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随想・追憶 抄

最終更新 2003年06月08日

東大国語研究室 創設百周年に 寄せて  奥田靖雄先生との 出会い  日本語学科の 松田先生


東大国語研究室 創設百周年に 寄せて

─── 文法学・副詞研究の視座から ───

工藤 浩 (東京外国語大学)

 東大国語研究室は、創始者 上田万年 以来、言語の研究方法の近代化と取り組んでおり、「文法」のような古めかしい領域には、あまり関心を もたなかったように見える。

 ドイツの当時最新の、史的・比較言語学を身につけて帰朝した上田万年の目には、新井白石の「近代」性は見えても、本居宣長や富士谷成章や鈴木朖の「前近代」的な分析は 理解しがたいものであったのだろう。いや、前近代は、破壊され否定されるべきものであって、学問的に乗り越えられるべき対象でさえ なかったのだろう。山田孝雄の学位請求論文が、永らく審査もされずに放っておかれたという 周知のエピソードは、当時の国語研究室の体質の一面を象徴的に物語る。
新村出の回想(「思い出を語る」1956年)によれば、新村の後任として 国語調査委員会の補助委員に 山田孝雄を「抜擢」したのは、上田万年だったとのことであるが、調査委員としては評価しても、博士としては評価しないということなのであろうか。当時最新の「新文法学派」【neo-grammarians.「少壮文法学派(〜若手/若造 文法家ら)」Junggrammatiker(独) とも】らから批判されていた、旧派の【思弁的な】ハイゼのドイツ文典などを ひとつの よりどころにしている日本文法論など、博士号に値しない、ということだったのかもしれない。のち 昭和に入り「国学ルネッサンス」期を迎えて 形勢が逆転し、山田孝雄の博士号問題をめぐって、東大国語研究室が あわてふためくことになるのも、歴史における理性の狡智 というか 皮肉な歴史【むしろ 歴史の皮肉】と いうべきものなのかもしれない。

 二代目 橋本進吉の『国語法要説』は、さすがに 山田文法や松下文法を無視はしなかったが、「従来の説を補ひ又訂す」ることに重点がおかれた。形態重視のその方法は、助詞助動詞の分析に一定の進展を見せたが、不変化詞とも呼ばれるような品詞に、さしたる関心は示さなかった。のみならず、東大の講義録では、山田孝雄の陳述副詞に関して、それを「呼応(感応)副詞」と捉え直した上で、「かならず・ぜひ」など <形態> 上の呼応現象を持たないものを除こうとまでした。「*かならず 彼は/私は ゆきません」のように「かならず」が否定文には用いられないことや、「*ぜひ 雨が 降る/った/っている」のように「ぜひ」が現象描写の叙述文には用いられないことなどの「陳述」的な共起制限、つまりは共起を拒否する陳述的な性格は、橋本の <形態> の網には捉えられないものであった。
 としても、橋本が<形態重視>という形で日本語文法の方法の「近代化」「精密化」をめざしたことは、学問発展の道筋として 必要なことではあったのであろう。復古思想・国粋イデオロギーのうずまく暗黒の昭和時代にあって、橋本は、学問の近代化・形式化に自己限定しつつ、あれこれ思い悩んだハムレットだった、とも言いうる。
ちなみに、文法教科書の国定化にあたり、国粋主義的な山田や松下をたくみに避けて、非政治的で、学問上は形式主義的方法をかたくなに守った橋本の『新文典』を選んだ、当時の文部省の「進歩的」な施策も、上田万年の一番弟子 保科孝一をはじめとする 東大国語研究室出身者の行政力のおかげであったのであろう。

 三代目 時枝誠記に至って、ようやく文法学が正面に据えられたと言ってよいが、ただ、その文法論は、言語過程説に基づく「客体的表現(詞)」と「主体的表現(辞)」との峻別という表現性理論の、やや性急な文法論化であったため、副詞という語類は、その詞辞峻別理論にとってのアキレス腱となった。時枝自身は、「主体的立場」からの単語認定において副詞を一語と認めざるをえず、その自己矛盾に耐えようとしたが、時枝文法の普及をめざす鈴木一彦が「副詞の整理」を強行したことは周知のとおりである。アキレス腱を守るために、肝腎の身体は痩せ細らされてしまった。

 ここで、『日本語百科事典』(大修館)によせた「諸家の日本語文法論」の時枝誠記の部分の もとの原稿を、ここに引用させていただきたい。これは、署名原稿ではない事典の原稿として「不穏当」だとする 書店編集子からの 強力な申し出によって、肝腎な評価の部分が 数か所 削除され、穏健そうに見えて かえって 陰湿な言い回しに かわってしまっている、という経緯があるからである。
 時枝誠記(トキエダ・モトキ 1900-1967)の文法
 時枝誠記は、「言語過程説」に基づいて文法を構築した。言語過程説とは、「言語」の本質は構成された実体としての言葉にあるのではなく、話し、書き、聞き、読む言語活動それ自体にあるとする学説である。したがって、「文法」も表現過程の違いにしたがって組織される。まず、言語活動の単位として、語・文・文章の三つが「質的統一体」として取り出される。文章を単位として取り出し「文章論」を立てたことが特徴的である。
 「語」は、言語活動の社会的習慣の型として「観察的な立場」から文を分解して得られるような単位ではなく、「言語主体の意識に於いて、すでに単位的なものとして存在してゐる」ものだという。そして、「一語」とは「思想内容の一回過程によって成立する言語表現である」と定義されるのだが、これは、「たけのこ(筍)」「なのはな(菜の花)」は一語として意識され記憶されるものだが、「動物の子」「椿の花」は二語あるいは三語の組合せだ、ということを「過程説」にふさわしく言っただけのことである。つまり、この「主体的な立場」からする定義自体は、常識的なものに過ぎず、まちがいとも言えないが、「観察的な立場」からの検証や裏づけをほとんど否定してしまったことは、のちに触れる「詞辞非連続説」の問題とも密接な関係があり、注意すべきである。
 品詞としては、「概念過程を経た」「客体的表現」としての<詞>と、「概念過程を経ない」「主体的表現」としての<辞>が、二大別として取り出され、<詞>に「名詞・代名詞・動詞・形容詞・連体詞・副詞」それに「接頭語・接尾語」が、<辞>に「接続詞・感動詞・助動詞・助詞」(それに、特殊なものとして「陳述副詞」)が属すとされる。たとえば「彼行くだろう」における「行く」という動詞=詞は、主語「彼」の動作を表わすが、「だろう」という助動詞=辞は、主語「彼」の推量ではなく、主語がなんであろうと常に話し手の推量を表わす。「も」という助詞=辞も、周囲の事情との関係で、「彼が行く」という事実に対して、「共存」とでもいうべき話し手の認定の仕方(「限定」)を表わすという。このように<辞>は、話し手のなんらかの態度・気持ちを概念化・客体化せずに直接的に表わす(表出する)ものだとするのである。「彼も行きたいのだろう」のように用いられる「たい」は、「だろう」と異なり、話し手の希望ではなく、主語「彼」の希望を表わすから、辞=助動詞ではなく、詞=接尾語だとする。 
 文の構造としては、西欧語が主語と述語が釣り合う「天秤型」をなすのに対し、日本語では、詞と辞が包み包まれる<入子(イレコ)型構造>をなす、という。<図12> (略)
助詞や助動詞のないところには、「零記号の辞」(■で表わされる)があるとされる。
 詞と辞を「概念過程」を経たか経ないかの「次元の違い」に基づいて区別した以上、それは有か無かという二者択一的な対立であって、中間物は認められないから、終助詞をより主体的な辞、格助詞をより客体的な辞、とするわけにもいかないし、命令形「行け」のように、詞と辞が共存するように見えるものがあっても、それは二回の表現過程であり、一語ではありえなくなる。単語の「主体的」定義からして必然的に、用言の活用その他に「零記号の辞」を想定せざるをえなかったし、形容動詞「静かだ」は、体言=詞「静か」と助動詞=辞「だ」とに分割せざるをえなかったのである。のちに、大野晋や渡辺実らの批判・修正を受けても、そのいわゆる「詞辞連続説」を頑強に否定したのは、理の当然である。連続説を受け入れることは、「一語=一回過程」とする「主体的立場」からの語の根本的な定義を否定することになり、ひいては、言語過程説自体を崩壊させることにつながりかねないからである[じつは、命令形と形容動詞の扱いは、『国語学原論』(1941)と『日本文法 口語篇』(1950)とでゆれている。『原論』で、命令形「立て・起きろ」の「-e・−ろ」を辞としたり(p.350-1)、形容動詞を「詞」扱いしたりした(p.244)のは、理論化の不徹底だったのであり、のちに『口語篇』で修正・整備されるのである。]
 その意味で、時枝誠記が連体詞と副詞を、「連体修飾語か、連用修飾語以外には用ゐられない」もので、「格表現がその語の中に本来的に備つてゐると見るべきもの」だとしたのは、詞辞理論にとっては、残された唯一の矛盾であった。時枝は、形容動詞の語幹は、辞書の見出しにもなり、一語と「意識することは決して困難ではない」が、副詞や連体詞は、常識的に全体で「一語と考へざるをえない」として、この自己矛盾に耐えたのだが、時枝の弟子たちは、この矛盾を矛盾ではなく、理論整備の不徹底だとして、副詞と連体詞をも、形容動詞と同様に、語ではなく「詞+辞」の「句」だと強弁した。かすかに残っていた常識・現実感覚すら、「理論」のためにはかなぐり捨てられる。だが、連体詞や副詞を句だとして品詞論から排除するなら、用言の活用形の諸用法も、句の問題として品詞論から排除されなければならなくなる。時枝の弟子たちは、亜流の宿命として理論の整合性を守ろうとしたが、それはただ、理論(語論)のなかみをますます貧弱なものにすることにしかならなかった。[語論・文論とは別に「句論」をたてて、そこで詳しく扱うというなら、それでもいいが、そういう風も見えない。「句」は、時枝によって「質的統一体」のひとつとしては挙げられていないからだろうか?]
 時枝は、文法学を、外形にとらわれずに「言語における潜在意識的なものを追求し、これを法則化するもの」だとし、また、「観察的な立場」より「主体的な立場」に優先権を与えた。この、個人主観的な心理主義が、言語形式を無視した観念論的分析に時枝を陥れた、と言っていいだろう。彼の本領は、伝達論、場面論、それに文章論など、言語活動の面に関する新分野の開拓にあった。文法論の分野においては、従来から言われていた文の二側面、たとえば山田文法でいう「属性」と「陳述」との関係の問題を、きわめて単純な形で提示することによって、いわゆる「陳述論争」を引き起こし、論議を「活性化」させたという点に、学史上の意義を認めるべきなのだろう。
 なお、古文の解釈文法の分野においては、連用形の述語格と修飾格との判別とか、連体形の諸用法の記述とか、興味深い分析を示している。古代語の分析において、あれほど意味や用法を重視した彼が、文法論においては、たとえば形容動詞の否認の際のように意味を軽視する態度を採ったことは、詞辞理論の理論的な要請であるとはいえ、惜しまれることである。理論の重要性、あるいは恐さとは、こんな所にあるのだろう。
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 私事ながら、誤解のないように書きそえておきたい。1967年 時枝誠記のなくなる最後の年に、本郷の国語国文学科に進学した私は、4月の国語研究室会で 時枝に はじめて会い、東大を定年で去られていることを知らずに東大に入学して 非常に残念である旨を はばかりもなく申し上げ、お許しをえて 早稲田大学の「ニセ学生」として先生の講義を聴講し、親しく質問もさせていただいた。それは たった三か月という きわめて短い期間ではあったが、これでも、時枝誠記の、出来は悪いが 最後の学生のつもりで、自分では いるのである。先生は、私のつたない質問・疑問にも、いつも こころよく耳を傾けてくださり、時には、その問題は (時枝文法批判としてではなく)自分の文法論の問題として考えなさい、という趣旨の お答えを いただいたことも あった。
 
師の説に なづまざる事 ── 私は そう受け取った。学問の受け継ぎは、墨守ではない。あってはならない。


 時枝誠記のあと、ふたたび 文法学は 国語研究室の関知するところではなくなった。非現代語の【精緻な しかし 没理論的な】記述に、でなければ 中世の言語意識の【精妙な しかし 没論理的な】解釈に、専心することになる。
【それ以降については、いまだ歴史的批判に たえないものとして、発言を さしひかえる。】


#もと、東大国語研究室 創設百周年記念論集 のために準備され、途中で放棄されたもの。(2002/12/21 記)

 研究史としては 一面的で 中途半端なものではあるが、随想としては 捨てがたい部分もあり、
 今回、他の文章の掲載にあわせて、掲載させていただくことにしたのである。
 【  】に くくってある部分は、今回 おぎなった 注記である。     (2002/12/30 補)


奥田靖雄先生との 出会い

───「奥田靖雄先生を しのぶ会」で 話したこと ──


 東京外国語大学の工藤でございます。

 私が奥田先生に ── きょうは、いま 奥田先生と言いましたけれど、奥田さんの生前には、私はついに一度も奥田さんの前で先生という呼び方はしなかった、そういう とんでもない人間なんですけれども ── 最初に出会ったのは、1969年、22歳の時でした。その年の3月にエスペランティストの伊東三郎が死に、その2か月前には東大・安田講堂が落城し、という状況の中で、5月には『にっぽんご』シリーズの『漢字』ができていました。さらに
1年前には奥田さんの「を格」の雑誌連載がはじまっていて、たぶん今から見て 奥田さんの もっとも [いろいろな意味で] はなやかだったと思われる時期に、お会いしました。そのとき私は大学4年生[4月以降 留年して5年め]だったのですが、安田講堂に立てこもるほどの肉体派でもなく、いわゆる救援対策のようなことしかできない、そういう人間として うろちょろしていた、そのときに、今は亡き新川忠さんの策略 ── といっては おこられるでしょう、おそらく先輩としての好意 ── によって、ちょっとおもしろい人間がいるから会ってみないか ということで、たしか 新宿御苑裏の とあるバーで 奥田先生と お会いしました。
 そのころの私は、まだ時枝誠記とか三上章とか、そういう流派に属しておりまして、その流派の中で学校文法・文部省文法に対して、じゅうぶん立ち向かえるという立場でした。つまり、学問的にはそのレベルで、もう一つ言えば、ゲバ棒でもって 時枝およびその弟子たちに立ち向かえば なんとかなるっていう程度に考えていました。その22歳の工藤と、ちょうど たぶん50歳だったんですね、奥田さんは。1919年のお生まれですから。ただ、じつは きのう日記を見たら、6月下旬に会ってるようですから、正確には50歳直前、四十の坂を登りつめた ぎりぎりの時。だから こわかったです、はっきり言って。そのときは、お前みたいなレベルの低いヤツは、ゲバ棒もって 時枝らといっしょに 東大アカデミズムと心中してしまえ [せいぜい それが関の山だ]、というようなことを言われました。
 でも、それだけで すむわけではない とも思われたらしく、こんどの研究会に ── たぶん木曜か火曜だったかと思うんですが ── 来いとおっしゃってくださって、数日後に行きましたら、当日は 鈴木重幸先生が、なにか ロシアの重要な品詞論の論文を読んで、翻訳・紹介しておられましたが、[当時の私は『国語学』誌上での 森重 敏との いわゆる「"論外"論争」を読んで お名前だけは知っていて、鈴木重幸という人は こわい人だと 思いこんでおりましたから] わけも分からず、ただ だまって聞いていました。研究会のあと、奥田先生から「文学教育における主観主義」という3回連載の「討論」という名のついた論文を、── のちに『国語科の基礎』という論文集のなかに おさめられたもので、そういう意味では奥田先生も、やっぱり力作だと ご自分でも思われていたんだと思いますけど、その第三回目[論文集では 第四節]に、時枝誠記の[文学教育論に対する]根底的な批判があるわけです ── それを読めという意味で、私にそういうものを与えて、東大アカデミズムなんてのは ゲバ棒でどうにかなるようなもんじゃないんだよ っていう、そういうことを教えて下さいました。

 ただ、今でこそ、そういう教えであった なんてことを語れる境地に、やっと私もなれたわけですが、出会いが ともかく そういうことで、若気のなんとかで、[当時は] すなおに奥田先生の教えに したがわなかった。したがって、その後 30年にわたって、ついたり はなれたり、ついたり はなれたり、── 世の中には、つかずはなれずという処世術もあるようなんですけれども、私はそれほど器用な男じゃないもんですから、あるときは つきすぎてケンカになり、あるときは はなれすぎて「あいつは油断すると 後ろから袈裟がけで斬りつける男だ」なんていう悪口も、いわれたりもしましたけれども、まあ、そんな関係で 30年近く いたわけですが、それは、最終的には私も、山田文法の陳述論から出発してるもんですから、奥田先生のモダリティ論というのは、どうにも自分なりに おとしまえをつけなくてはならない「壁」として存在していた、というわけなんです。
 奥田先生は、私にとって ともかく 目標でありました。その目標が、追っかけてる私よりスピードが はやいもんですから、いつになったら追いつけるんだろう って感じで いたんですけども、── ほんとに不謹慎な言い方で おこられても しようがありませんけれども ── このたび天国に召されて、ある意味で私の目標はストップしたもんですから、のろまな私でも なんとか やらなくちゃいかんかなと、私の「五十の坂」というのは それをのぼることなのかな、ということを思っております。

 最後に一つだけ、まともなことを言わせてください。お願いもあります。先ほども言ったような関係で、ぼくにとっては、時枝と奥田、奥田と三上、奥田と伊東三郎、奥田と大島義夫、その他さまざまの、昭和の日本語学史をいろどる人々、その景観のなかで、私は奥田という人間を見てるし、また、それをそれなりに のりこえなくちゃいけないところに きている、と見ているんです。奥田先生の、宮教大を退官なさった直後に編まれた『ことばの研究・序説』、あのなかには<補・初期の原稿>として、ふるい民科時代の『コトバの科学』のガリ版刷りのものも、かなり復刻されています。ただし、唯一の例外があるんです。その唯一の例外というのが、私が当時イカれていた時枝を批判した「言語過程説について(1)」という論文で、それがじつは『コトバの科学』4号というのに のっておりまして ── それ以前にも民族学・民族誌の論文は いくつかあるんですけれども、言語学関係の論文としては、たぶんデビュー作だろうと思うんですが ── そのデビュー作がなぜか『ことばの研究・序説』[の掲載予定リスト]に のっていない、それ以外は のっている。で、なぜだろうと、その当時 まだ元気でおられた新川さんを通じて、奥田さんと これまた けんかのような やりとりも あったんですが、結局 ぜったい のせないってものは のせない ということで、のらなかったんです。のせない理由は、私も五十すぎて、わかりました。わかりましたが、それはたぶん、生前だからこそ、[関係者が]生きているからこそ、のせられなかったんだ ってことが わかったんで ………
[じつは、奥田さんが『ことばの研究・序説』の出版のために「あとがき」(この段階では「まえがき」でした)の原稿を書いて、みずからの名において 研究会で発表された時には、私も出席して いくつか 質問なども いたしましたが、この件は、さすがに 研究会の席上では 切り出せませんでした。ただ「自己批判」ということばを、正当に、奥田さんが この「あとがき」に とりいれておられることが、「拙速の原理」ということばを つかっておられることとともに、私には、ある ほろにがい なつかしさを ともなって、思い出されます。]
 つまり、なにが言いたかったかというと、奥田靖雄さんの言語学、ご自分で[といっても、例によって ひとの名前を借りて ですが]『連語論(資料編)』のまえがき[「編集にあたって」]に書いておられることばを つかわせていただければ、「唯物弁証法」的な方法をもった日本言語学 ── ただ 唯物弁証法的な言語学というだけなら、先駆者として伊東三郎や大島義夫もいるんですが、しかし 理論と実証をかねそなえた形で唯物弁証法を日本言語学に根づかせた最初の男は、やはり奥田靖雄であろうと、私は思います。── その奥田靖雄の[言語学の]出発点が、当時 東大の国語国文学科の教授であった時枝の批判であり、そして、次の『コトバの科学』5号の服部四郎の音韻論の批判なんです。つまり、奥田靖雄の唯物論的弁証法言語学は、当時の東大アカデミズムの 国語学の教授と言語学の教授とを 批判する というところで、出発している ということです。
 最後の お願いというのは、もうお分かりだと思います。奥田先生の著作集なり 全集なりを編むときに、生前 奥田先生が採録を拒否された この論文は、ぜひとも のせるべきだし、さらには、どんな小さなものでも、とりわけ 初期のものは、細大もらさず のせる、そういう著作集を ぜひとも編んでいただきたい、ということです。もし そういうことに お役に立つというのであれば、私も微力ながら、お手伝いする覚悟は つけております。

 ということで、奥田先生とは最後まで「和解」は できなかった、できのわるい弟子としての、とりとめのない話を おわらせていただきます。


# 上の文章は、2002年10月19日に ひらかれた「奥田靖雄先生を しのぶ会」におけるスピーチを 世話人の方で 録音テープから おこしてくれた 文字化原稿を もとにして、マクラと ムダ口を はぶき、言いまちがいを ただし、話の流れの くりかえしと みだれとを、見ぐるしくない程度に ととのえた ものである。
 なお、[  ]に くくった部分は、当日 言いそびれたり 言い落したり したことを、今回 おぎなったものである。

(2002/12/23 成稿。12/25 補訂。12/26 補注リンクはり。
2003/01/03 字句補修。04/01 句読法・わかちがき 修正)


日本語学科の 松田先生


工藤 浩 (東京外国語大学 日本課程)


 私が東京外国語大学に赴任したのは 1986年4月のことで、松田先生をはじめとする諸先生のご尽力によって築き上げられた「日本語学科」ができて、二年目の年でした。そのため、その日本語学科設立に 松田先生が はたされた役割などについては、同僚であった国松先生や湯本先生から いろいろと うかがってはいますが、私の想い出話とは なりません。学科草創期の 興奮や緊張や気負いのようなものが、他の先生からは ひしひしと つたわってきて、なまけものの私も エリをたださせられたものですが、松田先生には、気負いのようなものが すこしも感じられず、いつも冷静に 淡々としていらっしゃいました。
 赴任して早々のことだったと思います。日本語学科の前身である 特設日本語学科時代に 先生方が苦心してつくられた 学生用の『標準図書リスト』の内容が古くなったからという理由で、私のような新参者や 当時の若手教官が中心になって、大幅な改訂版が つくられることになりました。そのとき、松田先生の属していた日本語学科の言語学講座には若手がいなかったこともあって、私のようなものが 日本語学と言語学とを あわせて担当することとなり、まだ血気盛んであった私は、変換文法には かなり冷淡な、ずいぶん勝手なものを作りあげてしまったのですが、そのときも、ひとこと「いや、よくバランスがとれていますよ」と おっしゃっただけで、ひとことも 不満らしきものは おもらしになりませんでした。いまにして思えば、言語学書の選定をめぐっての議論を通して、先生から いろいろと お教えを受けておけば、と 悔やまれることです。
 そんな関係にあったものですから、松田先生にまつわる 私の想い出話は、そう多くはありませんが、それでも いくつか印象に残る話があります。二 三 おもいだすままに書かせていただきたいのですが、話題は、やはり 辞書とりわけ『リーダーズ英和』をめぐっての話が多くなります。

「固有名詞か 固有名か」──この話題は、一度ならず お聞きしたように思います。一度目は、先生から、日本語学の方で「固有名」に関するいい文献はないか、と おたずねがあって、日本語文法では「固有名詞」は とくに文法項目にはなりませんから …… というような答え方をしたときに、いや文法用語としての固有名詞ではなく、固有名一般に関する文献なんだけどね、とおっしゃったのをきっかけに、かなり くわしく先生の「固有名」論を お聞きしたときです。二度目だったか 三度目だったかには、阪倉篤義氏の「固有名詞」や 田中克彦氏の「固有名詞の復権」などの論文も、話題に のぼったように おぼえています。私のような文法屋には、非常に新鮮な論に思われたと同時に、その実行には「底なし沼」のような こわさをも感じて、たじろいだものでした。
 いうまでもなく、先生の『リーダーズ英和』および『プラス』は「固有名」の宝庫であり、その「まえがき」には「固有名」ということばが たびたび出てくるのですが、辞書本文の訳語としては、初版のCD-ROM版で検索する限りでは、一度も登場しないようです。「proper noun [name]」という見出しのもとにも、「n.【文法】固有名詞」とあるだけです。このことに気づいたのが おそかったこともあり、なにか いじわるな質問のような気がしたこともあって、とうとう きかずじまいになってしまいましたが、先生は、心の中では、ずいぶん気にしていらっしゃったのではないかと、思われてなりません。
 そのほか、辞書の語源欄のこと、とくに「台風」の語源に関して、お話をうかがったときのことが、印象に残っています。『リーダーズ』の "typhoon" の語源欄には、[Chin.=great wind, and Arab.] と あるだけなのですが、その「and Arab.」という短い記述に こめられている「考証」の奥深さを うかがったときの感動は、忘れられません。記憶にとどめる自信のなかった私は、ぜひ 論文または研究ノートの形に残してくださるよう お願いしたのですが、先生は、はにかんだように笑うだけで、お答えになりませんでした。

 紙幅が ほぼ尽きてしまいましたが、あと二つ 先生のご論文にまつわる話をさせてください。1986年のご論文 "From My Card File : ……" の抜き刷りを、たしか 日本語学科の 学科会議後 恒例の「国松バー」でお酒を飲んでいたときだったかに、先生は私のような新入りの門外漢にも下さったのですが、そのタイトルを見た私は、酒の勢いも手伝って つい、この「私のカードファイルから」という(トゥルベツコイの遺稿名から借りた)タイトルは、ぼくもいつか使いたいと思っていたんだけどなあ、などと つぶやいてしまいました。すると先生が、ちょっと びっくりしたような顔をされてから、いやあ、このタイトルは 固有名ではなくて 一般名だから …… というようなことを おっしゃりつつも、トゥルベツコイのこと、理論と実証との関係のことなどを話題にされながら、ご自身が『リーダーズ』用に特注されたカードを見せてくださり、私の方も自分の使っていたカードをお見せしたりして、ひとしきりカード談議に花が咲いたことも、いまは なつかしく思い出されます。
 書込によると 1991年のこと、先生とお会いして五年たったころのことです。神田の古本屋 進省堂で、Fred W. Householder(1971) Linguistic Speculations という本を見つけて、魅力的なタイトルにひかれて買ってしまったのですが、見ると このHouseholderという著者は インディアナ大学の言語学と古典学のResearch Professorだ と書いてあるので、あるいは、と思って松田先生に──やはり国松バーでご一緒したおりに──おたずねしたところ、案の定、それは私の指導教授だよとおっしゃって なつかしそうにしていらっしゃるので、先生の博士論文執筆のころの想い出を あれこれ お聞きすることができたのでした。それは、かなり きびしくも あたたかい師弟関係と思われる、うらやましい お話でしたが、門外漢の悲しさ、固有名のほとんどは、いま 思い出すことができません。

 あれは いつのことだったか、人の "いきざま" や "ひきぎわ" が酒席のさかなになって 各自 勝手なことを言いあっていたときに、「傷だらけの人生」ってのもあるよ、と ぽつりと つぶやかれた先生。この、沈着 冷静にして おだやかに見える先生が …… と ドキッとさせられました。いろいろと おありだったのでしょうね。ほんとうに おつかれさまでした。
 どうか やすらかに おやすみください。


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