はじめ | データ | しごと | ノート | ながれ


【最終更新 2005年02月20日 末尾の「最新訂正」参照】

■小引
 この論文は、『コトバの科学』の第4号(1951年発行)に のった論文であるが、奥田の論文集『ことばの研究・序説』の<補・初期の原稿>の部分にも収録されていない。なお、表題に(1)とあり、本文の始めの方に「問題は二つに要約される;1)思想と言語との過程的関係:2)主体的活動としての言語。」とあり、終わりの方にも「第二の問題」への言及があるが、実際には、(2)以降は発表されていない。【このページ末尾の付記 参照】

 これ以前にも、民族学・民族誌関係の論文は いくつか あるが、奥田靖雄は、この論文において 時枝誠記の言語過程説を批判し、ひきつづいて「音韻についての覚書」(『コトバの科学』5号 1952年 『ことばの研究・序説』所収)において 服部四郎の音韻論を批判することによって、彼の「唯物弁証法」的な 日本言語学を出発させたのである。
 その際、1950年の「スターリン論文」等によって、「言語相対説」「サピア・ウォーフの仮説」のかどで「ブルジョワ言語学者」のひとりと目されていたサピアに関して、「E.サピアの音韻論について」(『コトバの科学』6号 1952年 『ことばの研究・序説』所収)において サピアの音韻論の正統性を論じているばかりでなく、先行する この論文でも「最近の言語学者として、思惟と言語との関係を正しく理解した人はサピアである」と書いていることに注意してもらいたい。スターリン論文とその追随者たちに、追従など していないのである。

 研究史的な関心から、もとの印刷があまりよくないうえに、あまり鮮明とも言えない 読みにくいコピー──しかし、それとて 今は亡き 新川忠氏のご好意で 入手できたものである──に基づいて 工藤が「解読」したもので、何カ所か 翻刻に自信のないところもあるが、同様の関心を持つ人々の参考にでもなれば と思い、掲載することにした。

 原文の後半では 改行段落が多くなり、一文=一段落になっている部分もあるので、私意によって 改行を廃し まとめたところがある。また、スターリンの長い引用の部分をインデントするなど、読みやすくする工夫は くわえたが、語句をあらためるなど 内容にかかわる改変は、いっさい くわえていない。
 当時のことを知る方々から、ご批正いただくことができれば、望外の幸せに存じます。

【補記】2002年3月22日早朝、かねて病気療養中の 奥田 靖雄 氏が 逝去されました。享年82歳でした。生前 学恩をいただくばかりで、ほとんど それに報いることができなかったことが 悔やまれます。ご冥福をお祈りしたいと思います。

 なお、掲載について、著作権継承者の了承は 得ていませんが、その研究史的な扱いにおいて、違法性も不当性もないものと信じています。このページの読者には、この点について じゅうぶん ご配慮をお願いします。いまだ不完全な 未定稿ゆえ、復刻者として 無断の転載・転用は かたく お断りします。むろん、学問的な引用は 別です。



言 語 過 程 説 に つ い て (1)

             奥 田  靖 雄

 文学9月号に掲載されている論文「言語の社会性について」において、時枝氏は大久保氏の批判に答えて、「私は、国語学原論以下の私の著述の根底をなす言語理論を根本的に改める必要を感ずるところまで到達しなかった」とのべている。事実、時枝氏はこの論文に於いて、いわゆる言語過程説をいくらかでも修正したとは思われない。「……時々刻々に我々の対人関係を左右する主体的な言語表現において言語の社会性を見ようとするのである」という彼のコトバが、このことを物語っている。従って国語学原論においてのべられている言語過程説に対する批判は、以前と同様に、我国の言語学界にとっては或る重要な意義をもっている。私の見解によれば、真の意味における言語の社会性は、言語過程説によるとすれば、説明されるものではない。もしもそのことが可能であるとすれば、たかだか言語が思想を伝達するという機能的な立場からである。勿論この機能からみて、言語は社会的である。しかし、同じく機能的な立場からみて、言語は主観的な、個人的な主体的行為でもある。例えば、ひとりごとで、『ああ寒い』といった場合、対人関係が予想されているわけではない。一般に、社会性は、必らずしも、共同社会的な活動という形式においてあらわれない。言語が社会的であるのは、それが「主体的立場の所産」ではなく、人間の社会生活の産物であるからである。私は、言語過程説の批判を通じて、このことを証明しなければならない。
 時枝言語学の理論的構成の骨組をなしている言語過程説は、「言語をもっぱら言語主体がその心的内容を外部に表現する過程と、その形式において把握しようとするもの」である。この場合、言語とは「思想内容を音声或は文字を媒介として表現しようとする主体的活動それ自体」である。言語的な主体的活動は継起的段階として過程的にあらわれるので、時枝氏はこの理論を言語過程説と称する。
 問題は二つに要約される;1)思想と言語との過程的関係:2)主体的活動としての言語。しかし、時枝氏は思想と言語との関係を過程的に観察すればこそ、言語を主体的活動として規定するのである。従って、思想と言語との関係を過程的にみる時枝氏の見解に対する批判は、この仕事における第一義的なものである。
 如何なる言語学たりとも、思想と言語との関係を否定しはしないのであるから、これらが如何なる仕方で関係するかということが、さしあたって重大な問題である。時枝氏によれば、思想・心的内容は言語にとってはその存在条件の一つ──素材であって、言語の外にあり、言語の内部的構成要素とみなすことはできない。彼のコトバを借りるとすれば、「事物にしろ、概念にしろ、それは就いて語られる素材であって、言語を構成する内的要素とみることは出来ない」のである。さらに、彼は「言語はあだかも思想を導く水道管のようなものであって、まったく無内容なものと考えられるであろう」と語り、つづけて「しかしそこにこそ言語過程説の成立の根拠があるのであり、言語の本質もこのような形式自体にあると考えなくてはならない」と述べている。換言すれば、言語過程説によれば、思想は形式なくして存在し、形式としての言語は無内容のものである。思想と言語とは、継起的過程において関係をとりむすぶ、というよりもむしろ、言語それ自体にとっては第三者である思想を外に表現しようとする現象そのものが言語である。いずれにしても、言語過程説は、思想が言語とは別個に、主体的言語活動が開始する前に、かたちづくられているという前提の上に立つ。
 すなわち、時枝氏においては過程的立場からみて、思想なき言語は考えられないとしても、言語なき思想は考えられる。それは過程的に言語以前であるからである。
 このことを思惟する立場からみるとすれば、思想は思惟する結果生まれるのであるから、人間はコトバなしに考えることができるということが、あらかじめ予定されている。
 エンゲルスは、「言語の手だすけなければ、思惟できないものは、抽象的な本来の思惟が何を意味するかを知らないものである」というデューリング氏のコトバに対して、「してみれば、もっとも抽象的な、もっとも本来の思惟をなすものは動物である。なぜならば、動物の思惟は、言語のさしでがましいおせっかいによってにごされることがないからである」と答えている。
 彼のコトバは教訓的である。というのは、時枝氏は人間を動物の状態に引きもどすことによって、言語論を立てているからである。
 言語なしに思惟することは、可能であるだろうか? もしも、あなたがこのことに疑いをはさむとすれば、具体的な実験として、数詞なくして数概念を考えることが出来るか、数詞のたすけを借りずして計算することができるか試みてみるがよい。例えば、5+5=10、において、発声行為は省略されることもできる。しかし、数詞《5》の概念は、《ゴ》という発声またはその聴覚映像なくしてはあり得ない。概念としての《5》は個々の対象の数量のうち以外には、どこにも存在しないのであるから。
 個々の対象のさまざまなすがたからぬけ出た時、抽象として数量概念《5》は、もはや感性的な、実在物ではない。われわれは、概念《5》を、何か物的なものとして、手にふれることはできない。それを表象することもできない。それは、概念のうちには対象の一般的な、本質的な性格のみが抽象されて持ちこまれているということによる。
 認識活動において、人間は感覚から出発し、思惟において非感性的概念を作る。ひとたび確定した概念は、たえず新しい感性的経験によって新鮮な息吹が与えられ、感性と縁を切ることはないとしても、概念それ自体が非感性的なものであるという事情はいささかも変らない。そこで、われわれは非感性的なものを如何にして認識するかという問題が生ずる。
 かくして、概念それ自体としての《5》は、それが感性的な実在でない故に、われわれにとっては認識されないし、また存在の仕方を知らないのである。それにもかかわらず概念《5》は存在している。われわれはそれを用いて計算している。この矛盾は、言語の存在によって解決する以外に、道はない。すなわち、われわれにとって数概念《5》が存在するのは、非感性的なものに感性的な音声《ゴ》を付与し、それを感性的実在として登場せしめるからである。総じて、感性がとらえることの出来ないものを理性がとらえるという人間的特権は、人間が、非感性的なものを感性的なものにおき変えて認識することにある。
 数詞の例を概念《馬》に移したとしても事態は変らない。思考物としての概念《馬》は、主観的経験から一歩も出ることのない表象《馬》とは本質的に異なる。表象《馬》は、常に主観的条件に左右されて、安定することはない。かくして、コトバとしての音声《ゴ》は、数概念《5》の存在形式であり、内容としての数概念《5》は、コトバとしての音声《ゴ》によってささえられているのである。
 一方なくして他方はありえない。したがって、数詞なくして数概念を考えたり、計算することはできるはずがないのであり、一般的に言うとすれば、概念は思惟の要素であるから、言語なしに思惟できるとは想像もできないのである。時枝氏の言語過程説は想像もできない想像の上に立った言語論である。
 さて、以上の説明によって、言語は思惟にとっては存在形式であり、思惟は音という感性的素材につつまれてのみ存在することが明白になった。思惟に対する言語の感性的性格を、はじめて理解したのは、おそらく人としては言語学者フンボルトであろう。
 しかし、マルクスはこのことを唯物論的立場から理解している。彼は「思惟自体の要素、すなわち、思想の生命発露の要素としての言語は感性的自然である」と規定している(経済学・哲学草稿)。
 また、『ドイツ・イデオロギー』において、「精神は、元来物質に憑かれているというのろわれた運命をになっており、この場合に、物質は運動する空気層という形、音という形、要するに言語の形をとってあらわれる」とのべている。
 最近の言語学者として、思惟と言語との関係を正しく理解した人はサピアである。それ故に、彼は実証主義的な近代言語学がなし得る最高の成果をもたらした。
 スターリンは、クラシェーニンニコーヴァ宛の回答に於て、彼のみが良くなし得る確信をもってこの問題に、次のごとく答えている。
 「考えは、それがコトバのうちに話される前に、人間の頭の中に生ずると人は言う。考えは、言語の材料なしに、言語の膜なしに、いわば、はだかのかたちで生ずると人は言う。しかし、このことはまったく正しくない。
 人間の頭の中で発生するどんな考えも、言語の材料、つまり言語上の用語または語句にもとづかずしては、発生することも、存在することもできない。………………思惟の現実性は言語のうちにある。ただ、観念論者のみが、言語の「自然材」とむすびつかない思惟について、言語なしの思惟について語ることができる」。
 認識活動において、人間は感性的経験にもとづき、個物の本質的な一般的特性を抽象し、概念を形成するが、実は概念は名が与えられない限り、すなわち音的な、記号的な、それ故に言語的な表現が与えられない限り、自己の存在は確立されない。
 音声による記号表示をともなわない概念は、もしあるとすれば、不安定な表象にすぎない。感性的な知覚は既に表象において一般化されるが、対象の本質的反映としての一般化は概念においてである。従って、概念は表象のうちに起源をもっている。しかし、表象から概念への移行は、単なる量的変化としてではなく、質の変化である。というのは、感性的認識は客観的世界を直接に反映した主観であるから、表象は自己の主観性からのがれることはできない。それに対して、概念は、表象によって把握されない非感性的なものとして、主観性から離脱することによって成立する。
 つまり、表象が諸表象のうちにとけ込んで、一つの非感性的表象を作り上げた時、概念は生まれる。従って、概念の本質は、主観の客観化である。客観化された諸主観である。
 そこで、この精神上の現象は、純粋に精神上のできごととして理解できなくなる。何故ならば、諸主観によって主観の客観化が行われるとすれば、この過程は、主観が自己の唇を通じて外化され、それが他の主観の耳をうち、それがまた他の唇を通して外化され、自己の耳に復帰した時、完成されるからである。かくして、表象は言語において概念に飛躍するのであり、この飛躍は諸主観が関係をむすぶ社会において遂行されるのである。言語過程説が、言語の社会性を解決し得ないのは、まさしくこの点にある。
 しかし、概念はその直接的な母胎を一個人の表象のうちに持ち、理性は感性に下ってのみ、自己の存在が維持され、つよめられるとすれば、一個人の主観性が言語にもちこまれるということは、言語のもつ本質的性格とみなさねばならない。この事情は、対象に対する主体的把握の相異として、言語表現のうちに現象する。
 言語は理性と感性との両分野において働くものである。人間は言語のうちに意志や情緒をおりこむ。このことから、言語は主体的活動であるという理由は成立しない。
 社会的な創造物が主観の表現に使用されたとしても、社会的なものは社会的である。それどころか、理性は反対に自己の母胎である感性に働きかけ、本来の主観そのものを客観化するのであるから、すなわち、主観のうちに客観をもちこむのであるから、人間的感性も社会的に育成されたものとみなければならない。
 人間は思惟の成果をさげて、意識的活動として、感性的経験に出発し、思惟そのものを展開するが、この時感性そのものも、人間的なものに移行せしめる。人間的感性は、動物的感性とことなる社会的なものとして登場する。それゆえに、言語活動それ自体が、社会的に育成された人間的感性にもとづく主体的活動である。
 従って、生命あるものが、すべて主体的行為者であるとすれば、言語の本質規定において、それが主体的活動であるという見方は本質的に間違っている。
 「個人は、主観的にいかに諸関係を超越していると考えても、社会的には畢竟その創出物に外ならない」というマルクスのコトバは、言語活動に関しても妥当性をもっている。
 しかし、言語は、感性を主体的活動として把握し、理性を社会的活動として把握してのみ、その可能性と必然性とにおいて理解される。
 すなわち、主観の客観化は、主体的活動を自然のうちに対象化(主体の客体化)することによってのみ可能性を得る。それはまた、共同社会においてのみ必然性を得る。それゆえに、社会的な生産活動、労働こそ、真に言語を生みだす起動力である。私はこのことを第二の問題と関係して語ることにする。
 さて、言語は感性的表象が非感性的概念に移る契機において、感性的な支柱として発見されるとすれば、言語学の全理論体系が、ここから出発しなければならないことは疑いえない。概念は、実際の意義を判断と推理とのうちにもつのであるから、言語はつねに文法的様相をともなう。従って、言語学は語彙論と文法とに分割される。
 さらに、表象に対する音声の付与が言語の生誕であるとすれば、この二つの分野で働く言語上の手つづきは音声的なものであり、音韻論的手つづきこそ、言語発展の最初の段階とみなさねばならず、それゆえに、論理的体系としての言語学は、音韻論をもって、最初の環とみなさねばならない。

(この論文は、11月19日の研究会で検討される予定です。 編集者)

[民科 言語科学部会 編『コトバの科学』第4号(1951年11月) 所載]


■付記
 『コトバの科学』第4号の「言語科学部会 研究ニュース」(p.2)の記事によれば、この論文は 1951年10月22日(月)の研究会で発表されたものであり、やはり同号に のった大久保忠利「『批判のコトバずかい』についての自己批判」(p.9)によれば、当日 時枝誠記も この部会に出席していた可能性が大きい。
 論文末の編集者付記にある「11月19日の研究会」での議論をふまえて書かれたものと思われる、吉村康子「言語過程説の主体的意識」が『コトバの科学』第7号に のっている。奥田自身によって「言語過程説について(2)」が書かれなかった事情に関係することとして、付記しておきたい。

最新訂正:鈴木重幸氏から、2004年12月8日付のメールで、もとの原稿にあった 10の翻刻ミスを指摘していただいた。氏が進行中のお仕事の基礎資料とするために校閲して発見されたものだったため、きょうまで公開するのを遠慮していたが、氏のお仕事も ひと段落ついたようなので、お許しを得て訂正版に更新します。(2005/02/20)


はじめ | データ | しごと | ノート | ながれ