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補  注


■以下、民主主義科学者協会に関しては、次の文献を おもに 参考にした。

石母田正『歴史と民族の発見──歴史学の課題と方法──』(1952年03月 東大出版会)
石母田正『続・歴史と民族の発見──人間・抵抗・学風──』(1953年02月 東大出版会)

渡部義通述/ヒアリング・グループ編『思想と学問の自伝』(1974年09月 河出書房新社)
柘植秀臣『民科と私──戦後一科学者の歩み──』(1980年12月 勁草書房)
小宮山量平『戦後精神の行くえ』(聞き手 鈴木正・渡辺雅男 1996年09月 こぶし書房)

久野収・鶴見俊輔・藤田省三『戦後日本の思想』(1959年[1966年復刊] 勁草書房)
広重徹『戦後日本の科学運動』(1960年10月[1969年09月復刊] 中央公論社)


■『象は鼻が長い』

 1964年の増補3版では、奥田靖雄との間の「批判と反批判」を増補したが、1969年の「改訂増補4版」では、「増補第2回」として「1.日英文法の比較」と「2.存在文の問題」を増補したかわりに、奥田靖雄「『文法教育の革新』について」への反批判である「日本人の言語意識」は、最初の四分の一ほどを残して、あとは おおはばに カットされている。全文は、いまは『三上章論文集』で見ることができる。
 単に ページ数の増加をおそれて カットされたとも考えにくく、反論として 有効ではない、もしくは 適切ではない、と 三上が考えた可能性も ある。すくなくとも「増補第2回」の二論文を のせる方が、有意義だと考えたのであろう。日本語学における「論争」のあり方の一つとして 関心があり、できれば、もうすこし くわしい事情を知りたいと思っている。
 なお、その際 同時に、三上の「なくて七癖」の 片仮名長音表記に関する短文や、ドビュッシーのピアノ曲集のタイトルを「子どもの一隅」から「子どもの領分」へ改訳することに成功した「ちょっと得意」な話 "Jimbo's (Jumbo's) Lullaby" などを含む「3・注釈など」も、削除されている。こちらは、論文集その他にも ないようで、ちょっと残念である。


■「師の説に なづまざる事」

おのれ 古典(イニシヘブミ)を とくに、師の説と たがへること多く、師の説の わろき事あるをば、わきまへいふことも おほかるを、いと あるまじきことゝ思ふ人 おほかめれど、これすなはち わが師の心にて、つねに をしへられしは、後によき考への出来たらんには、かならずしも 師の説に たがふとて、な はゞかりそ となむ、教へられし、こは いと たふとき をしへにて、わが師の、よに すぐれ給へる 一つ也、大かた 古(ヘ)を かむかふる事、さらに ひとり二人の力もて、こと\゛/く あきらめつくすべくもあらず、又 よき人の説ならんからに、多くの中には、誤(リ)も などか なからむ、必 わろきことも まじらでは え あらず、その おのが心には、今は いにしへの こゝろ こと\゛/く明らか也、これをおきては、あるべくもあらずと、思ひ定めたることも、おもひの外に、又 人の ことなる よき かむかへも いでくる わざ也、あまたの年を経(フ)る まに\/、さき\゛/の考(ヘ)のうへを、なほ よく考へきはむるからに、つぎ\/に くはしく なりもてゆく わざなれば、師の説なりとて、かならず なづみ守るべきにもあらず、よきあしきを いはず、ひたぶるに ふるきを まもるは、学問の道には、いふかひなき わざ也、又 おのが師などの わろきことを いひあらはすは、いと かしこくはあれど、それも いはざれば、世の学者 その説に まどひて、長く よきを しる ご【期】なし、師の説なりとして、わろきを しりながら、いはず つゝみかくして、よさまに つくろひをらんは、たゞ師をのみ たふとみて、道をば思はざる也、宣長は、道を尊み 古(ヘ)を思ひて ひたぶるに 道の明らかならん事を思ひ、古(ヘ)の意の あきらかならん ことを むねと思ふが故に、わたくしに 師を たふとむ ことわりの かけむ ことをば、えしも かへり見ざること あるを、猶 わろしと、そしらむ人は そしりてよ、そは せんかたなし、われは 人に そしられじ、よき人にならむとて、道をまげ、古(ヘ)の意をまげて、さてある わざは え せずなん、これすなはち わが師の心なれば、かへりては 師を たふとむにも あるべくや、そは いかにもあれ、

本居宣長『玉かつま 二の巻』(村岡 典嗣 校訂の 岩波文庫(上) p.91〜93 に よる)


■大東亜文化協会

 この協会は、素姓の はっきりしない団体である。「偽装転向」者の集団であった 可能性がある。
 執筆者のうち、新屋敷 幸繁 は、実在の人物で、雑誌『方言』などにも執筆している人物である。当時は たしか 七高(現 鹿児島大学)教授で、1980年代には 沖縄国際大学教授をしていた という情報もあった(年齢的に 元教授 または 名誉教授であったろう)。が、連絡をとることは 結局 できず、この本の第二篇(すべて)の 実際の執筆者と同一人物と みなしてよいか どうかは、よくは わからない。1985年に なくなられたという。
 中野 徹 に関しては、実在の人物としては、他に見ない名である。おそらく だれかの偽名であろう。その偽名の つくりかたから、なんにんかの候補者を推定してはいるが、つかみきれていない。
 いずれにせよ、内容は、本格的なものであり、学問的にも レベルが高い。次のページに、「偽装転向」かと疑われる「序」のほか、目次や 巻末の広告などを抄録しておく。
 この本については、いつか しっかりした紹介をしたいと思っているが、関係者が次々と他界していくなかにあって、事情を知る関係者から なんらかの情報が えられれば、という気持ちから、あえて いま注記することにした。(出版後 はや 還暦をむかえる 60年目の年頭に)


■吉村 康子

 筆名「吉村 康子」については、2002年夏の白馬日本語研究会(軽井沢)で発表したあと、メンバーのひとりから、私信で「当時の『コトバの科学』の編集委員3名の姓名 大島夫・奥田雄・野篤司から 一字ずつとって 適宜 同訓異字の漢字にかえ、女性名らしくすれば、<吉村 康子>が できあがるのでは」という趣旨の意見が寄せられ、私も 筆名の由来は そんなところではないかと思う旨 お答えしておいた。その後も、同様の意見が寄せられることがあるので、この際 ここに明記しておくことにする。「特定の一個人のものというより、「集団的討議」にもとづいて書かれたものと見るべきかと思われる」と記した所以でもある。
 なお、関係者の話によれば、当日 出席していた時枝誠記から 最初に、この「吉村 康子」という かたは どういう かたですか、という質問があった際、奥田靖雄が 言下に「投稿です」と答えた、という。
 ちなみに、同じ関係者は「時枝氏が どんな ところにでも はなしを ききに いき、意見を のべて くると いう 姿勢で ある ことに 感服しました」ということも 述べておられるが、前の、ちいさなことに こだわらないこと といい、この、意見のちがいは ちがいとして、議論を だいじにされたこと といい、私の<記憶のなかの時枝誠記>と ほぼ一致する。


■『皇国民運動と国語問題』

 敗戦直前の 1945年6月10日に、新半島文化叢書 第四輯 として発行された。目次を かかげておく。

   序  文                        (無 署 名 8行)

第一篇 (研究)
 国語と朝鮮語の関係      京城帝国大学助教授      河野 六郎  1

第二篇 (論説)
 国語普及の進度と全解運動   朝鮮総督府編修官       広瀬  続 29
 国語文化運動の新展開     国民総力朝鮮連盟専務参事   寺本 喜一 51

第三篇 (国語運動の先駆と実例)
 舞鶴高女に於けることばひろめ 平安南道視学官 旧舞鶴高女校長 長谷山利市 67
 国語には大和魂がこもる    京城大和塾々長        長崎 祐三 75
 我が面に於ける国語全解運動  京幾道高陽郡崇仁面長     永田 種秀 83

第四篇
 国語のすゝめ         朝鮮総督府編修官補      大槻 芳広 93-120
 巻頭の論文 河野六郎「国語と朝鮮語の関係」は、河野六郎著作集に 収録されていない。編集を担当した 故志部昭平氏に たずねたところ、生前 著者が「固く辞退された」とのことであった。
 その内容は、学問的には とくに やましいところなど ないと思うのだが ……。単体として 学問的に 不偏(不党)であっても、論集内の位置において 政治的に 中立でありえないことを、また、この 新半島文化叢書に 書いたこと自体を、反省・後悔しておられたのであろうか。




 




 




 



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