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特集・日本語大問題集(『月刊言語』18-5)

【テーマ】文 法──記号がないことの意味


工 藤  浩

<問題> 「学生たち」と「学生」、「君たち」と「君」は、どちらも外見上は「複数」を表わす接尾語の「たち」がついているかいないかの違いだが、意味的にそれぞれのペアを同じ関係のものとみてよいだろうか。一般に、日本語の名詞には「数」の文法的カテゴリーがないと言われるが、それを百パーセント文字通りに受け取ってよいだろうか。
 また、いわゆる助詞や助動詞がつかない形が、文法的な意味を荷なっている場合があるだろうか。それは、どのようなものであろうか。

<解答> ことわざに「沈黙は金」と言い、落語などの話芸では「間」を大事にする。私たちの生活のなかで、なんらかの「記号」が存在しないことが、重要な意味をもつ場合がある。それは発話行動のレベルでのことだが、言語体系のレベル、文法形式の問題でも、似たようなことはないだろうか、というのがこの問題の趣旨である。つまり、接尾語や助詞助動詞と呼ばれる文法的な印づけが、ない形(無標的な形 unmarked formという)が、積極的な意味を持つか持たないか、という問題である。
 まず、「数」のカテゴリーを持つということは、どういうことなのだろうか。英語など、単数・複数の対立を持つと言われる言語では、数えられるもの(「可算名詞」)なら、生物・無生物を問わずに複数形が作れる。それに対して、日本語では、無生物の、たとえばchairsを「椅子たち」とか、beans を「豆ども」とかは、擬人法は別として、ふつうには言わないが、生物(人間と人間生活に親しい動物)の場合は、「学生たち」「牛たち(の世話)」などと言える。つまり、日本語でも、英語にくらべて語彙的な制限はきついが、複数を表わす形がないわけではないのである(いま話を単純化して「木々・家々」や「諸問題」などの表現は、考慮の外におく)。 
 しかし、これだけでは、日本語に「数」のカテゴリーがあるとは言えない。「たち」のつかない「学生」という形は、「一人の学生」にも「三人、四人の学生」にも使えるのであって、数に関して<不定>としか言えないからである。この点、-sのつかない形が、基本的には、単数の物事を表わす英語と異なる。英語の-sがつくかつかないかは、複数か単数かの「対立」をもつのに対し、日本語では、「たち」のつく形は複数としても、それがつかない形は数不定で、数の「対立」をなさないのである。
 こうして、ふつうの名詞に関しては、数のカテゴリーがないと言ってよいのだが、「君たち−君」の場合は、以上の場合とは違う。「たち」のつかない「君」が複数の聞き手を表わすことはない。「あなた」も「おまえ」も同じく単数だし、「ぼく」や「わたし」も、「かれ」や「彼女」も、さらには「この男・その女・あの人」などコソア(指示詞)で限定された人名詞も、同様である。つまり、話し手の立場を基準として、自分か相手かその他の話題かという、話の場面での役割を指示(直示)する、いわゆる人称代名詞は、考えてみれば当たり前のことのようにも思えるが、単数−複数の対立、つまり数のカテゴリーを持つのである。「たち」がつかないことは、「君」にとっては意味をもつのである。

 さて、無標的な形が積極的に意味を荷なう場合としては、このほか、動詞が述語として用いられる場合に、よく見られる。たとえば、否定の助動詞のつかない動詞述語の形が、肯定を表わすことは問題ないだろうし、「です・ます」のついた丁寧体に対して、それのつかない形は普通体と言ってよいだろう。だが、推量形「するだろう」に対立して「する」を断定形と考えてよいかは、議論の余地がある。「たぶん行くよ」をどう考えたらよいか。
 ところで、述語以外の修飾語として用いられる場合、たとえば、いわゆる連用形が「ながら」につく場合は、対立すべき「*〜しないながら」という否定の形がないので、「〜しながら」の「し」は肯定でも否定でもない、と言うべきだろう。「テレビを見ながら勉強するな」という文で禁止される焦点が「テレビを見ながら」の部分であるのは、「のたのた歩くな」で禁止される焦点が「のたのた」という副詞であるのと同様であり、その副詞が、肯定否定に関しては中立(それ以前)であることを、思い合せるべきだろう。
 また、丁寧体か普通体かという対立も、連体の位置では通常は「中和」する。「きのう手に入れた品をお見せしましょう」を「入れました」にする必要はない。丁寧さに関しては、文末の述語にまかせて、連体の部分は不定・中立であってよいのである。特定の話しことばで、「右に見えます建物は………でございます」とか「従いまして………致します所存でございます」とか、ご丁寧、バカ丁寧に言うものは、文体的に別扱いすべきものであろう。【補:一般に、連体等の位置では「丁寧度」が 主文述語より 一つ落ちる、と考えてもよい】
 こうして、「ない」や「ます」がつかない場合も、その置かれた文内の位置において、それらのついた形と「対立」関係、つまり張り合い関係を持つか否かによって、みづからの<価値>を異にするのである。先の「たぶん行くよ」の問題は、「だろう」のつかない形は、断定か推量かに無関心だと考えるか(その場合は、ただの「行くよ」のもつ断定的な意味をどう説明するか)、それとも、基本的には断定形だが、「たぶん」などの副詞が共存した場合に限って、対立が「中和」すると考えるか、の問題である。

(くどう ひろし・日本文法学)


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