工藤 浩
0 はじめに
1 「叙法」と「叙法副詞」について──その予備的規定と概観──
3 擬似叙法の副詞をめぐって
3.1.「ぜひ」について
3.2.「主体」的な推量と、「客体」的な蓋然性
4 文の中での意味機能と単語としての意味機能───「やきつけられ度」
4.1.「きっと」と「かならず」
4.2.「ぜひ」について ふたたび
0 はじめに
0.1.目的と対象
表題にいう<叙法副詞>とは、筆者の理解では、山田孝雄1908の「陳述副詞」の一部、ただし、中核的な一部を占めるべきものである。山田は、用言の、ひいては「句」の二大要素として、<属性>と<陳述>とを考え、それに応じて「語の副詞」を「属性副詞」と「陳述副詞」とに二大別したのであった。山田の「陳述」という用語は、その後、あいまいなもの、未分明なものとして批判され、渡辺実1953・1971の「叙述」と「陳述」や、芳賀綏1954の「述定」と「伝達」に代表されるような精密化を受けてきた。と同時に、その精密化の流れの底流には、文が大きく二つの側面に分かたれること、すなわち、詞的か辞的か、客観的か主観的か、対象的か作用的か、ことがら的か陳述的かなど、学者により用語はさまざまで、したがって内容にも異なりがありはするものの、文にそうした大きな二側面あるいは二要素があることは、多くの学者によって共通して認められていると言ってよいように思われる。
本稿では、「陳述」というある意味では手垢のつきすぎた用語を、そうした二大別の一つとして、つまり広義に用いることにしたい。すなわち、<陳述性・のべかた・predicativity>という用語を/単語や単語の組合せ(連語)を、文として成り立たせる諸特性/と仮に定義して用いることにする。この<陳述性>という用語のもとに、具体的に何を理解すべきかについては、まだ分からないことが多いが、少なくとも、
叙法性・かたりかた modality
評価性・ねぶみ evaluativity
題述性・係結び theme-rheme
対比性・とりたて focusing
などが、問題になるだろう。
こうした文の陳述性のうち、副詞あるいは副詞的成分に関係のあるものとしては、a)叙法性、b)対比性、c)評価性、の三つがあると思われる。例を挙げれば、
a)たぶん晴れるだろう。
/ どうぞ来て下さい。 / はたしてあるだろうか。
など、推量、依頼、疑念といった、文の語り方=叙法性に関係するもの、
b)ただ君だけが頼りだ。 / 少なくとも十年はかかる。
など、限定、見積もり方といった、文の特定の部分の「とりたて」──つまり、表現されていない、他の同類の物事との範列的
paradigmatic な関係づけ──に関係するもの、
c)あいにく雨が降ってきた。 / 奇しくもその日は父の命日だった。
など、文の叙述内容に対する話し手の評価・感情的な態度に関係するもの、の三つである。こうして、筆者は現在のところ、陳述副詞について、
┌─a)叙法副詞
陳述副詞─┼─b)とりたて副詞
└─c)評価副詞
のような見取り図をもっている。
本稿は、このうちa)叙法副詞を対象とし、その本格的な記述の前段階として、若干の方法論的な問題について検討することを目的としている。
なお、b)とりたて副詞については、工藤浩1977で「限定副詞」という名(これは渡辺実1957に従った)で概観したことがある。c)評価副詞については、工藤浩1978で「注釈副詞」の一部として言及した。ただこの工藤浩1978は、事実の面でも理論の面でも混乱があり、本稿において修正が加えられることになる。結論だけ言うと、「注釈副詞」としたもののうち、評価的・感情的なものだけを評価副詞として残し、その他は叙法副詞のなかに、<下位叙法sub-modality>の副詞として繰り入れることにした。
0.2.資料
本稿は実態記述そのものをめざすものではないが、用法の使用量のかたよりが、その語の性格規定に重要な意味をもつという主張を含んでおり、随所に計量的記述がある。その場合の資料は、論文末に掲げる84の作品から全例採集しカード化したものである。*印をつけた25の作品は西尾寅弥・高木翠が、それ以外は工藤浩が採集した。後者については、複数の人間によるチェックを受けていないため、採集者の不注意による採集もれが皆無とは言いがたいが、大勢に影響するようなことはないと思われる。
また、資料作品の書かれた時代が、1898年〜1974年にまたがり、作者の出身地も全国にわたり、通時的変化や方言的差異が問題になるような用例も含まれている。ジャンルのかたよりもある。これは、共時的研究における資料の等質性という点からは短所であるが、使い方次第では長所にもなりうる。特定の用法がある時期にかたよったり、ある作者にかたよったりすることが分かれば、通時的変化や方言的・文体的異なりを推測する手がかりとはなるだろうし、それらを除いて集計しなおすこともできるのであるから。ただ、そういう理想を言うには、本稿の資料は貧弱すぎるのではあるが。
ところで、本稿ではこれ以上、そうした資料の性格については、議論しない。とくに議論しなくても論旨に大きな狂いの生じないことに、話を限ったつもりである。なお、資料の引用に際し、漢字字体と促音・拗音表記は、印刷の便宜にしたがった。
1 「叙法」と「叙法副詞」について──その予備的規定と概観──
1.1.文の叙法(性) modality という用語は、動詞の形態論的カテゴリーとしての(叙)法 mood に対応する構文論的カテゴリーとして用いることにするが(鈴木重幸1972)、しばらくは両者の違いは見ない。叙法(modality, mood)の規定のしかたとしては、大きく分けて、二つの立場がある。ひとつは、文の事柄的内容に対する話し手の(心的)態度、といった主体的・作用的な側面から性格づける立場であり、もうひとつは、文の事柄的内容と現実との関係、とか、主語と述語との関係のありかた、といった客体的・対象的な側面で性格づける立場である。
こう言えば、日本文法の世界では「(不)変化助動詞」をめぐる金田一春彦と時枝誠記との論争が、すぐ思い浮かぶ。英文法の世界では、筆者のとぼしい知識のかぎりでも、O.Jespersen(1924) の mood の定義「文の内容に対する話し手の心的態度」(訳本 p.460)は、前者の代表であり、彼によってあまりにも簡単に批判されたH.Sweet(1891) の mood の定義「主語と述語との間の色々異なった関係を表わす文法形態」(訳本 P.118)は、後者のひとつの代表と言えそうである。
ソ連のロシア語学においては、これまた、管見のかぎりで言わせてもらえば、В.В.Виноградов(1955)に代表される「発話(речь)の内容と現実とのさまざまな諸関係を文法的に表現する諸形式」(p.268)といった、客体的に規定する立場が主流をなしているようである。そのさいВиноградовはまた、「具体的な文では、人称性・時間性・叙法性の意味は、話し手の観点から定められる。しかし、その観点自体は、発話の瞬間における、話相手との関係、および、文に反映され表現される現実の<断片・切れはし>との関係の中における、話し手の客観的な位置によって規定されるのである」(同頁)と述べることも忘れていない。ちなみに、この論文とほぼ同一内容のものが、1954年のアカデミー文法のシンタクスの序説の一部におさめられている。1970年と1980年のアカデミー文法では、叙法性を、客観的なものと主観的なものとに二分して扱っている。客観的叙法性とは、「文内容と現実との関係」であって、主に動詞の法 mood や文音調によって示される;主観的叙法性とは、話し手の文内容に対する関わり方(отношение
関係〜態度)であって、語順や文音調や挿入語などの補足的な文法手段によって示される;という。
В.З.Панфилов(1971, 1977)は、これらの問題を、文の形式的シンタクスのレベルと、文のアクチュアルな分析(伝達機能的シンタクス)のレベルという、二つのレベルの別に関連させて、再編成しようとしているようである。これが、V.Mathesius をはじめとするプラーグ学派の流れをも汲むものであることは疑いない。その点では、イギリスの Halliday(1970)が、Modality を interpersonal な機能のものとし、quasi-modality による Modulation を ideational な機能のものとして区別しつつ、その絡みを見ようとしているのも、同趣のものと言えようか。【そのほか、Hintikka(1969)やLyons(1977)に代表されるような様相論理学からのアプローチも盛んである。】
こうした研究が、従来の「未分化」な研究を精密化するものであることは間違いないとしても、旧来の主体−客体の理論的対立を止揚し得るものなのか、あるいは、問題を分割しただけにとどまるのか、今の筆者には判断できない。───といったところで、筆者は、自らの領分である日本語の現実に立ち戻らなければならない。
ところで、こうした、主体的な面から規定するか、客体的な面から規定するかという理論的対立があるということは、じつは裏を返せば、規定されるべき現象にその両側面がある、ということでもあろう。Виноградовも明言していたように。そして、日本でも金田一春彦1953が、結局は一方を切り捨ててしまうのだが、一応は指摘したように。たとえば、「彼も行くらしい」において、ラシイと推定しているのは誰かと問えば、それは話し手である(作用面)し、行クラシイという蓋然的な状態の主は何(誰)かと問えば、それは「彼(も)」である(対象面)。つまり「らしい」は、前者から見れば/話し手の推定的な態度/であり、後者から見れば/一定の蓋然性/、くだいて言えば、「彼(も)行く」という事柄内容が、現実との関係において一定の蓋然性(ラシサ)をもっていることを意味している。金田一は前者の見方を否定するのだが、その後の、渡辺実1953や南不二男1964の研究が示唆するように、もう少し連続的な見方をした方がいいだろう。すなわち「彼も行きそうだ」のように/様態性/とでも言うべき対象面が強く押し出されているものもあり、「彼も行くだろう」のように/話し手の推測性/という作用面が強く押し出されているものもあって、対象面、作用面どちらかにかたよるにしても、この二面は同居し得るのだ、と。
また、「彼も行きますか?」「はやく行きなさい」のような、質問や命令の叙法については、ほとんどの学者が一致して/話し手の態度/という面で見ているが、そしてそれは間違いではないのだが、同時に、話し手の置かれている現実との関係において/不確定、不確実な事柄/を聞き手に質問したり、/まだ実現されていない事柄/を聞き手に命令したりするのであって、心的態度の面のみを見るのは、やや片手落ちなのではないか。対象面 noema なき作用面 noesis などないだろうし、「『精神』にはもともと ……… 物質に『とりつかれて』いるという呪いが(かかっている)」(広松渉編訳『ドイツ・イデオロギー』)のだろう。
このように考えてきて、本稿では<叙法性 modality>を
話し手の立場からする、文の叙述内容と現実および聞き手との関係づけの文法的表現
と規定しておくことにする。この規定は折衷的であいまいなものだが、それだけに、研究の出発点としては、対象を広めにとりやすいという利点をもつ。なおこの規定は、筆者の読み違いでなければ、Виноградовの考えにもっとも近い、というより、言いかえにすぎないといってよいものである。
1.2.さて、こうしたうえで、その内部を見ていくことになる。
まず、叙法性を、文の統一−成立のための特性、つまり陳述性の一つだとする点から考えれば、叙法性のもっとも基本的なものは、その関係づけ(ここでは、態度といってもいい)が、@発話時のもの、A話し手のもの、という二つの特徴をもつものである。「しよう・しろ・してくれ・するだろう・するそうだ・するか」などがこれであり、また終止の位置に立った「する。/した。」が、上の
marked form との対立において、unmarked form
として/断定/をになうとすれば、それもここに入る。これは芳賀綏
1954
のいう「陳述」、<述定>と<伝達>とにあたる。
これに対して、金田一春彦 1953
が指摘しているように、
・彼はつかれているらしかった。
・銃声(である)らしい物音が遠く聞こえていた。
などは、話し手の推定とは言えても、発話時のものではない。
彼はつかれていたらしい。
の場合は、終止の位置に立つ現在形であることによって、発話時の話し手の推定という基本叙法性
modality
をもつのだが、「らしい」という助動詞自体としては、テンスの対立をもち、連体形をもつ点で、「だろう」などとは区別しなければならない。また、やや特殊な例を引くようだが、
・彼女によれば、彼は来ないかもしれないそうだ。
のような「かもしれない」は、ことがらの可能性(不確定性)を示す対象的な性格の方が強いが、これを不確実な判定という作用面で見るとしても、その判定作用の主は、話し手というより、直接的には「彼女」であろう。このほか「するようだ・しそうだ・するにきまっている・すると見える」等々の形式が、過去形をもち、連体形・条件形など文中の位置に立つ語形(または機能)をもち、また、判定作用の主が必ずしも話し手ではない、といった性格をもつ。これらを、二次的叙法、あるいは擬似叙法
quasi-modality
と呼んでおく。先の規定のうち、「話し手の立場からする」という部分が間接化される点で、擬似である。
以上は、現実認識に関わる、いわゆる判断的な叙法であるが、願望ないし当為的な叙法にも、同様の二次的なものがある。たとえば、
・ぼくも 行きたかった。
・行きたい人を さがす。
・彼も 行きたいらしい。
のように用いられる「したい」は、擬似叙法である。このほか「しなければならない・してもいい・してはいけない・するつもりだ」等々の形式が、願望−当為的な擬似叙法として挙げられる。
ただ、こうした擬似叙法の諸形式も、
・ぼくは 行きたい。
・ぼくは 行くつもりだ。
のように、一人称主語をとり、自らは終止の位置に立って現在形をとる場合には、発話時の話し手の関係づけ=態度と一致する。また、
・きみは 行かなければならない。
・きみが 行くといい。
などでは、二人称主語その他の条件のもとで、命令や勧誘に準じた性格をもつ。これらを、助動詞・補助動詞としてではなく、文の述語として見るときには、一次的な基本叙法である、としてよいかもしれない。中右実 1979 のいうモダリティとは、このことなのだろう。
こうした、助動詞として見るか、文の述語として見るかという区別、ややラフに言い換えて、形態論的なムードとして見るか、構文論的なモダリティとして見るかという問題は、叙法副詞との構文的な関係を見ようとするときに、深刻な問題として立ちあらわれてくるだろう。
ここで、中西宇一1961や寺村秀夫1979が否定辞をメルクマールとして、北原保雄1972が「あり」をメルクマールとして、いわゆる助動詞や複合辞を分類していることに触れて、さらに考えをふかめるべきかもしれない。肯定−否定という「みとめかた」(鈴木重幸1972。Halliday(1970)のpolarity)を(擬似)叙法に含めていいのかどうかという問題もある。しかし、これについては別の機会にゆずることにして、副詞の問題へと急ぐことにしたい。
1.3.本稿でいう<叙法副詞>とは、以上見てきたような擬似叙法をも含めた文の叙法性に関わりをもつ副詞である、とラフに規定しておく。
日本語においては───多くの言語と同様に、あるいはそれ以上に───述語が文の叙法性表現の中核である。基本的には、述語の叙法が文の叙法性を決定する。叙法副詞がなければ文の叙法性が定まらない、というような文は、少なくとも日本語にはないだろう。
*けっして 行く。 ⇒ 行かない。 / けっして 行かない。
cf) I'll never go. / Je n'y vais
jamais. / Никогда не
буду.
*どうぞ 行く。⇒行ってください。 / どうぞ 行ってください。
*もし雨が降って(降った)、行かない。 ⇒ もし雨が降ったら…
cf) If it rains,………
叙法副詞は、必要に応じて、述語の叙法の程度を強調・限定したり、文の叙法性を明確化したりするものであって、文構造上必須のものではないという意味では、語彙的な表現手段である。ただ、その語彙的な内容が、実質概念性・対象性が希薄で、形式関係性・作用性が濃厚であるという意味では、文法的である。いまここでは、叙法副詞を、文の叙法性の語彙=文法的な表現手段だと考えておく。叙法副詞の文法的な記述は、その語彙=文法的意味と文法的な機能(文の中での役割や、他の部分との関係)とを、相関するものとして見ることになるだろう。細部の議論に入る前に、叙法副詞を一覧しておくことにする。
1.4.叙法副詞 代表例一覧
A 願望−当為的な叙法
a)基本叙法
1)依頼───どうぞ どうか なにとぞ なにぶん / 頼むから
2)勧誘・申し出etc.───さあ まあ なんなら(なんでしたら)
b)擬似叙法
3)希望・当為etc.───ぜひ せめて いっそ できれば なんとか
なるべく できるだけ どうしても 当然 断じて
cf) 意志───あくまでも すすんで ひたすら いちずにetc.
意図───わざと わざわざ ことさら あえてetc.
B 現実認識的な叙法
a)基本叙法
4)感嘆・発見etc.───なんと なんて なんともはや
5)質問・疑念 ───はたして いったい / なぜ どうしてetc.
6)断定───勿論 無論 もとより / 明らかに 言うまでもなく
7)確信───きっと かならず ぜったい(に) 断じて
8)推測───多分 恐らく さぞ 定めし 大方 / 大概 大抵
/ まさか よもや / たしか もしや さては
9)伝聞───なんでも 聞けば cf)
D情報源 〜によればetc.
b)擬似叙法
10)推定───どうも どうやら / よほど
11)不確定───あるいは もしかすれば ことによると ひょっとしたら
/ あんがい
12)習慣・確率etc.───きまって かならず きっと
/ とかく えてして ややもすれば ともすると
/ いつも よく / 大抵 大概 普段
13)比況───あたかも まるで ちょうど / いかにも さも
14)否定
イ)判断性───けっして / まさか よもや / 断じて
部分否定───必ずしも 一概に あながち まんざら
とりたて───別に 別段 格別 ことさら
ロ)程度性───たいして さほど さして ちっとも すこしも
一向(に) でんで / まるで 全然 まったく
ハ)動作限定───ろくに めったに さっぱり ついぞ たえて
(不可能) とても とうてい なかなか どうしても
(疑問詞) なんら なんの なにも なにひとつetc.
ニ)慣用句───毛頭 皆目 寸分 とんと おいそれと(は)etc.
cf)
否定的傾向───所詮 どうせ どだい なまじ へたに
(相対的テンス)まだ もう いあまさら
15)肯定───かならず さぞ ぜひ
cf)
一般の程度副詞 ある種のアスペクト副詞
※A願望−当為的叙法にも、B現実認識的叙法にも用いられるもの
きっと かならず 絶対(に) 断じて / もちろん 無論
C 条件−接続の叙法
16)仮定条件───もし 万一 かりに / いったん
/ あまり よほど / どうせ 同じ
17)仮定逆条件───たとえ たとい よし よしんば
18)逆条件(仮定〜既定)───いくら いかに どう どんなにetc.
19)原因・理由───なにしろ なにせ 何分 / さすがに あまり
20)譲歩───もちろん たしかに なるほど いかにも
21)譲歩〜理由───せっかく
D 下位叙法 sub-modality
22)確認・同意───なるほど 確かに いかにも 全く / 道理で
23)うちあけ───実は 実の所 実を言えば 本当は 正直(言って)
思い起し───思えば 考えてみると 思い起せば
24)証拠立て───現に 事実 じっさい だいいち
たとえ ───いわば いうなれば 言ってみれば
25)説き起し───およそ そもそも 一体 大体 本来 元来
(概括) 一般に 概して 総じて
まとめ ───結局 畢竟 要するに 要は つまり 早い話(が)
(はしょり) どうせ どっちみち いずれにせよ 所詮 とにかく
26)予想予期───案の定 やはり はたして
めずらしく 案外(に) 意外にも / かえって
27)観点〜側面───正しくは 正確には 厳密には /詳しくはetc.
技術的には 時間的には 文法的にはetc.
(情報源) 〜によれば 〜に従えばetc. cf) 9)伝聞
以上のリストには、資料に10例以上あるものを、原則として挙げた。ただし、D類には一部例外がある。
二つ以上の項にまたがるものがあるが、これには、同時に二重の叙法性をもつもの(まさか・よもやetc.)と、多義語もしくは「構文的同音語」(Greenbaum(1969)p.6)とみなしたもの(はたして・きっと・まるでetc.)とがある。後者については、第4節で触れる。
「たしかに・きまって・できれば」など、副詞とするか用言の一語形とするかについて、また、「言うまでもなく・ひょっとしたら・実を言うと」など、語としての単位性(複合副詞化の程度)について、議論の余地のあるものも、このリストに挙げてある。とくに、D下位叙法の項に目立つ。これについては第5節で、一般論として触れるにとどまる。
1.5.さてこのリストでは、大きくA〜Dの四種に分けたが、これを二分法的に整理してみれば、次のようになるだろう。ABCの三種は、いわゆる呼応現象をもつものであり、Dは、広義の平叙文に限られるという叙法的な共起制限はある(から叙法副詞の一種なのだ)が、積極的に一定の述語形式と呼応する現象が見られないものである。次にABCのうち、AとBが主文の述語と呼応する(しうる)ものであるのに対し、Cは、原則として複文の従属節の述語と呼応するものである。細かいことを言えば「もちろん………だ。しかし………。」や「もしこれがぼくのものだったらなあ。」といった独立用法もあるが、それは二次的なものとして扱ってよいだろう。最後に、Bが話し手または動作主の意識や行為に関わりなく、存在または実現する事態の認識(知)に関するものであるのに対し、Aは、話し手または動作主の願望や意志(情意)に関するものである。
AとBにはそれぞれ、a)基本叙法に関わるものと、b)擬似叙法に関わるものとが区別しうるが、これについては第3節で議論する。AとBの両叙法にまたがる「きっと」などを※印をつけて特立しておいたが、これは第4節で議論するための便宜である。
議論の順序としては、まず第2節で代表的な叙法副詞の基本性格である<呼応>について考えることから始め、ついで、第3節で基本叙法と擬似叙法との区別とその連続の問題を、第4節で文の中での意味や機能がどこまで単語の中にやきつけられているかという問題、つまりは多義語や構文的同音語の問題を考え、最後に、第5節で下位叙法というやや特異で周辺的な叙法副詞の位置づけを試みつつ、他の品詞類や「陳述的成分」としての従属節などとの関係の中で、叙法副詞の位置を展望したい。
この節では、叙法副詞が呼応する形式とはどういう性格のものか、という点について「どうぞ」を例にして考えてみることにする。「どうぞ」が共起して用いられる形式としては、「してください」が代表的なものとして挙げられるが、そのほか「してくれ・してちょうだい・してくださいませんか」などや「していただきたい・(するよう)お願いします」などとも共起して用いられることもあり、現象的には多様である。多様ではあるが、これらを一括して<依頼>の叙法を表わす形式と見なすことは、常識のレベルで許されるだろう。
ただ、ここで注意しておかなければならないことは、「お願いする」という動詞自体や「していただきたい」という組合せ形式自体が、<依頼>の叙法的意味をもっているわけではない、ということである。たとえば、「していただきたい」という形が次のような形で用いられた文には、「どうぞ」を共起させることは出来ない。
*どうぞ─┬─a 来ていただきたい方々に連絡しているところです。
├─b かれはあなたに来ていただきたいのでしょう。
├─c わたしはあなたに来ていただきたかったのです。
└─d わたしはあなたに来ていただきたくない。
「どうぞ」がなければ、a〜dの文は文法的である。「していただきたい」という組合せ形式は、連体(a)など文中の位置positionにも立ち、人称的にも、主体が一人称に限られるわけでもなく(b)、また、過去(c)や否定(d)の形をもとりうるものであって、それらに共通する「していただきたい」自体の意味は、依頼ではもちろんなく、「自行自利(してもらい)」の「謙譲(または丁寧)」の「希望」とでも言うほかはないものである。こうした性格の「していただきたい」が依頼に準じた<意味>を実現し得るようになるのは、形態的に<肯定>の<現在>の形をとり、構文機能的に<終止>の位置に立って、構文意味的に<一人称のシテ>と<二人称のウケテ>と組合わさるという条件のもとでである。つまり、
e わたしは あなたに 来ていただきたい。
という文は、依頼文に準じる文とも解し得るようになる。しかし、厳密にはこの文はまだ、希望の平叙文としての性格の方が本質的であろう。というのは、この文は、
e' じつは わたしは あなたに 来ていただきたい(のです)。
のように、「じつは」という副詞と共起しうるが、この「じつは」は
*じつは 来てください。 / 来てくださいませんか。
のような依頼の文には用いられないものなのである。また、「どうぞ」と共起させる場合も、
?どうぞ わたしは あなたに こちらに来ていただきたい。
という「わたしは」という主語のついた文は、非常に不自然である。
f (あなたに/は) どうぞ こちらに来ていただきたい。
のように一人称主語がない方が、許容度が高いのではないか。二人称補語の「あなたに/は」もない方がふつうだが、相手を指定ないし特立する必要のある場面では、顕在してもおかしくないだろう。【なお、「どうぞ」と「していただきたい」との共起そのものに、まだ不自然さ(contamination性)を感じる人(林大氏)もいることは確かだが、その場合は「どうか」との共起の例で同様の趣旨のことが言えると思う。】
こうしてみると、「していただきたい」という組合せ形式が依頼に準じた<意味>を獲得するためには、構文意味上は<一人称のシテ>が必要なのだが、依頼(さらには命令)の叙法の述語として機能するためには、意味上のシテならぬ、構文機能上の主語が、表現上の単なる省略としてではなくて、文法構造上の制約として<消去>されなければならないのではないか、と思われてくる。この現象は、
・(あなたが)行きなさい。
・(あなたは)行ってください。
といった命令文・依頼文において、命令・依頼という発話行為の主体である話し手が一人称主体の形では、文の中にけっして顕在しえないことに対応する事実なのではないか。平叙文の一種に組み込まれる希望や希求といった擬似叙法とは異なり、命令文(はたらきかけ文)の一種である依頼の叙法として機能するためには、話し手自らを対象化して一人称主語として表現することが許されない───というか、対象化して表現すれば、平叙文になってしまう───のだと考えられる。
ちなみに、fの文で「あなたに/は」という聞き手を指示する補語が表現されない方がふつうであることは、命令文が通常「主語なし文」であることに対応する事実であろう。命令文では、聞き手を指示する語は、
・田中さん、こちらに来てください。
・君、さっさと行きなさい。
のように、呼びかけの独立語として機能するのが基本である。
・田中さんが、こちらに来てください。
・君は、さっさと行きなさい。
といった形で主語・主題として表現されるのは、fの場合と同様、指定性または特立性といったとりたて性のある場合にほぼ限られる。
なお、勇み足を覚悟で言えば、こうした「君が/は 行け」型の文は、主語・主題をもつことによって、
・君が 行くべきだ。
・君は 行かなければならない。
のような、当為の擬似叙法形式による平叙文に近い性格をもたされるのではないか。つまり、「君が行け」型の文は、「君、行け」という命令文と「君が行くべきだ」という当為の平叙文との間にあって、中間的あるいは二面的な性格をもつ文なのではないか、と疑われるのである。いまだ、思いつきの域を出ないが、これは、文の叙法間の相互関係の問題であり、しかも、文の叙法性と文の構造性との相互規定の問題でもあるように思われる。今後の課題のための覚え書きとしたい。
以上の「していただきたい」と基本的に同じことが、「お願いする」にも言える。くりかえしをさけて、論証例をあげるに止めさせてもらう。
*どうぞ─┬─a よくお願いすれば、ききとどけてくれるだろう。
├─b 彼は、彼女にきてくれるよう、お願いするらしい。
├─c わたしは、彼にきてくれるよう、お願いした。
└─d わたしは、彼にきてくれるよう、お願いしない。
f どうぞ 一日も早く来てくださるよう、お願い申し上げます。
?e どうぞ 私は一日も早く来てくださるよう、お願い申し上げます。
さて、以上のことから、叙法副詞の呼応する<形式>は、たとえば「していただきたい」や「お願いする」の「終止形」といった、単語−形態論レベルの形式ではなく、文の中で他の一定の単語と結びつきながら機能している述語−構文論レベルの形式なのだ、と言えるだろう。「どうぞ〜してください」のような形態論的な依頼形(丁寧な命令形)と呼応する場合は、こうした二つのレベルの別をわざわざ言う必要はないのであるが、それは、依頼形が、文−述語の叙法性が語形態にまで十分にやきつけられた形式だからである。形態論的な語形変化が、構文論的な意味機能の基本的な表現手段
grammatical processesである以上、形態論的な形式と構文論的な形式とが基本的な部分で一致するのは当然である。(後述するように「呼応」を形態論的な形式においてのみ見ようとする立場が一応成り立つのもこのためである。)だが、それとともに、構文論的な意味機能の表現手段が語形変化に限られるわけではなく、語順(文中での位置)やイントネーション、それに他の文の部分との結合関係(とくに人称関係)なども表現手段として働くのである以上、呼応の形式を形態論レベルでのみ見ることは許されない。
こうした区別は、次のような場合にも、現実的に意味をもってくる。
a たぶん 彼は行く。 / 私も行く(ことになる)。 <推量>
b 断じて 私は行く。 <意志>
のような文に用いられた「たぶん」や「断じて」を記述・説明する場合や、
a’きっと 彼も行く。 / きっと私も行ける。 <推量>
b’きっと 私が届けに行く。 <意志>
のような文に用いられた「きっと」の多義性を記述・説明する場合、つまりは、いわゆる無標の
unmarked 形式が問題になる場合である。
aとbの違い、a'とb'の違いは、「行く」が動詞の「終止形」あるいは「断定形」だといった形態論レベルの説明だけでは、解けない。bの「断じて」や
b'の「きっと」が呼応しているのは、「行く」という語彙的に<意志動作>を表わす動詞が、形態的に<非過去形>をとり、構文的に<一人称のシテ>と組み合わされることによって得られた/決意/の叙法をになった述語である、という記述が最低限必要である。(先の/依頼/の場合と異なり、/決意/の場合は、一人称主語の構造上の消去は起こらない。)そのほか、たとえば、
・もし雨が降った場合/時は、来週に延期します。 <仮定>
・あまり大きいものは、かえって不便です。 <条件>
・せっかくたたんでおいた洗濯物を、メチャクチャにされた。<逆接>
・けっしてひとりで行ってはダメですよ。 <禁止>
・とてもひとりで行くのは無理だ。 <不可能>
・どうやらなにかかくしている節がある。 <推定>
などなど、一般に「相当形式」とか「準用形式」とか呼ばれているものも、ここでいう構文論的な形式(あるいは迂言的形式)と考えられる。こうした文に用いられた副詞の記述においても、これらの形式を条件づけている文構造の分析が必要とされるだろう。
以上のように叙法副詞の呼応を考えるということは、橋本進吉1929(1959)が、山田孝雄の陳述副詞を「感応副詞」または「呼応副詞」と捉えなおしつつ、「山田氏の陳述副詞のうち、確かめる意及び決意を表はすものは、必ずしも、言ひ方を制限しない」として、「かならず・是非・所詮」などを呼応副詞から除こうとした、そのような立場には、本稿は立たないということである。橋本流の形式本位の立場をつきつめていけば当然起こり得る傾向、そしてじっさい一部に存在する傾向、たとえば「たぶんあしたは晴れる。」や「たぶん晴れそうだ。」などの文を<たぶん………だろう>という呼応の乱れと見るような、形式主義的かつ規範主義的な傾向(たとえば池上秋彦)と、その裏返しとしての「本来陳述副詞はどんな述語と呼応するのが標準的な用法か、ということについて、あまり厳格なことは言えないような感じもする」(島田勇雄)というような、言語事実に対して良心的ではあるが、構文現象の基本に対して懐疑的・消極的になってしまう傾向とを、同時に克服したいのである。
<呼応>というのは、むろん形式に現われる現象であるが、その「形式」は、なにもいわゆる接尾辞(複語尾)や助辞(助詞)や活用形に限られはしないのである。形態素や助辞がつかないことも、無標形式
unmarked formという一つの形式(語形)であることはもちろん、文の中での位置
position や分布 distribution
といった外形に現われる、他の語との結びつきとその構造的型もまた、いわば構文論的な文法形式なのである。
以上考えてきたような<形式>についての見解は、奥田靖雄1973に決定的に負うものである。誤解もしくは我田引水の類いがなければ幸いである。
3 擬似叙法の副詞をめぐって
3.1.「ぜひ」について
第2節で見た「どうぞ」の場合は、その共起する形式が「してください・してくださいませんか・していただきたい(のですが)」等々にわたるとはいっても、それらは構文論的な単位としては<依頼>の形式として統一的に見うるものであった。その意味では「どうぞ」の呼応は単純だとも言える。
ところが、「ぜひ」という副詞の場合は、もう少し事情が複雑であって、次のような諸形式と共起して用いられる。
依頼・命令:してください; しろ・しなさい etc.
勧誘・意志:しよう・する; するつもりだ etc.
希望・希求:したい; してほしい・してもらいたい etc.
必要・適切:しなけばならない・すべきだ; するといい etc.
「どうぞ」と比べて共起の範囲が広いが、無制限ではない。
*ぜひ きのう私が行きました。
*ぜひ いま田中くんが走っている。
*ぜひ あしたは晴れるだろう。
などの、ごくありふれた現実認識−報告的な叙法の平叙文───テンスが典型的な形で分化している文───には用いられない。【橋本進吉1929(1959)が「必ずしも言ひ方を制限しない」という やや あいまいな言い方で、「ぜひ」を呼応副詞から除こうとしたとき、この自明とも思える現象は彼の目にどう映っていたのだろうか。】
なお、「ぜひ私も行きました。」がもし言えるとしたら、それは、また、上の共起形式一覧に「するといい」という形式が挙がっているが、この形式のすべての用法に「ぜひ」が共起できるわけではない。
・そうと知っていたら、私も ぜひ行きましたのに(ものを)。
?そうと知っていたら、私だって ぜひ行きましたよ。
のような反実仮想の場合であろう。反実仮想の「過去形」は、叙法形式の一種であって、意味的に確定した過去の表現ではないため、「行きまし(た)」が、未確定の意志性をもつことを排除しないのである。
このように、「ぜひ」という副詞にも一定の叙法的な制限があることは確かであるが、その「制限」をどのように規定するかとなると、【橋本進吉ほどの学者が一般化に失敗したことからも察せられるように、】ことはそれほど簡単ではない。まず、問題になるのは、共起形式のなかに「したい」などを始めとする擬似叙法の形式が含まれていることである。そして、じっさい、
・私も是非あなたに一度あの長老を見せたかったんです。(青銅の基督)
・御父上も是非ご覧になりたいだろうと考えまして………(シナリオ戒厳令)
のように「ぜひ」は、発話時ならぬ過去の希望を表わす文にも、話し手ならぬ文主体(動作主)の希望を表わす文にも、用いることができる。また、手元の資料にはなかったが、
・私のぜひ行ってみたい国はアフガニスタンです。
のような純然たる連体節───「ガノ可変」(三上章1953)のものと一応しておく───に用いられる用法も、あり得るだろう。筆者の手元の資料になかったということの意味については、またあとで考えることにして、「ぜひ」が過去の希望形式とも、一人称以外の文主体の希望表現とも、さらに連体節の希望とも共起し得るということは、「ぜひ」が擬似叙法に関わる副詞であり得ることを意味している。
このことは、「どうか」と比べてみると分かりやすくなる。
・どうか倅が中学を卒業する迄首尾よく役所を勤めて居たい。(平凡)
・どうかまにあいますように。(シナリオ 忍ぶ川)
のように「どうか」は、前節で見た「どうぞ」とは異なり、聞き手をめざさない、内心の希望や祈りを表わす文にも用いられるのだが、また、
┌─私はあなたに一度あの長老を見せたかったんです。
*どうか─┼─御父上もご覧になりたいだろうと考えまして……
└─私の行きたい国はアフガニスタンです。
といった用法には立たない点で、「ぜひ」とも違っている。つまり「どうか」は、<話し手の発話時の>希望なり祈りなのであるのに対して、「ぜひ」は、文あるいは節の<有情主体>の<テンスの対立を持つ>希望であり得るのである。そうだとすると、
・ぜひ 今度来てくれ。 / 来てください。
・ぜひ 行こうよ。 / 行きましょう。
・ぜひ 私も行きたい。 / 行くつもりだ。
など、発話時の話し手の、依頼や勧誘や決意、あるいは希望や意図を表わす文に用いられた場合であっても、「ぜひ」という副詞は、その文の<話し手性><発話時性>といった基本的叙法性の面には、直接は関わらない、と見た方がよいことになるだろうか。
「ぜひ」という単語の意味の統一的な把握のためには、まずは、そうした見方をしてみることが必要だろう。一つの語に一つの「本質」的な意味(「意義素」)を求めたいという、ある意味では、素朴な欲求があっても不思議はない。そうした欲求は、「ぜひ」と共起しうる/依頼・命令・決意・希望・当為/等々の述語に共通して存在し、かつ、
*ぜひ私も行った。 / *ぜひ彼が走っている。 / *ぜひ晴れるだろう。
等々の「ぜひ」と共起しえない述語には存在しないような、意味特徴を抽出するように、我々に命ずるだろう。そうした抽出作業の結果、依頼・決意・希望等々の述語の叙法性は、概略、
依頼「してくれ」=[実現の必要性]+[話し手の聞き手への要求]
決意「しよう」 =[実現の必要性]+[話し手の自らへの要求]
希望「したい」 =[実現の必要性]+[有情主体の自らへの要求]
といった具合に「成分分析」できたとしよう。すると、「ぜひ」はその述語に含まれる[実現の必要性]という擬似叙法的な意味特徴(もしくは、それを有する形式)と呼応する副詞だ、ということになるだろう。【意義素論者 服部四郎氏なら、必ずや こう分析したろうと思われる。】
以上のべてきたことを、南不二男(1964、1967)の
文の四段階理論にひきあてて言えば、次のようになる。「ぜひ」は、B段階の連体節には収まるが、A段階の「−ながら」句には収まらない。「どうか」は、連体節には収まらないが、
・どうかあしただけでも晴れてほしいものだが、雲行きは怪しいなあ。
のようなC段階の「−が」節には収まる。そして、「どうぞ」は、
・どうぞ、こちらに来ていただきたいのですが、(いかがでしょう)。
のような、ほとんど終助詞的といっていい用法の「が」節には収まるが、この三尾砂1942のいう「半終止」の用法は、C段階というよりはD段階に近いというべきものである。すくなくとも、
*どうぞ、こちらに来ていただきたいから/し、お呼びしたのです。
など、他のC段階の従属節には収まらない。こうして、「どうぞ」は[相手(=聞き手)]の出てくるD段階の副詞、「どうか」は[自分(=話し手)]のC段階の副詞、「ぜひ」はそれ以前のB段階の副詞、ということになるだろう。
このようなエレガントな記述が得られることは、たしかに魅力的である。しかし、これだけの記述では、なにか大事なことを分析しえていないという思いが残る。妙な言い方になって恐縮であるが、じつは南不二男(1964:15)では「ぜひ」がD段階の要素として挙げられていたのである。ただし、その後の南(1967、1974)では、言及がひかえられているようであるが。
筆者の常識的な日常的言語感覚もまた、「ぜひ」をB段階の要素だといってすませておくことに違和感がある。「どうか」をC段階の要素だとした点も同様である。こうした常識感覚(いわゆる「直観」)を生み出しているのは何かと言えば、おそらく、どういう用法にどれだけ使用されているかという使用量(使用頻度)の実態であるだろう。手元の資料によれば、「どうか」は、全96例のうち84例(87.5%)がD段階の依頼形式と共起して用いられており、「ぜひ」も、全119例のうち93例(78.2%)が、C・D段階の発話時の話し手の、希望・決意・命令・依頼等の叙法形式と共起して用いられているのである。つまり逆の面から言えば、「どうか」をC段階だとする根拠は、わずか12.5%の使用例であり、「ぜひ」をB段階だとするのは、たかだか21.8%の使用例を基にして言っているのだ、ということになる。
このように考えてくると、ある用法が可能か否か(〇か×か)という二項対立的な記述方法の機械的な適用は、それだけでは十分な記述が得られないというばかりではなく、少数の特殊例の性格を、一般的な基本性格にまで不当に拡張するという論理的誤りを犯す危険さえあるのではないか、と思われてくる。
しかし、結論を急がず、別の例も見てみることにしよう。
3.2.「主体」的な推量と、「客体」的な蓋然性
いままでは、「どうぞ」にせよ、「ぜひ」「どうか」にせよ、A)願望‐当為的な叙法を例に考えてきた。ここで目を転じて、B)現実認識的な叙法についても見てみよう。問題の多そうな「推量」的な副詞をとりあげることにする。ここでははじめから数値を示そう。問題の副詞が、どのような形式と
どのくらい
共起して用いられているかを、表にして示す。
す に に | だ と の | と よ | か | せ す 推
る ち 決 は ろ 思 で ら 見 う し も だ ぬ る 量
φ が っ ず う う は し え だ そ し ろ と 節 計 以
・ い て だ ・ わ な い る み う れ う も が 外
の な い ま れ い た だ な か 限 あ
だ い る い る か い い ラヌ る
───────────────────────────────────
きっと 139 38 8 3 66 12 1 4 8 279 85
かならず 17 5 2 1 11 36 146
絶対(に) 48 48 38
おそらく 31 18 1 112 5 10 2 1 2 182 --
たぶん 19 1 2 74 1 1 2 3 103 --
さぞ 52 1 1 54 --
おおかた 2 1 24 1 28 13
たいてい 3 1 7 11 80
たいがい 2 4 6 33
どうやら 5 1 29 10 1 46 39
どうも 13 1 6 24 1 45 385
よほど・よっぽど 6 2 7 2 12 9 3 2 43 150
あるいは 3 2 4 53 3 1 66 69
もしかすれば 2 1 1 1 11 30 46 --
ひょっとしたら 2 7 16 1 26 --
ことによると 1 4 7 1 1 14 --
あんがい 1 1 3 1 1 8 15 81
───────────────────────────────────
[表の注記]
・「もしかすれば」の項は、「もしかしたら」「もしかすると」を含む。条件の形「-ば・-たら・-と」を包括する点、「ひょっとしたら」「ことによると」の項も同様。
・その他の副詞の項は、表に出した形以外を含まない。たとえば「絶対(に)」は「絶対」と「絶対に」を含むが、「おそらく」には「おそらくは」を含まず、「さぞ」には「さぞや」「さぞかし」「さぞさぞ」を含まない。
・述語形式の項(見出し)は、代表形である。たとえば「らしい」には、「らしく」「らしかった」「らしい(人)」などを含み、「のではないか」には、「のではいか」「のではないだろうか」のほか、「のではありませんか」「のではあるまいか」等々を含む。
・呼応すべき述語部分が省略された用例は、「計」の中に数えていない。倒置文は含む。そのさい「来るよ。きっと」のような句点で切れたものも、倒置と見なして含めた(ただし1例のみ)。
────────────────────────────────────────
この表を見れば、推量的な副詞群は、四つにひとまず分けられよう。かりに名まえもつけておけば、
@確 信:きっと かならず ぜったい(に)
A推 測:おそらく たぶん さぞ おおかたetc.
B推 定:どうやら どうも よほど
C不確定:あるいは もしかすれば ひょっとしたらetc.
しかし、四つに区分しうるということ以上に、ここで重視したいのは、この四種の相互関係、いわゆる連続的な関係である。連続は二つの───とはいっても根は同じ、二つの面で言える。
ひとつは、対象面から言えば事態実現の確実さ(蓋然性)が、作用面から言えば話し手の確信の度合いが、@からCの方向で低くなっていくことである。この面では、C不確定(不確信)の延長上に「はたして/いったい……(だろう)か」「さあ(どうかなあ)」などの/うたがい/や/ためらい/を表わすものが位置するだろう。また、@確信(確実)の先に「もちろん・むろん」などの/断定(確定)/がある。@の「きっと」などは断定に近いものではあるが、それはあくまでも話し手にとって未確認(未確定)の事態についての“推量判断”である。その点、
・「やっぱり、奥さまは、きのうの勧告を、拒否なさいましたか?」「退職勧告? もちろん拒否したよ」と志野田先生は言った。(人間の壁)などの如く、話し手に既に確認された事態(の報告)について用いることのできる「もちろん」「むろん」とは明らかに異なっている。「もちろん」の類をかりに/断定(あるいは確定)/と呼んで、/推量/の一種としての/確信/と区別しておく。
・「もちろん、私も、賭けてるわ」と一語一語切るやうに言った。(闘牛)
・妻は無論喜んで私を迎へた。(野火)
・無論、ぼくは、あなたの病気を、重要な研究対象と考へてゐる。(木石)
ただし、「もちろん」の類にも、「もちろん彼は来てくれるだろう」のような未確認の推量用法があり、単純に割りきれるわけではない。また確認=断定か、未確認=推量かのちがいは、叙法の別であるとともに、とき tenseの区別とも深くかかわっているだろう。このあたりの正確な位置づけは今後の課題としたい。このように、スル・スルダロウ・シソウダなどを区別しつつも、未確認推量の下位類という、程度差をもった同類であると考えることによって、
・今日は来れないわよ、多分。地の人の宴会だから。(雪国)などの例を、呼応の乱れとしたり、呼応には厳格なことが言えないとしたりすることなく、それが少数例の非基本的用法としてある(ありうる)ことを、正当に記述説明することが可能になる。
・あなたがいなくなると多分私はそういう用ばかり多くなりそうよ。(女坂)
・ある日、どうやら梅田へ出掛けたらしかった。(夫婦善哉)の如く、過去や連体節内の推量一蓋然性と呼応する用法が、少なからずある。「どうやら」では46例中11例で23.9%、「あるいは」では66例中7例で10.6%である。これが、@「きっと」A「たぶん」「おそらく」になると、
・この智恵子にどうやら秘かに慕情を寄せてゐたらしい松下は、<中略>ニヤニヤし乍ら、どうしたいと言った。(故旧忘れ得べき)
・或ひは召使かも知れなかった。(野火)
・あるひは協カ者たり得たかも知れなかった者も、ある事情から、その頃 は急速度にわしに背を向けて離れて行った。(生活の探求)
・それはきっと刑務所のなかで何度も考えつくされた話にちがいなかった。(真空地帯)の如き例がないわけではない。しかし、このうち、推量形式の「過去形」と共起した例は、文字通り過去になされた推量ではない。じつはそんなものはありえないのであって、ありうるとしたら過去の蓋然性についての判断【か、自由間接話法的な過去形(いわば「−と思った」の省略)】であるが、それでもなさそうである。とくに『子を貸し屋』と『木石』の例は反実仮想の過去形であり、その仮想−推量自体は発話時のものである。こうした問題があるが───この問題は、先の「どうやら・あるいは」にもないわけではないから、片手落ちにならぬよう、これらも含めて数えることとしても───その数は、「きっと」279例中 7例で2.5%、「たぶん」103例中 7例で、6.8%、「おそらく」182例中 14例で7.7%、である。
・おれはきっとてめえが尋ねて来るときがあることを見ぬいてゐて、<中略>知らせてやりたかったのだ。(あにいもうと)
・それが、一度や二度のことなら、たぶん、佐蔵にわからずにすんだかもしれなかった。(子を貸し屋)
・この辺には多分沢山ゐる筈の同じ画家仲間が、どうしてこの家を見過してゐたらうかを疑った。(真知子)
・恐らく他の女動手を使ってゐるのにくらべて、三倍も四倍も、能率がちがふにちがひなかった。(木石)
・彼は恐らくこの半年間といぶもの、手を通したことがないと思はれる皺だらけの制服を着、<下略>(故旧忘れ得べき)
ちなみに、「おそらくは」は「おそらく」と多少性格を異にして、全24例中 5例で20.8%である。用例数がさほど多くないので、あまり確かに言うことはできないが、「は」がつくことによって、かえって「詞」的になるようであるのは、おもしろい。筆者の語感では、「ぜひ」と「ぜひとも」、「もし」と「もしも」でも、「も」のついた方がより客観的であるように思われるが、これは手もとの資料ではなんとも言えない。
さて、こうした数値をどう見るか。たとえば「たぶん」は、6.8%とはいえ、過去・連体節内の蓋然性(推量)の用法に用いられる以上、擬似叙法だと見るべきだろうか? 内省にもとづいて可能か否かとテストしていく研究者なら、まちがいなくそうするだろう。
6.8%もあるのだから。じっさい、奥津敬一郎(1974
§9.2、10.2)が、「たぶん」や「だろう」を、「文頭詞」や「文末詞」とせず、「判断詞」という「詞的要素」だとする論法は、これである。たしかに、無と有(6.8%)とは質的に異なる。その限りでこの方法はまちがっていない。しかし、6.8%の用例と
93.2%の用例と、そのどちらでその語の基本性格を規定すべきか、ということが問題にならないような方法は、歴史的社会的所産としての言語の研究方法としては、危険なものである。言語現象には常に「中心的なものと周辺的なもの」とがある(cf.TLP
2、1966)、という想定に立つならば、とれない方法である。
@「きっと」で 2.5%、A「たぶん」で 6.8%、「おそらく」で
7.7%、C「あるいは」で 10.6%、B「どうやら」で
23.9%、という数値は、やはりすなおに、叙法性・「辞」性の強から弱への連続と見るべきであろう。そしてCの不確定、Bの推定ないし様態より、さらに対象的コトガラ的なものとして、「きまって」「いつも・よく」「とかく」など、習慣的・反復的な事態の起こる確率に関する副詞があると見るべきだ。先の表にも示した「大抵」「大概」などは、「大抵の男」「大概の物」のような実体量を示す数量詞の用法から、
・山に行く時はたいてい深田久弥と一緒だ。(私の人生観)
・山上という女は十時ごろには大概帰って行った。(暗夜行路)
のような、事態の確率を示す用法をへて、
・大将のことだがら、大抵出かけて来るだらうけれど…。(多情仏心)
・例の(考えておこう)だから、大概いいだろうと思う。(暗夜行路)
のような、推量と呼応する用法を派生しかけている、と推測される。「おおかた」の場合は派生が一応完了して、多義語もしくは同形異品詞として分化している。「大抵・大概」は、いまだ過渡的な状態にあると思われるが、共時的研究としても、こうした(叙法副詞から見て)周辺的なものも、そういうものとして記述すべきだろう。そしてそのさいの手がかりは便用量であろう。質的なちがいは量的なちがいとして現象すると、筆者には思われる。
前節まで、基本叙法と擬似叙法とを質的に異なったものとする点に力点をおいて考えてきた。本節では、両者を程度差をもって連続するものとする点に力点をおいて考えた。この二つの見方は矛盾・排除しあうものではない。いわば段階的に連続しているのである(森重敏1965、pp.34-6)。≪分類≫とは本質的に、<段階差>と<連続相>とを同時に捉えなければ出来るものではない。そして、その具体的な姿は民族語によって異なるだろう。
個体(民族語)には、特殊相ばかりでなく普遍相もむろんやどっており、フンボルトの言う「比較言語研究」───今様には、対照的contrastive研究ないし対比的confrontational研究、および類型的typological研究───は成立すると思われる。だが「分類学的言語学」を、おそらくは最低の鞍部で「乗り越え」てしまった人たちの中には、“universalな意味分類”の名のもとに、英語の分類にひきあてて日本語を分割しておきながら、両言語には興味深い共通性・平行性が見られる、などといった循環論に陥っている人たちもいるように見える。国語学史にひきあてて言えば、鶴峯戊申1833『語学新書』以前とも言うべきこうした傾向が、「日英文副詞(類)」のみの特殊現象であれば幸いである。いや、これは他人事ではないかもしれない。本稿のいう「叙法」が、英文法なりロシア文法なりの翻案にすぎないのか、大槻文彦の“折衷”の域には達しているのか、それとも………という問いかけは、おこたってはならないのだろう。
4 文の中での意味機能と単語としての意味機能───「やきつけられ度」
4.1.「きっと」と「かならず」
前節3-2で、「たぶん」は6.8%の用例ではなく93.2%の用例の方で、基本的性格を記述すべきだと述べた。しかし、23.9%の擬似叙法用法と76.1%の基本叙法用法とをもつ「どうやら」は、どうだろう。76.1%という過半数が基本叙法と共起しているから基本的叙法副詞だと単純に言ってしまうのは、まずいだろう。なぜなら「ゆっくり」のような全く叙法に関わらないと思われる副詞でも、擬似叙法的述語と共起する例が過半数をしめることはないだろうから。また、共起現象の数値を単純にウノミにすると、たとえば「とっとと(歩け)」という副詞は、(ある作品に限れば)命令と共起した例が過半数をしめるから、命令と呼応する叙法副詞だ、ということになりかねない。
ここには問題が二つある。一つは、「ゆっくり」などの非叙法副詞をも含め、それを基準の一つとして「叙法度」を計る方式を求めること。これは現在の筆者の手にはあまる。もう一つは、「共起」することと「呼応」することとは、並行関係にあることも多いが、原理的には区別すべきかもしれない、という問題である。こちらは、避けて通るわけにはいかない。こちらに一応の解答を出さなければ、計量的方法も求められないだろう。
「共起」現象は、同じレベル(節clause)に同居しているということだから、比較的単純に形式化しうる。「呼応」は、単なる同居ではなく、むすびつきであるから、つきつめていけば“意味”的関係である。「ぜひ私も行きたい。」の「ぜひ」を話し手の希望と呼応していると見るか、有情主体の希望と呼応していると見るか、実現の必要性と呼応していると見るか、という問題が生じるのも、このためである。最終的には、分析者の解釈力が問われることになる。しかしまた、「共起」と「呼応」が基本的に───あるいは大多数の場合というべきか───並行関係にあることも、事実である。先の「とっとと」も、
しゃんと腰をのばして、とっとと歩いている。(厭がらせの年齢)
のような用法を自らは使用しないという世代も、すでに存在するかもしれない。とすれば、叙法副詞化の傾向にあるとは言ってよいのかもしれない(とはいえ「とっとと………出て行け/歩け/しまえ」など、退去・消滅の意の動詞にほぼ限られた、慣用句性の高いものだろうが)。
「共起」はいわば量的現象、「呼応」は質的関係だが、質的なものが量的現象を生じるとともに、量的現象が質的変化をもたらすとも、一般的に言える。文の中での意味機能が、使用のくりかえしの中で、しだいに単語の意味機能としてやきつけられていくのである。「共起」と「呼応」とが、基本的なところで並行することは、不思議なことではない。
ここで、話をもうすこし具体的にしよう。前節で/確信/の副詞として扱った「きっと」は、ほかに次のような用法にも立つ。
・明日は屹度入らしって下さいましね。(或る女)
・よろしい、きっと糾明しましょう。(自由学校)
・新さん、済まない、そのうちに、きっと行くよ。(末枯)
など、依頼・命令・意志といった≪願望‐意志的な叙法≫と共起する用法に44例、
・何か嘘をつくと、その夜はきっと夜半に目が覚めた。(田園の憂鬱)
・一盃やると、きっとその時代のことを思出すのが我輩の癖で………だって君、年を取れば、思出すより外に歓薬が無いのだもの。(破戒)
・高いノックの先触れで入って来たのは、三日に一度きっと帰ってゐる富美子であった。(真知子)
など、一定の条件の下にくりかえして起こるコトガラの確率の高さを表わす用法に41例である。これは、前節末にふれた「きまって・いつも」「よく・往々にして・えてして」などと類義関係をなすもので、過去や連体節内の用例も珍しくはない。ところで、/確信/の用法は279例であった。
これでもまだ、一語一義的に考えることは不可能ではないかもしれない。「きっと」を/きわめて高い確率で/とか/例外なく/とかの意味だとして、確信や命令の叙法と共起する場合も、図式的に示せば
・〔きっと彼は来る〕φ/ダロウ。
・〔きっと来〕いよ/てね。
の如く、「きっと」はコトガラの確率を限定するのみで、叙法とは呼応しない、累加もしくは包摂の関係にあるのだ、と「入れ子」式に考えるのも、論理的には一応可能だろう。奥津1974は、じっさいそうしている。しかし、それは「きっと」だけを見ていれば、の話である。
「きっと」に似た副詞に「かならず」がある。
・必ずあんたを狙ってこっちへ来るだろうな………。(シナリオ女囚701号)
・この男をマークすれば必ず奴は現われる………。(同上)
のような、特定の個別的なことがらについてのアクチュアルな確信・推測と共起する用法に36例、
・必ず無傷でお返ししよう。(シナリオ宵待草)
・はい、必ず参ります。(シナリオ華麗なる一族)
・私も裁判には必ず一緒に行ってやるからな。(シナリオ狭山の黒い雨)
のような、アクチュアルな意志・決意と共起する用法に29例、
・一匹が鳴くと、必ず何処かで又一匹が呼応する。(麦と兵隊)
・父は勝った時には必ずもう一度遣らうと云った。(こころ)
・生あるものは必ず滅する。(阿部一族)
のような一定の条件の下にくりかえされることがらや、普遍的な現象などの確率が(ほぼ)100%であることを表わす、擬似叙法の用法に、これがいちばん多くて、96例用いられている。以上のほか、
・この面、頭に叩き込んで、必ずひっ捕えて来い………いいな。(シナリオ女囚701号)
・年頃になったなら、必ず木下と姿はして欲しいといふのであった。(河明り)
のような、命令や希求と共起した例が9例、
・所有者が真に所有権を主張したい品物は、必ず戸の内側に納わなければならない。(自由学校)
のような、義務・必要と共起した例が12例ある。しかし、これら(とくに後者)は、個別的なことがらではなくて一般的な命題に近いものが多く、また個別的なことがらであっても、『河明り』の例のように、希求に関わっているか疑わしいものが多い。/確率/の用法に加えるべきかもしれない。じつは、先に/確信/と/意志/の用法とした中にも、斜体で示した条件をもった各1例のように、あるいは/確率/の用法とすべきかと疑われる例がないわけではない。こうした疑問が「きっと」にくらべて、はるかに多く出るのも、「必ず」の基本的用法が/確率/であるためであろう。さて、このように「きっと」と「かならず」は、用いられる用法の範囲としては さしたる ちがいはないように見えるが、各用法の使用量のかたよりは明らかに異なっている。
確信 意志命令 確率 (不明)
きっと 279 44 41
かならず 36 29 96 (+21)
一語一義的に考えた方がよくはないかという誘惑は、「かならず」の場合に、とりわけ強い。確信的推量と呼応する機能も、それを限定強調する意味も、「きっと」にくらべて、そのやきつけられかたが弱いのであろう。「きっと」と「かならず」とを、ともに一語一義的に考えるのは、両者の構文的な機能(用法)のちがいを、そしてそれに応じてやきつけられた(やきつけられつつある)意味のありかたのちがいを、見過すことになる。「きっと」は多義的に考えてよいが、「かならず」は一義と考えるべきだとするのは、「きまって」とのちがいを説明しにくくするだろう。
かならず─┬─あした来て下さい。
*きまって─┴─あしたは晴れる。
「きまって」と「かならず」とのちがいを一義的につけようとすれば、おそらく〔習慣的・反復的なことがら〕という特徴の有無ということになるだろう。外延の広い「かならず」をひとからげに規定しようとすれば、当然その内包は希薄なものとならざるをえない。それはよいとしても、こんどは「きっと」との、次のようなちがいを論ずる基盤を失うことになるだろう。
*かならず─┬─あの子はどこかに行ったのだ。 <説明文>
├─あれは鈴木さんだよ。 <名詞文>
きっと ─┴─田中さんは来ませんよ。 <否定平叙文>
使用頻度の高い基本的な語彙の多くは多義語である。それは外延的に広い用法に立ちつつ、内包を貧弱なものにしないための、必然的ななりゆきなのだと言っていい。多義語は、人間の英知である。一語一義説は、言語体系の基本的なところで無力な理論・仮説なのではないか。
一語一義説とは対極をなす、単語の意味を「用法の総体」だとする説もまた、極端で受け入れがたい。文の中での用法(意味と機能)が、すべて単語にやきつけられた性質ではあるまいから。また、文の意味が単語の意味の総和以上のものであることは、もはや言うまでもあるまい。そうでなければ、そもそも構文研究など、おこりようもなかったろう。
一語一義説も、意味=用法説も、いずれも単語の意味を、あるいは語形にあるいは文の用法に、一対一に対応させようとする単純化にすぎない。真実は、この両極の間に、どこまでやきつけられたものとしてあるか、という形で存在するように思われる。
最近、佐治圭三1980(学界展望)は、尾上圭介1979の「は」の研究を批評し、ひきつづいて高橋太郎1978の「も」の研究を批評するという文脈のなかで、こうした語(的な形式)の分析方法として、語の「文脈的実現」の中に、「中心的性質」「共起的性質」「副次的特徴」「現象的外見」(「個別的臨時的特徴」)を区別して記述する方法を提案している。これは、単純な本義説を修正、精密化しつつ、「羅列的」な用法記述を克服しようとする試みと見られ、興味ぶかい。佐治は「中心的性質」について
「は」のような、一定の語形と意味(対象的意味とか機能的意味とか)を持つ形式には、それがどこに現れていても常にもっている性質があるものと仮定し、それを「中心的性質」と呼ぶ。(p.46。下線は引用者)と述べ、「中心的性質」「共起的性質」その他を同心円の形で図示している。これは、この方法が基本的には本義説に属していることを示すのだろう。ただし、前半の〈「は」のような………形式には〉の部分の意味が、つまり、〈「は」のような〉が制限的連体なのか非制限的連体なのかが、問題ではある。もしあらゆる(多義的な)形式に、の意だとしたら、一般方法論としてまずいと思われる。国語研(宮島達夫)1972(第2部)や、池上嘉彦1975(§12.3、4)が指摘し、実証・論証しているように、「連鎖状」の意味派生によって、全体に共通する意味特徴が見出せない多義語もあるのだから。そこで、この部分は、「中心的性質」が見出せる形式もある(多い)、の意だと解することにする。そう解してよいのなら、副詞の記述にとっても、有益で重要なてつづきとなるだろう。
なお、高橋太郎1978が「羅列的でまとまりを欠いたものに感じられる」としても、それは、「中心的性質をはっきりおさえ」ていないからではなく、多義の間の関係を構造的にとらえることにまだ成功していないからであろう(高橋1978、p.16, 47)。多義語を構造的に記述するのは、言うに易く 行なうに難い ことではある。【しかし、そこから逃げるわけにもいかないだろう。】
4.2.「ぜひ」について ふたたび
以上見てきたように、構文的な意味・機能が使用のくりかえしの中で、単語にやきつけられるのだとすれば、そしてそれが共時的には、使用量のかたよりとして現象するだろうと考えるならば、さきに3.1.で「ぜひ」を〔実現の必要性の強め〕という意味をもつ擬似叙法的な(B段階の)副詞だとした扱いは、再考を要することになるだろう。すでに述べたように、資料とした
84作品に見られた119例の中には、内省によってありうるとした純然たる連体節内の用例は一例もない。これは、まずは、筆者の手もとの資料の貧弱さを示すものなのだろう。
理想的には、ありうると内省される用例がすべて実際に採集されるまで網羅的な採集をつづけるべきなのだろう。筆者の現在の資料が理想にほど遠いことは告白しなければならない。ただ、こうした資料でも、筆者の内省だけでは得られなかっただろうと思われる用例用法を、少なからず含んでいるということも、言っておくべきだろう。なお「ぜひ」119例の中には、名詞用法のもの、呼応すべき述語が省略されたもの、それに「ぜひとも」「ぜひにも」「ぜひ\/」などは含めていない。しかし、この貧弱な資料の中にも、
・是非、お話したいことがあるの。入らっしゃいよ、さァ。(自由学校)など、「〜こと/もの/ところ/ひとetc.がある」という形の「連体」の例なら11例ある。また、
・君の力で是非手に入れてほしいものがある。(シナリオ華麗なる一族)
・私はそれまでに、ぜひ一軒いとま乞ひに行って来たいところがあるので、手廻しに少し早く起きたんですよ。(桑の実)
・私は近いうちに暇を見て、是非、空気清浄の競馬場へ清遊に赴き度い旨返信した。(故旧忘れ得べき)という、準引用とでもいうべき「連体」も1例ある。「〜タイのだ・ものだ」など叙法助辞化したものももちろんあるが、連体節内の用法いかんを問うているいまは、考慮の外におく。この「〜タイことがある」式の文の分割は、
a)私(に)は ||(ぜひ)行って来たい|ところが || ある。のような、“存在構文”のものではなくて、
──── ─────────────── ───
b)私 は || (ぜひ)|行って来たいところがある。ではないか。つまり「タイことがある」式の形式は、「複合述語的な構文」[国語研(鈴木・南)1963、p.170-]に近づいたものであって、「ぜひ」が連体節に収まる例と見なすには無理があるのではないか、と思われる。そう思われる根拠は二つ指摘できる。一つは、いわゆるガノ変換ができないことである。
─── === ────========
なお、第一の根拠のガノ変換の例文で、「私が」に?をつけておいたが、これは、「私」が新情報となるような文脈では一応可能であろう。ただし、三尾砂のいう「転位の判断文」として、文末は「〜のです」の形になるだろうが。
以上二つの現象は、「〜タイものがある」等を「複合述語的な構文」とする証拠には、直接にはならないのであるが、「ぜひ」が連体節に収まる証例とはいいがたいことの証拠にはなるだろう。たしかなことは、「〜タイものがある」等が「ぜひ」と比較的に共起しやすい特徴的な形式だということである。ひとしく、形式的に「連体」とはいっても、おおざっぱに言って、
・ぜひ来てもらいたい田中君に連絡する。 <純然たる補語>
・ぜひ来てもらいたかった人が来ていない。 <逆接性をもつ主語>
・田中君は、ぜひ来てほしい人です。 <述語名詞>
・ぜひ行きたい人は、手をあげなさい。 <条件句性をもった主題>
・ぜひ会いたくなった時は、電話します。<条件句性をもった状況語>
・ぜひたのみたい用がある。 <Nがある式>
のような例で、上から下へ行くにしたがい実質体言性が弱まり、「ぜひ」の使用量は高まるのではないか、と臆測をたくましくしてみたくもなる。ひとしく「連体」とは言っても、その関係する体言が、文全体の中でどんな役割り=機能をはたしているか───たとえば、主語か補語か状況語か述語か、また、逆接的か条件的か中立的か、など───にしたがって、その体言の「体言らしさ」も異なり、そこにかかる連体節の叙法性の強さ「ムウ度」も異なるのではないか。「ぜひ」の叙法性の本格的な記述としては、おそらくこれをも問わなければならないのだろう。
先に、考慮の外においた「のだ・ものだ」など述語の一部として叙法助辞化したものが、こうした「体言らしさ」の弱まりの極に位置することは、ほぼまちがいあるまい。なお、連体節の叙法性に関しては、三上章1953が「トイフ抜け」の「連体まがい」(p.281)とアダ名した現象もからんで、さらに複雑化する。
こうした複雑さをはらむ「連体」
を、安易に擬似叙法か否かのメルクマールの一つとした 3-1の記述は、それだけでも単純化のそしりをまぬかれないだろう。そこでは、「ぜひ」は、それと呼応する接尾辞「−たい」等と同じ扱いを受けていたことになる。それがおかしいことは、『雑誌90種』の調査資料で言える。
総数 中立的名詞 述語名詞 条件的名詞 形式名詞 Nがある式 合計
────────────────────────────────────────
雑誌|たい|662 27(4.1) 11(1.7) 13(2.0) 38(5.7) 10(1.5) 99(15.0)
|────────────────────────────────────
90種|ぜひ| 37 0 0 0 0 3(8.1) 3 (8.1)
────────────────────────────────────────
本稿 ぜひ|119 0 0 0 1(0.8) 11(9.2) 12(10.1)
────────────────────────────────────────
これは、どんな体言にかかる連体節の中に、どのくらい用いられているかを示す表である。カッコ内は%。これによって、「ぜひ」が「−たい」より叙法性が強いことが見てとれよう。またも三上章1953のことばを借りれば「ムウドを硬化する作用」(p.309)を「ぜひ」にも認めなければならない。「ぜひ」がB段階的な擬似叙法性をもつことは否定できないし、また否定する必要もないのだが、同時に、C・D段階的な基本叙法性が、かなりの程度にやきつけられている、と見なす必要もあるのである。ただ、先の「きっと」のように多義語と見なすべきかどうかは、まだ問題である。基本叙法性は、まだ「副次的」なものにとどまっているかもしれない。この問題は、「ぜひ」の通時的調査と、またたとえば、工藤真由美1979のような述語の叙法の通時的調査とをふまえつつ検討されるべきであろう。今後の課題としたい。なお、
・どうぞ/どうか/ぜひ/なるべく、お立ち寄りください。
の四つはどうちがうか、その使い分けは? という実践的要求に対して、それぞれD、C、B、Aという異なった段階の要素で、たとえば「なるべく」は「ナルベクユックリ歩キナガラ」という用法をもつ、といった指摘をするだけでは、十分ではないだろう(ただし、程度副詞との交渉を物語るものとしては、重視すべきだが)。「なるべく」も依頼文に用いられることが少なくないからこそ、上の質問も出て来るのだということの確認が、文法研究においても、出発点であるとともに到達点の一部にならなければならないだろう。
5-1 「下位叙法」の副詞と仮称するものの語例は、1-4 のリストにD類としてあげたが、この類については、いまだ分析が十分でない。その下位区分も便宜的である。まず、実例をいくつかあげよう。
・実は当初予想していたよりかなり悪い状態で、正直なところ、当行としても困っているのです。(シナリオ華麗なる一族)
・あんた、本当はお芝居じゃなくて、うちの座長が好きなんじやない?(シナリオ旅の重さ)
・思えば、長い一月あまりだった。(自由学校)
・それは少年たちの心の悲劇を表現した悲しい詩である。いわば少年たちの訴えであり、告白である。(人間の壁)
・方法は容易に見付かるのである。現にアメリカにそのサンプルがあるではないか。(厭がらせの年齢)
これらは、述語部分だけでは表わしきれない、さまざまな文の叙法性を表わし分けるものである。とはいえ、まったく新たな叙法性をうみだすのではなく、述語によって基本的に定められた叙法の大枠───平叙ないし確認要求───の中で、その下位種としての種々の のべたてかた(すなわち「下位叙法」)を表わし分けるものである。
ここでいう「平叙」の叙法とは、希望や当為の擬似叙法をも含む。下位叙法の副詞は、一般に、
*じつは───君が行きなさい。
*つまり───一緒に行きましょう。
のように、/はたらきかけ(命令)/の叙法には用いられないが、
じつは───君が行くべき(なの)だ。/君が行かなくてはいけない(のだ)。
つまり───一緒に行きたいのです。/一緒に行ってほしいのです。
など、当為や希望・希求の擬似叙法を対象化して(「−のだ」と)“のべたてる”叙法には用いられる。これをも含んで/平叙/の叙法と言う。また、
*じつは───あなたはあした出席されますか?
?つまり───かれはほんとに来てくれるだろうか。
など、基本的な/質問・疑問/の叙法には用いられないか、用いにくいようである───ここは、もっと精密化する必要がある───が、
じつは───あなたはあした出席されるんでしょう(/ 上昇調)。
つまり───かれも来てくれるんではありませんか(/ 上昇調)。
のような、一定の答を予期しつつ、同意や確認を相手に求める「質問」文には用いられる。これを/確認要求/の叙法と呼んでおく。
「確認要求」という用語は、国語研(宮地裕)1960、1963から借りたが、内容が一致しているか定かでない。上昇調の〜ンデハナイ(アリマセン)カ(/)は宮地は「判定要求」とするようにも見える。なお下降調の(タブン)〜ノデハナイカ(\)は、すでに平叙のうちの/推量/に移行したものと筆者は見ているが、これら、宮地1956のいう「見かけの疑問形態」については、なお検討を要することが多い。さて、このように下位叙法の副詞は、おおむね平叙ないし確認要求の述語としか共起しない、という叙法的共起制限をもつ。前節で筆者は、「共起」と「呼応」は平行する、と言った。また「呼応」はつきつめれば意味的関係だ、とも言った。ならば、この下位叙法副詞の共起制限も呼応ではないか、と問うてみる必要があろう。じっさい「思えば、不幸な生涯でした」では、過去の平叙(回想)法と、「案の定、来なかった/来ていない。」では、過去・現在の「確認」の叙法と呼応している、と見ることも出来るかもしれない。
5-2 さて、いま下位叙法の副詞が「少なくない」と言った。しかし、その少なくないものの中には、「じつは・本当は」とか「実を言えば・言ってみれば」とか「実のところ・早い話(が)」といった、形態上、単位性が問題になるものもまた、少なからず含まれている。このことをめぐって、三つのことを考えて、本稿のしめくくりとしたい。
まず確認しておきたいことは、これらは単位性に問題があるとはいえ、なんらかの程度に一語化ないし慣用句化したものであるということである。それは、使用量、語形変化の退化、格支配・被修飾性の喪失といった形式的な裏付けが、それなりの程度に指摘できよう。個々の吟味は省かせてもらうが、
ex)*実を言う。 *実を言わない。 *実を言え。
*私がつくづく思えば、遠くへ来たもんだ。 cf)今にして思えば
?非常に厳密には、これは副詞ではない。 cf)非常に厳密に言えば
第二に、これらが慣用句(的なもの)としてあるということは、裏を返せば、その母体として、もっと自由な組合せのものがあるということである。
・僕は……まあ、結論から言いますと、いまの沢田先生の御提案には、急には賛成しかねると思うんです。(人間の壁)など、三上章1953が「発言のムウド」(p.318-)、国語研(鈴木・南)1963が「ことばそのものに対して補足的説明を加え、かつそのことばを導入する陳述的成分」(p.82)と呼んだものがそれだろう。下位叙法の副詞とは、その無限の母体の中から、なんらかの必要があって、複合副詞へと定着・凝結しつつあるものなのだろう。こうした、母体としての従属節と、定着・凝結としての副詞という関係は、なにも平叙性のBやDにのみ見られるわけではない。「頼むから・お願いだから、悪いけど・よかったら」などが、「なんなら・できれば」ほどではないが慣用句的なものとして、Aドウゾ類へと連なり、「ヘた(を)して………したら」「まかりまちがって………なったら」などが、Cモシ類のすそ野をなすだろう(これらを一類として立てなかったのは語例がさほど多くないからである)。
・極端ないい方ですが、日本の軍隊のなかに道徳はなかったと私は思います。(人間の壁)
最後、第三点。叙法副詞(陳述副詞)が、他のことがら的成分からは切り離された、独立語的、遊離語的な成分をなすことは、何人かの学者の認めるところ。いまそれに関連して
・このvisionという言葉は面倒な言葉です。生理学的には視力という意味だし、常識的には夢幻という意味だが、〈下略〉(私の人生観)の如く、助詞「は」を伴い、語順も文(句)頭に位置して独立化する、「観点」の下位叙法副詞があることを指摘しておきたい。この「生理学的には」「厳密には」などは、じつは、「観点」と見なせば叙法的だが、ことがらの「領域・側面」と見なせばことがら的───状況語もしくは側面語───だといった、中間的な存在である。それだけに、陳述副詞化の第一歩が、文構造的には、ことがら成分(修飾語・状況語など)の“独立化 обособление”にあるのではないかと思わせる。
・厳密には、これは病気ではない。(朝日新聞)
ほとんど同じことが、本稿の対象外だが、「ありがたくも・親切にも」のような評価副詞(成分)にも言えるだろう。また「たぶん──多分に」「じっさい──実際に」「格別──格別に」「あまり──あまりに」等々の語尾「に」の消失も、同趣のものと言えようか。
こうして、叙法副詞の機能の一般化として、ことがら的な“修飾語”とは区別して、感動詞や接続詞とともに
"独立語"
とする考え方も出て来うる。ただし、述語との呼応──叙法の限定──を重視すれば
"叙法語" もしくは "陳述語"
を、一つの成分として、あるいは独立語の下位類として立てることになるだろう。結論はむろん、いま出せない。感動詞・接続詞の検討を欠くから。
叙法副詞から感動詞(応答詞)化するものに、「どうぞ・なるほど・いかにも・もちろん・まったく」などがある。「さあ・まあ」などは逆の方向のものか。
接続詞との関係は、かなり深刻である。本稿で「下位叙法」の副詞としたものの大半を、接続詞とすべきだと考える人も多いだろう。とりわけ文章論研究者、国語教育関係者に。<文の述べ方を示す>ことと、<前後の文を関係づけ接続する>こととは、排他の関係にない。極論すれば、接続詞は、すべて叙法副詞に入れた上で、承前性をもつ(下位)叙法副詞という下位類とすることも、形式論理的には、不可能ではない。しかし、こうした妄想は、「下位叙法」の副詞の性格づけが不十分だから、生じたのにちがいない。この面でも、たとえば中村明1973のような地味な作業が、方法論的反省を伴ないつつ、なおつづけられねばならぬのであろう。
以上、遅々とした歩みの「陳述副詞の記述的研究」の中間報告とする。
('79.9.31.礎稿。 '81.9.16.改稿 10.21.補訂)
【1997年ごろ、OCRで読み込んだ際に、語句の一部 訂補】
[付記] 本稿は、奥田靖雄氏、鈴木重幸氏、それに森重敏氏の諸論考から、いちいち引用するのがはばかられたほどの大きな影響をうけて書かれている。心からの感謝の念で記させていただく。───それ自体としては不毛であった、かの「論外」争(『国語学』65, 67)から、15年が経過した。未熟な本稿に、鈴木・森重両氏の名を連ね記すことが、世にいう恩を仇で返す類いとはならぬことを、いまは念じるのみである。