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現代日本語の文の叙法性 序章



工 藤  浩

 0 はじめに
 1 従来の研究と本稿の立場
 2 述語の形態的な構造
 3 文の構造・陳述的なタイプ
 4 叙述文の述語の叙法性
 5 語論・形態論的アプローチと、文論・構文論的アプローチ
 6 叙法性と他のカテゴリーとの関係

0 はじめに
 ここに言う「叙法性modality」は、文の文法的なカテゴリーである。哲学や様相論理学 modal logicでいうモダリティとは、無関係ではないが、扱う対象の範囲も、扱い方も異なる。文法論の一分野としての動詞形態論でいう、叙法mood───最も通りのいい規定は O.Jespersen(1924)の「文の内容に対する話し手の心的態度」だろう───それに対応して立てられる、文レベルの意味・機能的なカテゴリーが、叙法性である。

0-1 <文>は、伝え合い communicationの機能を果たす、言語活動の最小単位である。極端な例をあげれば「絵!」と叫んだ場合、あるいは「これは何?」に対して「絵。」と答えた場合、それは1音=1語=1文である。言語場の中で、それは立派に言語活動の単位として機能している。伝えあいの単位であるために、文は、必ず、<話し手>が<何を>伝えるかの面と、<いかに>伝えるかの面とをもつ。一語文では未分化だが、通常の文では、ことがらの構造的な面と、主体の陳述的な面とに分けられる。
 文法論としての文論は、個々の言語活動としての側面は切り捨てる。時間空間に限られた個々の場面的な意味や、個々の話し手のその場限りの態度・発話意図などは、分析の対象としては取り上げない。しかし、文法組織としての文に、一般化してやきつけられた、<話し手性=主体性>の刻印は、消しされない。文論の対象となる。
 A.H.Gardiner(1951)や、E.Benveniste(1964)も言うように、文はたしかに、言語langueの単位ではなく、言語活動speech、話discoursの単位である。語彙と文法という言語の手段によって構成された文は、現象的には多様であり、量的には無限であるが、体系性を持たないわけではない。現象的に無限に多様な文は、陳述的なタイプとして、構造的なシェーマとして抽象され、類型化されて、有限の「型」として組織されている。文は、まさに言語活動の単位として機能するために、言語の<構成体の型>として、社会習慣的に存在させられる。アクチュアルな言語活動を支える、ポテンシャルなエネルギーとして、それは存在する。具体的な言語活動の中に、多少の変容を受けながら、生きつづける。

0-2 言語の基本的単位としての「単語」と、言語活動の最小単位としての「文」とを質的に区別する、文に固有な諸特性のうち、「いかに」に関するものを、<陳述性・のべかた predicativity>と総称することにする。この<陳述性>の諸特性を、どのような形で体系化すればいいかについては、まだ分からないことの方が多いのだが、問題になりそうなものを列挙すれば、以下のようになる。:印の右は、代表的な表現形式の例である。

    叙法性・かたりかたmodality  :ムード 分析形(-にちがいない) 叙法副詞(おそらく)
     伝達性・つたえかたcommunicativity :イントネーション  ムード
     肯否性・みとめかた(porality):「ない/φ」  否定副詞(けっして)
     待遇性・ていねいさpoliteness:「です・ます/φ」 「お−」
     対人性・もちかけ(phatic)  :間投詞 間投助詞 終助詞

    時間性・ときtemporalness   :テンス・アスペクト 副詞(かつて まだ もう)
     cf.局所限定性deictic localization(location)
       人称性・やくわりpersonal:人称代名詞 *日本語では題述関係に絡む
       空間性・なわばりspatial :指示詞「こそあど」*日本語では語彙的

    題述関係theme-rheme (actual division) :「は/が/φ」 語順
     対照性・とりたて(focusing) :副詞・副助詞(だけ も さえ / ただ とくに たとえば)
     感情性・きもちemotionality :副詞句(たった あいにく かわいそうに) 分析形(-に限る)

0-3 以上のうち、最も基本的で中軸をなすものは、<叙法性・かたりかたmodality>である。ここでは「叙法性」を、V.V.Vinogradov(1950、1955) にしたがって、<話し手の立場からする、文の叙述内容と、現実および聞き手との関わり方についての文法的表現>と、ひとまず、規定しておく。それは、客観的には、文の<ありかた>、存在の「様式 mode, mood」であると同時に、主観的には、文の<語り方>、話し手の「気分mood」である。主観と客観の統合・総合として、それはある。叙法性の分化に応じて、いわゆる平叙文や疑問文において、時間性が分化し、おそらくは、題述(主述)構造も分化する。もっとも、叙法性と題述(主述)構造とは、分化した二語文においては、相互規定的なものと見なければならないが、それは時間性との相互関係も同じことである。
 文の叙法性は、動詞のムード語形を中心に、モーダルな助動詞(ex.らしい)や助詞(か、な)、複合述語を形成する分析的な形式(-にちがいない)などによる述語部分のほか、モーダルな副詞(たぶん、どうぞ)などによっても表わされる。文の叙法性、あるいは「モダリティ」<注 1>については、研究が未発達なためもあって、それをどの範囲に限定すべきか、まだはっきりしていない。「副詞」が品詞論のはきだめであり、「連用修飾語」が文成分論のはきだめであるとすれば、「叙法性・モダリティ」は、文陳述論、文法カテゴリー論のはきだめである。叙法性を広くとれば、「みとめかた」や「ていねいさ」や、聞き手への「もちかけ」も含まれることになるが、これらは日本語では、形態論的カテゴリーとして別に立てられるので、ここではひとまず区別して議論を進める。叙法性と伝達性との関係は、非常に難しい、未解決の問題があるので、ここでは触れられない。(cf.第3節、 Greple, Panfilov)
 以下、節をあらためて、形式的な側面から検討して行くことにするが、その前に、文法論以外の分野での扱いや、文法研究史における主な研究の流れを、本稿の論旨に直接関わる範囲で、ごく簡単に概観しておきたい。

1 従来の研究と本稿の立場
1-1 文法論としての叙法性論は、発話行為論 speech acts theory や実用論 pragmatics <注 2>の扱う対象と密接な関係がある。そのいわゆる「間接的発話行為」には、文法的な面と、文法的でない面とが共存している。たとえば「あした来てくれますか?」は、特定の場面で依頼の意図で発話されるとしても、それは文法的には、相手の意向を問う疑問文の、二次的機能として扱われるべきだろう。それに対して「あした来てくれない?」は、文法的にも依頼としての機能が<型>としてやきつけられている、と考えられる。
 「してください」は、形態論的には、利益態「してくださる」の「命令形」であるが、利益性に中立的な「する」から見れば「依頼形」だとも言える。「どうか教えて下さい」はたしかに「依頼」だ。しかし、「駅に行くには、この先の角を左に曲がって下さい」と言って道順を教えるのは、依頼・頼みではなく、「ていねいな命令・指令」だろう。「どうぞ・どうか」と共起しえない。一般に、対人的な待遇に関わる語は変化しやすいものだが、命令や依頼もその例にもれず、[する−しよう−しろ]に対応する丁寧体[します−しましょう−X]の系列のXの位置には、「しませ」が江戸時代には行われた(「立ちませい!」)が現在では失われ、尊敬体「しなさる」の命令形出身の「しなさい」が、あとを「補充」したと考えられている。が、この「しなさい」も、現在では使用域が限られ、見知らぬ人に道順を教えるような場面では用いにくいために、「してください」が、受益性をもつ依頼ならぬ「丁寧な命令」の領域に進出しつつあるのだろう。さらに、「してください」を<依頼>として用いる用法も、目上には用いにくくなりつつあり、「どうか教えて下さいませんか」とか、「してもらう」系を用いた「どうか教えて頂けませんか」とかの、否定疑問文系列<注 3>の表現手段が、依頼の表現形式として発達しつつあるように思われる。これらには、文法体系の「あきま」や「すきま」を埋めるという、体系的な要因がからんでいる。「間接的発話行為」に基づく表現をすべて、実用論の問題だとして、ひとしなみに文法論から切り捨ててしまうわけにはいかない理由は、ここにある。 
 「してくださいませんか?」や「してくれない?」のような文を、否定疑問文としての面においてしか見ないような形式的な統語論syntaxとは、本稿の立場は異なる。形式的統語論は、意味論と対立させられ、それ故に形式的にならざるをえないのだが、本稿の文法論は、意味論とではなく語彙論と対立する。文法論も語彙論も、その内部に形式(論)と意味(論)とをもつ。これは、ソシュール的な<記号>概念に基づく、ごく常識的な立場であろう。記号論者 Ch.Morrisの、意味論semantics 、統合論syntactics、実用論prag- matics、という三分類を、それとして議論する気はないが、本稿の立場の文法論では、その三つの面はそれぞれ、文法的な意味論、構文論、陳述論として扱われることになる。
 一般に、「モダリティ」とか「表現意図」とか「発話内的な力」とか言われるものも、文法論と実用論、両者の観察対象である。比喩的に言えば、音声に関しての、音韻論と音声学との関係に等しい。個々の場面での話手の意図の側面を実用論が扱い、社会習慣として一般化された陳述性・叙法性の面を文法論が扱う、ということになる。ただ、実用論が個々の場面を扱うとはいっても、学の対象として、なんらか「類型化」されざるをえないはずで、そこで再び、文法との間の、具体的なレベルでの境界づけに、頭を悩ます事になるだろう。しかし、それは当面の問題ではない。それを議論するには、どちらも研究の蓄積が少なすぎる。ここでは、基本的な立場・観点の違いを確認して置けば、足りる。

1-2 日本での文の陳述性の本格的な研究は、山田孝雄に始まる。山田は、おそらく、ヴントの心理学から<統覚>を、ハイゼの文法から<陳述の力>を学んだものと思われる。文は、一語文をも含めて<統覚>によって統一される。述体の文は、用言の述格の<陳述>により、喚体の文(「妙なる笛の音よ」)は、体言の呼格により統覚される。述体の文の述語は、動詞の本幹のみでは「単純素朴なる陳述」しか表わせないため、「陳述の曲折をあらはさむが為に複語尾を使用するに至れり」としている。複文に関して、連体節の述語は、「花の/が咲く樹」とは言えても「花は咲く樹」と言えないから、主格と賓格とを対立結合する点で述格の力が全くないわけではないが、「は」をとれない点で十分の陳述をなしてはいない、とした。「陳述」性に、さまざまな種類と度合いとがあるという考え方である。大局的と言えば大局的、曖昧だと言えば、たしかに曖昧であった。
 この曖昧さが、のちに三尾砂(1939)や渡辺実(1953)らによって、「統一作用」と「断定作用」、「叙述」と「陳述」に分析され、「陳述」はさらに、芳賀綏(1954)によって「述定」と「伝達」とに精密化されて行く。複文論においても、南不二男(1964, 1967)によって、A「−ながら」、B「−ので」、C「−から」を代表とする従属句によって、文の陳述性の階層性(段階)が分析され、A〜Cの従属句に収まらない、話し「相手」に関わるD段階の命令形や終助詞が、最も「陳述」的なものだとされた。
 こうした分析自体は、正当な分析なのであるが、こうした研究方法の流れの中で、「陳述」という用語は、文の<統一>を語る用語ではなく、文の<成立の決め手>を語る用語に変質させられて行った。果ては、文成立の決め手=陳述は、終助詞にあるとか、いや、終助詞だってその後に別の終助詞がくるから決め手ではなく、決め手はイントネーションだとか、いや、その後に来る休止 pauseだと、議論された。いわば、文の外側へ外側へと「陳述」は押し出されて来た。「陳述」論の外形化であり、一種の末梢化である。かくして「陳述」はもはや、文の基本構造を語る語ではなくなってしまった。細分化、精密化それ自体は、大局を見失いさえしなければ、決して悪いことではないのだが、「陳述=述べること」という文(述語文)の基本性格を指す示す用語の中身が、休止 pauseだというのは、あまりといえば、あまりの変身ぶりである。
 なぜ、こうなってしまったのか。それは、時枝誠記の「入れ子型」構文論に代表されるような、あらゆる文を「一語文」的に理解しようとする───文全体を「文末の辞」が包んで成立するとする───理論の当然の帰結である。文の構造面と陳述面との相互関係・相互作用を見ようとしない文理解の、それは必然的な到着点であった。山田孝雄にあっては、一語文的な喚体の文と、二語文的な述体の文とに通底するものとしては「統覚」があり、「陳述」は、述体の文における主格と賓格との結合関係を意味するものであった。
 本稿は、この山田孝雄の出発点に、その大局的な姿勢、把握の仕方において、あえて、立ち帰ろうとする。

2 述語の形態的な構造
2-1 形態論的カテゴリーとしてのムードをどう認定するかには、さまざまな立場がありうるが、最も狭く限る立場は、動詞の文法的な屈折語形のみをムードとするものだろう。現代日本語の屈折語形は、

  切 kak-u      oki-ru    k-u-ru    直説法 (終止・連体同形)
      -e        -ro     -o-i     命令法   終止形
  れ   -oo       -yoo     -o-yoo    勧誘法
 …………………………………………………………………………………………………
  続 kak-i      oki-φ     k-i      連用形
    kai-te       -te      -te    中止形
      -tari      -tari     -tari   例示形   接続形
      -temo      -temo     -temo   逆条件形
      -tara      -tara     -tara   条件形
  き kak-e-ba      -re-ba    -u-re-ba   仮定形

のように、まず文中での位置、断続関係(切れ続き)を表示するが、そのうち、切れ=終止形の3つの形をムード形式とする立場がある。ただ、そのうち「直説法」は、精密には終止・連体同形であり、形も無標的unmarkedなので除いて、命令形と勧誘形の二つだけを認める立場もあるだろう。また、続き=接続形のうち、-temo,-tara,-(r)eba の3つ、さらには、-tatte, -ru to, -ru/ta nara をも加えて、「条件的叙法」を叙法に加える立場もあるだろう。膠着・分析的な手つづきの「助動詞」も含めて、動詞以外にも広げれば、
    動 詞─┐        ┌─だろう らしい みたいだ
    形容詞─┼─(テンス形)─┼─ダそうだ
    名 詞─┘        └─ナのだ  ノようだ
などがあり、文法的な派生用言・複合用言にも広げる立場に立てば、
    書き−そうだ/たい/たがる/ます || がちだ/がたい || やすい/にくい
    書か−ない
なども候補になり、分析的な手つづきの、「補助動詞」「形式語」も含めれば
    −と 思う(思われる) 見える(見られる) 言う(言われる) 聞く
    −に ちがいない  きまっている  すぎない  ほかならない
    −かも しれない(わからない)
    しても いい  しては いけない  しなければ ならない
    はずだ  わけだ  ことだ  ものだ / 見込みだ  様子だ  気だ 
    ことが できる  ことに する  ことが ある  
    必要が ある  おそれが ある  可能性が ある  ふしが ある
    公算が 大きい  見込みは 小さい  ことは 必至だ
などがある。「形態論的形式」どころか、最後の二行など、文のレベルでも「文法的」な形式と見なせるか、議論の余地があるだろう。これは、文法化grammaticalizationの度合いの問題であって、実際には連綿として連なっていて、一線で区切ることは出来ないだろうと思われる。語彙と文法とは、同じ土俵で対立するが故に、相互に作用し合い、移行することも起こる。このほか「終助詞」「間投助詞」と呼ばれる助詞particleもあって、もっぱら聞き手への「もちかけ」方を示す。以上の諸形式は、互いに組合せて用いることができ、その際、承接の順序が大体決まっているが、これについては、第4節で述べる。 

2-2 いわゆる疑問文は、上昇イントネーションと助詞の「か」とによって表わされ、形態論的なムードとして「疑問形」を立てることは難しい。「するか」を疑問形として立てるなら、「するよ」は告知形、「するね」は念押し形、として立てることになりかねない。しかし、文のレベルでの疑問文は、日本語では、上昇イントネーションを根拠として立てられる。イントネーションは、重要な構文論的な形式であり、ここに形態論的ムードとは別に、構文論的なモダリティ・叙法性を考えなければならない理由がある。文の叙法性の表現形式の中心が、動詞の形態論的なムード形式にあることは確かだが、それに尽きるわけではない。後述するように、人称構造や語順・位置なども、構文論的形式としてあるのであり、それらの総合として、文あるいは述語の叙法性は考えられなければならない。

3 文の構造・陳述的なタイプ
3-1 文の陳述性、叙法性・伝達性は、文の構造性と切っても切れない、深い相互関係にある。構造的な二語文の分化と、陳述性の分化と、そのどちらが先かは簡単には言えない。
   アッ、ワンワン!         キャッ、ゴキブリ!
   ママ、ジューチュ!        オーイ、お茶!
   ウン(mm ……) ?         エッ? はあー?
のような、いわゆる一語文は、発話の現場にしばられていて、<ここ−いま−わたし>のことしか言えない(K.Buhler 1934) 。基本的には、時間空間も分化していないし、人称も分化していない。叙法性ないし伝達性は、発見−確認と、欲求−命令と、疑問とに、イントネーションが分化しているとすれば、分節記号の分化はなくても、叙法性・伝達性の分化の第一歩は踏み出されていると言っていいかもしれない。ただ、単なる叫びの「アッ」「キャッ」にくらべれば、「ワンワン!」は対象の名づけ性を持ち、「ワレ−アレ」関係は分かれているとも言える。「ママ、ジューチュ!」では、呼び掛けとしての2人称、求める物としての3人称、といった人称性も、分化の兆しを持ち、さらに深読みすれば、「欲求」の裏に、物の不在・欠如の知覚=「否定」の萌芽や、事の未実現=「未来」のめばえも、読み取れないわけでもないだろう。
 しかし、萌芽や兆しや分化の第一歩が認められるとはいっても、典型的な二語文、叙述文(いわゆる平叙文)が、構造的にも陳述的にも分化して、現場以外のどんな事でも表現できるのとは、やはり質的に異なると言わざるをえない。ただし、このことは、一語文と二語文との間に、相互移行の現象や中間的事象がないという意味では、もちろんない。

3-2 次に、一語文と典型的な二語文との間に、命令・依頼文と、勧誘・決意文とを位置づけて考えてみたい。これらは、時間的には、事の未実現=未来に限られ、テンスの対立はない。「おととい来やがれ」が悪態表現になるのもそのためだ。ただ、一語文とは違って、「すぐ/あした 来い」「そろそろ/あとで 行こう」のように、未来の内部を細分化することは出来る。「しろ/していろ/してしまえ」「しよう/していよう/してしまおう」などアスペクトも分化し、文論的な時間性は、不完全ながら、分化している。
 命令・依頼文と勧誘・決意文とが、主語に人称制限をもつ事は、よく知られた事である。典型的な命令文は、2人称に限られる。とすれば「臆病者は、引っ込んでいろ」と、聞き手に面と向って言う場合は、「臆病者」は2人称だと言っていいだろうか。しかし、政治家が「貧乏人は麦を食え」と、一般化して言ったとすれば、この「貧乏人」は3人称と言わざるをえないだろう。だがその代わり、この表現は「貧乏人は麦を食えばいい/食うべきだ」のような当為的な叙述文に、限りなく近づく。「病気がはやくよくなってくれ」は、実質的には「病気がはやくよくなりますように」のような「祈りの希求文」に等しい。
 以上のような両極の間には、「おいやな方は、どうぞお帰りください」のように、多数の聞き手の中から「−は」と仮定的に取り立てたり、「言い出した人が、最初にやりなさい」のように、聞き手の中から「−が」と選択的に指定したりするような例がある。聞き手の中から特定の相手を取り出す点では、2人称の命令・依頼文としての性格を持ち、多数の聞き手にとっては一般化されているという点では、3人称の当為的な叙述文としての性格を持つ。つまり両面性をもつ場合がある。命令文、叙述文と言っても、絶対的な境界で区切られているわけではなく、相互移行の現象が存在するのである。<注 4>
 「しよう」の形は、1人称では決意、1・2人称(inclusive な1人称複数<注 5>)では勧誘を表わす。「明日は小雨が降りましょう」のような3人称では推量になるが、現代語としては文体的に別扱いすべきだろう。学校の先生がよく言う「ふざけていないで、ちゃんと掃除しましょう」は、先生自身は主体に含めない「2人称」表現だろうから、「遠まわしな命令」となる(生徒がこの表現に、教師の「偽善的な」態度をよみとるのも、一理はある)。「たばこの吸い殻は吸い殻入れに捨てましょう」という掲示は、1・2人称の勧誘のそぶりを見せてはいるが、じつは、2人称の遠まわしな命令文だろうか、それとも、不定人称の当為的な叙述文であろうか。いずれにせよ、人称構造と陳述的な伝達・叙法的な機能とが、深い相関関係にあることは間違いない。
 命令・依頼文や勧誘・決意文にはこうした人称制限があって主体が自明なため、通常は表現されない。表現される場合は「ポチ、来い」「田中さん、一緒に行きましょう」のように、呼びかけの独立語として表現されるのが典型的な文型であって、「−は/が」の形をした主語として表現されるのは、表現的に、特立、対比、指定といった「とりたて性」のある場合に限られる。主語を持つがゆえに「叙述文」的性格を持たされる場合も多い。

3-3 以上のように、文の陳述的な communicativeなタイプは、文の構造性、とくに主語の人称性と深く関わっているわけだが、その点、「痛いなあ」「うれしいね」「うまいものが食いたい!」のような感覚、感情、希望を表わす(表出する)文も、よく知られているように、「のだ・らしい」のような判断文化する助動詞がつかない場合、叙述文では1人称に、疑問文では2人称に(「うれしい?」「行きたい?」)主体が制限される。これらも、典型的な叙述文とは区別すべきではないか、という問題が起こって来る。
 ところで、「先生の意地悪!」「風呂上がりのビールのうまさ(ヨ、 ッタラ)!」のような文は、内容的には「先生は意地悪だ」「風呂上がりのビールはうまい」のような叙述文と極めて近く、それを「凝縮」的表現として「体言止め」にしたものである。これを「擬似喚体」または「擬似独立語文」と呼んでおこう。すると、それとは逆に、「さむい!」「とっても、うれしい」などの感覚・感情表出の文は、命令的な「さっさと立つ!」「さあ、どいた!どいた!」「おーい、ビールだ!(早く持って来い)」などとともに、「擬似述体」あるいは「擬似述語文」として扱えるかもしれない。なお、「したい・してほしい」などの希望・希求文の扱いは、あとで当為的な叙述文などと合わせて考えたい。

3-4 以上のような、人称性の制限と時間性の制限という、二つの制限性・未分化性によって、また、形態論的には屈折的な活用形として表わされ、しかも「切れ=終止」形として働き、基本的には従属節化しない<注 6>という特性によって、以上述べたような、構造的かつ伝達・叙法的な諸タイプを、まず取り出して置くことにする。叙述文(いわゆる平叙文)と質問文(疑問文)も含めて、<構造・陳述的なタイプ>をまとめて表示すれば、

   ・独立語文(「喚体」「一語文」):テンス・人称、分化せず <ここ-いま-わたし>
      *擬似喚体(体言どめ)

   ・意欲文(「はたらきかける文」):テンス、人称、制限あり
     命令・依頼文(2人称)  
     勧誘文(1・2人称)
     決意文(1人称)

   ・述語文(「述体」「二語文」):テンス、人称、ともに基本的に制限なし
     叙述文(「平叙文」)
     質問文(「疑問文」)
      *擬似述体(感覚・感情表出文など)
      ?希求文(希望文 祈り文など)

のようになる。独立語文を、叫び、呼び掛け、あいさつ、かけ声などに下位区分することは省略する。質問文(疑問文)に関しては別稿を期することにして、次に、最も叙法性がはなやかに分化している叙述文の述語の内部を見て行くことにする。

4 叙述文の述語の叙法性
4-1 これから、叙述文における叙法性の分化を見て行くが、今まで以上に多様な諸形式があって議論が錯綜しそうなので、はじめに、叙述文の述語の、叙法性を表わすと思われる諸形式を、暫定的な分類と注記をほどこして一覧することにする(網羅的ではない)。
A 基本的叙法性
   ※テンスを持った出来事を受ける。自らはテンスが、無いかまたは変容する。
 a)捉えかた−認識のしかた            cf. epistemic modality
     断定←→推量:するφ←→するだろう   だ←→だろう
                / と思う(思われる)  −のではないか
         伝聞:そうだ / (んだ)って  という(話だ)
  a'たしかさ−確信度:にちがいない  かもしれない  かしら (だろうか)
  a"見なしかた−推定:らしい / と見える    cf. evidentials
         様態:ようだ  みたいだ

 b)説きかた−説明のしかた  
     記述←→説明:するφ←→するのだ    だ←→なのだ
         解説:わけだ /にほかならない といっていい[aとbの中間]

B 客観的叙法性  (もしくは「出来事様相」)
   ※用言語幹に接尾。連体形を受けるものも、テンスの対立は、無いか中和する。
    派生・複合用言として自らがテンスを持つ。ただし、現在か超時が多い。
 c)ありかた−出来事の存在のしかた(Sein)    cf. alethic modality
        兆候:しそうだ
        確率:しがちだ  しかねない  しやすい  しにくい  
           しないともかぎらない  することもある
        可能:することができる  しうる  −られる  -eru
       ?必然:するφ  デなければならない  トイウことになる

 d)なしかた−行為・状態の規範的なありかた(当為Sollen)cf. deontic modality
        許可:してもいい    してもかまわない(へいきだ) 
       不許可:してはならない  してはいけない(したらだめだ)*二義的
        適切:するといい    したらいい  すればいい
       不適切:するといけない  したらいけない(してはまずい)*二義的
       (勧告)する/した方がいい  するがいい
        義務=否定の不許可:しなければならない  しなく−てはいけない
      (不可避)否定の不可能:せざるをえない  しない−わけにはいかない
        当然:す(る)べきだ / するものだ  することだ[Aのbか]

 e)のぞみかた−情意のありかた          cf. optative, volitive
        希望:したい  したがる
        希求:してほしい  してもらいたい(いただきたい)
        意図:するつもりだ  する気だ
        企図:してみる  してみせる  してやる  (しておく)

  cf. e'感情 評価:−に限る −にすぎない するまでもない するにおよばない
   (emotive) 程度:〜されて(〜しくて)ならない  〜しくてたまらない

4-2 大きく、A基本的叙法性と、B客観的叙法性<注 7>とに分けたが、その理由を列挙すれば、以下のようになる。
 1)Aの諸形式は、「するだろう−しただろう」「するらしい−したらしい」「するのだ−したのだ」のように、前接部にテンスの対立があるが、Bには、「するといい/*したといい」「することができる/*したことができる」「しそうだ/*したりそうだ」のように、前接部にテンスの対立がない。「する/した方がいい」は両形あるが、テンスとしての対立は「中和」している。
 2)叙法性は、話し手の<発話時>の態度・関わり方であるから、それ自体にはテンスがない。その点、「だろう」は問題ない。伝聞の「そうだ」は「そうだった」の形があり得るが、実際にはほとんど用いられない。「らしかった」「−のだった」などの形は、あるにはあるが、客観的な時間の叙述というよりは、回顧・詠嘆性、確認・強意性など主観的な「モーダル」な用法が目立つ。Bの諸形式は、A以上に過去形が、少なからず用いられるが、それとてその多くは、反事実性の用法であったり、過去か現在か超時かによって自らの意味を変化させたりする。ABともに、叙法的である所以である。(なお、後述)
 3)みとめかたに関しても、Bの中には「*しなかりたい」「??しないべきだ」「?しないことができる」など、前接部にみとめかたの対立がないものがある。d)の当為的な「なしかた」の諸形式は、自らの意味と形式自体に肯定否定の対立がくいこんでいる。
 4)相互承接の面で、他のカテゴリーも含めて図式化して見ると、おおよそ、
    ┌──────────────────────────────────┐
    | ヴォイス−アスペクト−客観的M/認め方−テンス−基本的M−もちかけ|
    └──────────────────────────────────┘
  例)読ま−せ−られ−て い −たく(は)−なかっ −た −のだ  −ね
    怒ら−れ  −て い  −なく−ても よかっ−た −のだろう−よ
    行か−せる  −ことができ-なければならなかっ-た-かもしれない-のだ-そうだ-よ

のようになる。細かいことはおくとすれば、渡辺実が喝破したように、より客観的論理的なものが前に、より主観的情意的なものが後に来るという傾向があるが、BがAの前に来ている。また、同類のものは相互承接しないのが基本で、「?する−かもしれない−にちがいない」などとは、まず言わない。「する−かもしれない−だろう」は言うが、その際「だろう」は推量から「念押し」に意味変化している。「する−かもしれない−らしい」では「らしい」は推定ではなく「伝聞」である。ことばは、たしかにうまくできている。ただし、この形式的な相互承接が、文の意味機能的な階層性を忠実に反映しているとは、限らない(cf.すべきではない/??しないべきだ  とめてくれるな/とめないでくれ)。絶対化は禁物である。
 5)複文の従属節との関係で言えば、Aの多くは、南不二男の言うC段階の「が・けれど・から・し」などの接続助詞による、独立性の高い従属節に現われるが、連体節や条件節や「ので・のに」など、南のB段階の従属節には現われない(にくい)のが基本である。Bの諸形式は、おおむね、南のB段階の従属節に現われる。ただし、Aのうち a')確信度と a")推定・様態は、この点、例外をなし、B客観的叙法性の方に近い。 
 以上を要するに、ABそれぞれの内部に、それ相当の異なりを含むのであるが、大局的に言って、A基本的叙法性は、前接部にテンスやみとめかたの対立をもつ<出来事>を受け、自らはまともなテンスを持たずに、話し手の出来事に対する態度───意味的には、ことの認識のしかたと、説明のしかた───を表わす、叙法性らしい叙法性である。これに対して、B客観的叙法性は、前接部にテンスやみとめかたの対立を持たず、自らがテンスの対立を持つ点で、自らを含めた全体で<出来事の様相>を表わすと言える。ただ、その「様相」は、文の終止の位置に立ち、主語の人称性とからんだ場合には、話し手の関わり方・態度───意味的には、蓋然性判断、当為的な態度、意欲的な情意など───になるという意味で、「条件づきの叙法性」と言える。

4-3 ここで、以下では触れられない細かい注記をしておく。Bのうちのc「ありかた」とd「なしかた」は、それぞれ様相論理学で言うalethic modalityとdeontic modalityに対応するものであるが、日本語では、後者はよく発達しているが、前者つまりカント以来の「現然・可能・必然」の三様相は、ぴったりした形式が少ない。「しなければならない」「しなくてはいけない」などは、alethic な必然というよりは、deontic な必要ないし義務である。「することができる・読める」などの「可能」は、能力可能と状況可能とを含めて、事態の可能性というより、人間(有生)の行為の可能性である。事態の可能性は、むしろ「−かもしれない」のように認識の仕方として表現を受ける。また、事態の「ありかた」は単なる可能性としてよりも、むしろ「しそうだ・しがちだ」のように蓋然性ないし確率性として、表現される。科学的な論説文などに、必然性や可能性の表現を見出すことはありうるが、まだ翻訳くささが抜けない。必然性は、日常言語において、基本的には、無標的unmarkedな形の直説法(断定)で表わされるということは、日本語に限ったことではないだろう。また、必然性と偶然性は、「必ず・必然的に」とか「偶然・たまたま」とかの副詞が、確率性(きまって、よく、とかく)や 頻度性(たまに、ときどき)からの発展として、その系列の延長線上で表現している。
 d)の deonticな「なしかた」の形式の多くが、「ば・と・たら・ても・ては」のような条件的な形と「いい・いけない・ならない」のような評価的な形容詞とからできていることは、興味深い。記述・説明と当為・命令とをつなぐものは、「評価」だから。また、deontic logic でいう「義務」は「行為しないことの不許可」であり、modal logic での「必然」は「否定することの不可能」であるが、日本語の「しなくてはいけない」「しなければならない」「せざるをえない」などの義務・必要・不可避(必然)の形式が、まさにその通りの二重否定によって表わされていることも、注意しておいてよい。なお、不許可と不適切は、「したら/ては いけない」では、多義的というか、連続的である。(意志・行為的な「けんかをしたら/てはいけないよ」と、無意志・成り行き的な「けんかになったら/てはいけないね」とを比較。終助詞の違いにも注意。) 
 eの情意の前接部が動詞にほぼ限られるのは、意味的に当然と言うべきか。cも動詞が圧倒的に多いが、「大きそうだ」「学生でありうる」のようなものもあり、dは「大きくてもいい」「学生でなければならない」などと言えるものも多い。e'の評価や程度は、あるいは名詞、あるいは動詞、あるいは形容詞と、かたよりがある。なお、A基本的叙法性は、テンス・みとめかたを持つ出来事・命題につくのだから、当然、品詞的制限はない。

5 語論・形態論的アプローチと、文論・構文論的アプローチ
 先に 4-2の2)で述べたように、発話時の態度を表わす叙法形式は、原理的に現在であって、テンスを持たない。命令の「しろ」勧誘・決意の「しよう」推量の「だろう」は、この点では問題なく、叙法形式である。それに対して「らしい」や「ようだ」は、「らしかった」「ようだった」という過去形も持つ点で、純粋な叙法形式とはいいがたい。同様なことは、連体節や条件節に入りうるかどうかという点でも、言える。「らしい」や「ようだ」は、B客観的叙法性に近い性格を持つと言うべきだ、ということであった。

5-1 しかし、ひるがえって考えてみると、「しろ・しよう」は「する」の、「だろう」は「だ」の一つの活用形であった。ところが「らしい」「ようだ」が、テンスや連体や条件の用法をもつという時、それは、活用形ならぬ代表形式lexemeとして、扱われていたのである。いわば、レベルの異なるもの、比較してはならぬものを比較していたのだ、とも言える。比較するなら「らしい」や「ようだ」の一つの活用形と比較しなければならない。「ようだ」は、終止形(直説法)の「ようだ。」を「だろう。」とを比較すべきなのだ。「らしい」の場合は、終止・連体が同形なので、やっかいな問題がからむが、比較としてはやはり、終止・連体形の終止用法「らしい。」が選ばれるべきだろう。とすれば、「ようだ。」や「らしい。」は、テンス的に現在であり、従属節に入らないと、トートロジカルに言える。終止の位置の「ようだ。らしい。」は、発話時の「何か」である。こう考えるのが、文論の立場である。<注 8>
 問題は、その「何か」が話し手の認識の仕方(ex. 推定)なのか、ことがらの存在の仕方(様子・様態性)なのか、ということになる。この主体的・志向作用的側面と、客体的志向対象的側面とは、言語の意味としては本質的に、どちらかにかたよりながらも常に共存すると、わたしは考えているが、としても、それは程度的な段階差をもって、切れ続いているわけで、「らしい」や「ようだ」が、そのどのあたりに位置するのかを測らなくてはならない。その際、それらが終止形(直説法)という、無標的unmarkedな、出発点的な形であるということが、有標的markedな形の「だろう」と、やはり差を持つだろうとは考えられる。じっさい、「だろう」は「だ」とちがって、名詞だけでなく、動詞・形容詞に直接しうる点、「だ」の活用系列からはみ出している、というより、この点をもって「だろう」は「だ」とは別の助動詞とするのが、通説なのであった。「だろう」は、叙法形式として先鋭化して「措定(断定)」から独立し、断定と対立するに至った、と言える。

5-2 終止か、連体か条件的接続形かなどの「切れ続き」、文中での位置positionによって持たされる、他の部分との機能的な関係・むすびつきの中で、各活用形は、独自の意味機能を持たされることがある。「ようだ」が、様態ないし推定という叙法的な意味を持つのは、じつは、基本的には終止形においてであり、連体形「ような」や連用形「ように」は、例示や比況(比喩)の意味が基本である。テンスとムードは、発話時に関わるカテゴリーゆえに、終止の位置において、基本的に発達するものである。「ようだ」のような終止述語用法と、「ような」「ように」のような修飾語用法とで、意味のありかたに違いがおきるのは、当然なのである。「らしい」も連体用法において、たとえば「武家屋敷らしい門構えが見えてきた」「鈴木さんらしい声が聞こえた」のように、推定(どうやら──らしい)なのか、接尾辞とされる「らしさ」(いかにも──らしい) なのか判定に迷うような、中間的ないし二面的な例が、終止用法に比べてはるかに多くなるだろう。
 こうして、文論としての叙法性の研究においては、まず終止の位置において対象を分析すべきであり、次いで、連体や条件等の位置にも用いられる場合は、それを複文における用法として分析するわけだが、その際、意味や機能に変容が生じていないかどうか、入念に調べてみる必要がある。同じ語lexemeの活用メンバーだからといって、意味が同じだとは限らないのである。先に叙法性の諸形式を、AとBとに分けたのは、文論としての扱いというより、いわば、複合述語、あるいは助動詞・補助動詞の「形態論」としての扱いであった。それは、叙法性の表現形式のデュナミス(潜勢・可能態)としての面を知るために、ぜひとも必要なものであったが、文の中の一定の位置に実現することによって、つまり「語順・位置」という構文論的形づけによって、身につけ、やきつけられていく意味や機能も、文論としては、見過ごすわけにはいかないのである。 
 この節で、語論か文論かという形で問題にして来たことは、要するに、文構造の「階層性・包摂性」と、文カテゴリー(叙法性など)の「体系性・対立性」とを、どう折合いをつけて分析していくか、という問題であった。「が」と「は」の対立のない連体節における「彼が学生であるのは確かだ」の「彼が」と、対立のある主文における「彼が学生である。」の「彼が」とでは、明らかに価値が異なる。後者は、選択指定性ないし新情報性をもつのに対し、前者はその点、中立である。連体の「した」と終止の「した」が、テンス的に異なることは、一部の抽象好みの学者を除いて、もう常識と言っていいだろう。

6 叙法性と他のカテゴリーとの関係
 最後に、叙法形式と、みとめかたやテンスや人称性との関係を見て、一応のしめくくりをつけることにしたい。例に「してほしい」を取り上げよう。<注 9>
 この形の否定形としては、否定が前に来る「しないでほしい」と、後に来る「してほしくない」とがある。後者「してほしくない」は、形は「ほしい」という希求の否定であるが、意味的には、希求という気持ちの欠如───これは「してほしいの/わけではない」や「してほしくはない」が表わす───ではなく、「しない」ことの希求である。「すべきで(は)ない」も、意味的には当為の欠如ではなく、「しない」ように「すべきだ」という意味だ。<注10>【補注】これと似たことは、「よくない・このましくない」「おもしろくない・うれしくない」など、評価や好悪の感情を表わす形容詞にも見られることで、希求や当為の「感情性・評価性」のあらわれだろう。
 こうして、「してほしくない」と「しないでほしい」とは、外形ほどの違いはない、類義的な形だということなる。しかし、まったくの同義であるわけではない。前者「してほしくない」と後者「しないでほしい」との間には、人称表現の表わされかたに、差が出て来る。前者が「わたし、あなたになんか、看病してほしくないわ」とか「君に同情など、してほしくないな」のように、1人称や2人称の表現と共起して用いられることが少なくないのに対して、後者の方は、「もう見送らないでほしいな」「そんなに、気にしないでほしい」「あんなことは、もうけっして、しないでほしいの」のように、表現されない場合が非常に多い。さらに、前者は「あの人には来てほしくないわ」のように3人称のニ格補語をとる例があるが、後者「?あの人には来ないでほしい」は、ない(少ない)のではないか。また、後者は2人称をニ格「?君に(は)来ないでほしい」で言うより、「君は来ないでほしい」のように、格としては「ゼロ=名づけ格」の主題として言う方が普通である。前者はこの点「君は/には来てほしくない」のどちらも普通に言えるだろう。以上の差は、「してほしくない」が、希求の叙述文としての性格をより濃くとどめているのに対して、「しないでほしい」は、依頼・命令文としての性格を獲得しつつある、ということの現れだと考えられる。
 次に、テンスをからませて、過去形「してほしくなかった」と「しないでほしかった」とを比べて見ると、もはや、手元の資料は貧弱すぎて、私の語感に頼らざるをえない面が多いが、前者「してほしくなかった」は、小説の地の文に多く、登場人物の過去の気持ちを単に描写している場合が多そうだし、後者はそれもあるが、「最後まで、あきらめないでほしかったのに」のような、「反実的な」もはや叶えられない望みを表わす場合が多いのではないだろうか。だがそれにしても、「過去形」になると、両者の差は現在形より小さくなるとは、言えそうである。<終止の現在>において、叙法的性格はのびのびと発揮されるということであろう。
 だとすれば、もっとも基本的で直截な<終止の肯定の現在>の形「してほしい。」に立ち戻らなければなるまい。方向はもう見えている。この形は、「あの人は君に来てほしいのだよ」のように「のだ」などで判断文化されないかぎり、希求主体は1人称(質問文では2人称)に限られ、ふつう表現されない。この点、「したい」と同じである。ニ格補語は、「あの人に来てほしいな」のように3人称もありうるが、2人称の場合は「あなたに今すぐ来てほしいの」のような形のほかに、「鈴木君、すぐ来てほしい」のように、呼び掛けの独立語として現われることもある。これは、命令文・勧誘文の基本文型であった。「してほしい」や「してもらいたい」などを「希求文」として、叙述文から取り出すべきではないかという議論の根拠は、こんな所にもあるのである。
 ただし、終止の肯定の現在の形が、人称構造にからんで、話相手(や自ら)へのはたらきかけを表わす「意欲文」的になるのは、このほか、先の一覧表の、Bdの当為的な形や、Abの説明的な形にも起こることである。これらは、3人称・不定人称の構造で用いられることも多く、先の一覧表に示したような、一般的・客観的な意味を表わすのだが、主体が2人称の構造の場合(ふつうは表現されないが)、「もう帰ったらいい」(すすめ・勧告)「黙って出かけてはいけないよ」(さしとめ・禁止)「もちろん君が行くべきだ」(さしず・指令)「はやく帰って来るんだよ」(さとし・説諭)などのように、「もちかけ」の終助詞「よ」などの助けも借りて、相手に働きかける意味で用いられる。こうした用法が、それぞれの形式においてどれだけ定着しているか、詳しく調べて見なくてはならない。だが、それには、各論としての別の章が、用意されなくてはならない。
 この節で問題にしたことは、つきつめて言えば、対話か独話か、地の文か会話文か、といった「場面と文脈」の問題を、どのように一般化して陳述論に組み込んで行くか、という問題であった。実用論やテクスト言語学と切りむすぶ地点に、ふたたび、たどりついたところで、この序章を終えることにする。

[付記]本稿は、日本語学科の第1期生が三年生になった1987年度の、学部特殊研究「日本語構文論」の「序章」と「第二章 文の陳述性」との一部を、主として方法論に関わる部分を中心に、書きあらためたものである。やや啓蒙的な言い回しが残ってしまったことを、お許し願いたい。この、難儀で退屈な講義に、辛抱づよく耐えて、最後までついて来てくれた学生諸君に感謝する。講義中、講義後の質問と、講義中の手応えや無反応とによって、考え直させられ、書きあらためた部分も多い。 
 本稿は、奥田靖雄氏の一連の研究から、根底的な影響を受けて書かれている。それは、引用するような類いの、部分的な影響ではないと思われたのだが、どの深さまで理解しえているかは、また別問題である。読みくらべて、批判していただければ幸いである。


<注>
<注 1> Ch.Fillmore のいう"Modality"や、三上章や寺村秀夫らの「ムード」は、文の二大分割として、"Proposition" や「コト」と対をなし、テンス・アスペクト、あるいはヴォイスをも含むものであり、本稿のものとは、立論の基礎を異にする。

<注 2>「実用論」という訳語について、つまらぬ誤解を避けるため、一言する。それは、この「実用」という語には卑俗なconnotation を含めてはいない、ということである。この訳語の出典はドイツ語学にある。英米語学系の用いる「語用論」という訳語は、「誤用論」と同音衝突を起こす「チンプン漢語」になり、日本語学者としてはぜひとも避けるべきだと考えた。なお、「実用」という語の、日本的な卑俗さを避けたいという理由は、「実用主義」哲学を生んだアメリカの、その言語を主たる研究対象とする英語学者が言うと、ちょっとこっけいである。
 自分の文章には「実用論」を用いられる池上嘉彦氏が、リーチの訳本では「語用論」に妥協されたことを、影響の大きい本だけに残念に思っている。これも「英語帝国主義」の余波の一つであろうか。悪貨が良貨を駆逐して行く。

<注 3> 典型的中立的な質問においては、肯定否定の対立は不要である。「行くか」も「行かないか」も論理的には等価だ。【補:いわば、疑問文という環境において肯定否定の「対立」が「中和」する。そして、音声現象の場合とは異なり、「意味」をもつ文法現象においては】こうした場合は通常、unmarkedな形がその役を担い、markedな形は、別の機能、たとえば、イエスを予想する「同意求め」になったり、ここでのように、行動を期待する「依頼」になったりするのではないか(推測)、と考えられる。

<注 4> これらの表現を発生的に、あるいは規範normとして、「コンタミネーション」と扱うべきかどうかは、いまは問わない。混線・汚染【contamination】だとしても、それが起こりうる、または起こりやすいことの、体系的な要因を、ここでは解明したいのである。

<注 5> 1人称複数のたとえば「僕たち」は、「君たちが行かないのなら、僕たちが行こう」のような聞き手を除外した exclusiveな用法では、決意を表わし、「僕たちもそろそろ行こう」のような聞き手を含めた inclusiveな用法では、勧誘を表わす。日本語学では、前者を1人称単数と合わせて「1人称」、後者を「1・2人称」と呼び慣わしている。
 なお、「あっしら」「手前ども」を除外形exclusive だと言う言語学者がいたが、どうだろうか。たしかに、謙譲語のために、聞き手を含めぬ除外の用法に立つことが多いだろうが、「おめえさんらが行かねえんなら、あっしらが行きやしょう」「そちら様がいらっしゃらないのでしたら、手前どもが参りましょう」では決意、「あっしらもそろそろ行きやしょうぜ」「手前どももそろそろ参りましょう」では勧誘を表わし、除外形の用法に限られるわけではないだろう。日本語には「が・は・も」のような、とりたての形が頻用され、それらが表わす指定性・排他性・共存性などが、除外と抱合との用法に相当する役割を果たしているからではないかと思われる。除外・抱合の両形をもつ言語では、「とりたて」的な表現とどのような関係をもつのだろうか、知りたいと思っている。

<注 6>「行くにしろ行かないにしろ」「行こうが行くまいが」など慣用句的なもの等以外。

<注 7> この「客観的」叙法性という用語は、M.GrepleやV.Z.Panfilovらのそれとは、内容が異なる。好ましくないが、前稿の「擬似的」という用語の消極性を嫌っての変更である。

<注 8> 要素的・外形的には、「よう−だ」は[様態の断定]、「らしいφ」は[推定の断定]と言いたくなるかもしれないが、そう単純には言えないことは、「疲れているようだろう」の「だろう」が推量ではなく念押しになること、「?しているらしいだろう」はやや落ち着かないが、言うとしたら念押しであること、からわかる。「様態・推定」は、念押しならぬ「推量←→断定」の対立とは共存しないのだ。

<注 9>「してほしい」という形の、女性語的、関西方言的色彩が気になる方は、「してもらいたい」に置き換えて読んでほしい(もらいたい)。論旨に変わりはないはずである。

<注10> 第4節では、「しないべきだ」に??印を付けたが、この形が生じる「合理」的な理由はあるし、じっさいに、若い人からこの形を聞いたこともある。(cf.してくれるな ⇒ しないでくれ)
【補注:若い人以外では、「書くべきか、書かざるべきか」(筒井康隆)のような「-ざるべき-」の形が定着しかけているようである。ただ、今のところ、対句形式にほぼ限られているようであるが。】

<参考文献>───本稿を書くにあたって直接、参照または引用したもののみ───
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 南不二男1964「述語文の構造」(国学院大『国語研究』18)
 ────1967「文の意味について」(国学院大『国語研究』24)
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[参考文献についての補記]
 N.E.Petrovと T.I.Desherievaの本は、言語によって実にさまざまなモダリティ組織があることを教えてくれ、ロシア語その他の印欧語にそれほど遠慮せずに、日本語の叙法性組織についての一案を提示する勇気を与えてくれた。
 F.R.Palmer(1986)は、類型論の立場で書かれた重宝な教科書で、多くの興味深いことを教えられたのであるが、日本語に関する部分は、日本語の組織全体を問題にしているのではないとは分かっていても、典拠選びの悪さもあって、やや粗略で粗雑である。それは、他の言語の部分の信用性をも疑わせかねない。
 一般言語学者、言語類型論者は、典拠とする研究の質の善し悪しを見抜く力を持っていなければならない。それには、広い視野が要求されることはもちろんだが、個別言語と自ら格闘し、どこまで深く掘り下げて研究しているか、ということも関わって来るだろう。類型論の質の高さは、その研究者の個別言語学者としての質の高さに規定されると思う。類型論の流行が、砂上の楼閣を築くに終わらないように、用心したいものである。

                       (『東京外国語大学論集 第39号』)


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