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モダリティ(1/3)

 この項でモダリティ(modality) という術語は、動詞の形態論的範疇としてのムード(mood) に対応して立てられる構文論的範疇、という意味で用いる。それぞれ「(叙)法性」「(叙)法」という訳語が古くからあるが、参照の便宜のためここでは用いないこととする。この定義は、ムードに対応する意味的範疇とか、意味・機能的範疇という定義に似ているが、厳密には異なる。構文論的範疇は形式・意味・機能の三者を兼ね備えたもので、文レベルのものという限定がある。意味(・機能)的範疇という場合、文レベルという限定が薄れてまたは無視されて、あるいは既成の論理(学)的範疇に鋳込まれたり、あるいはプラグマティックな機能(効果や意図目的)の枚挙に流れたり、へたをすると語彙レベルの意味と形態(論)レベルの意味と文レベルの意味と文脈的な意味合い(含意・含み)とが無秩序に羅列されたり、といったことも起こりかねない。それを避けるために構文論的形式をまず踏まえるところから出発しようとするのが、構文論的範疇と定義する立場である。もちろん文法学における形式・意味・機能の「三位」は、宗教とちがって一体とは限らず、ずれやくいちがいをはらみ、それ故に歴史的変化も生じるわけで、形式に絶対権があるわけではないが、感覚・知覚に確実にとらえられる形式から(質料的な外形も形相的な型もふくめて)はじめるのが、経験科学としての文法学の定石だと主張するのがこの立場である。
補記:上の「感覚・知覚」が 出版された 事典では「感覚」だけに なっているのは、編集委員の 意図的な 改変だと みられるが、おおざっぱに いえば、「感覚」が「質料的な外形」に、「知覚」が「形相的な型」に ほぼ 対応している。ブルームフィールドが ほぼ 外形のみ、サピアは そのほかに「直観 intuition」(カント)が ほぼ いまの「知覚」に 相当して つかわれている。両人の「形式」の 具体的な 差として、たとえば「パタン pattern」認識の 重視の 差と なり、方法論的に きわめて 重要である。なお「言語形式」の項も、この点 留意して よんでいただきたい。】
 まず、モダリティの表現手段として働く形式の概略を整理しよう。文は語の集合だから、構文論的形式は形態論的形式を含む。語彙の種類も共起制限という型(pattern)に抽象できる限りで連語の型として構文論的形式になる。語順(位置)・ポーズ(休止)・プロミネンス(卓立)・イントネーションも、テーマ性・とりたて性・モダリティ等の表現手段になる。
 現代日本語の動詞の形態論的ムードは、「書く−書け−書こう」「起きる−起きろ−起きよう」といった語尾変化による叙述−命令−勧誘の3語形を中核にもち、合成の手順による「書か-ない 書き-そうだ なり-やすい」ような「文法的派生態」によって語彙文法的な範疇を広げ、「(Nφ)だろう (Nダ)そうだ (Nナ)のだ」のような膠着的な手順によって、動詞のほか形容詞や名詞叙述態にも「述語のムード」を拡張する。さらに「補助動詞」「形式語」などとの組合せによる「分析的な手順」として「と思う にちがいない かもしれない てもいい はずだ ことができる」などがあり、さらに語彙表現性の高い「迂言的な手順」として「おそれがある 公算が大きい ことは必至だ」なども、報道文体では多用される。以上をとおして、前のものほど文法形式化されており、後のものほど語彙性が高く文法性は低い。最後の迂言的な表現などは、文レベルでもモダリティといってよいか、大いに議論の余地があるだろう。これは、<文法化grammaticalization> の度合いの問題であって、周辺部には種々の新表現が連なっていて一線で区切ることはできないだろうと思われる。これは膠着的タイプといわれる日本語にとって避けがたい連続性であって、周辺部の境界画定にあまり神経質になるのは得策ではないと思われる。とともにここで確認しておかなければならないことは、形態論的なムード語形によってあらわされる <命令−勧誘> をモダリティから排除し、叙述文にのみモダリティを認めようとするのは、論理主義的偏向(鋳込まれ) ―― しかもこの(カントに淵源する)論理範疇自体、無自覚のうちにかなりの程度ドイツ語のモーダルなシステムに制約されている ―― と言うべきだ、ということである。
 以上のような連続的な広がりにおいて存在するモダリティ表現を定義する参考としては、次の三つの学説が有用であろう。まず(1)スイート(H. Sweet)のムードの定義「主語と述語との間の種々に区別される諸関係を表わす文法形態」があり、日本では山田孝雄の「陳述」に受け継がれており、(2)イェスペルセン(O. Jespersen)のムードの定義「文の内容に対する話し手の心の構え」があり、これは時枝誠記の「辞」にその精神は受け継がれており、(3)ヴィノグラードフ(V. V. Vinogradov)のモダリティの定義「ことばの内容と現実との様々な諸関係を表わす文法形式」があり、奥田靖雄の「モダリティ」に受け継がれている。スイートは「話し手」を持ち出さずに、主語と述語の関係が「事実」か「想念」かといった分類をするわけで、これを客体面からの定義だとすれば、イェスペルセンは話し手の心の構えと、主体面から定義している。ただ「主観的態度」とは言っていないことにも注意。ヴィノグラードフは主述関係もはずし、言語内容と場面(状況)との関係と抽象化した。やはり客体面からの定義と言うべきだが、三人とも、関係とか構え(態度)という用語を用いて、関係を結ぶ主体や、客体に対する構え(態度)という、もう片方もほのめかす定義になっていることも忘れてはならない。「主観的態度」という理解は正統とは言えない。
 こうした遺産から学び日本語のモダリティ形式で検証するとき、次の2点が重要に思われる:モダリティという範疇の、文の外部との関係における要点は「言語場を構成する必須の四契機である話し手・聞き手・素材世界・言語内容という四者間の <関係表示> だ」ということであり、文の内部における部分関係としての要点は「モダリティは <客体面と主体面との相即・からみあい> として存在する。客体面は文内容の <ありかた・存在様式> であり、主体面は文内容の <語りかた・叙述態度> である」という内-外・主-客にわたる2点である。外的には、状況や聞き手との関係づけによって、いわゆる <場面・文脈的な機能> が生じ、内的には、意味・機能の、次のような <両面性> を生み出す。
(1)助詞「か」の意味構造における、主体的な<疑問>性と 客体的な<不定>性との からみあい:文末の終止用法「あした行かれますか?」において、<疑問性> が表面化し、文中の体言化用法「どこか遠くへ行きたい」において、<不定性> が表面化し、そして、その中間の「どこからか、笛の音が聞こえてくる」のような 挿入句的な間接疑問句の場合に、<疑問性> と <不定性> とはほぼ拮抗する。(2)助動詞「ようだ」の意味構造における、客体的な<様態>性と 主体的な<推定>性とのからみあい:「まるで山のようなゴミ」「たとえば次のように」などの「連体」や「連用」の「修飾語」用法においては、ことがらの <比喩性> や <例示性> といったことがらの <様態性> の面が表立っており、「どうやらまちがったようだ」のような「終止」の「述語」用法において、主体的な <推定性> が表面化することになるが、「だいぶ疲れているようだ/ように見える」のように、<様態性> と <推定性> とがほぼ拮抗する場合も多いし、「副詞はまるでハキダメのようだ」のように、<様態性> ないし <比喩性> の叙述にとどまることもあって、複雑である。この複雑さは、文構造的には陳述副詞との呼応を促すが、連文構造の中――たとえば根拠と推定という連文構造か、場面描写の構造の内部の一様態か――で意味が定まることも多い。以上のような両面性は、文内における位置によって、表面化したり裏面化したりはするが、デュナミス(潜勢態)として共存すると考えるべきだと思われる。文内での「位置」のちがいや、他の部分との「きれつづき(断続関係)」にもとづく「機能」のちがいといった <構造的な条件> を精密に規定しないまま、モダリティ形式の意味の「本質」を「主観的か客観的か」とか「辞か詞か」などと、大上段に振りかぶって単純二項対立的に峻別しようとするような議論は、もはや無効だと言うべきだろう。どちらにも一面の真理はやどっているのだから、いまやその総合こそが課題なのである。
【参考文献】
Sweet, H.(1891) A New English Grammar, Part T. Introduction. Oxford UP,London.
     [半田一吉(抄訳)『新英文法─序説』(南雲堂)]
Jespersen, O.(1924) The Philosophy of Grammar. George Allen & Unwin, London.
     [半田一郎(訳)『文法の原理』(岩波書店)]
Vinogradov,V.V. (1955) "Osnovnye voprosy sintaksisa predlozhenija"
            [構文論(文統合論)における基本的な諸問題]
     [1975年の『ロシア語文法 著作集』ナウカ、モスクワに所収]
奥田靖雄(1985)「文のこと 文のさまざま(1)」(『教育国語』80 むぎ書房)
工藤 浩(1989)「現代日本語の文の叙法性 序章」(『東京外国語大学論集』39)
――――(2005)「文の機能と 叙法性」(『国語と国文学』82巻8号 至文堂)

(工藤 浩)



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