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奥田靖雄(1919〜2002)

 1951年以降、民主主義科学者協会言語科学部会・言語学研究会、教育科学研究会国語部会などの組織を拠点に、言語学・日本語学・国語教育学の分野で指導的役割を果した人物。本名は布村政雄、民族学者布村一夫(本名一男)の実弟で、旧満州国でツングース族の民族学調査から出発した。言語学に分野をかえた事情は、1945年の敗戦によるフィールドの喪失と1950年の「スターリン言語学(論争)」にあったとおぼしく、ソビエート言語学とくにヴィノグラードフ(V.V.Vinogradov)からの影響が見られるが、底流にはサピア(E.Sapir)の方法(精神)が流れていて、生涯かわらず敬愛していたともいわれる。【#下記補記】
 言語学の最初の環を物質的基礎としての音声に求めたうえで、言語の基本分野を語彙と文法との両組織に置いて、その形式と内容とを切り離さず、要素と構造、全体と部分の相関する動的なシステムとして分析するという方法(「唯物弁証法」)と、大量のデータに基づく実証的な記述を通して体系化するという手法(「実証性」)とを、一貫して主張し実践した。
 文法論の分野では、形態論・連語論・構文論からなる本格的な文法体系を、共同研究者の鈴木重幸・宮島達夫・鈴木康之らとともに構築しようとした。形態論と連語論は、教科書(奥田総指揮)『にっぽんご 4の上』 およびその解説 鈴木重幸(奥田監修)『日本語文法・形態論』と 言語学研究会編(奥田編著)『日本語文法・連語論』の形に、その結実が見られるが、個別のテーマとしては、連語論とアスペクト論とモダリティ論の緻密な研究で一般には知られる。構文論の全体系は、個人論文集『ことばの研究・序説』とその後の論文や未公刊プリントに大成への道程が見られるが、80歳を過ぎてなお、構文論の中核たる主語・テーマ論と述語・モダリティ論とを、テクスト論やプラグマチカ(語用論)との関係のなかで厳密に基礎づけようとする、身を削るような研鑽をつづけるなかで、脳梗塞に倒れた。組織を育て、そのなかで 生き 死んだ。

【参考文献】
鈴木重幸(1989)「奥田靖雄の言語学──とくに文法論をめぐって──」(『ことばの科学3(奥田古稀記念)』むぎ書房)
『奥田靖雄著作集』(2011〜刊行中 むぎ書房)


【補記:民族学時代以来のサピアと、スターリン言語学論争以来のヴィノグラードフとに、わかき奥田が出会うことによって、奥田の連語論は生みだされたのだと思われる。つまり、サピア(1921)Language が「言語の基礎(根源)的(fundamental)な土台は、音声と語彙と、あらゆる種類の関係を《形式的に表現するそなえ》としての文法との完備であり(p.22)、言語の基礎的な形式としては《(約)100のしかたの人間直観(≒知覚)のシンボル表現》としてあらわれる(p.124)。《基礎的な形式(〜形成 form)直観》は、いまは漠然と兆候を感じうるにすぎないが … (p.144)。」というように、"人類普遍性" を考える サピアの人類言語学の新構想(課題)が、ヴィノグラードフ(1954)「連語研究の諸問題」の「連語(語結合)を語彙と文法とが相関する基本領域と考える」伝統的な構想と、奥田において結びつくことによって、「他動(object)構造のパタンとタイプ」という、言語表現(expression ≒ 連語 ≒ 語彙+文法)における「基礎的な形式」としての、具体的な体系化が生まれたのではないか。日本語の「を格連語」の体系は、すくなくとも日本語人の基礎生活活動としての「社会的な対象的な活動」を基本的に反映する体系であり、さらに連語の「くみあわせ」の 文への「使用」が、メタファの「語の多義性〜多重性」と関連して、フンボルト以来の「内的言語形式」=《言語総合の創造性》の問題に結びつく、ということにならないか。】

(工 藤 浩)



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