だけなら、「"情態副詞"の 設定と "存在詞"の 存立」(『山田文法の現代的意義』所収)の 7節に、用言(状詞描写詞)などに もどせず、「様相副詞」として 副詞に のこさなければならないと 言及した ことは ある。

 と き・テンス系の 様相詞:もっか・かつて・いまに/しばらく・よく・いつも
 [さま] tense      /まだ・もう/突然・急に/やっと・とうとう etc.

 意 志・ムード系の 様相詞:わざと・わざわざ/あえて・あくまで/ひたすら
 [こと]  mood      /つい・ふと/おもわず・しらずに/なんとなく etc.

 たちば・ボイス系の 様相詞:たがいに・かわりに/それぞれ・おのおの・別々(に)
 [もの] voice      /じかに・直接(に)/一斉に・てんでに/もろとも(に) etc.
 このような、動詞の 文法的カテゴリーに にた 機能を もつ 語は、基本的に「-だ」の 述語用法も もたず、素材的 referential な 修飾関係(-な/-に)も もたずに、動詞述語に 先行して その 動作事態の おこりよう(様相)を 制限 または 限定する、という 構文上の 機能から 「様相詞」と よぶ ことに したのである。類型論的には、語順の《従 ⇒ 主》という 基本機能を 補強する ために、述語機能(用言複合体)の 要素(あゆひ)が 先行語(かざし)として「放出」された 副詞成分と かんがえられる(河野六郎1989「日本語の特質」)。「副詞」の 基本的な 成立は あたらしく、おおく 中世以降だと みられる という(浜田敦1957「中世の文法」)が、国学者の 『口語法講義』には みえてこない かもしれない。「情態(修飾)」的な ものか 「様相(限定)」的な ものか、山田孝雄らの 目を くらましてきたのは、新旧の 述語の「さま」の 修飾〜限定(ありかた)の 展開局面であろう。「(こころも) しのに」「(そでも) しほほに」といった 情態修飾句の 上古から、「はたして・やうやく」「かまへて・わざわざ」といった 動作(時間)様相・行為(意志)様相の (院政〜)中世・近世の 時代を へて、さらに「別々(に)・直接(に)」といった 対人(たちば)様相の 近・現代の 時代へ と、おおまかながら 「副詞」は、できごとに あらたな 着眼点・表現点を みいだしたのであり、その あたらしい みかた(観点)の ながれが まとまっていき、前代には なかった 品詞類が しだいに きりひらかれてきた のである。

 しかし 「最後の国学者」山田孝雄は、最終的には 古代の 復古「宣明」を 志向する からであろう、『平家物語の語法』『漢文の訓読 … 語法』などの 記述研究も、『概論』の 副詞の 組織自体には まったく 関与しない。文語と 口語に「語の差異」は あっても、副詞の「文法上の法格」に 差異は ないと 明言する(『概論』p.378)。それは 『論』にも おりこみずみの ことだったのであり、その 比較の 規準は、時代を とおして 不変の、論理的な 分類わく(フレーム)なのである。そのうえ 山田文法は、意義と 文法も、属性と 陳述も、無交渉に 峻別される。陳述副詞の 文法記述に 「意義の差」は 必要ないが、「初学の便宜の為に」と わざわざ ことわって 例示する 態度である。しかし、意義(語彙)と 機能(文法)との 峻別すべき 領域の あいだにも、文・連語 という《語の 場(環境)》のなかで 相互作用が あるからこそ、言語(語)の 変化も、言語表現(文)の 歴史も、生じるのではないか。せっかくの「厳密なる 二分(法)」の 論理的な 方法が、盲信・拡張適用による 猛進・一本調子に なるのではないか。

 山田文法も、学界通念の「近代的日本文法学の成立」(尾上圭介・斎藤倫明)と いうよりも、「最後の国学者」(古田東朔 伝承の、山田孝雄の 評判 世評)に よる 《国学文法の 理論的大成》と、研究史上の 位置を かえる べきではないか。「存在詞の きりはなし」「様相詞(時間・意志・対人)の みおとし」「希望の 喚体と 述体との 混乱」といった 基幹部分で、具体的な 記述状態と 潜在方向とを 分析して、歴史の 視座と 構図も、根柢から 批判しなければならない。国学文法とは、古道復興 古典尊重の 精神に もとづく 文法のことである。批判は 非難とは ちがうが、「西洋近代との 対決」の しかたも、学界の「常識」(野村剛史)は 基礎 土台から ゆらがないか。山田にも 自分にも、あまく やさしい。(この段 2018.08.13.加筆)

 ときと たちばの 様相詞が 事態名詞の 連体に たったり、意志と たちばの 様相詞が 動作名詞の 連体に たったりも するが、基本的な 様相限定用法を 名詞句化 nominalize する ことによって、複文事態を 単文的に 凝縮して 表現する 用法と おもわれて、基本からの 逸脱ではないと かんがえる。「やっとの 完成」は「やっと 苦労して たどりついた 完成」などの 短縮だし、「わざとの いたずら」も「わざと しくんだ (悪質な) いたずら」の 簡略だろう。ほかの 制限詞(限定+陳述)にも「せっかくの ご好意・もしもの 災害」など 凝縮連体用法は よく あり、反例には ならない。ただし、たちばの 様相詞は、名詞からの 転成が あまり 十分ではなく、形式 機能ともに 名詞性を のこしている。他の 様相詞も いちばん 主要品詞に ちかい 位置に ある 制限詞であり、転成の 程度についても 連続的に つながっている。もとの 品詞の 語形変化形と みなせる ばあいも ときおり まじるだろう。さきばしりだとの 批判は 覚悟の うえで、「成長株」と みこんで 用意した (下位)品詞である。とくに「たちば」の 様相詞については、いわば 人間関係の 他動である「使役」を 土台に、交互化・個別化・媒介化などの 表現は、複雑化する 社会に 必要性が たかまるだろうと みて、もとの 主要品詞に 保守的に 封じこめずに、近・現代に あたらしい (下位)品詞わくを 多少 さきどりして 用意した のである。

 品詞論自体、人間の つかう 言語に かかわる ものである 以上、歴史社会的に つくられる 制作物である。時代とともに 推移 変化し 展開する、エネルゲイアとしての 言語の うごきを もった システムであり、いわば 《いきた 組織》である ことが 理想なのである。

(この 様相詞の 節は、学界「常識」に 抗して、あえて 山田文法批判を おおはばに 増補した。2018.06.22.)



 つぎに 「決定詞」とは、つぎのような ものが 代表である。
[こと]:ある (とき)、さる (1日)、きたる (30日) / あらゆる (品詞)、いわゆる (連体詞)
[さま]:ほんの (気持ちだけ)、当の (事件)、例の (やりくち)、くだんの (用件)
[もの]:昨(9日)、明(11日)、翌(12日) / 故(田中氏)、本(学会)、当(劇場)、各(参加者)
ふつうの「連体詞」では 「この こんな」や「おかしな いろんな」などが いれられるが、前者「この こんな」は、先述のように 「指示詞」に 優先的に まとめられるし、後者「おかしな いろんな」は、語彙的な 意味が 明瞭に あり 活用しない だけなので、用法偏性の 状詞(形容詞)と みる。「花の 係長・雪の 肌・鉄の 意志」といった 比喩的な 慣用用法も、語彙的な 意味は はっきりしており、偏性名詞である。
 「決定詞」は、連体機能にだけ もちいられる 品詞(連体詞)という ことではない。名詞の 状態や 性質を 修飾する のではなく、名詞の とりあげかた = 存在の しかたを 決定=限定する(determinative) 品詞であり、比較的 とじた(closed) 語類と かんがえている のである。
 3行めの 「昨 明 翌 / 故 本 各」などの 漢語の 接頭的な 造語要素は、議論が ありうるが、独立の アクセントを もって 結合する 語だと みて、品詞のなかに いれた。「本学会」が 文法的に 1語か;2語か;という 問題は、アクセント的な 基準を どう みるか、ほんとは なやましいのだろう。数詞 #「十五 zyu: + go (*ngo)」は 1語か 2語か、「銃後 zyu:ngo」と 比較せよ、と いわれる。
# 無限に ことなり語の ありうる 数詞(数量名詞)が くみたて性、合成語〜連語(句)性を もつ ことは 必然的であり、いわば「1.5語」を 積極的に みとめるべき かもしれない。サピアも、「語の 心理的リアリティ」を つよく 主張する とともに、過渡的な ケースに まどわされる こともある とも いっている。漢語の 造語要素については、「新‐製品・旧-庁舎 / 無-知性・反-秩序・没-価値」などの なやましい かたちも おおい。「1.5語」などとも いうべき「音声面と 文法面との ずれ (記号の 非対称性)」を 連続的に アナログに かんがえるべき なのかもしれない。1語か 2語かと 分節的に ディジタルに わけられるのが 基本だとしても、こうした 事例を 過渡〜周辺的な ケースの ひとつと みるべきだろうか。膠着〜多総合的な 言語においては、積極的に 必要かもしれない。そうなら、「連体詞」は 接頭語に 連続する、語幹=語相当としての 品詞、という 森重敏の かんがえも、比較 検討が 必要。
 湯沢幸吉郎や 森重敏に 代表される 連体詞 拡大路線の 反動で、わたしの 決定詞は 縮小路線に かたむいた きらいも ある。へそまがりと いうか、バランス感覚と いうか。辺境〜境界現象 としては どちらも ありうる。意味的な 修飾ではなく、カテゴリー(わくづけ)的な 限定 という 性格は うごかせない ように おもうのだが、さて、社会の 必要は どっちむきか?

3)「制限詞」の システムを、語関係と 文関係との 上下 二段に、構想する ことを すこし 説明しておきたい。

 語関係の 制限詞とは、決定詞・程度詞・様相詞を さすのだが、決定詞が 名詞に かかり、程度詞が 形容詞に かかり、様相詞が 動詞に かかる という ぐあいに、関係する あいては 品詞的に だいたい きまっている。それにたいして、文関係の 制限詞とは、対照詞・評価詞・叙法詞を さすのだが、対照詞が 名詞に、評価詞が 形容詞に、叙法詞が 動詞に と、それぞれ かかわる ことが 中心と なりつつも、他の 品詞と かかわる 用法も けっして 排除は しない。語関係の 制限詞より 文関係の 制限詞は、関係の 独立性が たかいのである。

 対照詞:たとえば 少女Bの ような、… ⇒ たとえば 〜した とする。/ たとえば くらかった ばあい、……
 評価詞:さいわい あかるかった。   ⇒ さいわい 〜した とする。/ さいわい 晴天だった ばあい、……
 叙法詞:けっして いこうとしなかった。⇒ けっして おおきくは なかった。/ けっして 病気では なかった。

この 二段は 基本的には <語>と <文>(=節) という ことばの 分節に 対応している と かんがえられ、関係の 形式面から いえば、

    A) 語と 語との 関係:従属/包摂 関係 < 橋本「連 文 節」 時枝「入れ子型」
    B) 節と 節との 関係:対等/合同 関係 < 成章「うちあひ」 川端「句的体制」

という ような ちがいが ある。橋本進吉の「連文節」や 時枝誠記の「入れ子型構文」が 基本的に とらえられるのは、主要品詞の あいだの かざり−かざられ という 内容面での 従属=意味「包摂」関係 なのであるが、ここの 語の 制限詞の レベルの 関係も、主要品詞の 形式(ありよう)面での 従属=様相「限定」関係、つまり「様相 程度 決定」を 制限するとは みなしうる。それに対して、文・節の 制限詞の レベルの 関係は、川端善明の「副詞は 語的形態に 句(≒文・節)的体制を もつ」という ことばが 暗示する ように、「陳述」的な 設定(まえおき)節が 語的な 結晶と なった 制限詞と、後続の 主節とが、対等に 合同する 「うちあふ」関係(成章)、つまり 呼応して 制限する 関係 なのである。《従属:修飾〜補充》が 文の 内容=意味〜語格面での 関係なら、《制限:限定〜陳述》は 文の 形式=様相〜呼応面での 関係である。

 わかりやすく する ために、構文関係の 両端を まず おおざっぱに いえば、

    A) 統語 事態構造における 従属関係 : 従属 → 主要 に まとまり、
    B) 構文 制限構造における 陳述関係 : 制限 → 展開 へ ひろがる。

という、二重の 構文関係が 本流として あり、その 中間に、

    A) 統語 事態構造における 従属関係 : 内容 意味が 従属 → 主要 に まとまり、
    ab)統語 制限構造における 限定関係 : 形式 様相で 限定 → 実現 に まとまり、
    B) 構文 制限構造における 陳述関係 : 形式 呼応で 制限 → 展開 へ ひろがる。

            A) 従属=意味関係 : 従属─┬─内容
            ab)限定=様相関係 :    └─形式──語─┐
            B) 陳述=呼応関係 :          文─┴─制限

のように、限定関係が、形式的従属性と 語的制限性とを あわせもつ、過渡=仲介項として 存在する。表現過程に そって いえば、語と 語とが 語彙意味的にも 文法様相的にも まとまって、統語構造としての 連語(phrase)や 述語節(rheme)に 拡大し、設定(まえおき)節や (その 結晶としての 文の) 制限詞が 後続の 主節(clause)と うちあって、陳述構造としての 文(sentence)に 展開する、と いいかえても いい。
 三上章・南不二男の 文開閉・段階論に 関連づけて いえば、統語事態構造が 単式・A段階に、統語制限構造が 軟式・B段階に、構文陳述構造が 硬式・C段階に、後述の「承前詞・応答詞・間投詞」などの 構文付加構造が 遊式・D段階に それぞれ おおよそ 対応する。

4) 制限詞までは、語の レベルにせよ、文・節の レベルにせよ、文法的な 関係を とりむすんでいるが、このほかの particle(小詞 不変化詞 小片語)としては、文法的な 品詞と よぶかは やや まようが、通じあい communication というか、交話的 phatic な 機能に とんだ「小詞」は、まだ たくさん ある。つぎの「承前詞」「応答詞」「間投詞」などが 有名だろう。文の部分としては、(名詞的な)「よびかけ・さけび・あいさつ」などが <独立語>に はいり、この「承前詞」や「応答詞」は <評釈語>に はいり、「間投詞」は いわゆる「挿入句」とともに <挿入語>に はいる、という ぐあいに 文法的には 遊離 付加的だが、文表現的には、論理 心理面の 連結 潤滑的な、重要な はたらきを している。

・承前詞:そして それから / だから そこで / しかし だけど だって etc.

・応答詞:はい ええ うん / いいえ いや ううん / そう もちろん けっして etc.

・間投詞:えーと うーん(mmmm)とね あのー(ですね) っていうかねぇー etc.
 承前詞は、いくらでも 例を ふやせるし、論理分類も くわしく できる ことは じっさいに 国語教育で なされているだろう。文章論 連文論の 基礎的な 関係として 重視されて、よく 研究されている。しかし、文法的な (義務的)機能関係を とりむすぶ「つなぎ」(いわゆる 接続助詞)と、文章論的な (任意的)意味関係を つくりだす「承前詞」とは、性格を いっしょには できない。義務的だ という ことは 法則的で 制度的な 規則(ルール)だが、任意的だ という ことは、偶然性も あり 創意的な 創造作品でもある のである。承前詞の 分類を もっぱら 論理的に くわしく すればいいのか、多少 疑問を もっている。情意面(語感 文体 etc.)が やや 軽視されていないか どうか。なお、いわゆる「接続詞」は 国文法で よく つかわれているが、(英文法などの) 文法的な 接続詞と 混乱の もとだから、できれば 改称した ほうがいい。ついでに、文法補助語としての「接続詞」も、混乱を さける ために、しばらくは「つなぎ」とでも 別の 名称に しておいた ほうがいいと おもう。混乱しないのは 国語教育と 外国語教育とが 無関係な 証拠だが、関係を 密接に しようと 努力すれば、障害に なる。それに 意欲的な 『4の上』『形態論』でさえ、「つなぎ」と 「(つなぎの) くっつき」と 「接続詞」との、理論上の 混乱が 過渡期として のこされている。
 応答詞は、文法の どこに いれるにせよ、あいづち的な 用法も ふくめれば、はなしことばの 日常会話では ほぼ 必須であろう。日本語と 英語とでは 「あした いかない のですか?」といった 否定疑問文の こたえかたとしては ちがっていて、日本語では「はい、いきません。」と いうのに、英語では "No, I don't (go)." と 逆に なる ことは 有名だ。これは、日本語では 同意−不同意 という 人間の 意見の レベルに 対応する のに対して、英語では 肯定−否定 という ことがらの 事実の レベルに 対応しているのだ と かんがえる べきである。現代日本語の 階層構造に あてはめれば、日本語が B2段階の 意見レベルに あるのに対して、英語は B1段階の 肯否の「みとめかた」レベルに あるという ことに なる。「そう(です)ねぇ」などの あいづちは、応答詞と 間投詞との 隣接した 両義的な 用法というべきか。
 間投詞は はなしことばにおいて いわば 潤滑油の ように つかわれている。へたな 大学教師が 原稿を よみあげる ように ぜんぜん ないと、きいて かきとるのに ゆとりなく せわしないし、準備不足の 教師の おしゃべりの ように おおすぎても、散漫に ながれやすく みみざわりだ。座談記録などでは、雑誌や 本の かきことばでは 当然のように はぶかれる。座談の 当日は 議論沸騰という 雰囲気で 興奮気味だったのに、後日 情意的な 部分を けずって まとめた 雑誌では やや 冷静な 学者然とした 議論の ように かわっていて、その 落差に おどろいた 経験が ある。「アーウー宰相」と よばれた 首相は、あまり 演説は 上手ではないと 評判だったのだが、間投詞を はぶいてみると、そのまま 立派な 演説内容に なっていた のに対して、「立て板に 水」と 評判の 別の 首相は、その 演説を そのまま 新聞記事に してみると、「表現 流暢、意味 不明」と 評された ことが あった。はなしことばと かきことばとの きわだった ちがいを めだたせた エピソードであった。


第9章:補助詞の 普遍性と 個別性

1) 日本語の 補助詞は、後置詞と つなぎ(接続詞)と むすび(補助述詞)との 3種である。3種じたいは かなり 普遍的に みられる ことでも あり、とくに 説明しなくても 外国語学習で わかりきった ことである。説明より 例解のほうが わかりやすいと おもう。

・後置詞:に ついて/ついての に おいて/おける に 関して/関する / を めぐって/めぐる etc.

・つなぎ:が けれど から し / のに ので / くせに ために / ところ(が) ばあい(に) とき(に) etc.

・むすび:だ です である / のだ (べきだ) / ようだ らしい ダそうだ はずだ / にちがいない etc.
英語の 前置詞に対して 後置詞は 名詞の 格関係を 補強するのだし、英語の 接続詞に対して 日本語の「つなぎ」は 中止 条件関係から 節の 接続関係を 増強するのだし、「むすび」は 主文末に ついて、述語の 叙法的な 関係を 動詞の (基本)叙法から 拡大する ものである。日本語の「むすび」に 対応する ものは、英語では「助動詞」と よばれて 動詞の 下位分類と みられる。英語の 叙法的関係は 基本的に 動詞の 補助(動詞)化のなかで 進展した からだが、日本語の「むすび」は、動詞「ある」からも、名詞「よう そう はず」からも、助辞「の (べき)」の 独立化からも、句の 1語化「かもしれない」からも つくられていて、主文末という "構文位置" が 叙法的な 意味機能を うんだのである。
 「つなぎ」も、格助辞「が から」から テンスムード語形にも 接続する 独立性を もち、状詞(形容詞)の 語尾「けれ し」が 異分析的に 独立し、準体助辞「の」が 形式名詞に 独立した ところに、新来の 形式名詞「くせ ため ところ etc.」も くわわって、その 独立した 補助語に 接続機能が うまれたのだ。「つなぎ」の ばあいも 従属節末という "構文位置" が 接続機能を うんだ のである。これについて、範例性原理の 英語に対して、日本語は 連辞性原理(語順性)が はたらく 言語だからだと、河野六郎は 類型の 原理の 対照と みている。
 日本語の 後置詞も、英語の 前置詞も、本質機能は おなじような ものであるが、英語の "from" が "to come from Moscow" では いわば 連用で、"a letter from Moscow" では いわば 連体だが、隣接する 位置によって 構文的に あらわす だけで、形態的な 区別にまで あらわれない(定着しない) のに対して、日本語では「モスクワについて おもう」と いえば 連用の かたちであり、「モスクワについての おもいで」と いえば 連体の かたちである というように、構文位置(前置)だけでなく 形態的にも 区別して あらわす のである。日本語は 連用か 連体か の 区別を 義務的に 形態(形式対立)に あらわす 言語である のに対して、英語は 形態の 対立としては 注目しない 言語なのである。このさい、屈折的か 膠着的か、総合的か 分析か などの かたちつくりの ちがいに 直接は 関係しない ことにも 注意しておいた ほうがいい。"数" については、英語が 義務的なのに対して、日本語は 任意的な 言語である ことは 有名であろう。そのさいの、英語の "-s" と 日本語の「-ら/-たち」との 膠着性に それほど ちがいが ある わけでもなく、他項(おおく 無標項)と 文法的な 対立関係を むすんで つかうか、つまり 義務的に 選択するか どうかが 問題なのである。言語は、構文関係の 面で 普遍性 一般性を もつ とともに、「形態」の 対立 opposition を もつ ところが 個別的な 特質となり、言語ごとに 注目点が ちがうのである。なんども いう、形式が ではなく、形式の 対立が 問題なのだ。
補助詞の きりかた=わかちがきに ひとこと。「(に) ついて・(かも) しれない」のように、まえの 助辞を 支配〜結合する という みかたが ふつうであろう。前置詞は 格を 支配し、助動詞は 動詞原形 または 過去分詞形 etc.と 結合するのが 常識だろう。だが 日本語では「文法だけについて 〜 文法についてだけ」のように 「について」全体の 前後に 他語(助辞)がつきやすく、「文法にだけ ついて (かんがえる)」のように 「について」の あいだに わって はいる ことは しだいに 不自然に なっていかないか。「… らしい(様態) かもしれない 〜 … かもしれない らしい(伝聞)」のように 前後に つく ことは あっても、「…かも らしい しれない」とは これは けっして いわないだろう。もとの 結合とは ちがった 一体型の きりかたが、後置型の 膠着語の 補助詞によって もとめられている のである。前置詞と 名詞との あいだに 形容詞など 他の語が はいる 語順の 言語は きりかたを かえない。つまり、「について・かもしれない」という 後置詞や むすびの (膠着的)まとまりが うまれ、表記の わかちがきも 補助詞に かぎらず、いわゆる 文節式の きりかたに かならずしも したがう べきではない ばあいも ある。「かれは はらがたった。せけんに対して いいたいだけを はきだしたかった かもしれない のであった。」などは 許容される べきであろう。

2) この 3つは、後置詞が モノ系、つなぎが サマ系、むすびが コト系に それぞれ 属する とともに、単位関係としては それぞれ 語関係と 節関係と 文関係に あって、ほぼ 語から 文への 方向に 移行関係に ある ように みえる。文関係とは、わかりやすく いえば、現実との (陳述的な) 関係であり、叙法 modal 関係も はいる。英語の たとえば "as" は 前置詞でもあり、接続詞でもある。日本語の たとえば「と ともに」は、「かれと ともに」は 後置詞であり、「かれは こう いっている (の)と ともに」は「つなぎ」的である。「の」の 有無が 後置詞性と つなぎ性とを いわば 媒介し 移行する。「いまごろに なって ついた ところで」は 「つなぎ」であり、「たった いま ついた ところだ」は 「むすび」である。「あめが ふってきた ので/のに」は 「つなぎ」であり、「あめが ふってきた のだ」は 「むすび」である。
 ところが、「かれの ために」は 後置詞的であり、「かれが おくれてきた ために」は つなぎ的であり、「… に なったのは、かれが おくれてきた ためだ」は むすび的である と いちおう 区別できるが、この 3つには 意味的に 共通性が のこっていて、ぜんぶ 形式名詞(松下大三郎) または 吸着語(佐久間鼎)と みる 可能性も ある。つまり それぞれ 形式名詞なり 吸着語なりの 格用法、接続用法、述語用法、という ぐあいに 同一形式の 諸用法として 記述できる。じっさい 松下の「形式名詞」は、それ以上の 意味機能変化を 具体的に 予想できなかったから こう なづけたのであるが、他方 『口語法』(1930)の 頭注部に 「従来の九品詞では解けない」とも (先駆者の) 直観を かきしるしている。さきは みていたのだ。佐久間の「吸着語」は、英語の 関係代名詞に 匹敵する ような、文を「一括(吸着)」する 機能や 「文中における役割」にも 言及して その 諸機能の 特性について 研究を すすめるが、英語の「助動詞」に 対応する 「むすび(補助述詞)」の 機能については、日本語の 事実として 関連づけて 研究できておらず、やや 一面的な 機能の 整理に なっている。方法も、先進科学の 適用によって 演繹的 論理的に 日本語を 説明する 研究であって、用例も、その 解説の ためで、江戸川柳などから 適当に ピックアップされる のである。
 ただ 批判すべき 問題点は あるにしても、こうした あつかいを どれか ひとつに えらぶ というよりも、出発点的な 形式名詞の 状態なのか、過渡的に 半分 機能化された 吸着語の 状態なのか、それとも 機能を 確立させた 補助詞なのか、といった 成立過程の 進展状態の ちがう ものとして、くわしく みていった ほうがいい のではないか。現代語も、完成品ばかり ではなく、出発した ばかりの ものも あれば、目標に 移動中の ものも さきを あらそうし、到着まぢかの ものだって あるだろう。「ので のに / のだ」の ばあい、三上章は すべて「準詞」の 活用形と みて、過渡期における 意味の ちかさを 同一品詞と みたのであり、いわば 準詞は 「活用する 吸着語」だった のである。奥田靖雄は、「ので のに」は 複文接続の 機能、「のだ」は 叙法性の 機能 といった 特有の 機能が 明確に 分化し、別品詞として 確立したと みたのである。ただし 上位の「補助詞」(奥田の「つきそう単語」)としては 共通した 性格を もった 単語であり、三上の「準詞」とも 存外 ちかい のかもしれない。機能の 分化 確立を 「していく/してくる」の どっちから みているかの ちがいであって、「していく」さきの 目標は かならずしも 展望できていないが、「してくる」ばあいの 目標は ideal(理念的)には はっきりしている。わたしも、方向としての、理念としての システムは 奥田に 賛成であったが、奥田が 理念の ほぼ 実現した 確立期の 形式を みる たちばに おおむね たっていた とすれば、わたしは おおく、過渡期から 確立期を ゆききして、微妙な たちばを ゆれうごいていた。つまり 三上と 奥田との あいだを ゆらいでいた。

 上位の 補助詞という 概念と、下位の 後置詞(あとおき)・つなぎ・むすび という 3品詞の 概念とによって、両者の いいとこどりが できればいい と、むしのいい かんがえを いまは している。上位下位の 品詞概念は、論理的な ばかりでなく、歴史的な 概念でも あるのだ。

言語の 歴史的な 変化の 順序に 応じる ように、研究史も つぎの ように なる:松下大三郎の「形式名詞」の 発見を 出発点に おいて、佐久間鼎は、範囲は 副詞的用法にも 拡大した うえで、機能は 西洋語の 関係代名詞にも 匹敵する「吸着語」を となえ、奥田靖雄は 「むすび・つなぎ」という 補助詞の 品詞概念に 到達する。「研究は 研究史である」とは、奥田靖雄1996「現実・可能・必然(中)」の 末尾の ことばで、未来の 研究史への つながりの 希望であったが、「むすび・つなぎ」の 初期の 構想は かなり 有望だと おもう。にもかかわらず、『にっぽんご 4の上』『形態論』においては、「むすび(の くっつき)」は いちおう おくとしても、「つなぎ」と 「つなぎの くっつき」や「接続詞(=承前詞)」との 混同を のこした ままであり、条件形だけで (複文の)「つなぎ」の ない ままでは、学校文法の「接続助詞論」と くらべても みおとりする。奥田を 継承したい わかい ひとびとに 「研究は 研究史である」という ことばを おくって、さきに すすむ ように 希望したい。『4の下』に 相当する 複文論は、『あたらしい にっぽんご』の 刊行や 『にっぽんご宮城版』の 編集によっても おおわれてはいない。構文論グループの 共同研究の 論文の かたちにしか のこされていない。複文論こそ よみかた教育に 必要だった のではないか。教材化しないのは、もったいない。奥田の「研究は 研究史である」という ことばは、あるべき「世代交代」へ むけられていた のではないか。「新世代」の ひとふんばりを。

むすび) さきに 「形容詞 おおきい」と「副詞 おおきく」とを 別の 品詞に した ことに 反対しておきながら、一貫せず 矛盾だと 指摘されそうだが、はっきり 適用条件が ちがうのである。「形容詞」と「副詞」とは、どちらも 状態的な 語彙的な意味を もった 主要品詞の あつかいである。それに対して「つなぎ」と「むすび」とは、どちらも 構文機能的な 文法的な意味を もった 補助詞であり、文のなかでの「きれつづき」による 機能の 差が 優先して あつかわれるべき 補助品詞なのである。つまり 奥田は、主要品詞と 補助品詞との 基本の 存在条件の 区別を 混一したのである。じつは 《副詞》は、奥田靖雄に対する わたしの、ほぼ 唯一の 非妥協的な 批判点なのである。「まちのぞみ(文)」や「可能・必然表現」についても 批判は あるけれども、相対的で 妥協も しうる、記述の 方向の ちがいなのである。しかし 「副詞」に関しては、研究者として 一貫して 根柢から 批判しつづけた ことになる。おもえば ながかったが、ふりかえって 人生に くいは ない ・・・

教科書『にっぽんご 4の上 文法』を 作成する 過程で、副詞に関しても はげしい 議論が あったのだろうと いまなら 想像できるのだが、当時は そうした 事情を かんがえも せずに、『文法教育』(1963)から 『日本語文法・形態論』(1972)へと 副詞の あつかいを かえた 鈴木重幸さんが 国語研非常勤の 外部指導委員として (叙法性 modality 研究の ためにと) きてくださったのに対して、叙法副詞 〜 副詞の 研究上の あつかいかたについて 全身で といつめてしまった;その わかい 時代の おもいでは、かおを あからめずに おもいだす ことができない。「究極の 選択」を せざるを えなかった 鈴木氏の 胸中を おもんぱかる ゆとりは、当時は まったく なかった。くいは ない というのは、わかさに 反省が ない という ことではない。
 にもかかわらず、その 副詞を 描写詞に かえ、制限詞を 新設した ところを のぞけば、その他の 本稿の システムは、わかき 奥田靖雄1954「日本語の文法的クミタテ」の システム(著作集 言語学編(3) p.35-6)に そっくりである ことを 告白しなければならない。「代名詞」を 「指示詞」と とらえかえ、「助詞・感動詞」といった あつかいに、周辺的な 部類の 区分や なづけに ちがいが あるだけだ。
 やや こまかく なるが、「よ・ね」の 助詞は、間投詞か 感動詞に いれて、独立性の 差を 付言すればいい。大槻文彦に 先例が あるだけでなく、ここでは 形態的な 独立性より 構文的な 機能性のほうが 重要である。「か」の 助詞は、「疑問詞」とともに、「不定の 指示詞(コソア)」に いれるのが いい。疑問の「か」は、指示詞「かれ かく」の「か」の 疑問点指示に 由来するとの 林 大の 達人的直観を 信じてみたい(『万葉集大成』6「助詞」)。「とりたての 助詞」は、助辞性と 形式名詞性とを ゆらぐ ものだが、特別の 品詞は いらないと おもう。助辞は 「原辞論〜語構成論」の 対象で、とりたて機能じたいは 名詞の 格とともに 曲用システムで あつかうし、形式名詞は むろん 品詞としては 名詞の 下位区分であり、「つなぎ(ex. だけに)・むすび(ex. までだ)」との 関連が つけてあれば、さらに いい。「あそんでばかり いる / きれいにも さいた / ゆっくりとしか はなせない」なども、動詞 状詞 描写詞など 主要品詞の 用法として 記述すれば いいが、品詞を またぐ 助詞 (en-clitic 前接-語) と みとめた ほうが いい(簡潔) かもしれない。ただ 品詞別に 用法の 範囲や 詳細は ちがうし、制限詞の ばあい 「もし(も)・おそらく(は)・せめて(も)・本当の話(は)」などと いえても、慣用的な 付加であって、選択の 可能な システムではない。

 奥田靖雄の 品詞システムの 背後には、V.V. ヴィノグラードフが 集成した ような 文法の 伝統が ひかえているし、一方では E. サピアが、古典学習としての 文法と そこにおける 品詞の 論理的な 固定観念を 批判しながら、諸言語には 形式的な 区分に もとづいて 独自の しくみが そなわると 主張する ことにも つよく 共感するのだが、この みためは 反対の 両者が、かんがえぬいた 労作においては 本質的な 部分で おおきく 一致してくる ことが あり、感じいる。奥田の「を格連語論」つまり「他動構造の システム」が、ヴィノグラードフの 連語論の 構想に もとづく ことは すでに いわれているが、サピア的に いいかえれば、「もの(対象)を 表現する 《根源的 fundamental な 形式》の パタンと タイプ」と なるのだ。感動的な であいが あった のではないか。質の たかい 伝統と、それに 対する 批判とが、いつも 必要なのだ。

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 この 文章は、奥田靖雄への、V.V. Vinogradov への、E. Sapir への、20世紀の 巨匠への オマージュとして かかれた ことになる。
 ……… 同時代において 孤立しがちだった 連帯を、過去の 巨匠に もとめかえしてしまった という ことか。


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【参照の 典拠 : 基礎文献】

サピア,エドワード1921『言語 ―― ことばの研究序説』(原文 英語。木坂訳など 市販訳3種 あり。#)
 # サピアの「古典精神 classical spirits」の 理解は、最初の (新村出+)木坂千秋訳が いいか。
   ブルームフィールド ソシュールの 形式観や 構造観から 自由に よむと、ひらける 視界と 眺望。
ヴィノグラードフ,ヴィクトル V.『ロシア語 ―― 語をめぐる 文法学説』(原文 ロシア語。1947, 1972)

奥田 靖雄1953『正しい日本文の書き方』(春秋社。民科[重幸・宮島・篤司]の 共同作業を もとに 成稿。
                     学説史的に、まえがき、動詞のカワリカタの 章が 重要)
言語学研究会編1983『日本語文法・連語論(資料編)』(むぎ書房。解説も 奥田の 口述らしい。)
奥田 靖雄1984『ことばの研究・序説』(むぎ書房。1984年12月刊。1985年1月、改正本「刊行」)
『奥田靖雄著作集 言語学編 全3巻』(2015 むぎ書房。上記の 書籍は いま刊行の 著作集には 未収録。)
鈴木 重幸1972『日本語文法・形態論』(むぎ書房。序説や 副詞の 一部も、奥田の 執筆/口述だろう。)

冨士谷成章1778『あゆひ抄』(翻刻は『あゆひ抄新注』風間書房など。影印も 勉誠社文庫に あり)
大槻 文彦1897『廣日本文典』(自家蔵版。形容詞(形状言)、感動詞(又 詠嘆ノ詞)、参照)
山田 孝雄1908『日本文法論』(寶文館)
―――――1913『奈良朝文法史』(寶文館。1954 改訂再刊)
森 重  敏1959『日本文法通論』(風間書房)

佐伯梅友編1955『萬葉集大成 6 言語篇』(平凡社。林論文 収録)
浜 田  敦1957「中世の文法」(『日本文法講座3 文法史』明治書院)

松下大三郎1928『改撰 標準日本文法』(紀元社。1974 勉誠社 復刊)
佐久間 鼎1940『現代日本語法の研究』(厚生閣。1956 改訂版。末章が 吸着語)
三 上  章1953『現代語法序説』(刀江書院。1972 くろしお出版 増補復刊)
南 不二男1974『現代日本語の構造』(大修館。第4章 文の構造)

河野 六郎1989「日本語の特質」(『言語学大辞典2 世界言語編 中』「日本語」の 総論部、三省堂)


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