■ローマ字教育の指針とその解説—2-1

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■このページは、「文部省内国語問題研究会(編). ローマ字教育の指針とその解説. 東京都, 三井教育文庫, 1947, 113p. (ja, B6よこがき)」を全文転記したものの一部です。■注意がきを無視しないでください。

—以下転記部分—

[p.26]

☆☆ローマ字文の書き方


[p.26-30]

I ローマ字の発明とその発達

文字の歴史を、その性質の上から大きく別けると、次の三種類にすることができる。

  1. 絵文字 (Pictograph. Picture-writing)
  2. 表意文字 (Ideograph)
  3. 表音文字 (Phonograph)

原始時代の文字は、単にある観念をあらわすに用いられた絵画のようなものに過ぎなかったのである。純粋の絵画と、文字として用いられた絵画との間の区別は、はっきり決めることができない。文字としての絵画は、「読まれる」という心理作用が営まれるが、純粋の絵画は、単に「見られる」ものであるといわれる。理論的には大体こういう標準が立てられるが、実際には両方をはっきり区別することは困難である。

絵画が言語的観念をあらわすものとして用いられるに至って、はじめて文字としての資格をもつようになるという程度の説明で満足するほかないのである。絵文字は直接に言語そのものをあらわすものではなく、言語によってあらわされる観念を示すものである。

魚をあらわすのに魚の絵をもってし、牛をあらわすのに、牛の絵をもってするのである。原語と絵画との関係は、見る人の心の働きの上になり立つのである。

エジプト文字の最古のもの、支那の漢字の最古のもの、いわゆる象形文字と呼ばれるものは、この文字の部類に属する。

文字と言語との関係から見て、絵文字のさらに進んだものが表意文字である。表意文字となって、はじめて文字は直接に言語をあらわすようになったのである。今日知られている表意文字の代表的なものとしては、アッシリアのクサビ形文字 (Cuneiform writing)、支那の漢字などがある。

文字は単に表意的であるのみでは不十分であり、特に文字が話される言語を再現しようとする傾向が強くなって、ついに表音(転記者の注釈: 「表意」のまちがいか?)文字の段階に止まっていることができなくなった。そしてだんだん表音文字としての用法に転じてきた。

表音文字というのは、言語そのものをあらわすのではなく、言語に用いられる音声をあらわす文字である。表音文字には音節文字と単音文字の二種類がある。音節文字は一字が一音節をあらわす文字で、わが国のかなはその代表的なものである。単音文字は一字が一音をあらわすもので、欧米諸国に行われている Alphabet や朝鮮の諺文(オンモン)などはその代表的のものである。

ローマ字は、その名の示すように、ラテン民族のうちたてたローマ国の文字であった。それで一名 Latin Alphabet ともいうのである。Alphabet とは、欧米諸国に行われる一組の文字の総称で、ラテン語では Alphabetum という。もとギリシア文字のはじめの二字 α (アルファ Alpha) と β (ベータ Beta) とを合わせて呼んだところから出た名で、わが国のひらがなを「いろは」というのと同じことである。

ローマ字というのは、ローマ時代イタリア半島に行われて、のちヨーロッパ各国に広まったからである。これはギリシア文字から出たもので、ギリシア文字はさらにフェニキア文字から出たものである。そしてフェニキア文字はさらにエジプト文字にまでさかのぼることができる。それでローマ字発達のあとを大きく別けると次の様になる。

エジプト文字  (象形文字 Hieroglyph) 
エジプト文字 (?用文字 (Hieratic)     西紀前十九世紀ごろまで
古代セム文字 (Old Semitic Alphabet) 西紀前十九世紀ごろから
フェニキア文字 (Phoenician Alphabet) 西紀前九世紀頃まで
古代ギリシア (Old Greek Alphabet)   西紀前八世紀ごろまで
文字ラテン文字 (Latin Alphabet) 西紀六〇〇年まで
欧米各国文字

ローマ字の発達の過程において、もっとも著しい出来事は、ひとつの語族から他の語族へ前後二回 Alphabet の転移が行われたことである。西紀前十九世紀ごろから、エジプトの古い絵画的な象形文字 (Hieroglyph) はだんだん?用文字 (Hieratic) (転記者の注釈: 「神官文字」のこと、行書体にあたる) に変化して来た。この?用文字というのは、?で同時に史官であったエジプトの大官が筆記に便利なようにくずしたものである。そのころ古代セム人はエジプト文字を採用して自分の言語を書きあらわすために用いたが、かれ等のうち最も有力であったフェニキア人が、地中海沿岸各地に移転したためにかれ等の文字は広く行われるようになりやがて世界的文字の根源をなすに至った。

セム文字の起こりについては、容易に解けない問題として残されたものであるが、フランスの考古学者ド・ルージュ父子(De Rouge)の努力によりセム文字の最古の字体とエジプト?用文字の字体とを対照して比較研究の結果、セム文字の一々についてその原型をエジプト文字に発見したために、その由来するところが明らかになった。

フェニキアの言語はヘブライ語などとともにセム語族に属するもので、語の子音は変化せず、母音だけが変化して、種々の付属的の意味の違いをあらわしたもので、文字はいつも子音をあらわし、ある時は単独で、またある時はこれにいろいろの母音をつけて読まれた。そして文字は右から左へ横に書かれた。すなわち右横書きの文字である。

フェニキア文字は地中海におけるギリシア民族の植民地からギリシア本土に伝わり、ギリシア人はその中から自国の言語にあてはまるものを採用し、またフェニキア文字にないものは、他の文字を借用して自国語をあらわすようにした。こうしてギリシア文字ができ上がった。

前にハム語族からセム語族にうつった表音文字は、かようにしてまたセム語族からアリアン語族にうつったのである。

はじめギリシアにうつった当時は、セム流に右から左へ書かれたものであるが、西紀前五−六〇〇年ごろにウネ形ῒ(転記者の注釈: うえにひだりむきやじるし、したにみぎむきやじるし、いわゆる牛耕式)のように書くことが行われだして、次第に左から右へ進む方に一定してきた。したがって、従来左勝手に書かれた文字が右勝手に改められたのは、当然のことで F N B K P のような字形はこういう理由から今の形になったのである。

ギリシヤ(転記者の注釈: ママ、<ギリシア>でも<ギリシャ>でもない)国内でも東部地方に行われた文字と西部地方に行われた文字との間には、いくらかの相違があったが、西ギリシアに行われた文字がのちにイタリヤ半島南部の植民地マグナ・グレシア (Magna, Graecia) に伝わり、その地方のラテン人や、イトルスカン人に用いられたが、ついにはローマ帝国の言語であるラテン語を書くのに用いられるようになった。その際、多少の取拾と変形が行われて、いわゆるローマ字となったのである。

なお、東ギリシヤに行われた文字は別の方向に発展して、北方のスラブ民族に採用され、今日のロシヤ文字の祖先となった。

ラテン民族のつくり上げたローマ字の字体は、今日頭文字 (Captial Letter) として用いられている、A B C D E などの形であったが、それから今の小文字の字体 a b c d e などが発達した。

また近世になって印刷体の発達に伴い、ローマ字の印刷体が発達し、ここに印刷体と書写体との区別ができるようになったのである。

—転記はここまで—

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