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日本語学外史 ノート

『日本語の根本問題』ノート   石垣謙二「第三国字論」   馬場辰猪と 山田孝雄


■『日本語の根本問題』ノート

 うえの 本は 稀覯本に 属する と おもう。ウェブ「日本の古本屋」の 検索(2010/09/03)では 2冊 入手可能と なっているが。編者の「大東亜文化協会」という 団体と 著者の ひとり 中野徹については、この HPの「データ」の「日本語学外史 年表」の 1943年の
補注として、また、その 序や 目次や 巻末の広告なども その 参考として、のせてある。【「日本の古本屋」のことなど かいてしまったので、いまは 在庫が なくなった ようだが、「国立国会図書館デジタルコレクション」で みられる ようになって、JPEG表示も できるし、印刷も できる。 ここを クリック。】

◆ 中野 徹「第一篇 言語学上よりみたる日本語」については、すこし くわしい 読書ノートを 記載したい と おもう。

▼「目次」は 再録に なるが、つぎの とおり。(原文 B6判 たてがき)
第 一 編 言語学上より見たる日本語
  一、あたらしき言語学の建設……………………………………………二
  二、言語社会学派の誤謬…………………………………………………九
  三、言語哲学と言語心理学……………………………………………一六
  四、国語学と言語学および方言研究…………………………………二三
  五、言語内容と言語形式(T)…………………………………………三四
  六、言語内容と言語形式(U)…………………………………………四三
  七、言語の論理性………………………………………………………五四
  八、日本語の論理性……………………………………………………六三
  九、国語【口語の誤】と文語…………………………………………七二
  十、日常会話……………………………………………………………八三
 十一、音声について………………………………………………………九三
 十二、大東亜語としての日本語………………………………………一〇五
 まず、「第一篇 言語学上よりみたる日本語」についてであるが、本文 および はしらには 「第一篇」「みたる」と かかれているが、この 目次では、「第一編」「見たる」と 漢字が つかってある。第9節の 誤字「国語<口語」といい、和語は なるべく ひらがなで、漢語は 基本的に 漢字で、という 表記の 原則も 理解していない、また 本文と てらしあわせて 校正しようとも しない ひと(編集事務員)によって、この 目次は つくられた と みられる。

▼一、あたらしき言語学の建設
 ここで 提唱しようとする「あたらしき言語学」は 「古典言語学」ではない。
                        「公式的 近代言語学」でもない。
 「あたらしい言語学を建設するといふことは、現実的必要性にこたへて、従来の言語学の否定的要素を、ことごとくとりのぞき、その肯定的要素を、あますところなくとりいれることによって、より高度の言語学をつくりあげるといふことである。かやうに、既成言語学を、ただしく止揚することは、………」
 「言語の発展に関する経済と婚姻との二元論的解釈は、これを一元化することによって、ただしく止揚されなければならない。」
 「くち(口)」=「食ふ」+「話す」   前者なくして 後者は ありえない
 話者も 聴者も、社会的存在である。
 自然物「あの山」の 素材化 = 社会的存在の 話者の 主観の なかに ピックアップされた もの
                自然物であると同時に、話者の 精神−社会 と 直接的に むすびつけられた もの
 言語を、音声 文字(=音声の発展形態)による 思想の伝達手段として 生みだされた イデオロギーだと かんがえる。
 この科学は、Sozialwissenschaft (社会科学) の 一分科である。
「今後の言語学は、言語内容のはうをプライマリーなものとして研究する」
「しかしながら、最後は、あくまでも言語内容と言語形式との統一として、研究されなければならない」

▼二、言語社会学派の誤謬
「言語社会学」は、「既成言語学中 最進歩的なものの一つであろう」が、「その致命的な欠陥は、言語と社会とを、機械的にむすびつけようとすることである」
 古代英 語と 現代英 語との おおきな 差  質的変化あり 別系統ではない (一時 古代英語=アングロサクソン語とも)
 古代日本語と 現代日本語との ちいさな 差  質的変化なし
「言語には、言語それみづからの発展がある。だが、その発展は、現実的基礎をはなれてはありえない。」
「社会的モメントが、最本質的なもの、最重要なものとして、前面におしだされてくる。」

▼三、言語哲学と言語心理学
 ヘーゲルの言語観:ことばは 概念的だ
 たとえば「僕は この本を 読んだ。」における「僕」も「本」も「この」も、「概念的一般的表現」であることの (やや ごたごたした)説明。(略)
「言語心理学者たちは、特殊事象が表象過程をへて、さらにこれが概念として把握され、音声機能(聴覚、発声両機能をふくめて)をとほして、音声化されるといふ。」 一応ただしいが、シチュエーション(場面)を考慮しない。
 あたらしき言語学の大別:言語史、言語理論、言語教育論(言語政策論) の 三大部門
「言語を発展せしむる実践的、教育的、政治的要素が、言語学のなかに包含されることは当然であらう。」
ここでいう「教育」=文化―社会教育一般

▼四、国語学と言語学および方言研究
「既成言語学のなかから、是非ともわれわれの体系のうちに、直接とりいれなければならないものは、前述のほかに史的言語学と比較言語学とがある。」
「国語学と言語学との関係は、そのまま特殊と一般、部分と全体といふ関係に、置換しうることは当然であらう。特殊と一般とには、絶対的区別をもうけることはゆるされない。一般性をもたない特殊はありえないし、特殊をかんがへないで一般はない。」
「ところが、こんなわかりきたことが、実際には、わかっていないやうだ。現に、国語学と言語学との分裂は、そもそもなにをものがたるか。」
「自国語の盲目的尊重」:「一定の現実的諸条件によって生ずる」(略)
「縦には歴史的、横には世界各国語――縦と横、時空統一的に研究すること――これは言語研究の最重要条件の一つにほかならない。」
 以下、原日本語(Ur-Japanese)【「筆者の友人が研究」】と方言の地理的分布とを例にして、「社会的モメント」の重要性と共同研究の重要性をとく。【この あたりの ふでの はこびには、筆者が 方言学または民俗学に 造詣の ふかい ひとである ことを 示唆する ように おもわれる。】
「言語学者のあるものは、標準語(Standard Language)といふ強制的な表現をきらって、これを共通語(Common Language)と呼んでゐる」

▼五、言語内容と言語形式(T)
「言語の内容と形式とのあひだに、絶対的な分割線をひくことはできない。」
「科学的方法は、単に分析的であってはならぬ。それは、分析的であると同時に、また綜合的でなければならないのだ。」
「言語もまた、人類が食はんがための必要から、苦心の結果つくりだしたものである。自分のおもってゐることを他人に伝へたいといふ情、これを伝へようとする意、これをいかにして伝へるかとかんがへる知――この知情意のはたらきなくしては、実に、言語の誕生はありえなかったのだ」
「心理学的に、知情意を分裂させ対立させることが不可能であってみれば、哲学上でいふ感性とか直観を、悟性とか思惟とか概念から分裂させ、互いに対立させることはただしくないはずである。」
「言語内容は、いはゆる『ことばの意味』ではなくして、その本質とするところは、言語をもちひるところの人間の世界観である。」【ことばが 単に 習慣性ではなく、知情意の 分裂しない 概念性である ことから くる 結論。】

▼六、言語内容と言語形式(U)
 『キ』(木)を 例に、「文法形式」の 問題を あつかう。いまも むかしも、『キ』(木)を 文から 抽象してしまえば、その 語の 音声と 意味に かわりが ない ことは あきらかである。
 文法は、映画芸術の 比喩で いえば、「モンタージュ」に 相当する。
「言語は、内容的に、意味以外のより本質的なものがあると同様に、形式にも、音声以外に、文法形式といふ重要な要素がふくまれてゐる。」
「『ゴムの木の細胞組織』といふあたらしい表現は、その背後にある社会の発展がなくては、生まれえないことは自明であらう。」
「だが、細胞の知識なくして、『木』と『細胞』との複雑な関係は、到底理解しえられるものではない。だから、『の』といふ概念的一般的表現は、精神−社会の発展とともに、あらたなる特殊的観念を導入してゐるのである。」
 イギリスの、中世英語の 言語の 発展史の 例、
 文法的形式の 簡易化、内容の 複雑化、の 例、ともに 要約 略。
「大東亜語の発展」の 問題も 略。

▼七、言語の論理性
 言語は、本質において、論理的。
 ルソー『エミール』も より自然に ちかい あらたなる 社会の 最後の 勝利の ために、言語の 論理性を 強調している。
 形式論理には 限界が ある。しかし 否定すべき 性質の ものではない。
 論理性と 芸術性とを 矛盾関係に かんがへてはならない。
 絶対的言語美など ない。
 敬語が うるはしい などとは いへない。
 最高美をもつた国語とは、科学的であると同時に、芸術的なものである。
 内容の 発展性に 対応して、形式の 固定性を 問題に しなければならない。

▼八、日本語の論理性
 発展:簡単から 複雑へ、ひくきものから たかきものへ、向上前進(fortschreiten)すること。
 複雑=乱雑 混乱─┐
 たかさ=歪曲 ──┴── 発展 ⇒ 退歩 ⇒ 自滅
 古代文化:アテネ文化 スパルタ武力主義 マケドニアの 歴史
「文化の統一性は、つねに、積極的な計画性であらねばならない。」
 科学用語の 不統一の 問題:諸科学の 交互作用が さまたげられる 固定化した 一例。
 日本語の 自由主義的 混乱性:大東亜共栄圏の 中心として 統一

▼九、口語と文語
 口語:はなされる ことば
 文語:かかれる ことば
 ワーヅワース『リリカル・バラツヅ』を 媒介にして、
 口語と 文語:基本は、口語は音声を媒介とし、文語は文字を媒介とする。
 口語:日常会話。話者と聴者との 交互作用によって 発展。
 文語:文章。話者が 聴者に 転化しない。時間的余裕が ある。主観に 重点。
「文語と口語は、有効な交互作用のうちに、言語の発展――社会の発展といふ共同の目的にむかって奉仕することであらう。」【プラーグ学派を 彷彿】

▼十、日常会話
「会話は、その本質において、話者と聴者との対立によつて、これが統一されては、あらたなる対立を生じ、また、これが統一されるといふふうに、弁証法的に発展するものである。」
 より本質的な発展:戯曲、小説の 会話部
 三人以上の 会話:議論。対立の 統一者。

▼十一、音声について
 音韻学 音声学 および その 関係についての 当時の 議論。【プラーグ学派を ふくむ】
 アルファベットの 排列として つぎの 表を あげる。【多少 にた 表が 菊澤季生(1935)『国語音韻論』(p.59)に ある。あるいは ローマ字論者か。】

   a   b      c   d
   e      f   gh
   i(j)  m      k   ln
   o   p      q   rst
   u(wy)    v   x   z

「基礎五母音」に 関連して、千葉勉・梶山正登『母音の研究』(昭和17年 本書の 1年まえ)に 例外的に 唯一 言及。ほかには 言語学書の 引証は ひとつも ない。
 日本語の アクセントの 不統一の 問題に 言及し、ひとびとの 総動員の 必要を 力説。

▼十二、大東亜語としての日本語
『生産力拡充こそ完勝の極意』と さけばれるが、「文化には、文化独自の発展のコースがある」
 中世ラテン語、近代の英語といった 国際語に 言及した のち、
「むしろ、英語の肯定的要素は、大東亜語のなかにとりいれるだけの心構へがなくてはならない。…… 世界の各国語をも、…… 利用することによって、大東亜語は、やがて、世界語にまで統一――発展されるやうになってほしいものだ。」

(概要 以上。促音表記は 便宜に したがった。)

★ 以上の ような 堂々とした 議論を、他に みない なまえで、おそらく 偽名と おもわれる かたちで 発表したのは、どういう ひとであろうか。プラーグ学派の 音声学、文章語論に くわしい 方言/民俗学 関係者で、もと(転向)左翼 と みなされる 知識人である。原日本語を 研究している 友人と ジャワで 通訳官を している 友人を もつ という。こころあたりが いない わけでも ないが、まだ 公表できる ほど つめても いない。「吉村康子」(=大島雄+野篤司+奥田雄+子)の ばあいと おなじ ように、複数人の グループ名である 可能性も ある。公表は もうすこし かんがえてからに したい。ヒントなど あったら、メールででも おしえて いただきたい。
 真偽 いずれにしても、稲富栄次郎や 佐久間鼎と いった「著名人」とは 対照的な いきかたである ことは うごかない と おもう。


■石垣謙二「第三国字論」

 さいきん 国語研OBの 方言関係の かたがたと 接続詞「さかい(に)」について メールで 議論する チャンスが あった さい、その ひとつの 説に「からに」起源説が あった 関係も あり、石垣謙二の『助詞の歴史的研究』を ひさびさに みたのだが、そのとき 巻末に 石垣謙二「第三国字論」という みひらき2ページの 小品の コピーが はさまれていた ことに 気づいたのである。むかし、満州時代の 奥田靖雄について しらべておられた 花薗さんから おまけとして いただいた ものであった。
 存在を しばらく わすれていたのだが、こんど よみなおしてみて、この 34歳で 夭折した 国語学者が 国語政策に ついても 一家言を もっていた ことに 感じいり、また わたしの 現在の 表記法原則との 関係に おいても 興味ぶかく 感じたのである。
 再発見者 花薗さんの ゆるしも えて 後半部に 全文翻刻を のせるが、それに さきだって かんたんな 書誌に ふれておくと、のった 雑誌は『満州評論』第二一巻第四号の p.30-31、判型 A5判(A判4回おり 16ページ単位) 32ページの 週刊の 雑誌であったらしく、表紙には、「週刊 …………… 一部二〇銭」という 文字と、巻・号表記に ならべて「昭和十六年七月二十六日」の ひづけが みえる。まなでし 佐竹昭廣 作製の 簡潔な 年譜に よれば、大学卒業 直後であり、東京高校講師 着任以前の 東大大学院一年めに あたる。【ちなみに、佐竹作製の 論文目録・年譜は 簡潔 抑制的な ぬきがき[抜書]、大野執筆の 回顧的解説は 粗略 主情的な うちあけ[告白]である。亀井孝の 学問的解説なら、佐竹との いきも あったか。(ザンネーン!)】原文は たて3段ぐみ みひらき2ページの あわせて5段弱であり、のこりの 1段強が 編輯後記である。その 編輯後記には、「小山先生の紹介[×照介]によるもの」と ある。小山先生とは 小山貞知の ことであろうと 推測され、石垣謙二とは おそらくは さらに 西尾実を 介して つながるのか と 臆測される。――― 以上の 書誌に関しては、花薗さんに 再調査を わずらわせて しまった。たすかりました、ありがとう。
小山貞知は、1930年代に満州で『満州評論』などで活躍していた人物であった。『満洲国と協和会』(満洲評論社、1935年)や『満洲協和会の発達』(中央公論社、1941年)の編著者として知られる人物であると思われる。
     (藤井一行の ページ http://www.geocities.jp/ifujii2/tm-nikkaclub.html より)
 さて なかみであるが、第二国字論の 最後の 段落で「国語に於ては、各単語が語法上の統体ではなくて、実に単語とテニヲハとの結合したもの【=「文節」】が即ち語法上の統体なのである」という ことに 気づいていながら、「この分ち書は実際問題として品詞別に依らざるを得ない結果、助詞助動詞即ち俗にテニヲハと称せられる部分にも適用されねばならなくなるのであ」り「之を分析して分ち書にせざるを得ない」と、問題を 指摘するのであるが、この「語法上の統体」の 認識の ほうが ただしく 恩師 橋本進吉の 文法の 単語認定の ほうが まちがっているのだ という 認識にまで いたらないのである。大野晋の 解説に よれば、大学入学直後 山田孝雄『日本文法論』に 感激したらしく「複語尾」説は しっていた はずだし、橋本の 講義や 著作で 松下大三郎の 単語認定も しっては いた はずであるから、教育的な 指導 人間的な「傾倒」というのは たいへんな ことだと おもう。屈折語と 孤立語との 中間的な 位置に ある「膠着語」に 日本語が 属する という ことが、橋本進吉・石垣謙二 といった 明晰な 頭脳の 区分感覚を 混乱させた、と いうべきなのであろうか。藤岡勝二・小林好日 といった ひとたちと どこが ちがうのであろうか。
 以上のような わけだから、松下大三郎 小林好日 佐久間鼎の 系統の 単語認識に たてば、「標記法としては分ち書を排さねばならぬ」とは ならぬ ことと なり、「第三国字論」は 本来 文節わかちがき方式の かな文字論に なるべきであったのである。
 現在、漢語は 漢字で、和語は ひらがなで、という 現実的な 折衷案が 野村雅昭さんによって 主張されているが、時代とともに みみで きいただけで わかる 漢語「あいまいだが ていねいな あいさつ」なども ふえてきていて、漢字を つかう 必要は もちろん ない。「きれい」に いたっては 「きれくない・きれかった」と イ語尾形容詞と 意識される までに なっていて 漢字表記は 不要 どころか 不能に なっている。こうして かながきが ふえていけば、当然 わかちがきの 必要性も たかまっていく わけで、そこで 野村方式を いっぽ すすめて 工藤方式が でてくる わけである。文書作成/印刷事情も 後述のように 好転している。
 わたしの 方式では、わかちがきの 方式も いわゆる「複合辞」「分析形式」などにおいて 標準の 文節方式と ちがう 方式を ためしている。まさに 試行錯誤の 段階であり、わけたり わけなかったり も ゆれている。中間的な 単位が ゆれるのは あたりまえなのであり、語尾や うけみ/しえき(つかいだて)の 接辞の まえで きったり きらなかったり ゆれる、という ことさえ なければ、あまり ちいさな ことに こだわるよりも、実践すべきなのである。<論より 実践> <りくつより なれろ> が モットーである。
 大病/退職の まえから 部分的には 実践していたが、大病/退職の あと ひとめを 気にしなくなって、完全実施する ことに した。ちょうど そのころ、ふたつの 論文の 刊行が かさなり どちらも 編集が ひつじ書房であったが、よく わたしの わがままを きいてくれた。ワープロ原稿だから、印刷工程の コンバータに 注意さえ すれば、比較的 かんたんに できる。むかし 山田忠雄さんや 亀井孝さんが ずいぶん 苦労していた 時代とは 印刷事情が ちがうのである。あなたも こころみに やってみませんか。
 うえに 部分的な わかちがきについて ふれたが、この 方式の 先駆者としては わたしの しる かぎり 宮島達夫1994『語彙論研究』(個人論文集)が あり、わたしも いちじ 漢字/ひらがなが つづいて よみにくい/意味が とりにくい ばあいに かぎって わかちがきを していた。その 使用量の 多少は 文脈事情/時代に よって かわる。工藤浩2005「文の機能と 叙法性」が その 時代の 公刊物である。コンバータが 半角(1bite)スペースを 一律に 削除してしまったので、校正が たいへんだった。東大国語研究室と 至文堂には えらく めんどうを かけた。2000年の 岩波書店の シリーズものに それを 要求する 勇気は さすがに なかったが、最後の [付記]の 部分などに そっと しのびこませて、編集者の めを のがれさせて 成功した 記憶が ある。とりわけ 岩波書店の 編集(校正)者は 表記法に関して 保守的であって、句読点に "; :" も つかって 文の 階層性を あきらかに しようと 苦心した もとの 原稿も、ふつうの 読点や 漢字表記に かえさせられた(一部の 引用部分を のぞいて)。しかも、もっとも 識別能力の ひくい ", ." という
西洋式の 句読点に「統一」させられたのである。保守的な 西洋かぶれ とも いうべき「国民的」な 文化の "なれのはて" である。【のちに、校正部長(重役)に なった という。】
 保守的な 西洋かぶれの 外国しらずぶりは、「つれづれ」の「音数律」や「ぎなた よみ」にも かいたので、くりかえさない。


【資料】

第 三 国 字 論


石 垣 謙 二


 科学精神を以て高度国防国家を完成せんとする現時に於て、漢字を主とする従来の国字機構が再吟味せられるに至つたのは誠に当然である。日常社会に流用される漢字数四千余に対し、義務教育六箇年に知り得る所は僅かに一千三百余字であり、八年制の国民学校に於てもこの点には大差がないといふことであるが、国民の八割が義務教育のみで終る事実に鑒【=鑑】みれば、吾々日本人の殆んどは自由に読書し得ぬ事となるのである。之を欧米の児童が普通一箇年半を以て読書力を獲得するに比して、実に憂慮に堪へぬものがあるが、かゝる結果は何によつて生ずるかといふに、彼我の用ゐる文字が根本的に性質を異にしてゐる為である。
 漢字とは云ふ迄もなく、各々が或る意味概念を荷つた文字、即ち表意であるに対し、欧米の文字[×欧米の文]は、各々がある音を代表する文字、即ち表音文字である。一言語に於て用ゐられる音の数は一定数で有限であるが、その音の組合せによつて作られる概念の数は無数であり無限である。畢竟漢字は分析以前の文字であり、分析総合が科学的精神の基調を成す以上、極めて非科学的な原始的な文字であるといはざるを得ない。
 茲に国字改革案は誕生するのであつて、其の目標は、未分析の漢字を分析し、音表文字を以て之に代へようとするに在るのである。然し吾々は先づ分析といふ事に就いて考へねばならない。自然科学に於ては、凡ゆる物質を元素に、元素を電子に電子を更に量子にと究極を目指して能ふ限り分析を進めてゆく所に意義が存するのであるが、文化現象に於ては、常に歴史的社会的等々の複雑なる環境によつて、自ら分析に限度を生じ、その限度を突破して分析を強行する事は、時に無意義なのみならず、往々有害ですらあり得るのである。漢字を日本語標記の具として、その改革を企図[×期図]する以上、文化現象としての日本語の性格を闡明[×聞明]する事が緊急でなければならぬ。
 国字改革案の第一は、欧米の文字を以て直ちに我が国字にしようとする所謂ローマ字論である。ローマ字とは一字が一単音を表す文字である事勿論であるが、日本語は原則として音節、即ち子音と母音との二単音から成るものを以て構成要素とする言語であり、日本語に於て音の上の単位とは単音でなくて音節である。音節は即ち国語の音の統体なのである。文化現象としてのかゝる、国語の性格は、必然的に音節を以て分析の限度とする事を命ずるのであり、音節を更に単音に分析する事は、単に分析の為の分析であり、国語の本性を破壊する所以である。私はローマ字論を第一国字論と命名しようと思ふ。
 第二の国字改革案は、ローマ字論の欠点を超克して、国語の音単位に分析を止めようとする所謂仮名文字論である。仮名は云ふ迄もなく、子音と母音とよりなる音節を表す文字であり、この点確かにローマ字論より国語の本性に近づいてゐる事が認められる。然しながら現行の仮名文字論の如く、日本語をすべて片仮名のみを以て表記しようとすれば、当然判読の便の為に、語と語との間を離して、分ち書の形式をとらねばならぬが、この分ち書は実際問題として品詞別に依らざるを得ない結果、助詞助動詞即ち俗にテニヲハと称せられる部分にも適用されねばならなくなるのである。
 日本語は膠着語であり、極めて特異な機構を有する言語である。支那語の如き孤立語や、英語仏語の如き屈折語[×屈折説]に於ては、各単語は必ず何等かの概念を有する。然るに日本語のテニヲハは決して概念を有ぜず、他の概念を有する語についてのみ用ゐられ、実際の発音に於ても、テニヲハは必ず概念を有する他の語と共に一続きに発音され、その一続きが定つたアクセントを有するものであり、宛かも屈折語の語尾変化の如き性質をもつ。然らば国語に於ては、各単語が語法上の統体ではなくて、実に単語とテニヲハとの結合したものが即ち語法上の統体なのである。之を分析して分ち書にせざるを得ない現行の[×現行を]仮名文字論は、文化現象としての国語に対し、自然科学的分析を余儀なくされたものであつて、宛かも屈折語の各単語の語尾を離して標記するが如き誤謬を犯しつゝあるものと云はざるを得ない。私は現行の仮名文字論を第二国字論と命名する。
 茲に至つて第三国字論を提唱する必要を認めるのであるが、上述の如く、日本語は音の上より観れば音節を統体とし、語法の上より観れば単語とテニヲハとの結合したものが統体であるから、文字としては仮名を用ゐ、標記法としては分ち書を排さねばならぬ。然るに実際問題としては、現行の分ち書を排すると直ちに判読に支障を来すのである。この支障を解決しようとする時に、吾々の祖先が平仮名片仮名の二種の音節文字を遺して呉れた事実の決して偶然でないのを知るのである。由来、平仮名は純粋の和文、即ち物語や和歌を記す為に発生し、片仮名は漢文の訓を書込む為に発達したものである。この事実が示す所は、平仮名が膠着語たる日本語の特質に対応し、片仮名が孤立語たる漢語の特性に対応してゐる事であり、漢語は概念を、平仮名はその運用を、夫々表すに適応せる事を教へるのである。即ち、私の所謂第三国字論とは、平仮名・片仮名併用論であり、名詞(漢語は名詞と認める)代名詞を片仮名により、その他の部分を平仮名によつて表記しようとするものである。或はその表記に当つて文法的知識を必要とするが故に実用性に乏しいと評する向があるかも知れないが、現に独逸の如きは名詞は必ず大文字で初まる。独逸人に可能な事が日本人に不可能であると考へるのは卑屈な態度と云はねばならぬであらう。最後に山本有三氏の名言を、三つの国字法によつて書記し、諸賢の御批判に俟つ事としたい。

     Senso no usiro ni wa mozi ga aru.
     センソウ ノ ウシロ ニ ワ モジ ガ アル。
     センソウのウシロにわモジがある。

(『満州評論』第二一巻第四号 昭和十六年七月二十六日)


▲あきらかな 誤字・脱字と おもわれる ものは なおしたが、もとの 文字列は[× ]のなかに のこした。
 いわゆる 旧字体の 漢字は 新字体に なおした。異体字は 通行の 字体を 【= 】のなかに 注した。
 「標記」「統体」など うたがわしい ものは もとの ままと した。全体に、原文に 忠実であろう と こころがけた。


■馬場辰猪と 山田孝雄

1) "Education in Japan" (日本の教育)を 編纂して その 緒言において、日本語を 廃して 日本の 国語を 英語と する ことを 提言した 森有礼(当時 駐米代理公使。のち 文部大臣)の 意見に 抗して、"An Elementary Grammar of the Japanese Language" (通称 日本文典初歩 1873 明6)を かいて 「国語を擁護した」馬場辰猪(TATUI BABA)を、「熱烈な国粋主義者」とも いわれる 山田孝雄が、『国語学史要』(1935 昭10 全書版)において 「国語擁護の大恩人」とまで 賞賛して 本の 最後を かざった エピソードは、よく しられた ことであろう。だが いったい なぜ、ナショナリスト 山田孝雄が 自由民権論者 馬場辰猪を 賛美して 国語学史を おえた のであろうか?
 この 東北大(定年くりあげ)退職(1933)後の「事件」を、「その森を批判する馬場をその対極として自分の陣営に引き寄せた」という 国語政策上の かけひきだと 理解する むき(イ・ヨンスク < 田中克彦)も ある ようだが、いかがな ものだろうか。一般に たちばが ちがえば 評価も ちがってくる ものだが、「復古・伝統 ⇒ 国体 ⇒ 反民主的」という ドグマ 戦後占領期以来の 思想に あぐらを かいては いないだろうか。
 「熱烈な国粋主義者」という 表現は、『国語学辞典』(1955)の「山田孝雄」の 項目に みられる ことばであり、執筆者名義としては 築島裕(最年少編集委員)と なっているが、山田という 追放解除後の 大御所に 対して 若輩が この語を つかえたとも おもえず、じつは おなじく 編集委員であった 山田俊雄(孝雄の子)が 準備した 原稿(資料)の 字句を 踏襲した ものか と わたしは 推定している。
 ということは、この「熱烈な 国粋主義者」という 連語を 「戦後民主主義」的な コノテーションで よんでは いけない という ことでも ある。「熱狂的な (超)国家主義者」では ないのだ。「熱烈な 恋 / 熱烈に 歓迎する」といった「熱烈」に マイナス評価は ない。そして「国粋主義」は 推進者の 言辞であって、政治学者の 術語ではない。

 まず 山田が 辰猪を 評して「明治前期の政治家として明治政府の一敵國の観のあつた大人物であるが …」(『國語學史要』p.298)と したり、「… 日本語で普通教育を完成するに十分であるといふことを痛論して …」(同 p.299)と したり して、「敵國」「普通教育」といった 国(家)レベルの 概念で 評価している ことに 注意すべきである。
 初期 上昇期の ナショナリズムが 対外的な 困難な 状況において 民族=国家の まとまりを 必要とするのと、後期 爛熟期の ナショナリズムが 対内的な 支配の 道具として 利用されるのと、イデオロギー的機能において 同一視は できないのであり、山田孝雄の ナショナリズムの 内実は 慎重に 吟味されなくてはならない と おもう。
 そのさい 日本の 近代化を つよく いろどる <欧化(西欧化)> の ひとつとして 個人主義、つまり 国家や 家より 個人を 優先する 思想が つよくなっていった わけであるが、そうした 社会の うねりの なかで 山田孝雄は 全体としての 国家を 優先する「国体を 宣明した」のである。「闘う家長」(山崎正和)として いき、のちに 墓石には「(石見人)森林太郎」とのみ かかせた『舞姫』の 作者であり、臨時仮名遣調査委員会に 軍服を きて 出席し、軍刀を ちらつかせながら 意見陳述する 陸軍軍医総監 医務局長であり、乃木大将の 殉死に 感動しつつも 「かのやうに」も いきた 歴史家であった 森鴎外から 「国語問題」の あとを 託されたのが 山田孝雄であった という ことも かんがえあわせる 必要がある。山田孝雄を たんなる 国語政策の 論客と みあやまっては ならないのである。

 また、馬場辰猪によって 国語学史を むすぶ ことは、上田万年 保科孝一らによって 代表される「欧化」の 近代言語学に 毒された 近代国語学の うごきの 記述を 抹殺する ことでもある。
 おそらく はじめて 馬場辰猪を とりあげた 福井久蔵(1907)『日本文法史』が あらたな うごきも 記述して 1934年に 増訂版を 刊行した その 翌年に 山田孝雄の『國語學史要』は でているのである。初版の 福井久蔵(1907)では 馬場辰猪だけが 欧化の ながれの なかで えがかれていた のだが、増訂版の 福井久蔵(1934)では 馬場辰猪も 山田孝雄も 欧化の ながれに 量的には 埋没して 記述される ことになる。「文法史」と いいながら、時系列的な 文法書解題 列挙の 感が なくも ない。山田孝雄は、この件に関し 福井久蔵の なまえを だしたがらない。たとえば『国語政策の根本問題』p.21 l.5、『國語學史要』p.299 l.-5。馬場や 山田の 評価の しかた、歴史叙述の ありかたに 批判が あったのでは ないだろうか。
 策略を いうなら、この <反国学> としての「欧化」の ながれを 無視する 策略と みるのなら まだ ましで、一石二鳥の 戦略として ありうる ことだが、上述の ような 国語政策上の 戦術と みるのは、ものを みる めが ゆがんでいる というか、みづからの 認識や 関心の まずしさを とわずがたりに かたっている ようにも おもわれる。「進歩的な 文部官僚」の ものの みかたと おなじなのだろうか。「(議会制)民主主義」を 「聖域」もしくは「世界観」と みなして 不問に 付す 議論の 堂々めぐりに ならないか。そもそも「国語国字問題」は ときの 政府の だす 一片の 法令によって 解決を はかる ような ことで よかったのであろうか。やはり 「言語文字問題」ならぬ「国語国字問題」と よばれて きた 歴史は 複雑で、近代主義で とけるほど 表層的な 問題ではない のである。

 山田孝雄を ナショナリズム/国家主義 という 西欧/普遍の 用語で 分析しようとする ばあい、「世界無比 無類」と いえるか どうかは ともかく、日本の「特異性」は じゅうぶん 考慮されなくてはならない。
 山田孝雄の『國學の本義』などの 説明を よんでみると、抽象的 主観的に おなじことが 各論文で くりかえされる ばかりで 具体的 客観的な 論理展開とも いうべき ものは みられず、率直に いって なにが 肝腎なのか どう 体系化されるのか、隔靴掻痒の 感を もたされてしまう。しかし これが「以心伝心」「ことあげを しない (くに)」という ことと つながる ものであろうか、それが できなく なっている ほど わたしが 西欧に 毒されている のかもしれない と 反省してみる べきなのだろうか。宣長の『古事記伝』「直毘霊(なほびの みたま)」、成章の『あゆひ抄』「大旨(おほむね)」などを よんだ さいにも、ただ 西欧の 論理を 素養とした めには わりきれぬ ものを 感じた おぼえが ある。わが「近代の 超克」が 問題に なるのであろうか。
 「國家」にしろ 「國體」にしろ、この 日本語の 語構成は あきらかに 擬人的である。また、
     國體の宣明は國學の第一要義なり。 (『大日本國體概論』劈頭)
を 説明して かたられる ことは きわめて「文化」的 「精神」的である。一種の (聖典)解釈学である。その「精神」において、こころざし なかばにして たおれた 馬場辰猪の わかき ちしおに、功 なり な とげた 山田孝雄は、共感 感動するのだ と おもう。大正以降は 山田孝雄の 時間は とまってしまった のではないか。進歩も なかった かわり、國體 國學の「精神」は わかい ままだった。
 『日本文法論』(1908)と『日本文法学概論』(1936)、『大日本國體概論』(1910)と 『國學の本義』(1942)とを よみくらべてみて、整理整頓は され 啓蒙的に なっては いても、たいした 進展も ない ように おもうのだが、「気心」が かよいあう ように なるまで、もっと よみこまなければ いけない ような 気も するし、ミイラとりが ミイラに なってしまう ような 気も してしまうのだ。


2)全7巻+別巻から なる『日本語の歴史』は、なんどか よそおいを かえて 復刊された 名著であり、第6・7巻には 「国語・国語問題」という なまえの 章も たてられている のであるが、最終の 第7巻 巻末に 付された 人名索引に したがえば、馬場辰猪は 登場せず、森有礼は 3回 登場するも 別の 案件(明六雑誌 学校令)に よる ものであり、山田孝雄も 4回 登場するも 3回は 漢語 漢文に 関してであり、1回は 文法単位「複語尾」に 関してであり、前節冒頭に ふれた できごとについては いっさい ふれられていないのである。保科孝一も 登場しない。「国語政策」に関する 問題は さけて とおっている。「民族・国家」も キーワードに たてて、意欲的であった この 著作に どうして この 欠落が 生じたのだろうか。
 この 著作は、山田俊雄(国語学) 大藤時彦(民俗学)とともに 亀井孝が 編集委員会を 組織し、各専門家の かいた 原稿を もとに 「リライト」という あたらしい 手法で 統括 編集した ものであって、その 編集代表と 目された 壮年期の 亀井孝が 以上の できごとを しらぬ わけが ないし、うっかり わすれる はずも ない。「言語学者」田中克彦と ちがって、「日本語学」(1938)を 提唱した 学者が 保科孝一に「国家語」の 論文(1933)が ある ことを しらぬ はずも ないが、言及は ない。なぜ この 禁欲が 必要だったのだろうか。
 以前 別のところで かいた ように、柳田國男と 亀井孝との 関係も 興味を そそられる ものが あったが、山田孝雄と 亀井孝との 関係も、山田俊雄の なかだちも あり、興味津々であったが、生前 ついに これに ふれる ことは なかった ように おもう。
 「天皇制」に関しても、ドイツ語(1969)からの 抄訳(1974)は ゆるした ものの、ついに 日本語では かかなかったし、「こくご」に関しても、『国語と国文学』国語史特集号(1970)の 巻頭論文として かいたが、依頼原稿だったのだろうか 亀井にしては やや つっこみが たりない 感じで、「ささやかな 意図」(あとがき)で ひきさがっており、その「あとがき」にも 「上田万年」「教育勅語・軍人勅諭」の 問題に ふれながら、山田孝雄/国学 関係には ふれようとせず、「専攻に 対する 倫理への 反省にも つながる 問題」について 意味ありげに 暗示するに とどめているのは なぜなのだろうか。(くわしくは データの へやに ある「日本語学外史年表」の 該当年を 参照)
 山田孝雄を めぐっては、かんがえれば かんがえるほど なぞは ふかまる ばかりである。それだけ 問題が ふかく ひろく きざまれており、昭和 戦前期に「日本語学」を さけんだ ものの こころの きずも ふかい という ことであろうか。同時代史という ものは かきにくい ものなのだろう。占領軍と その 便乗ぐみとの 戦争責任の 政治的解決(ex, 公職追放)が かえって 学問的な「反省」を 困難に したのだろうか。


3)馬場辰猪の 通称『日本文典初歩』に もどろう。
馬場辰猪の日本語文法は、おおよそ英文法の枠組みにしたがって組み立てられている。……… ヨーロッパ語の文法に日本語をおしこめることは、山田孝雄がもっとも憎悪したものであるにもかかわらず、………
といった 疑問が あるのは もっともでは あるから。
 山田孝雄は『国語学史要』の p.287 で、
以上、鶴峯戊申から中根叔に至るまで、西洋文法を国語の上に加へようとする企てはいづれも失敗したのであるが、しかし、失敗とはいひながら、徐々に進歩して漸次に、国語の法則と西洋語の法則との間に存する異同を認識せしめ、それの間の難関がどこにあるかといふことを明かに示すやうになつて来た。その難関といふものは多々あるが、最も著しい点は形容詞と助詞との二にあるといふことが、明かにせられ、これらを適切に処置することが出来なければ、決して成功するもので無いといふことを示してゐる。
と のべていて、「形容詞と助詞」の とりあつかいかたを 重視している。形容詞に関しては たしかに「西洋文典模倣」の 域とも いえるが、助詞の "wa" "ga" "mo" は 名詞の 格あつかい とはいえ、"kara" "ni" は "preposition(前置詞)" と あつかわれており、注では むしろ "postposition(後置詞)" と よぶべきだ と のべている。形容詞に関しても、こまかい ことを いえば 用例に あげられている 語は "kireina" "takusanna" といった 山田孝雄も 形容詞ではなく 情態副詞と した 語であって、いわゆる シ シク活用を もつ 形容詞ではない。これは やや ラフな いいかたを すれば、有名な エピソード 国語教師時代の にがい おもいでに つながる 教科書、つまり 関根正直の『国語学 完』(1891 明24)の レベル(は=主格助詞、形容詞副詞 交錯)に ちかいと いうべきで、国語学の しろうととしては よく できている と みえたであろう。それに くわえて「国語擁護」の 序文である、ただの 判官びいきとも いえないであろう。
 なお、この「助詞 = postposition」の ことは、『国語学史要』p.299 に 明示的に 指摘されていた ことであり、よみての 問題意識が「未熟」でなければ よみおとす ことも なかったであろう。ついでに いえば この エピソードは、格・係を 中心とした「助詞」論こそが 山田孝雄にとって 文法の「生命線」というか「
大黒柱」であった ことをも しめしている ように おもう。
 「形容詞」の あつかいについては、むしろ 大槻文彦の 功に 帰すべき ものであろう。


4)『日本文典初歩』が ロンドン留学時代の 馬場辰猪 初期の 力作であるとすれば、晩期 日本で 最後の 著作は『雄弁法』(全集第2巻所収 1885 明18)である。むろん もとは 講演筆記である。
 「馬場は日本語で文章を書くのが不得手らしい」という 評判が 一種の 伝説に なっていた ことは、萩原延壽『馬場辰猪』も 西田長壽の 明治文学全集12の 解説も ふれているが、その「雄弁」を めぐる 評価は たかい。なかでも 萩原は 『馬場辰猪』の 第16節の かなりの スペースを さいて『雄弁法』を 紹介し、ただしく 言論における 雄弁の 位置を みている。「馬場辰猪の言語的空白」などと ばかな ことは いわない。
 くわしくは 萩原の 本 もしくは 全集本に ゆずるが、漢文よみくだし文体が 当時の かきことばの 主流であった こと自体が 問題なのであり、馬場辰猪も、言文一致の 実践こそ できなかった にしても、必要は ひしひしと 感じていた、失意と ともに。『「国語」という思想』の 序章に するのなら、ここまでは 最低限 つきあう べきである。なき 亀井孝なら きっと そう 指導したと おもう。
亀井孝が 生前 田中克彦に「誰か保科さんの仕事を顕彰してくれるひとがいるといいね」と いっていた という はなしが、その本の「あとがき」に 紹介されているが、亀井孝の くちから でた はなしなら、「顕彰」ぢゃなくて、「検証」ぢゃないかな。「三代目 …」

 「国語」については ひとまず おくとして、言語認識としては 「空白」どころか 問題は もっと ひろがる。萩原延壽は 『馬場辰猪全集』第4巻の「編者あとがき」(1988)に 『馬場辰猪』(1967)の 自己批判として、
 旧作の不備は多々あるが、そのひとつは、馬場が英語で考えたことの積極的な意味にほとんど目を向けなかったことであろう。わたしが気がかりであったのは、むしろその消極的な意味のほうであった。馬場は雄弁家として知られたが、日記と自伝を英語で書いているように。自分の思考の筋道をつけるさいに使用したのは、日本語ではなく、英語ではなかったかと想像される。……… (p.560)
うんぬんと、思考の 土着性/普遍性 の 問題と からめて みじかいながらも おもしろい 問題提起を している。二重言語と 思考の 二重性の 問題である。その後の 研究が どう なっているのかは 寡聞にして しらないが、結論が どう なるにせよ、「馬場辰猪の言語的空白」という とらえかたは 二重の あやまりを おかしている。問題の たてかた・さぐりかたが 未熟で 安直な ことを、序章で 自己暴露した ことに なる。


5)しめくくりに、山田孝雄の「国語政策」上の 意見も きいておこう。
山田が馬場を称賛した最初の「国語政策の根本問題」における山田の馬場評価を見ても、やはり森有礼との対抗の言説としての域を出ないように読める。
といった 趣旨の 意見も あるからであるが、「山田の馬場評価」と いえば、
……… 森有礼が国語を排して英語にせうとした時に彼は倫敦に留学中であつたが奮然として立つて、これは一大事なりとして遂に英文で日本文典を作つて其の序文に堂々と日本文には秩序のあることを世界環視の中に公言した。私は個人としてはこの文法書の説明には賛成出来ない点が勿論ある。しかし兎に角当時の官憲が日本語を撲滅せんとした時にこれに絶対的反対を唱へたことは其の意気の偉大なるものであると云はなければならないと思ふ。………(のちの 単行文 p.20 l.3〜8。下線 引用者)
の あたりを さすのではないかと おもうのであるが、これが「森有礼との対抗の言説としての域を出ない」のであろうか。「対抗/抗して」という ことと 「自分の陣営に引き寄せた」という ことは おなじ ことなのだろうか。「対抗/抵抗」という 語の 価値も 最近は 下落している のだろうか (cf. 例の 小泉もと首相の「抵抗勢力」)。 「… 域を出ない」と いっているのだから、やはり 支配 管理の たちばから いっているのだろう。とすれば、わたしには この文章は そうは よめない。よかれあしかれ「意気」という 語=観点を つかっている ことに わたしは 注目する。また「官憲/官庁/明治政府」といった 語に こめられた ふくみ(connotation)にも。
 主観的には、かれは 生涯 体制派では なかったのだ。皇學館大學 学長、国史編修院 院長の かどで 戦後 公職追放に なった としても、その 処置は 官僚の 形式的処理(かたがき)に よる もので、思想の 内実が とわれた わけではない。でなければ 石橋湛山や 市川房江が 追放に なったのも 政治的な 恣意に よる ものだ という ことに なるだろう。しかし 山田の どちらの かたがきも、"ふるくさくて くちうるさい" としよりを "まつりあげておく" かたがきだった という 解釈だって ありえない ことでも ないだろう。
 山田孝雄を、たとえば その 主観主義を 批判してもいい、いや 批判すべきである。しかし 批判するにしても いったんは 山田の たちばに たって その きもちや かまえを 理解してから、内在的に 批判すべきではないか。時枝誠記を もじって いえば、「主体的立場」を とおさない「観察的立場」 外在的な 批判は、ことばの 通じあい(communication)として うわすべりで、むなしくは ないか。
 「森有礼との対抗の言説」である ことを 政治力学的に「陣営」の 問題と むすびつけて 理解しては ならない。通念的な 連想は、生活上 簡便ではあるが、学問上 安直で 往々にして 有害である。主観主義批判は 主観の 介在じたいを 批判するのではない、主観の 恣意(的な 専横)を 批判するのである。通念的な 連想、常識的な 関係づけも、無批判的な 常識(通念) 安住という 主観主義である。
 単行本『国語政策の根本問題』に ふれた ついでに、つぎの ことも 注意しておきたい。単行本の「諸言」に、
顧みれば、本書に収めしものは大正13 4年の交と昭和6年との二の焦点を有せり。而してこれ実にわが国語の危機に瀕したる時期に属せり。………
と のべているが、この「大正13 4年の交」というのが 文部省の 仮名遣改定案 等の 提出時期に しばられているのは あたりまえの ことであるが、その 2年まえ 大正11年には 国語問題の あとを 山田孝雄に 託して 森鴎外が しんでおり、大正13年には 関東大震災が おきている ことも おもいだしておこう。「官憲」が 往々にして 戦争や 災害等の どさくさに 法案を 提出しがちであった ことも ついでに。「国語問題」を 「政治革命」と いっしょにして いいのか、山田孝雄の こころのなかに そんな さけびが ききとれない であろうか。
 山田孝雄が 「根本問題」とか 「根本義」とか 「本義」とか 「本質」とかの 語を このんで 論文や 単行本の なまえに もちいた ことを わらってもいいが、山田孝雄の 主観や 意図を 問題に する ときには、この点にも 留意し、その 学問の システムのなかに 正当に 位置づけなければ、論評に あたいする 研究とは いえないだろう。

 上田万年や 保科孝一の「顕彰」も、馬場辰猪や 山田孝雄の「検証」も、安直な「史観」からの 裁断批評が たれながされては いないか。


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工藤 浩 / くどう ひろし / KUDOO Hirosi / Hiroshi Kudow


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