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日本語の 歴史

(最新更新 2019.03.29. すべては ただ きえゆく …)

… 2008年の 脳幹出血から、2019年の 小脳出血へ。動物進化を 遡上して …

★日本語の 構文法について おおすじの ながれ(drift)を 素描する★

序論:日本語の 特徴と 潮流

本論:1) 不動の「は・も」   2) 変動の「の・が」   3) 空間 時間の 分化「に・と・で」

4) 無標対立の 出発「す−せず」   5) 行為と 認識との 分化「せむ・すべし」

6) 付着物「したり」と 対立項「している」との 差   7)「なりぬ/なしつ」と「なって/してしまう」

8) 古代の 用言複合体の 組織性   9) 近代の 活用と 派生態と 合成述語   10) 文の 拡大 ()

11) 連体から 複文へ   12) 条件から つなぎへ   13) 叙法から むすびへ

14) 修飾句から 3種の 様相詞へ   15) 程度から 3種の 限定へ   16) 陳述から 3種の 照応へ

余論:17) 共通語 方言の 交代 混交   18) 品定めの 分化


序論:日本語の 特徴と 潮流

 日本語の《文》の レベルでの 特徴は、述語が 文末に おかれ、その まえに それを 種々に 限定する 語句が おかれる 語順に なる ことである。それを もっとも シンプルに いえば、

  《限定語 ⇒ 述語》
ex.「公園に いった」
という 図式に なる。もうすこし 具体化して いうと、
《(連体修飾語 → 補語) ⇒ (連用修飾語 → 述語)》
ex.「ちかくの 公園に   ぶらぶらと でかけた」
という 図式に なる。おなじ ことを、《連語論》的な 関係も つかって いえば、
《(連体語 → 体言)=限定語句 ⇒ (連用語 → 用言)=叙述語句》
という、原型的だが 簡潔明瞭な 図式にも なる。連語論は、構文内的な 語結合の 面だけに 抽象して、構文外的な 現実関係 定位の 面(陳述面 → 構文論/文論)を 捨象する からである。陳述面は ふつうの 絵や 図表には ならないのだ。

 回帰的な 反復性も 加味して、図表化すると、つぎの ように なる。
    ┌───────────────────┐
    |                   ↓
   補 語 ←――(連体) 修飾語 (連用)――→ 述 語
    ↑                  (連体節)
    └───────────────────┘

   文例:おおきな チーズを カリカリ かじった ねずみを
      すばやく おいかけて つかまえようとした ねこを
      ほうきを もって おいかけて ころんだ メード …… (永遠回帰)

創造性に 必要な 要件は、回帰的な 生産性であり、さらに 差異を うみだす 反復が、文化の 基盤である。
この 図示は、《階層性》と《並列性》の ような 問題は あとまわしに して、基底の 図表化に とどめた。

 いわゆる 主語は 必須の 成分ではなく、必要な ときは「おばあちゃんが 公園に でかけた」という ふうに 主格補語として まえに おく。いわゆる 主語よりも、「ぼくは もう たべたよ。あの パンも たべちゃったよ。」の ように、「は・も」などの 堤題(主題)に 注目した 表現が このまれる。いわゆる《主題(Topic)卓越言語》である。
 基本的に リズムの 単位に なる《語》の レベルでは、自立語基と 種々の 助辞とが くみあわされて 語が つくられる。体言には「助詞」と 通称される 不変化辞が つき、用言には「助動詞」と 通称される 変化辞が 規則的に ついて、全体が「用言複合体」とも よばれる、かなり ながい 連続体を (そのつど) 構成する。以上、河野六郎の いう「アルタイ型」という 言語タイプの 特徴である。くわしくは、「日本語の特質」(『言語学大辞典2』1989「日本語」の 総論) などを みてください。かなり 高額な 書籍なので、もってない ひとは 図書館の本を コピーするのが いい。

 日本語の 歴史の おおきな 潮流としては、文レベルの 語順は ほとんど 変化が ないが、複文の つくりかたは 古代か 近代かで おおきく 変化した。条件形(仮定+既定)のみか、条件形と 接続形式との 二段組織か という 変化に 注目しなければならない。事実自体は、阪倉篤義などは 気がついている のだが、基礎素養としての 山田文法 時枝文法が 歴史文法の 分析方法として 文法的な カテゴリという かんがえかたを 成熟させていなかった ために、ただ 接続助詞の「肥大化」とか、条件表現の 量的増加とか、構文関係の「開いた/閉じた」表現の 量的推移傾向として 処理されていた。【松下文法の 論理 汎時的な 分類が 比較の 基準に 利用された。「量的推移」の とらえかた自体、山田(属性/陳述) 時枝(詞/辞)の 二極分解的な 方法に くらべれば、進歩と みられた のである。(2019.02.18. 補)】英独仏の「接続詞」という《機能語》が 語形や 小詞から 独立してくる 過程は、構文機能の 発展という 次元では 東西ともに 同様であったと いっていい。構文機能の 研究には 普遍的な 観点は 必要だし、普遍面と 個別面とを 比較しながら 分析する ことは 研究効率が たかく なる。前置詞と 後置詞、接続詞と つなぎ、助動詞と むすび といった 機能語は、形式と 機能との むすびつきかたを 平常の 習慣から ずらして、特定の 文機能を 専門化して 語形式に あえて 凝結した ものである。歴史の 変化には、この 構文機能(関係)の 喚起(連合)関係の「ずらし/ずれ」が さかんに はたらく ものである。
 《自立語》の レベルでは、まさに 形態づくりが 個別言語ごとに 特質的であり、日本語では、体言、用言、かざし ごとに、古代 近代の 二大別が 観察される。山田孝雄以来の 国語学には 歴史的な 意味/範疇が 分析 確立できていなかった ために 定式化は されていないが、さきに 私案を 図式的に しめして、のちに 本論で くわしく 論じる ことに したい。
  体 言は、「かかり」単独 卓立(呼応)から、「格+とりたて」二重(関係化)構造へ
  用 言は、「用言複合体」(付着 混合)から、「用言活用図」(対立 階層)へ
  かざしは、 (陳述 程度 感嘆etc.)小詞から、「様相詞」(新 動詞限定詞)の 分化 成立へ

付) 付属節は、「条件複合」(仮定と 既定)から、「条件形+接続節」二重段階(テンス有無 階層)へ

 ただし、おおまかな メモは 用意したが、教科書的に「体系」的な 無味乾燥な 叙述に おちいらない ように、物語り風で よみもの的な 展開も 辞さず、「どうして?」という きもちを わすれないで かいていこうと おもう。

 なお 国語史の 教科書には、終止連体同形化、係り結びの 消滅、二段動詞の 一段化(語幹の 同一化) などと 形態的な 変化が 意味なく 列挙されるが、因果的に 本末転倒であって、格・接続表現の 意味機能の 明示化の うごきが 原因として 先行し、係り用法や 連体形止めの 表現性の 無効化と なり、終止連体同形化など、結果としての 形態的な 変化が ならぶ のだ。以下 同趣の 形式論議には 意味変化に 関与しない かぎり、かかわらない。「死ぬ」が ナ変から 四段へ とか、「ける」が 下一から 四段へ など。「どうして」は あるのだが、国語史は つつましく 因果を とわない。国語教師の たまごには 思考停止が 強制される。

(2018.12.28.記)


1) 不動の「は・も」

 は:分説、も:合説、ば・ときは:順接、と/ども・ばあいも:逆接、という おおすじは、古代から 現代まで 一貫して かわらない。つまり、体言の とりたても、用言の 順逆条件形にも、単文/複文の 二大関係において、いわば 不動の 二大助辞だと いっていい。連体形や 已然形と 呼応する 係りは いずれ 崩壊していくが、無標の「ただ」と セットに なる「係助詞」である。「とりたて助辞」に 改名されるのも 他との 関係による システム上の 微動であって、

★ 話題ハ/モ ……… 解説述語
は 不動の 基底構造と いっていい。

 さらに「Xは Yでハない。」「Yは Zでモあるが、…」といった 肯定否定の 述語の「みとめ方」とも 照応し、「Xと Yとハ」「Yか Zかモ」といった 体言並列の and/or 関係とも 照応する。「は・も」が ふるくは 両唇子音の P音(破裂音)・M音(鼻音)と 推定される ことも、母音の a-o も 強弱(明暗)の 交代音である ことも、《音パタンと 文法》との 基本相関の 問題として、わすれては いけない。「に」と「の」の 関係、「と」と「つ」の 関係などに 母音交替を ききとり、「に」と「と」、「ぬ」と「つ」という 舌先音という 子音交替を ききとらない ようでは こまる。

 E. サピアが 強調した 「音パタン(sound pattern)」が 日本では わすれさられている。よほど 戦前の 「ことだま」説 「音韻相通」説に こりた のだろうか。「は」と「ば」、「か」と「が」という 連濁の 関係ですら、なぜか 前者は いわれているが、後者に 注目する 学者は おおくない。文法の 意味=文化面と 音声の 物質=自然面との くいちがいが、接近の 手法の 相反を まねいていて、学問の いびつさも うまれている。10年ほど まえに わたしが 脳溢血を わずらった とき、言語脳(左脳)は すくわれたが、音や 図形の 芸術脳(右脳)と 左半身とが 多少 やられた ものとしては、健常者の 不勉強は もったいないと おもう。右ききの 名野球選手 長嶋茂雄が 言語脳(左脳)と 右半身マヒとを わずらっている ことは、お気の毒としか いいようが ない。


2) 変動の「の・が」

 国語学の 通説では、「の」は 連体助詞 → 敬意上の 主格助詞 → 中立の 連体助詞、「が」は 連体助詞 → 敬意下の 主格助詞 → 中立の 主格助詞、という 変遷を へた 助詞だ そうである。さきに 私案を かかげる。2つを セットに する 点は おなじであり、通説との ちがいは 主として 観点(視角)に ある。あたまを やわらかに して。

「の」は、所属(=範囲包含)の 従属節内 卓立助辞 → (敬意上の 主格助辞 →) 中立の 連体助辞
「が」は、所有(=対象指定)の 従属節内 卓立助辞 → (敬意下の 主格助辞 →) 中立の 主格助辞
もともと 「連体」という 修飾関係ではなく、「従属節内」という 構文位置に もとづいた「卓立」という 構文機能の 助詞だ という ことに ポイントは ある。従属節≒連体節だから 結果を みれば「連体」助詞に なる。一定の 機能が 一定の 意味を 生ずる ことは 当然 ある ことで、通説とも 単純な 二者択一の 関係に ある わけでもない。
 小異に 目を つぶるなら、「の」も 中世における 浮動を 無視すれば、「所属範囲」の 限定から 「体言に かかる」機能(きれつづき)へ という ことで、現象的には 大差ない。「が」の 指定卓立から 主格へ という 変化が 実質的な 中心である。そもそも 「連体格」に 「の・が・つ・な」という 4つも ある という 通説に 不足が あるのだ。「連体」機能は 1つ あれば 十分である。「Xという 特徴も もつ 連体」なら、4つ あっても いいが、その Xが よく わからないと いうのだ。はなしは 逆だろう。「が」の 古代の 本質は、連体ではなく 従属卓立(指定)だと、わたしは 主張する。そして 結果から みれば、現代の「が」の 用法は、1)中立主格と 2)選択指定(総記)との 多義だ という ように 逆立する のである。
 印欧祖語の「格」組織 という ばあい、近代的な「論理格」だけではない。「能格」など、いわゆる 格機能 という よりも、日本語の「は」のような 表現卓立的な 機能であろう。「木 切れた ――― きこりは 木 切った」のように、主客とも 無標(/絶対格)が ふつうなのは かなり「能格構成」的である。日本では 格 副 係の なかで 格を みる のに対して、印欧語圏では 格 数 性の なかで 格を みる のであって、体系的な 意味(価値)が ちがう ことも わすれる べきではない。

 音形的には、「の」は 連用格の「に」の 従属=連体用法の かたちであり、「〜に ある」という 所属 範囲を 包含する 用法の 助詞である。「が」は 「かれ かく」などに 残存している「か」という 指示小詞が 文中の 体言に 付属し 連濁して 助辞化した ものと 推定される。ちなみに、
文中用法:か=指示     連濁 が=指定(卓立)
文末用法:か=疑問     連濁 が=希求
という 基本システムを 構成している ことも 付記しておく。疑問の「か」は 文末上昇イントネーションとともに、つたえあいの 焦点が「指示」される のである。疑問が 情報の 指示 要求だと すれば、希求は ものごとの 指示 要求である。「雨も (あらぬ)か > 雨もが」「みてし (あらぬ)かな > みてしがな」といった 陳述構文が 疑問詠嘆と 希求とを とりむすび、「ぬ/ん か」の 音形が 「が」という 連濁を さそった ものとして 推定すべきである。つまり、「希望喚体句」は 述体句の 略体を 経由した ものであり、意味の「喚体」性を 形式用言「あり」の 潜在が うらぎって、構文機能が ねじまげられた「にせもの」であろう。

(2018.12.29.記)



3) 空間 時間の 分化「に・と・で」

 「に格−と格」の 用法は 基本的に 古代に、「に格−で格」の 用法は 基本的に 近代に、成立する。「に・と」助辞にとって、「格」の 成立より ふるい「情態言」(阪倉篤義)の 時代に さかのぼる。「庭は しづか 雪 降りたり」「ひとびとも しづしづ つきしたがひつ」の ような 擬態語の 時代から つづく 問題に なる。「情態言」的な 表現(表情)と いっても、「しづかに」という 結果的な 状態としての 静的な 表情も、「しづしづと」という うごいている 最中の 動的な 表情も ある。「しづかに」は「庭」という 場所の 描写であり、「しづしづと」は「ひとびとも つきしたがふ」できごとの 描写である。「医師に なる」と「大病と なった」の ような 現代語でも、後者の「と」の ほうが 一時的な 状態で、時間に 関心する。それと 比較して、前者の「に」の ほうが 恒常的な 性質で、空間に 関心する。語源から いっても、「と」は、「とかく・とにかく・ともかくも」という 副詞に のこっている ように、「かく(こう)」と ペアに なる 中称(ソ系)の 指示副詞と かんがえるのが 通説に なっている。「あほ いうな そう いうねん」と 現代の 大阪人でも いいそうに、「そう」という 指示語が 引用の「と」と 同様に つかわれるのが 変化の 発端であった。引用から 擬態語の 語尾を へて 体言の 語尾、つまり 格助辞への みちすじは おおよそ 見当は つく。しかし「に」の 語源は たしかな ものは いまだに ない。言語の 説明は 未知の語を 既知の語と 関係づける ことに もとづく のだから、出発点に ちかい ものほど 説明しづらい。「に」は「と」の 出現によって 自己限定も 明確に なる、という ところで 満足する ことにする。新規の、いわば 聞き手系の 行為指示「と」が 事件の 時間面に 関心する とともに、旧来の「に」が 場面の 空間面に 関心する ように なる。

 ところが 近代では、「と」は 共同的な 仲間・相棒である のに対して、「に」は 中立〜一方的な 相手・場所 という つかいわけに かわっていく。動静の 対立は、むしろ「に−で」の 対立に かわっていく。「で」は「にて」から 「ンで」という 連濁を へて うまれた かたちであり、動作的な 事件(できごと しごと)記述に つかわれる。「に」は 無色的だが、反動で 状態的な 場面(背景)描写に かたよりやすい。つまり、ほとんど かわらない「に」を 中心に、「と・で」が 要素的に つけくわわって 対立の しかたが (部分として) 変化する ことによって、全体の (構造的な) 歴史が くみたてられた と いえようか。「時(テンス アスペクト)」を 否定・無視した 山田文法に対する、文事態的な 面からの 批判である。歴史は「國學=復古学」と 背反する。

       古代              近代
に ― と:静的 ― 動的         一方的 ― 共同的(人間面)
に ― で: ――――          状態的 ― 動作的(事態面)

(2018.12.30.記)

【補注:「に−と」が「情態言」的な 表現であった という ことは、文全体の 表情であって 「に−と」の 部分にも コトの (従属)述定性が みられるが、近代の 体言は 「に−と」は 対人面を、「に−で」は 場所面を 分担し、そして 用言は テンス アスペクト(動作時間)面を 述語として 分担し、それぞれを くみたて化して 分担しはじめた、という ことである。修飾語だけ、補語だけ、述語だけ という みかたは、「文法」としては 部分的だ という ことを 自覚する べきであろう。2019.02.17. 記】



4) 無標対立の 出発「す−せず」

 無標/有標の 対立と いっても、対立の 緊密度には ちがいが ある。しばらく 現代語で 内省を チェックしてみよう。みとめかたの「する−しない」の 対立は、終止述語用法としては <肯定/否定> である ことを うたがう ひとは いないだろう。連体「… ひと」も 中止「…て、」も、「ない・なく」を もたない 無標の かたちが 肯定性を もたない ばあいは かんがえられないだろう。ただ「しながら」という 同時(並行)形は、「*しないながら」とは いわず、「テレビを 見ながら 勉強するな」の ように、文末の「な」で 実質的に 否定されるのが「みながら」であり、「ゆっくり あるくな」と 同様な 関係だから、機能的には 副詞句で、みとめかたの 対立以前だと みられる。「して」は 多義的だから、いわゆる 文脈条件、構文位置環境を 区別して 記述しなければならない。【cf.「[かげろふの ゆふべを まち、なつの せみの はるあきを しら] も あるぞ かし」(徒然7) ―― 否定対偶法 という らしい(駒場東邦の 小林國雄先生談。指導教員の 今泉忠義説だったか)が、擬古文の 徒然草に、出典(准南子 漢文)つきの めずらしい (訓読)日本文と なると、逆に 日本語としては 許容度の ひくい 文とも かんがえられる。】
 「する−した」も、テンスの 対立(奥田靖雄 鈴木重幸)と みるか、未了/完了(三上章)とか 未然/既然(寺村秀夫)とか アスペクト的な 対立と みるか、議論は あるが、なんらかの 時間的な 対立と みる ことには、現代では ほとんど 異論は ない。しかし、構文位置が <連体> では「(きのう) 予防注射を する ひと / した ひとは …」「ちがう/ちがった もの」の ような 意味用法が <終止> とは おおきく 変質するし、「太陽は 東から のぼる」の ような 超時とか 一般時とか いわれる、せまい (法 時 相的な) 対立を こえた/抽象化した 用法も ある。これを「無色」とか「動作それ自体」とか みるのは、思考 知能を みそこなった 尚古的な 外形主義である。cf.「地球が 太陽を まわっている(*まわる)」[太陽−地球]。文化科学として スタートを まちがっている。この 文章は、歴史の ための 文法基礎だから、これ以上 ふかいりは さける。
 以上に対し、「する−します」という「ていねいさ」とも よばれる 表現は、言文一致以来 注目されているし、三尾砂『話言葉の文法』以来の 文法研究も さかんであるが、「きのう かった 本を おみせしましょう」と いっても、「きのう かいました (めずらしい) 本を おみせしましょう」と いっても、文法的に どっちかが まちがい なのではない。<連体> に かぎらず、「かったよ」も 「かいましたよ」も、場面との 関係で「適切さ」が 問題には なっても、文法の 正誤の 問題ではない。つまり 文体的な 問題なのである。ただ 誤解の ないように、文体と いっても、「実用文法」では 必須である。文字 発音 文体 日常会話 文法、すべて ルール的に まなべる 規則は「実用文法」なのである。そう いった うえで、「右に みえます 建物は 国会議事堂で ございます」という バスガイドの マニュアルも、《終止の 敬意と くらべて 連体では 一段 下がる》という 傾向は 指摘できるが、くどいけど 場面的な 適切さの ちがいであり、文法的な 正誤の 対立からは はずした ほうがいい。
 「する−するだろう」という 断定/推量の 対立は どうだろう。過去事象の 動詞文「さくらは ちった」と「さくらは ちっただろう」は 確定事態と 推測事態 という ことであり、名詞(判断)文「かれが 犯人だ」と「かれが 犯人だろう」は、名称の もとに なった 用法であって、断定判断と 推量判断 という ことで 対立は ほぼ はっきりしているが、未来事象(未確定)の 動詞文「さくらが (もうすぐ) ちる」と「さくらが(もうすぐ)ちるだろう」の ばあい、「対立」と いっていい のだろうか。より断定的か より推量的か という「たしかさ」の 程度差しか ない ようにも みえる。「たぶん おくれて くるよ」といった 陳述副詞との 共起現象も 日常的に おおい。しかし 他方で、「首相の おれが いかなけりゃ、会議は ひらけないだろう」という 条件帰結の 推量判断は「ふたしか」ではなく、ほぼ 100%の 予想確率の「たしかさ」である。述語部分だけ、ましてや 助動詞だけを みていては、不十分な 文パタンも ある のである。叙法(性)研究は まだまだ 未成熟なのだ。正月早々「ひも くれて なお みち とおし」の 感も、ひとしおだが、まだ まえがきだった。

 さて、「す−せず」の 肯定/否定だけは、古代語文法でも 無標/有標対立が 成立している。しかし「す−せむ」とか「す−しき」とかは、無標形の 用法が 対立とは よびにくい。「対他限定」性が 感じられない。「す」は 他者「せず」との 関係(対立)のなかで 肯定と 自己限定した のである。対立を いうなら、むしろ「なりぬ−しつ」「しき−しけり」という有標同士の ペアであろう。しかも「せむ−せじ」「すべし−すまじ」の 有標同士の 肯否対立が 派生・分立していく「膠着」的な 体質が、かえって 無標/有標対立の 発展を さまたげた のではないか。「する-した」という テンス対立が 成立する ためには、「時の助動詞」が 6つも 貴族的で ぜいたくすぎた のである。「た」1つに 衰退した/させた(?) から、「時」を 抽象 一般化して 対立 という 《構造能力》を 発揮する ことができた のである。「窮鼠 かえって ねこを かむ」と いうか、国語学の みる 衰退過程は、あるべき 日本の ことば学の みる 発展過程である。「さかだち」(マルクス)を なおすだけでは とても たりないが、日本近代を みる 国語学研究が 未発達な ためである。「せわしなかった」という 環境より、近代化の コース自体が ゆがんでいた のだ。

 ひとまず、体言 用言、または 堤題 述語を あわせて、基本の 文パタンは つぎの ように なる。

          ものがたり    しなさだめ
分説:体言は ─┬─ 用言 す     体言の 用言化 あり   (肯定)
合説:体言も ─┴─ 用言 せず    体言の 用言化 あらず  (否定)

(2019.01.01, 記)

【補:「分説/合説」が 体言(もの)を 《分離か 抱合か》という 点で、「肯定/否定」が 用言(こと)を 《同一か 相違か》という 点で、論理的な 対象範囲に対して「相補的な 分布」(音韻論での 用語。集合論では ふつう 補集合)を しめしやすい からではないか。「叙実/叙想」も 同様に 《現実か 思想か》という 点で たしかであろうか。「もののけ」や「ゆめの おつげ」は 当時「現実」だった のであろうか。「疑心 暗鬼を うむ」の たぐいか。(第8節の「叙実法」の 組織性も 参照されたい)
 のちの 二分的な 対立が 「過去/非過去」(タの 有無)、「完成体/不完成体」(テイルの 有無)といった 肯否の 対立に なりやすいのは、二分的な 補集合に (論理的に 簡単に) なるからである。と同時に、対立関係を うみだす ためには、分類するのに 本質的に だいじな 特徴を 《単純(simple)化 または 純粋(pure)化》しなければいけない のであった。2019.01.27. 補記】



5) 行為と 認識との 分化「せむ・すべし」

 日本語の 変化の 潮流の ひとつを、結論を さきに 概念図として しめす。なんども くりかえして のべた ことなので、ポイントだけに する。あまり しつこいと 広告効果が かえって へるとか。

せ む ─┬─ しよう    行為:意志
     └─ するだろう  認識:推量

すべし ─┬─ すべきだ   行為:義務
     └─ する はずだ  認識:推論
 奥田 重幸らが ロシア文法=西洋伝統文法として 紹介している ように、モダリティの 《意志と 認識》への 分類と いうのも 常識的で いいのだが、「意志」という、目に たしかめがたい、black box に なりやすい 対象には しないで、「行為」という 外観を たしかめうる 探求対象に した のである。結局は 精神面か 行動面か という ことで 実質上は 一致して、難問には かわらない のかもしれないが、とりあえず (感性的)感覚と (直観「第六感」的)知覚とに もとづく 接近法(approach)に なる とりえが ある。直観 第六感 知覚には 現代の 科学にも つきとめられていない 面も あるが、たとえば「コレワ ヨンダ」という 文を 文脈と 場面の なかで、「これは 四だ」(主題 品定め文)か、「これは 読んだ」(対格提題 物語り文)か、(同形の) 文パタンの ちがいを ききとれる ことには、既知の 五感以外に 知性(悟性)以前の 総合的な 感性的な ものが 仮定される のである。一般に「パタン認識」と よばれる ものには 知性的な 思考「しる」こと以前に 「感じる」ものが あると いわれる。
 複語尾「む」は、体言助辞「も」の 用言動辞的 活用(母音交代)であるか、動詞語尾「(あ・う … や・よ) む」の (音義ともの) 複語尾化である という 成立想定も ありうる。「べし」は、複語尾ではなく 「むすび」(文末補助辞)であって、終止形式の あとに おかれて 「(う)べし」=妥当だ という 評価形容詞型の 補助辞として はたらく。いずれも、情意(も) 評価(べ<ま(真))の 基層的な 形式であって、のちに 多義的な 用法を もつ 助辞に かわっていく。知 情 意の 渾然たる 世界が、知と 情意との、《行為 と 認識》との 二分の 世界へと 変化していく なかで、助辞も システム的に 変化せざるを えなかった のであろう。人間社会に 主要な 目標としての《生産・制作》過程を 《行為(なす)》と《認識(みる)》とに 大分割したのは ひとつの 有意義な「ことわり」である。
 《すべし → べきだ/はずだ》の 構造変化は、《せむ → しよう/するだろう》より 外形的にも はっきりしていて、近代における 《だ/ぢゃ》文体 ≒ 品定め=判断文体の 優勢化を しめしている。「べきだ」が ではじめたのが 中古の「物語文学」であったのは、まさに ほろびゆく 文末パタン(ex. む・べし)が 変容して 部分的に 分身を のこす、和漢混交文(ex. ならん・べきなり)や 法話口語文体(ex. ぢゃろ・べきぢゃ) といった、近古〜中世の 文章であった のである。
 外国語との 接触、たとえば 英語の must や may の 翻訳は、日本語の 近代語化の あとであり、やはり、
must ─┬─ (V→N) なければ ならない   行為:必要性
    └─ (N→V) に ちがい ない     認識:確実性

may ─┬─ (V→N) ても いい       行為:許容性
    └─ (N→V) かも しれない     認識:可能性
と、《行為 と 認識》との 二分に したがって おこなわれた。ここでは くわしくは いえないが、語源的な 発生/結合も、動詞(行為)文からか 名詞(判断)文からか 系統を 別に している。蘭学については 不勉強で 実証的な 実例は だせないが、近世初期ごろに 同様な「複合辞」が 発生した のではないかと おもわれる。複合辞の むすび「にちがいない」と 接辞派生の むすび「らしい」については、おなじ「ノート」の「
連語論と 陳述論」の 第3節「動詞の 派生的な 意味と 文法化」の 末尾部分も 参照してみてほしい。定年退職後 ひさびさの 雪まじりの 特別研究会であった。

(箱根駅伝の 復路の ラジオの 実況放送を ききながら、2019.01.03, 記)



6) 付着物「したり」と 対立項「している」との 差

 「行為と 認識との 分化」は さきを いそぎすぎた ようだ。もうひとつ 確認しておく べきだった。学会に 疎遠で いるから、読者の 知識と 思考傾向の とおり相場が よく わからない のである。

 英語の "be + -ing" も、日本語の「して いる」も、進行(継続)形は この 有標形が になうのが 現代では ふつうだ。ところが、日本の 古代語の「す」は 不完成の 継続(シテイル)の 意味だ という。では どうして 近代の「している」の かたちは 必要に なった のだろうか。こんな 素朴な 疑問に 国語学は こたえてくれない。
 動作事態「… す。」は おのづから 持続性(動作不完成性)を もつが、「したり」との 対立によって 対他的に もった のではない。現代の「する」が 点性(動作完成性)を もつのは、「している」(継続性 不完成性)との 対立によって もつ のである。この ちがいは どこから 生じるか というと、具体的な《文》の 動作事態は それ自体として 持続的な できごととして 記述できるが、抽象的な《語》の「動詞」様相は 対他的に 有標の「継続(線)性 不完成性」の 対立物として、みづからの 局面状態「全一(点)性 完成性」を (無標/対他的に) 規定する からである、テンスや アスペクトは、あくまで 《語レベル》の 動詞述語の 文法的な カテゴリである。ついでながら、「形態論」という 語を つかっていない ことにも 注意しておいてほしい。

いつか 印欧語的な 概念との 関係で、説明する チャンスも あるだろう。20世紀初頭の アメリカの 人類学的 言語学 F. ボアズも E. サピアも、"morphology" という 語を 西欧的な 意味では けっして つかわなかった ことを おもいだして おいてほしい。【印欧語の "形態法" は 「最高の 発展段階」だ という 西欧の「良識」的な 評価に対して、サピアは、英語も コイサン諸語(ホッテントット語)も おなじ 価値を もつ ものとして 冷静に 研究すべきだと きびしく 批判した だけである。"morphology" を もつ 言語は 世界中では ひとにぎりに すぎず、ありうる 文法の 種類は 多様であるが、音声・語彙・文法の 3点セットの 基底システム自体は 普遍的である。(2019.02.15.補記)】
 用言膠着体の 具体的な (精妙な 意味的) 付着性は、直接的に 文の 表現機能を とりあわせ的に 発揮する だけだが、語としての 述語の 活用体の 抽象的な (簡潔な 機能的な) 対立性は、文を くみたて(構成して)、他の 文の部分【状況成分:かつて さっき、様相成分:もう やがて etc.】とともに、文構造体として 多重的に 表現機能を 発揮するのだ。より 一般化して いえば、要素の 付着性の たし算の 数値は、構造の 階層性の かけ算の 数値とは けたちがいに ちがう。たし算の 複語尾組織は、関係の 一般化や 関係構造の 階層(多重複合)化 という かけ算の システム化を はばむ、あえて たとえれば 「反動分子」なのである。

 くみあわせる という 《構造能力》の 威力は、赤 白の 2色の 手旗(救難)信号の 手の うごき(手旗の 位置変化)を やめて、青 黄 黒など 数色の 手旗を ふやした としても、救難信号の 種類は へってしまう ことは、ボーイスカウトの 少年にでも わかる ことだろう。「時の助動詞の 6→1の 変化」を なげく 古典語の 先生は、まだ こんな 3色交通信号と 2色手旗信号との ちがいの リクツも わからない のである。
 数学の 落第生でも いい。しかし 「おおい」ことは 意味用法の 一般化 不足で、渾然一体 というより 混然雑体の 可能性も ある。「すくない」ほうが 貧弱なのではなく、本質に ちかい 整理である 可能性も あるのだ という ことは、文化に かかわる 人間としては 最低でも 理解してほしい。「多-少」に いらぬ 評価を 混入しないのが、数学的な 思考である。ことばの 本質的な 機能は、「有限の 手段の くみあわせで、無限の 表現が できる」(K. von フンボルトの 約言) ことである。むろん ことばの 可能性・性能の ことであって、特定の 個人の 現実に 行使できる 表現能力の ことではない。虚飾の おおい 雑文ほど うける のかもしれないが、本質的な 特徴を ついた、冨士谷成章『あゆひ抄』の「おほむね」は みじかく、むだの ない 小文である。

(2019.01.05, 記)



7)「なりぬ/なしつ」と「なって/してしまう」

 別の 複語尾「ぬ・つ」と みるにしても、別の 活用形「き(終止)・し(連体)」と みるにしても、意味的には それぞれ ひとまとめに 整理されている。語源としては 別系統の ものだが、文法的な 機能においては 同一物の 異形としても みなしうる という あつかいである。いわば、意味要素の 発生 発展において (やや 無計画に) よせあつめられた 組織 という 段階である。「完了/確かめ」とか「過去/回想」とか、意味的とか 機能的に まとめていく ことは、文法的な 発展としては 大変な 抽象化 一般化の 過程であるが、形式の 統一にまでは いたらなかった のである。
 念のため、現代の「してください」という "ていねい"体の 依頼形も、「* しませ」でない 点で、歴史的な 一過程(途上)の かたちである。現代は 最終ゴールではない。「する−します」の ていねい的な 対立が なくなり、野元菊雄の「簡約日本語」の ように、文末(述語)は 「します」形だけに なる 可能性は ある。だが、中止「して」や 連体「した N」は 「する」形だけに なって、「* しましながら」や「? しまして」「? します N」は きこえてこない 時代も くる かもしれない。さきの 依頼形も「〜して。」という 省略形(「半言形」Banmar)が 標準形に なれば、敬語の ねじれ現象(不整合)も 消滅だ。

 複語尾「ぬ・つ」は もと「いぬ・うつ」の 語頭母音 省略の 縮約論が 通念に なっていた ようだが、ふるくは 一拍の「ぬ・つ」の ままで 動詞連用形に 付属して、「補助動詞」的に はたらいた ものと かんがえられる(cf.「し-たまふ」)。2拍語基が 標準の 時代に なって、準備音的に「い・う」が 語頭に いれられた ものと みられる(cf.「ロシア → オロシャ」)。ここで だいじなのは、複語尾 という 名の (語構成的な) 形式ではなく、補助動詞 という 半分 構文(統語)的な 形式だ という ことである。近代の「して=しまう」と 構成機能としては 大差ない という ことである。
 と いった うえで、「なりぬ/なしつ」という 区別は、動詞語基の、自動/他動から 無意志/意志の 区別に うつっていった。自動/他動 というのは 辞典の 見だしにも 利用される 語彙+文法的な 基本区別であって、モノ変化基礎「付く−付くル / 立つ−立つル」と ヒト動作基礎「割る− 割るル / 折る−折るル」といった 意味基礎の ものや、「ル−ス」語尾派生の ものなどで、動詞の 《語レベル》で かたちづけられている。「が・を」などの 名詞の 格の 明示は かならずしも いらなかった。それに対して、意志/無意志は 語に かたちづけられては いない。《文の レベル》で 意味 機能として 構成される ものである。「足を 折る」という 連語の レベルでは まだ きまらず、「自分の足」か 「他人の足」か が 構文-意味構造的に きまったり、「わざと …… しろ/しよう」という 意欲文型に 可能か、「うっかり …… した」という 確定文型に 可能か が 構文-機能構造的に きまれば、いわゆる 再帰(自発/自動的)構文か、他動(作為的)構文か が やっと きまる のである。
 語 連語 文、という 言語の レベルの ちがいで いって、いちばん 抽象度の ひくい 文の 表現である。サピア流に いえば、言語(language)的な 語ではなく、(半分) ことば(speech)的な 文の レベルで きまる 表現(expression)である。「ぬ つ」は、形式の 統一が おくれて、そのまま 消滅してしまった、悲劇の アスペクト的な 形式である。具体的な 平安物語のなかでは 国文学者を 魅了して やまない 「ぬ つ」の 構文機能は、斬新だった のである。乱暴な いいかたを すれば、物語文学 軍記物語の 時代までは はなざかりだったが、法話 談話的な 口語文や 論説文的な 文章の 時代には 性格が むかなかった のである。それは なんであったか。近代の「してしまう」の 秘密を さぐる ことで、かんがえてみよう。

 松下大三郎から 佐久間鼎、高橋太郎(>吉川武時)を へて 奥田靖雄(>藤井由美)の 研究を ざっと みると、「してしまう」の 意味機能は 現代 まだ うごいている。論争は まだ すんでいないと おもうが、わたしの みる ところ、つぎの 3種の 用法を うごいている ように みえる。論争は 用法記述の 単純化の 失敗(藤井<奥田)による 中断であって、用法は 2点の 焦点を めぐって 過渡期の 様相を みせている。意志/無意志の ちがいは 近代も 前接動詞「なりて/なして」の 自他動を 基礎に 区別している 点は ほぼ 同様である。「しまう」の 補助動詞が、多義で、1) 意志動詞の 完遂(ex、 あしたまでに かいてしまっておく)、2) 他動詞の 無意志化(ex、 だいじな コップを わっちゃうと たいへんよ)、3) ほぼ 全動詞の 確定の かたちで、不可逆/不本意という 評価用法(ex、 しんぢゃった、とうとう かいちゃった、こわれちゃった/こわしちゃった)の 3つだが、2)が はしわたし(過渡)的な 用法である。用法別の 使用量から いっても、前接動詞の 範囲の 広狭から いっても、1)から 3)に むけて、ふるい 用法から あたらしい 用法へ という、同時代の 内部における 歴史の「さかみち」(サピアの slope)が みてとれる。V. マテジウスなら、potentiality(潜勢性〜ゆれ きざし)と いうのではないか。さすがの 奥田も、老人の 短気という 例で、藤井の 未熟な 記述に ひきずられて、希望的な さきばしりに 実証面の チェック機能が はたらかなかったと 評すべきであろう。「規範文法」としても、変化の (法則的な) 予測と、過去現在の 事実記述とは、厳に 区別すべき ものである。(cf. 奥田靖雄1953『正しい日本文の書き方』(まえがき)「歴史文法」と「規範文法」)

 ただ、もうすこし 個別的な 事情も しんしゃくして いえば、説明不足の 規範文法の 未来志向的な 歴史予測と いうべき かもしれない。1)の 用法は、「しおわる・しきる・しあげる」などの 終了局面の「局面動詞」に まかせつつ、3)の 不可逆/不本意という 評価用法を 確立する 潮流は かなりの 蓋然性の たかさで 予測できる。大阪芸人の「さんま」には、「〜ちゃった」が 「東京弁らしさ」に きこえるらしい のだが、2)無意志化と 3)不可逆の 用法が みみに たつ ようである。
 図式的に やや 大胆に いえば、「ぬ つ」という、終了局面を えがきながら、「ぬ」:発生 = 場面の 交代、「つ」:完了 = 事件の 終結に はたらくのが 古代であり、現代の 過渡期を へながら、未来社会においては、不可逆/不本意の 評価に もっぱら はたらくことが 予測される。できごとの 局面性という ことがらの 外面に 注目した 表現から、できごとに対する 評価性という 表現主体の 内面の 方向への 変化傾向である。時枝誠記や 永野賢の 時代なら、「主体化・主観化」と いっていただろう。

ある(あり)   :ガ ある=存在    デ ある=(断定)判断(陳述)
おもう/おもえる:ヲ/ガ おも-=思考  ト おもう=推量判断(想像)
みる/みえる  :ヲ/ガ み-=知覚   ト みえる=判断〜推定(視覚の evidencial)
いう/きく   :ヲ/ト V=言語行為  ト いう/きく=伝聞(聴覚の evidencial)
などの 文法化 むすび化も、内面化の 一種と いって いいだろうが、もとの「本動詞」としての 用法も なくならず、形式交代の 変化ではなく、用法拡大の 変化である。

(2019.01.06.記)



8) 古代の 用言複合体の 組織性

 古代語なりの 組織性を みさだめ、できれば それが「旧制度」で あらざるを えなかった 理由も かんがえておきたい。

 さきに「す−せず」だけを 無標/有標の 対立だと いったが、もう ひとつ 問題に しておく べきであった。まず、基本の 動助辞図らしき ものを あげておこう。


     | 肯 定 | 否 定 |
─────┼─────┼─────┤
 (叙実) |  す  | せ ず |無標/有標の 対立
─────┼─────┼─────┤
 叙 想 | せ む | せ じ |未然接続 「動助辞」
─────┼─────┼─────┤
 当 然 | すべし | すまじ |終止接続 「むすび」
─────┴─────┴─────┘
「自他の詞 六段」の「す・る」と 当の「ず」を のぞければ、1拍の 動辞は「き・ぬ/つ」(時制)の ほか、「む・じ」(叙法)のみである。「り」は 「し あり → せり」という 語構成の 特殊性にも より、山田も「存在詞」と 特立する 事情も あって、「けり・たり・めり」などとともに、別あつかいする。

 表の よこに 注記した ように、終止形に 接続する ものは、複語尾ではなく、「むすび」(奥田「文末補助語」)である。同様に、「す みゆ・すめり」も むすびである。むすびの 独立度の ちがいに すぎない。現代語の 例で いえば、「したと みえる」と「したらしい」の 差に ちかいだろう。「べし」は のちに 形式名詞系の むすび「べきだ・はずだ」に 分化するが、もとから 機能自体は むすびであって、(機能 限定以前の)「複語尾」や 「助動詞」ではない のであった。

 さて、疑問の ひとつは、「叙想」と「叙実」との 関係、「す−せむ」(欠如)や「せず−せじ」(等値)の 関係を、「対立」と いっていいか である。つまり、「す・せず」は 叙想(thought mood)との 関係で 「叙実」(fact mood)という 性格を 対他/自己限定的に みづから 規定しているか である。古典の よみに しろうとなので、有能な 専門家に きいてみないと 自信が ない。

【補記】さきほど、午前中に かいた ときは、山口佳紀1985『古代日本語文法の成立の研究』に 所収の「時制表現形式の成立 <上> ―― 叙法との関わりにおいて ――」を 失念していて、大変 失礼した。「叙実法」については、

   叙実法 ─┬─ 確言法 ………………………………… 終止形
        └─ 推量法 ─┬─ 不確実性 …………… 未然形+ム
               └─ 確 実 性 …………… 終止形+ラシ

と 整理している。叙実法に 推量(ム)を ふくむなど、本稿の 用語法と おおはばに ことなり、記憶も ふたしかだった。おわびするが、無標の 終止形を 「確言法」と よんでいる ことなど、「確言−概言」(三上・寺村)を ほうふつと するが、論理的には「たしかさ(確言度)」にも ちかくて、「事実/現実」に ちかい「fact性」とも 微妙に ちがう ように おもう。現代語では 「あした はれる。」と 未来は 確言できるが、事実とは いわないだろう。逆に、古代語的な 文語詩「城ケ島に 雨が 降る 降る。」という 眼前の 事実を 「確言法」と よんでいい のだろうか。ただ、寺村秀夫の 生存中の ころの 用語批判など いまさらであろうが、失念した おわびを かねて、あえて 一言した。

(この項、未完。2019.01.07.記)


 本稿の 方法は、形式と 意味とが 並行的に 関係している 組織を 言語の ものと かんがえる、記号論としても ごく 常識的な 接近法に たっている。研究の 途中に、論理的な 意味の 整理に 重点を おいた 研究も、外形的な 形式に 重点を おいた 研究も、必要だとは おもうが、言語学の 本道だとは おもわない。念のため、大鹿薫久や 野村剛史の モダリティの「意味/分類」を しらない わけではない。ただ 言及して 議論を 錯綜させない ように、敬して 議論から とおざけて、議論の 簡素化を はかっている のである。本稿とは 分類の しかたが おおはばに ちがうので 全体は 紹介しないが、さきの 叙実法については、山口は「現実に生起することとして捉えている」と いい、大鹿は「事実であるという判断をのべる」と いっていて、資料の よみかたの 信用できそうな 学者が ともに「現実/事実」と のべているので、上図の 叙実法の カッコは とっていいか。ひとまず、古代においても 肯定式−否定式と 叙実法−叙想法の 2つの 対立は、無標/有標の 対立として 成立していたと かんがえておく。
「確言法」については、当時の 寺村も ふくめた 用語の 混乱と みなす。三上の「概言」に 対立させて、寺村が「確言」を たてた のだったと おもう。なお、肯否を 「‐式」と よぶのは 『芳賀矢一遺著』(1928)所収の「文法論」に よる。上田万年 外遊中の 代講と きく。国文学で 有名な、明治の philologist は、こんな 代講が できたのだ。

補訂:叙実法に関して、perhaps it is true が 「文法的見地」からは 事実の 陳述だと スウィートが いうのは、意味は "perhaps" にも かかわらず、述語形式は "is" という indicative(直説法) だからだ。文法は "the meaning of the form itself" を あつかう のである。"form" を よみとばしたり よみおとしたり してはならない。「む/じ」や「だろう」を 日本語の (モーダルな)「形式」と みとめるなら、スウィートの 方法では これらを「叙実法」とは みとめられない。「す」とともに これらを 叙実法に いれられるのは、意味的=「論理的」にのみ 操作する からだ。山田孝雄 細江逸記以来の 学者は、「形式」基準が なじめず、意味論に 邁進する 傾向が ある。古代語の「す」形が 叙実法か どうかは、まだ 文法形式として 厳密に 検討されてはいないと いうべきだろう。2019.02.26. 記】
 さて、のこった 1拍の 動助辞は、「き・ぬ/つ」という 時間関係であり、内部は 過去「き(終止) し(連体)」、完了「ぬ(無意志) つ(意志)」といった 《異形同類義》の 整理が なされていて、「意味の よせあつめ」の 感は ぬぐえない。「き」は 「す」より 「けり」と ふかく 関係し、「ぬ・つ」も 「す」より 「り・たり」と ふかく 関係する、というのが 通念であろう。たいへんな 表現力 向上の ための 努力「意味の よせあつめ」と いうべきだが、機能的な システムには なっていない。意味の 集合より、機能の 構成(構造化)の ながれ(伏流 drift)が ある のではないか。
 2拍以上に うつれば、すでに のべた ように、終止形接続の「らむ・らし / めり・なり」は 「むすび」(非自立的な 補助語/辞)であり、語源的にも「あり」(存在動詞/陳述辞)の 関与が 推定される。「けり・たり・り」も、山田の「存在詞」であって、複語尾ではないと いってしまっては、組織性は ますます 希薄に なる。《存続性の 助辞》化した ものとは みられないか。「まし・ま(く) ほし」は、形容詞型の 活用を もつ、状態派生の 用言複合体(動助辞 分析形式)であり、仮想や 希望を あらわして、「せむ」の 《叙想の 周辺》の 形式と 位置づけて いい ように おもう。

 すでに 先述した「べし−まじ(べきだ−まい)」の ほか、古代の「希望喚体句」や「まくほし・ばや」などの 分析形式(熟語形)と、近代に なって 文パタンを おおきく かえる 「たし(たい)」は、別に 意味機能の 大変動を 特立して 議論すべき ものである。《動詞=物語り文》中心から、むすび(文末補助辞)や 用言ナリ(文体) などが 形式名詞派生の たすけも あって 多様化を すすめ、《名詞 形容詞=品定め文》だけでは たりない 《文パタン》の 多様な 様式的な システム化も 発達した。要素の 簡素化と システムの 構造機能化とに よって、表現の ゆたかさは まちがいなく すすんでいるが、混乱期・過渡期や 尚古的風潮 には 使用者の 利用能力が なかなか すすまない のだ。ただの はやり すたりは、おおきな ながれには ならず、さざなみに おわる。

(2019.01.08.記)



9) 近代の 活用と 派生態と 合成述語

 こんかいは、動詞述語、つまり 述語として つかわれている 動詞の ことで、もっとも 主要な 「きれつづき」(文内の 位置用法)として 終止的な 用法を あつかうが、ほかに 連体形、連用形、中止形、同時形 などと 文内の 位置を 区別して 記述する 必要に なる ほど、動詞自体は 複雑に ふるまう。日本の 近代語としては、その 活用の ほかに、派生態と 合成述語とに さらに わける 必要が あると おもわれる。『副詞と文』の 図表から さらに 改訂した 部分も あるから、注意してほしい。

 まず、活用だが、分類の 基準は 「孤立的・膠着的・融合的」などといった 「手法 Technique」の 問題であったり、「分析的・総合的・複総合的」などといった 「総合度 Synthesis」の 問題であったり する まえに、文法的な カテゴリー(範疇)の つくられかたの「根源(基底 Fundamental)的な タイプ」に もとづく 分類である。20世紀初頭、F. ボアズや E. サピア以来、言語使用の 必要〜義務度(must)に かかわる「文法的な カテゴリー」が 民族ごとに 独自である と 主張して、記述の 中心に おかれた のである。「形態論」とは もちろん かぎらない。morphemic な ブロック的な 宮田的な 寺村的な 活用は、用法よりも 形式に 注目する 3つでしか ない。「するだろう・しただろう/するのだ・してください」は、morphemic な 形態論の 対象に ならない。単位的に 2語以上であって、門前ばらいだ。かわりに「したろう」という 過去推量の 文語形が、他の 口語形と 混淆される。意味と 文体の 差には 鈍感だ。なお、ヤコブソンに よってしか ボアズを しらない って ひとは、不勉強だと おもう。
 ここで 説明する 方式は 奥田靖雄に 基本的に したがった もので、ボアズ・サピア的な 人類言語学の 一環で、一般的には 教科書『にっぽんご 4の上』、鈴木重幸(奥田監修 序説など執筆)『形態論』が いちばん ちかいが、学問的な 方式としては いろいろ 変種が ありうる【注】。膠着・分析でも「した-だろう・する-のだ・して いる・に ちがい ない」の かたちが 使用頻度(機能負担量)が めだって たかく、リズムの 単位に なって、1つの アクセントを もっていれば、そのまま 全体を 1語と みなす。逆に、「(それ) かって!」という 省略形であっても、「してくれ・してください」と ともに、(再自立化だから) 依頼形と 認定すべきだ と かんがえる。さらに 「わたし、最近、かぜを ひきましてね 、/。 …」を 1語形と みとめるか どうかは 議論が 必要だろう。中止形の ままで いいか、自称領域の 内情告白の かたちと 未来志向的に 用法記述してみるか、など 未来も みすえた 新語形の 問題も ある。形態(>「形骸の 専制」)より 用法という、使用上の ことば(speech)に まず 着目して、それが 言語(language)に 社会的な 形式として 定着するか どうかに 注目するのが、サピア学=奥田学の 基本である。

【注】奥田靖雄 原案と 称する、教科研・国語部会編2014『あたらしい にっぽんご』が 死後 記録に もとづいて 「本格的な 改訂版」として 刊行された。1968年の 教科研 主要メンバーの 集団制作の『にっぽんご 4の上』では 「副詞」は p.109まで でてこない (形式体系的な) 構成であった ものを、『あたらしい にっぽんご』では、単語としての 副詞が p.23で、文の くみたてとしての 副詞は p.32で、品詞としての 副詞は p.108で と 3回に わたって、経験的な 習得から 理論的な 整理に むけて、弁証法的な 提出順序に なっている。また 「は・も」の とりたて主語が 文型との 関係で 特立されているし、連体も 「N1の N2」の「関係」(p.34)と 「形容詞+ N」の「連体修飾」(p.98)とを 区別する こころみも あったかに みえる、など 遺作であるから、こまかい 意図が かならずしも あきらかではないが、晩期の 奥田靖雄の 初等教材の 理想を めぐって 検討に あたいする 教科書案である。(この注は 2019.01.22. 補記)


 まず 最新の リストを しめす。『品詞論の はなし』の「
第5章:動詞述語の パラダイム」の 第1節からは ほとんど かわっていない。 その 表の 解説は おうちゃくするので、必要なら 復習を 期待する。すくないが、★部分が 改訂の 部分。

動詞の 陳述(叙法)  [終止活用のみ:義務的な テンス・ムード対立を 組織]

                    記述      説明
    叙述  断定  現在      する      するのだ
            過去      した      したのだ
        推量  現在      するだろう   するのだろう
            過去      しただろう   したのだろう
    意欲  勧誘          しよう
        命令          しろ
        依頼          して(くれ)


・動詞の 陳述(時間)  [連体活用にも:アスペクトと みとめかたの、コトの 義務的な わくぐみを 組織]

          \ アスペクト      完成(全一)           不完成(継続)
        テンス\みとめかた   みとめ    うちけし     みとめ     うちけし

        現 在         す る    しない      している    していない
        過 去         し た    しなかった    していた    していなかった

    +アスペクト性:方向性 してくる していく / 準備性 しておく してある / 局面性 しはじめる etc.

       ★方向性:空間:うち/そと、時間:ちかづき/とおざかり
        局面性 + 方向性 + 準備性 > 計画性 ―→ 派生態=「必要/有用」の 表現


・動詞の 派生態    (derivation /動詞複合体 verb complex)
    様態  しそうだ しがちだ しやすい / しうる できる / してしまう / するつもりだ
    情意  したい してほしい / すべきだ しなければならない /してみる してやる


述語の 分析形式   (合成述語 complex predicate)   cf. 品詞論的には 補助辞「むすび」
    様相  ようだ らしい そうだ はずだ / かもしれない にちがいない
    評価  ても/ば/と/たら いい    ては/ば/と/たら いけない

 活用か どうか、義務表現か どうかは、単純な 二分ではない。must 自体、義務性と 必要性との はばが あるし、さらに 有用性という「緊密度」も 実生活には あり、「日本語らしさ」の 段階も (教育上) 無視できないと おもう。
 あいかわらず 成案には とおいが、活用は、無標形式を 多重の 対立関係で 規定する ものと かんがえる。派生態は 動詞の、合成体は 体言述語にも はたらく 述語の レベルの 形式であるが、たとえば「したい」とか、「する ようだ」とか は、まず 日本語らしく 愛好される 表現であり、その 表現を つかわずに「する・した」と いえば、希望でも 推定でも ないと 通常は かんがえられるだろう。義務的と いうより「会話の 裏の意味/推論(推意)」に ちかい ものと、あいまいだが、ひとまず かんがえておく。議論の 厳密さより、種々の 現象の 有用さを みおとさない ように という ことに 気を つかっている。「必要」や「有用」や「らしさ」などの ことばが わたしの あたまを いききするが、うまく 特徴を ひとつに いいあらわせない。

(2019.01.09.記)



10) 文の 拡大

 気楽に 気楽に と いいきかす。よむのも いい かげん、かくのも くちから でまかせ。おなじ テキトウなら、かかなきゃ そんそん、ってか。コレッ マタ、スッツレー。

 文の 拡大と いえば、並列化と 階層化の 2つが 代表であろう。ふるくからの 並列の 代表は 「体言+と+体言」「用言+て+用言」であり、階層化の 代表は 「体言+の+体言」「用言連体形+体言」であり、時代とともに 多様化は されたが、基本は かわらなかった。体言(もの)も 用言(こと)も、並列は 量的な 増大で 文の 拡大に やくだつが、ややもすると 小学生の 作文、バスガイドの 道案内や 老人の スピーチなどで 代表される ように、文として きらない だけで、節(clause)の 増大が 文の 発達に たいして やくだたない。階層化が 日本語の 歴史において 注目すべき 発展していく 構造変化である。
 ふるくは 《属性と 陳述》(山田孝雄) 《コトと ムウド》(三上章)の 2段階で まにあう 時代も あっただろうが、現代は 南不二男の 4段階を わたしは 修正して、5段階と みている。南の B段階を B1と B2の 2つに わけて、B1は 肯否の 対立が、B2は テンスの 対立が あらわれる 段階と みなす。へたな 文章より、簡潔な 図式化によって、説明を 代用する。「数式」ほどの 効用は ないが、おおまじめに 文章改良の ひとつの つもりで いる。読解力に 差が でる かもしれない。説明用の 図式は、漫然と ながめない こと。みとり図は また 別で、概観用に ながめる とともに、配置の 図解にも 注意する。

    段 階:代   表   語   形  代表 機能  代表 文法カテゴリー  主語関連

    A段階:して/しながら/しつつ    修飾 補充  格支配 ヴォイス    対象語格
    B1段階:すれば/したら/すると    条件 中止  肯否 アスペクト    主格補語
    B2段階:ので−のに/ために−くせに  原因 目的  テンス 述語様相     とりたて
    C段階:から/け(れ)ど(も)/が/し  理由 前置  叙述法(推量・説明)   題目提示
    D段階:と/なんて (との・という)   引用 話法  意欲法(勧誘 命令 依頼) よびかけ


    (補説) ニックネーム   注記
    A段階:修飾 補充句   ;肯否以前
    B1段階:肯定否定句   ;条件 中止述語句、動詞句は アスペクト
    B2段階:テンス節 連体節 ;種々の 合成述語
    C段階:叙述法 重文   ;推量(だろう)、説明(のだ)
    D段階:意欲文 引用節  ;命令・依頼・勧誘など、節としては 引用のみ。
《属性と 陳述》 《コトと ムウド》の 2段階の 時代から、5段階の 現代までの、歴史的な うつりかわりを 記述する ことは、おおくの 専門家に たのまないと、しろうとには できない。たしかな ことは、階層化は、時制 叙法や 接続節などの 変化に 関連して、歴史社会的に 展開する 概念であって、時代的に 不変の、論理的な わくぐみではない という ことである。国語学の 理論家には 論理的な 整合性に うるさい 学者も おおいのに、転換期における 展相の 微細な 変容(さざなみ)の 記述ばかりなのは なぜだろうか。「文法上の 時」を 否定した 山田文法の 偉大なる「国語/國學の 古典思想」から、いまだに ぬけだせない のだろうか。

(2019.01.10.記。末尾部 改訂 03.15.)


 おなじ 節を つづける。「階層化」の 構造と いっても、論理の かった 人間か、心理的に 病的な 錯覚に おそわれる 人間の つくる 文、
田中君が [鈴木君が (佐藤君が 「山田君は まちがっている」と いっている)のを 小林君に 伝えていた]のを いっしょに きいて、憤慨していた。
の ように、あいだに 付属句が 入れ子細工的に さしこまれた 文は、階層的と いっても、言語の 線状性 という 記号の 構成する 基本的な 機能に 反して、構文関係の 内部が たちきられていて、悪文と いえる ものだ。かいても、数種の カッコづきでないと、意味の つづきぐあいが すぐには わからないだろう。これを 単に 作文技術として しか みない 構文論は、戦後の ドタバタの 技術的な 苦労を たかみの 見物と みた、象牙の塔に そだった 論理学である。
山田君は まちがっていると 佐藤君が いっているのを 鈴木君が 小林君に 伝えていたのを 田中君が いっしょに きいて、憤慨していた。
の ように、語順を かえて、構文関係の 内部を たちきらない ように、配置しなければ いけない。つまり、階層構造は きいて わかりやすい 並列構造も 考慮して、ききやすい《構文配置》に しなければ いけない のである。奥田靖雄1953『正しい日本文の書き方』の、「ことばなおし」(民科言語部会)に もとづいた、基本的な 戦略であった。
 なお 同様な 例として、堀辰雄の『美しい村』の 例が p.17-8 に ことばなおしを すべき 例として あげられているが、べつの 解釈も ありうる と おもう。脱線なので、文例も 検討も 省略するが、すき きらいは べつと して、登場人物の 心理描写の ひとつの 異様な 実験ではないか とも おもう。だから、ことばなおしの 反例では ない。それは さて おき、
わたしは あさ おきて、かおを あらって、歯を みがいて、パジャマを きがえて、ごはんを たべて、…… 学校に いそいで いきました。
の ように、「並列」は それ自体 いいとも わるいとも いえない 表現であるが、それ自体 ききづらい 順序でもない。線状性に そって、時系列的に 並列されるのが ふつうで、「Aは Bし、Cは Dした」という 空間「並置」も あるが、国語学の 有名教授が わざわざ 反例に つかう ほど 有力な 例かな。構造と 解釈の 問題に しないで、連用/中止形の「無標的な 構造」の ありうる 用法の はばの ひろさが、つごうの いい 解釈に 影響したと いうべきではないか。「頑固な 構造と 自由な 解釈」が よく みられる、国語学の アカデミックな 体質ではないか。

 「体言句」は 重層的だが、「接続」的な 句は 平板に 線状的に 並列する、という 説は、「接続的な 句」の、助辞承接形式や その 位置の (形式名詞=体言からの) 変化や、自立語全体の 構文位置(語順)や、(複文構造全体に 配慮した) 句読点配置なども きめこまやかに しらべる 構文の《配置 distribution》に 配慮も 考慮も ない、論理の 難解な だけの「常識」である(『山田文法の現代的意義』p.168)。しかも くしくも、悪名たかき「橋本進吉 連文節論」の 合理化にも なっていて、アカデミズム旧派の 守護神に なろうとしている。だが、この 古典語教師には、平板な 今昔を 近代的な 構造の 小説形式に つくりかえ 換骨奪胎した 芥川の 文体的な 苦労や 苦心が わからないのだ。説話文学と 近代小説との 比較に 歴史を みぬけない ようでは、古典語教師としても 国語史学者としても、世間から 信用されないだろう。
なお、"distribution" を「分布」と 方言学と おなじ ように 訳すのは、誤訳に ちかい。20世紀の アメリカ シンタクスの 用法では、電気工学的な「配線」の 比喩表現と みて、「配置」と 訳すべきである。サピアも、専門語的ではないが、よく 説明に つかっている。方言の「分布」は、19世紀の 生物学の 生物分布の 比喩で、これで ただしい。

(2019.01.11.記)



11) 連体から 複文へ

 英語など 近代の 西洋語では、「主語」を もっている ものを 「節 clause」と よんで、複文を つくる 単位と かんがえるが、よく しられている ように、アルタイ型の 言語など 主語を 必須な 成分とは しない 言語では 同様な 基準は もちいられない。日本語では、主語の かわりに 述語の カテゴリーによって、B1の 「肯否関係」(うまい/うまくない ラーメンは …)か、B2の 「テンス」(きのう/あした 行った/行く ひとは …)を 基準に する 可能性が たかいが、二極対立的に わりきるより、段階的 等級連続的に つながっている 分類に なるだろう。西洋でも、単文/複文の 二極だけを みるのではなく、 対等複文/従属複文、接続複文/有属複文 などと 下位区分していけば、結局 実質的に 同様な 分類が 有用に なっていくと おもわれる。国語学も もう 明治的な 近代コンプレックス的な 反応からは 卒業したい。

 さて、複文的な 現象には やはり 用言並列的な「… し/して、… したり」などの 対等的複文(重文)が つくられただろうが、体言と 用言とが あわさって、体言に 従属的に かかっていく 従属複文(有属文)が つくられた ときに、複文の 歴史に 画期が 生じたと いっていいだろう。簡潔な 例で いえば、

                      「連体格」          「主格」
我が 妻    → 我が 思ふ 妻       [我が (思ふ 妻)]       [(我が 思ふ) 妻]
乙女の すがた → 乙女の 舞ふ すがた    [乙女の (舞ふ すがた)]    [(乙女の 舞ふ) すがた]
「我が 思ふ」「乙女の 舞ふ」という、いわゆる 従属主格("主語")用法と 「解釈」される 用法使用が、階層的な 複文表現の 出発であろう。この「が・の」の 用法を 佐伯梅友や 青木伶子らが「主語」と 一貫して よんでいたのは、《従属卓立》= 所有<個物指定>・所属<範囲指定>性を 感じとって、卓立(強調)性と 矛盾を 感じなかった ためと わたしは 解釈している。
か:指示性 場所性 → (体言下接 連濁) が:従属節における 分離的な 指定性  cf. 主文:分説「は」
に:動作の 範囲性 → (母音交代して)  の:従属節における 包含的な 所属性  cf. 主文:合説「も」
という 直観的な 仮説が、いつごろからか、わたしの あたまに すくっている。「天動説」の 終末期は、なんとも 難解な 説明で、教会権威の ささえぬきには 学問的に なりたたない しろものだった とか。
 この 仮説は、音的な ささえとしては、「は・が・か」は 唇音/奥舌の 破裂音で、「も・の・に」は 唇音/舌先の 鼻音である という 音パタンも 考慮している だけで、具体的な 用法記述は おうちゃくな ものに すぎず、くろうとの 検証的な 実証が なければ、学問として なりたたない と、その 程度の 謙虚さは 保持しているが、自分には 無理解だと おもえる 学界にも がまんして、からだの つづく かぎり、しこしこと かいていく。
 複文仮説の 人的系譜としては、佐伯梅友の 出発的な「の・が」の 萬葉研究や、石垣謙二「が」の 通時的 研究や、青木伶子「は・が」の 陳述的 研究から、奥田靖雄「主語」の 構文システム的 研究を へて、工藤浩「が・の」の 構文観点の 逆転に いたった ものである。実証能力の よわまった 人間としては、こんな (逃げ)口上の 披露で ひきさがる ことに する。

(2019.01.12.記)



12) 条件から つなぎへ

 言語事象の 変遷としては、おおよそ 阪倉篤義が「条件表現の変遷」として 記述する ものと おなじ ことなのであるが、時枝誠記 阪倉篤義 系統の 研究は、文法ではなく、(主体的な) 表現と 特徴づける。表現の「開閉」の 量的な 推移と みて、条件(論理)表現と テンス(時間)表現との 分化という、質的な 文法変化だとは みないのだ。

 古代の「条件」は、《未然・已然 +「ば」》と、《終止・已然 +「とも/ども」》の ように、動詞句自体は いちおう 時間+条件の 構成である。「ば」は、未然形が「せむ+は」>「せんば」>「せば」と 音変化して できた ものが、もと 独立用法(言ひ放つ法)の 已然形にも 付加される ように なったと かんがえられている。「せむ+は」は、「む」の 準体法が 仮定され、「体言句」の 構文機能が 潜在している のだ。「とも/ども」も、逆説仮定は 「… と(ある)も」といった「引用+存在+も」の かたちに 発生し、逆説確定の「已然形+ども」は 「已然形+ば」に 類推的に 連濁した ものかと おもわれる。
 しかし 未然形の 仮定には 名称どおり テンスが ない。「せば・けば」などの 少数例の 意味解釈は 信用できない。「仮定法過去」的な 誤解は、もと「接続法の 過去時制」は 仮定ではなく、想像する 状況(遠隔用法)である。過去事象の「回想」でもない。山田には めずらしい なまはんかな 時制批判の 失敗である。已然形は 名称どおり 時間有標(既然)に きまっている。なお、英文法の "仮定法過去" の 翻訳文「ほんとに しっていたら、いかなかった(だろうに)」の「たら」は、国語学では、過去ではなく、既然(≒完了) なんだろう。まったく 師弟ともども ご都合主義なんだから。
 時間的に 未然の 動作は 論理的に 仮定に きまり、時間的に 已然の 動作は 論理的に 確定に きまってしまって、マンネリな くみあわせばかりに なる。時間と 論理とを 自由に くみあわせる ものではない のである。すでに すんだ ことの 描写が いのちの、物語文体の 完成である とともに、限界でも あった。

 複文の 「体言句」は 多様化していく のである。すでに あきらかに されている ように、「が」や「から」は、格助詞から 接続助詞に 変化したのだ。しかも、前接の 活用形接続も 変化して、「にぐるが かち」(連体(準体)形接続)から 「… だが」(終止形接続)や 「… だろうが」(推量形接続)の かたちに 変化する。連体から 終止への 変化は、格から 接続への 機能変化に 対応するが、推量形接続にまで 変化したのは、従属複文に とどまらず、重文(並列複文)の 階層化にまで 対応した のである。これでも「接続句は 平板」なんだろうか。山田の 國學と ともに、構文関係の 淵源さがしに 熱中し、その 展開を みる 目が ない。
 つなぎは 形式名詞出身の「ところで・ほどに・ゆゑに・さかひに・あひだ」など だけではない。「Vに よって・Vを もって」という いわば 形式動詞出身の つなぎも あるし、「が・から/のに・ので」など 格助辞 準体助辞 出身も あり、「けれど・し」など 活用形の 異分析(再分析)に よる かわりものも ある。接続助辞と いってもいいが、推量形(だろう-)にも つきうる など 独立性は たかく、格助辞の 付属性と 同一には 論じられない。必要なら、助辞と 補助辞/補助語とを 区別するか。
 ついでに いうが、格 係 終と、副 接続 間投とを、おなじ「助詞」に いれた 山田文法の 形式独立性の 議論は あらすぎる。この点では、服部四郎の「付属語と付属形式」は さすが アルタイ学者として、形式用法は きちんと 識別しているが、付属語や 補助語の「語性」についての システム(機能)構成が ことなってくる。ここは、服部四郎(形態素)・河野六郎(複合体)・奥田靖雄(活用図) という 一流の アルタイ型諸言語研究者が 隠然と 理論対立している、ホットな 議論場 なのである。

 テンス アスペクトに ときの 状況語(様相詞) という 時間表現と、接続関係 という 論理表現とが 相互に 分離独立して、くみあわせが 自由に 可能と なれば、すでに 確定した できごとの 前後関係(taxis)を 逆転して、因果関係を 効果よく 描写する こともできる だけでなく、さまざまな ありえない 場面も 仮定して、いろいろな 可能性を かんがえめぐらす こともできる。そうした 効能も、うしろむきに 活用しないで いなおっていれば、それまでの ことだ。どんなに 偉人であっても、没落貴族として 古典の 整理整頓に 精進した 藤原定家は、古代の 残照としての 華麗妖艶な「有心体」には 到達し、新古今調を 代表したが、それ以上では ない。実質的に しられる 八代集 最後の 勅撰和歌集なのである。歴史の 怒涛の いきおいは、非情に おしよせる。「紅旗征戎は 吾が事に あらず」と、19歳の わかものが 日記「明月記」に かく 意気 意地は、わからない わけでは ない。

(2019.01.13.記)



13) 叙法から むすびへ

 法\式 | 肯 定 | 否 定 |
─────┼─────┼─────┤
 叙 実 |  す  | せ ず |
─────┼─────┼─────┤
 叙 想 | せ む | せ じ |
─────┴─────┴─────┘

 さきに 第8節に みた ように、古代語の 基本叙法の 図は、上図の とおりと みておく。右下の「せじ」の 欄が 「せ + な-む / ま-ず」と 接辞が 2つ 膠着するなら、現代と 原理は おなじに なるが、「じ」が <否定+叙想> の 重義性を もつ ことは いろいろ 気になる。その 重義性が カテゴリー(類的意味)の 重層的な くみあわせによる 形式ではなく、意味(素性)の 多重的な 形式の 付着性である。西洋の いわゆる 性 数 格の 重義的な 屈折語が 文法カテゴリーとして 立体的に 構造化されて 一覧される のに対し、日本の 古代の「じ」は 要素の 意味融合(amalgam)であって、膠着的な たし算性が いりまじって、すっきりした 構造化(かけ算化)には おくれた。【意味融合要素の 付着性と、意味分解要素の 構成性との 差が 検討対象である。(2019.02.28. 補)】
 渡辺実や 南不二男が あきらかに した ように、日本語の 用言複合体の 構成には 助辞の 承接順序が おおきく 機能する。よく しられた ことなので、詳説は 不要だと おもうが、終止形接続の「助動詞」だけは、通常の 助辞とは ちがい、終止形の あとに 補助語的に 付加され、主節全体 または 複文全体(従属節と 主節との 関連)を しめくくる、叙法性(modality)の 補助語/辞(enclitic)や 助辞である。第8節でも のべた ように「めり・なり / らむ・らし / べし・まじ」は むすびである。すべて、語源に 存在動詞=陳述辞が 関与するか、形容詞化(情態言化)を へている ことに 注意したい。おおくは 現状との 関連(evidence)からの 推定表現であるが、「らむ」だけは、叙想「む」の 延長=事態の 独立化であり、「しづごころなく はなの ちるらむ」は [しづごころなく はなの ちる] 全体(関連)の 推量であり、実質的に「しづごころなく」桜花が 散る 理由を とう ことに なる。現代の「のだ」にも ちかい 用法が ある。「スコープの ノダ」と いう。準体助詞「の」の やくわりを 「らむ」の 存在「(あ)り」が はたした のである。「あり」の "あ" は、「いぬ(往)・うつ(棄)」「いづ(出)・う/むべ(宜)」「(う)へ・(お)もふ」などと 同様に、もと 準備音・いりわたり音的だった 可能性も かんがえられる。「ラ変」が「サ変・カ変」と くらべて、なんで 2拍 ?

 「ぬ:つ=いぬ:うつ=しぬ:すつ」の 比例式には、すくなくとも 2つの 古代思考の 秘密が かくれている。想像してごらん。「形態音韻論」と「音パタン」と、どっちのほうが 《語形》として みのり ゆたかだろうか。
 また 「… たてり みゆ」は 現代の「… が たってる とみえる」に そっくりであって、学校文法流に「補助動詞」と みるか、または「後接辞」という 補助語と みるのが ふつうだろう。それを 「たてり」と「みゆ」とが「複述語構文」(1968)だなんて、時枝過程説的な 発想に もとづく「述語=詞+辞」観も、おおまじめに 提案された のだった。アメリカ記述方法の 形式主義の 盛行した 末期で、変形文法に 交代しかけた ころだった。ヴァンドリェスや メイエらの「形態部・文法(形式)化」といった 歴史記述の てがたい 手法が、国語史に ねづいてくれるか。(2019.02.01. 補記)
 印欧語の「品詞」は おなじ「語」に そろえがちだが、アルタイ型の 言語には 積極的に 「助辞」(あゆひ)を みとめる べきである。むすびは、語順が ちがうので 名称は ことなるが、英語の 助動詞と 同様の 機能を はたし、動詞の 叙法(mood)を たすけ、述語の 叙法性(modality)として はたらく 点で、基本的に おなじである。ただ、形式と 機能配置の 点で、自立語に 後置され「補助・文法」的に 機能する だけの ことである。「付属」は 形式的でも いいが、「補助」は 配置・機能的である。
 補助的な 語に 関連して、松下大三郎の「形式名詞」と 佐久間鼎の「吸着語」と 三上章の「準詞」と 奥田靖雄の「つなぎ・むすび」などは、かならずしも 択一的に えらびとる べきではなく、構文機能の 専門化の 定着の しかたが 多様なので、「補助辞」の 限定の しかたが まだ ゆれうごく 途中に ある。いづれも 使用可能である。「ので・のに」は <つなぎ>、「のだ・はずだ」は <むすび>、副詞的な 用法の「かわり(に)・まま(に)」は <吸着語>、「Nの ため」「Vする ため(目的)」「Vした ため(原因)」の ように つかわれる「ため」は、<形式名詞> または <準詞:-に で だ の> と いった ほうがいい だろう。テンスは 自由な 対立=交代 というより 意味選択の 構文位置の ちがいと いった ほうが ふさわしい。「ように」は つなぎの「ように」と、むすび「ようだ」の 連用形としての「ように」を、別語として 区別する 可能性も ある(cf. 前田直子『「ように」の意味・用法』)。

 西洋でも、19世紀的な「品詞」は 前置詞 接続詞などを 自立的な 語と 同等に 独立した 品詞と あつかって、評判も わるかったが、20世紀的な「語類」としては、あらたに 冠詞など 独自な アクセントも もたず、リズム段落の 単位にも ならない、"en-clitic" とか "function word" とか よばれる 補助的な 語類も たてられる。全世界的には、膠着的とか、複総合的な 言語にも 注目され、意味 機能を あらわす 形式に 世界普遍的・標準的な 単位は たてられない というのが、ほぼ 常識であろう。形式の 音声面だけは 客観化科学の 対象に なったが、サピアの「音声のダイナミクス」は 意味機能ぬきに 物質的にのみ 記述を ふかめる ことは できない ように おもう。《意味を 喚起》して こその 言語の 形式なのだから、「語は カタチだ」という 主張は、生成文法否定の おもいは わかるが、やはり 同様に「原理的に不安を感じ」てしまう(河野六郎訳『言語学と哲学』訳者あとがき)。
学校文法批判の 本質的な 論点は、構文機能の かんがえちがいに ある のであり、とくに 助詞助動詞 という 形式の「きりはなし」に よる 重要な 構文機能や 意味の みおとしに 批判の 焦点が ある。助詞助動詞を みとめても、自立語と 助詞助動詞との くみあわさった いわゆる「文節」という 複合体(syntagma)の 構造分析を 実行すれば、問題は きえるのだ。戦後 一時期、橋本の 後継者 林大が「連文節」の 発展に 努力していたが、当用漢字の「目安化」(常用漢字化)の 妥協で 国字問題を 処理した のちに、本人が 國文法(学界)に あいそを つかし、国語教育の 世界から 身を ひいた ことは、みぢかに いただけに、ショックな できごとであった。
 構文論の 分野で 「物語り文」「品定め文」は 名のみ ことごとしく、という 現状に なげかざるを えないが、「なり・ぢゃ・である」文体が、近古 中世 近世において 日本語の 歴史に おおきな やくわりを はたした ことは まちがいない。わかっていながら、せめて 図書館がよいが できれば、との うらみの のこる 生活で、しだいに くちが きつく なっていく。
 むすびの 機能は、叙法性(modality)の、対場面的な 機能だけでなく、対文脈的な 機能、《連文》の、《複文》の 関係づけも、まだまだ 未開拓な 領域である。「スコープの ノダ」は、アイデアは わるくないが、「ムードの ノダ」と 択一的に かんがえがちで、ひとつの 側面の 差だ、つまり どちらかが めだつか どうか という 差は あっても 両立しうる という ことを みおとし、関連して 教育に やくだつ 文章論的な なかみも ない。せめて 奥田の「のだ」の 記述を こえる 努力が のぞまれた。発表された 最後の 「のだ」会話論文は、形式的にも 内容的にも、未完である。脳卒中の 薬物治療に 成功して、元気に いきかえっていたら、「研究は 研究史だ」(1996「して(も)いい」)と また いっただろう。こころは、「あとに つづけ」だ。

(2019.01.14.記)



14) 修飾句から 3種の 様相詞へ

 題の こころは 「修飾句の 未分化事態から、あらたな 様相詞の 分立へ」という ことだが、2つの 特徴で 時代を おおきく 区切りたいと おもう。

古代:修飾句から 形容動詞(情態の 述定)の 成立へ
  「袖も しほほに (泣く)」から「堂々たり」へ

近代:時間様相・意志様相・人間関係への 《かざし》の 着眼
  「堂々と-した からだで、しばらく あえて ひとりで たたかふ」
古代については、いい 教科書か 参考書かを じっくり どうしてと かんがえながら よんでください。それ以上の 知識は わたしも もっていません。古代の「副詞」については 十分すぎる ぐらいに すでに しらべられています。「堂々たり」か「堂々とした」かの ちがいは、たいした 問題ではない。形容動詞タリ活用か、<情態副詞+形式動詞> か という、語構成の ふるい 固定観念より、
擬態から:ゆらゆら ゆらす  ゆっくり うごかす  ゆったり(と) かまえる
     さっと かたづける   ちゃんと こたえる   ちゃうど あう   ちょっと なおす
動作から:うでを まくった すがた   うでまくりの すがた   たすきがけで はたらく
状態から:あわてて ころぶ   あわてふためいて でかける   てんやわんやの おおさわぎ
などの 構文的な 表現が、名詞や 動詞などの ふるい 品詞の あらたな くみあわせに よって、あたらしい「品詞」や 新用法を うみだしている ことの ほうが、歴史としては 重要なのである。ふるい つくろいに 熱心な ばかりで、あたらしい くふうの たりない おはりこの ようだ。たとえが ふるすぎた かな。

 近代の「様相詞」については、半年ほど まえに したしい 読者の おすすめによって、『品詞論の はなし』の「第8章:制限詞の 二段システム」の「様相詞」の 節を 増補改訂した ばかりだ。この 第8章の 内容は これからの 3節ほどの 近代の 部分に 対応している。いちおう 学説としては 決定版の つもりだ。よく はなしが つづくな、と いわれそうだが、わかいときの 社会的な 禁欲 遠慮が 社会的な 引退によって ゆるんだ、といった 感じであり、決定版も けっこう いいたい ほうだいなので、そろそろ ネタぎれ しそうだ。

 近代の「かざし」の ポイントは、復古主義者 山田孝雄の「副詞」は 古代に 目が 局限されている という ことに つきる。あたらしい ながれ『国語副詞の史的研究』などは 目に はいらないし、「真に"副詞"が 成立した時期をこの時期(中世)におくことが許されるのではないか」といった 浜田敦の 歴史認識も ない(1957「中世の文法」『日本文法講座 3』)。
 山田1935『漢文の訓読 … 語法』の 「副詞」の かずかずは、1936『概論』の 副詞組織の「法格」には まったく 反映されない。人間の 使用に かかわる 歴史的な 言語組織に 《不変の フレーム》が 用意される だけ というのは、歴史社会的な 使用物としては 異常ではないか。国語学の いう 歴史は、ふけば とぶような 変遷や 推移なのか。ところが、1908『論』と 1936『概論』とに 基本的な 変化が ないのが、國學の 本領なのである。反歴史的に、すでに 崩壊した 古代を「闡(宣)明」し、復古する 学問なのである。[山田孝雄1910『大日本國體概論』(劈頭の 言)]
「停滞した」という みかたは 國學の 本質を とらえそこなっている(p.169)。『論』の 陳述本質論(<ハイゼ思弁論)と、近代西欧(ex. スウィート)の 時制叙法論との 関係の 比較も、学問の 歴史の 核心を つかず、独学刻苦の 偉人伝的な 読書である(p.146-)。なお、「問うべき最も根源的な問題」(p.1)とか、「更なる百年の不易流行」(p.112)とかの「崇拝」の 献辞は 議論しない。いづれも『山田文法の現代的意義』に 所載の 代表的な 学者の ことばである。

【国語学者の 敬虔な 頭脳には、スウィートも、ハイゼも、ヴントも (おまけに カントまで)、ごった煮なんだね。国語学(史)には、スウィートと ハイゼの「述語(文法)形式/陳述」論を 言語学的に 比較・評価する 必要は ないのか。ヴント(心理学)と カント(哲学)の「統覚」が、山田への「影響」と 学問用語の「由来」とを いっしょくたに したままで、国語学は いいのか(p.266)。偉人伝説の 虚妄挿話の たぐいかな。(2019.02.19-20. つぶやく)】
 「かざし」は、「あゆひ」という 助辞(閉集合)に 意味的に 内在していた ものが、先行する ものとして「放出」(河野六郎)され、補助語(半閉集合)として 分立した ものと 推定される。成章の 歴史認識は、「六運」など すぐれた ものが あるが、山田の 歴史認識は、國學としては 平凡であり、宣長の「古言・雅言・俗言」に 毛の はえた 程度の ものであろう。

付記:雑文に なった。うえの リンク先は おおまじめに かいた。硬軟 こきまぜて ときあかす と ご理解 いただきたい。

(2019.01.15.記)



15) 程度から 3種の 限定へ

 古代の さまざまな 未分化な「程度」表現から、3つの 自用語的な 品詞べつに 機能を《限定》する 3種、つまり 動詞に 様相詞、形容詞に 程度詞、名詞に 決定詞 という、限定系の 補助語が 近代には 分立すると かんがえられる のである。

 山田文法では、程度も 修飾、陳述も 修飾、情態も 修飾で、「修飾」には 区別が ない。副用語は みんな 修飾なのだ。名詞の 補格と、副用語の 修飾格とを「位格」として 区別しても、陳述修飾も 程度修飾も 情態修飾も 区別しないのは、文全体を 属性と 陳述とに 区別したので、区分としては これで 十分なのだろう。分類枠を 区分する 必要条件 という 論理には 熱心に とりくむが、古代の 必要条件だけで 満足してしまう 学者は、近代の 分類には あまり 必要条件の 発見に 熱心ではない。山田の「程度副詞」は、論理の 可能性としては、森重敏の「(群数・)程度量副詞」に 拡大されうる。「実現/現実 程度量」の 「対象/作用 性のもの」という ちがいを くわえて、「程度」の 種々相を みており、近代の 副詞の うごきも かれなりに みてとっているが、後世の 山田文法学者には 不人気である。理解できていない のかもしれない。
 凡人にも わかりやすい 用法(下位品詞)の 分類法を、時代ごとに かんがえだして いかさなくては いけない のだろう。

 動詞を 状態で 意味的に 修飾する のではなく、動詞(動作)の なしかた(おこしよう)を 機能的に 《限定》する ものとして、前節にも ふれた 「時間様相・意志様相・人間関係(様相)」の 3種の 様相詞を かんがえた のである。

 形容詞を 基準相対的に 程度で 限定するのが、程度(副)詞である。程度は 数量(ex.「2つ おおい・3センチ たかい」)とは ちがって 絶対量ではない。さまざまの 基準に もとづいて 相対的な 比較を おこなう のであって、対象事態の ただの 客観的な 量(状態量)に よる 修飾ではない のである。

「主体的」な 基準に もとづく「程度」は 「辞」ではないかと、おさない 論理で 時枝の 副詞=有格論や 陳述副詞の 辞分離論の 理論的混乱を 批判し、山田副詞論の 修正増補案を 展開したの(修論)が なつかしい。審査会(国語国文 全教官)で 1時間半以上に わたって、おもに 築島助教授(故人、時枝の 勤勉な 弟子)と 大議論(?)に なったが、博士課程に 進学できたのは、学問的な 評価 というより、学園紛争後の 政治的な 配慮が おおきかった のだろう。この時の 松村明教授の "方法" の 弁護などが なければ、社会的に つぶされていた かもしれない。
 名詞に かかる 決定詞も、ただの 連体修飾の 品詞ではない。名詞の ありかたの 限定なのだ。「おおきな・おかしな」の ような 連体修飾 専門の 語(偏性形容詞)ではなく、「ほんの・例の/いわゆる・あらゆる」などの 決定詞は、他の 名詞との 比較・対照に もとづいて 位置づけを 決定する と かんがえて 名づけた。「この・こんな」の たぐいは、指示詞の 連体用法と みて、決定詞には いれない。くわしくは 前節で リンクを はった 品詞概説を みてほしい。

 古代の 《修飾》は 自用語の 概念間の かざりあいに とどまり、ことがら領域の 関係に とざされているが、近代の《限定》は 自用語の 概念の ありかた・なしかたであり、それに 対応して 表現上の 観点・着眼点 という 表現陳述(predication)の 領域にも 進出していく、というのが 歴史の ポイントである。山田の 「陳述修飾」という 用語法については、次節に ふれる。
 山田文法にとって 「程度は … 属性にのみ」関与する という かんがえかた自体に 疑義が あるが、わからなければ 論文「程度副詞をめぐって」を よまれたい。この HP内に リンクは はってある。

(2019.01.16.記)



16) 陳述から 3種の 照応へ

 陳述(のべること)は、 文において 述語(のべ predicate)の 本質的な 能力であり、山田文法に あっては 具体的に 用言の 複語尾の 種類として あらわれるが、副用語としては 文法的には 1種類しか ないし、その 意味的な 分類は 文法的には 不要だ。初学の 必要に 応じるに すぎない という。「陳述」的な ものとは いっても、構文関係としては 修飾語に すぎず、文の 基本構造を なす 自用語では ないのだ。古代に かぎってみれば、これで じゅうぶんであった のかもしれない。「程度」という (陳述と 属性との) 境界周辺的な ものの 処理を すませれば それで 文法的には じゅうぶんであった のかもしれない。

 しかし「修飾」は 構文関係的に 必須の ものではない という だけではなく、古代的な 関係の とらえかたに 満足せず、近代では、呼応/うちあいとか、誘導/予告とか といった 構文機能の ちがいが 議論された。山田文法では 「副用語(本性) = 修飾(運用)」という ふうに、語の 本性=品詞と 運用=位格論との 区別が 実質的に ないのと おなじである。まちがっているとは いわないが、研究分野の 別が 理論的に むだに なっている。

 山田の 普遍分類的な 領域分割に 対応して、後代の 実態の 分析(ex. 漢文訓読語法など)を 組織運用化しようと こころみていないと いうべきか、國學として 当然 古代文法の 淵源=桃源郷状態に いなおったと いうべきか。
 昭和後期の 北原文法の「修飾成分」の 未分析は、かれ一流の「助動詞研究」の 観念図式化に もとづく 内省作例による 図解整理だからであり、あらたに おこってくる 歴史的な 諸問題は 処理できなかった。 (2019.02.03. 補記)
 近代の 3種というのは、1) 叙法詞:文の 叙法性に 対応する 叙法的な 先行補助語、2) 評価詞:文の 確定事態に 対する 評価を 先行して 予告する 先行補助語、3) 対照詞:文の 対象に くいこんで とりたて的な 先行補助語、の 3種の 機能的な「照応」が 現代では めだつが、他の 種類が 発展する 可能性も あるだろう。とくに 間投助詞「よ・ね・さ」などの 機能の 分化(告知・確認・放置)と 関連して、対照詞と 承前詞(通称接続詞)と 間投詞との あいだには ちがった 分化の うごきも みられる。とくに「承前」性が 連文(テクスト)間の 機能の なかで、独自な 関係づけに 発展する 可能性も 感じる。自用語は おおよそ 死火山に なっているが、副用語は いまだ 活火山的に 活動している 最中に みえる。浜田敦の ことばに 補足して いえば「副詞は 中世に 活動を はじめたが、現代 いまだ 活動を おえていない」と なるだろう。

 体言は 係から 格に、用言は 複合体から 活用体に と、おおよその システム化は おえたが、副用語・構文関係は はじまった ばかりで、変動が これからも おこりそうである。人間社会も その 言語の 歴史も、おわってはいない のであるが、はなしは いったん ここで おえる ことに する。サーバーとの 連絡が 不安定で、やすみ やすみ、だまし だまし、つきあう しか ない。

(2019.01.18.記)

(以上 一巡で 終了する ための 全体的な 加筆:2019.01.19-20.)



17) 共通語 方言の 交代 混交

 つれづれなる ままに、むかしばなしを エピソード的に かきしるす ことにする。

1) もう 常識に なっている はずだが、わかいころ よんだ 佐伯梅友1949『国語史要』(教科書)には、「た」の 助動詞の「いなかことば」性を はっきりと 指摘している(p.122)。ふるい 教科書の まごびきが いまでも 必要なのか、無用の しわざなのか、よく わからない というのが 不幸だが、金葉集の 連歌に

  ゐたりける ところの 北のかたに 声 なまりたる 人の 物いひけるを ききて、
あづま人の 声こそ きたに きこゆなれ    永成法師
みちの国より こしにや あるらむ       律師慶範
と あるのも、「北」に 「来た」を、「来し」に 「越(の国)」を かけて、田舎ことば「来た」と、都ことば「来し」との 対照を 指摘している。つまり、上皇の 院の ガードマン=「北面の武士」の「なまりたる」声を きいて、「あづま人・みちの国(陸奥 東北)・越(北陸)」などの 方言を からかった のである。また、流布本の 平家物語では、猫間(地名)の 中納言の 突然の 来訪を うけた、田舎そだちの 木曽義仲は、
猫殿の、けどき(食時)に まればれ(稀稀) わい、物 よそへ
と いう のであった。「わいたに」は、地の文から 推測すれば 「おはしたるに」の 意味だろうが、「めずらしく 湧いた」(突然 あらわれた)という 方言形と 混交している 可能性も ある。「けどき(食事どき)」や「ぶゑん(無塩)」(保存法)についても、田舎そだちの 武士階級 木曽義仲を 弁護したい 事情も あるが、生活習慣の ちがいまでは いまは 遠慮しておく。と しても、
こうして「た」は、都の ひとびとに よろこばれなかった ようであるが、田舎出の 武士が 都で いきおいを ふるう 世の中が つづいて、しだいに 都の ことばに はいっていった ものと おもわれる。
という 方言接触の 問題が、70年まえの ちいさな 教科書に はっきりと のべられていた ことは、再確認しておきたい。


2) 以上の ように、東国方言の (近畿)共通語への 進出も あって、「時の助動詞」6つが しだいに きえていき、有標形は 「た」1つに 統一されていった のだが、無標の「する」(連体終止形)は どう なった のだろうか。佐伯の あとは どう なったか。

 古代語では、個別具体的に すんだ ことは いわゆる 過去完了の 助動詞が あらわし、個別具体的に これから おこる ことは 叙想法(意志命令)の「せむ(ん)」が 結果としての 未来事態を あらわし、時間無標としての「す」形が、のこりの いま つづいている 現在の 事態を あらわす。典型的には 《しき−す−せむ》の 事態の 時系列の つらなりであった。

 近代語の テンス《する ⇔ した》の 対立では、「する」は、動作動詞では 未来、状態動詞では 現在であり、動詞の アスペクト性も 内包する。結果として 現在の 文事態を「す」が あらわす(表示する) 古代語とは ちがって、近代語の「する」動詞述語は、《典型的な 動作》では 未来を あらわす(表現する) という ように、(無標の) みづからを 条件づけ 用法を 対他的に 制限する。
 個別具体的な 過去から 個別具体的な 未来が 無媒介に 拡大されは しないだろう。実現確定した 過去とは ちがって、未来は 未実現であり、人間の 頭にしか 存在しないのだ。個別具体的な 過去の 事態を 一般化して、反復的な「くせ・このみ」や、習慣的な「ならい・しきたり」や、規則的な「さだめ・きまり」などを 論理・道理的に 構成し、(無意識的にでも) そこから 推測的に 未来は つくりだされる のだろう。叙法的に いえば、「物語り」的な 過去の 叙述から 「品定め」的な 一般(超時間)的な 特徴づけ(cf.「評定(衆/所)」)を へて、未来の 計画〜試行的な 準備行動が くみたてられる のではないか。

 《品定め性》という ことに 関連して、「用言準体法+なり > 形式名詞+だ」「べし > べきなり > べきだ べい」「もが まほし ばや etc. > たい」「ぬ > ない」などの はたらきに 着目した ほうが いいだろう。

(2019.03.27-8.記)



18) 品定めの 分化

 「品定め」というのは、佐久間鼎1941『日本語の特質』が いいだした もので、図解して 解説すれば、

            (佐久間鼎) cf. ヴァンドリエス:(役割)
いいたて(叙述)文 ─┬─ 物がたり文 ──── 「動詞文」:事件の なりゆき
          └─ 品さだめ文 ──── 「名詞文」:物事の 性質 状態(性状規定) / 判断(措定)
の ように、いわゆる 平叙文を 二分して 区別した ものの うちの ひとつである。普遍的な 観点からも 基底的な 文論的な 区別であるが、国語学界では ほとんど 関心が よせられていない ように みえる。
 あらっぽく わりきって いってしまえば、物語り文は、できごとの 時制・動作様相(tense aspect)や「自他の詞(春庭)」(voice diathese)などの 面を 分化させる ものであり、品定め文は、ものごとの 叙法(かたりくち mood modality)の 面を 主として 分化させる 文である。じっさいの 文は、両者の 面を かねそなえて、より 複雑な 文を 発達させるが、この 2つの 面は、いかなる 言語でも 名詞と 動詞の 2品詞が わけられる ように、文の 役割も 基本的に 2大別に わけられる のである。
(竹取の おきな …)野山に まじりて 竹を とりつつ、よろづの ことに つかひけり。      (物語り文)

やまと くにの まほろば …… やまと うるは / うまし くに …… やまとの くに   (品定め文)
の ような 例が 典型である。物語り文は、できごとの 参加項(翁 野山 竹etc.)の 関係づけ(格と態)と 時間の 限定が 問題に なるが、とくに 説明する ことは ないだろう。品定め文は、基本的に 題目と 述語 2者の 関係で、時間も 問題に しないので、構文位置(並置)が 基本である。特定の 場面では 「ぼく、ここー!」(人称 指示のみ)でも こえ(発声)が つたえあうのだ。分節する 助辞「は」だけで 「N1は N2■(零記号)」である ばあいは もちろん、「N1は N2そ」「Nし Aし」の ばあいも、「そ・し」は もともと 指示語であって、述語助辞としての 機能は 明示しても、時制や 叙法を 分化するには いたらない。「やまと くにの まほろばなり」という「にあり」の 半動詞文的な 名詞 品定め文に なると、「やまと くにの まほろばなりき/けり」とか 「やまと くにの まほろばならむ」とか、「まほろば」の部分を 他の 名詞に かえても、時制も 叙法も もつ ことができる ように なる のである。「そ → なり」という 有活用(叙述)語に なる ことは、構文的機能の「活用」の 革命と いっていい 変化なのである。

 それでは おわらない。テンス ムードは 「なり」の 後接(活用)部分で 表現されたが、「用言準体法」を「なり」の 前接(語幹)部分に おくと、「… 日記といふ ものを 女も してみむとて するなり」という《できごとの 説明》用法が 生じ、近代の「のだ」に 継続する だけでなく、種々の「形式名詞」(松下)を もちいて、「げだ やうだ さうだ はづだ / つもりだ 気だ …」などを おおく 文法形式化していき、《むすび》(述語補助辞)という 語類(word class)を 生産していく のである。

(2019.03.29.記)


どうも とおりすぎた か

よのなかに ねるより らくは なかりけり

工藤 浩 / くどう ひろし / KUDOO Hirosi / Hiroshi Kudow


はじめ | データ | しごと | ノート | ながれ