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【シンポ 基調報告1】


「形式名詞」「吸着語」と 「つなぎ・むすび」

─── 松下大三郎と 佐久間鼎と 奥田靖雄とを つなぐ もの ───


当日の レジュメは こちら

工 藤 浩(三鷹 日本語 研究所)
[kudohiro@ab.cyberhome.ne.jp]


湯本昭南:言語学研究会の湯本です。コーディネーターというのが、わたくしにできることかどうかあまり自信がないんですけれども、なんとかやらせていただこうと思います。
 あまり時間がありませんので、パネリスト、話しをしていただく方のご紹介も簡単にすまさせていただきます。
 最初に、工藤浩先生です。レジュメが38ページからあります。三鷹日本語研究所に所属されておりますが、ついこのあいだまで、東京外国語大学にお勤めになられています。ご定年になる直前に大病をなさって、まだ体調十分とは、万全とは言えないところを無理してお願いをいたしました。主なご専門は、今さら紹介するまでもないと思いますが、モダリティ論というあたりだろうと思います。工藤先生はホームページにいろいろと緻密な奥田靖雄論とか奥田靖雄の研究についてのいろいろな論文にも健筆をふるっておりますので、どうぞご覧になってください。
 それでは工藤先生、よろしいでしょうか。
工藤浩:湯本先生から紹介があったように、数年前に脳溢血で倒れてしまいました。今も後遺症でちょっと左右に揺れてしまうものですから、座ったままでご勘弁願います。
 最初に2つのことをお詫びしなくてはいけません。1つは、レジュメが38ページから6ページ分ありますが、実行委員会から「6ページやるからレジュメを作れ」と言われて、貧乏根性を発揮して……。6ページ分というのは大学の90分授業のためにあるんですよね。で、今日の発表は30分しかないわけですから思い切って刈り込まないとこれは進まない。したがって、この冊子体のレジュメは、いわば資料集として使って、あっちへいったりこっちへいったり少し読みにくい使い方をすることを、最初にお詫びしておきます。
 それから忘れないうちに。わたしのレジュメの43ページに書いたソシュール批判ですが、最後に「民科言語部会新世代の決起宣言」なのだと書いてあります。どういうことかというと、これ(「日本における言語学の展望と反省」)は活字の最初の論文です。それから佐藤さんが言われた「言語過程説について(1)」というのは、ガリ版刷りの機関誌(に書かれたもの)です。わたしの見るところ、内容的に判断して、これらはほぼ同時にかかれたのだろうということです。ソシュール批判と時枝誠記批判とがほぼ同時であった、ということだけをつけくわえたいと思います。(論集に収録された) 52年の初めての活字論文の「日本における言語学の展望と反省」というのが実は執筆時期としては51年の『コトバの科学4』の論文とほぼ同時に(正編続編の関係で)書かれたものであり、(民科という組織では)この前には大久保忠利という人間が(組織を牛耳って)猛威をふるっていたわけですけれども、それを乗っ取りに動いた奥田靖雄のまさに<決起宣言>であったというふうに見るのが正しかろう[補註には、一般意味論の ハヤカワ技術主義の 批判も ある]、ということだけつけくわえておきまして、そういう大きな研究史については、もうこれで終わりにいたします。
 ただ、たしか9年前の(奥田一周忌の)シンポジウムで、ソシュールのラングとパロールで奥田靖雄の研究史をぶった切ってみせたパネリストが2人いましたけれども、それは完全に間違いであるということだけは、はっきり言っておきたいと思います。奥田論はソシュール学の言葉で語ってはいけない。それはなぜかといえば、今日の発表のポイントである、唯物論と観念論という対立が決定的にあるわけで [研究方法が 根本から ちがってきますから]、ソシュールの中途半端な読み方、[要は、この 観念峻別的な 2分割(分解)に とらわれた 用語法と 研究史の 分断] は、それこそ許されないだろう、 [「言語language」と「言葉(=言語活動+言語作品) speech」という、サピアや ガーディナーを 継承 発展させた 分類(「言語と言語活動」『読み方教育の理論』所収)は、対象化する ことがらと その 関係づけの ゆたかさにおいて 根本的に ちがう、]ということだけは つけくわえておきます。
 時間がないからそのぐらいにして、今日の主題に入りますけれども。今日の話は30分でまとめなくてはいけないから、種明かしを先にします。今日は何を言うかといいますと、2つのことを言います。ひとつは口語文法。佐藤さんの話にも出てきましたように、話し言葉が (場面のなかに) 現象している、その話し言葉の中に (言語の)本質を見るという奥田さんの根本的な考え方。その表れが口語文法でありまして、それはこのタイトルにもある、松下大三郎、佐久間鼎、奥田靖雄全体に共通していて、アカデミズム文法というのが平安朝の文法でしかないのに対してこの3人は現代語の文法から出発しているということ。それが(民間学)全体を貫きます[三上章や 寺村秀夫にまで ひろげても、それは かわらない]。
 それからもうひとつのポイントは、名詞です。名詞というのを文法的に扱うということです。アスペクトとかモダリティーとかで動詞の述語論はある程度奥田さんも達成できたけれども、また、名詞のカテゴリカルな意味については連語論でやっているけれども、その名詞がまさに文法化したもの、それがタイトルにある「つなぎ」と「むすび」です。これは、従属節の最後につけば複文をつくるつなぎになります。接続詞のことです。英文法でいう、接続詞のことです。日本語では接続助詞(的複合辞)という、ばかげた名前がいまだに通っていますけれども、それを「つなぎ」とか「接続詞」とよぶ。それから、主文末につくのが「むすび」……繋辞とかコピュラっていうことばが通称ですが、それが名詞起源の文法化によって多く [用言「準体法」起源の ものも いれれば、大半は] になわれている。
 つまり、動詞についてはこのあと鈴木さんとか工藤真由美さんとか、それから連語については松本さんとかが話してくれると思います。それと重ならないようなかたちで、少し奥田さんを研究史的に位置づけてみたいということで。ポイントは口語文法ということと、名詞の性質に及びます。それの自立語としての名詞だけではなくて――それは連語論でやっていますけれども――、それ以外にそれの文法化として、「つなぎ」と「むすび」というのを位置づけて考えてみると、『にっぽんご・4の下』というのが未刊のまま、奥田さんは死んでいるわけで、われわれ後進の者たちが受け継がなければいけないことがまだあります。佐藤さんもそんな、教育の現場がどうのこうのと言っているのではなく、研究をもうちょっと頑張らなくてはいけないだろうと、少し佐藤さんにはっぱをかけようかという……(笑)。ちょっと病気をしてしまってから口が悪くなっています。もともと年寄りというのは口が悪いものですけれども、体が動かないとますます口が悪くなってイライラします。ま、それは冗談ですけれども、冗談はこれぐらいにしておきます。
 それでは、最初におことわりしたように、あちらこちらに飛んで聞きにくい話になると思いますけども、30分で話を終えるためにやむを得ないことなのでご了承ください。
 それでは、まず38ページ。「問題の ながれ」というところです。ここは少していねいにみようかと思います。最初の、「病気でやすんだ。→ 病気になったので、やすんだ。」それから……、もうひとつ (おわびが) ありました。このレジュメは、わたくしは一太郎で原稿を書いたんですが、実行委員会でそれをWord文書に変換したんですね。それで文字情報は全く増減ありませんけれども、タブレイターがかなり乱れています。だから表形式のインデントの下げ方がちょっと乱れているのはご勘弁ください。2行めの、「やすんだのは……」というのも2字分だけ右側に寄せるべきものですね。当然、1行めの「病気になったので……」と並ぶものです。
 こんなふうに「病気」という抽象名詞と「やすむ」という動詞で、ふつう単文と言うだろうと思いますが、それでいえることを、「の」を使って、「病気になったので、やすんだ」というふうに、複文のかたちにすることもできるし、「やすんだのは、……」、いわゆる分裂文ですね。ひっくりかえし文のように、「…… 病気だったのだ。」というかたちでこれを複文的に表すこともできる。こんなふうに、かたちは「の」という、たった1音節のものですけれども、そういうもの……、松下大三郎という人が、「もの」とか「こと」とか「の」とか「わけ」とか「はず」とか「かた」といった、連体修飾を受けないで使うことはできないようなもの、それを「形式名詞」と名づけて、大正13年に (『標準日本文法』という本で) 注目しています。そして、『口語法』、これは昭和に入ってからですけれども、『口語法』という本では、形式名詞と名づけてはいるけれども、実は従来の9品詞、名詞から始まって、普通のラテン文法以来の9品詞では解けないというふうに、わざわざ頭注でことわっている。つまり、これから述べる「つなぎ」だとか「むすび」だとかに、文法化として発展していくことを、論理的に(説明したわけ)じゃないけれども、直観しているわけです。それを頭注で言っている、というのがわたくしの解釈です。
 わたしは機械的に(概略だけを)言いましたけれど、松下はこれだけかいてそのまま脳溢血で死んでしまいました。[こまかく いえば]この『口語法』を出した翌年に[脳溢血で たおれ、その後は 後遺症の 病床に 4年 あって、最後は 合併症で]58歳で死んでしまいました。そのために、その後の発展がないわけですね。それを受け継いたのが次の佐久間鼎です。先ほど (佐藤さんの話に) 論理主義という批判もありました。そのとおりだと思います。論理主義ではあるんですけれども、論理主義にもいい面、プラスの面があるわけで、この形式名詞に関していうと、松下が従来の9品詞が増えると言っていたことを、「ばあい」とか「ところ」、「とき」、「ゆえ」、「ため」、「まま」のような例を見れば分かるように、「吸着語」という名前に改称して、名詞に限らず副詞的に使われるものも入れるという発展をさせているわけです。ただし、その分類たるや、はっきり言うと用例から帰納した(分類)というよりも、論理的に(分離)分割した(リスト)というものであって、(奥田さんや)佐藤さんの批判は当たっていると思いますけれども、(この新発見の問題領域のなかを) まず松下が出発して、そして佐久間がそれ(新課題)を継承しています。それからカッコの中にある三上章は、時間があればふれたかったんですが、ちょっと今日は省略させていただきます。
 このあと、(話が) とんでしまいますが、松下とか佐久間までは形式名詞とか吸着語とかいって、連体をうけるという性質に注目しているわけですけども、それに対して奥田靖雄……具体的には、『4の上』にあらわれた奥田靖雄は、「つなぎ」というものには触れていませんけれど、「つなぎのくっつき」として、「ので」とか「のに」にふれています。小学校の教科書ですから、「つなぎ」というのは「……したところ」とか、「……したため」とかいうのですけれど、それには触れていません。「むすび」は、「くっつき」と単語としての「むすび」。これは鈴木重幸さんも(『形態論』で)2つの章を使って詳しく解説しています。
 こういうふうに、何を受けるかということよりも、奥田さんの『4の上』の扱い方は、その単語がきれつづきにおいて「きれ」に使うのか「つづき」に使うのか、というような、いわば役割ですね。受けるというのもひとつの役割だけれども、受動的passiveですよね。それに対して、そこで切るのか、それとも主文に続いていくのか、というのが、まさに(能動的な)係り。小学校の「いきものがかり」とか、そういう係り、役割があるわけです。[ダジャレですが、「かか(わ)り」という 関係づけが 役割を うむのです。]
 ただ、奥田靖雄さんのこの考えはすばらしい考えだと思うんですけれども、レジュメに書いておきましたように、『にっぽんご4の下』(文法)が未刊のままで、(学説としても) 未完のままだと。実際にはcf.に書いた構文論グループ(女性)の論文……、『ことばの科学』に載っていますけれど、「とき」とか「あいだ」とか「うち」とか、そこには接続助詞じゃなくて、接続詞という名前であがっています。だから、やっていた途中だったんです。複文論はやはりひとりではできないから、男性グループとか女性グループとの共同研究で複文論を進めようとしていたわけですけども、こころざしなかばにして奥田さんも脳梗塞に倒れてしまった、ということです。それがポイントです。今日の話はもうこれで終わりでもいいんですけれども、時間がもうちょっとありますから……。あとはただそれを膨らませるだけです。だらけてきたら、むすびますから。
 名詞の文法的な性質というのは、大きくわけて自立語としての、カテゴリカルな意味を持った自立語としての名詞、これは連語論であつかわれています。「もの名詞」とか「こと名詞」とか「ひと名詞」とか「抽象名詞」とかいろいろありますね。そのほかに文法化、それがいわゆる接続詞になったりするわけですけれど、別の言葉、機能の言葉で言えば、まさに「つなぎ」というのは複文論ですね。それから「むすび」というのは陳述論です。今日は形態論主義批判というのがあとであるようだから、そのへんはそのときにしゃべれると思いますけれども。つまり(品詞として)「つなぎ」や「むすび」と呼んでいるのは、構文論的にとらえれば、複文論と陳述論、そういう大きなスケールで『4の上』はつくられている。十分にそれは発展して、『4の下』がつくれないで、実際に担当していたのは高橋太郎さんでしょうけれども、高橋太郎さんも奥田さんが亡くなった、本当に数年後……。あの2人は、ようするにケンカ仲間でしたから。ケンカ相手が失われたので、高橋太郎さんもすぐ死んでしまいました。そんな、冗談いっている時間はないですね。
 ポイントは、名詞の大事さということなんですけれど、それを第1節の(日本語の)歴史の問題と、それから第2節のドイツ語学の名詞文体という2つの面で、名詞というのがいかに大事か……(を話します)。動詞が大事であることはもう言うまでもないけれども、名詞が大事だというのは……(時計を みて)……、もう例だけひろっていきます。古代語と近代語を分けるのにいろんな説――かかりむすびが消滅したとか、そういう通説がありますけれども、いわば(格・接続)関係表現の明示化ということが言えると思います。その際に、38ページの最後の行にある「さかいに」「ほどに」「ところ」「ところが」「ところで」、これらは日本語の中世から近世にかけて実際にあったつなぎです。それから、次のページの「とき」「ばあい」「うえに」「ために」「くせに」「せいか」というのは、現代語で使われるものです。それから2行めのこれ。これもインデントがまちがっていますね。「ので」「のに」というのは、いわゆるくっつきですね、つなぎのくっつき。この3行にわたったもののポイントは、ここ(3行め)に書いてあります。「テンスの 対立を もった 連体節の かかっていく 形式名詞/吸着語」からつくられている。つまり、日本の近代語はいろんな特徴で説けるけれども、そのうちの重要なポイントとして、形式名詞や吸着語と呼ばれていたものから、テンスを持った接続表現ができたということが言えます。
 それを具体的に言うと、次の、古代語のシステムというのが「未然形+ば」と「已然形+ば」で、仮定と既定という 論理と時間とねじれた関係がありますね。これ、おもしろいですね。テンス的にも考えているんですね。松下は仮定/確定だし、東条義門は(将然/已然)、つまり未定/既定というふうに時間でとらえています。そういうほうが、それこそ論理主義的には正しいわけだけれど、仮定/既定というのは論理主義的にはおかしいけれども、でも言語の現状としてはありうるでしょう。だって、古代語のシステムは崩れていくわけだから、崩れていくときにテンス・ムードがないまぜになった状態というのもあってしかるべきです。ここもさっきの論理主義ということとからんで、けっこう学校文法もやるときはやるんだな、というところがあります。(ex. 佐伯梅友や 林大)
 それに対して、近代語のシステムは、「すれば」「すると」「したら」というテンスがない条件形と、それから今言った、「ので」「のに」から「とき」「ばあい」「うえ(に)」……これは全部テンスの対立を持っている。しかも動詞だけじゃないですね。用言だけじゃなく、名詞述語にもある。つまり、述語を補助するかたちである。それに対して条件の方は、用言の語形である。基本的には動詞の語形と言った方がいいですね、いちおう「さむければ」なんていう形容詞のものもあることはあるけれども。こんなふうに、現代・近代語のシステムというのは階層構造になっていると、これがポイントになります。階層構造というのも、時間があればゆっくり説きたいんですけれども、上位下位関係=包摂関係と、同位関係=対立関係とが共存するという、ヘーゲルだったら弁証法的対立と言うんだろうけれども、わたしはヘーゲリアンでないからそうは言わない。階層構造というラッセルの言葉 (「要素」と「型」との包摂関係の累積をみる数理化理論) を使います。
 古代語のシステムは仮定/既定の対立、それに対して、近代語のシステムは条件/接続という対立で、テンスがあるかないかということも違ってくる、ということで、次に黒丸(●)でかいておきました。単に明示化が進んだという量的なものだけじゃなくて、質的なシステムが転換していると。つまりエンゲルスの言葉を借りれば、「量から質への転化」を果たしている。これが古代語から近代語への歴史である、というのがわたしの説です。
 あとで鈴木くんから批判を聞きたいんですけども、アカデミズムはそうじゃなくて、かかりむすびの消滅とか、二段動詞の一段化とか、外形的なことを、どうでもいい、わけのわからないことをならべていますけれど、わたしのほうが、少なくとも論理的には……、論理主義じゃないけれど、論理的には [内容が あると] 自負しています。
 それが日本語の歴史です。それが名詞によって形づくられた。日本語の近代性の中核は名詞であると。そうすると、ドイツ語学で名詞文体ということを言われる。近代ドイツ語には名詞表現が増えていると。日本語の例では、「太郎が はしった。」というのが動詞文体。その「はしった」というのを「かけっこを した」というふうに、「かけっこ」という名詞をつくる、というのが名詞文体ですね。この名詞文体がふえるというのは……、動詞文体だと、「運動場を 懸命に (はしった)」というような限定にほぼ限られますけれども、名詞文体だと、ようするに連体節がかかるわけですから、そこにアンダーラインをひいたように、「あしが とっても おそい ために、できれば 口実を つくって はしりたくない と おもっていた」かけっこを(……した)、というようなかたちで、無限の連体節がつけられる。ようするに、近代的文体として名詞を中核におくと、連体節(や関係節)が (たくさん)つけられる、ということで、ドイツ語ではこれがほぼ通説になっていると思います。
 日本語の文法では、その名詞は無機能なものだってことになります。これは奥田さんが「格助詞」という論文で渡辺実を批判して書いていますけれども、渡辺実だけじゃなくて明治の山田以来です。つまり、助動詞の方は複語尾と認めたけれども、助詞の方はやはり単語として認める。つまり名詞は無機能なものであって、助詞が援助しているんだ、という考え方は、明治の山田から昭和後期の渡辺実まで一貫しているわけです。ところがどっこい、そうじゃないと。奥田さんが言っていることを繰り返すことになりますけれど、名詞は機能をもっているからこそ格変化するわけです。格変化するから名詞なのだという(形態論的な)見方の根拠には、まさに(語彙的に)概念を表わして(構文的に)有機能であるからこそ(形態的に)格変化するのだという、現実の因果関係が先行するのです。それがラテン語のように語尾変化であるのか、日本語のようなくっつきの変化であるのか、あるいは中国語のように語順(や補助語)で表わされるのか、というような「文法的な手つづき」の問題というのは二の次の問題です。月とスッポンの差があります。機能の方が重要です。あとで形態論主義の問題にかかわってきますけれども、機能の方が重要であって、(語)形態なんていうのは結果にすぎない[語順配列は 別]。工藤真由美さんの紹介で言う「固定化」にすぎないということです。山田から渡辺まで、アカデミズムの文法が言っていることはすべて、名詞が無機能だという、さかだち(倒錯)をしている。それが研究史としての批判です。
 それから、名詞が連体節を無限に受けるという理由は――もう時間がありませんので、簡単にしますが――40ページの(3)のex.という、上から5〜6行目のところをちょっと見てほしいんですけど――「チーズを かじった ねずみを おいかけた ねこを つかまえた メイドを しかった あるじに もんくを いった 女房に……」これ連体節ですから、こういう順序ですけども、これが英語であれば、関係節ですから逆に後ろへずらっと延びていく。語順が違うから直訳はできませんけれども、連体節(や関係節)は、いわば理論的には、無限に(回帰が)行われるということ。この翻訳は谷川俊太郎の翻訳をちょっと手直ししただけですけども、いちおう戯訳というかたちで……。もとは英語の関係節を使ったマザーグースという言葉あそびです。
 ようするに、名詞というのがいかに有機能であるかということを証明しているわけで、そのことを実は明治の山田孝雄も有属文ということを指摘した点では…… (やはり「近代的な大文法」です)。つまり文の価値を持っていたものが、一挙に有属文で語の価値のものにかわる、というようなことを発見している。実は、彼はハイゼの文法から学んだだけですけれどね。それにしても、山田はマイナスの面もあるけれども、この有属文を指摘したという点は、これはプラスにとっていいだろう。こんなふうに、名詞を中心にするということは、日本語の 歴史と、それからドイツ語との比較という2つの面で、大事です。奥田さんが言ったように、本来、語彙的な意味を土台にして文法というのを考えなければいけない、という立場にたつかぎり、名詞を無視して文法なんて語れるはずがないわけです。そういう大事なことが (この問題の土台には) あるわけです。
 そのあとに、機能動詞表現、きょう村木(新次郎)さんがきている(くらいだ)から、くどくど言う必要はないでしょう。「影響する」という動詞があるのに、さらに「影響を与える」という言い方ができるのは、「天地がひっくりかえるような影響を与える」なんていうふうにして、やはり連体節で、たいへんな修飾をうけるからです。「影響する」だったら、「強く影響する」とか、せいぜいそんなものしかないでしょう。
 ということで、機能動詞表現があらわれてくるのは、ドイツ語でも、それから、日本語でも、ありますけれども、日本語のばあいは、ここでつけくわえたいのは、いま言っている「つなぎ」と「むすび」というものが、名詞をコアにして生まれてきている。だから、ドイツ語学から名詞文体や機能動詞という考えかたを学ぶけれども、奥田さんを口まねして言えば、ささやかなドイツ語学へのおかえしです。そういう言葉も奥田さんの言葉にありましたね。たしか『日本語研究の方法』のまえがき(「はじめに」)だったと思う。(カテゴリカルな意味など、連語論の成果をもとに)「ロシア(ソヴェート)言語学へのささやかなおかえし(ともいうべきもの)である」というふうに(編者の名において)言っている。
 機能動詞のほかに助動詞として「ようだ」「そうだ」「ふうだ」「のだ」「わけだ」「つもりだ」があるし、それからその次、あまり有名じゃないかもしれないけれども、文末名詞文(新屋映子)、体言締め文(角田太作)と出しましたけれど、「ありさまだ」とか「ようすだ」とか「かたちだ」とか「かっこうだ」とか「ていたらくだ」……、こういう言い方もありますね。この新屋さんも角田さんも、どちらも高橋太郎さんのお弟子さんです。新屋さんは今日来ておられるけれども、東京外語での高橋太郎さんのお弟子さんです。それから、角田さんはオーストラリアでのお弟子さんです。ですから、関係ないものがふたつあるんじゃなくて、この根っこには高橋太郎がデーンとかまえているわけです。だから、やっぱり高橋太郎も完成はしなかったけれど、『4の下』の途中までがんばってくださった。そのときに、やはり、いま言っている、名詞を無視してはいけないということを……少なくとも弟子を通して高橋太郎が何を考えていたか……。わたしも実は若いとき、高橋太郎のもとで国研で仕事をしていたものですから、高橋太郎のことを忘れないでください、という意味で……。たまにはいいこと言うでしょ? (研究会の仕事は)奥田さんだけじゃなくて……。奥田さんのたしか数年後(2006年)に高橋さんもお亡くなりになった。
 さあ、それで、文末名詞文とか体言締め文という(もの)、角田くんは特にタイポロジカルに(研究していますが)、今でも国研の研究系長ですから、今年じゅうに論文集を出すと言っていました。世界の中で、こういう体言締め文……体言(述語)で終わっているような文、ドイツ語には当然ないですよ、名詞(述語)で終わる文ね。こういう言語にはありますよ、というようなものが、一覧表のように単行本で出るらしいです。それをちょっと宣伝しておきますが、ただ、もうひとこと言えば、「ゾウは鼻が長い」という<ハ・ガ構文>が有名だけれど、それをひっくり返した「ゾウは長い鼻だ」という言い方も[、ここで いう 文末名詞文とか 体言締め文とかの 根幹には、] あります。
 もうひとつ、芥川龍之介の有名なもの(「羅生門」)で言えば、「京都は、もう火桶が欲しい程の寒さである」。「京都は……寒さである」というような文も成立するわけです。それが日本語の特徴なんですよ。だから、「工藤は大きい手だ」というのもありますね。「短い足で」とか、そういう言い方もできる。「小錦は、大きい体で、強い寄りだ」という言い方もできる。そういうことができるというのが根っこにありまして、そこ(名詞部分)に、いま言っている形式名詞とか吸着語が入った結果、文法化が促進され、そこ(レジュメ)にある「つなぎ」とか「むすび」が、できたんだということになります。[たとえば、「の」や「わけ」が 名詞部分に はいって、「小錦は、大きい ので、強い わけだ」という ぐあいに。]
 まだしゃべりたいことはいっぱいあるんですけれども、残り2〜3分ということで。(4)のところは詳しくはあとで見てほしいし、それから先ほど湯本さんが紹介してくれたように、文章の形でホームページに上げてありますので、どうぞホームページの方をご覧ください。
【UTLは http://www.ab.cyberhome.ne.jp/~kudohiro/notes01.html#10 で、(検索サイト→) 「三鷹日本語研究所」 →「ノート」→「文法研究ノート抄」→「形式名詞/吸着語/つなぎ むすび」と クリックしながら すすんでも、目的地に いけます。】
 ここでは41ページの一番下、4−3というところだけ見てください。「文の なかで 語は 前後の 語句と 関係を もつ」。つまり、何かを受けるということと、それから、自分がきれるのか、つづくのか、というふたつをだいじにする。そのときに、松下の形式名詞とか佐久間の吸着語というのは、前との関係、前に吸着するとか、前に連体をうけるとか、いう <うけ> に注目している。それに対して、『4の上』の画期的なところは、くどいようですけれどもう一度言います、この41ページの最後の行、前の行から読みますけれども、「文内の 語の 機能(関係表示)として、<うけ> の 機能よりも <かかり> つまり <きれつづき> の 関係を 優先」している。これが、たとえば「大きく」なんていうのを形容詞の連用形と考えるか副詞と考えるか、というところにまで問題はいくわけですね。うけを重視すれば、「大きく」というのと「大きい」というのは同じ形容詞ということになるし、「大きい木」というのと、「大きく曲がる」というのとの(カテゴリカルな意味の)違いを認めれば、きれつづきを重視すれば、一方は形容詞であり、一方は副詞だという。これは単純にどっちがいいと言えない問題があるけれども、「つなぎ」とか「むすび」という考え方がきれつづきを重視したものであるということは、最後にしめとして言いたいと思います。
 時間があれば42、43ページ(第5節)の奥田さんの根本的な考え方についても述べるつもりでしたけれども、もう時間がなくなってしまいましたので、これで終わりにしたいと思います。
 またこのあといろいろ質問を受けたりすることがあると思いますので、どうぞ遠慮なく質問を投げてください。いったん終わります。
湯本昭南:話をしたいことが山ほどあって、短い時間にまとめていただいて申し訳ありませんでした。《後略》

シンポジウム 討論部分は こちら



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