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限定副詞の機能

                        工 藤  浩


  1 従来の研究と本稿での定義
  2 限定副詞の種類とその用法
  3 接続詞との関係



 副詞は山田孝雄1908以来、情態副詞・程度副詞・陳述副詞の三つに、通常下位区分されている。しかし実際に副詞の用例にあたってみると、この三区分のいずれに属すべきか、所属の明らかでない例は少なくない。副詞は、用言における活用や、体言における格変化(格助辞の膠着)のような文法的語形変化を基本的にもたず、その単一の語形態に構文的機能がやきつけられた品詞である。副詞の下位区分は、構文的機能の研究の進展にともない、さらに深化され精密化される余地を残しているように思われる。本稿にとりあげる「限定副詞」もそうした下位区分の試みの一つであって、本稿は、「限定」の機能をもった副詞について実例に即して検討するとともに、他の品詞(の下位類)との相互関係にも言及しようとするものである。


1 従来の研究と 本稿での定義

 副詞の下位区分の一つとして「限定副詞」を立てたのは、渡辺実1957が最初であろう。
    ・せめてこの子にだけはこんな苦労をさせたくありません。
の例をあげて「ある語の表わす素材概念を限定し、その素材に対する話し手の価値評価を表わす一群である」と規定し、「言わば概念誘導の副用語」だとも述べている(p.94)。渡辺実1971では、限定副詞という名称は見られないが、「誘導副詞」の一種として、「誘導関係における誘導対象は、何も一つの叙述内容に限られるわけではなく、単なる素材概念を誘導対象とする場合もある」と述べて、
    ・せめて半額でも融通してもらえませんか。
    ・おまけに次男まで戦争にとられてしまいまして………。
の二例があげられている(pp.336-7)。
 こうした渡辺説に言及しつつ、市川孝1976は「限定の副詞」として、
    ・わたしは夏よりもむしろ冬が好きだ。
    ・あなたに出来ない問題が、ましてわたしに解けるはずがない。
    ・A、B、Cのうちから、たとえばAを取り上げる。
などの例をあげ、「文中のいろいろな筒所に用いられて、なんらかの対象を取り上げることによって、それ以下の叙述を誘導する」ものと説明している(pp.238-9)。これは、さかのぼって市川孝1965では、「とりあげ方を規定する辞(副詞)」と名づけられ、「対象をとりあげるについての、主体の、なんらかの立場の表現」であると説明されている。
 ところで、「限定」という用語は、もともと時枝誠記1950によって、いわゆる広義の副助詞───準体助詞・係助詞をも含めた副助詞───の機能について言いだされたものであり、その後、宮地裕1952、井手至1957、梅原恭則1973等に受けつがれて検討が加えられてきたものである。そのうち、たとえば宮地裕1952では、「一般の『修飾』が種と類との客体的な概念相互の関係であるのに対して、『限定』は、いはゞ類と類との間に於いて、或る体言が主体によつて選出され認定されてこゝに待ち出されたのであるといふことを表現する機能である」(p.33)と定義されている。市川孝が「とりあげ方を規定する」というのは、内容的にはこの宮地裕の定義と同じと認められる。つまり、限定副詞とは、いわば副助詞と同様の機能をはたす副詞である。渡辺実のあげた例が三例とも「せめてこの子にだけは」「せめて半額でも」「おまけに次男まで」のように副助詞と対応して用いられた例であることも、その共通性を端的に示している。[注1]
 そうだとすると、たとえば
    ・ただ君にだけ知らせておく。
のように用いられる「ただ」も限定副詞と認められることになろう。じっさい「ただ」は「だけ」とともに、知らせる相手として「君」を、他の(表現されていない)「彼」とか「彼女」など同類のものを排除する関係でとりたてている。ところで、この例文の場合における「君(に)」と「知らせておく」との、文の線条性にそったいわばタテの関係を、一般に、連辞的 syntagmaticな関係と呼ぶのに対して、表現されなかった「彼」「彼女」などと「君」とのいわばヨコの関係を、一般に 範列的 paradigmaticな関係と呼ぶ(鈴木重幸1974 マルティネ1972など)。この語を用いて言いかえれば、「ただ」と「だけ」とは相まって、範列的な関係にある語群(以下、範列(語群)と呼ぶ)との対立関係の中で、「君」という語を排他限定的にとりたてる機能をはたしていると言える。また市川孝のあげた
    ・わたしはよりもむしろが好きだ。
の場合は、「むしろ」は「冬」を、範列の一要素「夏」との二者択一的関係の中でとりたてる。この場合、範列要素「夏」は同時に連辞的関係にもおかれている。「むしろ」はこういう場合が多いが、もちろん、
    ・彼女はむしろ父親に似ている。
のように、対立する範列要素が明らかな場合は、表現されないこともある。このようにして、本稿でいう限定副詞とは、
    文中の特定の対象(語句)を、同じ範列に属する他の語とどのような関係にあるかを示しつつ、
    範列語群の中からとりたてる機能をもつ副詞
と定義される。この機能はいわゆる副助詞と共通していて、同一文中に共存し対応して用いられることも少なくない。限定副詞の文中での位置は、「むしろ」のように比較的自由にいろいろな筒所に用いられるものもあるが、「ただ」や「たとえば」などのように、とりたてる対象の直前に位置するのを原則とするものが多い。


2 限定副詞の種類と その用法
 限定副詞としては、次のような種類が認められる。以下見出しうるかぎり、副助詞と対応して用いられた例をあげることにする。[注2]

A 排他的限定───ただ・単に・もっぱら・ひとえに
 (1) 私は何千万とゐる日本人のうちで、たゞ貴方に、私の過去を物語りたいのです。(こころ)
 (2) 私はたゞ男女に関係した点についてのみ、さう認めてゐたのです。 (こころ)
 (3) 彼は吉田軍曹がただ自分のことばかり考えている人間だということをよく知っていた。(真空地帯)
 (4) 大きな肉の塊としか見えなかつた。  (破戒)
 (5) しかし丑松が連太郎の書いたものを愛読するのは、の理由からでは無い。(破戒)
 (6) 彼は今単に一つの交渉を持つて来ただけの話であつた。(闘牛)
 (7) 単に旅の疲れだけではない。         (シナリオ砂の器)
この排他的限定というのは、例(1)〜(4)のように、副助詞のダケ・ノミ・バカリ・シカなどに対応するもので、範列語群との対立の中で、その語句ダケと範囲を限定し、その他を排除するものである。「ただ」も「単に」もともに、(5)(7)の如くその範囲の限定を否定する用法にも多く用いられる。また、(6)の「単に」の例にうかがわれるように、この排他的限定用法は、対象を〈たいしたものではない〉とするマイナスの価値評価性をもちやすい。
 (8) 一歩世間に出れば、ただ単に貧乏な一人のインテリに過ぎないのではないか、という疑いをさえも感じた。    (人間の壁)
のように「………にすぎない」と共存する例はその顕著な例であろう。副助詞と共存していないが、次のような「もっぱら」や「ひとえに」もこの類に入れてよいと思われる。
 (9) わが分隊長が専ら食糧を語つたのは、無論これが彼の最大の不安だつたからであらう。(野火)
 (10)どうやら彼は専らこの作業のため、こゝヘ来てゐるらしい。(野火)
 (11)今回のことは、ひとえに家庭教師であったわたくしの教育の至らなさでございます。(シナリオ華麗なる一族)
このほか、「もっぱら」に似たものとして、
 (12)ひたすら一途に)文学研究に没頭した。
のように用いられる「ひたすら」「一途に」にも排他的限定性が認められるが、これらは意志動詞と結びついてそれを意志の面から修飾する性格を顕著にもっていて、次のような用法(変形)が可能か否かに差があらわれる。
 (9')  わが分隊長が語つたのは専ら食糧(のこと)だつた。
 (12')*没頭したのはひたすら一途に)文学研究だ。
この「ひたすら」「一途に」は、「一生懸命」「あえて」など、動詞を意志態度の側面から修飾する(情態)副詞の一種とみるべきだろう。

B 選択指定───まさに・まさしく・ほかでもなく
 (13)この莫大なる力の源泉は、正に第五階級の知性の中にこそある。(原子党宣言)
 (14)実は、これ〔(引用者注)文体侮蔑の風潮〕は、現実について現実的に語る人が、いよいよ少なくなったというまさにそのことなのだ。(私の人生観)
 (15)相手が切られたのはまさしく自分の小手先によってである。(私の人生観)
 (16)貴女の犯罪の出発は正しく愛の欠乏から起きたものと判断します。(シナリオ約東)
 (17)いま日本の教育に課せられている問題は、ほかでもなくこの土台の切り替えをふくんでいるのである。(ものの見方について)
ここで選択指定というのは、助詞のハとガの比較でよく問題にされる、「だれが当番ですか───ぼくが当番です」のような例における助詞ガの機能に相当するものである(鈴木重幸1972 p.237)。(13)の例では「まさに」は「こそ」とともに、「第五階級の知性の中に」という部分を、他の範列語群をかえりみず指定的に強調している。(14)では「そのこと」という繰り返しの指示語句とともに、「現実について……少なくなった」の部分を指定的に強調している。(15)(16)(17)には形式上の特徴はないが、それぞれゴシックの部分を指定しているものと解される。ただし、これらは「絶対に」「もちろん」「明らかに」など述語の断定のムード(法)を強調する陳述副詞と極めて近く、境界が徴妙であることはいなめない。

C 特立───とくに・ことに・とりわけ・わけても・なかんずく・なかにも
 (18)春琴の強情と気儘とは斯くの如くであつたけれども特に佐助に対する時さうなのであつて………(春琴抄)
 (19)「禁止」"verboten"は、ドイツの秩序を守るためのドイツ人得意の言葉で、それは特にナチスの天下横行していた。(ものの見方について)
 (20)人間の子供を教育するには、それだけの手数をかけなくてはならないのだ。殊に小学校の六年間、人間の基礎をかたちづくる一番大切な期間である。(人間の壁)
 (21)謙作と石本とは以前からもよく知つてはいたが、取り分けその時から親しくするようになつた。    (暗夜行路)
 (22)「鍋わり」と人人の呼んで居た渕わけても彼の気に入つて居た。(田園の憂鬱)
 (23)私は元来動物好きで、就中大好だから、……… (平凡)
 (24)切米取の殉死者はわりに多人数であつたが、中にも津崎五助の事蹟、際立つて面自いから別に書くことにする。    (阿部一族)
この特立というのは、範列語群の中から特別のものとしてとりたてるもので、対象の語句をコレハと排他的にとりたてる場合[(19)(20)(22)(23)(24)]も、コレコソガと指定的にとりたてる場合[(18)(21)]もある。(22)の「わけても」は、とりたての対象「…渕は」に後置された例であるが、この用法は、
 (25)多い青年の中からかうした男を特に選んだ芳子の気が知れなかつた。 (蒲団)
 (26)家のこと───芳子のことが殊に心配になる。  (蒲団)
など、他の語にもある。ただ、この特立に属するものの中で「とくに」「ことに」「とりわけ」の三語は、
    ・数学がとくに好きだ。
    ・この作品にことに心ひかれる。
    ・きょうはとりわけ暑い。
の如く、状態性の述語文に用いられて、名詞句の後、状態語の前に位置する場合「数学」「この作品」「ぎょう」を待立するとともに、「好きだ」「心ひかれる」「暑い」という状態の程度をも特別のものとして限定する機能をもち、
    ・数学が 非常に最もことのほか 好きだ。
などの程度副詞に近づく(市川孝1976)。しかし、程度副詞の方が状態性用言にのみ関係するのに対して、特立の「とくに」などの方は状態性用言をのみ限定するものではない。その違いは形式上、次のようなひっくりかえしの名詞述語文に用いられるか否かという点にあらわれる。
    ・好きな科目は│とくに │数学だ。
           │*非常に│

    ・心ひかれるのは│ことに│この作品だ。
            │*最も│

    ・暑いのは│ とりわけ │きょうだ。
         │*ことのほか│

D おもだて───おもに・主として
 (27)初めは時雄が口を切つたが、中頃から重に父親と田中とが語つた。  (蒲団)
 (28)この作品を論じたのは、主にコンミュニズムに近い立場を持つている文芸批評家たちであつた。     (火の鳥)
 (29)重役陣や製作陣の御助力を得て、主として財政的な方面で力を洋ぎたい、というような語を彼はした。     (火の鳥)
 (30)その離合集散の動機は、理窟にあるのでも政策にあるのでもなく、主として人間関係にある。(ものの見方について)
これは、範列語群の中から主要なものとしてとりたてるものであり、Cの特立の一変種と見られる。ただ、そのとりたて方はすべて指定的であって、特立のように排他的な「は」と対応する例はない。また、
    ・この作品に主に主として)人気が集まった。
の如く用いられても程度副詞化しない。

E 例示───たとえば
 (31)だから、骨董という代わりに、たとえば古美術などといってみるのだが、これは文字通り臭いものに蓋だ。   (私の人生観)
 (32)偉い兵法家というものは、当時にすれば、たとえば、上泉伊勢の守のような人物を言うので……… (私の人生観)
これは、副助詞「など」や助動詞「ような(に)」に対応するもので、範列語群の中から対象の語句を具体例・代表例としてとりたてることを表わす。

F 比較選択───むしろ・どちらかといえば・いっそ
 (33)仕事は、才能よりむしろ忍耐力で進めて行くものでね。(シナリオ砂の器)
 (34)思想は貧困であるどころかむしろ過剰の状態にある。(ものの見方について)
 (35)学会の中心は、君は別だが、どちらかといえばぼくら経済人グループより、教育者のほうが多かった。  (シナリオ人間革命)
 (36)消極的な、どちらかといえば、弱く柔かい性格には、この心配が大いにあるのである。(ものの見方について)
 (37)そんな平凡な生活をする位なら寧そ首でも溢つて死ン了へ(平凡)
 (38)いっそ碗は、生涯を幽居に暮した方がよかったかもしれぬ。(シナリオ婉という女)
これは、他の対照的な語句と比較して、それヨリこちらノホウガと、対象の語句をあえて二者択一的に選びとることを表わすものである。(33)の「むしろ」の例では、「才能」と比較して「忍耐力」が選びとられている。(35)の「どちらかといえば」の例では、学会の中心に多かった主体として、「経済人グループ」との比較の上で「教青者」が選びとられている。(37)(38)の「いっそ」もその点はほぼ同様だが、ただ「いっそ」の場合は、それだけでなく述語のムード(法)にも関係をもつ。共存しうる述語のムードはおおむね、意志(-ウ)・希望(-タイ)・命令や、適当(-タライイetc.)など、実現を期待するものに限られる。つまり陳述副詞としての性格をあわせもつものと考えられる。

G 類推───いわんや、まして
 (39)自由党の名士だつて左程偉くもない。況や学校の先生なんぞは只の学者だ。(平凡)
 (40)平生さへ然うだつたから、況や試験になると、………  (平凡)
 (41)告白・・それは同じ新平民の先輩にすら躊躇したことで、まして社会の人に自分の素性をさらけださうなどとは、今日迄思ひもよらなかつた思想なのである。(破戒)
 (42)書いたものを愛読してさへ、既に怪しいと思はれて居るではないか。まして、うつかり尋ねて行つたりなんかして………もしや……… (破戒)
ここで類推とよんだものは、顕著に異なった二つの場合を比較して、〈他方の場合サエそうだから、以下の場合ナドハいうまでもなく〉という関係で、とりたてるものである。この類推を表わす「いわんや」「まして」には、「なんぞ・など・なんか」のような副助詞と共存する点に端的にあらわれているように、対象に対する軽重の価値評価性がまとわりついているが、次のようなものになると、一層あらわになる。

H 見積り方・評価───少なくとも・せめて・精々・たかだか・たかが
 (43)ばかに若くみえるね。少くともハワイあたりから帰つて来た手品師くらゐには踏めますぜ。(あらくれ)
 (44)彼にはそんな事が一目に少くとも一二度必ずあつた。(田園の憂鬱)
 (45)せめて母上だけには、米のお粥をあげたいが……… (シナリオ婉という女)
 (46)せめて一日に二時間くらいでも、特設学級をつくって、教育をあたえてやりたい。(人間の壁)
 (47)せいぜい牛相撲ぐらゐの時代なのだ、いまは。  (闘牛)
 (48)社会学・心理学・人類学などといっても、学界に独り立ちしてから、せいぜい一世紀ないし一世紀半の歴史をもつにすぎぬ。 抵抗の科学)
 (49)わが国体の尊厳は、たかだかエチオピア国体の尊厳と同一レベルだということになる。          (革命期における思惟の基準)
 (50)彼らはたかだか自己のいい逃れをやっているにすぎない。(同上)
 (51)たかが博打くらいで、そうそう長いことぶち込まれとってたまるかよ。(シナリオ旅の重さ)
 (52)牛の二十頭や三十頭、たかが二三目喰はすくらゐのものにはこと欠きませんよ。(闘牛)
(43)(44)の「少くとも」は、「ハワイあたりから帰って来た手品師」や「二三度」の部分を、〈最低限の見積り〉として取りだすことを表わしている。(45)(46)の「せめて」も同様に、「母上」「一日に二時間(くらい)」の部分を最低限の対象として取りだしている。が、「せめて」の場合はそれにとどまらず、例文の「たい」の部分に波線をつけて示しておいたように、述語のムードにも関係をもつ。述語は、希望のほか命令・依頼・意志や、当為(…べキダ・…ナクテハナラナイetc.)など、広義の願望(実現の期待)にほぼ限られる。前述した「いっそ」と同様、陳述副詞と限定副詞との二面性をもつものと考えられる。
 (47)(48)の「せいぜい」と(49)(50)の「たかだか」とは、「少くとも」「せめて」とは逆に、対象の語句を<最大限の見積り>として取りだすことを表わすものである。しかも、
    ・最大限最高)    │五百名収容できる部屋
    *せいぜい(*たかだか)│

    ・せいぜいたかだか)  五百名しか収容できない部屋
の如く、価値評価について中立的な「最大限」「最高」などとくらべてみれば明らかなように、「せいぜい」と「たがだか」には、対象を〈たいしたものではない〉とするマイナスの価値評価性が含まれている。(47)の例では「ぐらい」、(48)(50)の例では「………にすぎぬ(ない)」と相呼応して用いられていることも、それを裏づけている。
 (51)「たかが博打くらいで」(52)「たかが二三日喰はすくらゐ」のように用いられる「たかが」になると、もはやマイナスの価値評価そのものを表わすと言うべきだろう。「せいぜい」「たかだか」との違いは徴妙だが、たとえば次のような、末来のできごとの数値を<予想>する意味の文の場合、
    ・明日は│ せいぜい│百人ぐらいしか集まらないだろう
        │?たかだか│
        │*たかが │
の如く「たかが」は用いられない。これは、「たかが」が見積りを表わすものではなく、すでに確定した数値に対して評価を加えるものであるためと考えられる。したがって、未来のできごとに関するものであっても、話し手にとって確定的であるか、または数値の予想を問題にしない場合は、「たかが」も用いられる。たとえば、次のように。
    明日の会は、たかが五六十名の小さな会合だ。(………なんでしょう?)
 なお、以上述べてきたところでは、評価性をもつものは、(8)の「ただ」「単に」も含めて、マイナスの評価を表わすものばかりである。プラスの評価を表わすものをしいて求めるとすれば、
 (53)さうか。流石インテリ物わかりがいゝ。(野火)
 (54)工作の時間になると、浅井の器用さはおどろくべきものだった。さすがは大工の子だと思われた。(人間の壁)
のように用いられる「さすが(は)」が問題になろうが、これは、
 (55)流石に先輩の生涯は男らしい生涯であつた。  (破戒)
 (56)山田芳子はやつぱり相当の役著である。 (火の鳥)
のように用いられる「さすがに」「やっぱり」などとともに、文の叙述内容全体に対して、それが世間の評判や話し手の予期に合致していることをあらかじめ注記する「註釈の誘導副詞」(渡辺実1971)の一種と見るべきであろう。[注3]

H'そのほか,対象が数量名詞(数詞)に限られるものであるが、評価を表わすものとして
 (57)たったあれだけの短い言葉が、子供たちを仕合せにしているのだった。(人間の壁)
 (58)私は世の中で女というものをたった一人しか知らない。(こころ)
 (59)それはわずか三十円足らずの差額にすぎなかった。 (人間の壁)
 (60)どんな大都市も僅々数時間にして廃墟となり、……… (偉大なる夢)
などがある。

H" また、次のような数詞限定の用法に立つものは、〈見積り方〉の一変種として位置づけられるかもしれない。
  〈概数 表示〉およそ百米ぐらい  ほぼ千人ほど  だいたい一時間ばかり
  〈無端数表示〉ちょうど百メートル  ぴったり千人  きっかり一時間
前者の概数表示の用法には副助詞が対応しているが、後著には対応する副助詞がなく、その欠を補うかのように、
    百メートルちょうど  千人ぴったり  一時間きっかり
の如く、数詞に後置され、副助詞相当の用法にも立つ。ところで、このH'とH"は従来、組みあわされる相手が数量名詞という体言であるところから連体詞とされたり(たとえば湯沢幸吉郎1953)、あるいは、「ずっと昔」「もっと東」など、相対的な幅をもつ時間空間の体言を程度限定する程度副詞と一緒にして、程度副詞と扱われてきた。たしかに、何と組みあわさるかという関係の形式の面からは、連体詞とすることにも筋がとおっているが、一方、どのような関係で結びつくかという関係の内実の面では「たかが」「せいぜい」「少くとも」などの限定副詞と共通の性格をもっていることも見のがせない。また、程度副詞の特殊用法と見なす考えは、数量の限定も広義の程度量の限定の一種だと見なしうる限りにおいて合理性をもつが、「たった」「およそ」「ちょうど」の類は、
    *たった│おもしろい  *およそ│美しい  *ちょうど│きれいだ
     ずっと│        かなり│      ずいぶん│
など、形容(動)詞と組みあわさってその程度を限定するという、程度副詞の基本的用法をもたないし、また逆に、基本的な程度副詞の方は、
     たった│ひとつだけ   およそ│十分ほど  ちょうど│一万円
    *ずっと│       *かなり│     *ずいぶん│
など、数詞の限定用法をもたない。このように、両者の構文的機能は基本的に異なっている。
 いずれにしろ、対象を数量名詞に限っての特殊な用法であることにはかわりはなく、品詞論的には問題の残るものである(工藤浩1974)が、構文的関係としては、限定副詞の構文的機能の一変種と見なしうる性格をもつことを指摘しておきたい。


3 接続詞との関係

 前節で、限定副詞の用法について検討してくる中で、程度副詞や陳述副詞など、他の副詞との相互関係については、そのつど簡単ながらふれてきた。最後にもう一つ、すでに市川孝1965、1976で言及されていることであるが、接続詞との関係について述べておかなくてはならない。すなわち、限定副詞が
 (61)民族優秀の理論が、だんだんに国民特に知識層に食い込んでいって……(ものの見方について)
 (62)或る超自然的な存在例へばによる支配を………(野火)
 (63)ウチナンチュウのとりわけAサインのおんなへ。(シナリオ極私的エロス)
 (64)妻でもなくまして子供もない仲で、意地でも別れないなどというのは、おかしいじやないかねえ。(シナリオ華麗なる一族)
 (65)これは教育ではありませんむしろ教青を破壊するものであって、………。(人間の壁)
などの如く、二つの並立する語・文節・節・文の中間に<位置>する場合、一見、接続詞とも見られるようになる。
 この現象は次のように考えられる。───限定副詞とは、文中の特定の部分を、それと範列的な関係にある他の項との関係をつけつつ、その語群全体の中からとりたてる機能をもつ語であった。それに対応させて言うなら、接続詞とは、同一の文章の中に連辞的に、並立して並べられた二項───語・文など───の関係をつけつつ、「接続」する語である。つまり、限定副詞と接続詞とは、範列的か連辞的かの違いはあるが、ともに他の項との関係づけを表現するという共通点をもっている。ところで、限定副詞によって関係づけられる範列的な関係にある他の語句や、とりたての母体である上位概念の語句は、同一の文章中に表現をうける場合もあれば、うけない場合もある。表現をうけない場合はもちろん、表現をうけた場合でも、
    ・日本の中でもとくに東京は………
    ・彼は詩人というよりむしろ告白者だ。
のように、二項が並立関係をなさない場合は、接続詞性が問題になることはない(前節であげた用例はもっぱらこうした例である)。ところが先の(61)〜(65)のように、接続詞が占めるのと同じ "位置" に限定副詞が立った場合、それが表わす範列的な関係は同時に連辞的な(接続)関係にもなり、結果的に限定副詞が接続詞の機能をはたすことになるのである。この間の事情は、
    ・東京に行った。 / 電話でなり知らせる。
の如く、限定を表わす副助詞「も」(共存)や「なり」(例示)が、
    ・東京に大阪に行った。 / 電話でなり手紙でなり知らせる。
の如く、他の項とともに表現をうけた場合、結果的に、並立助詞の機能をも同時に果すようになるのと同様だと考えられる。(参照 森重敏1954,1957)
 もちろん、結果的にとはいっても、こうした接続詞の位置に立つ用法にしばしば用いられるうちに、その接続詞的機能が固定化されて、品詞としても移行・転成する語が生ずることは、当然起こりうることである。「ただ」という語がその一例であって、限定副詞機能とともに、「但し」の意味に支えられた接続詞機能を確立している。そしてこの「ただ」という語の場合では、たとえば、
 (66)先生は何とも答へなかつた。たゞ私の顔を見て「あなたは幾歳ですか」と云つた。(こころ)
 (67)御家の中を自由に往来して、息も切れなければ、眩量も感じなかつた。たゞ顔色丈は普通の人より大変悪かつたが、………(こころ)
のような例が、限定副詞と接続詞との二面的・中間的な様相を呈する例として存在する。品詞の「境界」とは、つねにこのようなものではあるまいか。

 このように考えてくれば、本稿のはじめに引用した渡辺実1971にあげられている「おまけに」という語もまた、限定副詞の典型的な例というよりは、限定副詞と接続詞との二面性をもつものと考えられる。これは、
 (68)おまけに次男まで戦争にとられてしまいまして………。(渡辺実1971)
 (69)それにあゝ見えてゐて思ひの外親切気のある人ですから、ボーイでも水夫でも怖がりながらなついてゐますわ。おまけに私お金まで借りてゐますもの。 (或る女)
のような「まで」と共存する例で知れるように、いわば〈極端な例の添加〉を表わすものであり、類例としては、
 (70)凡そ芸事は慢心したら上達はしませぬ、あまつさへ女の身として男を捉へ阿呆などゝ口汚く云ふのは聞辛し(春琴抄)
のような「あまっさえ」があげられる。これらは、"極端な例"としてとりたてる点では限定副詞的であるが、ほとんどの場合接続詞の位置に立って"添加"の接続関係を表わす点では、「しかも」「そのうえ」などの添加の接続詞と共通した性格をもっているのである。

【注】
〔注1〕以上の記述は、諸説の検討としては粗略である。副助詞(および限定副詞)の機能については、このほか、鈴木重幸1972の「とりたて」、森重敏1954、1957の「群数」という名の性格規定があって、本稿に大きな影響をあたえている。なお「限定」という名称は、ふつうたとえば、ユックリ歩クのユックリは歩キ方を限定する、のように「修飾」と同義に用いられることがあり、あまり好ましいものではないが、いまは大勢にしたがう。

〔注2〕以下にあげる用例は、国立国語研究所で、文学作品・論説文・映画シナリオなどから採集した副詞力ードを主として使用した。出典等については、国立国語研究所年報16〜18および27を参照。

〔注3〕注釈(の誘導)副詞については、限定副詞との関係でまだ述べなければならないことが多く残されているが、これについては別稿を用意しなければならない。

[引用文献]
市川 孝1965「接続詞的用法をもつ副詞」(お茶の水女子大『国文』24)
────1776「副用語」(岩波講座『日本語6 文法J』)
井手 至1959「対比的限定と特立的限定」(『人文研究』8-1)
梅原恭則1973「副助詞の構文的職能と助詞の職能の系列について」(『国語学』95)
工藤 浩1974「『たった』は副詞か連体詞か」(『言語生活』275)
鈴木重幸1972『日本語文法・形態論』(むぎ書房)
────1974「言語学の用語・パラディグマチックな関係とシンタグマチックな関係」(『教育国語』37)
時枝誠記1950『日本文法 口語篇』(岩波書店)
マルティネ1972(編)『言語学事典』(大修館)
宮地 裕1952「副助詞小攷」(『国語国文』21-8)
森重 敏1954「群数および程度量としての副助詞」(『国語国文』23-2)
────1957「並立副詞と群数副詞との設定」(『国語国文』26-10)
山田孝雄1908『日本文法論』(宝文館)
湯沢幸吉郎1953『口語法精説』(明治書院)
渡辺 実1957「品詞論の諸問題──副用語・付属語」(『日本文法講座』1 明治書院)
────1971『国語構文論』(塙書房)

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