1−C1
恒例のことだが、昨日も叔父さんの趣味につきあわされたために、始業式の登校もほとんど徹夜同然という状態だった。
おかげで今日のスケジュールが始業式とホームルームだけだというのをいいことに、僕はほとんど寝て過ごしてしまった。
もちろん叔父さんの趣味につきあうこと自体は嫌いではないし、叔父さんの方は帰りの車を運転していたのだから、僕のようにわずかな仮眠すら取っておらず体力的にはよりキツいことを考えれば、恨み言を言うつもりもない。
また幸いにして、昨年1年間、定期テストでずっと学年1位をとり続けてきた実績が効いたのか、この学校の教師は授業態度にはうるさく言ってこないようになっていたので、始業式に出席しなかったことでも小言を言われることは無かった。
もちろん、教師達からすれば「困った生徒」と思われていることは間違いないし、時には一部の教師から嫌がらせじみたことをされることもあるが、運良く大人げないというほどのことをする教師に当たることもなく、まあコミュニケーションの範疇で収まっている。
また今年の担任となった化学教師の杉田先生は、いつも肌身離さず仏像の写真を肌身離さず持っていることで知れ渡っている変人で、事実、多少変わった生徒の方が好みらしいことは心強い。
元々僕は、特定の誰かと諍いを起こすことは嫌いなのだ。
正確には争いを起こすこと自体を嫌っているわけではなく、場合によっては必要だとは思うのだけど、それはお互いに妥協点を探る時にこそ必要なのであって、いつまでも平行線を辿るようなケースではお互いの意見を理解した以降争い合うのは正直エネルギーや時間の浪費に思えるし、後々余計な禍根を残さなくても済むのではないだろうか。
少なくとも学生時代のつきあいというのは、そのほとんどが卒業するまでのことでしか無いのだから、在学中に必ず決着を付けなければならないことなどあまり多く無いはずだ。
もちろんそんな考え方を賢しいとか若者らしくないとか言う人も結構居るが、それは価値観の相違としか言い様がない。
だいたい、そういう経験が将来役に立つのだなどと言う人達に限って、経験を教訓に出来ていると思えない人が多いし、社会に必要とされる自分だけの能力というものをどれほど身につけているいるというのだろうか。
社会構造の変革期にある今の時代、旧時代の経験とカリキュラムしか持たない学校生活の中で身に付く能力のどれだけが将来役に立つのやらと言い返したくなる。
少なくとも、僕は将来自分に必要となりそうな能力を身につけるための経験を得るべく努力しているつもりであり、漫然と生きている人たちに批判されるいわれはないだろう。
無論、余計な諍いを起こすだけなのでわざわざ口にはしないのだが。
ともかく担任が分かったことで、さほど波風の立たない学生生活が送れそうな要素が一つ増えたわけだから、これは好ましいことだった。
そう、彼女との出会いがなければ。
|