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最終更新 2003年06月08日
工藤 浩 (東京外国語大学)
東大国語研究室は、創始者 上田万年 以来、言語の研究方法の近代化と取り組んでおり、「文法」のような古めかしい領域には、あまり関心を もたなかったように見える。新村出の回想(「思い出を語る」1956年)によれば、新村の後任として 国語調査委員会の補助委員に 山田孝雄を「抜擢」したのは、上田万年だったとのことであるが、調査委員としては評価しても、博士としては評価しないということなのであろうか。当時最新の「新文法学派」【neo-grammarians.「少壮文法学派(〜若手/若造 文法家ら)」Junggrammatiker(独) とも】らから批判されていた、旧派の【思弁的な】ハイゼのドイツ文典などを ひとつの よりどころにしている日本文法論など、博士号に値しない、ということだったのかもしれない。のち 昭和に入り「国学ルネッサンス」期を迎えて 形勢が逆転し、山田孝雄の博士号問題をめぐって、東大国語研究室が あわてふためくことになるのも、歴史における理性の狡智 というか 皮肉な歴史【むしろ 歴史の皮肉】と いうべきものなのかもしれない。
ちなみに、文法教科書の国定化にあたり、国粋主義的な山田や松下をたくみに避けて、非政治的で、学問上は形式主義的方法をかたくなに守った橋本の『新文典』を選んだ、当時の文部省の「進歩的」な施策も、上田万年の一番弟子 保科孝一をはじめとする 東大国語研究室出身者の行政力のおかげであったのであろう。
時枝誠記(トキエダ・モトキ 1900-1967)の文法
時枝誠記は、「言語過程説」に基づいて文法を構築した。言語過程説とは、「言語」の本質は構成された実体としての言葉にあるのではなく、話し、書き、聞き、読む言語活動それ自体にあるとする学説である。したがって、「文法」も表現過程の違いにしたがって組織される。まず、言語活動の単位として、語・文・文章の三つが「質的統一体」として取り出される。文章を単位として取り出し「文章論」を立てたことが特徴的である。
「語」は、言語活動の社会的習慣の型として「観察的な立場」から文を分解して得られるような単位ではなく、「言語主体の意識に於いて、すでに単位的なものとして存在してゐる」ものだという。そして、「一語」とは「思想内容の一回過程によって成立する言語表現である」と定義されるのだが、これは、「たけのこ(筍)」「なのはな(菜の花)」は一語として意識され記憶されるものだが、「動物の子」「椿の花」は二語あるいは三語の組合せだ、ということを「過程説」にふさわしく言っただけのことである。つまり、この「主体的な立場」からする定義自体は、常識的なものに過ぎず、まちがいとも言えないが、「観察的な立場」からの検証や裏づけをほとんど否定してしまったことは、のちに触れる「詞辞非連続説」の問題とも密接な関係があり、注意すべきである。
品詞としては、「概念過程を経た」「客体的表現」としての<詞>と、「概念過程を経ない」「主体的表現」としての<辞>が、二大別として取り出され、<詞>に「名詞・代名詞・動詞・形容詞・連体詞・副詞」それに「接頭語・接尾語」が、<辞>に「接続詞・感動詞・助動詞・助詞」(それに、特殊なものとして「陳述副詞」)が属すとされる。たとえば「彼も行くだろう」における「行く」という動詞=詞は、主語「彼」の動作を表わすが、「だろう」という助動詞=辞は、主語「彼」の推量ではなく、主語がなんであろうと常に話し手の推量を表わす。「も」という助詞=辞も、周囲の事情との関係で、「彼が行く」という事実に対して、「共存」とでもいうべき話し手の認定の仕方(「限定」)を表わすという。このように<辞>は、話し手のなんらかの態度・気持ちを概念化・客体化せずに直接的に表わす(表出する)ものだとするのである。「彼も行きたいのだろう」のように用いられる「たい」は、「だろう」と異なり、話し手の希望ではなく、主語「彼」の希望を表わすから、辞=助動詞ではなく、詞=接尾語だとする。
文の構造としては、西欧語が主語と述語が釣り合う「天秤型」をなすのに対し、日本語では、詞と辞が包み包まれる<入子(イレコ)型構造>をなす、という。<図12> (略)
助詞や助動詞のないところには、「零記号の辞」(■で表わされる)があるとされる。
詞と辞を「概念過程」を経たか経ないかの「次元の違い」に基づいて区別した以上、それは有か無かという二者択一的な対立であって、中間物は認められないから、終助詞をより主体的な辞、格助詞をより客体的な辞、とするわけにもいかないし、命令形「行け」のように、詞と辞が共存するように見えるものがあっても、それは二回の表現過程であり、一語ではありえなくなる。単語の「主体的」定義からして必然的に、用言の活用その他に「零記号の辞」を想定せざるをえなかったし、形容動詞「静かだ」は、体言=詞「静か」と助動詞=辞「だ」とに分割せざるをえなかったのである。のちに、大野晋や渡辺実らの批判・修正を受けても、そのいわゆる「詞辞連続説」を頑強に否定したのは、理の当然である。連続説を受け入れることは、「一語=一回過程」とする「主体的立場」からの語の根本的な定義を否定することになり、ひいては、言語過程説自体を崩壊させることにつながりかねないからである[じつは、命令形と形容動詞の扱いは、『国語学原論』(1941)と『日本文法 口語篇』(1950)とでゆれている。『原論』で、命令形「立て・起きろ」の「-e・−ろ」を辞としたり(p.350-1)、形容動詞を「詞」扱いしたりした(p.244)のは、理論化の不徹底だったのであり、のちに『口語篇』で修正・整備されるのである。]
その意味で、時枝誠記が連体詞と副詞を、「連体修飾語か、連用修飾語以外には用ゐられない」もので、「格表現がその語の中に本来的に備つてゐると見るべきもの」だとしたのは、詞辞理論にとっては、残された唯一の矛盾であった。時枝は、形容動詞の語幹は、辞書の見出しにもなり、一語と「意識することは決して困難ではない」が、副詞や連体詞は、常識的に全体で「一語と考へざるをえない」として、この自己矛盾に耐えたのだが、時枝の弟子たちは、この矛盾を矛盾ではなく、理論整備の不徹底だとして、副詞と連体詞をも、形容動詞と同様に、語ではなく「詞+辞」の「句」だと強弁した。かすかに残っていた常識・現実感覚すら、「理論」のためにはかなぐり捨てられる。だが、連体詞や副詞を句だとして品詞論から排除するなら、用言の活用形の諸用法も、句の問題として品詞論から排除されなければならなくなる。時枝の弟子たちは、亜流の宿命として理論の整合性を守ろうとしたが、それはただ、理論(語論)のなかみをますます貧弱なものにすることにしかならなかった。[語論・文論とは別に「句論」をたてて、そこで詳しく扱うというなら、それでもいいが、そういう風も見えない。「句」は、時枝によって「質的統一体」のひとつとしては挙げられていないからだろうか?]
時枝は、文法学を、外形にとらわれずに「言語における潜在意識的なものを追求し、これを法則化するもの」だとし、また、「観察的な立場」より「主体的な立場」に優先権を与えた。この、個人主観的な心理主義が、言語形式を無視した観念論的分析に時枝を陥れた、と言っていいだろう。彼の本領は、伝達論、場面論、それに文章論など、言語活動の面に関する新分野の開拓にあった。文法論の分野においては、従来から言われていた文の二側面、たとえば山田文法でいう「属性」と「陳述」との関係の問題を、きわめて単純な形で提示することによって、いわゆる「陳述論争」を引き起こし、論議を「活性化」させたという点に、学史上の意義を認めるべきなのだろう。
なお、古文の解釈文法の分野においては、連用形の述語格と修飾格との判別とか、連体形の諸用法の記述とか、興味深い分析を示している。古代語の分析において、あれほど意味や用法を重視した彼が、文法論においては、たとえば形容動詞の否認の際のように意味を軽視する態度を採ったことは、詞辞理論の理論的な要請であるとはいえ、惜しまれることである。理論の重要性、あるいは恐さとは、こんな所にあるのだろう。
私事ながら、誤解のないように書きそえておきたい。1967年 時枝誠記のなくなる最後の年に、本郷の国語国文学科に進学した私は、4月の国語研究室会で 時枝に はじめて会い、東大を定年で去られていることを知らずに東大に入学して 非常に残念である旨を はばかりもなく申し上げ、お許しをえて 早稲田大学の「ニセ学生」として先生の講義を聴講し、親しく質問もさせていただいた。それは たった三か月という きわめて短い期間ではあったが、これでも、時枝誠記の、出来は悪いが 最後の学生のつもりで、自分では いるのである。先生は、私のつたない質問・疑問にも、いつも こころよく耳を傾けてくださり、時には、その問題は (時枝文法批判としてではなく)自分の文法論の問題として考えなさい、という趣旨の お答えを いただいたことも あった。
師の説に なづまざる事 ── 私は そう受け取った。学問の受け継ぎは、墨守ではない。あってはならない。
時枝誠記のあと、ふたたび 文法学は 国語研究室の関知するところではなくなった。非現代語の【精緻な しかし 没理論的な】記述に、でなければ 中世の言語意識の【精妙な しかし 没論理的な】解釈に、専心することになる。
【それ以降については、いまだ歴史的批判に たえないものとして、発言を さしひかえる。】
#もと、東大国語研究室 創設百周年記念論集 のために準備され、途中で放棄されたもの。(2002/12/21 記)
研究史としては 一面的で 中途半端なものではあるが、随想としては 捨てがたい部分もあり、
今回、他の文章の掲載にあわせて、掲載させていただくことにしたのである。
【 】に くくってある部分は、今回 おぎなった 注記である。 (2002/12/30 補)
# 上の文章は、2002年10月19日に ひらかれた「奥田靖雄先生を しのぶ会」におけるスピーチを 世話人の方で 録音テープから おこしてくれた 文字化原稿を もとにして、マクラと ムダ口を はぶき、言いまちがいを ただし、話の流れの くりかえしと みだれとを、見ぐるしくない程度に ととのえた ものである。
なお、[ ]に くくった部分は、当日 言いそびれたり 言い落したり したことを、今回 おぎなったものである。
(2002/12/23 成稿。12/25 補訂。12/26 補注リンクはり。
2003/01/03 字句補修。04/01 句読法・わかちがき 修正)
工藤 浩 (東京外国語大学 日本課程)