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「まちのぞみ文」についての走り書き的覚え書き


86.10.25.  空中分会    工藤 浩

 最近、『教育国語』85号に、奥田靖雄氏の「まちのぞみ文(上)──文のさまざま(2)」が出た。これは、奥田氏が数年前から言語学研究会で口頭発表してきた草稿に、多少の推敲を加えて活字化したものである。
 この論文の眼目は、従来の伝統的文法論の「発話の目的による分類」を修正して、ものがたり文(平叙文)とさそいかけ文(命令文)の間に、まちのぞみ文optative sentence を設定している点にある。もっとも、主たる目的をまちのぞみ文に属すると見られる文の意味と機能の記述において、一つの通達的タイプとしてこれを認めるべきか否かの最終的判断は急ぐ必要はない、としているが。

 奥田氏が「したい」を述語にもつ文を代表としてまちのぞみ文を立てる根拠は、箇条書的に列挙すれば、次の三つだろう。
 1)原則として動作のシテは話し手である<私>である。
  1') 主語がかけている方が普通で、この点「しよう」と同じだ。
 2)否定の形「したくない」は、希望の欠如・否定ではなく、
                「しない」ことの希望である。
   cf) 「したがる──したがらない」とことなる。
     希望の欠如を表すのは「したくはない」か。
 3)過去の形「したかった」が、量的にはわずかだが、今の実現不可能な希望を表すことがある。<時間ばなれの現象>

 もちろん、奥田氏は、まちのぞみ文を他のタイプから切りはなして孤立させているわけではなく、移行現象を積極的に認めている。
   optative sentence は narrative sentence と hortative sentence とのあいだに
   はさまれていて、文の人称性、あるいは時間性の変更にともなって、narrative へ
   移行したり、hortative へ移行したりする。
という文で、この論文をしめくくっている。

 具体的には、次のような事実を指摘している。(「したい」の部分に限る)
 1)「したいのだ」という説明的な形で、二人称、三人称の希望を表す。
                    <ものがたり文化narrativization>
   「私は───したいのだ」も多く、これは<私>の二重化
 2)「したかった」は、二人称、三人称の過去の希望を表し、時間の体系をそなえている。これも narrative sentenceの特徴だ。
 3)「したい」は、しきりに話し合い(会話)の中に出て来て、そのさい、相手の行動によって希望が満たされる場合、相手へのはたらきかけ性が<ふくみ>として生じてくる。だが、まだ<さそいかけ文>だとはいえない。ただ、「願いたい」の文は、さそいかけ文に移行しているかもしれない。

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 以下、疑問や感想を述べる。

 ▼まず、かくも移行しやすい、揺れ動きやすい、いわば中間的な領域を、一つのカテゴリーとして(一つの下位分類としてならともかく)立てるのは適当か、ということが問題だ。たしかに、「移行」という語を用いるのは、すでに一つのカテゴリーとして認めたことになるのかもしれないが、だとしたら、問題は、この現象が「移行」なのか「ゆれ」なのか、ということになる。

 ★願望とは、<命令→実現>の直接性の抑圧された───内面化された姿ではないか?
   ex) あーした 天気になーれ!   あした 晴れたら(いい)なあ!

 ▼次に根拠の1)、つまりシテが<私>であるのを原則とする点について。
  これは量的な傾向に差があるかもしれないが、感情・感覚形容詞も同じだろう。
    うれしい かなしい / たのしい つまらない
    いたい くすぐったい / まぶしい つめたい
 「したい」に対して「したがる」がある点も、「うれしがる・うれしそうだ」があり、同様だ。一語文的感情表出文の用法が多い点も同様、といえるか。

 ▼2)の否定形の問題も、程度の差はあれ、評価の形容詞にも同様の傾向があるのではないか?
    おもしろくない  よくない  悪くない  cf) はなはだ− 誠に−

 ▼3)の反事実の希望性について、これも
    すればよかった(のに・のだ)
    してもよかった(のに・のだ)
のような評価的な文にもあり、(ただ、これはもともとoptativeかもしれない)
    してはいけなかった(のだ・のに)
    しなくてはいけなかった(のだ・のに)
    すべきだった  /  するんだった
のような当為的な文にもある。
 また、<現在の希望>という限定をとって、反事実性だけなら、
   ・(まさか)〜するとは思わなかった
    もうすこしで〜するところだった
    あやうく〜しそうになった
   ・そうだと知っていたら、私も行ったのに(ものを)
    もし〜〜したら、〜〜しただろう(にちがいない・かもしれない etc.)
のような、いわゆる仮定法の文にもある。問題の「したかった」には「できるものなら」という仮定法が潜在していると見られるのではないか。

 以上のことは、まちのぞみ文を否定することを目的として書いたのではない。まちのぞみ文を、命令文はもちろんのこととして、感情表出文や評価文などとの関係の中でも考えてみる必要がある、と言いたかったのだ。

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