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■小引
 この論文は、『コトバの科学』第4号(1951年)に のった 奥田 靖雄「言語過程説について(1)」を受けて、その(2)に相当するものとして、書かれたものと思われる。筆者の「吉村 康子」については 未詳である。特定の一個人のものというより、「集団的討議」にもとづいて書かれたものと見るべきかと思われる。
 なお、この「投稿論文」の検討会の当日にも 時枝誠記が出席し、奥田靖雄らとの間で 意見の交換があったが、かみあった議論にはならず、すれちがいという印象だった、という情報を ある関係者から えている。

 翻刻にあたっては、ひらがなが つづいて よみにくいと おもわれた部分に、私の判断で 半角スペースを入れて、部分的ながら わかちがきを ほどこした。ガリ版の運筆が もちうる わかちがき効果は、ワープロ版には期待できないからである。少数ながら、漢字で書かれた副詞(句)の後にも、漢字がつづいて まぎらわしい場合、半角スペースを入れた場合がある(一層 科学的な、それ自身 発展の結果、など)。それに関連して、わかちがきの代用として用いられたと思われる読点のうち、文のくみたての理解のためには かえって ジャマに思われた読点を、いくつか削除し 半角スペースに かえた。また、あきらかな誤字を一つ訂正し(除々に→徐々に)、ガリ版特有の略字を(一種の筆記体とみなして)通行の字体に もどしたが、そのほかは、原文の表記を改変することは (すくなくとも意図的には) おこなっていない。


言 語 過 程 説 の 主 体 的 意 識

吉 村  康 子

§1.言語過程説の方法
 時枝誠記氏の言語過程説の方法は、実際に ある場面で伝達のなかだちとなるコトバオンに研究の出発点をおくことを拒否して、「主体的意識」に基礎をおく方法です。わたくしは、この「主体的意識」が、どんな論理にみちびかれて登場したかを、まず しらべてみようとおもいます。
 時枝氏は、「国語学原論」で、つぎのように論じています。≪音声は、ただそれだけ取出したのではこれを言語ということが出来ない。(10ぺ)≫ 時枝氏は、こうして音声を「ただそれだけ」とりだし、「それだけについて」みるのです。そのとき音声は≪物理的音波(175ぺ)≫にすぎません。そのため、これを言語とよぶことができません。それを理由に、時枝氏は、この音声をきりすててしまい、完全に黙殺します。同様にして、文字もきりすてられ、黙殺されます。(この文字・かきことばについて、いまは ふかく たちいらないことにします。) こういう、きりはなせないものの きりはなしによって のこりの部分、すなわち≪「語ること」「聞くこと」「書くこと」「読むこと」(11ぺ)≫という「主体的活動」こそ言語であるとされ、そこに「心的過程としての言語本質観」が成立します。そして≪観察者自らの主体的な活動において、これを再生することによって(15ぺ)≫ 心的過程は対象として把握され、≪かくの如き主体的な活動形式に於いて対象を把握し、又かくの如き形式を分析記述することから(17ぺ)≫ 時枝言語学がはじまります。
 (96ぺほかに、「音声」ということばは みえていますが、これは伝達のなかだちをするコトバオンのことではなく、主体的行為に還元された「音声発表行為」です。時枝氏は、音声を単に≪物理的≫なものとしか みず、そこに唯一の具体的な言語研究のてがかりがあることをわすれて、≪物理的≫でない要因をみのがし、≪物理的≫でない要因を≪心的過程≫に還元してしまうのです。)
 ところで、音声をきりすてた時枝氏は、言語を(音声をてがかりとせずに)心的過程のまま対象的把握せざるをえなくなり、ここに Dilthey の精神科学の方法が教条的に もちこまれます。
 その第1の手順は「追体験」です。時枝氏の所説に関するかぎり、「追体験」は、いわば、あるひとに のりうつった つもりになって、そのひとの体験を、こうでもあったろうかと想像することらしく(18〜19ぺ) この「追体験」による解釈は、技術的にいとなまれ、客観性・確実性の十分に信用できるほど高められた了解では決してなく、≪我々の恣意を離れたもの(19ぺ)≫ではありません。
 その第2の手順は、「追体験」によって自分の経験にとりいれた他人の経験を内省・分析・記述することです。このために≪観察的立場は主体的立場を前提とする。(29ぺ)≫という命題が用意されます。この命題は、≪観察的立場に於ける対象としての言語は、即ち主体的立場に於いて実践され行為された言語に他ならないのである。(28ぺ)≫ということばにもかかわらず、実は個人個人の具体的な言語活動を対象として観察するという、ひろい意味に理解すべきものではなく、≪言語における体系的認識の基礎は言語の主体的意識にもとづいている(「言語学と言語史学との関係」10ぺ)≫という意味に理解すべきものなのです。こうして、「心的過程」を「心的過程」のままにとらえる手段として登場した「主体的意識」は、いろんな言語現象の説明に万能の力を発揮し、音韻の決定、文法上の単位の認定、「詞」と「辞」の分類など、重要な諸操作は、すべてこの意識によっておこなわれます。そして、この意識を唯一のよりどころに、一貫した論理で言語過程説が きずきあげられます。こういう意識を説明の原理とする以上、≪わたくしの主体的意識においては こうである≫というのが、あらゆる現象についての十分な説明とされ、≪わたくしは こうおもう≫という感想が絶対化されて、しかも「主体的意識」がいかにして成立したかは、すこしも かんがえられないのです。

§2.主体的意識の性格
 ここで「主体的意識」の成立と、その性格とが問題になります。わたくしは、「主体的意識」を、ハナシテの言語に対する認識のひとつのすがただと かんがえます。一般的にいって、人間の言語に対する認識は、かならず具体的な伝達の過程でなかだちをするオンを出発点とします。この言語意識には、ながい歴史があり、おおくの段階があります。そして現実の言語に存在する内面的な連関を よりただしく反映する認識ほど より科学的です。人間の認識は、つねに客観の反映ですが、いつもただしくその内面的な連関を反映しているものとはかぎりません。したがって言語認識のひとつのすがたとしての「主体的意識」は、現実の言語のありのままの投影であるとはかぎりません。
 人間は、社会において、伝達の過程で、言語習慣を獲得し、言語活動ができるようになります。そとのことがらをそれと認識し、ものをかんがえ、ものをいい、また他人のいうことを理解する、こういう言語活動は、獲得された記憶的事実としての社会的な言語習慣が、意識にのぼり外化されたものです。この言語活動と同時に、それに対する認識がおこなわれ、それによって「主体的意識」がうまれます。この主体的言語認識は、言語習慣とはちがって、一種の知識として意識にのぼります。しかも、言語習慣が言語活動の変化に応じて 徐々に かわっていくものであるのに対して、主体的言語認識は相対的に固定したものであり、しばしば飛躍的に改造されるものです。ともに記憶的な事実でありながら、このふたつを混同することは ゆるされません。獲得された言語習慣は、個々の場合に応じた言語活動の実現としてハナシテの意識にのぼり外化されて機能するのですが、その体系的なすがたのままに、一時に全体をハナシテの意識に のぼらせることはできません。言語習慣ではなく、言語認識が意識化されるときにだけ、言語の体系的なすがたが あらわれます。そして、この言語認識にも素朴な無自覚的なものから、科学的に高められたものまでが ありうるのです。
 時枝氏のいう「主体的意識」は、こういう言語主体のもつ≪無自覚的な意識(日本文法口語篇55ぺ)≫です。時枝言語学は、この≪潜在意識的なものを追求し、これを法則化(日本文法口語篇55ぺ)≫し、≪現象的なものの追求(日本文法口語篇56ぺ)≫をしりぞけます。≪現象的なもの≫をきりすてて、現実の言語の≪無自覚的な≫認識を追求することによって、科学的に高められないままの常識的な言語認識を独断的に意識化します。しかし「主体的意識」に くみたてられている言語の体系は、現実の客観的な言語習慣とは別ものであり、低い段階における現実の言語の投影です。言語過程説は≪主体的な活動それ自体≫を研究すると宣言しながら、実は≪主体的な活動に対する意識≫を研究しています。ところが、時枝氏は、この「主体的意識」に たよりきっていても、「主体的意識」が そのようなものであることを しらず、「主体的意識」が現実の言語現象のただしい反映であるか、そうでないかの検討さえ まだ経ていないものであることに、気がついていません。そのうえ、その「主体的意識」を内省・分析・記述する際に、かなりのドグマが、はいってくるのです。

§3.主体的意識の変革
 「主体的言語意識」を記述することは、「言語」を記述することではありません。時枝言語学は、「言語意識の学」(学といえるかどうか問題ですが)でこそあれ、決して言語学ではありません。しかし、「主体的言語意識」を歴史科学の立場から意識化すること──言語認識の歴史が、言語学にとって重要なものであるという事情には、いささかの かわりも ありません。というのは、ひとびとの言語認識は単なる独断的陳述として排除されるものではない ということです。「主体的意識」も、ながい人間の認識のひとつのすがたであり、そこには、さまざまの要因に さまたげられながらも、現象のあいだの連関が反映されています。そのなかには、おおくの くみとるべきものが あります。だから、なぜ、そのような「主体的意識」が成立したかを かんがえ、それを ゆがめている要因を みつけだして、一層 科学的な認識へと それを発展させることが必要になります。現象を直視して、ハナシテの言語意識を科学者の言語認識へと変革することが大切です。「主体的言語意識」は言語学的認識の「前提」もしくは「基礎」であるべきものではなく、検討され変革されることによって言語学に到達する、言語認識のひとつの段階なのです。そして、その変革にたずさわるのは、オンを出発点とする「言語」そのものの観察でなければなりません。言語学の独自かつ真正の対象は、それ自身 発展の結果であり、発展の契機をふくむ、不断の発展のなかにある言語現象です。現在の「主体的意識」に たよりきって、「現象」を逃避し、同一の集団意識が知覚するままに(あるいは、もっと独断的に) 言語の体系を とりあつかう「言語学」は言語の認識の認識であって、ただしい言語の認識ではありません。常識的な言語意識を歴史的な実証によって批判しつつ、言語の発展のすがたを ただしくとらえた あたらしい科学的な言語認識をつくりだすことが、言語学者のつとめだとおもいます。

[民科 言語科学部会 編『コトバの科学』第7号(1952年4月) 所載]


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