はじめ | データ | しごと | ノート | ながれ


日 本 語 学 史

───文法を中心に───

工 藤  浩

0 はじめに 
1 国学以前 ── 日本語学の萌芽期
2 近世の国学の文法研究(付 蘭学)
3 近代日本語学の流れ 文法を中心に

【図版の多くは、省略した。いまなお市販中の教科書(の改訂原稿)ゆえ、ご寛恕を乞う。】


0 はじめに 

 こどもの頃から自然に身につけた言語を、意識化し対象化して考えることは、普通にあることではない。それは一般に、なんらかの「違い」に気づいたときに始まるといっていいだろう。その違いを意識させる代表的なものは、空間的には、外国語や方言であり、時間的には、古典・古語であろう。
 日本語学の萌芽としての、言語の意識化・自覚的反省も、やはりこの二つから起こった。つまり、古代における中国語との接触・学習と、中世における、日本書紀や万葉集や古今集などの古典の解釈 および それを規範とする学習とが、日本語を対象化する契機となり、また探求する動機となったのである。方言についても、古く風土記や万葉集の東歌・防人歌に記載があり、中世近世の連歌師俳諧師などにも注目されたが、文法にかかわることは少ない。
 外来の思想や学問との出会いは、古くは仏教思想・悉曇学から、漢学・蘭学、そして明治以降の西欧の言語学に至るまで、古今を通じて大きな刺激と影響とを日本語学に与えた。なお、キリシタンとの接触においては、日本人も資料提供者として参加して、ロドリゲスの日本文典など多くの成果を生んだが、日本の学者・学問には、ほとんど影響を残さなかった。

1 国学以前───日本語学の萌芽期

1-1 [文字 音韻]
一般に、文字の獲得、表記法の確立は、言語音声の自覚的認識なしにはありえないが、日本語の歴史においては、漢字という外国語の文字によって それが与えられたことが、大きな特徴になる。
 音韻組織の異なる中国語の文字である漢字を、いわば外来語として借用する漢字の「音」用法だけでなく、意味の翻訳・対応に基づいて、固有日本語を表記する漢字の「訓」用法まで成立させたことは注意していい。また、地名、神名などの固有名を表記する工夫として、漢字を音仮名として用いる「万葉がな」は、和歌の音数律(五拍七拍)とあいまって、音節・拍の自覚を促し、「あめつち」や「いろは歌」に導いた。さらに、仏教における「悉曇学」(古代サンスクリット語学)の学習は、漢詩の「平仄(ヒョウソク)」、漢字音の「反切」とあいまって、音韻・音素的な見方を促し、「五十音図」へと導いた。

1-2 [単語分類の萌芽]単語が語形変化しない孤立語的特徴を色濃くもった古代中国語の文章を読みとく中で、具体的には、漢文訓読における「返り点」や現行の送り仮名にあたる「をこと点」を通して、日中の語順の違いや、対応する物がないものとして、活用語尾や助詞助動詞を意識するようになる。大伴家持の「ホトトギスを詠む二首」(万葉集巻19)には「毛能波三箇辞之を欠く」「毛能波弖爾乎六箇辞之を欠く」という注が付いているが、これは「も、の、は、て、に、を」を「辞」と呼んで特別視し、それをあえて使わずに歌作りをしたことを意味している。
 そして、そうした区別を日本語を書く表記として活用したのが、助詞助動詞や語尾を右寄せに小文字で書く「宣命書(センミョウガキ)」であった。
 この他、平安期の歌論書には「てにをは」に関してさまざまな言及があるが、この期の特徴は、特殊なもの・変わったものへの注目・名づけであり、一般的なもの・普通のものは 無名のまま とり残される。したがって、たとえば漢字に対応物のある「ず(不)」「む(将)」などが、他の助動詞と同様に「辞」と意識されたかどうかは、結局わからない。そんな、あいまいで素朴な問題の自覚であった。

1-3 [てにをは 体用]中世(鎌倉室町期)に入ると、もはやそのままでは読めなくなっていた万葉集や日本書紀などの古典の注釈が行なわれ、「古今集」をはじめとする三代集も、和歌制作の規範とするために学習が必要とされるようになる。そこでは、前代の外国語との差異とは違い、日本語内部における表現価値の差異を伴なう形で意識されてくる。たとえば「手爾波テニハ 大概抄」は、和歌制作のための「てには」の用法を説いたものであるが、その中で「詞は寺社の如く、手爾波は荘厳の如し。荘厳の手爾波を以て、寺社の尊卑を定む」という比喩で、「詞」と「てには」を類別している。ただ、この「てには」という語で指すものは、表現における修辞的な用法(「留り」など)のことであって、文法的な分類項ではない。
 連歌論においては、二条良基の「僻連抄」「連理秘抄」などで、従来の「詞」の内部から、実体・本体を表す「物の名」(名詞にほぼ当たる)を取出し、その他の(動詞を中心とする)ものを「詞」に残すことによって、従来の「てにをは」とあわせて、「物(の名)」「詞」「てにをは」の三分類を生み出した。そこには、仏教や宋学における「体用(タイユウ)思想」からの影響と思われる、付け合いにおける「体(実体)」と「用(作用)」の区別が関与している。 
 この「体と用」は、のちに活用の有無による分類「体言」「用言」へと変容して行くが、三分類自体は、後世まで根強く繰り返される。


2 近世の国学の文法研究 (付 蘭学)

2-0 中世以来、秘伝の形で伝えられていたものが、江戸時代に入り、町人の台頭、出版文化の発達に伴って、次第に公刊されるようになる。なかで、栂井(トガノイ) 道敏の「てには網引綱」(1770刊)は、秘伝を難じその法則の不備を指摘して、学問の公開に先駆けたが、実証的学問の未成熟から、法則性そのものまで否定してしまう傾向もあった。なお、副詞類を「てにをは」から区別していて、品詞四分法の先駆をなしている。
 公開討議の精神から次第に実証性を増していくが、契沖、荷田春満、賀茂真淵等に至って、記紀万葉を中心とする「古代精神」を志向する学問「国学」が成立する。さらに、本居宣長、富士谷成章以降は、研究対象が中古の歌文に拡大され、言語の変遷ないし歴史の認識もあらわれた。

2-1 本居宣長(1730〜1801)の文法関係の仕事としては、係結びの法則を図表化した「てにをは紐鏡ヒモカガミ」(1771刊)と、その例証・解説にあたる「詞の玉緒」(1785刊)とがある。係結びの法則を「本末をかなへあはするさだまり」とし、その「本=係り」に、「は・も・徒タダ(係り助辞なしの意)」「ぞ・の・や・何(疑問詞)」「こそ」の三種があること、それに対応する「末=結び」は、それぞれ現行の終止形、連体形、已然形に「三転」(四段では二転)し、図に示す43段の型のいずれかに属するとした。係結びに、「は・も・徒」という終止形と呼応するものも挙げていることは注意すべきである。のちの山田孝雄の係助詞論に影響を与えている。「紐鏡」ではさらに、従来の「てにをは」研究が取り上げていた「留り・切れ」の問題や、「ましかば……まし」の呼応の類にまで及んでいる。歌文の制作ないし理解の道標として、文における「呼応」関係一般に、関心が向けられているのである。
 「活用言の冊子」(のちに『御国詞(ミクニコトバ)活用抄』として流布するものの未定稿)では、用言の活用の整理が試みられ、活用の型と行の別によって27の「会(エ)」に分けられている。第26・27会はク活シク活の形容詞、それ以外の25の会が動詞の部類である。のちの活用研究の源泉となったものである。
 宣長は、中世以来の表現論的な研究の大成者ともいうべき人で、その文法研究も、文に即し作歌に役立つ、具体的なものである。なお、古代を「古言」、中古を「雅言」と呼び、言語の変遷は認めたが、それ以降はその崩れた「俗言」と見るような「歴史」観であった。
 国学というと「漢意」を排斥した宣長のことがあまりにも有名だが、これは、わざわざそう言わざるをえないような状況が 当時あったことの あかしだと見るべきだろう。実際、富士谷成章や鈴木朖などには、漢学、とりわけ荻生徂徠をはじめとする古文辞学派の影響があったと見られる。

2-2 言語を「構造」的に捉えた学者として、漢学の素養を持つ富士谷成章ナリアキラ(1738〜1779)がいる。彼は「脚結アユヒ 抄」(1778刊)の大旨(オオムネ)において、「名をもて物をことわり、装ヨソヒ をもて事をさだめ、挿頭カザシ・脚結アユヒ をもてことばをたすく」と述べる。「名ナ」(体言)「装ヨソヒ」(用言)「挿頭カザシ」(副用言)「脚結アユヒ」(助詞助動詞)の四つに、身体の比喩による命名を用いて品詞分類するとともに、「物を理り(=事割り)」「事を定め」るという言い方で、主述ないし題述関係とも言うべき文構造にも触れており、またその命名法にも明らかだが「頭にかざしあり、身によそひあり、下つかたにあゆひあるは………」(「挿頭抄」)と明言しているように、文中の位置・語順からも規定している。語と文との基本的な相関を捉えた、大局的で構造的な分類になっている。
 「ことばをたすく」るものとして「かざし・あゆひ」を一括している点では三分類とも言えるが、その点は、実兄の皆川淇園の「助字詳解」等の「実字 虚字 助字」の三分類に一致し、「かざし」を別に立てる点は、伊藤東涯の「操觚字訣」の「実字 虚字 助字 語辞」の四分類に一致する。
 「かざし抄」(1767成)は、(作歌のための)副用言の五十音順の辞書にあたるものだが、現行の情態副詞は含まず、かわりに指示詞・疑問詞を含んでおり、接続・陳述・評価〜程度・指示〜疑問など、なんらかの点で話し手の立場に関与するものを、一類として考えていたようである。
 「あゆひ抄」は、助詞助動詞の体系的記述だが、上接語との接続を重視し、まず「名をも受」けることの出来るものと出来ないものとに二大別して、さらに前者を「属タグヒ」(文末助詞)と「家」(文中助詞)に、後者を「倫トモ」(テンス・ムード的な助動詞)と「身」(その他の助動詞など)と「隊ツラ」(活用しない接尾辞)とに分類して、意味と用法を記述する。
 上接語との接続を重視するところから、用言の活用形についても研究し、活用表にあたる「装図」(「あゆひ抄」大旨所収)が考案された。まず横に、品詞の下位区分として、「事コト(=動詞)」と「状サマ(=形容詞・形容動詞)」に二大別し、さらに前者を「孔アリナ(= 有り)」と狭義の「事(ラ変以外の動詞)」とに、後者を「在状アリサマ(=形容動詞)」「芝状シザマ(=ク活用形容詞)」「鋪状シキザマ(= シク活用形容詞)」とに分ける。縦には、活用形を示すが、「本モト(=語幹)」「末スエ(=終止形)」「引ヒキ(=孔・在状・芝状の連体形、平仮名で示す)」「靡ナビキ(=二段・変格・鋪状の連体形、片仮名で示す)」「靡伏ナビキフシ(=二段・変格の已然形、片仮名で示す)」とに、切れ続きの観点で分け、また「往キシカタ(=連用形)」「目メノマヘ(=命令形)」「来アラマシ(=未然形)」とに、時の観点で分ける。
 主に和歌の歌体・歌風に基づき「上つ世・中昔・中頃・近昔・をとつ世・今の世」という時代区分(「六運リクウン」)を唱えた点など、歴史認識も深いものがある。
 成章は、業半ばにして 若くして死に、またその独創性ゆえに 学を受け継ぐものが、明治の山田孝雄まで、ほとんど出なかった。

2-3 宣長の活用研究を発展させたのは、門人鈴木朖アキラ(1764〜1837)である。宣長は「働くかぎりの類」つまり、結びになる終止・連体・已然形のみを27会に分けたのだが、朖は「活語断続譜」(1803頃成)で「断」だけでなく「続」をも視野におさめ、「切れ続きによる分かち」を譜に表わそうとした。活用形を八等に分け、切れ続きの機能や接続する助辞を示しているが、その際、命令形を立てたこと、同じ形のいわゆる終止形を、切れる形の一等と、助辞につづく形の三等とに分けたこと、独立用法を先にし接続用法を後にしたことなどは、朖が、宣長や成章と同様、文における機能を重視したことを示している。
 「言語四種論」(1824刊)では、語の分類を示し、「体の詞」「てにをは」「形状アリカタの詞」「作用シワザの詞」の四種に分けるが、また、後二者は「用の詞」にまとめられ、発生的に「体の詞+てにをは」から構成されたものだという考えも示す。「てにをは」は六種に分けられるが、その中に「独立たるてにをは」として感動詞疑問詞に当たるもの、「詞に先立つてにをは」として副詞接続詞に当たるものを含めている。形態的独立性よりは、機能ないし表現性を重視している。「てにをは」の特徴を、他の「三種の詞」と比較して「さす所なし・心の声・(玉を貫く)緒の如し・(器物を)使ひ動かす手の如し」のように述べている。のちの時枝誠記の言語過程説に影響を与えた。

2-4 本居宣長の長子、本居春庭(1763〜1828)は「詞の八衢ヤチマタ」(1808刊)において、動詞の活用を形式的に整理した。徹底して「受くるてにをは」つまり助辞への接続を重視し、現代で言えば形態素論の立場で、「活用形」と「活用の種類」を確定した。ほぼ現行の学校文法の活用表にあたるものを完成したと言っていい。また「詞の通路カヨヒヂ」(1828頃成)では、自動詞他動詞、受身使役など広義のヴォイスのことを「自他の詞」と呼んで、1)おのづから然る、みづから然する、2)物を然する、3)他に然する、4)他に然さする、5)おのづから然せらるる、6)他に然せらるる、の六段に分けているが、これも、活用の種類の交替による意味の違いに注目したもので、あくまで活用研究の一環として行なわれたのである。
 春庭のあとを受け、彼のし残した形容詞と助動詞の活用を整理し、各活用形に名称を与えることによって、全活用語をほぼ現行の学校文法の形にまで整理したのが、東条義門(1786〜1843)である。図表としての「友鏡」(1823刊)や「和語説略図」(1833刊)と、その解説編としての「活語指南」(1844刊)に、その説は見られる。さらに「玉緒繰分」(1851刊)では、助詞助動詞を含めたすべての語を、活用の有無で「体言」「用言」に二大別するまでに至っている。
 なお、明治になってからのものだが、権田直助の「語学自在」(1885成)では、「言」と「助辞」に二大別し、さらにそれぞれを活用の有無によって「体言」「用言」、「体辞」「用辞」に分ける。副詞にあたる「属体辞」も、無活用を以て「体言」(ないし体辞)に属させられる。以上が、春庭以来のいわゆる「八衢学派」が行き着いた、活用=形態重視の研究の流れである。

2-5 富樫広蔭(1793〜1873)は、図表「辞玉襷」(1829刊)とその解説「詞玉橋」(1847成)で、まず大きく「言・詞・辞」の三種を分けたうえで、「言」に五種、「詞」に六種、「辞」に五種の差別を設ける。包括的な分類で、本居学派の集大成の感がある。「言以て世間にあらゆる物事を言ひわかち、詞以て物事のはたらき・ありかたを言ひさだめ、辞以て物事につきておもふこころをあらはし尽くす」と性格づける点は、一脈、成章に通うところがある。

2-6 以上の国学の流れとは別に、蘭学の系統において、オランダ語文典の影響下にすすめられた研究もあったが、その中で比較的まとまっているのが、鶴峰戊申シゲノブの、図表「語学究理九品九格総括図式」(1830)と文典「語学新書」(1833)である。品詞として「実体言ゐコトバ・虚体言ツキコトバ(=形容詞)・代名言カヘコトバ・連体言ツヅキコトバ(=分詞、動詞連体形)・活用言ハタラキコトバ(=動詞)・形容言サマコトバ(=副詞)・接続言ツヅケコトバ・指示言サシコトバ(=後置詞)・感動言ナゲキコトバ」の「九品」にわけ、また文法的カテゴリーとして、「能主格(主格)・所生格(属格)・所与格(与格)・所役格(対格)・所奪格(奪格)・呼召格(呼格)」の体言助辞六格と、「現在格・過去格・未来格」の用言助辞三格、あわせて「九格」に分ける。形容詞を「虚体言」としたこと、動詞連体形を「分詞」にあたる「連体言」としたことなど、問題も多いが、文中での機能や意味の観点から、形態を整理しようとした点は、先駆的な試みであった。なお、彼は、この九品九格を、いかなる言語にも適用できる普遍的なものと考えていた。 


3 近代日本語学の流れ 文法を中心に

3-1 明治前期 明治に入り、近代国家として出発しようとしていた日本においては、独立国家として、国民を統合する「国語=標準語」が求められ、しかもすべての国民にわかりやすい文章にするための「国字改良」「文体改良(言文一致)」が急務とされた。また、標準語を確立していくために、規範となりまた教育にも役立つ、近代的な「辞書」と「文典」との編纂が要請された。

3-1-1 明治初期の学制によって、小学校の教科として文法科が置かれた関係で、教科書として多くの文法書が書かれた。英語のschool grammarに基づいて書かれた、田中義廉ヨシカドの『小学日本文典』(1874)と、中根淑キヨシの『日本文典』(1876)が広く用いられた。これら「模倣文典」と呼ばれるものも、曲がりなりにも品詞全般にわたって、一応の組織を示した点は、評価しなければなるまい。ただ、「善き」は形容詞、「善く」は副詞、「善し」は動詞とするなど、不合理な点も少なくなかった。
 この点は、かえって B.H.Chamberlainの『日本小文典』(1887)や、A Hand-book of Colloquial Japanese (1888 初版)、W.G.Aston の Grammar of the Japanese Spoken Language (1888 第四版=増訂版)などの方が、国学の成果を受け入れ、よほど日本語の性格にかなっていた。

3-1-2 こうした状況のなかで、国学以来の伝統的な研究の成果と西洋文法の方法・成果とを調和させ、一応の体系化に成功したものとして登場したのが、大槻文彦(1847-1928)の『広日本文典』『同別記』(1897)である。これ以前1889年に出た『言海』第一巻の巻頭をかざった「語法指南(日本文典摘録)」もこの書のもとの原稿(1882年成)から摘録したものという。辞書の見出し語の品詞表示のためという実用上の目的をもち、また、国民教育のための教科書として書かれたものであったため、日本語の全体を見渡した上で、穏当な結論に達している。
 品詞としては、「名詞、動詞、形容詞、助動詞、副詞、接続詞、弖爾乎波(テニヲハ)、感動詞」の八つの品詞が立てられている(助動詞の位置に注意 後述)。「弖爾乎波」というのは、現行のいわゆる助詞のことで、名詞につくもの(格助詞に相当)、用言につくもの(接続助詞に相当)、種々の語につくもの(副助詞・係助詞に相当)、の三類に分けて説明している。終助詞・間投助詞に相当するものは、感動詞の中に入れられている。その他、形容動詞・連体詞が立てられていないなど、細かい点は異なるが、現在の学校文法の基礎はここに築かれた、と言っていい。
 「 -る・-す・-たり・-けり」など動詞に膠着する接辞を、単語とみなし「助動詞」という一品詞としたことは、現在の学校文法にも受け継がれているわけだが、はやく山田孝雄や松下大三郎が批判したように、理論的には問題である。しかし、実際の動詞の活用表や助動詞の扱いにおいては、両者の「連接」を重視し、述語の法mood、時 tense、相 voice等の文法的なカテゴリーを組織的に扱おうとしていて、助動詞を動詞から切りはなしたことが それほど大きな欠陥には なっていない。なお、のちに国語調査委員会の名で出た『口語法』(1916)『同別記』(1917)は、実質的には大槻の手になるものである。
 大筋において大槻文法に従いながら、名詞の格、用言の法や動詞の性相(ヴォイスや敬語)の扱いなど、記述の方法と内容に修正を加え、松下文法への橋渡し的な位置を占めるものに、三矢重松『高等日本文法』(1908)がある。また芳賀矢一『中等教科明治文典』(1904) 『口語文典大要』(1913)も、作文教育のためには「総合的方面に着眼せざるべからず」として「活用連語」を重視し、縦に敬語・肯否式、横に相・法・時を基準とした連語表(パラダイム)を示す。

3-2 明治の中期以降、日清・日露戦争期のナショナリズムの高揚という時代状況と、上田万年等による比較・歴史言語学の輸入とによって、一時期の日本語系統論への熱狂を経て、次第に着実な歴史的研究へとすすんだ。標準語制定のための基礎作業として、近代語の成立を跡づける歴史研究と方言調査とが求められ、国語調査委員会が1902年に設置された。明治後半から大正にかけての20世紀初頭は、日本語学の上昇期と言っていい。音韻・文字の学が飛躍的に進歩し、文献学(本文批判)も精密化し、『校本万葉集』(1924)に代表される基礎史料も整備された。また、口語史料の発掘もすすめられ、訓点資料・抄物・キリシタン資料などによって、口語の歴史も次第に明らかにされた。
 また、言文一致運動にも一定の成果のあがってきた1900年代から、現代口語の文法書も盛んに刊行されるようになり、国語調査委員会編の『口語法』『同別記』が一つの頂点をなし、以後の規範となった。
 この期の文法学説としては、民族派ないし国学派の代表として、山田文法があり、国際派ないし洋学派の代表として、松下文法がある。

3-2-1 山田孝雄ヨシオ(1873-1958)は、田舎で教師をしていた時に、生徒から出された「は」についての質問に答えられなかったことから、文法研究を始めたという。このエピソードは、たしかに彼の文法研究の特徴を伝えている。係助詞を中心とした助詞の構文論的研究が、山田文法の大黒柱である。『日本文法論』(1908)で理論を構築し、それに基づき『奈良朝文法史』『平安朝文法史』『平家物語の語法』といった時代別の記述も著わすという雄大な仕事であった。
 文法論の組織は、言語の基本的単位である、語と文とに対応して、「語論」と「句論」とに分けられ、語論と句論は、それぞれ性質論と運用論とに分けられる。(以下、のちに改訂整備された『日本文法学概論』(1936)によって説明する)
 文法論─┬─語論─┬─性質論……品詞・下位品詞の分類・記述
     │    └─運用論……語の転成・複合 語の位格 語の用法
     └─句論─┬─性質論……句の分類(喚体と述体) 下位分類
          └─運用論……単文と複文(重文・合文・有属文)
 品詞分類としては、富士谷成章の四分類(名・装・挿頭・脚結)を受け継ぎながら、「厳密なる二分法」にしたがって、
 語─┬─観念語─┬─自用語─┬─概念語……体言(代名詞・数詞を含む)
   │     │     └─陳述語……用言(形式用言・複語尾を含む)
   │     └─副用語……………………副詞(接続詞・感動詞を含む)
   └─関係語……………………………………助詞
のように整然と組織した。「自用語」は文の骨子たる主語・述語になるもの、「副用語」は自用語に依存するものである。いわゆる接続詞・感動詞をも、副用語の一種とする。動詞・形容詞・形式用言(「あり」「す」など)、それにいわゆる助動詞にあたる複語尾をも含めた「用言」の本質は、「陳述の力」をもつこと、つまり述語になれることだとする。「関係語」としての助詞は、「独立観念」はもたないが、「職能」的に他品詞に匹敵する重要さをもつとし、「格 副 係 終 間投 接続」の六種に分けて、詳しい記述をした。とりわけ、宣長の「は・も・徒」の係結びを継承し、述語用言の「陳述」に勢力を及ぼすのが「係助詞」の本質だとした点が、大きな特色である。
 山田文法では、いわゆる文論を「句論」と呼ぶが、その句・文を主述関係によってではなく、「統覚」および「陳述」という用語で定義したこと、また、句を大きく「述体の句」と「喚体の句」に分けたことが、特色としてあげられる。
 ところで、いわゆる文の成分にあたるものは、「語の運用論」のうちの「語の位格」で説かれる。「呼格・述格・主格・賓格・補格・連体格・修飾格」の七種の位格が立てられるが、最初の二つについて「用言の根本的用法は述格に存し、体言の根本的用法は呼格に存す」と性格づけている。つまり「花 咲くらむ」など用言の述格(陳述をなす位格)を「統覚」の中心とするのが「述体の句」であり、「妙なる笛の音よ」のように、体言の呼格を「統覚」の中心とするのが「喚体の句」だというわけである。このように、語と文とを基本的に相関するものとして規定している点、宣長や成章の正統な発展と言え、「最後の国学者」と自称したのも諾える。
 山田文法に基本的に従いながら、いくつかの修正を試みたものに、安田喜代門『国語法概説』(1928)がある。名詞の格や動詞の法の扱い、感動詞や代名詞の品詞論上の位置づけに、すぐれた考察がある。

3-2-2 松下大三郎(1878-1935) は『日本俗語文典』(1901)から出発した。少年の頃読んだ日本語と英語の教科文典を比べて、その体系の優劣のはなはだしいことに驚いた彼は、「英米人に日本文典と英和辞典とを与へれば日本の文が作れる」そのような日本文典を作ろうと志を立てた。現代の実用が問題であった彼は、現代語の体系に直接立ち向った。山田孝雄との差はここにある。また中国人留学生への日本語教育の実践も積み、教科書『漢訳日語階梯』(1906)も刊行した。同僚に前述の三矢重松もいた。こうして大槻文彦の限界をのりこえ、『標準日本文法』(1924)『改撰標準日本文法』(1928 訂正版1930)『標準日本口語法』(1930)を著わして、本格的な形態論的体系を構築したのである。
 言語には、説話の構成上、原辞・詞・断句という三つの「階段」があるとし、その中核を占める「詞」を、基本的に parts of speech(文の部分=品詞)となる語wordとして位置づけることによって、「詞の副性論」という画期的な試みが可能になり、日本語の文法的カテゴリーのほとんどが、取り出された。(後述)
 「原辞」とは、詞=単語を構成する単位であって、完辞のほか、不完辞として、接頭辞や接尾辞 および いわゆる助詞助動詞をも含む。<図7> 参照。原辞論は、形態素論であり語構成論である。「断句」とは、いわゆる文のことであるが、松下にとって、断句=文は、詞の連なり「連詞」にほぼ等しい。違いは、断句には「断定」もしくは「了解」があることだというが、その中身が具体化されることはなかった。断句論はわざわざ立てる必要がないとも言っている。いわゆる構文論は「詞の相関論」で扱われる。原辞論を含めた文法学の部門の構成は次の通りである。 
  原辞論………………………………………………………形態素論・語構成論
  詞論─┬─単独論─┬─詞の本性論……………………品詞の大・小の分類
     │     └─詞の副性論─┬─相の論……派生のカテゴリー
     │             └─格の論……屈折のカテゴリー
     └─相関論…………………………………………構文論
「詞の副性論」のうち、<相>とは、「連詞または断句中における立場に関係しない詞の性能」つまり、文法的な派生のことをいい、<格>とは「断句における立場に関する性能」つまり、文法的な(屈折)語形のことをいう。
 たとえば、動詞の相として、原動(スル)と使動(サセル) 、原動(スル)と被動(サレル) との対立[ヴォイス]、「してやる・してもらう・してくれる」のような利益態[やりもらい]、「する・した・しよう」の時相、「している・してある」の既然態、「してしまう」の完全動[といったテンス・アスペクト]、「すべきだ・していい・してはいけない」などの可然態[モダリティ]、いわゆる尊敬・謙譲を含む尊称や、卑称、荘重態[といった待遇性]など、さまざまな文法的カテゴリーが扱われている。   
 名詞(表示態)の格と、動詞の格は、<図5・6>のように、整然と組織されている。名詞の「一般格」とは、「月明らかなり」「ぼく、パン、食べたよ」など格助辞を伴わないもの(ゼロ格・なまえ格nominative)で、これを主格(subjective)などの特殊格と区別したのは注目される。
 なお、松下文法はアメリカ構造主義流の形態論の先駆をなすという評価と、論理主義だとする評価とがあるが、この二つの評価が両立しうるのが松下の特徴であって、論理=意味の面と形態の面との一致が信じえた「古き良き時代の大文典」と言うべきなのである。たとえば、接続助詞の「が」を主格の「が」と同一の物と扱うために、「〜するが」の「する」を「動詞の体言化」だとするような部分もある(起源的には間違いではないが)。

3-3 昭和前期(戦前)は、ソシュール、トルベツコイなどの構造言語学が、小林英夫らによって紹介され、多くの日本語学者に影響を与えた。「共時」と「通時」、「言語ラング」と「言パロール 」、「体系」と「要素」、「構造」と「機能」など、日本語学においても、原理や方法が模索された時代であった。
 時代状況としては、「国学ルネッサンス」とも呼ばれた「日本的なもの」への回帰という時代風潮があり、また「大東亜共栄圏」構想のもと、日本語教育の振興と、共栄圏共通語としての日本語の「純化・醇化」とが、急を要する課題と考えられ、「現代日本語の諸問題」が かまびすしく論議された。

3-3-1 橋本進吉(1882-1945) は、上代特殊仮名遣いの研究やキリシタン研究などの実証的な歴史研究に大きな業績を残した学者だが、文法研究での特徴も、言語の形式の面に注意を払ったことにある。言語の単位として、文・文節・語の三つが立てられるが、それぞれに形式的な規定が与えられる。
 「文」の外形上の特徴としては、「文は音の連続である」「文の前後には必ず音の切れ目がある」「文の終には特殊の音調が加はる」の三つをあげる。
 「直接に文を構成する成分」つまり山田文法の「語」松下文法の「詞」にあたるものを、橋本は「文節」と名づけるが、その規定も「文を実際の言語として出来るだけ多く句切った最も短い一句切り」というものである。
 語の品詞分類では、「形態」つまり語形変化と、「職能」つまり他語との接続、という形式面を基準にした分類をしめした。<図8・9>
 橋本には、前代の山田孝雄や松下大三郎に見られたような体系性・包括性はない。橋本自身が『国語法要説』(1934)の端書きで述べるように、言語の形の方面の研究によって「従来の説を補ひ又訂す」ことをねらったのであって、体系性よりも「方法の近代化・精密化」をめざしたものというべきなのだろう。物情騒然たる時代にあって、静かに形式主義を守り通したと言うべきか。

3-3-2 時枝誠記モトキ(1900-1967)は『国語学原論』(1941)『日本文法口語篇』(1950)において、「言語過程説」を唱え、それに基づく文法を組み立てた。言語過程説とは、「言語」の本質は構成された実体としての言葉にあるのではなく、話し、書き、聞き、読むという言語活動・言語過程それ自体であるとする学説である。したがって、文法も、表現過程の違いにしたがって組織される。まず、言語活動における単位として、語・文・文章の三つが、「質的統一体」として取り出される。「文章論」を立てたことが特徴的である。
 品詞としては、「概念過程を経た」「客体的表現」としての<詞>と、「概念過程を経ない」「主体的表現」としての<辞>が、二大別として取り出され、<詞>に「名詞・代名詞・動詞・形容詞・連体詞・副詞」それに「接頭語・接尾語」が属し、<辞>に「助動詞・助詞・接続詞・感動詞・陳述副詞」が属すとされる。たとえば「彼も行くだろう」における「行く」という動詞=詞は、主語「彼」の動作を表わすが、「だろう」という助動詞=辞は、主語「彼」の推量ではなく、主語がなんであろうと常に話し手の推量を表わす。「も」という助詞=辞も、話し手の認定の仕方(この場合、他にも同類があるという認定)を表わすという。このように<辞>は、話し手のなんらかの態度や気持ちを概念化・客体化せずに直接的に表わす(表出する)ものだというのである。「彼も行きたいのだろう」の「たい」は、「だろう」と異なり、話し手の希望ではなく、主語「彼」の希望を表わすから、辞=助動詞ではなく、詞=接尾語だとする。
 文の構造としては、西欧語が主語と述語が釣り合う「天秤型構造」をなすのに対し、日本語では、詞と辞が包み包まれる「入子イレコ 型構造」をなす、という。助詞や助動詞のないところには、「零記号の辞」(■で表わされる)があるとされる。

 こうした詞辞の二分割は、「手爾波大概抄」や「言語四種論」などに見られる日本古来の分類を、理論的に体系化したものだという。文における客体的・事柄的な側面と、主体的・陳述的な側面との関係を、単純明快な形で提示したことにより、戦後、学界に多くの論議を引き起こした。

3-3-3 ゲシュタルト心理学、「場」の理論などに基づき、全体としての文を重視する分析を示した者に、佐久間鼎(1888-1970)と 三尾砂(1903-1989)がいる。
 佐久間は『現代日本語の表現と語法』(1936)『現代日本語法の研究』(1940)『日本語の特質』(1941)などで、コソアド、動詞のアスペクト、吸着語、機能による文の三種別など、興味深い分析を示した。三尾は『話言葉の文法 言葉遣篇』(1942)では、ダ体・デス体・デゴザイマス体という文体の種別を基本において、ていねいさの構文的な分析を示し、『国語法文章論』(1948)では、「場」との関連から文を「現象文・判断文・未展開文・分節文」に分類した。

3-4 昭和後期(戦後) 戦後、時枝文法の批判・修正の論議が盛んであったが、それとの関連において生まれた成果として、阪倉篤義『日本文法の話』『語構成の研究』、芳賀綏『日本文法教室』、山崎良幸『日本語の文法機能に関する体系的研究』、渡辺実『国語構文論』などがある。
 佐久間鼎・三尾砂を継ぐ形で、三上章『現代語法序説』などや、寺村秀夫『日本語のシンタクスと意味』などが出た。
 田丸卓郎『ローマ字文の研究』や宮田幸一『日本語文法の輪郭』などのローマ字文法の流れと、松下・佐久間の流れを受け、またヴィノグラードフのロシア語文法の方法を批判的に摂取する、奥田靖雄『日本語文法・連語論』『ことばの研究・序説』、鈴木重幸『日本語文法・形態論』などは、ひとつの学派を形成している。
 その他、森重敏『日本文法通論』、鶴田常吉『日本文法学原論』、徳田政信『日本文法論』など、それぞれ独創的な体系を示すものがある。
 1950年代、アメリカの記述言語学の方法が、服部四郎『言語学の方法』等によって移入され、日本語とくに方言の構造記述に適用された。近年、森岡健二『日本文法体系論』という体系的記述もまとめられた。
 チョムスキーらの(変換)生成文法の方法も、久野すすむ(日+章)『日本文法研究』、井上和子『変形文法と日本語』などを生んだ。その他、最近では、機能文法・談話分析・テクスト言語学・発話行為理論・言語類型論など、種々の方法・観点からの分析があり、日本語教育・コンピュータ言語学・認知科学などの関連分野からの日本語へのアプローチも盛んである。また、海外での日本語研究も盛んで、多くの成果を生んでいる。まさに、日本語学も多様化、国際化の時代のまっただなかにある、ということなのだろう。

<参考文献>
  古田東朔・築島裕 1972『国語学史』(東京大学出版会)
  西田直敏 1979『資料日本文法史』(桜楓社)
  徳田政信 1983『近代文法図説』(明治書院)
  時枝誠記 1940『国語学史』(岩波書店)
  山田孝雄 1943『国語学史』(宝文館)
  福井久蔵 1953『増訂日本文法史』(復刻版 国書刊行会)
  ────(編)1938〜44『国語学大系 全10巻』(復刻版 国書刊行会)


はじめ | データ | しごと | ノート | ながれ