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導入 : ことばから 言語へ ことばの 要素 ―― 語 と 文 ―― 言語の おと sounds
言語の 形式 ―― 文法の みちすじ(手順) ―― 言語の 形式 ―― 文法的な 概念 ―― 言語構造の タイプ
■「まえがき」
0)E. サピアの『言語』(1921)には すでに 市販の 3種の 日本語訳木坂 千秋 訳(新村 出 序/監訳) 1943 刀江書院が ある にもかかわらず、あらためて よんでいこうと いうのは この 3種の 訳本に かならずしも 満足できない からである。告白すれば、わたしは ろくに 原文も よまずに、学生時代 流布していた「泉井訳」を よんできた のであるが、教師に なって 教案を つくりだしてから、訳本に あきたらず サピアの 原文と とっくむ ように なり、自分なりに サピアが よめる ように なった のである。以下 先学に やや 批判がましく のべる ことも おおく なりそうだが、基礎づくりは 訳本から うけた 恩恵は、はじめに 告白して おかなければならない。とりわけ、フンボルト、サピア、泉井久之助からの 影響は、わかいころの わたしにとって ひろく ふかい ものが あったので、その 批判は、ただの 他者批判としては おわらず、自己にも きりかかり きずつける ものだから、ことばが むきに きつく なった かもしれない。
泉井 久之助 訳(補訳) 1959 紀伊國屋書店
安藤 貞雄 訳(新奇訳) 1998 岩波文庫
なお、最後の 安藤訳の「解説」には、「後者(泉井訳)は、厳密には、前者(木坂訳)の補訳と言うべきものである。」と ある。戦後の 泉井訳は、現代風に いえば、<新村監訳 木坂訳 泉井補訳> と いうべき ものであるが、それを しっていながら(泉井訳まえがき) 泉井単独訳とした (翻訳本 出版上の) 理由は よく わからない。「補訳」が かならずしも 補正には なっていない。サピアの「古典(的な)精神 classical spirit」に 共感するには、泉井は 「近代的な精神」の 分別ある 知識人でありすぎた のではないか。
1) 基本用語 "Drift" を 「駆流」や「偏流」などと 訳す ことの 誤謬という 3つの テーマであり、いままでも おもいつく ままに あちこちに かきちらしてきた ことでは あるが、E. サピアの 基本的な「精神」と《方法》とに かかわってくる 問題として、ここに まとめておきたい。
2)「まえがき」の "unconscious and unrationalized nature" の 意味
3) "liberal thought" と "Croce" に めずらしく 言及した 意味 理由
the unconscious and unrationalized nature of linguistic structureという、言語構造の 性質に かかっている と むすんでいる。この 部分を 訳書では
木坂訳:言語構造の 無意識的な 非合理的な 性質と 大同小異に 訳しているが、サピアの いいたい ことは これでは つたわらない と おもう。"unrationalized" を 泉井訳は、「前合理的」と、第1章後半に 二度ほど つかっている "pre-rational" (前合理的/前理性的)の 類義語と みなして 訳していて、一歩 前進しているが、この「前‐」という とらえかたは「合理/理性に 達していない」という 前提/ふくみ を もつ。その 前提/ふくみ は、第1章の いわば 起源論においては いいとしても、「まえがき」の ことばの 価値論 構造論の 文脈においては まずいと おもう。この "unrationalized" という 語は、文法的には まだ 形容詞に なっていない、動詞の 受動(完了)分詞の 段階なのである。つまり「理屈によって 合理化されていない」といった 意味なのだと おもう。そのまえの "unconscious" も「無意識的な」の ままでもいいが、「意識化/自覚されていない」といった ように 動詞的に 理解した ほうがいい ように おもう。つまり、ここで サピアは、結果としての 状態や 無時間的な 性質を 静的に 問題に している のではなく、プロセス(みちすじ)としての 心理作用を 動的に 問題に している のである。
泉井訳:言語構造の 無意識的な、前合理的な、性質
安藤訳:言語構造の 無意識的 かつ 非合理的な 性質
この「非合理」を、「不合理ゆえに われ 信ず」といった ふるい 信仰思想や、ディルタイや ベルクソン などの「非合理主義」の ながれの なかで 理解する という ことも ありうる ことで、わかき 亀井孝が かつて「生の 哲学」の たちばから ことばの「非合理」を 明言していた ように、新村+木坂訳も そうした 意味あいでの「非合理」を いうのかもしれず、泉井訳の「前合理」も 泉井流の レヴィ ブリュル+ベルクソン解釈に よる ものかもしれないが、安藤訳は どう 理解すべきか。新村+木坂訳の「非合理」と 安藤訳の「非合理」とは、その「内的な 形式」において 一致しない かもしれない。「内的な (言語)形式」は、W. von フンボルト以来、<文の 構造> や <文章の 構成>、つまり <総合的な 創造> の <くみたて> に あらわれるのである。それは、本書の 翻訳全体に にじみでてきて、全体の 印象の 差と なって あらわれる ものなのである。この「ながれ(drift)」と 「構造(くみたて)」と 「心理/合理(こころ)」とを めぐる 問題は、サピアの「心理主義」を 問題に する さいには、かなり 重要な 論点に なり、些末な 問題とは いえないと おもう。
いづれにしても、この 語を、動詞的に、ダイナミック dynamic に (デュナミス dynamis として) 理解すべきだ という こと自体は うごかない と おもう。「非合理主義」思想も、そのように かんがえた 結果の システムに すぎないのである。
木坂訳の「著者小伝」には、関連する 記述も ないでも ないが(302ペ 第2段落)、戦時中の 訳書 刊行(1943)であり、同盟国 ドイツ イタリアへの、というか 出版検閲への「配慮」でも あろうか、すくなくとも 明言は されていない。「みのりの ない 技術的な だけの 態度」という 表現も、「自由思想・クローチェ・制作」などとの 関連の、一般論と 解して いいのだろうか。ブルームフィールド流の 記述言語学に ひきよせて サピアを 理解しようとする 「近現代」の 傾向にも、以下 すこしづつ ふれていくが、この「まえがき」の 段階でも、言語学の 当時の 現状との 関係で、"psychological"(心理的) と "technical"(技術的) との 対比は こころに とめておくべきだと おもう。また クローチェに かかわって でてくる "art"(制作 > 芸術)に ついての "insight"(みぬき/洞察)と、「言語研究」の "technical attitude"(技術的な かまえ/姿勢) との 対照も、よみすごす ことはできない と おもう。"art" を つくる ことにこそ "techne" として 技術は うまれた のであるが、近代には 主情的に 分裂する。「古典的な 精神 classical spirit」に 反する 空想的な 「ロマン主義 romanticism」が 現代の アメリカには はびこっている、と 「文法家と その言語」(1924)の 末尾で 批判している。
平和な 時代の 泉井訳 安藤訳の 解説は、純学問的である ことを おのおのに ほこっており、社会や 人生に かかわらない。さらに 安藤訳では、「よみやすさ」から 段落を きって 関連を みおとし、論理展開も みそこなっている。訳注1, 2 も 参照。訳注は 文脈における 意味あいや 意義づけの 解説が だいじなのであって、百科事典の 抄録で 代用する わけには いかないのだ。
■導入 : ことばから 言語へ
0)本論 第1章に はいる。この ノートは、サピアから まなぶべき 主要な テーマ 論点を まとめる ために かくのであって、訳書の 誤訳を 指摘する ことが 目的なのではない。重要な 論点に かかわる 誤訳は 問題に するが、ささいな 誤訳や 不注意な 表現の たぐいは、訳者の 名誉の ためにも わたしの 品位の ためにも とりあげない ことにする。間投詞(ウーッ!)と 形容詞語幹の 一語文(イタッ!)との 混同 といった 不注意(安藤訳 p.17)は、よみはじめて あまりに はやく でてきたので びっくりして マークしてしまったが、こんごは ご愛嬌と みて とりあげない、というか 気は つかわない ことにする。そんな 作業は、いくら なんでも 時間が もったいない。したがって、この ことばの研究序説【=副題:たぶん 企画段階の タイトル】では、ことばの うらに ひそむ 生理学 および 生理学的心理学の 側面は とりあつかわない ことは、はっきりと 理解してください。われわれの 言語の 研究は、具体的な メカニズムの 発生や 作用の 研究ではなく、むしろ シンボル化の 機能(function やくわり〜つとめ)と 形式(form かたち[づけ])との 探求なのである。その シンボル化の システムは その ふたつの 面が 任意(不定)(arbitrary 数学用語)に むすびつくのだが、その システムの ことを、われわれは 言語と なづけている のである。(原書 p.11、安藤訳 p.26、改訳。なお 強調は 引用者。)の 2か所である。つまり、日常語を つかった 総体としての「ことば(speech < speak)」の 現象が もつ さまざま 性質の なかから、言語学が あつかう 本質的で 重要な 性質を もった、やや かたい ラテン語由来の 用語に よる「言語(language)」の 範囲に 対象を 限定し、明確化(define)していく ことこそが、第1章の 眼目なのである。精密な「定義」を くだす ことなんかでは けっして ないのだ。訳書は 3冊とも、いかにも 専門職学者らしい 成果(結果)どりの 翻訳「序論 ―― 言語の 定義」に なっているが、サピアには 明確化の プロセスこそが だいじだったのだと おもう。第1章の タイトル "Introductory: Language Defined" は、「導入:言語の 明確化」ぐらいに 訳すべきでは なかったか。 "Defined" という 分詞と "Difinition" という 抽象名詞との 差は、どう みえたのか。実体化信仰 という「物神崇拝(fetishism)」は、相当に ねぶかいと みえる。これでは "virus definition file" と みれば、「ウイルス 定義 ファイル」と 機械翻訳した ままで よく、「ウイルス 明確化(判定) ファイル」などと くふうしようとも おもわない、パソコンの セキュリティ関係者の 鈍重な 言語感覚も わらえない。
… 言語の 本質的な 事実は、むしろ 諸概念を(よこに タイプに)分類し、(たてに)形式の パタン化を して、概念間の 関係を つける【= 構造として 説明する】ことに ある。もういちど いう、ひとつの 構造として ある 言語は、内的な 面【=「内的な 形式」】においては、思考の 型(mold)である。この (構造として) 抽象された 言語のほうが、われわれの 探求においては、むしろ ことばの 身体(生理学)的な 事実よりも 関心を ひくのである。(原書 p.22、安藤訳 p.42、改訳。)
うえに「いえ(house)」と した 部分は、翻訳本に みちびかれて うたがわなかったのであるが、原書を 注意ぶかく よみなおしてみると、 "house" (やど/やどる) と すべきだった かもしれない ような 気もしてきた。ここは 「概念」の 成立が 問題に なっている ところで、われわれは 「概念」と いえば 名詞を 第一に おもいうかべる 習慣に ならされては いるが、サピアを よむ さいには そうした 先入見は すてなければ いけないだろうし、まして、第4章の「子音変化」の 例に この "house" も あげられている(原書 p.74、安藤訳 p.129)のだから、名詞的な 概念「いえ」にも 動詞的な 概念「すむ」にも 具現しうる (語幹要素としての) 概念、つまり 全同ではないが 「やど−やどる」や「すむ−すまい」などを おもいうかべながら よんだ ほうが よかった のかもしれない。「概念」は 「思考の 便利な カプセル」だとか、「ことばの ながれ(flow)は … 相互に 関係づけた 概念の セットの 記録である」とか、概念から 思考への つながりが つけられているのも、概念は 名詞的なもの だけではないと 暗示する のかもしれない。また あとでも くわしく ふれる つもりだが、現実との 対応=意味を 重視する、フンボルト以来の「古典精神」は、おそらく 新村(木坂)にまでしか 継承されていない のである。言語学の 対象から "referent" (現実の 対象物)を おいだした、『一般言語学講義』に 定式化された「ソシュール」の 構造主義は、まぎれもなく 近代主義である。具の ない みそしるである。それを (自明の) 前提に した 目には、サピアの 論理展開の みちすじが まどろっこしく みえるのであろう。この あたりの 翻訳文は、個々の 要素(語)には たいした ちがいは 生じていないが、文の 構造や 文章の 構成(くみたて「内的な形式」)は としとともに 劣化している ような 気がする。よんでも サピアの すごみ 軽妙さや 苦労 くふうが つたわってこない。たしかに、安藤訳は たどたどしくて「くだくだしい」。
言語の 基礎(根源)的(fundamental)な 土台 ―― つまり、1) 明快な 音声システムの 発達、2) ことばの 要素と 概念との 特定の むすびつき [語彙面]、3) あらゆる 様相の 諸関係を 形式的に 表現する 精妙な そなえ(provision) [文法面] ―― すべて これ(3点セット)は、われわれに しられている どんな 言語でも、きちんと 完成され システム化されている ことに 気づく。と のべ、音声 語彙 文法の 3点セットが 人間言語の (人類的)普遍性として かたられる。マルティネの「二重分節」といった、内容ぬきの 単位(ものさし)化との ちがいを みさだめてほしい。単位への「分節」ではなく、要素の「くみたて」(structure / pattern / form / process)が 問題に されるのである。みる 方向が ちがう。ことばの 観察者というより 使用者の みがまえである。
ちなみに、奥田靖雄の「を格の連語論」は、この サピアの 3)の 基本思想と、ヴィノグラードフ(1954)「連語の 研究の 諸問題」における ≪連語 = 語彙と 文法との 相関≫という 構想とが、わかき 奥田において むすびついて 発酵した のではないか と わたしは 推定している。「を格の連語論」とは、つまりは 他動構造の パタンの タイプ という、言語(=語彙+文法)における「普遍的な形式(そなえ)」の システム化である。それは、日本語人の「社会的な 対象的な 活動」を 基本的に 反映する システムである ばかりでなく、それが どこまで 普遍的と いえるか、言語間の 比較対照の 研究の 材料にも なる システムである。奥田と サピアとの 学問的な つながりについては、また べつに まとめる 機会を えたいと おもっている。つづいて、普遍性の 対極に あるとも いえる、信じがたい ほどの 言語の 多岐性にも ふれられ、この 普遍性と 多岐性という 言語の 特性から ≪ことばの 発達は、あらゆる (物質)文化の 発達より さきであり、言語の 表現形式なしに 文化の 発達は 不可能であった≫と 推論して、序章は とじられるのである。
■ことばの 要素 ―― 語 と 文 ――
0)第2章に はいる。この章は、実質的に 語 語構成と 文 文型との、2つの 要素と その くみたて、あわせて 4つの 話題が 中心に あつかわれる。サブタイトルに 明示した。原注に、心理的な リアリティに関して「… that や but のような 抽象的な 関係語」であっても あてはまる と あるのを 拡大解釈して、日本語の「付属語」つまり 自立しない 助詞 助動詞(じつは 接辞)にも 心理的な リアリティが ある と 主張する ひとまで あらわれたのには、おどろいた。橋本進吉の「付属語」も 服部四郎の「付属語」も 山田孝雄の「関係語(=助詞)」も、サピアの「関係語」つまり 自立しうる 関係詞や 接続詞とは ちがう だろう。「ばかり だけ なんど」が、形式名詞と 副助詞とを ゆらぐ わたり現象は あっても。
(第1節の「語」「形式」については、一部 かきあらためた。2018.01.7-8.)
(機能的な) 語幹要素と 文法要素とから なりたっている と 感じられる かぎりに、という ふたつの 面を もつと いうのである。「ことがら(proposition < propose)の 言語(=論理+心理)的な 表現」と 規定できる 文は、形式的な (心理的な) 語の 面と 機能的な (論理的な) 語要素(記号素)の 面との 両面性を もつと いうのである。このことと かかわって、文の タイプ じたいは、伝統によって 厳格に「あたえられた」ものであるが、主として 拡大的な 「非必須の」部分において、はなしての 表現の 自由の 余地が あり、それが 個々の「文体」に なると いう。つまり 文の、伝統定型性と 自由創造性との 両面を 指摘する のである。
論理的に まとまった 思想に 対応するし、
(形式的な) 語と 語とから つくられている と 感じられる かぎりに、
心理的に (リアルな) 経験や 制作(芸術)に 対応する、
芸術家は、ときおり 感情調と たたかい、語に ありのままに(nakedly) 概念的に 意味すべき ことを 意味させて、感情の 効果は 概念や イメージの 個々の ならべかた(juxtaposition)の もつ 創造力に たよらなければならない。という 一文で この 章を とじる。狡猾 危険であったり、陳腐であったりも する 語の 感情調に たよらず、文レベルの 語の くみあわせ 配置という、自由で 創造的な「内的な 形式」に たよるべきだ、と いうのである。最後も、語と 文との 表現の かねあいが 問題なのである。―― 以上のような おおすじの 理解は、残念ながら、翻訳で えられた ものでは ない。翻訳では 意味が よく わからない ところを 原文に あたって という やりかたでは あったが、ともかくも 原文を よんでみた おかげである。問題に 誘導してくれた 翻訳に 感謝すべき なのだろう。
■言語の おと sounds
0)この 章は、わたしの 専門でも なく、興味も かたよっているので、繁簡 よろしきを えない ところも ある かもしれないが、以下は、現代 音声学 音韻論の しろうとの 我流の よみかたである と おもって よんでもらいたい。はじめの ほうに、スペースの 関係で 「めだった (未解決の) 事実や 見解」に かぎる ことや、「おもいきった アウトライン」に かぎる ことが ことわってあるが、さすが サピアの 説明は、しろうとには ちょうど いい、てぎわの いい 要説に なっている。【補注】"sound" と "phonetic" の 区別については、名詞用法には "sound" を つかい、形容詞(関係的)用法には "phonetic" を つかう、といった 構文用法の ちがいであって、語彙的な意味(語幹要素)は 区別しない、いわば 品詞(転成)間の「補充法」の 関係にも みえる。
「形式」の ちがいには 「意味」の ちがいも ある、という「構造的」な 前提に まず たってしまうが、一方で、同音語や 同義語といった、記号(あらわし)と 意味との「非対称的な 二重性」(Karcevskij)の 問題も まじめに かんがえなければ いけない(条件 傾向など)。
サピア「音論」は、「おと」と 「音声(的)」とで 区別する 必要も ない。「音素 phoneme」も ふくめて、「音(声)(の) ―― 器官/生理/ダイナミクス/機能/構造/パタン/システム/タイプ …」と いった ぐあいに、複合語や 語結合による 構造(パタン)で あらわしわければ いいのである。"drift" の 用語精神も かんがえあわせよう。のちに、「音素」を つかいだしたのも、学界主流の 理解力に あわせた 社交〜方便であって、サピア音論の 本質的な あつかいかたが かわった わけではない と おもう。
「おと」と 「音声(的)」との 区別は おおく、なおすのも 大変なので、すべて 無視してください。(2017/11/24 に 補注 加筆)
ふたつ以上の 言語の 客観的な 比較は、まず その おとの「おもさが はかられ」ない かぎり、その 音声の「価値」が きめられない かぎり、心理的な 意義も 歴史的な 意義も もたない。ところが(in turn) これらの 価値は、現実の ことば(actual speech)の おとの、一般的な ふるまいや はたらきから わきでてくる ものなのである。と いっている ことを ちゃんと 理解しなくては いけない。ここで、「心理」と「歴史」とに かかわっては、
そこで あらゆる 言語は、明確な 文法構造によって 特徴づけられている ばかりでなく、おとの 理念的な システム(シンボル原子の システムと いってもいいか)と その 基礎に よこたわる 音声パタンとによっても 特徴づけられているのである。音声構造も 概念構造も、どちらも 形式を もとめる 言語の 本能的な 感触を しめしているのだ。【ここの「シンボル原子 atoms」という 表現は、[語の 化合元素 = おと] という 化学の 比喩的な 意味で つかったのだろう。"ideal(理念的)" は、むろん 哲学上の (厳密な) 意味だろう。】「おとの 理念的な システム」が <音素体系> に、「音声パタン」が <音素の 結合型> に、それぞれ ほぼ 対応する 用語である と いってもいいが、「心理的/歴史的」と される「価値 ≒ <弁別的特徴>」も からめて、学問システムの 根本的な ちがいも 考慮しなくては、学問的な 検討には ならないだろう。すくなくとも、心理 意味 形式 機能 歴史 といった ことについての たちばの ちがいである。貧困な 哲学に もとづく「現代音韻論」からの 裁断批評的な 訳注には おどろく。精密化 機械化が 進歩を 意味する 分野も あろうが、人間言語の 問題は、行動科学だけでは とけず、(哲学も ふくめた)「心理学」が 必要な ことが そもそもの 出発点なのである。行動科学からの 連想で、動物実験的な 心理学を おもいうかべては、とんでもない まちがいだ。その点 「精神科学」と いった ほうが 誤解が なかった かもしれないが、当時 そう 自称していた 著名な 流派(ディルタイら)とは、一定の 距離を おいていた のであろうか。
ヌートカ族の 通訳は、純客観的な たちばからは 不十分で、現実の ことばとしては 轟音/雑音である ものを、その 意図/意味 (intention) どおり、音声要素の 理念的な ながれを 転写している、という 奇妙な 感じを わたしは もった。とでも 訳して、じっさいには こどもが「セーェン チョーライ」と やや したたらずに いっても、おやが /センエン(千円) ちょうだい/ と ききなしたり、「アシ×× パー×× ×ク?」の ×の 部分が じっさいの 騒音で ききとれなくても、/あしたの パーティ、行く?/ と ききとるだろう といった、母語話者の 「理念/パタン」を みぬく ちからの ことを いっているのだ、と 説明した ほうがいい ような 気がする。
■言語の 形式 ―― 文法の みちすじ(手順) ――
0)第4章「言語の 形式」の 問題に はいる まえに、第2章の タイトルが 「ことば」の 要素であって、なぜ「言語」の 要素とは いわないのか;「語 語幹要素 文法要素 語群」を 問題に する さいには、「真の 意味を もった <言語> の 要素」と いっているにも かかわらず(p.25);という 問題は、とても だいじな ことなので、もう すこし のべておく。(母音交替という) 明確な 形式に むかう(to) この ふたつの 刺激は、水面下に かくれている (複数形の) ばあいも、強力に 支配的な (テンス形の) ばあいも、どちらも その 概念を (そのまま 母音交替で) 表現するのが 必要か、それとも (規則変化の ように) その 概念群に 首尾一貫した 外的な かたち(-s や -ed の こと)を (膠着的に) あたえるか、どっちでも かまわない ように うごく。いうまでもなく、こうした 刺激は、具体的な 機能的 表現(形式)の なかにしか 実現しない ものである。ある やりかたで なにかを いえる ように なる ためには、(じっさいに) その なにかを いってみなければならない。(原文 p.61)とでも 翻訳した うえで、言語の 形式化の うごきは、「パタン」の 有無によって、自由に 拡大される ばあいも あり、傾向が 抑制される ばあいが あるが、機能面の 刺激だけでは 「形式化」が どのように すすむかは わからず、どうなるかは じっさいに ならなければ わからない、といった ことを いっている のではないか と 推察する。sing−sang という 現在−過去の パタン化の タイプ(ふるくから ある タイプ、生産的)と、tooth−teeth という 単数−複数の パタン化の タイプ(新タイプ、非生産的)とは、「パタン化の 明確な 感覚」が おなじでは なく、「表現の 方法を もてあそんで たのしんでいる(sheer play)」かの ようだ と いっている ことの ひとつの 例だろうと おもうが、(規則変化の) -ed や -s のように より膠着的に なる 現代英語への「形式化の みちすじ(プロセス)」が どうなるかは じっさいに「いってみる」、つまり じっさいの 形式を あたえてみて、ネイティブの 形式(パタン化)感覚に あうか どうかを みてみないと わからない、という ような ことを いっている のではないか と かんがえておく。最後の 文で、"must say something" と "in a certain mannar" を 使用した 意味が どうも よく わからず、すっきりとも しないが、当時 はやっていた いいまわしの 引用的な 利用や もじりでも あったのだろうか。
■言語の 形式 ―― 文法的な 概念 ――
0)「概念の 世界の 性質」が、「言語の 構造に 反映され 体系だてられている かぎりにおいて」、言語の「形式」として あつかわれる。この ばあいの "grammatical concepts" は、「文法の あつかう かんがえ」もしくは「文法(法則)化を うける かんがえ」といった 意味に うけとる べきなのだろう。そう 訳せ という ことではないが、「-的」は くせものであるし、「概念」という 専門化された 哲学的な 用語で 理解するよりも、 "conceive(かんがえる)" という 動詞と むすびつく 日常語の 名詞として 理解した ほうがいい と おもうが、市販の 3訳書とも「概念」と 訳す 学者の「常識」に これ以上の 異は たてない ことにするが、現代社会人の「コンセプト」も わからなくは ない。とはいった ものの、『意味の意味』(1923)の 第1章の 原注3が かなり 大仰に この "concept" という 「哲学」的な 用語法を 非難していた ことを おもいだした。たぶん オグデンだと おもわれる 筆者の、学者らしい きめつけや おもいこみが、「意味」の 混乱を まねいていた ように おもう。サピアが "meaning" という 語を なるべく 数か所しか 使用しない ように した かわりの 語も また 別種の 誤解を よぶとは、当時 20世紀初期の「意味の 意味」の 混乱ぶりは 想像に 絶する ものが ある。日英とも、この語を 非哲学的な 文脈において、日常通念的な「意味や なかみ(内容)」に ちかく 理解した ほうが まだまし なのである。
文 という ものは、個別性を 正確に 把握した うえでの、要素の 論理的な 総合の 結果 というよりは、むしろ 歴史的な ちからや 理屈ぬきの 心理的な ちからによる 結果である。これ(こうした 性質)が、おおかれ すくなかれ 程度の 差は あっても、すべての 言語の 実情である。とは いっても、おおくの 言語の 形式のなかには、英語の 形式なんかよりも、ひとつひとつの 概念への、あの 意識化されない 分析において、整合性も 一貫性も ある 反映の しかたを している ことを みいだす こともある。この ひとつひとつの 概念への 意識化されない 分析 という ものは、どれほど こみいっていて、非合理的な 要因に おおわれている ことがあっても、ことばから 完全に きえさる なんて ことは ありないのだ。という 重要な ことを のべている。この 訳文は、基本的には 木坂訳と 安藤訳の いいとこどり と いってよい 程度の ものであるが、泉井訳は、木坂訳を 明瞭化しようとして、文の くぎりかた 構造を みまちがえた 改悪訳だと いってよい。
木坂訳 泉井訳 安藤訳 工藤訳こまかい 詮索は おくとして、ここで サピアの いいたかった ことを おおざっぱに 解説すると、ことばの 機能単位の なかでも 具体的に 現実と かかわる 「文」という 単位は、(学校文法で 重視する ことの おおい) <論理> 的な 面も 否定は できないが、それよりも、<歴史> の 面 [そこには 後述の 音声法則の ような 伝統の きびしい ちからや 惰性的な ちからの 面も あれば、ながれ(drift)の ような おおきな 傾向の 面も ある] や、<心理> の 面 [そこには 自立性についての リアリティの 面も、無意識の 分析の 整合性の 面も、後述の ドグマの 面も ある] のほうが おおきな ちからを 発揮するのだ、という ことではないか と おもわれる。ともかく、<歴史> と <心理> という、現実世界と 具体的に 感覚的に かかわる と かんがえられている 面が 重視されている という ことである。この 2つの みじかい 語に こめられた 重要な 意味を よみおとしてしまっては、サピアを よんだ ことには ならない。
1)un-reason-ing 理屈抜きの 理屈抜きの 不条理な 合理化しない
2)ir-ration-al 不合理な 不合理な 不合理な 非合理的な
3)il-logic-al 不合理な 不合理な 非論理的な 非論理的な
4)un-ration-aliz-ed 非合理的な 前論理的な 非合理的な 合理化されていない
cf) pre-ration-al 先理的な 先理的な 前理性的な 前合理(理性)的な 【原文 p.15(第1章)】
un-reason-able 不条理な 不条理な 不条理な 不合理な 【原文 p.99(第5章)】
形式は、 その 概念内容より ながく いきる ものである。どちらも たえず 変化しているが、大体において 形式は、その 精神が とびさり 本質が 変化してしまった ときにでも、なかなか きえさらない。非合理的な 形式、形式のための 形式 ―― いちど 存在すると なると、その 形式的な 差異を 保持しようとする、この 傾向を なんと よんでもいいが ―― これは、かつて もっていた 意味を うしなった ずっと あとまでも 行動の 様式が 保持されるのと 同様に、言語の いきていくの(「生」life) には、あたりまえの(natural) ことである。【cf. nature(自然/本性) と natural との 連関 連想】と のべている。ほかにも、概念の 明瞭な ちがいに 対応しない ような 形式の 精巧さに むかう 傾向、あらゆる 概念を あてはめる 分類図式を つくりあげようとする 傾向、いわば「完璧に 排他的な 整理棚」を もとうとする 傾向も、この (無意味な 形式の おこる) ことに 関係してくる と いって、つぎのように まとめる。
ドグマは、伝統によって 厳格に(融通の きかない ように すみずみまで) 規定されているのだと すれば、形式主義に こりかたまっていく。言語の 範疇 (と よばれる もの) は、いきのこっている ドグマ ―― それは 無意識の (つくりだす) ドグマだが ―― その システムを なしている のである。これら(の ドグマ)は、しばしば 概念の 半分の リアルさしか もたず、その いきざま(一生/生涯/生命 life)は、形式の ための 形式へと おとろえていく (老衰の) 傾向に ある。さらに、無意味な 形式の おこる 第3の 原因として、音声化プロセスの 機械的な (同化的な) 作用にも ふれられるが、たとえば、数における "self"−"selves"の "-f"−"-vz" のような「機械的な 多様化」は、本書の ねらいには 直接 関係してこない、と いう。
論理的には、Tと Wとの あいだに こえられない 深淵が あるが、ことばの 非論理的な 比喩的な 精神(特質)が 強情にも この 深淵に はしを かけて、未加工の 物質性 (「いえ」や「ジョン スミス」) から 微細な 関係にまで いつのまにか うつっていく ような、概念と 形式との 連続的な 全音階(gamut)を セットアップしている。分析できない 自立語が、たいていの ばあい T群か W群かの どちらかに 属し、Uか Vに 属す ことは あまり ふつうでない ことは、とくに 重要である。と のべ、つづけて 具体的な 例に よる 例証や 検討が くわえられていく。言語の「内的な 形式」の 理解にも おおくは 重要である、派生概念や 文法範疇や 構文関係 などについての 興味ぶかい 検討が つづけられた あとで、一般読者としては、言語は、言語表現の 両極、つまり 物質内容と 関係とに むかって すすもうとして、この 両極は 「移行(推移)的 transitional な 概念」の ながい 列で つながる ことになる、という ことを 感じてもらえれば 十分だ、と いっているので、前章の 各論についてと おなじ 理由で、省略に したがう。サピア自身の 研究メモの、ほとんど そのままの うつしでは ないかと おもわれる ほど、要約を ゆるさない 濃密な 文章であり、その (各自で つくるべき) 図表化された リストは、増補の 意志さえ あれば、いまでも 有用である ように おもわれる。
ついでに いえば、なんでも 排他的に わけたがる 傾向が あると いっている 箇所(原文 p.99)で、その 分類が "un-reason-able(不合理)" である とも いっているが、 1)節の "un-reason-ing(理屈抜きの/合理化を しない)" を「不合理な」と 訳すのは これと 類義語と みている というか、両者を 混同しているのだが、【釈迦に 説法だとは おもうが】"-ing" は もともと 動詞(進行状態)的であり、"-able" は 形容詞(結果性能)的である のだから、一方が「合理化しない」であり、他方は「不合理な<合理化できない」である ことは、文法的にも "reason-able(合理的)" なのでは ないだろうか。
「心理・論理」「合理・感覚」に 関連しては、常識に 安住した、安直な 理解は、おおく 再考を うながされる。
もし 、すべての 構文的な 関係の 表現が、この ことばの 2つの、さけられない ダイナミックな 特徴 ―― 順列と 強勢 ―― に、究極的には さかのぼりうる と 想定する ことが ほんとうに 正当である とすれば、つぎのような 興味ぶかい テーゼが たてられる。:―― ことばの じっさいの 内容、つまり 母音や 子音の あつまり(シンボル)は すべて 具体的な ものに かぎられ、諸関係は、起源的には 外面形式には 表現されず、たんに 語順と リズムとの たすけで はじめて 暗示され、調音された(articulated) のである。いいかえれば、諸関係は、直観的に 感じとられていた だけで、それ自身 直観の 面(plane)を うごく ダイナミックな 諸要因(語順と リズム)の たすけで はじめて「もれる(もれだす) leak out」ことも できたのである。という 重大な 仮説的 テーゼを たてる。「サピア・ウォーフの仮説」論者には みえも しない サピアの 基本思想である。ウォーフも、おこのみなら ヴァイスゲルバーも、語に 偏している のである。フンボルトも マルティも サピアも、「内的な (言語)形式」を いう とき、比喩(化)も ふくめて 文を くみたてる ものに 注目している 点で、ちがうと おもう。語の 外的な 形式は、かくれていても、実体的で みやすい。
サピアの「直観 intuition」は、知性・理性が 作用する まえの 感性的な「知覚」と 理解して いいだろうと おもう。カントや フンボルトの 用語法に さかのぼれる 学問用語。いちじ 変形屋さんの 流行語用法によって 気ままに 変形したのとは べつ。ついで それと 反対の 極に ある「照応」、つまり にかよった 信号(音声)を (脚韻的に) くりかえす、印欧語を はじめ おおくの 言語に みられるが、(一般とも いえず) 特殊の 方法も 検討されるが、チヌーク語や バントゥー語の ように、照応と 語順とが ひとしく 重要な 例も あるのを みると、もっとも 基礎的な 関係原理は 語順の ほうだ という <重大な 事実> が 痛感させられる と いう。
また、サピアの いう "dynamic(s)" については、まえに「言語の おと sounds」の 第2節で、「『音声要素の ダイナミクス』として、おとの ながさと、アクセント(つよさ/たかさ)と、結合可能性、の 3つが あげられ、とくに 最後の 結合性の 重要性が とかれる。「ダイナミクス」というのは、個々の 音声要素の 静的な 性質が まとまりの なかで「うごく〜はたらく」ときの 特徴 という 意味なのであろうか」と のべておいたが、その後 『リーダーズ英和辞典』の "dynamics" に「【楽】 強弱法, デュナーミク」と ある ことに 気づき、ウィキペディアの「強弱法」には、「強弱法とは、特に西洋音楽において、音の強弱の変化ないし対比による音楽表現を言う。……… 音には高さ、長さ、音色、強さといった要素がある。これらのうち、音色や音の強さは楽譜上の規定があまり厳密ではなく、物理的に大きな変化を与えることも可能であるため、演奏者にとってはその自由な表現を行う重要な要素となる。」と あるので、「ピアニストであり、音楽・文芸評論家であ」る (泉井)と いわれる サピアの ことであるから、ここは 音楽用語の 比喩に もとづく 用語として 理解した ほうがいい と おもわれる。シンボル または その 音声要素が 全体(文や 語)のなかで「演奏」される ときに あらわれる ものと 規定でき、おとの ながさも アクセントも 結合可能性も、語順も 音調も、すべて シンボル外の ダイナミックな 特徴に なる。
えりを ただし、正座させられる ことが おおいのも、文章の 外見の うらに ある、通念や 慣例を よみこまなければ、意味が よく わからなく なってしまう ことが おおい からではないか。たしかに、サピアは ねころがって よめる 本ではない。コーパスと とっくみながら、帰納的に 検証しながら でないと、わたしには サピアの いいたい ことが みえてこない。5)最後に、これまで 無視してきた (学校文法では 由緒 ただしい ものと される)「品詞」について とりあげ、「語を 品詞に わける、我が国 慣例の 分類は、首尾一貫して (論理的に) つくりあげられた 経験の 在庫目録に むかって、ぼんやりと ゆれうごく 近似値に すぎない」と、慣例としての 品詞の 分類について 否定的に 評価した あとで、具体的な 例を あげて 検討していき、
文体に ひかれる というのも、そういう ことではないか。だらしない 文体の 専門書は よむ 気が おこらない。
こうした 検討の 結果は、(「ことばの 部分」としての)「品詞」という ものは、【語レベルで】現実(の 部分)の 直観(知覚)による (みたままの) 分解を 反映している というよりも、【文レベルで】現実(の 部分)を 種々の 形式的な パタンのなかに 構成する 能力を 反映しているのだ と 確信する ように なるだろう。構文的な 形式の 制限区域の (ことばの) 外部に おかれた、ひとつの「ことばの 部分」(という 別名の「品詞」) なんぞは、きつねびに すぎず、あてに ならない のである。こうした 理由から、品詞の 論理的な 図式 ―― その 数量、性質と 必要な 制限【注意事項 例外事項 などの こと】―― は、言語学者には たいして 興味が ないのだ。それぞれの 言語は、(論理的な 図式ではなく) それ自身(特有)の 図式を もっている。あらゆる ものごとは、その それぞれの 言語の 認識する 形式の 区分(わけかた) に 依存している のである。と、結論を 一般化して のべている。通常の 解説に みられる ものなどと 比較して、品詞の 評価の しかたが ちがっている ことに 注意してもらいたい。「品詞」の わりきれない 分類を 便宜的に おおまかに あつかうと いった ことなどでは なく、"parts of speech" という なまえにも かかわらず、ことばとしての 文から きりはなされて あつかわれる、慣例としての「品詞」は、きつねびの ように、根拠と なる 実質が ないと いうのである。言語学者の 興味を ひかないのも、品詞じたいが ではなく、その「論理的な 図式」が である ことも みのがす べきではない。ここの 前半部での "part of speech"(単数!) に つけられた 冠詞も、前者は 定冠詞、後者は 不定冠詞 なのである。この "part of speech" は、「ことばの 部分」という 意味を ダブらせて 理解した ほうがいいと おもう。かけことば というより、もじり なのである。後半部の「品詞の 論理的な 図式」では、"parts of speech" と 通常の 複数に もどっている。現実に 慣例として ある「品詞」(の 論理的な 図式) と、あるべき <品詞>、 つまり 言語学者の 興味を ひく <言語に 特有の 図式> の 類型化/一般化とは、おなじでは ないのだ。そうで なければ、つぎに つづく はずも ないだろう。
名詞(体言)と 動詞(用言)とに 区別できない 言語は ない。区別しにくい 特別な ケースは ある けれども。ほかの 品詞は、これとは ことなる。どれも、言語の いきていくの(「生」life < live)に 絶対に 必要と される わけでは ない。みじかく まとめられた この章の 最後にも、例証の ために 9行もの 脚注が つけられ、ヤナ語の 特殊な ケースが 慎重に 検討されるが、体言(noun)と 用言(verb)への 二分の 確信は ゆるがない。おおくの 言語に 通じた 研究者の、自信に みちた 単語分節の 基本想定である。
■言語構造の タイプ
0)これまでは、語や 語の 関係といった 部分的な 面に 注目してきたが、全体としての「一般的な タイプ」や 一言語の「一般的な 形式」を かんがえてみる ことは 「言語の 文法を なす、雑多な 事実の おしゃべり(recital)では、適切な 観念が えられない」と、教科としての 文法や 音楽の リサイタルとを ひきあいに だして いっている ことは ちょっと 気を ひく。サピアの 文法科ぎらいは いまさらであるが、リサイタルぎらいでも あったのだろうか? そう のべた うえで、絵画の 比喩を つかって、つぎの ように いう。ラテン語から ロシア語に うつると、ちかくの みなれた めじるし(ランドマーク)は かわっても、われわれの 視界を かぎる 地平線の かたちは おなじだが、英語に くると、なだらかな けしき(= 地平線の かたち)に なっている ように 気づくが、全般的な 地形には みおぼえが ある。そして シナ語に 達すると、われわれを みおろす (背景の) そらが かわってくる。と、いってみれば、印欧語の あいだでは 図(figure)の ちがいだが、シナ語では 地(ground)の ちがいに なる といった 比喩を つかって 説明した うえで、この 比喩は、言語を《形態法の タイプ》に グループわけできる という ことと 結局は おなじだと いっている。
言語は、基礎的な 形式においては、人間の 直観(的な 知覚)の シンボル表現である。これらの 直観の シンボル表現は、民族が 物質的に 先進か 後進かに かかわらず、100の 方法で (in a hundred ways) 自分自身の すがた(基礎的な 形式)を あらわす。しかも いうまでもなく、ひとびとは、その (基礎的な) 形式を 意識していない。そこで、言語を その 真の 本性において 理解したければ、「価値」の 上下を かんがえる まよいを すてて、英語と ホッテントット語とを おなじように 冷静に だが、興味を もって 公平に 観察する 習慣を みに つけなくてはならない。という 重大な ことを いっている。「直観(的な 知覚)」の かずは、木坂訳は「数百の 様式で」であり、泉井訳 安藤訳は「無数の」である。ここには 脚注が つけられ、「形式そのものの 評価」が ここでは 問題であって、膨大な 量の「語彙」の 問題は 別問題である、と わざわざ ことわっているので、「すくなからぬ」の ニュアンスは よくても、「無数の」は 誤訳であろう。必要なら、あたらしい 語を つくる 方策が 言語には そなわっている、そうした「形式の 価値」が 問題なのだ とも いっている。「基礎的な 形式」という ものは、おそらく 文法との 関係で 語彙を 一般化した、奥田靖雄の いう「カテゴリカルな 意味」の ような ものを イメージすればいい と おもうのだが、「もの こと ひと ばしょ とき 数 ……」「行為 変化 現象 状態 …… もようがえ とりつけ とりはずし うつしかえ ……」といった ぐあいに、かぞえていく として、どのくらいの 数量に なるのだろう。百前後で すむ ようにも おもえるし、百の 単位で ≒ 数百かもしれない と まようけれども、"a hundred ways" と あるから ことばとしては「100の 方法で」と 訳しておくべきだろう。百を 多数と みるか、少数と みるかは 場面 文脈しだいであるが、ここは、「膨大な 語彙」(内容量)と 対照される「少数の 文法」(形式=方策)の 意味に とるべきであり、泉井と 安藤は、この 語彙と 文法との 関係を みそこなった のである。
(第1節の「進化論的偏見」「基礎的形式」「直観」について、説明を 加筆した。2018.01.23.)
いかなる 言語も、語彙のなかに 1つの 接辞さえ みいだせない にしろ、基礎的な 構文関係は、【語順や 音調で】表現する ことが できるし、さけられない。(したがって) いかなる 言語も 形式 (ある)言語である、という 結論に なる。という ぐあいに、「基礎的な 構文関係」の ほうから かんがえていく。語形態(文法要素)の ほうからでは なく、それは あとから 考慮される ことである ことを 確認しておこう。つぎに 「内的な 形式」に もとづく 区別を 定式化しようとする こころみに ふれ、
1) シナ語の ようには、あるいは ラテン語ほどにも、非物質的な 方法(ex. 介詞や 語尾)では 表現されないか、というような ばあいであるが、「こうした すべての ばあいは、問題の 言語が 基礎的な (構文)関係の ための 真の 感覚(feeling)を もっていない という ことは 意味しない」と 結論づけるのである。「内的な 無形式」という 観念は、「構文的な 関係は 別種の 語順の 観念と 融合しても かまわない」という ような、おおきく 修正された 意味(先述した 俗説の こと)でしか つかえないだろう、とまで 念を おすのである。やや 錯綜しがちで、蜃気楼の ような 迷訳を うみがちな 文脈だったので、図式的な かたちにして 解説した までである。
2) または 語順の 原理が シナ語よりは はるかに 動揺しているか、
3) または 複雑な (語彙的な) 派生形成に むかう 傾向が ある ために、ある種の 関係は もっと 分析的な 言語では 表現されるだろうと おもわれる ほどには 明示的には 表現する 必要が ないか、
おどろいた ことは、「内的な 無形式」に 関連して マレー語や ポリネシア語の ことが p.125 の 脚注で 指摘されているのに、専門家と 目されていた 泉井久之助の「補訳」が できていない ことである。次頁の p.126 の、おなじ 段落の 末尾部の 本文に ある "order" の 一語を よみすごす という ことは、油断すれば「じょうずも もらす」か。この 誤訳は、安藤訳にまで ひきつがれていて、「さわらぬ かみに たたり なし」か、「くさい ものには ふた」かな。いづれにせよ、先入見 おもいこみは 盲目である。
「屈折」という 語は、(のちに のべる ような 分類の) 図式を もっと ひろく 首尾一貫した ものに 発展させる ために 貴重な 暗示にも なり、言語に 表現される 諸概念の 性質に もとづいた 分類(項)の ヒントにも なるから、(後述の 分類項 D類の 一特性として) とっておく ほうがいい ように わたしには おもわれる。と のべる。分類の 形態的な 下位区分としては 《融合度(=技法)》と《総合(度)》というぐあいに 改名して より明確化した うえで、(てあかの ついた)「屈折」じたいは、概念タイプの 分類の 大項目の ひとつ、D(混合+複雑)類を 代表的に 規定する 特性として のこせる かもしれない というのである。由来の ふるい「屈折」も、サピアの「構造の タイプ」も、ただの「形態」の 問題ではない という ことである。
1.純粋関係的な 言語 ─┬─ A.単純という (ツリー状の) 表も しめされるが、より 基礎的な、より おおきい 分類項(純粋/混合)を 左欄(よこの 項)に おく という 約束に すれば、つぎのような タテ(行)と ヨコ(列)の テーブル状に 表記しても おなじである ばかりでなく、欄の 特性併記によって、みやすく わかりやすく なる ばあいが おおい。行や 列の 識別特徴を (…)に つつんで 併記し、第5章で かんがえた 概念[T U V W]の ふくみかたを […]に つつんで 併記する。
└─ B.複雑
2.混合関係的な 言語 ─┬─ C.単純
└─ D.複雑
単純(Uが ない) 複雑(Uが ある)こうした うえで、「要するに、言語は 非常に 複雑な 歴史的な 構造である。きっちりした 整理だなに いれる ことよりも、2, 3の 独立した 観点から、他言語と 相対的に 位置づけられる 柔軟な 方法を 案出する ほうが 重要だ」と いって、2ページ みひらきの 有名な「えらびだされた (代表的な) タイプの 分析表」(省略)が しめされるが、いま みた ばかりの 基礎的な 概念の タイプ(ABCD)が 最重要の 大分類項として いちばん 左に しめされ、つぎに U V W という 文法要素の 概念が つづき、その 右に 技法、総合が この 順に ならべられている ことに 注意したい。つまり 概念のほうが さきで、形態のほうが あとだ という ことである。
純粋関係(Wが ある) A[T ‐ ‐ W] B[T U ‐ W]
混合関係(Vが ある) C[T ‐ V ‐] D[T U V ‐]
ただし、T=土台概念 U=派生概念 V=具体関係 W=純粋関係 (第5章)
T=土台概念は、すべてに 共通するから、識別特徴には ならない。
ここに おもしろいのは、まえの 表のなかに あらわわした 3つの 交差する 分類法(概念の タイプ、技法、総合の 程度)の うちで、いちばん はやく 変化すると おもわれるのは 総合の 程度であって、技法は 変更しうるが、しかし はるかに 変化は しにくく、概念の タイプは、とりわけ もっとも ながく 持続する 傾向が ある ことである。と、あとで わざわざ のべている「歴史的な 傾向」に もとづいて、表は つくられている のである。ロシアの G.A. クリモフや 日本の 山口巌 石田修一 松本泰丈 らによって すすめられている <内容的類型学> の 出発点と なった かんがえかた なのである。
この種の 本では、種々の 形式のなかに あらわれる 言語構造についての じゅうぶんな かんがえ(理念)を しめす ことは、当然 不可能である。わずかな 図式的な 表示が 可能であるに すぎない。この 図式に いのちを ふきこむには 別に 一冊の 本が 必要である。そうした 本は、(表面上) いちじるしく 分岐した タイプが (少数の) 形式の 経済に まとまる ことを 読者が みぬける ように えらんだ、おおくの 言語の もつ 構造上の きわだった 特徴を 指摘する ことになるだろう。と、ちがいの めだつ 外見と かくれた 本質との 関係の ことが じゅうぶんには のべられない、という 入門書としての 弁明が ある。とりわけ この章には 5行以上の 脚注が なんと 11も ある。いわば、あふれでる アイデアの 一端を 脚注に すくい(掬)とって、その アイデア(全体)を すく(救)って おちつかせ ととのえている という 感じである。単行本の 刊行は、その バランスとりに もう こりたか。
■歴史的所産としての 言語 ―― ながれ ――
0)「だれでも 言語が かわりやすい ことは しっている。ふたりの 個人が (いれば) … 」、と きりだされる。歴史の 章に はいって はじめての ことばが 生活の 原点から はじめられる。「Linguistics (言語学)とは Language (言語)の 科学である」と きりだす(そう せざるをえない) 教科書とは、みがまえが ちがう。教科書は その 分野の 用語法から ときはじめるし、サピアは ことば(speech)の はたらく 生活の 基本場面から、しゃべり(speak)はじめるのである。第1章も そうであった。いきる こと(生活 life)の なかから、ことば(speech)の はなし(speech)は はじまった。なんでもない ことの ようであるが、この かまえを わすれては いけない、ものを みる 根拠地 ―― まえなら 視座と いった ところ ―― であり、なんなら 根本姿勢 基本精神と いってもいいが、それによって 方法や 技術も かわってくる のである。やまのぼりに たとえれば、ちかづく みちすじ(ルート)も、みにつける 装備や 服装(いでたち)も、ちがってくるだろう。ここの drift は、うみというより、むしろ かわで 操縦が きかなくなった いかだの「かわながれ」の イメージである。
変化の 目前の くわしい ことは ふたしかである だけに、変化の 方向が 最後まで 一貫している ことは、ひとしお 印象的に 感じられる のである。と のべて、「ながれ」の 歴史問題に すぐに すすむ のではなく、現代の "Whom" の 用法の 心理的な 問題を とおす のである。
1) 格変化を もつ 人称代名詞(I:me, he:him)の グループと おなじと みるか、の 4つである。この 4つの もちかたで、「ためらい値」の 等級も しめしているが、省略する。ただ、要因を おなじ 3つ もっている ばあいでも、2を もつか 4を もつかで、等級を 別に している ことにも 注意しておきたい。1(格変化の 有無)と 3(語順)とは、原理上 すべてが もつから、これで パタンとしては 網羅している。等質化された 要因の たし算、単純な 計量化では ないのである。
格変化 しない 疑問 関係代名詞(which, that)と おなじと みるか という、<形式の グループ化> と、
2) 疑問語(which, what) とりわけ 疑問副詞(where, when)が 不変化であり、強勢が ある という、<修辞上の 強調> と、
3) 疑問語である ために 文頭に くる という、<語順> と、
4) いいまわしが「ぎこちない」という、<韻律上の 障害>と、
こうした 考察は、うる ところが おおきい。ある 言語の 一般的な ながれについての 知識だけでは、その ながれが (いま 具体的に) どのあたりに むかって すすんでいるのかを はっきりと みさだめるには 不十分だと わかるからだ。その ながれの 構成部分の もつ、(部分間の) 相対的な 性能と 速度について、多少の 知識も 必要なのだ。と、現代の 心理的な 考察の 有用性や 必要性が 確認されて、つぎの ながれ そのものの セクションに すすむのである。
あらためて いうまでもなく、"Whom" の 用法に ふくまれている 特定の ながれが それだけで 興味が あるのではなく、その 言語に はたらいている もっと おおきな 傾向の 兆候として 興味が あるのである。と、前セクションとの 逆方向の 関連を つけた うえで、「すくなくとも 3つの、おおきな 重要性を もつ ながれが みとめられる」という はなしに すすむのである。
さりとて 格の 区別 そのものが いまも いきている という ことには ならない。ある 言語の ながれの もっとも 油断がならない 特異性の ひとつは、ながれが いくてを はばむ ものを 破壊できない ばあいは、その じゃまものが ふるくから もっていた じゃまな 意義を あらいながして、無害に してしまう ことである。当の 敵を 自分の 慣用(uses)へ (ひきいれて) かえてしまう(turn to)のだ。この 慣用(This)が、おおきな ながれの 2つめの もの、つまり 語の 構文的な 関係によって 決定される (ものとしての) 文において 固定的な 位置を しめる 傾向を もたらすのである。と のべて、つぎの セクションに すすむのだが、安藤貞雄は 解説(p.432-3)で、この 部分を サピアの 晦渋な「詩的な メタファー」の 一例として あげる。しかし これは、( )のなかに しめした 原語の 意味と 指示語の 指示対象とを 誤解した だけの ことであって、「晦渋な メタファー」だった のかもしれないが、「詩的」ではない。晦渋な ものなのか、イメージあざやかな ものなのか、については、よむ ものの 解釈力に よるだろう。内容についての 解釈力は、技術としての 読解力と おなじでは ないのだ。
"whom" の 文を 分析した さい、疑問代名詞には 自然な 修辞的な 強調が、形式の 変化性(who, whose, whom)によって なんか 効果が うしなわれている と 指摘した。この、思考と 語との あいだに 単純で ニュアンス差の ない 対応が、なるべく 不変化の 語で もとめられる ように 努力する 傾向が 英語では 非常に つよい。この 傾向は、最初 一見した ところでは むすびつかない ように みえる、おおくの 諸傾向を まとめる 原因(説明)と なる。works の 三単現の -s や、books の 複数の -s の ような、基礎の 強固な いくつかの 形式は、不変化の 語に むかう ながれに 抵抗しているが、あるいは これらが、まだ 十分には よく わかっていない、もっと つよい 形式渇望(form cravings)を シンボル化しているから かもしれない。と いう。goodness や unable が good や able に のみこまれずに 派生語として のこれたのは、独立できる 間隙(spaces)を たもって 独自の 領域を もてた からであり、-ly に おわる 副詞は、形容詞と 意味が ちかすぎて、いつか わすれさられそうだし、whence whither hence hither thence thither の 一群は、where here there と 衝突して 現に 犠牲と なった 例である、と いう。
ちなみに、形容詞の 連用形か 副詞か という 品詞論的な 処置は、言語学研究会の『文法教育・語彙教育』(宮島)と、『にっぽんご 4の上』(奥田)との 意見対立でも あった。これについても、理論対立の 舞台(土壌)と、そこで 演じられる 人生ドラマが あり、いつか 『かざし ノート』か どこかに まとめておきたい。参照:『にっぽんご 6 語い』の 刊行遅延と 妥協。最後に、英語の 語彙体系が 語の 群生(むらがり cluster)を さけようとして、雑多な よせあつめに なり、語源/造語的な 面での つながりが ない ことに ふれ、それが 借用語を 移入する ことを 促進したのか、逆に 借用語の 移入が 英語の 造語の 可能性を 委縮させているのか、という といを たてるが、その どちらも 真で、相互に たすけあっているのだ;むかしから あった 新語を 歓迎する 傾向は、英語内で よわまりつつあった (曲用 活用など 語形変化が 衰退する) 傾向にたいする うめあわせ(補償)であった;と 関連づけて 説明している。日本語における、漢語の 移入や 改変や 新造 といった みちすじと、和語の、古代における 母音交替(活用の 萌芽)の 体言部(語彙中心部)での 衰退から、近代における 造語力 一般の 弱化 といった みちすじとも 関連し、興味ぶかい。
■歴史的所産としての 言語 ―― 音声法則 ――
0)前章では "Whom … " という 具体例の 分析を もとに、一般的な ながれを 指摘したが、言語は なにものも 静止しておらず、方向と 速度とを もった 非個人的な ながれが ある。その 速度は 環境によって ちがい、一般的な ものは ふかく 底流する ため、特殊な 方言的な 分岐が おきた のちも 類似した 並行現象が おきる ことが ある。英語の 複数の foot:feet のような 母音交替は、300年以上を へだてて ドイツ語にも 並行して おきたが、後述する ように、ドイツ語の「ウムラウト」は たんなる 音声法則の 域を こえて 形態法の 領域にまで 侵入している。という ぐあいに おおきく まえおきする。■言語の 相互影響
0)タイトルは、英語では "How Languages Influence Each Other" (言語は いかに 影響しあうか) という 文(動詞句)の かたちである。安藤訳も 参照。ここは 木坂訳に したがった。英語では、"interinfluence" という 語は、"interaction" という 語と ちがって 不自然なのであろう。辞書にも のっていない。"influence each other" という 動詞句のほうが ふつうなのであろう。これは、"inter-" と「相互‐」との 結合性の ちがい といった 文法の 問題でも あるが、翻訳の 問題にも かかわってくるので、言及する。1) ほんとうに 重大な 形態法上の 相互影響は、あるいは 不可能ではない かもしれないが、しかし その 作用が あまりにも おそい ために、調査の およびうる 言語の 歴史の、それに くらべて ちいさすぎる わりあて(時間はば)には、自分を くみいれる チャンスを ほとんど もたなかったのだ;という やや なぞめいた 3つの 推論を しめして、そのうちの 1つの 推論は いえると いうが、1)も 2)も、歴史や 記録に あらわれない 奇想天外な ものであって、「記録に のこされた 歴史」に したがうべき われわれには 推定する 権利(資格)が ない、という 最後の 推論に 結局は 帰着する ものだから、ほんとうに いいたい ことは、最後に あるのだと おもう。1) 2)のような、人知の およばない 空想上の 世界(可能世界 ?)を、抽象演繹的で 思考実験的な 推論としては みとめても、具体帰納的で 事象叙述的な 論理としては みとめず、「経験」に もとづく 実証科学としての かまえや みちすじを あきらかに しているのだと おもう。なお、このさいの「記録」には、書記文献だけでなく、口頭伝承 その他も ふくまれる ことは いうまでも ないだろう。
2) または たとえば、言語の タイプの 奇妙な 不安定とか、異常な 程度の 文化の 接触とか も ともなわずに、深刻な 形態法上の 動揺を ひきおこす ような 都合のいい 条件だって いくつかは あるのだが、そうした 諸条件は、われわれの 記録には たまたま あらわれてこなかった だけの ことだ;
3) または 最後に、ある 言語が 他の 言語に対して、改造に なってしまう ような 形態法上の 影響を かんたんに およぼしうる、と 推定する 権利(資格)は われわれには ない;
言語は、おそらく あらゆる 社会的な 現象のなかで もっとも 自足的であって、もっとも かたまって(集団的に) 抵抗する ものであろう。言語の 個々の 形式を まとまりなく 分割する よりも、全体を 死滅させる ほうが 簡単である。と この章を むすんでいる。接触の 相互影響の 面よりも、構造的な タイプの 面の 重要性を いった ものと 理解すべきである。
■言語と 人種と 文化
0)言語と 人種と 文化との 三者が 一致すると おもう 素朴な 傾向が あるが、科学は、冷静に、三者が 並行しては 分布せず、分布地域は おそろしく 交錯するし、その 歴史は 独自の コースを とりがちである ことを みいだしている。「人種」感情論者の、「スラブびいき」だの 「アングロ‐サクソン気質」だの 「チュートン主義」だの 「ラテン精神」だの といった 神秘的な スローガンについては、「言語の 分布と、こうした スローガンの 分布の 歴史についての、ひとつの 注意ぶかい (比較)研究が、これらの 感情的な 信条についての もっとも ドライな 論評に なる」と、これから のべる 歴史的な 叙述の 意義を 予告して、まえがきを とじる。こうして、英語は 現在 統一された 人種によって はなされていない だけでなく、その 原型も、おそらくは、いまの 英語と 特定の むすびつきを もっている 人種にとっても、起源的には 外国語であった のだろう。われわれは つぎのような かんがえを まじめに いだく 必要は ない:―― 英語 または それが 属する 言語群が どんな 知性的な 意味においても 人種の 表現である とか;人類の 特定の 種族の、気質 または「精神」を 反映する ような 品性(qualities)が (英語の) うちに うめこまれている とか;―― そんな ことは ありえないのだ。という 要点が あらためて 確認される。紙数の 関係で、あと マライ-ポリネシア語族の 一例を あげるに とどめる と いう。その 結論だけを いえば、人種上は パプア人と ポリネシア人との あいだに おおきな さけめが あるが、言語上は マレー語と メラネシア語 ポリネシア語との あいだに おおきな 分割(境界線)が あると いう。
言語と われわれの <思考の みぞ> とは からみあった 相互関係に おかれていて、ある 意味では 同一物である。思考の 基礎的な 形状(構造)に 重大な 人種に よる ちがいが ある ことを しめす ような ものは なにも ないのだから、現実に 思考する さいの 無限の 可変性の 別名である、言語形式の 無限の 可変性が こんな 重大な 人種の ちがいの しるし(index)では ありえない という ことに なる。これは、ちょっと みた めには 逆説(パラドクス)であるが、あらゆる 言語の かくれた (潜在的な) 内容【基礎的な 思考と 共通の 面】は 同一であって、経験の 直観的な「科学」(しること science)である。(可変性の 結果として) ふたつと おなじでないのは、この 形式ではなくて(for this form)、そとに あらわれた (顕在的な) 形式(外形 manifest form)である。この 形式(this form)は、言語の 形態法とも よぶが、思考の 集団的な「制作」(芸術 art)であって、個人的な 感情から 非関与的な ものを はぎとった 制作に ほかならない のである。そこで さんざん 分析した あげくに、うた(sonnet) 形式が 人種からは 生じえない ように、言語も 人種からは 生じえない ことになる のである。と、ひらたく いいかえれば、言語の 外形(顕在的な 形式)には 人種的な 偏見も あらわれるが、非関与的な 個人的な 特徴を 集団的に はぎとった 言語の 形式(制作)には あらわれないのだ、と いうのである。manifest form と for this form との 意味と 位置に 注意しないと、外形は ととのって みえても、内容的には とんでもない 混線した 翻訳に なる。これ以上 混乱が 生じない ように、
science:ものしり しらべ what 認識対象の 側面と、サピアの 用語法について 図式的に しめしておく。まえの 2つは 原文では イタリック体に くまれている。科学と 芸術との 根源的な すがたについて、サピアが どう かんがえていたのか、暗示的だと おもう。この 部分は 訳本は どれも やくに たたない。
art :制作 技術 芸術 how 認識方法の 側面
sonnet < son(おと):うた < うつ 形式的に、14行詩という 特徴より
根源的な 芸術という 面が 問題に なっている。「うた」は 意訳。
内容的に だいじなのは 人種に かかわらない という こと。イタリアで 創始されたが、「ソネットの形式には大きく3つのタイプがあり、それはイタリア風ソネット、イギリス風ソネット、スペンサー風ソネットである。」そうだ(Wikipedia)。
また、ソネットの 14行詩という 特徴が 問題になる とすれば、うたの 特徴が 五音 七音から 構成される「みそひともじ」(31音)である ことも ふくめ、その ちがいが 人種の ちがいに よっては 説明できない、という ことに あろう。
この 形式は、個人によって はてしなく かわりうる ものだが、そのために 独特な 輪郭を うしなう ことは ない。形式は、すべての「制作」(芸術)が そうである ように、すがたを かえて あらわれているのである。言語は、われわれの しっている ものの なかで、もっとも かさが あって おおきく、ふところも ふかい 制作(芸術)であり、無意識の いく世代にも わたって やまを なす 名も ない しごと(作品) なのである。
■言語と 文学
0)いよいよ 最後の 章に はいる。この 章には いままでは あった 導入というか、まえがき的な 部分が ない。あたかも カデンツァを たのしむ かのように、楽譜の ない 即興演奏を 自由に かなでている といった 感じである。「サピア−ウォーフの 仮説」などと ならべたてるのは、早世した B.L. ウォーフの 友人であり 論集編者であった、J.B. キャロルの「友情ある 説得」ならぬ「友情ある 宣伝文句」であった、と かんがえてみた ほうがいい のではないだろうか。音声の 基礎より 形態法的な 特色のほうが 重要だと いい、「文体が、語を つくったり ならべたり する 技術的な 問題である かぎりでは、文体の 主要な 特徴は 言語 それじたいから あたえられる もの」であって、音声の 基礎に もとづく ギリシア ラテンの 手本から その 言語に あたえられる ような ものでは なくて、「言語じたいの 自然(本性)の みぞを はしりながら、芸術家の 人格を ありありと 感じさせる ような 個性的な 強調口調(accent)が くわわった もの」、つまり 普遍性と 個別性とを あわせもつ ものである。個別の 言語によって 評価も ちがい、アルゴンキン語の 伝説や 歌謡の 一語句が 現代の イメージ主義詩人の 小句に みえる ことも ある。
文体について、カーライルや ミルトン などの 具体的な 評価も あり、単刀直入で おもしろいのだが、要約も コメントも さしひかえる。西洋文学を もうすこし 勉強する 必要を 感じる。漱石にも カーライルに 関する 小品が あった ねぇ。
ラテン ギリシアの 韻文:おもみ(音量 トーン)を 対照させる 原理といった「リズムの システム」は、音声の、とくに その ダイナミックな 特色を 研究する 必要が ある;と いう。
イ ギ リ ス の 韻文:ストレス(強勢)を 対照させる 原理
フ ラ ン ス の 韻文:音節数と エコー(押韻)の 原理
古 代 シ ナ の 韻文:音節数と エコー(押韻)の 原理と 声調(トーン)の 平仄
最後の 段落は、「言語と 文学」の 章の 最終節である とともに、本書全体の 「まとめ」の やくわりも はたそうとしたのか。やや 唐突な 感じだが、《言語 = 表現の集団制作》の 掉尾(ちょうび)の 段落で しめくくられ、まえがきの クローチェ言及への「けり」も つけられる。
言語の おとでも 強勢(accents)でも、形式(意味を もつ 語や 形態など)でも、対象が なんであっても、それらが その 文学(口承も)の かたち(shape)に どんな 手を かける ばあいでも、制作者(artist)に ばしょを わりあてる たくみな 補償法則が 存在していて、こっちでは ちょっと みうごき できなくても、あっちでは 自由に うでを ふりまわす ことができる といった あんばいだ。しかも 一般には、そう しなければならない ときには 自分を つるす(hang)のに たりる ロープだって もっている (制作者個人は きえる) のである。そう なっているのは ふしぎではない。言語は それじたい 表現の 集団的な 制作であって、何千という 個人の 直観の 要約である。個人は 集団的な 創造のなかに すがたを けすが、その 個性的な 表現は、すべて 人間精神の 集団的な しごと(作品)が 本来 もつ、はりや しなやかさの なかに あとを とどめている。言語は、"芸術家の 個性" なる ものを 明確に しようと おもえば、いつでも また すぐにでも できる。かりに "文学芸術家" なる ものが ひとりも あらわれなかった としても、それは、その 言語が 道具として 貧弱すぎる からではなく、その 民族の 文化が、"真に 個性的な ことば表現" なんどを もとめる ような 人物の 生育には 適していないから だけなのである。で とじられ、序章の「この (構造として) 抽象された 言語」という 対象と、終章の「表現の 集団的な 制作」という 想定とが、つまり「関係 構造」(外面建築)と 「集団 無意識」(内面心理)とが、本の はじめと おわりとで おおきく 照応させられる のであろうか。
(掉尾の 段落については、第2稿(2015年)の かまえに もどした。2018.01.22.大雪の日、第4稿)
【この「サピア『言語』ノート」の 基礎は、2014年4月から 翌年4月に かけて かかれた。】
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工藤 浩 / くどう ひろし / KUDOO Hirosi / Hiroshi Kudow