はじめ | データ | しごと | ノート | ながれ




「情態副詞」の 設定と 「存在詞」の 存立



工 藤 浩




0)ある 事情で まとまった 時間が とれず、みなれた 書籍を みる ことも できない ままに、また おいの ために 根気の つづかない ままに、てみじかに おぼえがき風に 以下の 文章は しるされる ことを おおめに みて いただきたい。わかい ころなら、かくのを あきらめも したろうが、これも おいの 図々しさ ゆえ かもしれない けれど、山田文法への おもいの ふかさ ゆえに、「品詞論の ハキダメ」と いわれた 副詞への こだわりの ために、かろうじて かきしるされた、と ご理解 いただければ さいわいである。

1)1908(明41)年 在野の 学者として『日本文法論』を あらわし、つづいて『奈良朝文法史』『平安朝文法史』『平家物語の語法』といった 時代別 作品別の 文法記述を つみかさねながら、1936(昭11)年 東北帝国大学の 講義の 草案を もとに『日本文法学概論』へと まとめあげていく 全過程において、山田孝雄が 江戸期の 国学者 富士谷成章の

    名をもて 物を ことわり、装をもて 事を さだめ、
    挿頭・脚結をもて ことばを たすく

という 有名な ことばで しられる「な(名)・よそひ(装)・かざし(挿頭)・あゆひ(脚結)」という 四分類を たかく 評価した うえで、「厳密なる二分法」という 近代的方法によって それに みがきを かけ、

    語─┬─観念語─┬─自用語─┬─概念語………体言
      │     │     └─陳述語………用言
      │     └─副用語………………………副詞
      └─関係語………………………………………助詞

の ような 整然とした かたちで、より 緻密で 周到な 品詞分類に 到達した ことは、よく しられた ことであろう。
 そうであるにも かかわらず、わたしは 成章の「あゆひ」と 山田の「助詞」との あいだに、また「かざし」と「副詞」との あいだに、みすごす ことのできない おおきな ちがいを 感じてしまうのである。山田が 助詞を 関係語という 単語として あつかい、複語尾を 単語以下の 単位として 用言の 一部分として 位置づけた という 分析の 単位の 問題については、同時代の 松下大三郎の 批判を はじめ、おおくの 議論が すでに なされているので、ここでは これ以上 ふれない ことにする。

2)成章の「かざし」には ふくまれず、山田の「副詞」には ふくまれる 語類は、山田の いう「情態副詞」である こと、また、成章の「かざし」には 「副詞」だけでなく 「代名詞(・接続詞)・感動詞」などや さらには 単語性の ない「接頭辞」に あたる ものまでが、いわば 雑然と 五十音順に あげられている こと、この ふたつの ことも よく しられた ことかと おもわれる。成章の「かざし」が、対象記述の 網羅性と 単位認定の 精密性とにおいて もっていた 不十分性・未分化性を 山田が 修正・発展させた、というのが おそらくは 学界の 通念であり、常識であろう。
 しかし、はたして そう いって いいのだろうか。成章の「かざし」は、情態副詞を ふくまない かわりに、「こそあど」 つまり 疑問詞(未定詞)を ふくめた 広義の 指示詞を ふくんでいる。ということは、

    「あはれ いさ いで」などの <なげき・感動>
    「え かならず げに よも」などの <かたりかた・叙法>
    「うたて よし あまり いと」などの <ねぶみ〜ほど・評価〜程度>
    「かく ここら さ しか いく なに」などの <さししめし・指示>
    「いま つねに まだ」などの <とき・時間>
    「ことに たとへば まして」などの <とりたて・対比>
    「ともに おのづから まづ また」などの <かかわり・関係>

といった、共通して <はなしての 基準や たちばが 関与する もの>が、一類として あつめられていて、素材表示的(referential)な 意味を もった ものは 意識して さけられている、と みとめる ことが できるのでは ないか と おもわれる。たとえば「ただに」の 項(『かざし抄』中巻)に、

    「ただ」の二例に同じ。「に」文字添ひたるにて、全く挿頭ならぬ詞となれり。是も『ナンノ事ナシニ』と里すべし

と ある ことに 注意すべきである。また「いく-(幾)」「うち-」といった 語根や 接頭辞の ような ものが 混じている ように みえる 単位性の 問題も、意味機能の 根幹における 共通性(記号素性=形態素性)を 形態的な 独立性・分離性(単語性)より おもく みて、作歌用語辞典としての『かざし抄』には 一類として おさめたのだとは かんがえられないであろうか。また、従来 指摘の あった「つなぎ・接続」的な ものは 時代的に おおくは なく、「さししめし・指示」的な ものや 「かかわり・関係」的な ものに 解消できる かもしれない と おもわれる。くわしくは 別稿を 期したく おもうが、山田孝雄が 『かざし抄』を「頗 雑駁なる点」「十分 精選せらるべき余地を 存せるなり」と 評したり、研究史家 竹岡正夫が「単語意識はなお確立していなかった」と 評したり するのは ピントが ずれているのではないか と おもわれる。それは 西洋文典流の いろめがねを かけた ものの みかた、つまり 形態的な 単位性の ものさしに よる 裁断であって、「かざし」の 真義 つまり その 機能的な 体系 (functional system) の つくられかた そのものが 理解できていないのではないか と おもわれる。
 わたしの みる ところ、成章の「かざし」は、西洋文典でいえば adverb(副詞)より particle(小詞)に、その発想において ちかい ものであった ように おもわれる。文字どおりの 管見の かぎりで いわせてもらえば、particle(小詞)は、古典ギリシア語において はなやかに 活躍した 語類であり(ex. J. D. Denniston The Greek Particles)、adverb(副詞)は、ラテン文法の とりわけ 論理的な 整理を通じて 地位を かためてきた 品詞である ように おもわれる(ex. Priscianus Institutiones grammaticae)。そうした なかに あって、particle(小詞)は、品詞論においては 未発達な 部類 たとえば 副詞-以前 前置詞-以前【接続詞-以前】などとして あつかわれる ことが おおく、ときに adverb(副詞)に 編入され、ときに つまはじきされ、【おおくの ばあいは 無視されて、】いどころの 安定しない 語類(品詞)であった ように おもわれる。

3)とすれば、問題は こうなる。―― 山田は なぜ、意味的にも 形容詞に ちかい 情態副詞を 用言とせず 副詞としたのだろうか。なぜ、たとえば「さやけし」「しづけき」「はるけく」は 形容詞で、「さやか(なり)」「しづか(なる)」「はるか(に)」は 副詞なのであろうか。山田の 副詞=副用語の 本質は、非自用語 つまり 非述語性に あった はずであり、じっさい 情態副詞以外の 副詞は 基本的には 述語用法を もたないのに、なぜ 述語用法を もつ 情態副詞を 副詞に 編入しようと するのか。山田の「情態副詞」は、<かざし・副用語> という 成章以来の 規定と、<動詞修飾の 品詞> という 西洋文典流の 規定との、異質な ふたつの ものの 混同・混交ではないのか、そんな 疑問が わいてくる。従来どおり、「かざし」を "ad-verb"との 関係で とらえるにしても、それを "ことば-たすけ"と とらえるか、"動詞-ぞえ"と とらえるか、という とらえかたの ちがいに 関係してくるであろう。
 じっさい、のちには 吉澤義則や 橋本進吉らによって 形容動詞として 用言の ひとつとして たてられるのが 通説と なっていくのであり、そのうち、橋本進吉(1935)「国語の形容動詞について」が 「情態の副詞は大部分は形容動詞となつて用言の一種となる」ため「副詞が他の副詞を修飾する事はなくなるのではあるまいかと思はれる」が「これは、情態の副詞に属する語の一つ一つについて、委しく調査した上でなければ断定出来ないのであつて」云々と 慎重に いっている とおりで、ただ その 「委しく調査」が なされない 状態の まま、「情態副詞」が 再検討されない ままに 放置されている というのが 実情ではないか。

4)まず、山田自身が どう かんがえていたか、もう すこし くわしく みてみよう。
 「静かなり」「堂々たり」「のどかである」など 説明存在詞「なり たり である」の ついた ものが 「一の用言の如き用をな」し「形容詞に似たる意義と用をあらは」し、「その副詞は、修飾格に立てるものにあらずして賓格に立てるもの」(『概論』p.385-386)だと のべている。「賓格」と「述格」とから なる いわゆる「述語」に なる 以上、ふつうは 理論的に 副用語=非自用語に いれられない はずである。
 しかし、<いわゆる 形容動詞は 一単語ではなく、副詞と 存在詞との 二単語だ、その 副詞自体は 賓格に たてる だけであって 述格には たてないから 用言ではないし、意味が 属性的 依存的である ため 呼格 主格に たてないから 体言でもない>という 論理で、形容動詞説=用言説や 状態名詞説=体言説に 反対しようとする のであろう と かんがえられる。
 ここには、「純粋形式用言」(論)や 「存在詞」を 重視しすぎる という 問題が ある。山田は 述格=陳述=繋辞(コピュラ)を 用言の 本質とし、賓格=属性を あわせもつ ものを 「実質用言」とは いいながら、「純粋形式用言」(論)や 「存在詞」(概論)ほどには 用言として 重視しようとしない。
 時枝誠記の 詞辞理論における 辞=主体的表現の 重視と おなじく、語彙的な もの 素材的な ものを 文法現象の 基礎に おく 文の みかたではなく、「実質用言」より「形式用言」のほうが 用言の 本質(=陳述)を より 純粋に あらわすと かんがえ、実質(materials, substance)に もとづかないで 陳述という 関係づけが できるかの ように かんがえてしまう、地に あしの ついていない さかだち(倒錯)した かんがえかたである。(くわしくは 工藤 浩(2010)「こと-ばの かた-ちの こと」[『日本語形態の諸問題』(ひつじ書房)]をも 参照されたい)
 「言語の形に於いては分つべからざる」もの、意味・要素として いえば 「属性」と「陳述」とを、語の 用法の「位格」で いえば 「賓格」と「述格」とを、英語で いえば predicate 一語である ものを きりさいたのは、「形式用言」が 関係する 現象、つまり、

    松は 緑なり。  体言+なり
    月 明かなり。  副詞+なり

といった 例からであった。たとえば、

    人 行く。心 動く。彼の 容貌は 父に 似る。   (動 詞)
    この 山は 高し。この 海は 浅し。        (形容詞)

の ような 「実質用言」の 例に、「形式用言」の 例を あわせて かんがえるのではなく、逆に 両者が 分離した「形式用言」に 両者が 一体化した「実質用言」を あわせようとしたのである。そのさい、その 「形式用言」の 中心を しめる もの、「述格」の 中心を しめる ものは、山田文法の 大黒柱と いっていい「純粋形式用言」「存在詞」であった。意味としての 存在「あり」−非存在「なし」の ペアは、そして 品詞論的処置としての 存在詞「あり」の 存立は、山田文法の キーワード「陳述」の 基底に おかれる 「肯定−否定」にも 通底する ものとして、簡単には とりかえの きかない 山田文法の 基本概念なのである。(非存在−否定の「なし」を 存在詞に いれなかった ことの ちぐはぐさに ついては、いまは ふれないで おく)
【刊行後の 補記】「あり」と「なし」に 関しては、たとえば『概論』p.213-214 に 両者を「別種の語とする所にわが国語の哲理的根拠の深きを見るに足るべきもの」だと する 説が もっともらしく とかれているが、これについては、『論』p.412-442 の「文法上の時(tense)の論」(複語尾・あゆひ論)、p.516-522 の「時及処の副詞につきて論ず」(副詞・かざし論)にも あらわれる、かれの 論理・ロゴスの 直入・簡便な、情意・パトスの 憂国・激情的な「国粋思想」、なかでも「年輪」としての 天皇制の「現存在」性、「天壌無窮」性といった 時間・空間観念にも ふれる かたちで 問題に しなければならない ように おもう。かたてまに すます ことの できる 問題でも なく、別稿を 用意すべきだろう。学生時代に よんだ 丸山眞男の「超国家主義の論理と心理」の しめくくりに 山田が 引用・批判されていて、それにたいして なにも 批判できない 日本語学(国語学)の だらしなさを みにしみて 感じた ことが いまに あざやかである。論集『山田文法の現代的意義』を みても、山田文法は、あいも かわらず 崇拝・あこがれの 対象では あっても、批判・のりこえの 対象には なっていない ように みえる。一世紀に わたって 無為・無策だった アカデミズム、学位授与が おそかった ことは わらえない と おもう。「山田文法批判 ノート」の 参照を こう。

5)『論』における「純粋形式用言」を 『概論』における「存在詞」を、重視する こと自体を 非難しよう というのではないが、自立する 語彙的 属性的な「存在動詞」(論):「存在の 存在詞」(概論)も、非自立的で「補助用言化=文法化」した 文法的 陳述的な「説明動詞」(論):「説明存在詞」(概論)も、ひとしなみに 独立の 一単語と あつかうのは、機能的にも 形式的にも いきすぎた 単純化だと いいたいのである。
 この 傾向を より 強固に おしすすめた 要因として、明治期の 『日本文法論』では「純粋形式用言」と いっていた ものが、大正期の 日本大学の 講義草案の『日本文法講義』を へて、昭和期の 東北大学の 講義草案の『日本文法学概論』においては、「便宜の為」(『概論』p.199)と いいながら、「存在詞」へと、独立品詞 あつかいに した ことが あずかっている のではないか と おもわれるのである。大学教員の さがであろうか、教育・啓蒙の ため、便宜の ため と 称して、いきすぎた 単純化、というより ただしくは、理論の 貧困化が なされた ように おもわれるのである。教育・啓蒙の ための 便宜、おそるべし。
 以上の ように、情態副詞が 副詞として 認定され、形容動詞(第二形容詞 ナ形容詞)が 1936(昭11)年の 『概論』に いたるまで みとめられなかった 理由は、説明存在詞「である」を 一単語として みとめた ことなのである。奇妙に 時枝文法の 形容動詞否定論と にてくる。山田文法では 存在詞の 設定から、時枝文法では 詞辞の 峻別から、そう なるのであるが、おそらく 歴史的には 時枝文法が 山田文法と 俗流現象学との あいだに うまれた "おにっこ"であった と いうべきなのであろう。ただ、以上の 存在詞の ほかにも、「情態副詞」を 認定した ことには いろいろな 問題が からんでいる ことを かんがえて おかなくては ならない と おもわれる。

6)その ひとつには、主として 擬音・擬態語(音象徴)系の 副詞 たとえば「バタンと」「がたっと」など、形式動詞「あり」や「する」を 付して 活用する ことの けっして ない 無活用の ものが あり、また 語源的には 擬音・擬態語(音象徴)系でありながら より 一般的な(恣意的な) 意味を 獲得して、「きちっと・きっちり(と)」「とろっと・とろり(と)」「堂々(と)」など、形式動詞「する」を 付して「〜した」(連体)「〜している」(終止)といった なかば「活用」らしき 変容を もち、みづからは それとの 対比で 連用相当に なる ものが あるが、それとても 古代語の タリ活用ほどには 一単語として 熟していない という ことが【橋本文法・学校文法など 通説的な ながれにおいて】情態(状態)副詞として のこした ことと 関係しているだろう。情態副詞と 形容(動)詞・状態(的)名詞とが 連続する ことは、副詞説を とる 山田孝雄も、また 用言説を とる 松下大三郎(象形動詞)・川端善明(不完全形容詞)も、体言説を とる 金田一京助(準名詞)・渡辺実(情態詞)も、現象としては わかっては いるのである。こうした 連続・非連続の 問題は、分類の 境界現象としては 当然 おこりうる ことであって、本稿では これ以上 とりあげない ことにする。

7)さらには、

  と き・テンス系の 副詞:いま・かつて・いまに/しばらく・よく
      (tense)     /まだ・もう/突然・とうとう etc.
  意 志・ムード系の 副詞:わざと・わざわざ・ひたすら・一途に
      (mood)      /つい・ふと・不意に・うかつに etc.
  たちば・ボイス系の 副詞:たがいに・かわりに/自然に・みづから
      (voice)     /直接(に)・ともに・いっしょに etc.

といった、形容詞に編入することの できそうもない ものも のこる。このような 動詞の もつ 文法的カテゴリ(ことの ありよう)に かかわる ような ものは、基本的に 述語用法を もたず、副用語(副詞)らしい ものであるが、いわゆる 陳述副詞や 程度副詞に いれる ことも できないので、仮称「様相副詞」として 副詞に のこさねばならない と おもわれる。
 しかし、その他 動詞の あらわす 行為(しごと)や 変化(できごと)の しかた(様態 manner)・ありかた(状態 state)の 面に おいて、「連用修飾」的に 語彙・属性の 側面から 動詞の 意味を 限定する もの、たとえば、

    業者が ピアノを とても うまく/ていねいに/てきぱき(と) はこんだ。
    にわの はなが なかなか うつくしく/きれいに/すっきり(と) さいた。

などは、活用の 有無に かかわらず、形容詞に おくりかえして 同等に あつかうべき ものであろう と おもう。
 用言や 副詞の 本質的規定は 活用の 有無 といった 形態の 問題ではなく、陳述の 能力が あるか どうか とか、属性・依存的か どうか といった 意味・機能面に ある ことは、山田孝雄も 松下大三郎も みとめている ことなのだから、「無活用の 用言」「欠如(=偏性)形容詞」を みとめる ことに 問題は ない はずである。
 念のために いえば、形容詞の 本来的な 活用形は ク・キ(・ケ)といった カ行系の 連用・連体の 修飾語形(装定形)の ほうに あって、シという 終止形(述定形)の ほうは のちに つくられた 二次的な ものである。

 以下は おぼえがき風に しるされる。

8)松下の 副詞は「他の概念の運用に従属する属性の概念を表して、他詞の運用を調節するものであつて、叙述性の無い詞である」と 定義され、山田の 情態副詞の うち、いわゆる 形容動詞は「静止性の動作動詞」として、狭義の 状態副詞は「無活用」の「形容動詞」や「象形動詞」として あつかわれ、その外延(範囲)は、成章の「かざし」に ちかい。内包(性格づけ)も、「他詞の運用を調節」する ことを もっぱらとし、「叙述性の無い詞」つまり 述語に ならない 品詞だとする。ただしく、山田の いう 自用語ならぬ 副用語を、そして 成章の「かざし」を、いいあてていると いえるのだが、それが、情態(状態)副詞を「無活用」の 用言と あつかう ことによって、理論的に 可能に なりえた、という ことに 注意しておかなければならない。
 なお、「属性」という ことばを 松下も 山田も ひとしく つかっているが、その なかみは おおきく ちがっている。松下の 用語法は、よく わからない ところが のこるが、とくに 専門用語として ではなく、「性質・性格」といった 一般的な 意味で もちいているのではないか と いまは 理解しておく。

9)江戸―明治―大正と 時代を へるに したがい、「副詞」論は、富士谷成章−山田孝雄−松下大三郎という ぐあいに、ジグザグに 正―反―合と 発展した。
 昭和は、橋本進吉の 形式主義、時枝誠記の 過程主義、渡辺実の 機能主義、森重敏の 意味主義、川端善明の 論理主義など、種々の 流派の いりみだれた 壮大な 過渡期、戦国乱世 群雄割拠の 時代であった。【副詞に関しては、前二者の 東大系は なんとなく 山田を うけつぎ、後三者の 京大系は 松下を 基本的に うけつぎ、さらに 独自な 体系に 発展させている。類比的に 茶化して いえば 「東西対立の 冷戦構造」であった。cf. 「かざし」の こと その1(第3・4節)】
 さて、平成の 現代は、副詞論の ひいては 品詞論・構文論の つまりは 文法論全体の おおきな 発展期を むかえるべき ときでは ないだろうか。ついに、「ハキダメ」からの 逆襲の ひぶたは きって おとされたのである。

(2010年3月 定年退職を 機に)



はじめ | データ | しごと | ノート | ながれ