はじめ | データ | しごと | ノート | ながれ


サピア『言語』ノート

「まえがき」

導入 : ことばから 言語へ      ことばの 要素 ―― 語 と 文 ――    言語の おと sounds

言語の 形式 ―― 文法の みちすじ(手順) ―― 言語の 形式 ―― 文法的な 概念 ―― 言語構造の タイプ

歴史的所産としての 言語 ―― ながれ ――  歴史的所産としての 言語 ―― 音声法則 ――  言語の 相互影響

言語と 人種と 文化         言語と 文学


■「まえがき」

0)E. サピアの『言語』(1921)には すでに 市販の 3種の 日本語訳
木坂 千秋 訳(新村 出 序/監訳) 1943 刀江書院
泉井 久之助 訳(補訳)      1959 紀伊國屋書店
安藤 貞雄 訳(新奇訳)      1998 岩波文庫
が ある にもかかわらず、あらためて よんでいこうと いうのは この 3種の 訳本に かならずしも 満足できない からである。告白すれば、わたしは ろくに 原文も よまずに、学生時代 流布していた「泉井訳」を よんできた のであるが、教師に なって 教案を つくりだしてから、訳本に あきたらず サピアの 原文と とっくむ ように なり、自分なりに サピアが よめる ように なった のである。以下 先学に やや 批判がましく のべる ことも おおく なりそうだが、基礎づくりは 訳本から うけた 恩恵は、はじめに 告白して おかなければならない。とりわけ、フンボルト、サピア、泉井久之助からの 影響は、わかいころの わたしにとって ひろく ふかい ものが あったので、その 批判は、ただの 他者批判としては おわらず、自己にも きりかかり きずつける ものだから、ことばが むきに きつく なった かもしれない。
 なお、最後の 安藤訳の「解説」には、「後者(泉井訳)は、厳密には、前者(木坂訳)の補訳と言うべきものである。」と ある。戦後の 泉井訳は、現代風に いえば、<新村監訳 木坂訳 泉井補訳> と いうべき ものであるが、それを しっていながら(泉井訳まえがき) 泉井単独訳とした (翻訳本 出版上の) 理由は よく わからない。「補訳」が かならずしも 補正には なっていない。サピアの「古典(的な)精神 classical spirit」に 共感するには、泉井は 「近代的な精神」の 分別ある 知識人でありすぎた のではないか。

 最初に 「まえがき」で 3つの 話題を とりあげようと おもうが、それが そのまま 再読の 必要性を 確認する ことに なるだろう。
1) 基本用語 "Drift" を 「駆流」や「偏流」などと 訳す ことの 誤謬
2)「まえがき」の "unconscious and unrationalized nature" の 意味
3) "liberal thought" と "Croce" に めずらしく 言及した 意味 理由
という 3つの テーマであり、いままでも おもいつく ままに あちこちに かきちらしてきた ことでは あるが、E. サピアの 基本的な「精神」と《方法》とに かかわってくる 問題として、ここに まとめておきたい。


1)かかれた 順序とは ちがうが、この「まえがき」(PREFACE)にも 登場し 第7章の みだしにも なっている "Drift" という サピアの キーワードであり 重要概念である 語を、木坂(+新村)訳では「漂流」、泉井訳では「駆流」、安藤訳では「偏流」と 訳している。この drift という 語は、アメリカでも 日本でも「ドリフターズ」という かたちで 歌手グループ名に なる くらいで、あてもなく ながれゆく ことを あらわす 日常語であり、やはり ふだん つかう drive という 動詞からの 派生名詞である。歴史言語学で おなじみの「比例式」で いえば、give:gift = drive:drift という 関係に ある、ごく 日常的に 使用される ことばである。「言語学の 研究者」だけではなく、「専門外の ひとびと」にも むかって 「専門術語」や 「専門記号」を つかわずに かいた と わざわざ「まえがき」に ことわる 本書の 訳語として、「駆流」や「偏流」という 珍奇な 語を つくりだす 神経 というか、「精神」は いかがな ものだろうか。近代的な「専門人」すぎないか。
 人間が あてどもなく「漂流」(木坂 新村訳)するのは、うみに 潮流 海流が ある ためだが、こうした、個人の ちからでは どうにも ならない、環境 状況としての おしとどめがたい おおきな「ながれ」の ことを、サピアは 日常語の drift で たとえたのである。こまかい 性格は、文の レベルで 表現できれば いい ことなのである。それを「要素」としての 語に すこしでも おおく おしこめて 「専門術語」に したてる ために、泉井は「駆流」を でっちあげ、安藤は ふるびた 格納庫から「偏流」を ひっぱりだしてきた のである。
 要素としての 語と 構造としての 文とに わかれている こと、いいかえれば いわゆる「分節」を うけている ことこそが 人間言語の 本質的な 特徴だ というのに、すべての 性格を 語に おしこめようとして、文構造の 修飾要素に まかせる ことができない、非人間的な 精神なのである。drift という 語の 訳語としては、日常語「ながれ」で 訳せば とりあえず じゅうぶんで ―― 漢語なら「漂流」か「潮流」か まよう ところ ―― 、あとの 性格 (性質や 特徴や 様態など) は 修飾要素として 文脈に 応じて 付加して、いいかえれば、焦点化の はっきりした 文に すれば いいのである。そのほうが、自由の きかない「駆流/偏流」という 語(外的な 形式)を つかって 固定的に かんがえるより、よっぽど 情報の 焦点が はっきりした 構造の 文に なって、文章のなかでも (内的な 形式として) くみあわせやすい はずである。
 なお、『言語学大辞典 術語編』(河野六郎 序)は、序文で 音訳語の 必要を 一般的に といた うえで、この 用語に「ドリフト」という 音訳語を 採用している。辞典としては 異例であろう。河野六郎なりの 先学批判であろう。ちなみに、「サピアの言語学」「ドリフト」という みだし項目は、わたしの よんだ なかでは 最良の 解説である。のこる かきくせや 「駆流」「泉井」などの 語使用から 推定すれば、前者の したがきは (全部ではないにしても おおくは) 宮岡伯人の 執筆で、後者は 河野自身の (補充立項としての) 執筆ではないかと おもわれるが、よく できている。凡百の 解説書を さしおいて、推奨したい。後者は、達意の 簡潔な 散文の 見本である。前者には、編者の 推敲の 途中であった 引用の 未確認の 部分(1933?)も のこされている。最後まで 編者の 関心を ひきつづけていた 項目の ひとつであった のであろう。


2)この「まえがき」の 原文 第2段落の 最後を、この drift の 問題を とらえる てがかり としての「価値」は、主として、
the unconscious and unrationalized nature of linguistic structure
という、言語構造の 性質に かかっている と むすんでいる。この 部分を 訳書では
木坂訳:言語構造の 無意識的な 非合理的な 性質
泉井訳:言語構造の 無意識的な、前合理的な、性質
安藤訳:言語構造の 無意識的 かつ 非合理的な 性質
と 大同小異に 訳しているが、サピアの いいたい ことは これでは つたわらない と おもう。"unrationalized" を 泉井訳は、「前合理的」と、第1章後半に 二度ほど つかっている "pre-rational" (前合理的/前理性的)の 類義語と みなして 訳していて、一歩 前進しているが、この「前‐」という とらえかたは「合理/理性に 達していない」という 前提/ふくみ を もつ。その 前提/ふくみ は、第1章の いわば 起源論においては いいとしても、「まえがき」の ことばの 価値論 構造論の 文脈においては まずいと おもう。この "unrationalized" という 語は、文法的には まだ 形容詞に なっていない、動詞の 受動(完了)分詞の 段階なのである。つまり「理屈によって 合理化されていない」といった 意味なのだと おもう。そのまえの "unconscious" も「無意識的な」の ままでもいいが、「意識化/自覚されていない」といった ように 動詞的に 理解した ほうがいい ように おもう。つまり、ここで サピアは、結果としての 状態や 無時間的な 性質を 静的に 問題に している のではなく、プロセス(みちすじ)としての 心理作用を 動的に 問題に している のである。
 この「非合理」を、「不合理ゆえに われ 信ず」といった ふるい 信仰思想や、ディルタイや ベルクソン などの「非合理主義」の ながれの なかで 理解する という ことも ありうる ことで、わかき 亀井孝が かつて「生の 哲学」の たちばから ことばの「非合理」を 明言していた ように、新村+木坂訳も そうした 意味あいでの「非合理」を いうのかもしれず、泉井訳の「前合理」も 泉井流の レヴィ ブリュル+ベルクソン解釈に よる ものかもしれないが、安藤訳は どう 理解すべきか。新村+木坂訳の「非合理」と 安藤訳の「非合理」とは、その「内的な 形式」において 一致しない かもしれない。「内的な (言語)形式」は、W. von フンボルト以来、<文の 構造> や <文章の 構成>、つまり <総合的な 創造> の <くみたて> に あらわれるのである。それは、本書の 翻訳全体に にじみでてきて、全体の 印象の 差と なって あらわれる ものなのである。
 いづれにしても、この 語を、動詞的に、ダイナミック dynamic に (デュナミス dynamis として) 理解すべきだ という こと自体は うごかない と おもう。「非合理主義」思想も、そのように かんがえた 結果の システムに すぎないのである。
 この「ながれ(drift)」と 「構造(くみたて)」と 「心理/合理(こころ)」とを めぐる 問題は、サピアの「心理主義」を 問題に する さいには、かなり 重要な 論点に なり、些末な 問題とは いえないと おもう。


3)最後に「自由思想」「クローチェ」が わざわざ「まえがき」に 言及されている 問題で、直接 言語学に かかわる 問題でも なさそうなので、ふかいりは さけようと おもうが、本書が 刊行され、「まえがき」が かかれた 1921年4月という ひづけが、ドイツ ナチス党の 設立(1920.2.24)と イタリア ファシスト党の 設立(1921.11.9)とに ちょうど はさまれた 不穏な 時期であった という 事情が、ユダヤ系の 学者として、あえて「自由思想」と「クローチェ」への 言及に なったのだと おもう。「言語研究を 専門にする ものが、みのりの ない 技術的な だけの 態度(かまえ)から すくわれたい のなら、自分の 科学が あんがい ひろい かかわりを もつ ことを しる ことも 肝要である。」という 文の 直後に、これらの「自由思想」や 「クローチェ」の 記述が でてきて、言語と 制作(art > 芸術)との 関係の ちかさの 問題も でてくる ことの、根源的な 意味(fundamental significance)に 注目する ことは 従来 なかった。そもそも "art" は 「芸術」に かぎらない。
 木坂訳の「著者小伝」には、関連する 記述も ないでも ないが(302ペ 第2段落)、戦時中の 訳書 刊行(1943)であり、同盟国 ドイツ イタリアへの、というか 出版検閲への「配慮」でも あろうか、すくなくとも 明言は されていない。
 平和な 時代の 泉井訳 安藤訳の 解説は、純学問的である ことを おのおのに ほこっており、社会や 人生に かかわらない。さらに 安藤訳では、「よみやすさ」から 段落を きって 関連を みおとし、論理展開も みそこなっている。訳注1, 2 も 参照。訳注は 文脈における 意味あいや 意義づけの 解説が だいじなのであって、百科事典の 抄録で 代用する わけには いかないのだ。
 「みのりの ない 技術的な だけの 態度」という 表現も、「自由思想・クローチェ・制作」などとの 関連の、一般論と 解して いいのだろうか。ブルームフィールド流の 記述言語学に ひきよせて サピアを 理解しようとする 「近現代」の 傾向にも、以下 すこしづつ ふれていくが、この「まえがき」の 段階でも、言語学の 当時の 現状との 関係で、"psychological"(心理的) と "technical"(技術的) との 対比は こころに とめておくべきだと おもう。また クローチェに かかわって でてくる "art"(制作 > 芸術)に ついての "insight"(みぬき/洞察)と、「言語研究」の "technical attitude"(技術的な かまえ/姿勢) との 対照も、よみすごす ことはできない と おもう。"art" を つくる ことにこそ "techne" として 技術は うまれた のであるが、近代には 主情的に 分裂する。「古典的な 精神 classical spirit」に 反する 空想的な 「ロマン主義 romanticism」が 現代の アメリカには はびこっている、と 「文法家と その言語」(1924)の 末尾で 批判している。


■導入 : ことばから 言語へ

0)本論 第1章に はいる。この ノートは、サピアから まなぶべき 主要な テーマ 論点を まとめる ために かくのであって、訳書の 誤訳を 指摘する ことが 目的なのではない。重要な 論点に かかわる 誤訳は 問題に するが、ささいな 誤訳や 不注意な 表現の たぐいは、訳者の 名誉の ためにも わたしの 品位の ためにも とりあげない ことにする。間投詞(ウーッ!)と 形容詞語幹の 一語文(イタッ!)との 混同 といった 不注意(安藤訳 p.17)は、よみはじめて あまりに はやく でてきたので びっくりして マークしてしまったが、こんごは ご愛嬌と みて とりあげない、というか 気は つかわない ことにする。そんな 作業は、いくら なんでも 時間が もったいない。


1)第1章で 2度 異口同音に くりかえされる 重要部分が ある。いわゆる「言語の定義」の 部分では ない。
 したがって、この ことばの研究序説【=副題:たぶん 企画段階の タイトル】では、ことばの うらに ひそむ 生理学 および 生理学的心理学の 側面は とりあつかわない ことは、はっきりと 理解してください。われわれの 言語の 研究は、具体的な メカニズムの 発生や 作用の 研究ではなく、むしろ シンボル化の 機能(function やくわり〜つとめ)と 形式(form かたち[づけ])との 探求なのである。その シンボル化の システムは その ふたつの 面が 任意(不定)(arbitrary 数学用語)に むすびつくのだが、その システムの ことを、われわれは 言語と なづけている のである。(原書 p.11、安藤訳 p.26、改訳。なお 強調は 引用者。)

 … 言語の 本質的な 事実は、むしろ 諸概念を(よこに タイプに)分類し、(たてに)形式の パタン化を して、概念間の 関係を つける【= 構造として 説明する】ことに ある。もういちど いう、ひとつの 構造として ある 言語は、内的な 面【=「内的な 形式」】においては、思考の 型(mold)である。この (構造として) 抽象された 言語のほうが、われわれの 探求においては、むしろ ことばの 身体(生理学)的な 事実よりも 関心を ひくのである。(原書 p.22、安藤訳 p.42、改訳。)
の 2か所である。つまり、日常語を つかった 総体としての「ことば(speech < speak)」の 現象が もつ さまざま 性質の なかから、言語学が あつかう 本質的で 重要な 性質を もった、やや かたい ラテン語由来の 用語に よる「言語(language)」の 範囲に 対象を 限定し、明確化(define)していく ことこそが、第1章の 眼目なのである。精密な「定義」を くだす ことなんかでは けっして ないのだ。訳書は 3冊とも、いかにも 専門職学者らしい 成果(結果)どりの 翻訳「序論 ―― 言語の 定義」に なっているが、サピアには 明確化の プロセスこそが だいじだったのだと おもう。第1章の タイトル "Introductory: Language Defined" は、「導入:言語の 明確化」ぐらいに 訳すべきでは なかったか。 "Defined" という 分詞と "Difinition" という 抽象名詞との 差は、どう みえたのか。実体化信仰 という「物神崇拝(fetishism)」は、相当に ねぶかいと みえる。これでは "virus definition file" と みれば、「ウイルス 定義 ファイル」と 機械翻訳した ままで よく、「ウイルス 明確化(判定) ファイル」などと くふうしようとも おもわない、パソコンの セキュリティ関係者の 鈍重な 言語感覚も わらえない。
 訳者たちは サピアを 自分の 関心の レベルに ひきずりおろした あげく、タイプと パタンとが パラディグマと シンタグマとの 萌芽的な(とは いえ) 先駆的な 区別である ことに 気づかない のである。なお、ソシュール流の シーニュ(サイン)と シンボルとの 区別も ないが、symbol(ism)と symbolic (processes)とは 区別して つかっている ように みえる。後者は 初出では "symbolic" と 引用符づきである。前者は、同時代の オグデン+リチャーズ(1923)『意味の意味』や カッシーラー(1923)『シンボル形式の哲学』との 関連も かんがえれば、むしろ 言語の 基本機能のことを シンボルと よぶ サピアのほうが 正統的な 潮流のなかに いるのではないか。「サイン」批判は 『意味の意味』第1章などに くわしい。サインへの「純粋化」を、現状からの 逃避と みるか、形式化の 成功と みるか、たち位置の ちがいが 露骨に なる。
 カッシーラーや サピアは、論述の 視野と 射程において、ソシュール(構造主義)の 密室作業を はるかに こえている。

 なお、ソシュールの 用語体系と 比較して、

       ソシュール            サピア
        langage             speech (1)
   ──────┬──────   ──────┬───────
     langue │ parole      language │ speech (2)

のような 関係に なる ことを 指摘して、ソシュールのほうが「明晰」であると いう ような 言語評論家も いたが、「動物/そば/さけ」といった 基本的な 多義語の、意味の 中和現象(上位概念化)の システムは 「不明晰」だ とでも いいたいのであろうか。機械翻訳の 現状に 学問を あわせて、言語の 構造化の ちからを ひくめる ことに ならないか。どうしても 一対一対応を もとめるなら、(1)のほうを「ことば(現象)」、(2)のほうを「ことば行為」と 複合の てつづき(くわえて 無標−有標の 対立)で いいわける ことも できるのである。うごきの とれない 完璧な 用語体系か、経済的な 多義性を ゆるす 用語体系か の 選択である。煩雑な 安定か、簡潔な 柔軟か。正否より 好悪かも。


2)(セクション=こみだし)「言語の 定義」が でてくる 直前、ことばの 間投詞起源説 擬音語起源説を 吟味する セクションの 最後の 部分に、 "primitive"(原始的) な アサバスカ族の 言語と 対照して、英語や ドイツ語を "sophisticated" だと 表現する 場面が でてくる。訳しかたが おもしろいので、3種を 対比して しめす ことにする。

         木坂訳p.7     泉井訳p.6      安藤訳p.21
        不純になった   率直さを失った    洗練された

"primitive" を「原始的」と 訳す ことも、昭和戦前から 平成へと 評価的な ニュアンスが しだいに 気になってくる ところだが、それは さて おく としても、英独語を "sophisticated" だと する 訳は すごい 対照だ。木坂訳の「不純」は、戦争中とは いえ、ずいぶん おもいきった 翻訳の ような 気も するし、泉井訳は、さすが 古典ギリシア時代の「ソフィスト」の ふくみも 感じられる 苦心の 翻訳であるが、安藤訳は、ちょっと 理解しがたい。現代の エンターテイナーの 評論なら ともかく、1920年代の サピアの 入門書の 翻訳に つかうとは、サピアの 言語学を いったい どのように みているのだろうか。せめて「技巧を こらした」くらいの ニュアンスで つかわれている のではないか。わかいころ ディベート英語ずきの 教師から この 英単語/外来語(?) を きいて、その 軽薄さに うんざりさせられた ものだが、サピアの 訳書に みいだすとは おもいも よらなかった。ハイカラさんに 軽薄な ものが おおかった、わたしの 大学の 環境が やや かたよっていたのか。


3)第1章の ほぼ 半分の スペースを さいて サピアが 論じているのは、「概念(化)と 言語(シンボル)との 関係」と、「言語と 思考との 相互作用」の 問題である。そこで サピアは、「いえ(house)」という ありふれた 語を 例に して、「概念」の シンボルが 成立する プロセス(みちすじ)を 緻密に (固有名の 問題も ふくめて) 考察する ところから ぢみちに 出発し、文の レベルの 「思考」(判断)や その結合としての 「推論」の 問題まで バランスよく あつかうのだが、それを 安藤は 語レベルの 連合にしか 注目できない うえに、解説で なんと「くだくだしい」と ソシュールと くらべて いうのだ(p.432)。言語学の 対象から "referent" を おいだした ソシュールと、そうは しない サピア(や オグデン・リチャーズたち)との ちがいも わからず、論理が 簡単な ことを「明晰」と いっているらしい。しかも その「ソシュール」は バイイや セシュエ といった でしたちによって 講義として わりきった 表現を えらばれている という 事情さえ 考慮しようとしない。ついでに、固有名詞についての 訳注(5)も 「経験」単純化の 着目点が わかっていない。よみが こんなでは、いくら ブランド商品的に「賞賛」されても、サピアも ソシュールも めいわくだろう。
うえに「いえ(house)」と した 部分は、翻訳本に みちびかれて うたがわなかったのであるが、原書を 注意ぶかく よみなおしてみると、 "house" (やど/やどる) と すべきだった かもしれない ような 気もしてきた。ここは 「概念」の 成立が 問題に なっている ところで、われわれは 「概念」と いえば 名詞を 第一に おもいうかべる 習慣に ならされては いるが、サピアを よむ さいには そうした 先入見は すてなければ いけないだろうし、まして、第4章の「子音変化」の 例に この "house" も あげられている(原書 p.74、安藤訳 p.129)のだから、名詞的な 概念「いえ」にも 動詞的な 概念「すむ」にも 具現しうる (語幹要素としての) 概念、つまり 全同ではないが 「やど−やどる」や「すむ−すまい」などを おもいうかべながら よんだ ほうが よかった のかもしれない。「概念」は 「思考の 便利な カプセル」だとか、「ことばの ながれ(flow)は … 相互に 関係づけた 概念の セットの 記録である」とか、概念から 思考への つながりが つけられているのも、概念は 名詞的なもの だけではないと 暗示する のかもしれない。
 また あとでも くわしく ふれる つもりだが、現実との 対応=意味を 重視する、フンボルト以来の「古典精神」は、おそらく 新村(木坂)にまでしか 継承されていない のである。言語学の 対象から "referent" (現実の 対象物)を おいだした、『一般言語学講義』に 定式化された「ソシュール」の 構造主義は、まぎれもなく 近代主義である。具の ない みそしるである。それを (自明の) 前提に した 目には、サピアの 論理展開の みちすじが まどろっこしく みえるのであろう。この あたりの 翻訳文は、個々の 要素(語)には たいした ちがいは 生じていないが、文の 構造や 文章の 構成(くみたて「内的な形式」)は としとともに 劣化している ような 気がする。よんでも サピアの すごみ 軽妙さや 苦労 くふうが つたわってこない。たしかに、安藤訳は たどたどしくて「くだくだしい」。


4)第1章の 最後は、言語の 普遍性と 多岐性との 問題で むすばれる。まず 普遍性については、
言語の 基礎(根源)的(fundamental)な 土台 ―― つまり、1) 明快な 音声システムの 発達、2) ことばの 要素と 概念との 特定の むすびつき [語彙面]、3) あらゆる 様相の 諸関係を 形式的に 表現する 精妙な そなえ(provision) [文法面] ―― すべて これ(3点セット)は、われわれに しられている どんな 言語でも、きちんと 完成され システム化されている ことに 気づく。
と のべ、音声 語彙 文法の 3点セットが 人間言語の (人類的)普遍性として かたられる。マルティネの「二重分節」といった、内容ぬきの 単位(ものさし)化との ちがいを みさだめてほしい。単位への「分節」ではなく、要素の「くみたて」(structure / pattern / form / process)が 問題に されるのである。みる 方向が ちがう。ことばの 観察者というより 使用者の みがまえである。
ちなみに、奥田靖雄の「を格の連語論」は、この サピアの 3)の 基本思想と、ヴィノグラードフ(1954)「連語の 研究の 諸問題」における ≪連語 = 語彙と 文法との 相関≫という 構想とが、わかき 奥田において むすびついて 発酵した のではないか と わたしは 推定している。「を格の連語論」とは、つまりは 他動構造の パタンの タイプ という、言語(=語彙+文法)における「普遍的な形式(そなえ)」の システム化である。それは、日本語人の「社会的な 対象的な 活動」を 基本的に 反映する システムである ばかりでなく、それが どこまで 普遍的と いえるか、言語間の 比較対照の 研究の 材料にも なる システムである。奥田と サピアとの 学問的な つながりについては、また べつに まとめる 機会を えたいと おもっている。
 つづいて、普遍性の 対極に あるとも いえる、信じがたい ほどの 言語の 多岐性にも ふれられ、この 普遍性と 多岐性という 言語の 特性から ≪ことばの 発達は、あらゆる (物質)文化の 発達より さきであり、言語の 表現形式なしに 文化の 発達は 不可能であった≫と 推論して、序章は とじられるのである。


■ことばの 要素 ―― 語 と 文 ――

0)第2章に はいる。この章は、実質的に 語 語構成と 文 文型との、2つの 要素と その くみたて、あわせて 4つの 話題が 中心に あつかわれる。サブタイトルに 明示した。

 はじめに、「個々の おと sound は 正確には ことばの 要素とは けっして かんがえられない。なぜなら ことばは 意味を もった 機能(関数 function)であるのに、個々の おとじたいは 意味を もたない からである。」と のべて、「おと」を ことばの 要素から はずす。ことばを シンボリズムの 聴覚的な システム つまり「はなされた 語の ながれ」と かんがえるなら、ことばの もっとも 単純な 要素は、個々の おと(の はず)だが、意味を もたないから という 理由で、排除するのである。聴覚(感覚)に とらえられる という (シンボリズムの) 外形だけでは、要素とは しないのである。言語が 建造物だと すれば、要素は レンガであり、おとは、「レンガの 原料と なる、やかれても いないで かたちも ない 粘土」である という (古典ギリシア以来の 建築物の) 比喩を もちいて、問題を うちきっている。後段の 第4・5章の「形式 form」の かんがえかたに かかわっていく 問題である ことにも 注意しておきたい。こうした 意味(=現実との かかわり)を 基礎に おく、地に あしの ついた みかた(視野)を わたしは 古典精神と いうのである。あえて 近代精神の 代表として、A. マルティネと くらべてみてほしい。「二重分節」は、記号法としては 普遍的 本質的だと いっていいが、ことばとしては 「意味」の 等質化 無内容化を ともなう。表意単位と 表音単位とを 二重の 作用の 結果と みる ことは、意味 つまり 現実との かかわりかた という 対象面を 捨象して、記号(化)の 作用面を 一般化する さいにのみ ゆるされる 抽象である。しかも、「語」より「記号素」を 優先させる 「表意単位」は、現実との かかわりかたより、理論の 内的整合性のほうを 優先させた ことを 意味する。この、ことばの 対象面の 意味=現実関係性を 根柢に おくか どうかが、古典精神か 近代精神かを わける、本質的な 特徴だと おもう。意味が 無条件に 信じられた「ふるき よき 時代」の ことさと いなおる 近代職業人も いるだろうが。


1)まず 語の 問題としては、内部論として 語の構造と 語のタイプの 問題とが、外部論として 語の 形式的独立性と 心理的リアリティの 問題とが、濃密な 文体で 過不足なく 概観される。

 「うたう」という 語で いえば、「うた」という、基本的な 概念を あらわす 部分を 「語幹(radical)要素」と よんで、Aで 表記し、語尾「う」の、抽象的な 概念を あらわす 部分を 「文法要素」と よんで、bで 表記する ことに して、タイプとしては、A、A+(0)、A+(b)、(A)+(b)、A+B【おおもじは 語幹要素、こもじは 文法要素、かっこは 非自立性】という 5つに わけられると いう。これ以上の 要約は わたしの 能力に あまるので、原文に あたっていただくが、ただ、A+(0)の タイプに 関連しては、(0)が 「多様な 価値」を もつ ことが あると いう。ラテン語 "cor"(心)という 単数 中性 主/対格形の ばあい、A+(0)+(0)+(0) という「文法」的な 公式と、(A)− という「外面的な 音声公式」(代表語幹="cord-"、マイナス=素材喪失)とを 指摘しつつ、文内の「もちば place」が その 3つの 意味を 含意的に 表現している ばかりでなく、3つ全部が 語の 生命器官のなかに かたく むすびついていて 消去できない と のべている。「記号ゼロ」(ソシュール)、「欠如的対立」(トゥルベツコイ)、「有標 無標 理論」(ヤコブソン) などと くらべて、文法の 方法として よく かんがえてみる べきである。この 一世紀、なにが 進歩したのか。

 語は、「機能」(≒ 意味 < なざし機能) 的な 単位ではなく、文のなかで 一定の 独立性を もって、心理的な リアリティを もつ「形式」的な 単位であり、「通常 語幹要素と 文という 機能的な 二大単位の 両極端の 中間に 位置する」と いう。「機能」的な 単位である 語幹要素や 文法要素(という「記号素」)は、抽象世界の 科学の 概念に 対応し、「形式」的な 単位である 語は、経験世界の アクチュアルな 経験 歴史 制作(芸術)に 対応する と いう。数学や 記号論理学などが 日常の 語とは 別に 専門記号を つくって すすむ 科学の 趨勢をも 指摘するが、科学世界の 記号素の 論理性より、経験世界の 語の 基底性 ―― 心理・歴史・制作(技術)面 ―― を みすえている ことも よみおとさない ように したい。
 日常世界において 語を 記号素(語幹要素 文法要素)と 区別する 言語経験には、確固とした 心理的な リアリティが あるが、それを ささえるのは 「文を 分解して えられる、相互に 独立しうる 最小の "意味"」といった《語の 客観的な 規準》であろうと、サピアは ひかえめながら いう。また、語の (リアルな)「感覚 feel」に 対応している 外的な 音声的な 特徴は 「アクセント」だと いう。つまり 日本語で いえば、形式名詞の「こと」や 接続副詞の「しかし」などは アクセントを もつが、助辞「は・も」や 動辞「-せる・れる」などは もたない、と いうのだ。
 サピアの "form" は、内容(≒機能〜関数)を かたちづけて こその 「かたち(形式)」なのである。「語は ひとつの 形式に すぎない、The word is merely a form, …」という みじかい 文言も、period で きれた 単文ではなく、comma で きられた 複文であり、"form," に 同格的に 配置された「明確に かたどられた(molded) 存在(entity)」という 語句が つづき、さらに その 内容的な 許容(記憶)量についての 関係詞節も ついている のである。サピアの 一文は ながい。意味も 思考も、深長で 慎重であって、古典的な バランス感覚も ちゃんと とれている。「語の 客観的な 規準」のなかに すくなくとも 《自立しうる "意味"》が 関与するのが、ネイティブの 「無意識」の 「常識 = 共通感覚」なのではないか。
 とはいえ、社会的・歴史的に かたちづくられる ことば現象において、語か 否か という 二項分割が つねに 峻別できる ものだろうか。
原注に、心理的な リアリティに関して「… that や but のような 抽象的な 関係語」であっても あてはまる と あるのを 拡大解釈して、日本語の「付属語」つまり 自立しない 助詞 助動詞(じつは 接辞)にも 心理的な リアリティが ある と 主張する ひとまで あらわれたのには、おどろいた。橋本進吉の「付属語」も 服部四郎の「付属語」も 山田孝雄の「関係語(=助詞)」も、サピアの「関係語」つまり 自立しうる 関係詞や 接続詞とは ちがう だろう。「ばかり だけ なんど」が、形式名詞と 副助詞とを ゆらぐ わたり現象は あっても。

(第1節の「語」「形式」については、一部 かきあらためた。2018.01.7-8.)


2)文は、この点で 両面性を もつと いう。文は、
(機能的な) 語幹要素と 文法要素とから なりたっている と 感じられる かぎりに、
      論理的に まとまった 思想に 対応するし、
(形式的な) 語と 語とから つくられている と 感じられる かぎりに、
      心理的に (リアルな) 経験や 制作(芸術)に 対応する、
という ふたつの 面を もつと いうのである。「ことがら(proposition < propose)の 言語(=論理+心理)的な 表現」と 規定できる 文は、形式的な (心理的な) 語の 面と 機能的な (論理的な) 語要素(記号素)の 面との 両面性を もつと いうのである。このことと かかわって、文の タイプ じたいは、伝統によって 厳格に「あたえられた」ものであるが、主として 拡大的な 「非必須の」部分において、はなしての 表現の 自由の 余地が あり、それが 個々の「文体」に なると いう。つまり 文の、伝統定型性と 自由創造性との 両面を 指摘する のである。

 語幹要素 文法要素 語 文 (といった シンボル形式面)と、概念/一体化した概念群 (という 機能内容面)との 習慣的な 連合は、言語の (うたがいようもない) 事実そのものであるが、その 連合に「任意性 randomness」も いくらか ある としても、「表現の 経済 economy」に むかう 傾向も ある。言語に 普遍的な 特質として「文法」が ある という 事実も、類似の 概念や 関係は 類似の 形式で いたって 便利に シンボル化される という 感覚(感触)が 一般化された 表現にすぎない のである。ここで「類似の 形式」というのは、たとえば「こどもが なく」から 「とりが なく」「むしが なく」を へて、「おなかが なく」「看板が なく」までの あいだに、主体概念と 主格関係と 動作(〜状態)概念との 類似の 特徴を みいだして、「… が なく」という おなじ《文〜連語 パタン》の 文法形式が たてられる ことも さす。語形態法だけの 問題では ない。この セクションでも、言語の 連合習慣の、個別 特殊的な 任意(自由)性と、普遍 一般的な 法則(義務)性との 両面性を 指摘するのだ。「不幸にも どんな 言語も 専制的には 徹底しておらず、幸運なのかもしれない」と 注記して、「文法は すべて もれるのだ」と とじる。サピアの 一流の バランス感覚である。


3)ついで「ことばの 認知的 意志的 情緒的な 諸相(すがた 知情意)」を 簡潔に みわたし、≪言語は もっぱら 認知的な 領域で はたらく ものであり、意志的側面に 命令や かなわぬ 願望を あらわす 特別の 手段が あったり、感情的側面に 間投詞や 疑念や 可能 といった モダリティを あらわす 言語要素も はいる かもしれないが、大体は 二次的な 要因で、個人的な 色彩である ことが おおい。しかし 意志や 感情が 無意識に 表現されない ことは ないし、通じあい(communication)の 目的には それで だいたい 十分だし、十分すぎる ばあいだって おおい≫と むすんでいる。「十分すぎる ばあい」というのが、たぶん サピアの いう、当時の アメリカ社会に はびこっていて 学問を だめに していた "romanticism" であり、 "classical spirit" に 反する ものなのであろう。「古典的精神」とは、数学と 音楽と (言語学と)に 共通して 存在していて、自己充足的な 単純な 要素だけから つくられた、諸形式の 純粋な 世界の なかに、「抑制の きいた 自由」として いきづいている ものらしい。数学と 音楽とは、近代的形態で よりも むしろ 算数や 歌謡に ちかく 理解すべきであり、とくに "music" は、「あらゆる 知的活動を つかさどる ギリシア神話の 女神ミューズ」に つながる 語源的な 連想が いきている ものであり、日本では「うた よみ(数)、まひ ふむ」もの、歌謡 歌舞として かんがえた ほうがいい のだろう。("The Grammarian and his Language" epilogue. 1924.)

 最後に「語の 感情調」を、「語に 内在する 価値ではない」とか「かわりやすい」と おおむね 消極的に 評価しながら 概観し、
芸術家は、ときおり 感情調と たたかい、語に ありのままに(nakedly) 概念的に 意味すべき ことを 意味させて、感情の 効果は 概念や イメージの 個々の ならべかた(juxtaposition)の もつ 創造力に たよらなければならない。
という 一文で この 章を とじる。狡猾 危険であったり、陳腐であったりも する 語の 感情調に たよらず、文レベルの 語の くみあわせ 配置という、自由で 創造的な「内的な 形式」に たよるべきだ、と いうのである。最後も、語と 文との 表現の かねあいが 問題なのである。―― 以上のような おおすじの 理解は、残念ながら、翻訳で えられた ものでは ない。翻訳では 意味が よく わからない ところを 原文に あたって という やりかたでは あったが、ともかくも 原文を よんでみた おかげである。問題に 誘導してくれた 翻訳に 感謝すべき なのだろう。

 「語と 文」という 原文に ない 副題を つけたのも、ひとつの ポイントであるが、じつは、山田孝雄(1931)『日本文法要論』(岩波講座)も、泉井久之助(1939)『言語の構造』(弘文堂 教養文庫)も、第1章が「(単)語と 文」で はじめられていた のである。サピア(1921)『言語 ―― ことばの 研究 序説』も、第1章「ことば」と「言語」、第2章「語」と「文」という ふたつの 二元性を 総論の 2つの 章として 論じている ために、外見は ちがうが 実質は おなじだ というよりも、1930年代は 「言語」を 無前提に 論じられる 時代に なっていた のである。
 ただ そのことが 「文」の 総合的な 研究にとって、しあわせであったか どうか。現実とも 意味論とも わかれて、構文論が 形式化へと すすんでいき、それが すんだ ころに、談話論や テクスト論が (なまにえに) つけたされていく、という 20世紀の 研究史を ふりかえる。


■言語の おと sounds

0)この 章は、わたしの 専門でも なく、興味も かたよっているので、繁簡 よろしきを えない ところも ある かもしれないが、以下は、現代 音声学 音韻論の しろうとの 我流の よみかたである と おもって よんでもらいたい。はじめの ほうに、スペースの 関係で 「めだった (未解決の) 事実や 見解」に かぎる ことや、「おもいきった アウトライン」に かぎる ことが ことわってあるが、さすが サピアの 説明は、しろうとには ちょうど いい、てぎわの いい 要説に なっている。


1)ありうる ことばの おとが 膨大で、きく みみの、聴覚は 比較的 敏感なのに、はなす くちの、(たとえば 外国語習得に みられる) 調音上の 硬直性は、母語の 伝統の おとを 発音するのに 必要な シンボリズムに ならされてしまった 代価だと いう。
 以下、調音器官の やくわりや 母音 子音の 調音上の 特徴の「アウトライン」が 要領よく まとめられ、おわりに、おとの 4重の 分類【1) 声帯の かまえ、2) くちか はなか、3) 通過か 阻止か、4) 調音点】が しめされるが、もう わたしには うまく きりつめられないので、いっさい はぶかせていただく。原文を ぜひ よんでいただきたい。

 なお、人間の だす「音声 phone」と、無機物の 音響(ex. かみなり)も ふくめて いう「おと sound」とを、こどもにも わかる 語で 区別して のべる。「まだ音素(phoneme)という用語を用いていない」のではなく、もちいる 必要が ないのである。「理念・価値 / システム・パタン」といった 用語で 十二分に あらわしわけている。パラディグマティックにも、シンタグマティックにも。
【補注】"sound" と "phonetic" の 区別については、名詞用法には "sound" を つかい、形容詞(関係的)用法には "phonetic" を つかう、といった 構文用法の ちがいであって、語彙的な意味(語幹要素)は 区別しない、いわば 品詞(転成)間の「補充法」の 関係にも みえる。
 「形式」の ちがいには 「意味」の ちがいも ある、という「構造的」な 前提に まず たってしまうが、一方で、同音語や 同義語といった、記号(あらわし)と 意味との「非対称的な 二重性」(Karcevskij)の 問題も まじめに かんがえなければ いけない(条件 傾向など)。
 サピア「音論」は、「おと」と 「音声(的)」とで 区別する 必要も ない。「音素 phoneme」も ふくめて、「音(声)(の) ―― 器官/生理/ダイナミクス/機能/構造/パタン/システム/タイプ …」と いった ぐあいに、複合語や 語結合による 構造(パタン)で あらわしわければ いいのである。"drift" の 用語精神も かんがえあわせよう。のちに、「音素」を つかいだしたのも、学界主流の 理解力に あわせた 社交〜方便であって、サピア音論の 本質的な あつかいかたが かわった わけではない と おもう。
 「おと」と 「音声(的)」との 区別は おおく、なおすのも 大変なので、すべて 無視してください。(2017/11/24 に 補注 加筆)

2)つづいて 「音声要素の ダイナミクス」として、おとの ながさと、アクセント(つよさ/たかさ)と、結合可能性、の 3つが あげられ、とくに 最後の 結合性の 重要性が とかれる。「ダイナミクス」というのは、個々の 音声要素の 静的な 性質が まとまりの なかで「うごく〜はたらく」ときの 特徴 という 意味なのであろうか。「韻律的特徴」だけに 対応する わけではない。
 ついで、音声の「価値」を とくが、そのさい distinct と irrelevant という 語を つかい、たまたま「現代音韻論」と 用法が にているが、原書の INDEX にも なく、一般語としての 使用だと かんがえていい ように おもう。のちの 学者が 専門語に したのだ。
 そんな ことより、この セクションの 最後に、
ふたつ以上の 言語の 客観的な 比較は、まず その おとの「おもさが はかられ」ない かぎり、その 音声の「価値」が きめられない かぎり、心理的な 意義も 歴史的な 意義も もたない。ところが(in turn) これらの 価値は、現実の ことば(actual speech)の おとの、一般的な ふるまいや はたらきから わきでてくる ものなのである。
と いっている ことを ちゃんと 理解しなくては いけない。ここで、「心理」と「歴史」とに かかわっては、

   「心理的」と いうのは、共時的に、こころに 現実的な 対応物を もつ というのが ポイントだし、
   「歴史的」と いうのは、通時的に、<ものがたり>とも 訳せる 具体性 現実性を もつ ものである。

 「現実性〜実感性 reality〜actuality」を 「実在〜実際」の ことばから うまれる 「価値」として、ことばの 意義を 具体的に 理解しないと、「抽象的」な 現代音韻論との ちがいも みえてこないだろう。


3)最後に「音声パタン」で この 章を しめくくるが、その 本文末の 一文は とりわけ 重要で、
そこで あらゆる 言語は、明確な 文法構造によって 特徴づけられている ばかりでなく、おとの 理念的な システム(シンボル原子の システムと いってもいいか)と その 基礎に よこたわる 音声パタンとによっても 特徴づけられているのである。音声構造も 概念構造も、どちらも 形式を もとめる 言語の 本能的な 感触を しめしているのだ。【ここの「シンボル原子 atoms」という 表現は、[語の 化合元素 = おと] という 化学の 比喩的な 意味で つかったのだろう。"ideal(理念的)" は、むろん 哲学上の (厳密な) 意味だろう。】
「おとの 理念的な システム」が <音素体系> に、「音声パタン」が <音素の 結合型> に、それぞれ ほぼ 対応する 用語である と いってもいいが、「心理的/歴史的」と される「価値 ≒ <弁別的特徴>」も からめて、学問システムの 根本的な ちがいも 考慮しなくては、学問的な 検討には ならないだろう。すくなくとも、心理 意味 形式 機能 歴史 といった ことについての たちばの ちがいである。貧困な 哲学に もとづく「現代音韻論」からの 裁断批評的な 訳注には おどろく。精密化 機械化が 進歩を 意味する 分野も あろうが、人間言語の 問題は、行動科学だけでは とけず、(哲学も ふくめた)「心理学」が 必要な ことが そもそもの 出発点なのである。行動科学からの 連想で、動物実験的な 心理学を おもいうかべては、とんでもない まちがいだ。その点 「精神科学」と いった ほうが 誤解が なかった かもしれないが、当時 そう 自称していた 著名な 流派(ディルタイら)とは、一定の 距離を おいていた のであろうか。

 うえで 「音声構造も 概念構造も (どちらも)」と いっているのは、つまりは マルティネの「二重分節」の ことを さりげなく いっているのだ という ことも、いいたくは ないが、「ことあげ」しておく。おとじたいに ことばの 要素性は ないと した サピアは、ことばの 要素としての 語や 文の 構造(パタン)に 形式を みるのである。個々の おとじたいではなく、語の「おとの パタン」に 文の「リズム(構造)」に、意味を もった 言語形式を みるのである。むろん、分解を いうか、くみたてを いうか、みかたも ちがう。観察者の 観点か、表現者の 観点か、たちばも ちがう。宮岡伯人が 語の「結節性」を いうのも、この サピアの「感触」なのだろうか。

 なお、原脚注の 最後の 部分も、
ヌートカ族の 通訳は、純客観的な たちばからは 不十分で、現実の ことばとしては 轟音/雑音である ものを、その 意図/意味 (intention) どおり、音声要素の 理念的な ながれを 転写している、という 奇妙な 感じを わたしは もった。
とでも 訳して、じっさいには こどもが「セーェン チョーライ」と やや したたらずに いっても、おやが /センエン(千円) ちょうだい/ と ききなしたり、「アシ×× パー×× ×ク?」の ×の 部分が じっさいの 騒音で ききとれなくても、/あしたの パーティ、行く?/ と ききとるだろう といった、母語話者の 「理念/パタン」を みぬく ちからの ことを いっているのだ、と 説明した ほうがいい ような 気がする。

 本文の 最後の 文のなかで 「形式を もとめる 言語 … Language for form.」が 文末部に 位置して、つぎの 第4+5章の「言語の 形式 Form in Language」に つながっていく という かたち−構成に なっていて、それが さらに、総合 → 創造 という「内的な (言語)形式」に つながっていく ことも、W. von フンボルト 以来の「古典精神」の 根柢に すえられている ことであって、意図的に した わけでは ないだろう けれど、自然に キーワード「形式」が しりとり的に 連結し、思想が 展開している 妙を 感じとらざるを えない。


■言語の 形式 ―― 文法の みちすじ(手順) ――

0)第4章「言語の 形式」の 問題に はいる まえに、第2章の タイトルが 「ことば」の 要素であって、なぜ「言語」の 要素とは いわないのか;「語 語幹要素 文法要素 語群」を 問題に する さいには、「真の 意味を もった <言語> の 要素」と いっているにも かかわらず(p.25);という 問題は、とても だいじな ことなので、もう すこし のべておく。
 「文」を 問題にする 文脈では さりげなく 「ことば」に もどっている のである。もう お気づきであろう、「文」には 「あたえられた」タイプとしての 論理的な (言語の) 面だけでなく、「付加的な」「自由の余地」が あり、「文体」を なす (ことばの) 面も ある、とも サピアは いっていた。つまり、「思考の 型」としての <言語> の 側面と、「自由な 文体」としての <ことば> の 側面とを、「文」は 両方 もつから、より ひろい(対立の 中和した)「ことばの 要素」と なづけたのだと かんがえられる。つまり 第2章は、「ことばから 言語へ」 明確化する 第1章の 導入部分と、第3章以降の「言語の 各論」との 分水嶺なのである。第2章までが 総論だと いってもいい。
 サピアの 用語法は 厳密で、細心の 注意が はらわれている。それが よめない ひとも いる という だけの ことである。技術的に 専門的な 用語を 精密に 定義して つかう ことに 理想を みいだす ひとには、みについた わかりやすい ことばで 自由に 説明して あやまたない 名文が よく よみとれないのである。サピアの からかいや みたてや たとえを よみそこねて、「誤植」とか「晦渋」とか「詩的」とか おもってしまう ことも、ときに おきる ようだ。だが これは ひとごとではない のだろう。表面的な 意味は ともかく、「かくれた・内的な」意味については よむたびごとに あたらしい 発見が ある。「古典」という ことであろう。【この文章も 一年もすると ほうぼう かきなおしたくなる。HPは その点 気ままに かきなおせて 好都合だと おもう。このうえ よみての 反応が きければ なおさら いいのだろうが。】


1)前章末尾の「形式 への/を もとめての(for) 言語」に つづき、「言語 の/においての(in) 形式(化)」の 問題に はいる。語順、つまり 語を ならべる だけ(並置 juxtaposition)の てつづき(手順)は、基礎としては 深刻であり、効果においては 深遠である。この ありきたりの 表現方法の 創造性に おどろかない 精神は、とるに たらない 技巧に「洗練」されすぎている のである。
 「形式」の 問題は ふたつの 側面の もとに あらわれる、と きりだされて、自分の 常識/固定観念を うたがわない 精神は 怠惰である。意味を もたない 音声じたいは ことばの 要素ではない とした サピアは、文法的な プロセス(みちすじ) という 「形式的な 方法」だけでなく、「形式的な パタン」の 内容を なす 概念の 配置 distribution や その タイプをも、「形式」の なかに いれるのである。そして、それぞれに ひとつの 章を あたえるのである。サピアの「形式」は、「外形」や「形骸」といった、近代的な 無内容な ものではない、と いったら すこしは わかりやすく なるだろうか。形式と 内容、いれものと なかの 液体とは、一体として かんがえるのが「古典的な 精神」という ものであり、バラバラに 分析したまま 総合しないのが「近代的な 手法」という ものであろうか。
 「内容/機能(指示機能)」と「形式」とが 一体だとは いっても、そこに「相対的な 独立性」も その 交錯も みとめられる ことを、主として 英語や ヘブライ語や 北米インディアン語を 例に わかりやすく 説明していく。ただし 原文では の はなしである。もう さかうらみされても なんだから、いちいちの 翻訳チェックとしては やめる ことにする。

 とは いいながら、"Grammatical Processes" の "process" については ひとこと。これは、従来「文法的な 手順」とか「文法的な 手段」とか「文法的な てつづき」とか 訳されるのが ふつうだった ものであるが、安藤は、「文法的な 過程」と 訳している。これは、時間的に 「歴史的な 過程」とも つかわれるし、サピア以後の 音韻論で IAモデルとか IPモデルとかを 問題に し、その P の Process が より 動的に「プロセス」として 記述された ことと かかわりが あろう。ながく 英語音韻論に かかわってきた 学者として、「プロセス」に ちかい ニュアンスを もった「過程」なのであろうと 同情する。しかし「過程」という 語に 「手順/手段/てつづき」といった 意味を よみこむ ことのできる ひとは、英語学者以外で いま どのくらい いるだろうか。それほど つよく 主張する 気もないが、歴史的にも 記述的にも 動的な「プロセス」性を 感じさせる 用語としては、むしろ「みちすじ」という (語源の たどれる) 和語のほうが ベターでは ないだろうか。
 「歴史の みちすじ」「文法(化)の みちすじ」「論理的な みちすじ」「文法的な みちすじ」といった ぐあいに ………


2)この「形式(化)」「相互作用/交錯」の 一般論の おわりの 部分、つまり sing‐sang-sung という ふるくから ある タイプと、tooth-teeth という あたらしい タイプとの 2つの 機能に 対応する、母音交替の 形式(手順)を 吟味した あとの しめくくりの 部分は、
(母音交替という) 明確な 形式に むかう(to) この ふたつの 刺激は、水面下に かくれている (複数形の) ばあいも、強力に 支配的な (テンス形の) ばあいも、どちらも その 概念を (そのまま 母音交替で) 表現するのが 必要か、それとも (規則変化の ように) その 概念群に 首尾一貫した 外的な かたち(-s や -ed の こと)を (膠着的に) あたえるか、どっちでも かまわない ように うごく。いうまでもなく、こうした 刺激は、具体的な 機能的 表現(形式)の なかにしか 実現しない ものである。ある やりかたで なにかを いえる ように なる ためには、(じっさいに) その なにかを いってみなければならない。(原文 p.61)
とでも 翻訳した うえで、言語の 形式化の うごきは、「パタン」の 有無によって、自由に 拡大される ばあいも あり、傾向が 抑制される ばあいが あるが、機能面の 刺激だけでは 「形式化」が どのように すすむかは わからず、どうなるかは じっさいに ならなければ わからない、といった ことを いっている のではないか と 推察する。sing−sang という 現在−過去の パタン化の タイプ(ふるくから ある タイプ、生産的)と、tooth−teeth という 単数−複数の パタン化の タイプ(新タイプ、非生産的)とは、「パタン化の 明確な 感覚」が おなじでは なく、「表現の 方法を もてあそんで たのしんでいる(sheer play)」かの ようだ と いっている ことの ひとつの 例だろうと おもうが、(規則変化の) -ed や -s のように より膠着的に なる 現代英語への「形式化の みちすじ(プロセス)」が どうなるかは じっさいに「いってみる」、つまり じっさいの 形式を あたえてみて、ネイティブの 形式(パタン化)感覚に あうか どうかを みてみないと わからない、という ような ことを いっている のではないか と かんがえておく。最後の 文で、"must say something" と "in a certain mannar" を 使用した 意味が どうも よく わからず、すっきりとも しないが、当時 はやっていた いいまわしの 引用的な 利用や もじりでも あったのだろうか。
 そのさい 「刺激 impulse」と「感覚 feeling」とでは、「刺激」は 言語化以前の 機能(内容)面の (外部)刺激であり、「感覚」は 言語化されて 分析可能な 心理的な 感覚である、という ちがいが あると おもう。これらを「衝動/感じ・感情」というように、やや あいまいに 訳してもいいが、"impulse" は 生理学用語として 外部的に 理解して、"feeling" は 心理学用語として、根柢には 外界に 接触する (感性レベルの)「感覚」が 関係していて、なにかに ふれた ときに 感じる ような もの(感触〜触感)を ふくむ ことを わすれては いけない。
 "sang" の かわりに "sing-ed" とか、"teeth" の かわりに "tooth-s" とか、いう 人間が、(ピジン クレオールの 現象は しばらく おくとして) 現代英語社会では でてこなかったのは なぜなのだろうか。むろん、「すべての 文法は もらす」からでは あるが、具体的な 歴史的な 要因として、文法的な "drift" に 対抗する 語彙的な 例外と みて、語彙(システム)的な 要因を さぐる 方向に あるのか、言語学的には 論外(法則外)の ことと みるべき ことなのか。サピアは、後者に かたむく という ふくみ なのであろうか。


3)ついで、各論を はじめる まえに、すこし 体系だてて だが てみじかに、文法的な 手順【文法(へ)の みちすじ】が 6つの おもな タイプに 分類される。「6つの おもな タイプ」とは、語順、複合、接辞法、要素の 内部の 変容、重複、アクセント、の 6つである。この 順序に まず、注意してもらいたい。最初の 4つ、つまり「並置、合成、派生、母音/子音変化」とも いいかえられる ものは、要素の 大から 小への 順序であり、つぎの「重複」は、要素の くりかえし という (要素並置の)特殊性と、おおくは、擬音 擬態 という 自明な シンボリズムで あらわされて、恣意性は ひくい という 特殊性とを もつ ものだし;最後の「アクセント」は、つよさにしても たかさにしても、語に「超分節的に かぶさる」非分節的な ものであり、文法的な 価値も 二次的な 特徴に なりがちである;つまり ふたつとも シンボル機能としての 基本性は ひくいが、使用の 普遍性は たかい ものである、といった ぐあいに ならべられており、けっして でたらめな 順序では ない。【なお、つぎの 第5章 後半の「語順と 強勢(stress)」の セクションも 参照】
 「要素の 大から 小への 順序」というのも、文のなかに 語を ただ ならべる という、単純だが 創造の 原点でも ある「方法」から はじめて、シンボル化の 伝統のなかで しだいに 獲得されていったと みられる「技法性」や「総合性」(第6章)に かかわる パタン化できる ものに いいおよぶ 順序は、サピアの「精神」を まなぼうとする なら、けっして みのがす ことは できない。

 各論の 要約も こころみたが、ほとんどが 傾聴すべき 情報の 連続で、板書的な 図式の 列挙 というか、名人芸についての へたな 解説にしか ならない ような 感じなので、ひとさまには 退屈だろうから、省略させてもらう。くわしい 読書ノートは 各自が つくるべき ものであり、わたしの ばあい、教員時代には、講義プリントの 一部とも なった。


■言語の 形式 ―― 文法的な 概念 ――

0)「概念の 世界の 性質」が、「言語の 構造に 反映され 体系だてられている かぎりにおいて」、言語の「形式」として あつかわれる。この ばあいの "grammatical concepts" は、「文法の あつかう かんがえ」もしくは「文法(法則)化を うける かんがえ」といった 意味に うけとる べきなのだろう。そう 訳せ という ことではないが、「-的」は くせものであるし、「概念」という 専門化された 哲学的な 用語で 理解するよりも、 "conceive(かんがえる)" という 動詞と むすびつく 日常語の 名詞として 理解した ほうがいい と おもうが、市販の 3訳書とも「概念」と 訳す 学者の「常識」に これ以上の 異は たてない ことにするが、現代社会人の「コンセプト」も わからなくは ない。
とはいった ものの、『意味の意味』(1923)の 第1章の 原注3が かなり 大仰に この "concept" という 「哲学」的な 用語法を 非難していた ことを おもいだした。たぶん オグデンだと おもわれる 筆者の、学者らしい きめつけや おもいこみが、「意味」の 混乱を まねいていた ように おもう。サピアが "meaning" という 語を なるべく 数か所しか 使用しない ように した かわりの 語も また 別種の 誤解を よぶとは、当時 20世紀初期の「意味の 意味」の 混乱ぶりは 想像に 絶する ものが ある。日英とも、この語を 非哲学的な 文脈において、日常通念的な「意味や なかみ(内容)」に ちかく 理解した ほうが まだまし なのである。

1)"The farm-er kill-s the duck-ling." という 単純な 文を 例に して、さまざまな 13もの 概念が 分析されて、とりあえずの まとめとして 図表化(略)を うける。そのさい、要素の 修正、省略や 置換や 順序変更などに よって 「構造の 型(mold)」「パタン」が かわるか どうか という ことが 判断基準に なっている。そして、この セクションの 最後には、
文 という ものは、個別性を 正確に 把握した うえでの、要素の 論理的な 総合の 結果 というよりは、むしろ 歴史的な ちからや 理屈ぬきの 心理的な ちからによる 結果である。これ(こうした 性質)が、おおかれ すくなかれ 程度の 差は あっても、すべての 言語の 実情である。とは いっても、おおくの 言語の 形式のなかには、英語の 形式なんかよりも、ひとつひとつの 概念への、あの 意識化されない 分析において、整合性も 一貫性も ある 反映の しかたを している ことを みいだす こともある。この ひとつひとつの 概念への 意識化されない 分析 という ものは、どれほど こみいっていて、非合理的な 要因に おおわれている ことがあっても、ことばから 完全に きえさる なんて ことは ありないのだ。
という 重要な ことを のべている。この 訳文は、基本的には 木坂訳と 安藤訳の いいとこどり と いってよい 程度の ものであるが、泉井訳は、木坂訳を 明瞭化しようとして、文の くぎりかた 構造を みまちがえた 改悪訳だと いってよい。
 この あたりの 箇所では、サピアは、1)"un-reason-ing(理屈ぬきの)" と 2)"ir-ration-al(非合理的な)" とを つかっており、ちかくには 3)"il-logic-al(非論理的な)" も あり、「まえがき」には 4)"un-ration-aliz-ed(合理化されていない)" とも いっていた ことも おもいだしておこう。文脈としては、1)「理屈ぬきの 心理的な ちから」であり、2)意識化されない (言語の) 分析の「非合理的な 要因」である。1)「心理」については、前回 のべた ことからも、"un-reason-ing" を「理屈ぬきの」と 訳す 木坂訳は 支持できる。直訳的には「合理化しない」であろうか。「不条理な」という 訳は サピアが わかっていない。2)"ir-ration-al(非合理的な)" は、3訳書とも 「不合理な」と 訳していて、「まえがき」における 4)「非/前 合理的な」と 区別は しているが、どうだろうか。"ir-ration-al(非合理的な)" は、「非理性(知性)的」とも いいかえられる ものであり、こみいっては いても、「不合理な」もの = 理性/知性に 反する もの とは かぎらない。それこそ "pre-ration-al[前合理(理性)的]" な ものに ちかいと いうべきではないか。3)"il-logic-al(非論理的な)" は、ここに 訳出した 部分の はじめの「論理的な 総合」に 対応して、母語にも 異邦的な 言語にも ある、ことばの 一側面の ことを いっている。安藤訳が ただしく、木坂訳は 不注意な ミスだろう。あとに でてくる 箇所では、ただしく 訳しているから。泉井補訳は、不注意で すむのだろうか。泉井の 非合理主義(的な 解釈)が みおとしを さそった ものだろうか。
 念のために、訳語を 図表化しておくが、関連語も あわせて まとめておく。
            木坂訳     泉井訳     安藤訳     工藤訳
1)un-reason-ing     理屈抜きの   理屈抜きの   不条理な    合理化しない
2)ir-ration-al     不合理な    不合理な    不合理な    非合理的な
3)il-logic-al      不合理な    不合理な    非論理的な   非論理的な
4)un-ration-aliz-ed   非合理的な   前論理的な   非合理的な   合理化されていない

cf) pre-ration-al    先理的な    先理的な    前理性的な   前合理(理性)的な 【原文 p.15(第1章)】
  un-reason-able   不条理な    不条理な    不条理な    不合理な     【原文 p.99(第5章)】
 こまかい 詮索は おくとして、ここで サピアの いいたかった ことを おおざっぱに 解説すると、ことばの 機能単位の なかでも 具体的に 現実と かかわる 「文」という 単位は、(学校文法で 重視する ことの おおい) <論理> 的な 面も 否定は できないが、それよりも、<歴史> の 面 [そこには 後述の 音声法則の ような 伝統の きびしい ちからや 惰性的な ちからの 面も あれば、ながれ(drift)の ような おおきな 傾向の 面も ある] や、<心理> の 面 [そこには 自立性についての リアリティの 面も、無意識の 分析の 整合性の 面も、後述の ドグマの 面も ある] のほうが おおきな ちからを 発揮するのだ、という ことではないか と おもわれる。ともかく、<歴史> と <心理> という、現実世界と 具体的に 感覚的に かかわる と かんがえられている 面が 重視されている という ことである。この 2つの みじかい 語に こめられた 重要な 意味を よみおとしてしまっては、サピアを よんだ ことには ならない。
 なお、「英語の 形式なんかより」と、英語の 読者の 優越感を さかなでに する ような いいかたを して、通念 常識に チャレンジしている だけでなく、「整合性の ある」と「首尾一貫性の ある」と 訳した "coherent" と "consistent" という 語は、にた 意味だが、あえて ちがいを 拡大して いえば、前者が 現実との パラディグマティックな 面に、後者が 文内部の シンタグマティックな 面に、主として 注目して いっている、という ことも 留意しておいてほしい。タイプと パタンも、心理と 歴史も そうだが、ものを、よこからも たてからも、空間的にも 時間的にも、ためつ すがめつ、みさだめるのが、サピアの 叙述の ひとつの 重要な 特徴である。


2)さきの 英語の 文の 13の 概念が 他の 言語では ことなった 形式で 表現されたり、英語では 注目されない (13以外の) 概念が 他の 言語では 必須と されたり、といった ことを 具体的な 例で 検討した うえで、「ことばにおいて 絶対に 本質的な 概念」とは なにか、という 問題が たてられ、1)「もの・動作・性質 といった 土台の 要素の おおきな たくわえ」と 2)「それを むすびつけて … ことの 基本形式を 構成する 関係概念」との 2つだと いう。そして、土台の 要素は 自立語や 語幹要素 といった 対応する シンボルを もっている 必要があるし、どんなに 内包が 抽象的な ことがらでも、「感覚(sense)の 具体的な 世界」に なんらかの つながりを むすばなければ、人間には 表現できないし、ことがらには すくなくとも 2つ以上の 表象と その 関係が 表現される 必要がある、とも いっている。<感覚の 世界との つながり> が、しかも 概念の 内包としての 抽象性とは 別の「感覚の 具体的な 世界」が 問題に なっている ことは、さきの "feeling" の 翻訳とも 関係が あり、サピアの「心理主義」を ただしく 理解する ためには、よみながしては いけない。表現の 内容における 抽象性は、表現の しかた(形式)の 具体性と、排斥しあわない 関係に あるのである。抽象的な 概念を 抽象的にしか 説明できない 評論家も いれば、抽象的な 概念を 具体的な 例で リアルに(現実的に) 説明できる 研究者も いる。
 さらに つづけて、本質的で さけられない 関係概念と、二次的で さけられる 関係概念との 問題を 具体的に 検討して、格・数・性・人称 などが「一致する」と よく いいならわしている ような 現象は、しいて いえば シンタクス(文の 結合)には 不要な ものであり、こうした ヨーロッパ語の「非論理的な 複雑さ」や「機能的な 差異を ともなわない ような 複雑な 活用組織」は、表現の 必要というより、「慣用の 圧制(暴虐)」であり、「惰性」でしか ない、と したうえで、
形式は、 その 概念内容より ながく いきる ものである。どちらも たえず 変化しているが、大体において 形式は、その 精神が とびさり 本質が 変化してしまった ときにでも、なかなか きえさらない。非合理的な 形式、形式のための 形式 ―― いちど 存在すると なると、その 形式的な 差異を 保持しようとする、この 傾向を なんと よんでもいいが ―― これは、かつて もっていた 意味を うしなった ずっと あとまでも 行動の 様式が 保持されるのと 同様に、言語の いきていくの(「生」life) には、あたりまえの(natural) ことである。【cf. nature(自然/本性) と natural との 連関 連想】
と のべている。ほかにも、概念の 明瞭な ちがいに 対応しない ような 形式の 精巧さに むかう 傾向、あらゆる 概念を あてはめる 分類図式を つくりあげようとする 傾向、いわば「完璧に 排他的な 整理棚」を もとうとする 傾向も、この (無意味な 形式の おこる) ことに 関係してくる と いって、つぎのように まとめる。
ドグマは、伝統によって 厳格に(融通の きかない ように すみずみまで) 規定されているのだと すれば、形式主義に こりかたまっていく。言語の 範疇 (と よばれる もの) は、いきのこっている ドグマ ―― それは 無意識の (つくりだす) ドグマだが ―― その システムを なしている のである。これら(の ドグマ)は、しばしば 概念の 半分の リアルさしか もたず、その いきざま(一生/生涯/生命 life)は、形式の ための 形式へと おとろえていく (老衰の) 傾向に ある。
 さらに、無意味な 形式の おこる 第3の 原因として、音声化プロセスの 機械的な (同化的な) 作用にも ふれられるが、たとえば、数における "self"−"selves"の "-f"−"-vz" のような「機械的な 多様化」は、本書の ねらいには 直接 関係してこない、と いう。


3)こうした、文法的な 概念の 性質と、純粋に 形式的な「カウンター」に 退化する 傾向とを【cf. counter:木坂訳 泉井訳は「符片」、安藤訳は「付箋」。】みてきた ところで、さきの 図表を 整理 改訂して、文結合関係を 表現する 能力も つけくわえて、

   物質内容 ─┬─ T 土台の (具体的な) 概念
         └─ U 派生の 概念
   関  係 ─┬─ V 具体的な 関係概念
         └─ W 純粋な 関係概念

という 図式を 提案するが、これらの なかには、Uや V、とくに V のように、ことばに 本質的(不可欠)ではない ものも あり、
論理的には、Tと Wとの あいだに こえられない 深淵が あるが、ことばの 非論理的な 比喩的な 精神(特質)が 強情にも この 深淵に はしを かけて、未加工の 物質性 (「いえ」や「ジョン スミス」) から 微細な 関係にまで いつのまにか うつっていく ような、概念と 形式との 連続的な 全音階(gamut)を セットアップしている。分析できない 自立語が、たいていの ばあい T群か W群かの どちらかに 属し、Uか Vに 属す ことは あまり ふつうでない ことは、とくに 重要である。
と のべ、つづけて 具体的な 例に よる 例証や 検討が くわえられていく。言語の「内的な 形式」の 理解にも おおくは 重要である、派生概念や 文法範疇や 構文関係 などについての 興味ぶかい 検討が つづけられた あとで、一般読者としては、言語は、言語表現の 両極、つまり 物質内容と 関係とに むかって すすもうとして、この 両極は 「移行(推移)的 transitional な 概念」の ながい 列で つながる ことになる、という ことを 感じてもらえれば 十分だ、と いっているので、前章の 各論についてと おなじ 理由で、省略に したがう。サピア自身の 研究メモの、ほとんど そのままの うつしでは ないかと おもわれる ほど、要約を ゆるさない 濃密な 文章であり、その (各自で つくるべき) 図表化された リストは、増補の 意志さえ あれば、いまでも 有用である ように おもわれる。
 「非論理的な(illogical)」という 語が、すくなくとも ここでは 「ことばの ___ 比喩的な 精神」という 配置で ならべられていて、かならずしも マイナスの 評価ではない ことにも、注意しておきたい。「非論理」は 「不合理」とは ちがうのである。
 ついでに いえば、なんでも 排他的に わけたがる 傾向が あると いっている 箇所(原文 p.99)で、その 分類が "un-reason-able(不合理)" である とも いっているが、 1)節の "un-reason-ing(理屈抜きの/合理化を しない)" を「不合理な」と 訳すのは これと 類義語と みている というか、両者を 混同しているのだが、【釈迦に 説法だとは おもうが】"-ing" は もともと 動詞(進行状態)的であり、"-able" は 形容詞(結果性能)的である のだから、一方が「合理化しない」であり、他方は「不合理な<合理化できない」である ことは、文法的にも "reason-able(合理的)" なのでは ないだろうか。
 「心理・論理」「合理・感覚」に 関連しては、常識に 安住した、安直な 理解は、おおく 再考を うながされる。


4)語や 要素を 文に 関係づける、基礎的な 方法は、語順と 強勢(つよさアクセント)だと いい、"with stand" (に対して たつ) という ふるい 二語の 連鎖か、"withstand"(抵抗する) という 一語(複合語)か という ことは、自立する 程度の 差に すぎず、強勢の ない 副詞(with)が 動詞に ひきつけられて 一語化したのだ、といった 強勢の ちからについても 検討した うえで、
もし 、すべての 構文的な 関係の 表現が、この ことばの 2つの、さけられない ダイナミックな 特徴 ―― 順列と 強勢 ―― に、究極的には さかのぼりうる と 想定する ことが ほんとうに 正当である とすれば、つぎのような 興味ぶかい テーゼが たてられる。:―― ことばの じっさいの 内容、つまり 母音や 子音の あつまり(シンボル)は すべて 具体的な ものに かぎられ、諸関係は、起源的には 外面形式には 表現されず、たんに 語順と リズムとの たすけで はじめて 暗示され、調音された(articulated) のである。いいかえれば、諸関係は、直観的に 感じとられていた だけで、それ自身 直観の 面(plane)を うごく ダイナミックな 諸要因(語順と リズム)の たすけで はじめて「もれる(もれだす) leak out」ことも できたのである。
という 重大な 仮説的 テーゼを たてる。「サピア・ウォーフの仮説」論者には みえも しない サピアの 基本思想である。ウォーフも、おこのみなら ヴァイスゲルバーも、語に 偏している のである。フンボルトも マルティも サピアも、「内的な (言語)形式」を いう とき、比喩(化)も ふくめて 文を くみたてる ものに 注目している 点で、ちがうと おもう。語の 外的な 形式は、かくれていても、実体的で みやすい。
 サピアの「直観 intuition」は、知性・理性が 作用する まえの 感性的な「知覚」と 理解して いいだろうと おもう。カントや フンボルトの 用語法に さかのぼれる 学問用語。いちじ 変形屋さんの 流行語用法によって 気ままに 変形したのとは べつ。

 また、サピアの いう "dynamic(s)" については、まえに「言語の おと sounds」の 第2節で、「『音声要素の ダイナミクス』として、おとの ながさと、アクセント(つよさ/たかさ)と、結合可能性、の 3つが あげられ、とくに 最後の 結合性の 重要性が とかれる。「ダイナミクス」というのは、個々の 音声要素の 静的な 性質が まとまりの なかで「うごく〜はたらく」ときの 特徴 という 意味なのであろうか」と のべておいたが、その後 『リーダーズ英和辞典』の "dynamics" に「【楽】 強弱法, デュナーミク」と ある ことに 気づき、ウィキペディアの「強弱法」には、「強弱法とは、特に西洋音楽において、音の強弱の変化ないし対比による音楽表現を言う。……… 音には高さ、長さ、音色、強さといった要素がある。これらのうち、音色や音の強さは楽譜上の規定があまり厳密ではなく、物理的に大きな変化を与えることも可能であるため、演奏者にとってはその自由な表現を行う重要な要素となる。」と あるので、「ピアニストであり、音楽・文芸評論家であ」る (泉井)と いわれる サピアの ことであるから、ここは 音楽用語の 比喩に もとづく 用語として 理解した ほうがいい と おもわれる。シンボル または その 音声要素が 全体(文や 語)のなかで「演奏」される ときに あらわれる ものと 規定でき、おとの ながさも アクセントも 結合可能性も、語順も 音調も、すべて シンボル外の ダイナミックな 特徴に なる。
 ついで それと 反対の 極に ある「照応」、つまり にかよった 信号(音声)を (脚韻的に) くりかえす、印欧語を はじめ おおくの 言語に みられるが、(一般とも いえず) 特殊の 方法も 検討されるが、チヌーク語や バントゥー語の ように、照応と 語順とが ひとしく 重要な 例も あるのを みると、もっとも 基礎的な 関係原理は 語順の ほうだ という <重大な 事実> が 痛感させられる と いう。
 ところで、おなじ 言語現象を、「非論理的な 複雑性」と あつかう ときには、学校文法流に「一致する(agree)」と やや あいまいに 言及し、原理的な 方法として あつかう ときには、より 学問的に「照応(呼応 concord)」と よんで、方法や 原理を くわしく 叙述しているのも おもしろい。サピアは、多数派に 対(抗)する かまえ(態度)で、よんだ ほうがいい ばあいが おおい。
えりを ただし、正座させられる ことが おおいのも、文章の 外見の うらに ある、通念や 慣例を よみこまなければ、意味が よく わからなく なってしまう ことが おおい からではないか。たしかに、サピアは ねころがって よめる 本ではない。コーパスと とっくみながら、帰納的に 検証しながら でないと、わたしには サピアの いいたい ことが みえてこない。
 文体に ひかれる というのも、そういう ことではないか。だらしない 文体の 専門書は よむ 気が おこらない。

5)最後に、これまで 無視してきた (学校文法では 由緒 ただしい ものと される)「品詞」について とりあげ、「語を 品詞に わける、我が国 慣例の 分類は、首尾一貫して (論理的に) つくりあげられた 経験の 在庫目録に むかって、ぼんやりと ゆれうごく 近似値に すぎない」と、慣例としての 品詞の 分類について 否定的に 評価した あとで、具体的な 例を あげて 検討していき、
こうした 検討の 結果は、(「ことばの 部分」としての)「品詞」という ものは、【語レベルで】現実(の 部分)の 直観(知覚)による (みたままの) 分解を 反映している というよりも、【文レベルで】現実(の 部分)を 種々の 形式的な パタンのなかに 構成する 能力を 反映しているのだ と 確信する ように なるだろう。構文的な 形式の 制限区域の (ことばの) 外部に おかれた、ひとつの「ことばの 部分」(という 別名の「品詞」) なんぞは、きつねびに すぎず、あてに ならない のである。こうした 理由から、品詞の 論理的な 図式 ―― その 数量、性質と 必要な 制限【注意事項 例外事項 などの こと】―― は、言語学者には たいして 興味が ないのだ。それぞれの 言語は、(論理的な 図式ではなく) それ自身(特有)の 図式を もっている。あらゆる ものごとは、その それぞれの 言語の 認識する 形式の 区分(わけかた) に 依存している のである。
と、結論を 一般化して のべている。通常の 解説に みられる ものなどと 比較して、品詞の 評価の しかたが ちがっている ことに 注意してもらいたい。「品詞」の わりきれない 分類を 便宜的に おおまかに あつかうと いった ことなどでは なく、"parts of speech" という なまえにも かかわらず、ことばとしての 文から きりはなされて あつかわれる、慣例としての「品詞」は、きつねびの ように、根拠と なる 実質が ないと いうのである。言語学者の 興味を ひかないのも、品詞じたいが ではなく、その「論理的な 図式」が である ことも みのがす べきではない。ここの 前半部での "part of speech"(単数!) に つけられた 冠詞も、前者は 定冠詞、後者は 不定冠詞 なのである。この "part of speech" は、「ことばの 部分」という 意味を ダブらせて 理解した ほうがいいと おもう。かけことば というより、もじり なのである。後半部の「品詞の 論理的な 図式」では、"parts of speech" と 通常の 複数に もどっている。現実に 慣例として ある「品詞」(の 論理的な 図式) と、あるべき <品詞>、 つまり 言語学者の 興味を ひく <言語に 特有の 図式> の 類型化/一般化とは、おなじでは ないのだ。そうで なければ、つぎに つづく はずも ないだろう。


6)はいて すてる ほど ある 解説は、品詞を ばかに しながらも、便宜的に 慣習には したがう といった ご都合主義で、たいていは 一件落着と なってしまうのだが、サピアは、(通念や 慣例に対して)「あまり 破壊的すぎても いけない」と いって、名詞(体言 noun) と 動詞(用言 verb) については、1つの (サブ)セクションを もうけて 簡潔に 論述するのである。要約して いえば、≪ことばは、ひとつづきの ことがら(proposition < propose)から なっていて、その ことがらには、どうしても、おしゃべり(discourse)を する 話題(subject)と、それについての はなし(predicating)との 2つが 最低 必要だが、その 話題の まわりに あつまってくるのが 体言/名詞(曲用)類であり、その はなしの まわりに あつまってくるのが 用言/動詞(活用)類である。≫と いうのである。"proposition" を「命題」とか、"discourse" を「談話」とか、"subject" を「主題〜主語」とか、現代言語学に ひきつけて 理解しては いけない。あくまでも 日常語で 非専門家にも わかる ように いっているのである。訳書が こむつかしい 理屈に したてあげている だけだ。そう いった うえで、つぎの ことばで この章を とじる。
名詞(体言)と 動詞(用言)とに 区別できない 言語は ない。区別しにくい 特別な ケースは ある けれども。ほかの 品詞は、これとは ことなる。どれも、言語の いきていくの(「生」life < live)に 絶対に 必要と される わけでは ない。
みじかく まとめられた この章の 最後にも、例証の ために 9行もの 脚注が つけられ、ヤナ語の 特殊な ケースが 慎重に 検討されるが、体言(noun)と 用言(verb)への 二分の 確信は ゆるがない。おおくの 言語に 通じた 研究者の、自信に みちた 単語分節の 基本想定である。


■言語構造の タイプ

0)これまでは、語や 語の 関係といった 部分的な 面に 注目してきたが、全体としての「一般的な タイプ」や 一言語の「一般的な 形式」を かんがえてみる ことは 「言語の 文法を なす、雑多な 事実の おしゃべり(recital)では、適切な 観念が えられない」と、教科としての 文法や 音楽の リサイタルとを ひきあいに だして いっている ことは ちょっと 気を ひく。サピアの 文法科ぎらいは いまさらであるが、リサイタルぎらいでも あったのだろうか? そう のべた うえで、絵画の 比喩を つかって、つぎの ように いう。
ラテン語から ロシア語に うつると、ちかくの みなれた めじるし(ランドマーク)は かわっても、われわれの 視界を かぎる 地平線の かたちは おなじだが、英語に くると、なだらかな けしき(= 地平線の かたち)に なっている ように 気づくが、全般的な 地形には みおぼえが ある。そして シナ語に 達すると、われわれを みおろす (背景の) そらが かわってくる。
と、いってみれば、印欧語の あいだでは 図(figure)の ちがいだが、シナ語では 地(ground)の ちがいに なる といった 比喩を つかって 説明した うえで、この 比喩は、言語を《形態法の タイプ》に グループわけできる という ことと 結局は おなじだと いっている。
 分類が 困難だから、分類は 無用だと する ことは、言語の 独自性という 半面の 真理にだけ 注目し、言語が にかよった 形式に 収束する 傾向、歴史の 表面の 背後に、バランスの とれた パタン いいかえれば タイプへ おもむかせる 強力な ながれ(drift)が ある ことを 問題に しない 点で、あまりに 安易(easy)だと いう。言語学 人類学の 一部に たしかに あった 傾向の 批判であろう。
 この、「パタン いいかえれば タイプ」と いっている ことを はやとちりして、両者は 同義語だと 誤解しては いけない。"SVO" "SVOC" といった いわゆる 文型は、内部を みれば S とか V とか O とかの くみあわせ(構造)という パタンを もつ ものだが、同時に 外部から みれば たとえば「五文型」といったように セット(体系)という タイプでも あるのである。いわゆる 平叙文と 疑問文と 命令文とに 関しても、主語の 語順や 消去といった パタン(構造)面の 特徴も あれば、文の モダリティ(意味上の 種類)といった タイプ(体系)面の 特徴も あるのである。この 2つの 特徴は、きりはなせない 同時的な 側面として 存在するのであって、分割できる 部分として 存在するのでは ないのである。ソシュールの「連想関係/統合関係」や イェルムレフの 「パラディグマティックな 体系/シンタグマティックな 構造」といった 関係も、側面として 分析は できるが、部分として 分割しては いけない。誤解は ないとは おもうが、注意しないと、この あつかいかた ひとつで 要素主義と 構造主義との 分岐点にも なる。
 「三等辺三角形 つまり 正三角形」と いっても、対象としての ものは おなじでも、意味は ちがう。人間から いえば 観点が、ものから いえば 側面が ちがう。「われわれ 労働者」の 「われわれ」と「労働者」とが 同義だと いう ひとは まさか いないだろうが、この ばあいも、おなじ 人間を 人称の 観点からも 職業の 観点からも 表現している のである。「おなじ」ものにも、いろんな「おなじ」面と「ちがう」面とが 同居していて、どこを みるか、どんな みかたで みるか、に 注意しないと 混乱する ばあいも ある。
 サピアの "in other words"(いいかえれば)も、「別の 観点の 語で いえば」という ことであって、同義という 意味ではない。この「語」は、"terms" に 類した「たちば・観点・側面」といった 面/平面(plane)で はたらく ものと 理解すべき なのである。音声、語、文 といった 単位が いわゆる レベルを ことにしている という ことも、よく いわれる ことだと おもうが、その それぞれの レベルの 単位が 2つの (側)面(plane)を もつのである、と いえば すこしは すっきりする であろうか。


1)分類の 困難として、1) 観点の 選択、2) 資料の 総計、3) 孤立/膠着/屈折 といった 単純な 定式を もとめる 欲求、4) (社会)進化論的な 偏見、の 4つが 論じられるが、1) 2) は ともかくとして、あとの 2つは、なざしではないが、シュライヒャーに 代表される 傾向が 批判の 標的であろう。かなり てきびしい。3)の「単純な 定式」に つけられた 脚注に 「できる ものなら、三位一体の 定式」と わざわざ いい、本文で「複総合」が つけたり的に あつかわれている ことを 指摘する ように、3本だての 通俗分類に こだわっている。じっさい、ロウビンズの『言語学史』(p.202) によれば、この 3分類は 「当時の多くの学者の共通見解」であったらしい。両極と その「過渡タイプ」への 三分類の 抗しがたい 魅力についても ふれられているが、これは W. von フンボルトの いった 見解を うけている のであろう。が、そうした ことの うらには、シュライヒャーに うけつがれた、ヘーゲル流の <正-反-合> という 弁証法的な「発展過程」の 問題が ひそんでいる、と わたしは にらんでいる。4)に いたると、19世紀なかごろ以降を 席捲した 社会科学の 進化論 ―― いまの 社会進化論(スペンサーら) ―― の 科学的な 偏見を 明言した うえで、「言語の 理論家の 大多数」にとっては、なじみの 屈折語を 最高の ものと みなす 人間的な 偏見も まじっていると 批判する。《凡百の 理論屋は …》と やや からかい的なのは、ナチスの 汎ゲルマン主義を はじめとする 人種的偏見思想に対して、つよい 皮肉と あてこすりが こめられている からだろう。
 この セクションの おわりには、
言語は、基礎的な 形式においては、人間の 直観(的な 知覚)の シンボル表現である。これらの 直観の シンボル表現は、民族が 物質的に 先進か 後進かに かかわらず、100の 方法で (in a hundred ways) 自分自身の すがた(基礎的な 形式)を あらわす。しかも いうまでもなく、ひとびとは、その (基礎的な) 形式を 意識していない。そこで、言語を その 真の 本性において 理解したければ、「価値」の 上下を かんがえる まよいを すてて、英語と ホッテントット語とを おなじように 冷静に だが、興味を もって 公平に 観察する 習慣を みに つけなくてはならない。
という 重大な ことを いっている。「直観(的な 知覚)」の かずは、木坂訳は「数百の 様式で」であり、泉井訳 安藤訳は「無数の」である。ここには 脚注が つけられ、「形式そのものの 評価」が ここでは 問題であって、膨大な 量の「語彙」の 問題は 別問題である、と わざわざ ことわっているので、「すくなからぬ」の ニュアンスは よくても、「無数の」は 誤訳であろう。必要なら、あたらしい 語を つくる 方策が 言語には そなわっている、そうした「形式の 価値」が 問題なのだ とも いっている。「基礎的な 形式」という ものは、おそらく 文法との 関係で 語彙を 一般化した、奥田靖雄の いう「カテゴリカルな 意味」の ような ものを イメージすればいい と おもうのだが、「もの こと ひと ばしょ とき 数 ……」「行為 変化 現象 状態 …… もようがえ とりつけ とりはずし うつしかえ ……」といった ぐあいに、かぞえていく として、どのくらいの 数量に なるのだろう。百前後で すむ ようにも おもえるし、百の 単位で ≒ 数百かもしれない と まようけれども、"a hundred ways" と あるから ことばとしては「100の 方法で」と 訳しておくべきだろう。百を 多数と みるか、少数と みるかは 場面 文脈しだいであるが、ここは、「膨大な 語彙」(内容量)と 対照される「少数の 文法」(形式=方策)の 意味に とるべきであり、泉井と 安藤は、この 語彙と 文法との 関係を みそこなった のである。

 (人類)言語の「基礎的な 形式」の まえに、英語と ホッテントット語との 価値は 平等なのである。聴覚に とらえられる「(語一般の) 形式」と、直観に 知覚される「(基礎的な) 形式」とは、レベルが ちがう。感性と 知性(悟性)との あいだに、感覚と 思考(概念)との からみに、空間・時間という「認知形式(枠)」とともに、「直観」形式は 具体化できる のだろう。「直観なき概念は空虚であり、概念なき直観は盲目である」(カント)

(第1節の「進化論的偏見」「基礎的形式」「直観」について、説明を 加筆した。2018.01.23.)


2)つづいて、第一の 困難、つまり 観点の 問題に もどって、「無形態の 言語」の 問題と、「内的な 形式」の 問題と、それを あわせて「内的な 無形態の 言語」が あるか どうか という 大問題とに 言及する ことになる。ここでも、
いかなる 言語も、語彙のなかに 1つの 接辞さえ みいだせない にしろ、基礎的な 構文関係は、【語順や 音調で】表現する ことが できるし、さけられない。(したがって) いかなる 言語も 形式 (ある)言語である、という 結論に なる。
という ぐあいに、「基礎的な 構文関係」の ほうから かんがえていく。語形態(文法要素)の ほうからでは なく、それは あとから 考慮される ことである ことを 確認しておこう。つぎに 「内的な 形式」に もとづく 区別を 定式化しようとする こころみに ふれ、

     ラテン語は、外的な 形式においても 内的な 形式においても 有形式であるが、
     シ ナ語は、外的な 形式は ないが、内的な 形式においては 有形式である。

と、シナ語は、外的な 形式は なくても、構文関係については するどい 感覚(sense)を もっている と いう。さらに「基礎的な 関係の 真の 把握は しないで、<外的な 形式> を ふんだんに つかいながら、物質的な 観念だけを 多少 綿密に 表現する ことで 満足し、純粋な (構文)関係は たんに 文脈から推察されるに まかせている」ような 言語が あると かんがえられていると いい、脚注で たとえば マレー語や ポリネシア語 と 指摘するが、このような「内的な 無形式」な 言語が ある というのは 幻影だ と おもわざるをえない と サピアは つよく 否定する。もし あると すれば、
1) シナ語の ようには、あるいは ラテン語ほどにも、非物質的な 方法(ex. 介詞や 語尾)では 表現されないか、
2) または 語順の 原理が シナ語よりは はるかに 動揺しているか、
3) または 複雑な (語彙的な) 派生形成に むかう 傾向が ある ために、ある種の 関係は もっと 分析的な 言語では 表現されるだろうと おもわれる ほどには 明示的には 表現する 必要が ないか、
というような ばあいであるが、「こうした すべての ばあいは、問題の 言語が 基礎的な (構文)関係の ための 真の 感覚(feeling)を もっていない という ことは 意味しない」と 結論づけるのである。「内的な 無形式」という 観念は、「構文的な 関係は 別種の 語順の 観念と 融合しても かまわない」という ような、おおきく 修正された 意味(先述した 俗説の こと)でしか つかえないだろう、とまで 念を おすのである。やや 錯綜しがちで、蜃気楼の ような 迷訳を うみがちな 文脈だったので、図式的な かたちにして 解説した までである。
 具体例としては、脚注に 「肝油」を 意味する 複合語において、英語のほうが より 無規定的である ことを、フランス語のほうが (前置詞 とりこみに よって) より 関係規定的である ことと 対照して、指摘している。日本語で いえば、「たまごやき・めだまやき・あみやき・つけやき・今川やき …」といった ぐあいに、複合(語)に 関係を 明示しない ものが ある ように、文にも 明示的に 表現しない 言語も ありうる という ような 問題さえ、類推的に 検討は されている のである。サピアの 論理の たどりかたは、わたしの ような 短気な ものには ときに じれったくなる くらい、慎重で 厳格である。かつては たとえば、脚注の つけられた 意味が 把握できず、よみとばしていた。
おどろいた ことは、「内的な 無形式」に 関連して マレー語や ポリネシア語の ことが p.125 の 脚注で 指摘されているのに、専門家と 目されていた 泉井久之助の「補訳」が できていない ことである。次頁の p.126 の、おなじ 段落の 末尾部の 本文に ある "order" の 一語を よみすごす という ことは、油断すれば「じょうずも もらす」か。この 誤訳は、安藤訳にまで ひきつがれていて、「さわらぬ かみに たたり なし」か、「くさい ものには ふた」かな。いづれにせよ、先入見 おもいこみは 盲目である。

3)以上の 分類よりは 正当な ものとして、第4章で かんがえた 形式的な みちすじ(手順)による 分類を あげて、種々の くわしい 検討した うえで、従来 「屈折」のなかに 混同されていた 2種の 区別、つまり 要素の 関係概念の 含有量に かかわる《融合=総合》と 要素接合の 融合度に かかわる《融合=技法》とを とりだし、あるべき 概念タイプの 分類の 下位区分の 基準に 利用しようとする。
 ギリシア語 ラテン語に 代表される いわゆる「屈折(語)」という 概念にも、この 二重の 融合が あり、おおくの 関係概念(性 数 格 …)が 1語の なかに 含有=総合する という 意味で 「分析的/総合的/多総合的」などと わけられる《総合度》と、語への 要素の 接合の さいに どれだけ 緊密に 結合=融合するか という 意味で 「孤立的/膠着的/融合的/象徴的」などと わけられる《融合度》とを、区別するのである。《融合度》の 別名の "Technique" は、おそらく 芸術などの「技法(技巧)」の 転用であろう。形態的に そう 区別した うえで、
「屈折」という 語は、(のちに のべる ような 分類の) 図式を もっと ひろく 首尾一貫した ものに 発展させる ために 貴重な 暗示にも なり、言語に 表現される 諸概念の 性質に もとづいた 分類(項)の ヒントにも なるから、(後述の 分類項 D類の 一特性として) とっておく ほうがいい ように わたしには おもわれる。
と のべる。分類の 形態的な 下位区分としては 《融合度(=技法)》と《総合(度)》というぐあいに 改名して より明確化した うえで、(てあかの ついた)「屈折」じたいは、概念タイプの 分類の 大項目の ひとつ、D(混合+複雑)類を 代表的に 規定する 特性として のこせる かもしれない というのである。由来の ふるい「屈折」も、サピアの「構造の タイプ」も、ただの「形態」の 問題ではない という ことである。


4)こう のべた うえで、つぎに 言語を 分類するのに「絶対に 包括的な 方法」である「概念的な 分類法」が しめされ、
1.純粋関係的な 言語 ─┬─ A.単純
            └─ B.複雑
2.混合関係的な 言語 ─┬─ C.単純
            └─ D.複雑
という (ツリー状の) 表も しめされるが、より 基礎的な、より おおきい 分類項(純粋/混合)を 左欄(よこの 項)に おく という 約束に すれば、つぎのような タテ(行)と ヨコ(列)の テーブル状に 表記しても おなじである ばかりでなく、欄の 特性併記によって、みやすく わかりやすく なる ばあいが おおい。行や 列の 識別特徴を (…)に つつんで 併記し、第5章で かんがえた 概念[T U V W]の ふくみかたを […]に つつんで 併記する。
             単純(Uが ない)   複雑(Uが ある)
純粋関係(Wが ある)   A[T ‐ ‐ W]   B[T U ‐ W]
混合関係(Vが ある)   C[T ‐ V ‐]   D[T U V ‐]

 ただし、T=土台概念 U=派生概念 V=具体関係 W=純粋関係 (第5章)
     T=土台概念は、すべてに 共通するから、識別特徴には ならない。
こうした うえで、「要するに、言語は 非常に 複雑な 歴史的な 構造である。きっちりした 整理だなに いれる ことよりも、2, 3の 独立した 観点から、他言語と 相対的に 位置づけられる 柔軟な 方法を 案出する ほうが 重要だ」と いって、2ページ みひらきの 有名な「えらびだされた (代表的な) タイプの 分析表」(省略)が しめされるが、いま みた ばかりの 基礎的な 概念の タイプ(ABCD)が 最重要の 大分類項として いちばん 左に しめされ、つぎに U V W という 文法要素の 概念が つづき、その 右に 技法、総合が この 順に ならべられている ことに 注意したい。つまり 概念のほうが さきで、形態のほうが あとだ という ことである。
ここに おもしろいのは、まえの 表のなかに あらわわした 3つの 交差する 分類法(概念の タイプ、技法、総合の 程度)の うちで、いちばん はやく 変化すると おもわれるのは 総合の 程度であって、技法は 変更しうるが、しかし はるかに 変化は しにくく、概念の タイプは、とりわけ もっとも ながく 持続する 傾向が ある ことである。
と、あとで わざわざ のべている「歴史的な 傾向」に もとづいて、表は つくられている のである。ロシアの G.A. クリモフや 日本の 山口巌 石田修一 松本泰丈 らによって すすめられている <内容的類型学> の 出発点と なった かんがえかた なのである。


5)その他の 興味ぶかい 事例に関しては、サピアに 直接 あたってもらう ことに して、例によって すべて 省略に したがうが、この章の 最後も、つぎのような 脚注が つけくわえられて、おわる。
この種の 本では、種々の 形式のなかに あらわれる 言語構造についての じゅうぶんな かんがえ(理念)を しめす ことは、当然 不可能である。わずかな 図式的な 表示が 可能であるに すぎない。この 図式に いのちを ふきこむには 別に 一冊の 本が 必要である。そうした 本は、(表面上) いちじるしく 分岐した タイプが (少数の) 形式の 経済に まとまる ことを 読者が みぬける ように えらんだ、おおくの 言語の もつ 構造上の きわだった 特徴を 指摘する ことになるだろう。
と、ちがいの めだつ 外見と かくれた 本質との 関係の ことが じゅうぶんには のべられない、という 入門書としての 弁明が ある。とりわけ この章には 5行以上の 脚注が なんと 11も ある。いわば、あふれでる アイデアの 一端を 脚注に すくい(掬)とって、その アイデア(全体)を すく(救)って おちつかせ ととのえている という 感じである。単行本の 刊行は、その バランスとりに もう こりたか。


■歴史的所産としての 言語 ―― ながれ ――

0)「だれでも 言語が かわりやすい ことは しっている。ふたりの 個人が (いれば) … 」、と きりだされる。歴史の 章に はいって はじめての ことばが 生活の 原点から はじめられる。「Linguistics (言語学)とは Language (言語)の 科学である」と きりだす(そう せざるをえない) 教科書とは、みがまえが ちがう。教科書は その 分野の 用語法から ときはじめるし、サピアは ことば(speech)の はたらく 生活の 基本場面から、しゃべり(speak)はじめるのである。第1章も そうであった。いきる こと(生活 life)の なかから、ことば(speech)の はなし(speech)は はじまった。なんでもない ことの ようであるが、この かまえを わすれては いけない、ものを みる 根拠地 ―― まえなら 視座と いった ところ ―― であり、なんなら 根本姿勢 基本精神と いってもいいが、それによって 方法や 技術も かわってくる のである。やまのぼりに たとえれば、ちかづく みちすじ(ルート)も、みにつける 装備や 服装(いでたち)も、ちがってくるだろう。
 この章は、ことばの 個人的/方言的 変異の はなしから はじまって、時間的な 歴史的な 変化 一般へと 展開し、現代口語の 用法に もどって、"Whom …" が さけられる 心理的な 要因を さぐった うえで、歴史的な「ながれ(drift)」に はなしが しぼられていくのである。


1)ふたりの 個人が いれば、かならず 生じる 個人的な 変異と、地域的で 社会圏的な 方言的な 変異との 差は、「理念的な 言語本体(実体 entity)」に もとづく「規範(norm)/慣用(usage)」に よる 抑制や「矯正」が あるか どうかに よるのであって、個人的な 変異は、統一ある 全体として、方言とは 別の 規範に 帰せない ものだと いう。【"entity" は 属性を もつ モノが 原義】
 1つの 言語の 原型が 分裂していくには、空間的な 変異だけでなく、ながれに のって 時間を くだっていく「漂流」性も 関与している と いう。「方言、言語、語派、語族」などと いっても、結局は 相対的な 名称に すぎず、言語の 重大な 変化も 最初は 個人的な 変異では あるが、個人的な 変異が なみの ような でたらめな 現象であって、結局は 痕跡も とどめずに きえてしまう のに対し、言語の「ながれ drift」という ものは、方向を もっていて、言語の 歴史に 永久に 刻印される ものである、と ちがいを 説明する。
ここの drift は、うみというより、むしろ かわで 操縦が きかなくなった いかだの「かわながれ」の イメージである。

 ここから さきが いかにも サピアらしい。<現代語法を みて、一定の 傾斜(slope)が ある とか、未来の 変化が 現代の 傾向のなかに 予示されている とか、変化が おわってみれば すでに あった 変化の 継続に すぎない ことに 気づくだろう なんて、ふつうは おもいも しないだろう>と、一般的な 風潮について 評した うえで、この セクションを つぎのように むすぶ。
変化の 目前の くわしい ことは ふたしかである だけに、変化の 方向が 最後まで 一貫している ことは、ひとしお 印象的に 感じられる のである。
と のべて、「ながれ」の 歴史問題に すぐに すすむ のではなく、現代の "Whom" の 用法の 心理的な 問題を とおす のである。
 ただ 通過させるのではない、経由させ 対象化するのである。サピアの 方法の、王道的な みちすじ(process)なのである。


2)ただしいと される "Whom did you see?" の かわりに、"Who did you see?" と つい いってしまう;前者は 墓碑銘には いいかもしれないが、日常の 関心あふれる 会話の 質問には 後者のほうが 自然である;前者を さける ために、"Who was it you saw?" と いって、"Whom" の 文語の 伝統を 敬遠 保存する かもしれない;というような 現代の ひとつの 問題例を 検討する。なぜ "Whom" を さけようとするのか、その 理由を <心理的に> 分析し、きらう 原因に なる <言語的な 要因> を 4つ かんがえる。要約して いえば、
1) 格変化を もつ 人称代名詞(I:me, he:him)の グループと おなじと みるか、
  格変化 しない 疑問 関係代名詞(which, that)と おなじと みるか という、<形式の グループ化> と、
2) 疑問語(which, what) とりわけ 疑問副詞(where, when)が 不変化であり、強勢が ある という、<修辞上の 強調> と、
3) 疑問語である ために 文頭に くる という、<語順> と、
4) いいまわしが「ぎこちない」という、<韻律上の 障害>と、
の 4つである。この 4つの もちかたで、「ためらい値」の 等級も しめしているが、省略する。ただ、要因を おなじ 3つ もっている ばあいでも、2を もつか 4を もつかで、等級を 別に している ことにも 注意しておきたい。1(格変化の 有無)と 3(語順)とは、原理上 すべてが もつから、これで パタンとしては 網羅している。等質化された 要因の たし算、単純な 計量化では ないのである。
 詳細は 省略するが、この セクションの おわりには、
こうした 考察は、うる ところが おおきい。ある 言語の 一般的な ながれについての 知識だけでは、その ながれが (いま 具体的に) どのあたりに むかって すすんでいるのかを はっきりと みさだめるには 不十分だと わかるからだ。その ながれの 構成部分の もつ、(部分間の) 相対的な 性能と 速度について、多少の 知識も 必要なのだ。
と、現代の 心理的な 考察の 有用性や 必要性が 確認されて、つぎの ながれ そのものの セクションに すすむのである。


3)つぎの セクションに はいると、こんどは はじめに、
あらためて いうまでもなく、"Whom" の 用法に ふくまれている 特定の ながれが それだけで 興味が あるのではなく、その 言語に はたらいている もっと おおきな 傾向の 兆候として 興味が あるのである。
と、前セクションとの 逆方向の 関連を つけた うえで、「すくなくとも 3つの、おおきな 重要性を もつ ながれが みとめられる」という はなしに すすむのである。
 ひとつめは、「主格と 対格との 区別を ならそう という 周知の 傾向」であるが、これは「ふるい 印欧語の 構文上の 格の システムが たえず 縮約していく みちすじの 最近の 段階に すぎない。」と 位置づけられる。印欧(祖)語の 7格が 古代ゲルマン語の 段階で すでに 4格に 減少していたし、その後も 崩壊に むかって すすんでおり、「主格と 対格の 区別は、音声化の プロセスと 形態法上の 平均化作用とに よって すこしづつ かじりとられ、ついには いくつかの 代名詞に その 区別を とどめる だけに なっている。」し、その後も、外見上は かわらなくても 心理面では 着実に よわまっており、それは われわれの 実感以上だ、と いう。
 所有格(-'s)は 生物の 名詞に かぎり、無生物は 前置詞(of)による 分析的な 表現に かぎろう という 傾向が みられるが、(人称)代名詞では、I と me、he と him、we と us といった 音声上の 不一致が おおきいので、形式が 平均化される 可能性も 深刻ではない。」と のべた うえで、つぎのような おもしろい ことを いう。
さりとて 格の 区別 そのものが いまも いきている という ことには ならない。ある 言語の ながれの もっとも 油断がならない 特異性の ひとつは、ながれが いくてを はばむ ものを 破壊できない ばあいは、その じゃまものが ふるくから もっていた じゃまな 意義を あらいながして、無害に してしまう ことである。当の 敵を 自分の 慣用(uses)へ (ひきいれて) かえてしまう(turn to)のだ。この 慣用(This)が、おおきな ながれの 2つめの もの、つまり 語の 構文的な 関係によって 決定される (ものとしての) 文において 固定的な 位置を しめる 傾向を もたらすのである。
と のべて、つぎの セクションに すすむのだが、安藤貞雄は 解説(p.432-3)で、この 部分を サピアの 晦渋な「詩的な メタファー」の 一例として あげる。しかし これは、( )のなかに しめした 原語の 意味と 指示語の 指示対象とを 誤解した だけの ことであって、「晦渋な メタファー」だった のかもしれないが、「詩的」ではない。晦渋な ものなのか、イメージあざやかな ものなのか、については、よむ ものの 解釈力に よるだろう。内容についての 解釈力は、技術としての 読解力と おなじでは ないのだ。


4)つづいて たたみかける ように、残存している 主格 he と 対格 him との 価値の 差は、はたして「形式の 区別」に 依存しているのだろうか、という たいへんな 疑問を だす。"the dog sees he" (いぬを かれが みる)とか、"him sees the dog" (かれを いぬが みる)とか、かつては いえていたのに、いまは その ちからが ない のだから、「he と him との 格感覚の すくなくとも 一部は、動詞の まえに ある か うしろに あるか という 位置に 帰せられるべき ものである」と のべて、むしろ「動詞前形」「動詞後形」と いうべきだと している。my father と father mine との ちがいも、むしろ 名詞前形と 名詞後形と いうべきだと いい、It is me. も 動詞後形の 用法として 理解できるし、性別の ある he や she には、格の ない 自立格(絶対格)への 傾向も ある、と 指摘している。
 いっぽうで、位置の カテゴリ(動詞前/動詞後)だけでなく、類別の カテゴリ(有情/無情)が 侵入してきている ことに 注意し、「関係概念の 具体性の 首尾一貫性は、英語の 歴史や 先史から しられている、あの(1つめの)、一掃的(sweeping)で 永続的な ながれの もつ 破壊的な ちからより、あきらかに つよいのである」と いう。つまり、シナ語と ちがって、英語の ながれは、<有情/無情> という 具体的関係概念に こだわっており、その 傾向は 先史以来の <格の 縮約> という ながれの 破壊力より つよい と いうのだ。


5)最後の 第3の ながれとして、不変化の 語へ むかう ながれが あげられ、第1の 格の 縮約や 第2の 位置(の 形式化)の ながれに ともなう というよりも、ある 意味では 支配する ものだと いう。形態変化して 関係を しめす ことの ない、いわば バラバラの 語を、文法的にも 語彙的にも その「位置」に よって 表現しようとする、ながれの 究極的な すがたを 暗に いいたかったのか。
"whom" の 文を 分析した さい、疑問代名詞には 自然な 修辞的な 強調が、形式の 変化性(who, whose, whom)によって なんか 効果が うしなわれている と 指摘した。この、思考と 語との あいだに 単純で ニュアンス差の ない 対応が、なるべく 不変化の 語で もとめられる ように 努力する 傾向が 英語では 非常に つよい。この 傾向は、最初 一見した ところでは むすびつかない ように みえる、おおくの 諸傾向を まとめる 原因(説明)と なる。works の 三単現の -s や、books の 複数の -s の ような、基礎の 強固な いくつかの 形式は、不変化の 語に むかう ながれに 抵抗しているが、あるいは これらが、まだ 十分には よく わかっていない、もっと つよい 形式渇望(form cravings)を シンボル化しているから かもしれない。
と いう。goodness や unable が good や able に のみこまれずに 派生語として のこれたのは、独立できる 間隙(spaces)を たもって 独自の 領域を もてた からであり、-ly に おわる 副詞は、形容詞と 意味が ちかすぎて、いつか わすれさられそうだし、whence whither hence hither thence thither の 一群は、where here there と 衝突して 現に 犠牲と なった 例である、と いう。
 「-ly に おわる 副詞」(様態副詞)は、サピアの 言にも かかわらず、21世紀の いまでも わすれさられては いない ようである(cf. 安藤訳注49)が、日本語の 形容詞が 連体形と 連用形との「活用」を もつのと おなじように、clean は 名詞修飾(名詞前形)、cleanly は 動詞修飾(動詞後形)、という ちがった 文法機能を はたす 形式(文法語形)であって、形容詞か 副詞か というような 品詞の 差ではない のではないか。さきほどの 三単現の -s や 複数の -s が、よく わからぬ「形式渇望の シンボル化」が ある せいで、不変化の ながれに 抵抗している、というのと おなじ 事例の ような 気がする。サピアの あげた 抵抗例が すべて、人称 数 テンスに 関係する ものであり、広義の テンス関係(temporality)を 構成する、-ed も -ing も はいるだろうし、おそらく 比較構文に かかわる、形容詞(+副詞)の 比較語形の -er や -est も 無視は できないだろうし、さらに、テンポラリティの 周辺/延長に、名詞修飾の 形容詞の「性質 quality」が おおく 時間外であり、動詞修飾の 副詞の「様態 manner」が おおく 時間内である、という 差も 関係してくる かもしれない。人称 数が 主述(モノゴト)の、テンスが 述語動詞(コト)の、形容詞副詞や 比較が 修飾語(サマ)の、文法的な カテゴリーである という ことが 「形式渇望」に 関係している 可能性も ある。まだ 様態副詞は とおい 将来 どう なるか 予断は ゆるさないと いうべきだが、「-ly に おわる 副詞」の しぶとい 生命力にも 注目して、「うえ・かわき」にも にた「形式渇望の シンボル化」が どのような ばあいに おこるか、探索の 範囲を ひろげる べきではないか。
 英語の whence hence などの 方向性の 副詞が 口語からは きえた こと(cf. 安藤訳注50)は、助詞「へ」と「に」の 意味変化/用法競合 といった 日本語史の 問題とも 関連し、言語普遍性の 面からも、興味ぶかい ものが ある。

ちなみに、形容詞の 連用形か 副詞か という 品詞論的な 処置は、言語学研究会の『文法教育・語彙教育』(宮島)と、『にっぽんご 4の上』(奥田)との 意見対立でも あった。これについても、理論対立の 舞台(土壌)と、そこで 演じられる 人生ドラマが あり、いつか 『かざし ノート』か どこかに まとめておきたい。参照:『にっぽんご 6 語い』の 刊行遅延と 妥協。
 最後に、英語の 語彙体系が 語の 群生(むらがり cluster)を さけようとして、雑多な よせあつめに なり、語源/造語的な 面での つながりが ない ことに ふれ、それが 借用語を 移入する ことを 促進したのか、逆に 借用語の 移入が 英語の 造語の 可能性を 委縮させているのか、という といを たてるが、その どちらも 真で、相互に たすけあっているのだ;むかしから あった 新語を 歓迎する 傾向は、英語内で よわまりつつあった (曲用 活用など 語形変化が 衰退する) 傾向にたいする うめあわせ(補償)であった;と 関連づけて 説明している。日本語における、漢語の 移入や 改変や 新造 といった みちすじと、和語の、古代における 母音交替(活用の 萌芽)の 体言部(語彙中心部)での 衰退から、近代における 造語力 一般の 弱化 といった みちすじとも 関連し、興味ぶかい。
 この 3つめの「(不変化の) ながれ」については、語彙的な 問題に 関連する ことが おおい せいか、他の 章に くらべて きれあじ するどい 例が あまり おおくは ないが、法則化しにくいのが 語彙の 特徴なのだ と 当面は かんがえる にしても、<単語と その 文法的な 配置>という 文(構文)の 問題に 研究課題が ひろがっていく と かんがえる べきなのかもしれない。


■歴史的所産としての 言語 ―― 音声法則 ――

0)前章では "Whom … " という 具体例の 分析を もとに、一般的な ながれを 指摘したが、言語は なにものも 静止しておらず、方向と 速度とを もった 非個人的な ながれが ある。その 速度は 環境によって ちがい、一般的な ものは ふかく 底流する ため、特殊な 方言的な 分岐が おきた のちも 類似した 並行現象が おきる ことが ある。英語の 複数の foot:feet のような 母音交替は、300年以上を へだてて ドイツ語にも 並行して おきたが、後述する ように、ドイツ語の「ウムラウト」は たんなる 音声法則の 域を こえて 形態法の 領域にまで 侵入している。という ぐあいに おおきく まえおきする。


1)「foot, feet (あし)」「mouse, mice (こねずみ)」という 例に みられる 音声法則を 概括して、音声法則とは、一点に はじまり 拡大し 完了した ながれの 公式化に すぎないと いう。英語と ドイツ語の 形式の つらなりの 表を みて、全般的な 相似は 明白で 方言分裂以前の 共通の ながれに よる ものだと 結論する。音声変化は 規則的であり、p t k → b t k → b d g と かりに 変化した とすれば、パタンじたいは 保存/復活されて 同一である、と 個々の 音声の「音価」より、パタンのほうが だいじだと いう。
 音声パタンの 動揺を おこし 再整理という いわば「矯正」を しよう という 傾向は 歴史的な 事実だが、その 基礎的な 原因が なんであるかは、ことばの 直観的な (知覚の) 土台や、おとの パタン化そのものや、個々の おとの「おもみ」と 心的関連【「音象徴性」の ことか】について 研究しなければ、わからないだろうと、音声変化を 生理学めかして かんがえる 研究や、「調音の しやすさ(いいやすさ)」とか 「知覚の まちがい(ききちがい)」といった 指導上の 安易な 説明で すまそうとする 現状に 不満を もらす。


2)サピアにとって、定式化できる「音韻法則」じたいは たいして 興味が ある わけではない。形態法と 相互に 影響しあっている ケースが 興味の 対象なのだ。本章の 後半は、音声学と 文法学とには 基礎的な 関係が あるらしいと いって、音声変化が、そうした 関連を もつ ものとして、のこり 半分ちかくを つかって あつかわれる。
 音声変化は、すくなくとも 3つの もとの なわ(strand)が ないあわされて (つな・しめなわの ように) できていると かんがえてみたい。

     (1) 方向を もつ 一般的な ながれ、
     (2) 基礎的な 音声パタンを 保存/復活しよう という 再調整的な 傾向、
     (3) おもな ながれによって ひきおこされそうな 形態法の 動揺が 深刻すぎる ばあいに おこる 保存的な 傾向、

音声パタンは、不変化ではないが、個々の おとほど たやすく 変化せずに、英語の 語頭子音の 系列が、サンスクリット語と、

      英     語            サンスクリット
     p   t   k          b   d   g
     b   d   g          bh   dh   gh
     f   th   h          p   t   k

のように、一対一に 対応するのは 印象的だと いう。音声パタンと (概念の) 基礎的な タイプとは、外観は ちがうが、どちらも 保守的であり、いまは まるで わけの わからない しかたで むすびついている のであろう、と 推測している。しかたが わからない だけであって、むすびついている ことじたいは、うたがっていない くちぶりである。
 第3章「言語の おと」の 最後の しめくくりが、「音声構造も 概念構造も、どちらも 形式を もとめる 言語の 本能的な 感触を しめしているのだ。」であった ことを おもいだして いただきたい。おおきく 呼応している のである。


3)音声変化は 機械的に はたらくから、形態法の グループ全体に はたらけば 問題は おこらないが、一部にだけ はたらく ばあいは 問題が 生じうる。そのさい 類推が はたらいて 規則的な ものに 屈服していくが、類推は、ある 1つの 範例表の 範囲に とどまらないで ひろがる ことも ある として、英独における、母音交替と 複数などの 形態法との 関係という 最後の 話題に はいっていく。
 英語においては、複数の -s が 類推によって ほぼ すべての 名詞に およんでいた ため、foot:feet 型の 数の 区別が ひろがるには すでに おそかった のに対し、ドイツ語では、形態の 単純化に むかう 一般的な ながれが それほど つよくなかった 時代に、母音交替の 一種「ウムラウト」が おきたので、複数や 派生などの 生産的な みちすじ(手順)に なった、と 説明するのである。

 この 音声法則の 章が、形態法の 領域の はなしで おわっているのは、 その他の 章、おとについての 第3章も ふくめても、サピアの 関心が 言語学としての 文法学、とりわけ その 概念的な 構造の、パタンや タイプに あった ことに あらためて 気づかされる。


■言語の 相互影響

0)タイトルは、英語では "How Languages Influence Each Other" (言語は いかに 影響しあうか) という 文(動詞句)の かたちである。安藤訳も 参照。ここは 木坂訳に したがった。英語では、"interinfluence" という 語は、"interaction" という 語と ちがって 不自然なのであろう。辞書にも のっていない。"influence each other" という 動詞句のほうが ふつうなのであろう。これは、"inter-" と「相互‐」との 結合性の ちがい といった 文法の 問題でも あるが、翻訳の 問題にも かかわってくるので、言及する。
 本文や 細目次では "(linguistic) interinfluencings" という 動詞派生の 分詞形の 名詞を 造語している。やはり 辞書には のっていない。「臨時一語」または 学術用語としては、造語可能という わけであろうか。"inter-linguistic influences" (言語間の 影響 p.201) という 別種の 表現も こころみている。とくに 差は ないと おもうが、木坂は おなじに 訳し、安藤は 訳しわけている。
 意図的か どうかは ともかく、<形式> という「必要なら、あたらしい 語を つくる 方策が 言語には そなわっている」(第6章 脚注4) という かんがえの、サピアなりの 実践であり、その 実践じたいが 実例に なる という "interaction" (やりとり)である。


1)文化の 交流の 必要が はなして という 人間の あいだの 接触を うみだし、精神的な 財産(goods)の 借用と 交換を もたらす ことも あり、言語の 相互影響も おこりうるが、おおく 一方向に はたらくと いう。影響のなかで もっとも 単純な ものは 借用であるが、文化の 伝達者として 重要な 言語は、シナ語、サンスクリット語、アラビア語、ギリシア語、ラテン語、の 5つであると し、それに くらべれば、ヘブライ語 フランス語も 第二ランクに さがると いう。
 借用の 性質と 程度は さまざまだが、英語や カンボジア語が 不可分の 外来語として 借用する 代表だ とすれば、ドイツ語や アサバスカ語は、てぢかな 要素を 複合して あたらしい 語を つくりだす (翻訳して 内容だけ とりいれる) 代表だし、チベット語は、逐次的に 翻訳して 借用する「翻訳借用 calque」(ex. 「空-港」< air-port、「〜に 注意を はらう」< pay attention to 〜 etc.)が おおく、固有名にまで およんでいる と いう。たとえば、人名(会社名)の "Blackwell" を「黒井」(くろい 油田の 井戸の 意か)と 訳し、地名の "Oxford" を「牛津」(うしづ うしの はたらく 港の 意か)と 訳す たぐいである。
 (音訳)外来語の ばあい、音声の 部分修正や 折衷や、ときに 新音の 輸入が おこるが、こうした 事例の 結末は、自分の 音声パタンに対する 根柢的な 干渉に、いかに 言語が 頑強に 抵抗するかを しめしていると しめくくる。


2)隣接した 言語群において 音声の 相似が おこる ことが 指摘され、形態法上の 相互影響にまで およんで、興味ぶかい 例が 吟味されるが、形態要素と いっても、(語彙的) 派生に かぎられ、構文関係は なく、結局は 自分の パタンと 歴史的な ながれに 忠実であり、「記録に のこされた 歴史」に よる かぎり、表面的な 形態法上の 相互影響しか みられない、と まとめた のち、
1) ほんとうに 重大な 形態法上の 相互影響は、あるいは 不可能ではない かもしれないが、しかし その 作用が あまりにも おそい ために、調査の およびうる 言語の 歴史の、それに くらべて ちいさすぎる わりあて(時間はば)には、自分を くみいれる チャンスを ほとんど もたなかったのだ;

2) または たとえば、言語の タイプの 奇妙な 不安定とか、異常な 程度の 文化の 接触とか も ともなわずに、深刻な 形態法上の 動揺を ひきおこす ような 都合のいい 条件だって いくつかは あるのだが、そうした 諸条件は、われわれの 記録には たまたま あらわれてこなかった だけの ことだ;

3) または 最後に、ある 言語が 他の 言語に対して、改造に なってしまう ような 形態法上の 影響を かんたんに およぼしうる、と 推定する 権利(資格)は われわれには ない;
という やや なぞめいた 3つの 推論を しめして、そのうちの 1つの 推論は いえると いうが、1)も 2)も、歴史や 記録に あらわれない 奇想天外な ものであって、「記録に のこされた 歴史」に したがうべき われわれには 推定する 権利(資格)が ない、という 最後の 推論に 結局は 帰着する ものだから、ほんとうに いいたい ことは、最後に あるのだと おもう。1) 2)のような、人知の およばない 空想上の 世界(可能世界 ?)を、抽象演繹的で 思考実験的な 推論としては みとめても、具体帰納的で 事象叙述的な 論理としては みとめず、「経験」に もとづく 実証科学としての かまえや みちすじを あきらかに しているのだと おもう。なお、このさいの「記録」には、書記文献だけでなく、口頭伝承 その他も ふくまれる ことは いうまでも ないだろう。
 いままで いいそびれてきたが、"life < live" (いきる こと「生」) も "experience" (経験 体験) も、サピアの 重要語である。ただし いわゆる 専門語では ない。"genius" (精神) も "intuition" (直観) も 同様で、W. フンボルトとも 通底する。これらを ふるくさく おもう ひとは、立派に「近代人」なのである。わたしの いう「古典精神」の そこを ながれている ものである。


3)形態法上の 重要な 特質(形質 traits)が、一大地域における おおきく ことなった (通常は 異系統と される) 言語に わたって 分布していて、たんなる 収束と かんがえるには 形態法の 分布が 特殊なので、なにか 歴史的な 要因が あるに ちがいない と かんがえ、実証すべき 証拠は まだ そろっては いないが、この 類似は、借用などではなく、(言語の)タイプや 音声実質が 共通であった ことの 痕跡である 可能性が 指摘される。そのさい、バスク語や フィン(ランド)語といった、もっと 分岐した 諸言語によって もたらされる「対照的な みはらし(眺望/観点)」で 歴史を みる 必要性も とかれ、借用の 説に すがる 潮流を 臆病だとまで いう。
 「分散」の 説も 検討されるが、この、借用の 伝播とも いうべき 現象は、よく 検討すれば、言語の 形態法上の 核心に対する 表面的な 付加に すぎない ばあいが おおく、あまり たよりに ならないと いう。
言語は、おそらく あらゆる 社会的な 現象のなかで もっとも 自足的であって、もっとも かたまって(集団的に) 抵抗する ものであろう。言語の 個々の 形式を まとまりなく 分割する よりも、全体を 死滅させる ほうが 簡単である。
と この章を むすんでいる。接触の 相互影響の 面よりも、構造的な タイプの 面の 重要性を いった ものと 理解すべきである。


■言語と 人種と 文化

0)言語と 人種と 文化との 三者が 一致すると おもう 素朴な 傾向が あるが、科学は、冷静に、三者が 並行しては 分布せず、分布地域は おそろしく 交錯するし、その 歴史は 独自の コースを とりがちである ことを みいだしている。「人種」感情論者の、「スラブびいき」だの 「アングロ‐サクソン気質」だの 「チュートン主義」だの 「ラテン精神」だの といった 神秘的な スローガンについては、「言語の 分布と、こうした スローガンの 分布の 歴史についての、ひとつの 注意ぶかい (比較)研究が、これらの 感情的な 信条についての もっとも ドライな 論評に なる」と、これから のべる 歴史的な 叙述の 意義を 予告して、まえがきを とじる。


1)人種についても、くわしい ことは いっさい 省略に したがうが、イギリスや ドイツにおいて、言語と 人種が けっして 一致しない 歴史が 客観的に 的確に 叙述された うえで、
こうして、英語は 現在 統一された 人種によって はなされていない だけでなく、その 原型も、おそらくは、いまの 英語と 特定の むすびつきを もっている 人種にとっても、起源的には 外国語であった のだろう。われわれは つぎのような かんがえを まじめに いだく 必要は ない:―― 英語 または それが 属する 言語群が どんな 知性的な 意味においても 人種の 表現である とか;人類の 特定の 種族の、気質 または「精神」を 反映する ような 品性(qualities)が (英語の) うちに うめこまれている とか;―― そんな ことは ありえないのだ。
という 要点が あらためて 確認される。紙数の 関係で、あと マライ-ポリネシア語族の 一例を あげるに とどめる と いう。その 結論だけを いえば、人種上は パプア人と ポリネシア人との あいだに おおきな さけめが あるが、言語上は マレー語と メラネシア語 ポリネシア語との あいだに おおきな 分割(境界線)が あると いう。


2)文化も 同様に 言語と 一致しない ことを、「国民」によって じゃまされない、原始的な レベルの アサバスカ語族や フーバ インディアン といった 例と、現代の アメリカと イギリスの あいだの 共通点と 差異点とが みられる 例とが あつかわれ、さらに、両者が 相関 対応する 例として、メラネシア ポリネシア語群や、エスキモー人の 分布の 一致や、アフリカ南部における ブッシュマンと バントゥーとの 関係などが 検討される。また、人種の とらえにくい 側面である「気質」と 言語との あいだの 関係の 問題は 社会心理学の もっとも むずかしい問題の 核心に ふれていて、わたしの 見解(views) というより むしろ わたしの 一般的な かまえ(態度 attitude)を てみじかに しめす ことしか できない と いう。emotionality や modality とも 関係する ところも あり、他の 学者の 説も 参照しながら、別に 独立の 論文に まとめたくなる テーマであるが、ここでは つぎの 一節を 翻訳するに とどめておく。
言語と われわれの <思考の みぞ> とは からみあった 相互関係に おかれていて、ある 意味では 同一物である。思考の 基礎的な 形状(構造)に 重大な 人種に よる ちがいが ある ことを しめす ような ものは なにも ないのだから、現実に 思考する さいの 無限の 可変性の 別名である、言語形式の 無限の 可変性が こんな 重大な 人種の ちがいの しるし(index)では ありえない という ことに なる。これは、ちょっと みた めには 逆説(パラドクス)であるが、あらゆる 言語の かくれた (潜在的な) 内容【基礎的な 思考と 共通の 面】は 同一であって、経験の 直観的な「科学」(しること science)である。(可変性の 結果として) ふたつと おなじでないのは、この 形式ではなくて(for this form)、そとに あらわれた (顕在的な) 形式(外形 manifest form)である。この 形式(this form)は、言語の 形態法とも よぶが、思考の 集団的な「制作」(芸術 art)であって、個人的な 感情から 非関与的な ものを はぎとった 制作に ほかならない のである。そこで さんざん 分析した あげくに、うた(sonnet) 形式が 人種からは 生じえない ように、言語も 人種からは 生じえない ことになる のである。
と、ひらたく いいかえれば、言語の 外形(顕在的な 形式)には 人種的な 偏見も あらわれるが、非関与的な 個人的な 特徴を 集団的に はぎとった 言語の 形式(制作)には あらわれないのだ、と いうのである。manifest form と for this form との 意味と 位置に 注意しないと、外形は ととのって みえても、内容的には とんでもない 混線した 翻訳に なる。これ以上 混乱が 生じない ように、
science:ものしり しらべ   what    認識対象の 側面
art  :制作 技術 芸術    how    認識方法の 側面

sonnet < son(おと):うた < うつ    形式的に、14行詩という 特徴より
                     根源的な 芸術という 面が 問題に なっている。「うた」は 意訳。
 内容的に だいじなのは 人種に かかわらない という こと。イタリアで 創始されたが、「ソネットの形式には大きく3つのタイプがあり、それはイタリア風ソネット、イギリス風ソネット、スペンサー風ソネットである。」そうだ(Wikipedia)。
 また、ソネットの 14行詩という 特徴が 問題になる とすれば、うたの 特徴が 五音 七音から 構成される「みそひともじ」(31音)である ことも ふくめ、その ちがいが 人種の ちがいに よっては 説明できない、という ことに あろう。
と、サピアの 用語法について 図式的に しめしておく。まえの 2つは 原文では イタリック体に くまれている。科学と 芸術との 根源的な すがたについて、サピアが どう かんがえていたのか、暗示的だと おもう。この 部分は 訳本は どれも やくに たたない。
 文化が what で 言語が how だ という 話題は つぎの ひと段落も つかわれて 一般論が つづくが、すべて 省略に したがう。


3)言語の うわべの(mere) 内容が 文化と 関係しているのは、いうまでもないが、それは 語彙の 世界の 問題であり、その「表面的で 外面的な 並行」は 言語学には 真の 興味は ないと そっけない。この 段落では「言語(単数)の うわべの 内容」であり、さきほどは 思考と 関連して「あらゆる 言語(複数)の かくれた (潜在的な) 内容」と みられていた こと、ここの 段落の「語彙」に つかわれている superficial extraneous も 外見に あらわれる ものである ことを みてくると、いかに サピアが めにみえない「内的な 形式」に こだわっていたか、「内的な 形式」という ことばは あらわれない にもかかわらず、内的に しみじみと 感じさせられる のである。
 本章と 前章の 論点は、消極的/否定的であったが、ことばの 本質的な 特質を まなぶ ためには、それは 健康的な やりかただった、と 弁明した うえで、本章の 要点を まとめながら 本文を とじるのであるが、次章をも みこした いいまわしに なっている。
この 形式は、個人によって はてしなく かわりうる ものだが、そのために 独特な 輪郭を うしなう ことは ない。形式は、すべての「制作」(芸術)が そうである ように、すがたを かえて あらわれているのである。言語は、われわれの しっている ものの なかで、もっとも かさが あって おおきく、ふところも ふかい 制作(芸術)であり、無意識の いく世代にも わたって やまを なす 名も ない しごと(作品) なのである。


■言語と 文学

0)いよいよ 最後の 章に はいる。この 章には いままでは あった 導入というか、まえがき的な 部分が ない。あたかも カデンツァを たのしむ かのように、楽譜の ない 即興演奏を 自由に かなでている といった 感じである。
 しいて いえば、「言語は、精神の まわりに まとわせる、めに みえない 衣服であって、すべて 精神の シンボル表現に 既定の 形式を あたえる ものである。その 表現が 非日常的な 意義を もっている ばあい、それを 文学と よぶ。」という 最初の 数行が それに あたろうか。しかも ここに 脚注を つけて、文学の くわしい 規定(明確化)、つまり「非日常的」の なかみを 具体化する ことは、しないし できない と ことわっている。「精神の シンボル表現に」と わざわざ ことわるのは、言語芸術としての 文学だけでなく、絵画や 音楽も シンボル表現であり、より ひろい「制作 芸術」に はいる からである。このあと 芸術(art) 一般の はなしに 展開するのは、この「精神の シンボル表現」が 仲介に なっているのである。サピアは ピアニストでも あった ことを おもいだしておこう。


1)芸術は 個人の 表現であり、その 個性的な 表現の 可能性は 無限である(べきである)。じっさい 偉大な 芸術には、絶対自由の 幻想が あるが、それは、芸術家が 素材の 性質を みぬき、自分の 構想のなかに とかしこませてしまうから、他の 素材が ある ことにも 気づかず、その 媒体のなかを およぎまわる。つまり、素材が「きえる」ことによって、絶対自由と おもいこむ のである。個人主義 自由主義の「絶対自由の 幻想」も、冷静に みぬいている。服従のなかの 自由、サピアは ただものでは ない。
 文学の 媒体は、と いって、言語に もどってくる。文学に 言語の 制約が ある ことを 意識させる ものとして 翻訳の 問題が だされ、文学に、非言語的な 芸術と 言語的な 芸術との 2つの 種類 または レベルが あり、言語には、かくれた 内容 つまり 経験の 直観的な 記録と、その 言語の 特定の 形状 つまり 経験の 記録の 特殊な しかた(how)との 2つの 階層が ある、と いう。例としては、シェイクスピアの 演劇と、スウィンバーンの 抒情詩とが あげられるが、後者は 「ことばの 音楽」(木坂訳注 5)とも 称され、ほとんど 翻訳できない ものとして あげられている。これに 関連して、脚注に 音楽における「翻訳」と かかわって バッハと ショパンとが 対照されるが、バッハは、平均律音階を つくりあげ、多種類の 楽曲に わたって 作曲した ことで しられるし、ショパンは、ピアノの 詩人とも いわれ、ピアノ曲以外は おもいうかべにくい ひとである。
 文学を 科学とも 比較し、「科学表現の 真正の 媒体は、シンボル的な 代数とも 規定しうる、一般化された 言語であって、(逆に) すべての しられた 諸言語のほうが それの 翻訳なのである。」のに対して、文学は 個人的で 具体的であるが、「真に ふかい シンボル化は、特定の 言語における ことばの 連合に たよらずに、あらゆる 言語に 底流する 直観的な 土台のうえに やすらかに よこたわっている。」と いい、「芸術の 表現の うまさより 精神の 偉大さで 感動させる」ホイットマンや ブラウニングの ような 芸術家と、「もっと ふかい 直観(的経験)を 日常的な ことばの 地方色に あわせたり かざったり する ことを 潜在意識として しっていた」シェークスピアや ハイネの ような 文学芸術家とが いると いう。前者は、表現に 無理が あり、相対的に 成功しなかったし、「言語」という 限定も ついていない のに対し、後者は、無理を した あとも みえず、「直観に もとづく、絶対的な 芸術と、言語媒体に もとづく、内在的だが 特殊化された 芸術との、渾然一体とした 総合として あらわれ」、ハイネでは 素材も 「きえる」と いう。

 サピアの 自由な 演奏に ひきずられて、わたしも 細部に わたって こまかく 注釈しすぎた。細目次は 執筆予定項目として かかれた ものと おもわれるが、じっさいには バランスよく かかれては いない。細目次を 本文の 小見出しに うつした 安藤訳を みても、かなり アンバランスである。別に、量的な バランスだけが 重視されて いい わけでも ないが、よく 整理されていない とも いえる わけで、ノートは とりづらい。アイデアの あふれでるのに まかせて かきながされている 感も あって、ポイントが つかみにくいのである。いいふるされた いいわけで もうしわけないが、「繁閑よろしきを えない」ノートに なる ことを ゆるしていただきたい。


2)「ひとつ ひとつの 言語は、それじたい 表現の 集団的な 制作(芸術)である。そこには、音声(語)的 リズム(文)的 シンボル(語彙)的 形態(文法)的 といった、特定の セットに なった 美学的な 要因が かくされている。」から、「もっと 技巧的に <文学的> な 芸術」も ありうるが、もろいと いう。この 節の 最後は「芸術家が 自分の 順序と リズムとを くりひろげる てだてを もっている かぎり、素材の 要素の 感覚的な 品質が どうであろうと ほとんど 問題に ならない。」と むすぶ。語レベルに なくても、 文レベルの てだてとして 語の 順序と リズムが あると いうのである。「言語相対論」を 解説する ものが とかく 語の レベルに とじこもりがちなのとは、対照的である。
「サピア−ウォーフの 仮説」などと ならべたてるのは、早世した B.L. ウォーフの 友人であり 論集編者であった、J.B. キャロルの「友情ある 説得」ならぬ「友情ある 宣伝文句」であった、と かんがえてみた ほうがいい のではないだろうか。
 音声の 基礎より 形態法的な 特色のほうが 重要だと いい、「文体が、語を つくったり ならべたり する 技術的な 問題である かぎりでは、文体の 主要な 特徴は 言語 それじたいから あたえられる もの」であって、音声の 基礎に もとづく ギリシア ラテンの 手本から その 言語に あたえられる ような ものでは なくて、「言語じたいの 自然(本性)の みぞを はしりながら、芸術家の 人格を ありありと 感じさせる ような 個性的な 強調口調(accent)が くわわった もの」、つまり 普遍性と 個別性とを あわせもつ ものである。個別の 言語によって 評価も ちがい、アルゴンキン語の 伝説や 歌謡の 一語句が 現代の イメージ主義詩人の 小句に みえる ことも ある。
文体について、カーライルや ミルトン などの 具体的な 評価も あり、単刀直入で おもしろいのだが、要約も コメントも さしひかえる。西洋文学を もうすこし 勉強する 必要を 感じる。漱石にも カーライルに 関する 小品が あった ねぇ。

3)詩の 韻律的な 側面ほど、形式の 面で 文学が 言語に 依存する ことを わかりやすく しめす ものは ないだろう;要約すれば、
ラテン ギリシアの 韻文:おもみ(音量 トーン)を 対照させる 原理
イ ギ リ ス の 韻文:ストレス(強勢)を 対照させる 原理
フ ラ ン ス の 韻文:音節数と エコー(押韻)の 原理
古 代 シ ナ の 韻文:音節数と エコー(押韻)の 原理と 声調(トーン)の 平仄
といった「リズムの システム」は、音声の、とくに その ダイナミックな 特色を 研究する 必要が ある;と いう。


 最後の 段落は、「言語と 文学」の 章の 最終節である とともに、本書全体の 「まとめ」の やくわりも はたそうとしたのか。やや 唐突な 感じだが、《言語 = 表現の集団制作》の 掉尾(ちょうび)の 段落で しめくくられ、まえがきの クローチェ言及への「けり」も つけられる。

 言語の おとでも 強勢(accents)でも、形式(意味を もつ 語や 形態など)でも、対象が なんであっても、それらが その 文学(口承も)の かたち(shape)に どんな 手を かける ばあいでも、制作者(artist)に ばしょを わりあてる たくみな 補償法則が 存在していて、こっちでは ちょっと みうごき できなくても、あっちでは 自由に うでを ふりまわす ことができる といった あんばいだ。しかも 一般には、そう しなければならない ときには 自分を つるす(hang)のに たりる ロープだって もっている (制作者個人は きえる) のである。そう なっているのは ふしぎではない。言語は それじたい 表現の 集団的な 制作であって、何千という 個人の 直観の 要約である。個人は 集団的な 創造のなかに すがたを けすが、その 個性的な 表現は、すべて 人間精神の 集団的な しごと(作品)が 本来 もつ、はりや しなやかさの なかに あとを とどめている。言語は、"芸術家の 個性" なる ものを 明確に しようと おもえば、いつでも また すぐにでも できる。かりに "文学芸術家" なる ものが ひとりも あらわれなかった としても、それは、その 言語が 道具として 貧弱すぎる からではなく、その 民族の 文化が、"真に 個性的な ことば表現" なんどを もとめる ような 人物の 生育には 適していないから だけなのである。
で とじられ、序章の「この (構造として) 抽象された 言語」という 対象と、終章の「表現の 集団的な 制作」という 想定とが、つまり「関係 構造」(外面建築)と 「集団 無意識」(内面心理)とが、本の はじめと おわりとで おおきく 照応させられる のであろうか。
 なお、3訳書とも、俗語的な 表現(rope, hang himself)が 「芸術」と つながらず、「個性ゆたかな 芸術」との 関係の「進化発展」が おもいつかれた のであろう。サピアが 痛烈に 批判していた、当時の アメリカ社会の 風潮でも あった [「文法家と その言語」(1924) はじめと おわり]。

 最後の 文には、なんと 3つの 訳書とも「まだ 適してゐない」「まだ 熟していない」という ぐあいに「まだ」という 副詞が ついているが、むろん 原文には ない。サピアなら 社会進化論的な「発展」として「まだ」とは いわない ことは、第6章「言語構造の タイプ」が よめていれば、わかっていい はずである。おなじ 日本の 学者でも、『無文字社会の歴史』では 文字が ある 社会を 前提にした 表現だから、『口頭伝承論』に かえると 自己批判する 学者(川田順造)が 人類学には あらわれたが、言語学では サピア(1921)の 掉尾(しめ)の 文が 「(まだ) 訳せていない」。

(掉尾の 段落については、第2稿(2015年)の かまえに もどした。2018.01.22.大雪の日、第4稿)

【この「サピア『言語』ノート」の 基礎は、2014年4月から 翌年4月に かけて かかれた。】


ご意見や ご感想は Eメールで どうぞ

工藤 浩 / くどう ひろし / KUDOO Hirosi / Hiroshi Kudow


はじめ | データ | しごと | ノート | ながれ