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日本語の文の時間表現(#訂正版)

工 藤  浩

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1 時間表現の分化
2 動詞述語のテンスとアスぺクト
3 時の副詞的成分
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1 時間表現の分化

1.1. 一語文と二語文
 時間表現ということで、我々がまず思いうかべるのは、たとえば、
  三年前に はじめて 会ったとき、かれは まだ 学生だった
  いまは 九州の会社に 勤めている。そのかれから、来年には 結婚すると 知らせてきた
のようなものだろう。人間は、目の前にないこと、過去のこと未来のこと、そして空間的にへだたって実際には見ていないことどもを、思いうかべたり描写したりすることができる。うそもつける。人間は、二語文をもっているからである。
  ワンワン!   キャッ、ごきぶり!
  マンマ!    オーイ、お茶!
のような一語文は、発話の現場にしばられていて、時間表現は分化しない。しいて言えば<即自的な現在>である。ただし、「ワンワン!」や「ごきぶり!」を現在と見、「マンマ!」や「お茶!」を未来と見なすこともできなくはない。しかしそれは、二語文をすでにもった人間が、そこで獲得した時間観念を一語文にもあてはめた場合、そうも言えるということであり、幼児の言語発達の観点からは、時の分化の萌芽をそこに見てとることもできるということである。萌芽をいうなら、「ワンワン!」に現在とともに確認を、「マンマ!」に未来とともに欲求を、見てとることもできる。つまり平叙文と命令文という叙法(のべかた)の分化の萌芽も見てとれる。その表現手段としてイントネーションの分化のきざし(自然降下か、緊張持続か)もあるとすれば、叙法の分化の方が、時の分化に先行すると言えるかもしれない。しかし、それとても、きざしはきざしであって、即自的な <表出>というべきなのだろう。

1.2. 命令文・意志(勧誘)文
  行け   だまっていろ    食べてしまえ
  行こう  だまっていよう   食べてしまおう
のような、命令文や意志(勧誘)文の場合、命令や意志などの叙法が成り立つためには、問題の行為が実現していないか、または少くとも完成・終結していないという前提がある。したがって時(テンス)は基本的に未来である。ときに「ソノママ走っていろ」のように現在を含むと見てもよい場合もあるが、過去はありえない。「おととい来やがれ!」が罵倒表現になるのはそのためだ。未来の内部を「すぐ来い/あした来い」のように細分化することはできる。また、シテイル・シテシマウのような動作のありよう・すがた(後述するアスペクト)は分化する。
 命令文・意志(勧誘)文は文構造の面でも特殊である。動作主体は、命令では二人称、意志では一人称、勧誘では一・二人称に限られ、ふつうは表現されない。表現されるのは、
  田中は行け。鈴木はここにいろ。
  (ほかならぬ)君が行け。
  (君が行かないのなら)ぼくが行こう。
のように、二人称内部の細分か、他との区別のための人称の明示(指定)が必要とされる場合だけである。人称制限はなくならない。
  雨よ、降れ。  春よ、来い。
が命令文だとすれば、雨や春は、話し手にとっては二人称つまり聞き手なのである。雨や春を二人称として考えられない人(近代人?)にとっては、この文は命令文ではなく願望文なのだろう。「雨が降ったら(いい)なあ」とほぼ等価になる。
 このように、命令文や意志文が、時間表現と文構造(人称構造)との分化に制限をもつのは、命令・意志という叙法が、一語文ほどではないにしても、発話の現場に強くしばられているせいである。あるいは、命令や意志の叙法で発話する現場は、生活の場、話し手が自らそこで活動している場からけっして切り離せないものだからだ、と言った方がよいかもしれない。

1.3. 物語り文と品定め文
 では、いわゆる平叙文はすべて時が分化しているかといえば、そうではない。
  クジラは 哺乳動物である。
  象は 鼻が 長い。
  水は 百度で ふっとうする。
のように、個々のできごとではなく、物事の一般的な説明をする文(品定め文)には、時の区別はない。いわゆる<超時>の表現である。この品定め文の構造は、
            ナニ・ドンナ ダ
  総称主語「は」───名詞・形容詞述語
の形が典型である。これに対して、
  さっき 台所で お湯が ふっとうしていた。
のような個別的で具体的なできごとを描きだす文(物語り文)において、時間表現は全面的に開花する。物語り文の典型は、動詞述語文である。
 先の「水は百度でふっとうする」という文は、形式的には動詞文であるが、「お湯が」ならぬ「水は」という〈総称主語は〉をもつ品定め文の構造の中に入ることによって、また一般的な説明という叙法に規定されて、一般化・超時化され、「〜するものだ」とほぼ等価な、いわば機能的に名詞文的なものになるのだと考えられる。
 逆に、形容詞・名詞述語の方も、
  暗い夜だった(デアッタ)。 寒かった(クアッタ)。
のように「ある」の助けをかりて、なかば状態動詞文的になり、−タの形で過去を表わしうる。しかし、形容詞や名詞述語は本来、できごとの変化の側面を無視・捨象した表現なので、−タのつかない場合のすべてについて、過去と対立する意味での "現在" を示すと言ってよいかは疑問である(この点は「ある」という存在を表わす動詞にも同様の場合がある)。

1.4. 時の認識は、おそらく物事の <変化> に気づいたときに始まるのだろう。時間表現が動詞文において典型的に分化し、形容詞・名詞述語文においては未分化的であるのは、そのせいだろう。こうして、以下、時間表現を概観していく場合も、動詞の物語り文を中心に見ていくことになる。はじめに述語部分を、つづいて副詞的部分を見ることにする。


2 動詞述語のテンスとアスぺクト

2.1. 時間表現に関係する述語形式
 動詞述語において時間表現に関係する形式としては、つぎのようなものがある。
 @スルとシタ(接辞「た」の有無)
   書く−書いた  ある−あった
 A補助動詞
   書く−書いている、書いてある、書いてしまう、書いておく
     (晴れてくる、ふえていく)など
 B複合動詞
   書きはじめる 書きかける 書きつづける 書きおわる など
 C組み立て形式
   消えつつある  着いたばかりだ  行こうとしている など

これらのうち、もっとも基本的な表現は、@のスル−シタの対立(ペア)で表わされるものと、Aのうちのスル−シテイルの対立で表わされるものである。というのは、大半の動詞が、これら二つの対立のそれぞれにおいて、そのどちらか一方を選ばなければ、文の中に存在できないからである。つまりこの二つの対立は、義務的な <文法的な対立> なのである。スル−シタの対立をテンス(時制)と呼び、スル−シテイルの対立をアスペクトと呼んでいる。その他の形式も、〈動詞の表わす動きの過程の、どの段階(局面)を表現するか〉という意味を表わし、スル−シテイルの対立の表わす意味に近い面があるので、広義のアスペクトに入れられる。BとCとは、必要に応じて詳しく表現し分けるためのものであり、義務的ではない。とくにBは、語彙的な形式で、それ自身「書きはじめる−書きはじめている」のようにスル−シテイルの対立をもつ。これを局面動詞あるいは動作様態と呼んで区別することもある。Aの残りのうち、シテシマウも「書いてしまっている」の形もあり、動作様態(感情性を合わせ持つ)に近い。シテアルとシテオクは、シテイルと共存せず、それだけ文法化の度合が高いと言えるかもしれないが、意味的に、それぞれ受身性や準備性といった、純粋に時間的アスペクト的と言えない面をももつ。それと関連して、つく動詞(事象)に制限もある(例:*雨が降ってある。*電気が消えておく)。

2.2. テンス
 シタの形は、「昔々〜あった」「とっくに書いた」「いま着いたところだ」のように、遠い過去から直前の過去まで含めて(そのちがいは副詞にまかせて)、すべて過去つまり <発話時以前> を表わす。英語に訳すと現在完了形になるものがあることが、ただちに日本語のシタに完了の意味を認めるべき理由にはならない。英語の"past"と日本語の「過去」とには異なりがある、というだけのことだと、ひとまずは言っていい。
 これに対して、−タのつかないスル形の方は動詞の種類によって二つにわかれる。ひとつは、運動(動作や状態変化)をあらわす動詞の場合で、「すぐ書きます」「ちかぢか刊行される」のように未来(発話時以後)を基本的には表わす。運動動詞のスル形は、個別具体的なすがたの現在を表わせない(「*目下 書ク」とは言えない。「イマ 書ク」は直後未来だ)。そのため、あとでのべるシテイルの形で表わす(目下/イマ 書イテイル)。
 もうひとつは、状態を表わす動詞(数は多くない)の場合で、「子どもたちは、いま庭にいる」「タバコならここにある」のように<現在>を表わすのを基本とするが、「あしたもここにいます」のように(副詞類を伴えば)未来も表わしうる。なお「AとBとはことなる」「この薬はよくきくよ」など<関係や性能>を表わすものは、<品定め文>的性格をもっており、ここの例とはしない方がいい。
 「最近はときどき会う」のような文は、「昔はよく会った(ものだ)」のような文と一応対立して、テンスの対立をもつが、この場合、運動動詞「会う」が未来でなく、「最近」という<広げられた現在>の反復的動作を表わしている。これは一つの派生的な意味であるが、「最近は 彼女 おとなしいねえ」のような一時的状態の形容詞文に似て、「ときどき会う」全体が一種の<状態>として捉えられていると言ってもよいだろうか。

2.3. アスペクト
 状態動詞の「ある、いる」は、*アッテイル、*イテイルのようなシテイル形をもたない。逆に「そびえている・すぐれている」などは、*ソビエル、*スグレルのようなスル形を通常は使わない。また「異なる−異なっている」のように形式的にはどちらもあるが、内容的にはほとんど違わない<見せかけの対立>をもつものもあるが、別扱いすべきである。残りの大半の動詞は、動き・動作か変化かを表わし、スル−シテイルの対立をもつ。
 シテイルの形は、動き・動作を表わす動詞の場合は、
   こわしている・倒している・(雨が)降っている
のように、動き・動作の継続(持続)を表わし、変化を表わす動詞の場合は、
   こわれている・倒れている・(水たまりが)出来ている
のように、変化の結果の継続(存続)を表わす。どちらも継続を表わす点では一つであり「継続相」と呼ぶ。<運動(動きと変化)全体の中から継続の部分に注目して表現する>のである。
 これに対して、スルの形は、先にも触れたように「あとで読む・あした来る」のように未来を表わし、個別・具体的なできごとの現在は表わせないために、「いま読んでいる」のように継続相の形が現在を表わす(ただし「最近よく来る」のような習慣的反復動作の場合は、広げられた現在を表わせた)。こうした違いは何によるかというと、スルの形が、シテイルの継続性とは異なったアスペクト的性格をもつためだと考えられる。その性格とは、結論を先に言ってしまうと、<運動の過程を部分に分けずに、全体としてのまとまりに注目して表現する>ことであり、「完成(完了)相」と呼ばれている。
 つまり、こういうことである。「書いている」という、動作の進行継続中の部分は、発話時において確認できる。かりに実際には書きあげられなかったとしても、それは部分に注目して表現する継続相にはかかわりのないことである。また「最近よく来る」という反復的な動作が存在することも、発話時において確認できる。しかし「書く」という動作が全体として完成(終結)するかどうかは、発話時には確認できない。できることは、未来において完成する(だろう)ことを、予定または予想として、あるいは自分が書き手なら、意志として確認・確言することまでなのである。スル形は、完成までを含んだひとまとまりに注目するアスペクト的性格をもつからこそ、現在を表わしえないのだと考えられるのである。

2.4. パラダイム
 以上の二つの対立を組み合せて図式化すれば、つぎのようになる。
 ┌───┬───────┬──────┐
 │   │ 現在 未来 │   過去  │
 ├───┼───────┼──────┤
 │完成相│  す  る  │ し  た │
 ├───┼───────┼──────┤
 │継続相│  している  │ していた │
 └───┴───────┴──────┘
言語現象の深みに分け入っていけば、じっさいは、これほど筒単ではないのだが、物語り文のごく基本的な用法は、右の図式で説明できる。この図式で大事なのは、このうちのどれでも一つ、たとえば「する」は、文の中ではテンス的に未来、アスペクト的に完成という、二つの性格を兼ねそなえているということであり、さらには、<物語りの叙法>の中でこそ、これら四つの形がきれいに組織づけられているということである。

2.5. テンス・アスペクトの変容
 テンス・アスペクト形式が物語り文の中でこそ、分化し組織づけられているのだとすれば、これらが他の叙法の中で用いられるとき、なんらかの変容をこうむることが起りうる。または、他の叙法の中ではテンス・アスペクトとして分化しないまま、古い意味が化石的に残っている場合もあるだろう。おそらく、
  さあ、どいた、どいた!  さあさあ、行ったり、行ったり!
のようなものは、近世以前、まだ「た(り)」が過去にはなっていなかった時代に発生した特殊用法が、命令的・一語文的形態のまま化石化したものだろう。また、
  かりに、あした雨が降ったとしよう。
のような仮定文において、−タが「完了」あるいは「実現」の意味になることは、
  もしあした雨が降った場合/降ったら………
のような類例とともに、仮定という叙法における意味の変容、あるいは古い意味の残存として体系的に処理できるだろう。また、
  彼女は五年ほど前その土地を一度たずねている。
   (だから、犯人と知り合っている可能性がある)
  この日記によると、彼女は去年の三月、あの男と街で出会っている。
   (だから、犯人を知らないはずはない)
などの用法は、シテイルの<経験>とか<記録>とか呼ばれる派生用法で、過去の時点も明示され、シタと言いかえても事実的にはかわりない。しかし、この表現は文章の中で、推理や意見を論証したり説明したりする場面に多く見られるようである。ということは、この表現は、過去の物語り文(シタ)とはやはりちがって、彼女の<現在までの履歴>についての論証なり説明つまり<品定め>なのだと言えるのではないか。とすれば、これも、ムードがらみのテンス・アスペクトの変容の一例ということになる。


3 時の副詞的成分
 時問の語彙的表現のうち、述語のテンスやアスペクトに関与的であるものを中心に見ていく。説明の便宜上、時の名詞、時の形式名詞、時の副詞に分け、この順に見ていくことにする。

3.1. 時の名詞
 これは、できごとの成立する時点・時期を示すのが本領である。
 a 発話時を基準とするもの
    おととい−きのう−きょう−あした−あさって
    先々週 −先 週−今 週−来 週−再来週
    おととし−去 年−ことし−来 年−再来年
 b 他のできごとや場面時を基準とするもの
    前々日 −前 日−当 日−翌 日−翌々日
        (その前−その時−その後)
 c 客観時(非相対時)
    朝 昼 夕方 夜 / 日曜目 月曜日 / 一九八五年
aに属すものは、「に」をつけずにいわゆる副詞用法に立ち、「には」をつけて期限(主文の動きがそれ以前に成立するような相対時)を表わすものが多い。
 ところで、たとえば「きのう」は「きのう読んだ」では時点と言っていいが、「きのう読んでいた」では、時間幅をもつ期間として捉えられている。他のものもその両面をもつだろう。「時期」と総称した方がよいかもしれない。<期間>の意を明示するには「ひと月・一日中・三日間」のような時間数詞と接辞とによるか、「〜から〜まで」のように起点と終点(またはその片方)を明示して表わす。また<頻度>は「毎日・一日おきに・日曜ごとに」など接辞によって副詞化されたものが表わす。このように「時の名詞」と呼ばれるものは、文の中で副詞性をもちながらも、主語(や補語)となりうるまでに対象化・モノ化されたものであり、それゆえに時期(時点・期間)しか基本的には表わさない。

3.2. 時の形式名詞
 これは時の従属節を形づくるもので、つぎのようなものが代表的である。
  時期───(ル/タ) とき ころ 折り / (タ)あと / (ル)まえ
  期間───(ル/タ) あいだ / (ル)うち まで(に)
  頻度───(ル) たびに ごとに 
このほか、接続助詞とされる「(スル)と」「(シ)ながら」や複合辞「(スル)や否や・が早いか」なども、時間関係を表わす。紙幅の関係でこれ以上立ち入れない。

3.3. 時の副詞
 a 発話時を基準とした時期・時点
  @ いま / 目下 現在 このところ
       / 最近 近ごろ このごろ
  A いましがた さっき こないだ / かつて かねて
  B いまに ちかぢか いずれ のちのち
@が現在、Aが過去、Bが未来、と一応言えるものだが、「いま」が直前過去、直後未来の用法をもつことは前述した。その補完のためだろうか、「目下・現在(このところ)」は現在の意がはっきりしていて、シテイルとのみ共起する。「最近・近ごろ(このごろ)」はシタとも反復的なシテイルとも共起し、過去を含んだ(広げられた)現在を表わす。なお、「いつか」は不定時を表わし「──前に会ったね」「──暗くなっていた」「──また会おう」など、過去にも未来にも用いられる。
 b 概括的時間量
  しばらく しばし ながらく いつまでも
 c 頻度
  たえず しじゅう 年じゅう しょっちゅう / しばしば しきりに
  たびたび よく / ときどき ときおり / ときに たまに
bの概括的時間量の副詞は、「一時間・十分ほど」などの時間量数詞に対応するもので、相対的にはかった、不明確な時間量を表わす。所属語彙が少ないのは、いわゆる程度副詞「ちょっと・少し・少々・大分・かなり・随分」などが、時間量をも表わしうるからだろう。さらに「一生・生涯・終生」のようなもの(副詞的に用いられる名詞)もある。
 cの頻度は、語彙が豊富である。これは、独自の専用形態をもたない述語の反復のアスペクトに呼応するというよりむしろ規定するもので、頻度つまり<反復の量>を限定することは、副詞らしい働きなのだろう。先に、時の名詞の中に入れておいた「毎日・五分おきに」なども、名詞らしさは低く、副詞的である。なお、頻度の副詞は「一回・二度」のような度数数詞(これまた副詞性が高い)に対応するものだが、それに関連して「一度目・二回目」に対応する、
 c'経験回数───はじめて(初めて←始めて) ふたたび(再び←二度)
をここにあげておく。
 d 恒常───つねに いつも
は、c頻度の極大として恒常(的反復)を表わし、cとちがって「──元気だ・──おとなしい」のような形容詞ともかなり自由に共起できる。さらに「いつも」は、「叱られるのは──兄の方だ」のような、ひっくりかえし文の、という条件づきではあるが、名詞述語文にも用いうる。その点「必ず・きまって・たいがい・たいてい」など、生起確率を表わすものにも似ている。

 以上は、大きくは時の名詞に対応するものである。以下は副詞に独自のものである。

 e も う──すでに (──とっくに)
    |    |
   ま だ──いまだに

これらは、それぞれペアをなしており、使用頻度もかなり高い基本語である。「もう」と「すでに」、「まだ」と「いまだに」の間の差は,どちらも主に文体的なちがいだと思われるが、そこから多少の用法上の差も生じている。だが、いまはそこまでは触れられない。「もう」と「まだ」で代表させておく。
 さて、モウとマダは、ともに多義的であり、なかなか性格がとらえにくいのだが、時の副詞としては、つぎのような述語形式と共起して用いられるのが基本的なようである。動詞ばかりでなく、形容詞・名詞の述語とも共起する。
  もう───食べた    食べている(結果存続) 暗かった 中学生だ
  まだ───食べていない 食べている(動作持続) 明るい  小学生だ
このような話し手が自ら確認して叙べる物語り文での用法が基本的なものだと仮定して、これらからモウやマダの性格を考えるなら、モウは〈文の表わす事態が変化後の状態としてあると捉える〉ものであり、マダは〈文の表わす状態が変化前の状態としてあると捉える〉ものである、ということになる。「お昼はもう食べた」が、過去というより <完了> とか <既然> とかいう方がふさわしく感じられるのは、モウが <変化後の状態> という特徴を与えるからだろう。
  ぼくが来たときには、もう死んでいた。
のモウが「それ以前に」と言いかえられるのは、変化後の状態にあるということが、裏返せば、変化が基準時(「来た時」)以前にあったということだからだろう(ちなみに、この複文における「それ以前に」の意味を基本義と考えた方が、時の副詞らしい規定なのだが、そうすると、マダとの対立性はくずれてしまう)。
 モウとマダは、「もう食べちゃったの?!」「まだ食べてるの?!」のような感嘆・なじりのムードで発話されるとき、〈早すぎる〉とか〈遅すぎる〉とかの評価的ニュアンスがつく。これは話し手の予想とのくいちがいであるから、〈意外性〉の特徴だろう。また「もう行け」「まだ行くな」のような命令(禁止)文では、"行くべきとき"という、計画ないし当為の時が話し手の頭にあるわけだ。こうした感嘆や命令のムードでの用法の方が基本的だとすれば、「話し手の心理的基準時より前(後)」という意味特徴を基本的なものとして考えることになるだろう。先に見たような、いわばクールな物語り的ムードの方を基本的と見るのと、どちらがよいか、おもしろい問題である。<まだ>のべたいことはあるが、<もう>紙幅がない。話を先に進めよう。

 f 基準時から動作や変化の起こるまでの時間量
  すぐ じきに ただちに / やがて まもなく / 同時に
これは「帰ると すぐに 寝た」「その後 まもなく やって来た」のように用いられれば、先行の出来事と後続の出来事との間の時間の長さを表わす。とくに前後の脈絡なしに「電車は まもなく 参ります」といえば、発話時からの時間量を表わし、未来の代用となる。
 f' とつぜん 急に ふいに いきなり
 f" やっと ようやく とうとう ついに
f'は、"前触れなしに" とか "意外に"、f"は、"苦労したあげく"といったような意味特徴をもち、純粋の時の副詞とは言いにくいが、変化や行為の成立・実現までの時間量の極小(f')と大(f")を表わすとも見うるので、ここにあげておく。「した」の形の述語と共起することが非常に多く、命令文には用いられない。ただ、f'は禁止文には用いられる。
 g 動作・変化の進行───しだいに 徐々に だんだん
   類似の事態の累加───ぞくぞく つぎつぎ
   不変化状態の持続───ずうっと 依然として 相変わらず
これらは、同一の出来事内部の、あるいは類似の出来事間の変化の進み方や、不変化という状態の(平常ではなく見えるほどの)持続を表わす。「しだいに〜シテイク」「ぞくぞく出テクル」「ずうっと〜シテイル」のように、述語のアスペクト形式と呼応して用いられることが多い。

3.4. 以上で、ひととおり概観はおわるのだが、ひとつ、まだ気になることがある。時間表現といえば、「速度」もその一つではないか? じっさい「すぐに」とか「急に」などは、変化の速度でもあるだろう。では、動作の速度を表わす「ゆっくり・急いで」も時の副詞に入れるべきだろうか。どうもそうはしにくい。これらは一般に、動作の様態を表わす状態副詞としか見られていないし、またそれでかまわないと思われる。どうやら、言語的には、<等速度>のものは時間的と見なされないようである。
 やはり、時の認識は〈変化〉の認知に始まる、ということであろうか。

    *           *            *

 時間表現のなかには、「春が来た」「行く年来る年」「長い間」など空間表現から転じたものが多いこと、また「昼−夜」「朝−晩(夕)」のような時間の分割のしかたにどんな特徴があるかなど、語彙論的にもおもしろい問題はあるが、もう紙幅がない。古代語や方言の時間表現についても、いっさいふれられなかった。話をこのようにせまく限ってもなお、ここに述べえたことは、問題の表面をかいなでしたものにすぎない。興味をもたれた読者は、ぜひ参考文献にあげた著作に直接あたっていただきたい。それへの案内となりえれば、この拙文の目的は達せられるのである。

<参考文献>
奥田靖雄1985『ことばの研究・序説』(むぎ書房)
金田一春彦編1976『日本語動詞のアスペクト』(むぎ書房)
佐久間鼎1941『日本語の特質』(育英書院)
鈴木重幸1972『日本語文法・形態論』(むぎ書房)
────1979「現代日本語の動詞のテンス」(『言語の研究』むぎ書房)
────1983「形態論的なカテゴリーとしてのアスペクトについて」(『金田一春彦博士古稀記念論文集1』)
高橋太郎1985『現代日本語動詞のアスペクトとテンス』(国語研報告82 秀英出版)
寺村秀夫1984『日本語のシンタクスと意味K』(くろしお出版)
川端善明1964「時の副詞(上・下)」(京都大『国語国文』33-11・12)

       (くどう ひろし 国立国語研究所 主任研究官 日本文法学)


#訂正版について:執筆当時、紙幅の関係と締切りに追われたためとで、舌足らずであった部分や 節番号などの不体裁などに、最低限の補いと訂正を加えたもの。大学院学生だった 金 真喜 氏に OCRで読み込んでもらった際に 加筆訂正した。1997年ごろのことだったかと思うのだが、なぜか ファイルの最終更新日は、1999/09/05になっている。なにか小さな訂正でもしたのだろうか、記憶にない。いずれにせよ、論旨に関わる 大きな変更は 加えていないはずである。
 その際、同時に改訂増補版も作ったが、これはまた、別の機会に さらに大改訂を加えて と思っている。日ごろの不勉強を棚上げにして言わせてもらえば、テンス・アスペクト研究の現状は、量的には 日進月歩のように見えて、堂々巡りというか 突破口の見えない閉塞状況というか、新たな展望や指針をきりひらくための総括が なかなか しにくい状況にあるように、私には見える。テクスト言語学や認知言語学に、助けなら ともかく 救いを求めて、どうにか なるような ものでもあるまい。話が逆ではないのか、という気がする。私の やぶにらみ にすぎないのだろうか。

 奥田靖雄の 死去(2002)に ともない、テンス・アスペクト研究の 実質的な 発展も とまってしまった ように みえるので、上述の 改訂増補版の 素稿メモを 公開し、とりあえず 検討 批判を あおぐ ことにする。(自分の 大学定年退職と 奥田没後10年を 機に)


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