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シンポジウム 討論

★工藤浩以外の パネリストの 発言部分は、実行委員会に よって かきおこされた 文字化原案の ままである。

◆工藤浩部分の 角カッコに くくった [語句] 【文 文章】は 文字化校正時(2015年1月)の 補訂 補記である。



湯本昭南:それではシンポジウムの討論の時間に入ります。ずい分と時間が押してきています。予定どおりの時間をとりますと17時45分までとなりますが、この場所で懇親会を18時から予定しています。予定どおり1時間ぐらいはとれると思いますが、懇親会の時間までもっていきたくないので、同じことばかりいって大変にもうしわけないのですが、パネリストの先生方には時間を考慮しておねがいしたいとおもいます。
 質問用紙をだしていただきましたが、それ以外の方は議論のながれの中で、会場から直接というかたちででもご意見や質問を出していただくのは、むしろ歓迎したいとおもいます。まず、質問用紙というものをだしていただきましたので、おねがいできるでしょうか。集中していますので、「半分ほどやって」とか、「少し休んでから」とかいうのでも……。よろしくおねがいします。
工藤浩:それでは始めます。奥田さんは、「うけの関係よりもきれつづきの関係を優先している」ということと、「大きく、というのを形容詞の連用形とは考えずに副詞とみなすべきである」ということをもう一度よく説明せよ、というのですが、私はそのようには、いわなかったはずです。奥田はそう考えているが、私はそう考えていません。「大きく」というのは形容詞の連用形。私は副詞ではなくて形容詞連用形だという立場に立っています。ただ、奥田さんが「大きく」というのも鈴木重幸さんとともにと言うか、『にっぽんご4の上』とか『日本語文法・形態論』で副詞としている理由は、きれつづきの方を優先したのだということです。私はうけの形容詞というところを重視しています。ですから、「なすべきである」というのは、奥田がそう言っているのであって、工藤がそう言っているわけではありません。
 細かいこととして、すでに亡くなっていますが新川忠さんが、なぜ「大きく」を副詞としなくちゃいけないか? というのを奥田さんと共同研究でやっていますけど、私は納得していません。私は、副詞というのは形容詞と共通しているのが本質であって、それ以外の挿頭(かざし)というもの、「やはり・とても」とか「すごく/い(あつい)」とかいうものは、連用も連体もない、そういう挿頭というのを立てるべきであって、いわゆる副詞と形容詞は状態的な言葉として同じだというのが私の立場です。
【質問を はぐらかして 我田引水してしまいました。きれつづきの ちがいを、品詞の 差と みるか、同一品詞の 活用形の 差と みるか という 問題は、たいへん 深刻な 問題であって、文法論全体の なかでしか 評価できません。きれつづきの ちがいを 品詞論において 絶対視する たちばに かりに たてば、連用 終止 連体 … という きれつづきに もとづく 動詞の 活用形も すべて 品詞の 差だ という ことに なりかねなくて、活用(語形変化)という システムを 全否定しかねなく なってしまう、そんな 極端な たちばには もちろん だれも たちません。じっさいには、複数の 単語において おなじ 語彙的意味と ちがった 文法的意味機能との 両面を もって あらわれてくる 現象を どのように 整理 分類するか という 問題に なります。
 そのさい、副詞か 形容詞か というのは 語彙的な意味を もった 主要な 品詞の 問題であり、「つなぎ・むすび」というのは 補助的な 品詞=文法的な 品詞の 問題であって、いっしょには できない というのが わたしの たちばであって、そこが 奥田さんと ちがうのですが、「きれつづき」という 機能を 文法論においては まず 重視すべきだ という 奥田さんの 主張自体は たいへん 貴重な ものです。適用条件に じゅうぶん 注意すれば。
 関連して、三上章が「のだ」を「準詞」として あつかい、「のに・ので」も「のだ」の 活用形(連用形・中止形)と みようとするのに わたしが 反対であって、奥田の あつかいに 賛成なのも 「のだ/のに・ので」が 文法的な 機能語であって、「きれつづき」が 主要な 機能だからです。ただし、「のだ/のに・ので」の あいだの 歴史=構造的な 関連も 無視は できません。三上が これを 活用と あつかう ことの、いわば 積極的な 面です。つまり 問題は、対象が もつ 共通面と 相違面との 微妙な かねあいなのです。「ようだ・ようで/ように・ような … 」と ふつう 活用と あつかわれる ものとは ちがうのですが、ただ その「ように・ような」も、むすび「ようだ」の 活用系列に いれて いいか どうかは、ほんとうは 問題です。きれつづきの ちがいによって、「よう」の 名詞性の のこりかたが ちがって、たとえば「ガノ可変」の 現象も ちがってくる からです。システムが いきて はたらいている かぎりは、歴史的に 過渡的 中間的な 様相を 呈する 現象は、かならず のこります。歴史的な システムが 簡単に 静的に わりきれないのは、理の 当然なのです。】
 次に行きます。「松下大三郎と佐久間鼎と奥田靖雄とをつなぐものとは何か? 名詞の捉え方においてどのようにつながっていて、どこが問題だったのか? もう一度コンパクトに教えていただけないでしょうか?」ということです。早口ですみませんでした。繰り返しになりますが、ふたつあります。ひとつは口語文法を3人とも、俗語文典から始まって現代語を中心に研究していたということ、これは民間学の底流にあることだと思います。
 それからもうひとつは、「形式名詞」、「吸着語」、「つなぎ」、「むすび」と名前はばらばらだけれども、すべて名詞起源のもの(の文法化現象)に注目したということ[ちがいは、うけ重視か、きれつづき重視か、という こと]、このふたつで民間学の先駆者である松下と過渡期の佐久間と大成者の奥田、大成者と言っても直前に脳梗塞に倒れたわけだけども、一応、確立者といってもよいと思います、『にっぽんご4の上』のシステムはできているわけですからね。ただ、『にっぽんご4の下』ができてないというのが画竜点睛を欠くというところだと私は考えています。
【3人の ちがいを あえて おおきく いえば、特殊性を 直観しながらも けっきょくは 名詞の 範囲に とどまった 松下か、副詞的な 吸着語に 範囲を ひろげて 範疇化機能に 注目した 佐久間か、構文的な 機能に 特化した 機能語への 品詞的な 発展を みすえた 奥田か、という ちがいが あると いって いいかもしれません。】
 3つめにいきます。「古代語と近代語との二大別のところで新説に連用格表現の明示化など、明示化が意味機能的な変化であり形態論的な変化も含む、とありますが、説明してほしい」ということですが、明示化だけが問題なのではなくて、連用格関係とか接続関係とか、そういう意味機能の明示化、つまり、古代語だと、「に」と「と」しか連用格はなかったわけです。それが現代ではガ格、ヲ格、ニ格がありますけど、カラ格、マデ格まで入れれば連用格は増えています。それから、接続語も先ほど言ったように、「さかいに」とか「ところで」というかたちで増えています。そのことを明示化と言ったわけです。それは量的に増えている。しかし、単に量的に増えているだけではなくて、テンスを持つものと持たないものとが弁証法的な対立システムの中に発展しているということを言ったわけです。したがって、明示化自体は、(結果としての)形態論的な明示化もあるだろうし、(先駆としての構文的な)意味・機能論的な明示化もあるだろうけれども、(わたしのいう)連用格とか接続関係の明示化というのは、文法(=構文+品詞)的な意味・機能の明示化(=文法的な形式化)だということになります。
【「形態morph」と「形式form」、「形態論」と「品詞論」とは ことなる という ことに 注意してください。まったく 無規定ですが、数式的には、<形式=形態+意味+機能>、<品詞論=形態論+機能語(小詞)論>という 等式の 関係で、相互に 包摂関係に あります。
 また このままだと、連用格のほうは 量的な 明示化だけの ように きこえますが、あるいは、名詞の 曲用システムとしての <格・とりたて>の 関係が 質的に 変化していると いえるかもしれません。すくなくとも、両者の 未分化から 分化への 変化は いえると おもいます。ちょうど、動詞の 活用システムにおいて<ムード・アスペクト・テンス>が 未分化(総合態)から 分化(分析態)へ 変化する ように。あるいは、<かかり>単独の 古代語の システムから、<格+とりたて>の 近代語の システムへ 質的に 転換した、とも いえるかもしれません。古代語の「係り結び」についても、形態上の 特殊性に 注目し、連体は 倒置から;已然は 強調逆接から;と 説明する 起源論には 満足せずに、構文上の 機能が 「係〜副〜格」的に 複合/融合する 関係構造を みさだめる 方法が 必要と されるだろうし、現代語の「は−が」も、文タイプによって ねじれた 関係(同位対立関係〜上位下位関係)を もつのには、これらの 文法的な カテゴリーが 相互作用しながら 展開する 歴史の みちすじに、その 由来や 事情を もつだろう、とまでは いえると おもいます。】
 あとは、まだふたつあるのですが、この紙には、「時間があったら……」と書いてありますので、ほかのパネラーにお願いしてから、時間があればお答えします。
湯本昭南:どうもありがとうございました。質問を出してくださった方のお答えというか説明でよろしいでしょうか? あと、先ほども言いましたが会場から新しく、「それについては私も聞きたいことがある」とか、「言いたいことがある」とか、そのようなものがあればぜひ出してください。それでは特になさそうですので、次は鈴木泰先生にお願いしたいと思います。よろしくお願いします。
鈴木泰:こちらのミスでご不信を与えていると思いますが、45ページの分類表には動詞の分類があって語例が出ていますが、その語例の中で、「状態動詞」という所に「匂う」がありますが、「特性・関係動詞」の方にも「匂う」があります。
 「これは用例によって違いがあるのだと思うのだが、それは具体的に……」という話ですが、「特性・関係動詞」というのは消してください。これはミスプリントです。「匂う」は状態動詞です。基本的には一時的な状態を表していて、特性そのままのかたちでは恒常的な性質を表さないので特性・関係動詞ではありません。
 それから、動詞の分類に関わってふたつほどいただいているのですが、最初は山中先生からの質問です。そのまま読みます。
 高校で古典を教えています。「たり」、「り」の用法は、学校文法では「完了」、「存続」と名づけ、「完了」は「た」、「存続」は「ている」と形式的に教え、文脈と訳が合う方を便宜的に「完了」、「存続」を振り分けています。本日、先生のご講義を伺い、動詞の分類とこれら助動詞の文法的な意味が関わっていることの大切さが分かりました。どうもありがとうございます。そこで、現代語にすると、「〜している」でも、「〜した」でも訳せる古代語の述語形式の背景に、どんな語彙的、文法的な関わりがあるかを教壇で分かりやすく指導するためのヒントを与えてくだされば幸いです。
 以上のような質問です。基本的には述語形式に関して、どちらでも訳せる場合というのを文法的にどのように説明すれば良いか、語彙的にどのように説明すれば良いかという話かと思います。その例として少し書きます。ここですね、「うったる」、これを『平家物語』の中に、「木曽殿」の最後にあるのですが、この例は、「ている」、「た」が可能ですか? と書いてあるのだと思います。確かに訳す際には、「うっている」と訳しても「うった」と訳しても、それは可能だと思うのですが、普通は「うった」と訳すのではないかと思います。こういう例についてお話、それをどちらに決めるかということに関しての説明を求められているのだと思います。
 まず、この場合は連体形、規定語形です。この、「うったる」に当たる用法というのは、現代語の場合は「る」がないだけで、「うった」のかたちでも同じ意味になります。したがって、普通は、「うった」で訳せば良いと思います。ただ、意味的にはどういうことなのかと言うと、いわゆる、「存続」というのでも「完了」というのでもなくて、現代語で言えば「うってある」とかいうものに当たると思います。ですから、文法的な関わりとしては連体形の場合と終止形の場合では違うということです。それから、この「うつ」のような行為動詞でも連体形になる場合には割と存続的な意味、つまり、「している」という結果の状態的な意味になることがある、そのような感じぐらいだろうと思います。このような説明でよろしいでしょうか?
 山中:ありがとうございました。その例では終止形のかたちで文末に時々出てくる場合もありまして、生徒たちに教えている時には割とはっきり、「答えはどっちかか?」ということで詰め寄ってくるのですが、やはり語彙との関わりというのがすごく大切になってくるのかなと思います。
 やはり現代語と古代語とでは微妙に語彙的な範ちゅうが違うこともあると思いますので、そこのところは厳密にいろいろな用例に当たって検証しなければいけないと日ごろから思っていました。先生はこちら語彙のすばらしい表があり、それなどを参考にさせていただいてこれからの説明をさせていただきたいと思っています。
 あと、裏にもう1例、『伊勢物語』の……。 裏にあるのですか……。
 そういうものは「さいた」と言ってしまえないような感じで、私が説明する際にはよく、「主語が複数である」とか、「そのようなものも絡めなきゃいけないことがあるのかな……」などと思ったりしていたところです。何かヒントになるようなことがありましたら、よろしくお願いします。
鈴木泰:失礼しました。裏側は拝見していませんでした。「その沢のほとりに、かきつばたいとおもしろく咲きたり」、伊勢物語9段。こちらは、「ている」でしか訳せないと思います。「咲いた」はおかしいので、そのとおりです。この場合は先ほど45ページで示した動詞分類の、「咲く」は変化動詞です。したがって、この終止形であれば変化の結果の継続、状態を表すというようにとって良いと思います。それでよろしいでしょうか?
 それに関連して後ろに図が描いてあります。
 
          │ 限界 │ 無限界
      ――――┼――――┼―――――
       動作 │ 行為 │ うごき
       変化 │ 変化 │ 状 態
 
 これは私が描いたものではないのですが、これはパネラーの工藤浩さんがすでに、「これは質問するぞ」ということで描いてあるんですね。45ページ上の、「動詞の種類」という図ですが、これは結局、十字分類にしても良いのではないかということです。十字分類にした方が、説明力があるのではないか、そのようなご指摘だと思います。45ページの動詞の種類を十字分類にしなかったのは、一度に十字分類にするためには限界や変化、動作などを説明しなければ、最初からそのようなものを与えなければいけないので、私が説明する場合、まずは運動動詞と状態動詞をはだかの形と言いますか、「する形」が現在の状態を表すか未来の出来事を表すかで、状態動詞と運動動詞を分けるというようなことをやって、その後に変化動詞と動作動詞を分けるのに、「している形」にした時に、「書いている」というような動作動詞の場合には動作の継続になりますが、先ほどの、「咲いている」のような変化動詞の場合には変化の結果の継続になるというように、順番に説明していく方がやりやすいのでそのようにしたということです。
 たぶんいろいろ中間的なもの、境界的なものなどを説明するためにはこちらの十字分類の方が説明力はあると思います。まず、動作と変化というように縦に分けて、右上の方に限界と無限界で分けます。動作と変化というのは、やはり動作性があるか動作性がない変化を表すかということです。上の方にある、「限界」というのは結局、その行為に目標があるかどうかですね。その目標に到達すればその動作が終わってしまう、それが限界のある動詞であって、それには行為動詞とか変化動詞というものが当てはまります。
 一方、無限界というのは目標がない、いつまでも続けられるような種類の動詞ということで、動きや状態というように分けられるということです。
 それで、先ほどの移動動詞などというのは、実は行為の中心にあるのではなくて変化に近い側に最初からあって、たぶん歴史的に動いた、その十字分類の中で位置が動いたというように考えれば良いのかなと思っています。そのようにした方が、「変化していく」ということを説明しやすいのではないかと思います。
 立ち居ふるまいなどを表す動詞などもそうです。行為動詞なのですが、姿勢の変化を表すということがあるので、やはりこの辺(行為と変化の中間)にあるわけですね、最初から。ただ、古代語ではたぶん、まだここ(行為)にある……、古代語でもこちら(行為と変化の中間)にいってるのかもしれませんが、移動動詞の場合はまだこちら(行為)にあるとか、そのような説明をするのには、こちらの方がより説明力があると思います。どうもありがとうございました。よろしいでしょうか?
工藤浩:松本さんの場合でも、行為動詞というものが出てくるのが面白いですね。こちら(行為)が意志動詞ですよね? (行為をさして)意志動詞、(変化をさして)無意志動詞、それからこちら(行為)に他動、(変化をさして)自動なのですが、先ほど出た立ち居ふるまいなどというのは、意志があるけれども自動詞だということです。つまり、自動・他動という切り方と、意志・無意志という切り方がずれるわけですよね。
松本泰丈:ずれます。
工藤浩:そして当然、この「状態」は金田一(春彦)的な意味の状態ではなくて、奥田的な意味の状態ということで、常識的に言うと、「現象」と言った方が分かりやすいのかもしれません。心理現象とか生理現象。それは別に加えておいて、変化という場合でも、状態変化だけではなくて、位置変化「(東京に)行く」や 姿勢変化「(下に)すわる」といった(着点をもつ)ものも ふくむし、「(東京/下のほうへ)むかう」という方向のものは、(無限界の)移動動作(うごき)、ということになりますね。
鈴木泰:そのように考えれば限界がなくても良いのかもしれません。無限界の方に動いているということもあり得ます。
湯本昭南:それでは次をお願いします。
松本泰丈:私の所にもふたつほどきていますので、考えたことを述べたいと思います。ひとつは私の発表の中で使った用語ですけれども、はだか形とかはだか格と申します。「はだかは、基本の方がよくはないか」ということです。格の名前としては、日本語の文法の時にも、ガ格とかヲ格とかニ格とか、そのような格の形、外形、表現面に付つけた、あるいは表現面から発した名前があります。これはこれで便利なものですから使うわけなのですが、それとは別に対格とか与格など、そのような内容面からの名づけがあります。私がはだか格と言っているのは、ガ格とかヲ格というレベルの表現面の名づけとしてそのようにいっていますので、対格とか与格とか奪格、そのような内容面からの名づけに対応するものとしては別に考えなくてはいけません。
 その際、別のものとして何を使えば良いのかという時に、たとえば、ノミナティブというものを直訳した名格というようなもの、これは私も使ったことございますけれども、まだよくわからなくて使っています。きょうの発表の場合には、「外形の上での整理のことだから、はだか形とかはだか格といっちゃえ」ということで使いました。そのいい加減さを厳しく、となりから咎められまして、このようなことになりました。
 ほかに何を使えばよいのか、たとえば、奄美方言だと対格的な用法が基本であるということです。その奄美方言には、対格にはもう一つ「バ」を使った対格、九州方言のバみたいな形ですが、それがありまして、バの方はまさに外形面でも表現面でも内容面でもマークされた対格で、強調とか個別化とか限定というものが入ります。
 したがって、たとえば、何もつかないはだかの対格の方は限定や規定のdefiniteだとしたら、indefiniteな対格、不定対格とかいうような言い方もできるのではないかと考えた人が当座はいますけれども、今のところは先ほど申しましたように、先ほど紹介したのは奄美大島の名瀬方言ですが、そこの対格の用法というのが非常に節度なく広がっているものですから、内容面との名づけをどのようにすればよいのかということで今のところは少し不安というか、自信を持ってお示しできる案がありません。まだしばらくは外形の整理で、はだか形とかはだか格……、はだか形という場合には先ほども申しましたように単語語形としての面と、それから、そうでない語形以下のものと両方だということで、その区別さえも分からないような時にははだか形と言ってしまおうと、そういうようなことで使っています。
工藤浩:確か発表の中で単語の形なのか派生の語幹なのかはっきりしないようなところがあるという点では、いわば未分化形でもあるわけですね。したがって、英文法の原形というような捉え方……、奥田さんは有名な主語論の論文できょうのはだか格のことを <基本格> とおっしゃっています。『にっぽんご4の上』というのはいろいろな人との共同作業ですから、はだか格というのは、いわば構造主義的な シーニュ ゼロですね、記号ゼロという……(考えです)。はっきり言って、奥田さんがのりこえ(理論的に克服し)ようとしたのは、そこにあるのだと思います。有標−無標という捉え方は、あくまでも(要素の間にある)関係的な対立です。それに対してゼロ記号というのは、それ(要素間対立の関係)を要素(単語や接辞の足し算)に還元(変形)する考え方であって、これは、(奥田の単語関係文法の方法としては) 絶対になじまない、それだけは言っておきたいです。(その点で、松本さんの問題にされた)「未分化形」とか「原形」とかいうのも、(「はだか格」という、形態ゼロに着目した名づけよりは)面白いかな、ということだけ言わせてください。
松本泰丈:原形などというのは大変になつかしい言葉で、中学か何かの英語の時間に聞いたような気がしますが、もう一度それを生かして使おうなどというのは、できれば面白いと思っています。
 もうひとつ質問があります。「はだか格もヌ、ガが付き得るもの主格、付き得ないもの対格、ノ格相当のものとして、それぞれ連語として記述するというのは駄目なのでしょうか?」ということで、これから何か文法記述をやろうと、あるいは、やらされようとしている方の質問のような気もしますが、そのような意見がパネラーの方からも出ました。実際にはだか形、あるいははだか格の用法を記述する場合には、こうやるよりほかしょうがないと思います。したがって、それぞれこのような格好で、形を記述していくということは私もそのようにいたします、そのようにしておりますけれども、それを今度は〓一応〓●したということで、どこまでを連語として扱えるかということと、表現面でハダカの形についてどこまでがひとつの形の多義的な用法で、どこから同音形式として別物として扱うのか、そのようなことも考えてやっていくと、まとめ方として単なる記述ではなくていろいろ理論的な問題も深める、そのようなことで結果を出してやってくださると、私どもなども助かるというような形になると思います。したがって、出発点として質問者の方がお書きになったようなかたちで意味的な面、内容面を記述していくというのは本当にそのとおりであると思います。
湯本昭南:質問票を書いてくださった方、今の返答でよろしいでしょうか?
 先ほど鈴木泰先生の時に、「これでよろしいですか?」とお聞きするのを忘れてしまったのですが、順序は特に……、また追加とか、新しくというのがあれば、なるべくそれは出していただいて検討していきたいと思いますので、どうぞおっしゃってください。では、一応の順序として先ほどやってくださった残り、工藤真由美先生に対する質問ということでよろしくお願いします。
工藤真由美:ひとつは、「何々アプローチと何々主義との差は具体的にどこにあるか?」ということです。 形態論主義という言葉が出るのは51ページですが、ここは飛ばしました。「言語における形式」の解説部分を引いときましたけれども、ひとつは『日本語研究の方法』のところ、もうひとつは『ことばの研究・序説』のところですけれども、あとの方でいくと、「単語の文法的なかたちを論じるときよく見える曲用と、活用にとらわれて形態論主義におちいる可能性がある」という、こういう使い方が主義で、形態論的アプローチという場合にひとつの使い方は……、54ページにはっきり明示してあります。「文の陳述性の直接的な表現者としてテンス・アスペクト・ムードを見る形態論的アプローチは成立するし、ゆるされるし、必要になる」ということで、これは使い分けてあると思います。
 それから次ですが、「活字版に消えているとしたら、それはなぜか?」という質問です。50ページにもどってください。92年の北京外国語学院から、動詞の終止形になるときは、ぬけているのはテンスのところとムードのところです。
工藤浩:そうではなくて、「形態論的なアプローチという言葉が、瀬波集会のプリントにはあって、活字版になくなっているのはなぜか?」ということです。
工藤真由美:その用語だけではなくて、52ページを見ていただきますと、96年の教科研国語部会瀬波集会のタイトル、「動詞(その1)―その一般的な特徴づけ」で、§1が、「品詞としての動詞」、§2が、「動詞の語彙・文法的な系列」、これは公刊されていると思います。公刊されていないのが§3の、「動詞の構文的な機能と形態論的な体系」と、§4の、「文の陳述性と終止形」、この§3と4は公刊されていないと思います。
工藤浩:質問を変えます。活字版は、「その1」というのがついています。「その2」でいま言われた場所を公刊しなかったのはなぜとお考えですか? ということです。形態論的アプローチというのは形態論に対してプラスの言い方です。それがワープロ版にはあるけど活字版では公刊されていないというのは、奥田さんが(かなり)悩んでいた、その結果だと私は解釈するのですが、工藤真由美さんはどうですか?
工藤真由美:悩んでおられるとおもいます。特にムード関係のところを非常になやんでおられたのではないかという気がします。
 たとえば、「何々したい」というのをどう位置づけようかとか、そのようなところがあったのではないかとかんがえています。
 次は、「モーダルな意味といってムードといわないのはなぜか?」ということですが、これはどこのことでしょうか?
工藤浩:53ページです。
工藤真由美:これについて、文レベルのときには文のモーダルな意味で、動詞論のときはムードだというようになっているとおもいます。51ページの方がわかりやすいでしょうか。左側は……。
工藤浩:分かりました。訓詁注釈はよいのですが、大事なこととしては、「まちのぞみ」というのをモーダルな意味とよび、ムードに入れないのはなぜですか? そのように聞き返します。
工藤真由美:その問題は私にも分かりません。非常に悩んでおられたということは分かりますが、私自身がそれをどう考えればいいのか、そこについてはこれから考えたいということです。
 質問は以上ですが、先ほどの動詞分類について、先ほどの説明でいくと限界と無限界というのは分かります。正確には内的限界があるかないかということで、外的限界というのは別の問題としてかんがえているということですが、動作と変化というのは先ほどの説明だと意志か無意志か、つまり、「コントロールできるか、できないか」ということのようにもきこえます。もしそうだとすれば、意志・無意志とかコントローラビリティあり・なしというように言った方が、ここでなぜわざわざ動作や変化というものを持ち出すのかということですので、問題がでてくるのではないかとおもいます。
 それからもうひとつかんがえなければいけないのは他動性、奥田の用語だと、「はたらきかけ性」という言い方をしていますが、その他動性の問題というのは一体どうなるのでしょうか。つまり、何かわかったような気になるけれども、実際の動詞をみていく時に時間的限定性がないものをいったんははずすとしても、特に状態というのは先ほども紹介しましたように奥田先生は非常にこだわっておられまして、特に状態性というものについては持続性があるということですね。それから、コントロールできないということ、スタティックであるということ、つまり変化とくらべるなかでスタティックであるということとか、「まだよくわからないけれども……」といっているけれども、主語の方に焦点があるというか、そこまでふみこんでかいてはおられないのですが、佐藤さんの方からブルィギナの、「ロシア語における述語の類型論の構築のために」というものを勉強させていただいたときにも、やはり状態というカテゴリーをだしたときに、ひとつは持続性ということも非常にこだわっているとおもいます。そのあたりをすべて無視して、「またまた十字分類か……」というようなかたちを今やることが動詞論を展開していく場合に本当に生産的なことなのでしょうか。それから、特に奥田先生はムードの側面というものを包括的な分類という中で、つまり、述語論を展開する場合に動詞の包括的な分類をしなければいけないということで、包括的な分類というのはムード・テンス・アスペクトをかんがえなければいけない、それを一体的にかんがえなければいけないというなかで、私はよみとばしましたが……。
 ちょっとすみません、先ほど時間の関係で……、たとえば、このような言い方です。56ページの米印のところです。「動作動詞とか変化動詞とか状態動詞という語彙・文法的な系列は文法的な現象のあらゆる領域に関わっていく動詞の、より包括的な分類としてかんがえる」というようなことで、限界・無限界というものと同じレベルではかんがえてないということが1点です。
 そして、状態動詞に非常にこだわっておられまして、「このように状態動詞はアスペクトの観点から際立った特徴をもっているわけだが、さらにこの動詞は、する、という完成相非過去のかたちで現在テンスをあらわしているということでも変化動詞や動作動詞とはことなっている」。そして、次からずっとでてくるのですが、「さらにアスペクトにおいて完成相と継続相の対立が中和しているとすれば、この対立が表出と記述という対立の表現に利用されながら、文の人称性と絡み合って……」、その後、少し略していますが、次の所です、「このように状態動詞の文法的な特性を構文的な現象にまで広げていくと、もはやこの語彙・文法的な系列が形態論の領域をはるかにのりこえていて、文法的な現象の全領域に関わっていることがあきらかになる」という書き方をされています。
 したがって、用例を見ながらじっくりかんがえなければいけないことは、状態というものが単に形態論の領域にとどまらず、文法的な現象の全領域に関わっているということが一体、何を意味しているのか? このようなものは、やはり実例をきっちり見ていく中で詰めていかなければいけない問題としてあります。このように単純な4分類で、「状態というカテゴリーが位置づいた」かのようなことになるというのは、私は今後のことをかんがえるとさけるべきであるとおもいます。それが私の今回の趣旨です。
工藤浩:最低限のことだけ答えます。動作・変化っていうのは、これ、アスペクトの対立になります。意志か無意志かというのがムード、(表の)上が他動性で、(表の)下が自動性だというのが格支配にはいる。それらが(完全には)一致しないというのが先ほどの話ですね。松本さんが言っているように、「どこどこに行く」とかいうことで、それは他動詞ではなくて自動詞だけれども、(に格支配の)意志動詞です。同じようにして、「お尻をさわる」というのは他動詞だけれども、いわば接触するだけで限界はないということです。この系列に、他動詞は他動詞だけれども自動詞よりになっているものとして、「接触」とか「交流」とか、それから本日村上くんがやった「知覚」というのは抽象的ですが、知覚というのは外界と内界との接触点です。それから、再帰動詞の、「帽子をかぶる」というのは結局、自分が変化するのだというようなことで自動詞性をもってくるというようなことで、この4つはあくまでも黒い碁石を四隅に置くような、布置するようなものであって、ディスクリートに(一線でスパッと)切ろうということではありません。したがって、当然、位置変化とか姿勢変化というものがここ(変化)にくるし、知覚はこちら(行為)にくる、接触はここ(うごき)にくるというようなことです。ただ、状態に関しては先ほども言いましたように、常識的には現象という言葉がふさわしくて、これについてははっきり言って非常に議論(の余地)があると思います。私は奥田さんに対して全面的な賛成はしていません。
 したがって、最後に言われたように、状態はもう少し慎重にうけとめなくてはいけないということについては賛成です。問題は(まだたくさん)残っていますが、大きく4分割される配置関係 (大局的な見取り図) だということは、変える必要を認めません。
工藤真由美:いま出た、「座る」とか「行く」とか「来る」とかいうのは意志性を持っているのですが、もう一つの考え方として奥田論文では混合型というものがあります。きょうは書いてないのですが、たとえば、「座る」とか「行く」のような動詞は、アスペクトの観点からは変化動詞だが、ムードの観点からは動作動詞である、そのような表現もあります。したがって、これももう少し……、別に奥田論文を絶対視する必要はないと思いますが、かなりブルィギナ等を読み込んだ上で考えていらっしゃることでありますので、これでいくと平面図になるのですが、混合型のような立体的……、この言い方が生産的ではないかもしれませんが、その辺のことも含めて考えていく方がよいかもしれません。とにかく実例をどう見ていくかということでもありますので、その辺のところは……。
工藤浩:時間がないので申しわけありませんが、ホームページを見てください。ホームページには例があげてあります。
【もし 批判 検討に あたいする と おもったら、「テンス・アスペクトの概要」という ノートの なかに ある「5)アスペクトに もとづく 動詞分類 体系図式【奥田的段階】」の 2つの 図表(概観と 詳細)を ご覧ください。】
湯本昭南:工藤先生に対する質問は……。
工藤真由美:これで終わりました。
湯本昭南:大事な問題をたくさん出していただけたと思いますが、本当に時間があまりありません。今の話を聞いていて、少しここで聞いておきたいとか、今まで出てこなかったようなことで何かあればぜひ出していただきたいと思います。よろしいでしょうか。
鈴木泰:56ページの表出と記述、人称性に関わるというのは、いわゆる古代語などでも、「思ふ」というのは1人称ののべたてと二人称のたずねでしか出てこないんですよね。「思ひたい」というのはそれ以外のところで出てくるという、そのような記述と表出の違いというのはあります。だから、そのようなことを言っているのだろうということですが、そのようなことまで奥田さんはどこかで言っているのでしょうか? この文章ぐらいしかないのでしょうか?
工藤真由美:いえいえ、普通にだしていらっしゃいます。
鈴木泰:どこかにあったでしょうか?
工藤真由美:「動詞の終止形」にあります。
鈴木泰:具体的な例をお願いします。
工藤浩:その前に、「時間の表現」という『教育国語』の第1期の…… (94‐5号に のっている 論文)、本日はまったく引用されませんでしたが、あれが本格的(方法探究的)な論文であって、「動詞の終止形」というのは、はっきり言えば、図式的にまとめられた講義案ですから……。
【「時間の表現」には、アスペクトと アスペクチュアリティとの 関係についての 根源的な 考察が みられます。コムリーの aspect・perfect論の まちがいも 的確に 批判 訂正していますし、ボンダルコの aspectuality論の 不徹底も 指摘し、アスペクトの 本質的な 特徴を 探究していきます。奥田の 時間論の 特徴は、複文や「文の集合」の かたちに あらわれてくる「人間の対象的な活動」の 分析を 基礎に して、「時間的な関係の構成」を あくまで 文法的な 法則として、意味と 機能とが 照応する 領域の 問題として、みていこうとしている ことに あります。いきなり、つけやきばの テクスト言語学や ものがたり論narratologyなどに、新天地を もとめたりは しません。
 この 論文は、(1)現代日本語の 動詞の アスペクトの 検討に はじまり、(2)動詞の アスペクト理論を みわたした 探究の はてに ひとつの 結論に 達した ところで、中断しています。「拙速の原理」(奥田『序説』あとがき)を 感じとったのでしょうか。わたしの かってな ふかよみ かもしれませんが、最後の 文が、<完成−継続相>ではなく、<完成−不完成相 (perfective - imperfective)>の 対の 意味の 考察へ もどらなければならない、という ことばで むすばれているのも、普遍的な 考察から 個別としての 日本語の 現実に ふたたび もどろう という ことを 意味している のではないでしょうか。アスペクトが、できごとを <完成=全体> として みるか <不完成=部分> として みるか という 基礎的な 対立だからこそ、その 内部を くみたてる 動作の さまざまな 部分様相や 局面の 表現としての アスペクチュアリティが、さらに そこから 分化して、周辺に システム化されるのです。これを ムード・モダリティ関係に 類比して いえば、「いいきり(断定)−おしはかり(推量)」の 基礎的な ムード対立を 中核に、その 周辺システムとして 推定・伝聞/たしかさ などの「むすび」に よる モダリティが 位置づくのと にています。
 瑣末主義に おちいらない 時間表現論は、ここから よみなおして やりなおす 必要が あると おもいます。パーフェクトを、アスペクトや テンスと 関連づけて、「歴史文法」的に、時間を もった 動的な 関連システムとして 研究して、過渡的 はしわたし的で 「矛盾」両義的な 状態の 形式と みなす、という 歴史的な 文法では 常識的で、基礎(根源)的(fundamental)な しごとが、日本語文法では そっくり のこされています。『ことばの科学』3の 解説(p.9-10)に、構想の 素描は ありますが、継承は されていない ようです。】
鈴木泰:それで見ればもう少していねいな説明があるということですね。どうもありがとうございます。工藤浩さんの「量から質へ」というところの、質の方は分かるのですが、量というのは何ですか? 量というのはどういうことですか?
工藤浩:つまり、古代語では「ニ」、「ト」という連用格しかなかったのですが、それが現代語ではガ格、ヲ格、デ格、カラ格、マデ格というように増えて……。
鈴木泰:それは質的な違いが増えた……。
工藤浩:質的でもありますが、明示化という点では、より明示的だという意味で単に……。つまり、同じ格の数が2つだったものが……(文法形式の種類が、量的に増えた)。
鈴木泰:では、古代語の場合は量が少なかったということですか?
工藤浩:そうです。(のべの 表現量が ではなく、ことなりの 形式量が、という意味で)
鈴木泰:「量から質へ」というのは……、私ののはろくな弁証法ではないですが、「量が増えると、それが質に転化する」ということが「量から質へ」ということで理解しています。そうすると、量が増えるという場合にはどこにも入ってこないわけですね。「確定・仮定しかない」というのは、量的なんですよね? 「確定・仮定しかない」というのは確定・仮定の中で強度とか程度とか、そのようなものを目安に分けているということ……。
工藤浩:本日はお話ししませんでしたが、その点を言えば接続関係とか条件関係の詳しさが(ことなりの 文法形式)量として多く、仮定・既定のふたつの対立しかなかった古代語は(ことなりの 文法形式量が)少ないということです。
鈴木泰:量的に少ないのですか?
工藤浩:[システムを くみたてる 文法形式の 量としては] そうです。阪倉篤義さん(たち)が具体的にやっていますが、それ(あつかう形態項目)は氷山の一角にすぎません。
鈴木泰:分かりました。量が少ないという意味で言うと、それが質的な多様性に変化した、そのようなことですね。
工藤浩:……… ?!【<条件単独システム>内の 量的増加から、<条件+接続システム>への 質的転換を いう ためには、「さかいに・ところで」などの「つなぎ」という 分析的な形式をも システム的に 研究する 必要が あるのですが、それが 不十分というか、そうした 観点そのものが 阪倉には 欠落していて、「表現法における 綜合的から 分析的へ という 推移」とか 「構造として <開いた>表現から <閉じた>表現への 流れ」とかいう ふうに 量的にしか みていません。「分析的」とは いっても、「機能語による 補助」という システムの 変化としては みられていません。条件に 関する、松下大三郎の 論理主義的な(非歴史的な)わくぐみの なかで、文法形式が 通時的に 交代したり、多少 増加して「閉じた」構文に なったり する ことしか みていません。言語を 歴史的な 発展として とらえる 研究方法自体が そもそも なく、システムは、その 構造の なかの 要素どうしが 相互作用したり 競合したり して 分化発展する ものだ という みかたは しませんから、テンスの 対立を もった できごとの あいだの 接続表現、いいかえれば できごと=節や 文の テンスと 複文関係とを 形式的に 分化させた 接続表現が あらたに 成立してきて、それとの 対立(はりあい)関係の なかで、条件表現は 非テンス的な 動詞形態(ありよう)に なる、という システムの 転換面は、視野に はいってこないのです。
 時代も こえ 国境も こえて 適用できる、汎時的で 人類普遍的な 論理的体系を 志向する 松下文法の 分類を 基準に、日本語の 文章表現の 推移的な 通時面を みいだしたにも かかわらず、そこに 文法システムの 発展を みさだめる ことのできなかった 阪倉篤義は、文法史として よりは、時枝言語過程説から 派生した 「表現の変遷」とか 「日本語表現の流れ」と、むしろ 自称したのです。相対量的な 推移としての、文法システム 転換なしの、表現の ながれ というのが、20世紀後半の 学界主流の 基本的な みかたです。佐久間の「吸着語」を、奥田の ように 文法の (歴史〜発展法則の) 問題としては とりこめていないのです。】
湯本昭南:それではそろそろ時間がなくなりましたので、これで終わりにしたいと思います。言語学研究会の最長老、宮島先生と鈴木重幸先生が朝から出席してくださっています。ここで何かご質問とか、「たしなめろ」とか、何かありましたらお願いしたいと思います。
宮島達夫:宮島です。最長老は鈴木重幸さんですが、私も80歳になりました。今日は朝からずっと聞かせていただきまして、大変いろいろ勉強になりました。勉強になったと言っても、すっとまたぬけるんだとおもいますが。やはり没後10年たってこれだけの集会をもつことができるというのは、奥田さんのすばらしいところだろうということを感じました。それからもう1つ、これは後で活字になるのでしょうか? 今日の報告などは活字になりますか?
高瀬匡雄:活字になると思います。
宮島達夫:そうですか。ぜひ活字にしていただいて、その時には、きょうでた質問などもとりこんで、パネラーの方々はもう一度、大変ですけれども、それをとりこむようなかたちでかきなおしていただきたいと思います。
湯本昭南:ありがとうございました。鈴木先生、一言お願いします。
鈴木重幸:けっこうです。
湯本昭南:本当に奥田先生ののこされたものが非常に大きいというか、豊饒なと言うのでしょうか、掘れば掘るほどいろんなものが出てくるということだと思います。本日は時間の制限が非常に厳しい中、4人の方々「このように読む」という……、読むというか、奥田先生を手がかりにしていろいろなことがわかるという、読み方の見本みたいなものを出していただけたと思います。それだけでも4名のパネリストの方、それから、出席してくださった皆さん、大変ありがたいと主催者、司会者の側で心からお礼を申し上げます。どうもありがとうございました。
高瀬匡雄:それでは実行委員会の方からいくつか連絡させていただきます。先ほど昼休みの前にもご案内いたしましたけれども、奥田先生の『著作集第1巻、文学教育編』。今日来てくださっているは言語学が専門の方が多くて、文学教育編というのは専門が違うのではないかと言う方もおられるかと思いますが、未公刊の論文も入っておりますし、単行本、未収録の論文も入っております。後期のものは言語学のモダリティの論文と非常に近い関係にあると思いますので、ぜひお買い求めいただければというように思います。よろしくお願いします。それから、この後の懇親会の関係で狩俣さん、よろしいでしょうか?
狩俣繁久:すぐにこの会場で懇親会を行います。前の方にテーブルをセットして、立食というかたちで行いますので、お時間のある方はどうぞ参加していただきたいと思います。それから、奥田先生の著作集について、注文票は後ろの方にありますので、お名前を書いていただければ送料は麦書房で持ってお送りするようになりますので、どうぞよろしくお願いします。
高瀬匡雄:先ほど佐藤里美の方からありましたように、本来は没後10年ということで著作集の刊行は完結できなければならなかったわけですが、残念ながら言語学編、それから、それに続く国語教育編が遅れているという状況です。そのことに関しては再びおわびいたしまして、今後われわれも著作集の刊行に全力をあげていくつもりでおりますので、そのことをお約束して今回のシンポジウムをとじさせていただきたいと思います。どうもありがとうございました。


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