■ローマ字教育の指針とその解説—1-3

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■このページは、「文部省内国語問題研究会(編). ローマ字教育の指針とその解説. 東京都, 三井教育文庫, 1947, 113p. (ja, B6よこがき)」を全文転記したものの一部です。■注意がきを無視しないでください。

—以下転記部分—

[p.15-25]

III 指導法

一 かな漢字まじり文による国語教育との関連

  1. 国語教育の指導には、音声言語と文字言語との両面があり、国語教育の目的は、主として日常の国語を習得させ、その理解力と発表力とを養うにある。国語教育の一部として新にローマ字教育を採用するのも、この目的をなしとげて一層の効果をあげ、あわせて国語の純化に役立たせようとするのにある。ローマ字教育を行うにあたっては、常に児童の国語意識に注意し、その現実に即して指導法を立案すべきである。

  2. ローマ字が単音文字であるという特質を生かし、その表音性の適切な指導に、国語の音韻の有機的な構成を明らかにし、国語教育の一面である音声言語の訓練に役立たせなければならない。

  3. ローマ字教育を原則として、第四学年から行うとすると、この期の児童は第三学年までの国語教育によって、初等科における漢字の過半数と、ひらがな、かたかなをおぼえ、かな漢字まじり文の理解・表現にも一応習熟し、初歩的ながら国語意識をもち、基本的な言語力・文字力が身についているから、この事実に注意して、現実にかなったローマ字教育を行い、さらに高次の国語訓練をなすべきである。

  4. ローマ字は表音文字であるから、ローマ字教育によって生きた言語生活に直接結びついた音声化ができ、音の上から国語意識を明確にすることができる。又ローマ字文は、分ち書きで書かれるから、単語意識をはっきりもたせ、国語構造に自覚を与えるなど、文法的訓練にも役立ち、形の上から国語意識を明確にすることができる。かように文節がはっきりすることによって、文章構造の意識と思想の筋道がはっきりする。すなわちローマ字教育は、以上のような点で国語意識を明確にし、したがって文体意識をも明確にするものであるから、ローマ字で文章を書くことにより、従来のかな漢字まじり文の表現形式にかかわることなく、耳で聞いただけで意味のよくわかる文章を書くようになり、新しい文体の成立が可能になる。かような点にも十分留意して指導すべきである。

私たちの現実の国語生活は、国語を口で話したり・耳で聞いたりすることと、手で書いたり・目で読んだりすることとその二つで成り立っている。つまり音声言語としての国語と文字言語としてのそれとの二つから成り立っている。そして、その二つの部面の国語によって、じぶんの思想や感情を表現したり、他人の考え方や感じ方を理解したりして、毎日の生活を送り得ているのである。

従って、音声言語の部面についても (つまり話し方・聞きとり方についても)、文字言語の部面についても (つまり書き表わし方・読みとり方についても)、発表力と理解力とを十分にのばすことが、国語教育における学習指導の眼目である。話すことはできるが、読むことはできない—これでは、落語家や講談師の養成にはなるかもしれないが、国語教育の目的は半分しかできない。いや実は、ほんとうにすぐれた落語家・講談師も生まれないのである。逆に、書くことはできるが、話すことは自由にできない—これでは、国民のすべてが自由に・はっきりとじぶんの考えを述べあってよい社会生活を送ろうとする民主的な社会を作り出す人間はできない。音声言語・文字言語の両面において、しかも、じぶんの思想や感情をはっきりと発表する力と他人の考え方をしっかりと理解する力と、その二つの力が過不足ないように養わなければ、国語教育の目的どころか、健全な・一人前の社会人を作り出すことが、そもそもむりな仕事だということになる。

ところで、現在までの国語教育の成績を考えてみるとき、その欠点の一つとして、音声言語の教授、話し方・聞き方の訓練が不十分であることを認めざるを得ない。これは、漢字の学習ということ、また漢字の性格から来る言葉の言いまわしのむずかしさを克服するための知識を育成する—つまりいわゆる読み方の教授に力をそそがざるを得ない事情から生まれているのである、と言える。それ故に、ある意味では、避けがたい・宿命的な欠点でもあったと言える。しかしながら、原因はどうであれ、言葉は本来音声と意味との結びついたものであるにかかわらず、文字についての知識をあたえることのみに力が向いすぎていた欠点は、改めなければならない。そして、生きた言葉そのものの教育、音声言語の教育に力をそそぐべきである。

それには、言葉が生きた音声言語により近い状態で書き表わされるローマ字文が大いに役に立つ。

さて、話し方の教育といっても、もちろん近代社会における言葉は、音声言語と文字言語が具体的には分けられないほどに結びつき・というよりは具体的に区別もできないほと一つになっているのであるから、文字に書き表わされた形をのみこませながら行うのでなくしては、実際には行えるものではない。また、本来、言葉の教育を進めるために、文字の助けをぜんぜんかりずに進めていけるわけはない。

ローマ字文の読み書きを授けるという仕事は、いうまでもなく、ローマ字による文字言語の教育という部面を意味しているわけであり、発音符号 (文字ではなく国語の発音を符号にして記したもの) によって国語の音声だけをのみこませようとだけする教育ではない。後にも述べるように、ここでもやはり読み方の指導が重要であるわけである。しかしながら、漢字交り文の場合に比べて、ローマ字文は、国語における音声言語の状態がいっそう生き生きと現れやすいのであるから、教授者は、この特色を生かして、音声言語・生きた言葉そのものを身につけ・こなしていく能力の育成に役立てるべきである。ローマ字教育を、この特色において生かすように努めるならば、前に述べた現在までの国語教育の欠点が正されるのに大いに役立つであろう。

次に、こんど実施されるローマ字教育の計画としては、原則として第四学年 (特別の場合に、第三学年) から授けられることになる。これは、現在の社会一般における言語習慣・文字生活が漢字交り文によって行われているという根本的な事情から、先ずもって、漢字交り文による表現の基礎をかためてから、ローマ字文を勉強することにするという現実的な処置なのであり、抽象的な議論はともかくとして、これが最もおんとうな処置といわなければならない。

従って、ローマ字教育が始められるこの期間には、国語で思想・感情を発表し、理解する基本的な形式については、かなりに習得しているとも言える。ローマ字で読み・書きをするのは始めてであるが、国語そのものの基本的な表現には、かなりに慣れているのである。この有利な条件を利用して、ローマ字教育のほうでは、いっそう高次の教育効果をあげるように (たとえば、前に述べたように国語の性質について科学的な意識を持つように導くなど) 計画することが望ましい。ローマ字文の教授によtって、国語の音韻について、文章の構造 (単語の役割・はたらき)、表現法の効果 (文体の特色) などは、むりに教えこむ必用はないが、しぜん児童に意識されるところを見守りつつ指導していけば、次第に児童の国語意識が明確になるに至るであろう。この可能性を、教授者は、頭におき、適当に教授案を立て、指導法を計画化すべきである。

そしてさらに、音声言語についての知識・感覚を明確にすることから、ローマ字文によって、文字づかいにこだわらず、話すときの状態に近い、生き生きとした文体が書けるように、また書いてみたくなるように、指導をすれば、ローマ字教授法は理想に近いと言えるだろう。

ニ ローマ字文の読み方の指導

  1. ローマ字は単音文字であるために、とかく音声表現的な方面に教授者の注意が向けられやすく、従って、ローマ字で書かれた語がその意味に結びつかないきらいがある。ローマ字で書かれたものを読む筋道は、視覚的な語表象が、語の音表象を呼び起こし、それがなかだちになって語の意味がわかるという順序である。つまり、ローマ字で書かれた文なり語なりを見て、すぐに意味がわかるようにすることが、ローマ字文の読み方教授の目標であり、ここに第一義的な重点が置かれなければならない。

  2. ローマ字で書かれた語を音節や単語(転記者の注釈: <単語>は<単音>の誤植か?)に分解して教えることは、児童がまだ習わない単語でも、自身で読み書きすることができるようにするための必要な手段ではあるが、それは児童がローマ字に慣れてくるに従って、自然にできてくる語形と語形とを比べ合わせる力に相応して、会得できるように指導すべきである。これには同じ語形や共通した部分をもつ語形をくり返して使用することが必要である。

  3. ローマ字を教えるについては、音声言語から直接に与える方法と、かなをなかだちにする方法とが考えられるが、ローマ字の特質の一つは表音性にあり、また表記されたものを音声化するにも特色があるから、音声言語から直接に入る方がローマ字の特質にもかない、国語を純正にするためにも、効果がある。ただ、あまりこまかい所に注意しすぎると、いつまでも拾い読みの段階に止まりやすいので、その点にも気をつけなければならない。かなをなかだちとする方法は、児童の既得知識を利用するために、音節的にローマ字を教えるには役立つが、それではかなの表記法にとらわれて、ローマ字文に習熟しないおそれがあり、また、かなづかいの制約が直接にローマ字にかかることにもなるから、かなをなかだちとせず、音声言語から直接に教える方法をとる方が適当である。

指導法の項にも述べたように、ローマ字文は、決して音声符号を書きつづったものではなく、ローマ字によって国語の言葉を書き表わすのであり、国語の音声だけを書き記そうとしているわけではない。従って、ローマ字文は、音声言語の教授に役立つという特色を誤解し、利用のいきすぎにおちいって、発音の教育に利用するのだ、ローマ字によって発音の指導をするのだというふうに考えてはならない。

ローマ字文は、はやり国語による思想・感情の表現である。従って、ローマ字で書かれているそれぞれの言葉を見て、すぐに意味がつかめるように訓練することが必要である。「木」、「草」という漢字を見て、「キ」「クサ」という言葉が頭にひらめき・すぐさま・同時に「キ」なり「クサ」なりの意味が分かる—というふうに、ローマ字の場合でも、"ki"、"kusa" という文字の組み合わせぜんたいを一目でとらえ、すぐに「キ」なり「クサ」なりの意味を頭によび起すようになるのでなければならない。その逆に、"ki"、"kusa" という組み合わせを見て、単音の一つ一つに、k と i、k と u と s と a と、べつべつに分解して読み、それをじぶんの頭の中で組み立て、発音してみて、それから意味を考えつくという段どりでは、指導の誤りである。ローマ字によって、国語のたん音についての分析的な意識ができることはもとよりであり、そこにローマ字の長所もあるのであるが、読み方の指導にあたっては、その長所の強調から語の意味をとる方の導き方を恐れてはならない。ローマ字の組み合わせをぜんぶのままで一目でつかみ、言葉をただちにつかむように導くことが、読み方の指導において、眼目となるべきである。

従って、国語の音節や単語についての意識をのばすにせよ、決して、一々分析して授けることは重要でない。読むにも・書くにも、しぜんに一つ一つの言葉がまとまったままで読まれ・書かれるように工夫すべきである。ア(a) という音節、サ(sa) という音節の読み方・書き方を教えて、それから アサ(朝) という言葉の読み方・書き方のできるようにするというよりは、asa、asahi、asagohan といった言葉・組み合わせにいくつかふれさせた上で、しぜんに asa という言葉・また a という音節、sa という音節が意識され、やがてまた、s という単音、a という単音の存在することが意識される—というふうに指導することが望ましい。

ところで、第四学年 (あるいは第三学年) からローマ文 (転記者の注釈: <ローマ文>は<ローマ字文>の誤植か) を勉強する児童たちは、すでに、かなを知っている。そこで、先生も児童も、新しい文字であるローマ字で書かれた文の読み・書きにあたって、かなを利用したいという心組みになりやすいであろう。もちろん、国語の音節をローマ字ではどう書くかということを関連して教えることは、ぜんぜん意味のないことではないし、日本語がいわゆる音節言語であることに気がつく上に役には立つであろうが、これは、ローマ字文の読み方を指導するのには、決して本格的ないき方ではないのである。

言葉をじかにローマ字で表わす習慣をつけないと、一つの組み合わせとしてまとまった形でそれぞれの言葉が頭に浮かぶようにならないし、たとえば、キャ キュ キョ などといういわゆるよう音の表わし方や Gakko (ガッコウ) (転記者の注釈: 語頭の<G>は大文字、最後の<o>は<^>なし。Gakkô の誤植か?)、Ippai (イッパイ) といったいわゆる促音の記し方が、なかなか読みとれなくなる。また、かなづかいが表音的になったとはいえ、やはり発音そのままではないのであるから、かなづかいのとおりに書こう・読もうとする意欲がはたらいて、ローマ字の機能をなくしたむりな書き方・読み方をするようになる。

言葉そのものからじかにローマ字へ; この方針を原則として進むことを忘れるべきではない。

三 文字および文章の書き方

  1. ローマ字には、印刷体と筆記体とがあり、両者は相当に字形がちがうから、児童にとって、はじめはその理解が困難であり、混乱を生じやすい。それでまず印刷体の読み書きを一通りのみこませてから筆記体にかかった方がよい。

  2. ローマ字で文章を書く場合、思うことを正しく、早く、美しく文字に表現することができるようにしなければならない。書こうと思う語をすぐそのまま文字に表現し、しかもそれが社会的約束からはずれたものでないようにすべきである。書こうとする語形が、文字に書かれる前に頭に浮かんでいるくらいになれば申し分がない。音に頼って書くことは、慣れていない語を組み立てるときには必要であるが、音にたよらずに語を文字にうつせるまでにすることが必要である。それ故特別な努力を払わないでも、ローマ字で書くことができるようになるまで習熟させなければならない。

  3. ローマ字で文章を書く場合、従来のかな漢字まじり文の文体にかかわることなく、ローマ字文としての新しい文体を作り出すように指導すべきである。ローマ字としては、だらだらと長く続いた文章は、意味がとりにくい。また、耳なれない漢語や同音異義語などの使用も、避けなければならない。ローマ字文としては、簡潔で、すなおな、意味のよく通るものが、最も望ましい。ローマ字文の作文指導にあたっては、そういう新しい文体の創造にも心がける必要がある。

よく話す能力をつけるためには、先ずよく聞きとる能力をつけることが最も効果的であるように、書き方の指導の根本は、読み方の指導が正しく・力強くすすめられることが何よりたいせつである。そういう意味から、ローマ字文の書き方の指導の眼目は、“ローマ字からじかに言葉へ”という方針で読みの指導を徹底することにあるであろう。

言葉が、それぞれのまとまった形で頭に浮び (書こうとする言葉のそれぞれの音節を一々べつに考え・組み合わせるというのでなく) すぐそれを書いていくというようになることが望ましいのである。ローマ字文の書き方は、“言葉ぜんたいのままからローマ字へ”という活動が行えるように導くことがその理想である。

ところで、ローマ字による国語の書き表わし方について、大いに考えるべき重要なことが他にある。それは、漢字交り文のままをローマ字になおす (漢字交り文もローマ字文も同じ日本文(転記者の注釈: <日本語文>ではなく、<日本文>となっている)なのだから全く同じことになるはずだ、だからローマ字文にほんやくするぐらいの心構えでいい) というような心組みだけでは、指導法が不十分だということである。不十分であるばかりでなく、ローマ字文を書くことの、国語の発達に役立つ意味や価値を少くしてしまうことにもなる。

漢字交り文にも、もちろん、美しい、捨て難い特色がある。しかし、ローマ字で書く文章には、当然、特別な性格や価値がうまれて来るはずである。逆に言えば、漢字を使いながら書く文章のままでは、ローマ字に移すと、意味もとりにくい、香りや味のない文章になってしまう場合があるのである。くわしい説明は避けるが、ローマ字で書いて「わかりやすいこと」「美しいこと」を目標にする心くばりが必要であろう。

そしてここに、おそらくローマ字文の読み・書きを勉強する上の最高の意義がある。すなわち、新しい、生きた日本語に根ざした新しい文体を生み出す見込みがあるからである。国語の創造へローマ字が役立つこと、これこそローマ字教育の最高の理想であるべきなのだから。

—転記はここまで—

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