■ローマ字教育の指針とその解説—1-1

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■このページは、「文部省内国語問題研究会(編). ローマ字教育の指針とその解説. 東京都, 三井教育文庫, 1947, 113p. (ja, B6よこがき)」を全文転記したものの一部です。■注意がきを無視しないでください。

—以下転記部分—

[p.1]

☆ローマ字教育の概説


[p.1-10]

I ローマ字教育の必要と方針

一 ローマ字は、現在世界の多くの国家でその国語を書き表わすために使われている。従って、ローマ字は、世界共通の文字であり、これが相互の理解を進め、国際社会をうち立てる上に役立っていることはいうまでもない。

わが国でも、これまで国民の一部では、国語をローマ字で書き表わし、国語および国情を世界各国民に理解させるのに役立たせて来たが、これからはさらに新しく国際社会の一員として更生するためには、国民一般がローマ字で自由に国語を読み書きする能力および習慣を持つことが必要である。ここにローマ字教育を行う理由の第一がある。

ローマ字教育を小学校において行うことは、まさしく画期的なことである。それは、明治このかた、日本が近代国家としての歩みを始めてからも、未だに実行されるに至らなかったことである。画期的なことであるだけに、何ゆえローマ字を行うのか、どういう方針で進めていくのが正しいのか、こういう根本をはっきりさせて、先生は心がまえを作っておかれる必要があるであろう。そして、その先生の心がまえが、勉強を始める児童の心の中にも、おのずと伝わることが望ましい。ローマ字教育を行う必要が児童にもおのずとのみこめるようにし、また正しい考え方・手順で児童が勉強できるようにしたいものである。

さて、こういう意味から、ローマ字教育を始めるにあたって、先ず大人も子供もはっきり考えておかなければならないことが、すくなくとも二つある。それは、

  1. ローマ字は、人類ぜんたいのものである、世界のすべての民族が持っている、あるいは持ち得る文字である ; これは、ヨーロッパ人やアメリカ人だけの文字であり、日本人の文字ではない、というふうに考えるべきではない ; —ということである。

  2. あらゆる国民は、それぞれの国語をおたがいにわかりあう必要があり、世界のすべての国民が他の国民にもわかるような書き方でじぶんの国語を書き表わすことは、人類ぜんたいの進歩のために、またじぶんたちの国の発展のために、非常に重要なことである ; —ということである。

ローマ字は、アメリカ人やヨーロッパ人の文字であると共に、私たち日本人のための文字でもあるのだ、太陽や空がすべての国民のためのものであるように ;—このことをはっきりしておかなければならない。そして、ローマ字で私たちの国語を書き表わすことの、世界的な、全人類的な、国際的な意義を、あわせてしっかりつかんでおかなければならない。全人類のために、私たち日本人のために、ローマ字教育は始めれようとするのであり、すべての意義ある事業がそうであるように、この二つの目標は、私たちの努力がしんけんであれば、必ず一致するのである。

ニ ローマ字は、本来言語をうつすのにすぐれた機能を持つばかりでなく、書写印刷等の実際において、能率の高い文字組織である。わが国民一般が、ローマ字で国語を書き表わし、ローマ字で多くの文献が印刷される社会習慣ができれば、社会生活の能率はいちじるしく高められ、一般国民の文化水準も高められるはずであって、このことが早く一般化することは、わが国の再建に望ましいことである。これが、国民一般にローマ字教育を行う理由の第二である。

いわゆるローマ字は、エジプトの絵文字から発達して、純粋の単音文字すなわち言葉の音声における最小の単位を表わす文字にまで発達した文字である。そして、わずか二十六字ですべての言葉を書き表わすことができるという点において、機能のすぐれた文字ということができる。言葉とそれを書き表わす文字との間の関係から見て、きわめて合理的であり、能率的であると共に、習得する上においてきわめて利益の多い、簡便な文字である。国語を書き表わすにも、もちろんこの合理的な・能率的な・簡便なローマ字を使うことは、かしこい処置であろう。

そして、ローマ字を使っているがために、タイプライターがだれにもらくに使え、ライノタイプやモノタイプを使うことによって、いわゆる文選・植字・組版というような印刷手続きが手がるに進められ、経済的に印刷が行われるアメリカやヨーロッパの事情を思えば、かような状態が、早く私たちの社会にも生まれてほしいと願わざるを得ない。近代国家において、印刷能率の高いということは、社会生活の上に、また文化の発達の上に、決定的な影響を持つからである。国民一般がローマ字で国語を読み書きする習慣ができれば、こういう状態が生まれて来るわけである。それには、どうしても、先ずローマ字で読み書きする方法を、国民一般がおぼえこむ必要がある。

三 ローマ字は、国民一般に国語の特質・構造に関する正確な知識およびこれを自由に使う能力を得させるのに役立つことが多い。漢字・かなにもそれぞれ有利な特質があるが、またローマ字には単音文字として独自の機能がある。ローマ字を使用することによって、わが国民の国語能力および国語教養は、いちじるしく高められる。これが、国民一般にローマ字教育を行う理由の第三である。

ローマ字教育を行う必要と理由は、他にも考えられるが、その重要な点は、およそ右の三つに要約されよう。そうして、なるべく速やかに国民一般がその利益を得るためには、国民学校の児童にこれを学ばせる必要がある。

元来言葉とは音と意味との二つの要素から成り立っており、さらにこれを文字にあらわした場合にはその形が考えられることはいうまでもない。国語はいままで主として漢字とかなとによって書きあらわされていたのであるが、国語の音をあらわすという点では、漢字よりもかなの方がすぐれているといえるであろう。さきに現代かなづかいが制定されて、現代語の音韻意識に適合したかなづかいが一般に行われるにいたって、かなはその機能をいちじるしく発展させた。かなが音節を表現単位とする表音文字であるに対して、ローマ字は単音を表現単位とする。したがって、ローマ字を用いて国語を表記することによって、国語の構造についての意識が、かなを用いた場合よりも、さらに正確にさらにちみつになることがかんがえられる。

たとえば、国語における動詞の活用という現象も、ローマ字で書きあらわしてみると、その変化する部分がどこであるかは一そう明らかになり、また、むかしから音便ということばで説明されていた一つの言語現象——「書きて」が「書いて」 (転記者の注釈: 原典では<き>と<い>のしたにちいさいシロマル) になるというたぐいの変化も、ローマ字書きにすることによって、子音の脱落という現象としてはっきりつかむことができる。(こうした動詞・形容詞などの活用、音便現象がローマ字で書くときにどう現れるかは、後に述べる「ローマ字文の書き方」によって理解されたい。) その他のこれに類した現象とたがいに関連をもつものとして認識されるであろう。また、ローマ字文では分ち書きを行うから、それによって文の中での一語一語のはたらきが明らかになり、また語相互の関係も明らかになるであろう。これらの点については、さらに、「指導法」「ローマ字文の書き方」の項で具体的にふれてあるからここでは深くはふれないが、このように表記法にみちびかれて、自身の身近の言葉に対して、いままでよりもつきつめた観察をする習慣が養われて行くと、それは言葉についてのことだけにとどまらず、日常生活におけるすべての事象について、ちみつな観察を行うという習慣を作りあげることにも役立つし、ひいては科学的な考え方をのばすことにも役立つことにもなろう。

四 ところで、国民学校でローマ字教育を行う上には、どういう方針をとるべきか。

国民学校の児童は、ローマによる(転記者の注釈: <ローマによる>は<ローマ字による>の誤植か?)国語の読み書きを習得することによって、国語の音韻についての自覚、国語の構造ならびに機能上の特質についての理解を深めることができ、また成人社会における表記形式を速やかに身につけ、文字組織のやさしから、多くの語を習得する便宜を受ける。

それ故に、ローマ字教育は、かな漢字まじり文による国語教育と併行して行われるが、その眼目は、国語教育の徹底・充実ということに求められるべきである。ここに国民学校におけるローマ字教育の基本方針がある。

ローマ字文を自由に読み・書きするようになる、そうすれば児童は、話す時・発音する時と非常に近い状態のままで文字の形になっている言葉を、いつも目で見ることになる ; 分ち書きによって、一つづきの文の中の言葉の切れ目をいつも、目にふれさせられることになる; また、ある種類の言葉はいつも独立してガッチリと文の中心となる意味を表しているが、ある種類の言葉はいつも他の言葉にくっついて助け役をしているというような、いろいろの言葉の働き方のちがいも、しぜんに感ぜられて来るようになる。

いったい、国語には、国語としての秩序を保ち、国語の生命を支えている法則が備わっているわけであり、本来国語に内在しているこの秩序・法則がいわゆる文法であるが、この内在的な秩序・法則を、正しくつかみ、正しく身につけることが、国語によって生活する私たち日本人にとって、ぜひ必要な条件であり、国語教育の重要な問題が、広い意味において・真の意味において、国語の秩序・法則を身につけることにあることは、疑いをいれないところである。そして、その秩序なり・法則なりをつかむものについては、ただ抽象的に、いわゆる文法教科書的な知識を持つようになるというのでは足りない。おのずとその法則が身についてしまい、いつもその正しい秩序に従ってしぜんに国語を使っていくという習慣が身につくようにならなければならない。それには、いつもそうした国語の法則が目にふれやすい状態で、眼にふれさせられていることが効果があるのである。こういうわけで、ローマ字で国語の文の読み・書きが授けれるということは、児童にとって、国語の教育がおのずと徹底させられることになり、また、ローマ字が言葉を表わす文字である以上、それを授けることの本質的な、第一義的な意味や意義は、この国語教育の徹底ということに求められるべきである。

のみならず、ローマ字文ならば、大人も子供も書きようが同じである。児童は、文字をたくさんおぼえる負担がのぞかれて、早く大人の書く文章も理解できるようになる。これは、ローマ字文を学ぶ偉大な利益であり、意義である。

五 右の根本方針に関連して留意すべきことは、かなおよび漢字による国語教育との関係である。かなを専用にするか、漢字を一部存するか・全部廃するか、ローマ字を専用にするか等の問題は、今にわかに定められるべきことではなく、学術上の研究、国民一般の習慣・感情、国民一般の使用した上での経験等の各種の問題を考え合わせた上で、他日国民一般の総意により、自発的に決定されるべきである。すなわち、ローマ字教育の方針・目的は、かな漢字まじり文による国語教育の存在を一方に認めながら、ローマ字による教育の独自の効果をあげることに専念し、国民の国語能力・国語知識を高めることにある。

ローマ字教育で国語教育を行うからといって、今ただちに漢字やかなによる国語教育を否定するというわけにはいかない。すべて、小学校における教育は、児童たちに、将来成人となって一人前の社会人としての活動ができるようにするその基礎を作るということに重要な責任を持つものであるから、国語の教育についても、一般の大人の社会における状態・習慣に無関係な教育をしているだけですましているというわけにはいかない。しかも、現在、漢字を交ぜてかなで書くのが最も普通な、従って最も有力な国語表記の習慣である以上、漢字交じり文を教えておかなければならないことは、いうまでもないことである。今私たちが、次代の国民に対して行うべき実際的な処置は、漢字交じり文にせよ・ローマ字文にせよ、とにかく国語——日本の言葉そのものについての自覚を深め、知識を正確にし、運用の技術をしっかりとさせていくという根本方針を目ざして進むということである。この目的・方針の下に、漢字交じり文の教育もローマ字教育も共に進められるということである。

ところで、それならば、漢字交り文か・ローマ字か、どちらか一つにしたらよいではないか、二つ行ったらなおさら負担が多いことにもなるではないか、—という疑いも起る。

これは、たしかに理由のある疑問である。そして、重大な疑問である。が、ここでは、簡単に要点だけをのべて、この疑問の解決に役立てることにしよう。

先ず、それには、漢字交り文をさずけること一本だけでは、何としても今日および明日の日本の児童にとって、また国語の将来にとって不十分だという理由をあげなければならない。現在普通に行われている状態の漢字交り文だけでは、国語の音韻上の特質や、文章法の構造や、それぞれの品詞の機能やについて、ちみつな・明確な意識を持つように育てあげることはむずかしいのである。それから、次にローマ字を授けることについて、具体的に考えてみると、わずかの字数と、それの組み合わせ方のいくらかの規則をのみこませた上では、ローマ字文の読み・書きを授けることは、それほどに大きい負担にはならないということこである。(転記者の注釈: <ことこ>は<こと>の誤植か?)

もちろん、国語の将来、私たちの社会生活の将来を考えるとき、文字の種類はなるべく少ない方が望ましい。たくさんの・いくいろの文字による読み・書きを勉強することから開放されることが望ましい。しかし、それには、漢字をやめてかなだけにするか、ローマ字だけにするか、あるいは漢字をぜんぜんやめるまでにはいかないにせよ、ごくごく少なくするか; —こうしたいわゆる国語問題の解決が行われて、始めて決定できることである。

そして、この国字改革の問題は、今ただちに完全に解決する準備は、まだ正直のところ、私たちにできていない。これは、国民全体が、考えられるあらゆる方針 (かな専用か、ローマ字か、漢字制限か) について十分公平な・科学的な結論に達する知識や意見をもつようになって、国民ぜんたいによって解決されるべきことである。そして、その基礎をあたえる上からも、今まであまり一般的でなかったローマ字文の使い方を国民一般に授けておく必要があるのである。

六 なお、ローマ字が英語その他の外国語に用いられているために、英語その他の外国語を授ける前提として、ローマ字による国語の読み書きを教えようという考え方もあるが、これはまったく誤りであって、ローマ字教育は、あくまでも国語教育のために行われるものとして考えなければならない。

英語やその他の外国語には、ローマ字によって書かれる言葉が多い。従って、ローマ字をおぼえれば、外国語が勉強しやすくなる。こういう考え方が、言語と文字との間を科学的に考えてみることのない人々によって持たれやすいことは、非常にばかばかしいことであるが、またきわめてしばしば言われやすい意見である。

日本語のローマ字による読み・書きを習いおぼえるということは、元来、英語の勉強にとって、ほとんど全く役に立たないことである。というよりは、これが役に立つと思いこむことによって、かえって英語の教育そのものに害になることさえあるのであろう。たとえば、TAKE という T と A と K と E との四つのローマ字のつながりを見て、これを読んだとする。これが日本語を書き表わしている場合なら、タケ (竹) という言葉を表わしているわけであり、竹という意味に理解することが正しい。しかし、TAKE で英語を書き表わしている場合ならば、これをタケと読んだり、ましてやこの言葉を「竹」の意味に考えたりしたら、とんでもないまちがいにおちいるわけであろう。つまり、ローマ字が読めたところで、英語の理解には役に立たないのである。

ローマ字による国語の読み・書きを授ける事は、あくまでも国語についての正確な知識や、すぐれた感覚や、それを正しく運用する能力を与えるという目的のための仕事である。このことについては、特にしっかりとした心構えを持っていなければならないのである。

—転記はここまで—

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