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副詞と 文の陳述的なタイプ

工 藤  浩

0) はじめに
1)副詞の概観
2)「陳述性」「叙法性」の概要と「陳述副詞」「叙法副詞」の概観
3)「どうぞ」の呼応する形式───「形式」とはどんなものか───
4)副次叙法の副詞をめぐって
5)単語の多義性・多機能性と その「やきつけられかた」
6)「下位叙法」の副詞(成分)について
7)その他の副詞と文の陳述的なタイプ
8)おわりに──副詞の品詞論上の位置──
  参考文献
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0) はじめに

 この章では、一般に 平叙文とか疑問文とか命令文といった名で知られる、文のモーダルな あるいは 陳述的な側面に注目した類型、ここではそれを「文の陳述的なタイプ」と呼ぶが、それとの関係・絡み合いにおいて、副詞および副詞的な成分の働きを見ていく。
 一般にどんな言語でも、主語や主題に対して──それが顕在しようと潜在しようと──、なにかを「述べる(predicateする)」成分である <述語(Predicate)> が、述べる様式(modality)としての <叙法性(Modality)> という文法的カテゴリー(文法範疇)の中核をしめるのが基本である。しかしまた、種々の程度において、述語以外の位置をしめる成分が、種々の述べる様式(述べ方)を補佐・補強ないし補充することも、ふつうに見られることである。これは、言語の基本的制約である形式面での「文の線条性」という弱点──記号を一次元的にしか並べられないということ──を克服して、内容面で一定の秩序「文の階層性」を明確にするための、一つの工夫であったと考えられる。
 この巻の結びに、文のモダリティ=叙法性の表現手段として、述語と副詞(的成分)とが どのように役割を分担し、文の組立に協力しているのか、そのあらましを見ていくことにしよう。第一章 第二章と、述語を中心とした「モダリティ」についての記述がつづいているので、この章は「副詞」からはじめることにする。
 近代の科学・技術的な言語学において、ラテン文法以来の伝統的な「品詞」というものは、科学的に厳密に あるいは 操作的に精密に 規定することはできないものとされ、あまり人気がない。しかしそうかといって、名詞・動詞等の品詞名を使わずに言語学が出来るわけもなく、不承不承「便宜的」なものとして説明が加えられているのが実情であるが、その品詞の中でも、とりわけ不人気なものが「副詞」で、人によっては「品詞論のハキダメ」だとか「ごみため」だとか呼んでいるくらいである。「ハキダメ」と呼んだ国語学者は、その後「ハキダメ」の整理・再構築に精進し一家をなしたが、「ごみため」と呼んだ言語学学者は、「君子危うきに近寄らず」とばかりに、中をのぞいてみようともしなかったようである。たしかに、科学・技術をうたう「言語学」の華やかな表舞台の裏には、副詞という、システムの矛盾の集約としての「スラム街」が放置され、いいように利用されているのである。
 ハキダメとしての副詞をいくらかでも見通しのよいものにした学説も、いくつかはあるのだが、それもいまだ「通説」と呼ばれるには至っていない現状では、それをいきなり解説し批判するという手順はとれない。遠回りのようだが、学校文法として流布している考え方を、復習的に整理しながら批判を加えてゆき、最近の採るべき学説の解説とその問題点の指摘に及ぶ、という手順をとりたいと思う。そうした記述の中から、いわば、まだ完全には出来上がっていない料理を調理場で試食しながら、料理のしかたはいかにあるべきかについて考える、といった読み方を、とくに若い読者には、していただければと思う。


1)副詞の概観

1.1.通念としての副詞


 副詞は、単語を文法的に分類した <品詞> の一種に数えられるもので、それ自身語形変化(活用)をせず、もっぱら用言またはそれ相当の語句を修飾(限定・強調)することを基本的な機能とする語をいう。通常は、「わざわざ・ゆっくり(と)・すぐ(に)」などの情態副詞、「やや・もっと・非常に・すごく」などの程度副詞、「けっして・おそらく(は)・もし(も)」などの陳述副詞、の三つに下位分類されている。
 形態の面では、用言のように、語尾変化することも、いわゆる助動詞や接続助詞のような文法的な接辞を膠着させること(「活用」)もないし、また体言のように、種々の格助詞や副助詞・係助詞を膠着させること(「曲用」または「格変化」)も、基本的にはない。つまり、文法的な形態変化を基本的にはもたないのである。それは、次のような事情による。
 体言や用言は、文の中で、
    子犬が 走っている。    走っているのは 子猫だ。
    この花は きれいだ。    きれいなのは こっちの花だ。
のように、主語や述語となるのをはじめとして、
    補 (足) 語:花を見る。  花に止まる。  花でおおわれる。
    連用修飾語:走って帰る。 きれいに片づける。    花と散る。
    連体修飾語:走っている 子犬の写真    きれいな 花の
などの「文の成分」にもなり、種々の構文的な機能をもつわけだが、活用や曲用(格変化)などは、そうした複数の機能を表わし分けるための形態上の手順(手段)なのである。これに対して副詞は、文中での働きが連用修飾という一つの機能にほぼ固定した語であり、そのため活用や格変化をもたない(もつ必要がない)のである。活用や曲用(格変化)をもたず一つの機能に固定されているという点は、連体修飾語にのみなる連体詞、接続語にのみなる接続詞、独立語にのみなる感動詞も同様であり、いずれも文の骨組をなす主語や述語になりえず 副次的依存的な機能にほぼ固定しているところから、「副用語」または「副用言」と総称されている。この副用語は、一般に修飾語を受けえない点でも体言・用言(総称して「自用語」または「自用言」)と異なる。他に依存するばかりで 他を依存させるだけの実質性をもたないのである。(情態副詞に例外があるが後述する)
 以上のような基本的な分類のしかたが問題なく適用できる単語も多いのだが、分類一般によくあるように、品詞と品詞との境界付近を浮動する単語も少なくない。その際、体言・用言が、曲用・活用といった形態的な支えを持つのに対し、副詞が積極的な形態上の支えをもたないために、そして、「連用修飾」という構文的機能自体がいたって曖昧なために、分類上 所属が問題になるものが、大した吟味も経ないままに(とりあえず)副詞の方に放り込まれる ということになりがちである。そこで、日本語に限らず 多くの言語で、副詞は「品詞論のハキダメ」の感を呈することになるのである。

 境界線付近の現象をいくつか見てみよう。
 <時>と<数量>を表わす名詞は、その他の一般の名詞と違って、
    きょう 行きます。
    りんごを 三つ 買う。
    友人が 多数 出席した。
のように、格助詞を伴わずに単独で連用修飾語となり、この点 副詞と同様なので、副詞に「転成」したとする考え方もありうるのだが、
    きょうが約束の日だ。    来年のきょうも ここで会おう。
    一つをむいて食べた。    残った二つは、ジュースにした。
など、格変化もあり連体修飾も受けうるところから、品詞としての副詞とはせず、名詞の「副詞用法」として扱うのがふつうである。また
    美しく咲く。    きれいにかたづける。cf.きれいに忘れる。
なども、それ自身の働きは副詞とほとんど同じであるが、(違いについては後述)
    花が美しい。    きれいな部屋    cf. *きれいな忘却
などの形と、程度修飾を受けうる性質と語彙的な意味とが共通していることを重視して、同じ語の活用系列をなすと考え、それぞれ形容詞・形容動詞の「連用形副詞法」として扱う。cf.の「きれいに」のように、連用形だけ 意味が大きく変化したものは、副詞に転成したものと扱うことが多い。
 こうした通説での扱いは、英文法の通説でのadverbの扱いと異なる。英文法では、たとえば"today"は、用法によってadveb(副詞)でもあり noun(名詞)でもある、つまり 同形異品詞とすることがふつうであり、また"cleanly"は、"clean"というadjective(形容詞)に"-ly"が接尾してadverbに派生した(品詞の転成)とするのが ふつうである。(これについても後述)

 以下、しばらく、副詞の下位類を見ておこう。

1.1.1.情態副詞
 これは、動作や変化のしかた(様態)、あるいは出来事の付随的なありかた(状態)を表わして、主として動詞を修飾する副詞である。
 語構成上、
    おのずと分かる        ゆっくり(と)歩く
    ついに完成した        すぐ(に)行く
のように語尾「と」「に」を持つものが多く、着脱可能なものもある。
「と」語尾系の情態副詞として、
    −リ:バタリと      ころりと    だらりと
    −ン:バタンと      ころんと    だらんと
    −ッ:バタッと      ころっと    だらっと
    反復:バタバタ(と)    ころころ(と)  だらだら(と)
       ドタバタ(と)    からころ(と)  (  ?   )
などの型をした <擬声擬態語> を多くもっていることは、日本語の特色の一つと言っていい。また、上の「バタバタ」などをはじめ、
    名 詞:道々       いろいろ(と)   口々に
    動 詞:いきいきと    思い思いに    しみじみ(と)
        おそるおそる   かえすがえす   つくづく(と)
    形容詞:ちかぢか     青々と      ひさびさに
    漢 語:重々       堂々と      内々(に)
など、さまざまの要素の <畳語(反復形)> が多いことも、情態副詞の語構成上の特徴としてあげられる。
 動作などのあり方を表わし動詞を修飾するという機能は、この副詞のほか、形容詞・形容動詞の連用形によっても果たされることは前述したとおり。情態副詞の命名者 山田孝雄は、形容動詞の語幹「静か・堂々」などをも情態副詞と扱ったが、その後 吉沢義則・橋本進吉らによって、文語でナリ・タリ、口語でダの語尾をとって活用する「静かなり・堂々たり/静かだ」などは 形容動詞という品詞として立てうると提唱され、現在での通説となっている。
 口語の形容動詞に関しては、いわゆる形容詞を「イ形容詞」または「第一形容詞」とした上で、「ナ形容詞」または「第二形容詞」と呼んで、異品詞ではなく同一品詞の活用の差と見る方が有力である。また、文語のタリ活用は口語ではすたれたため、口語では「堂々と」を副詞、「堂々たる」を連体詞として扱う(あるいは文語と見て無視する)ことが多い。二活用形に限られた不完全形容(動)詞とする説も、少数ながら無視できない考え方である。ただ本章では、情態副詞との関係に言及する便宜から、形容動詞の語をも用いることにする。
 このように、現在のいわゆる情態副詞(山田文法と区別する意味もこめて「状態副詞」と書くことも多い)は、形容動詞と意味・機能に一定の共通性をもちながらも、活用しえない点で、いわば取り残された語群である。擬声擬態語や 畳語という特殊な語構成をした語が多いこと、また語尾に「と」「に」をとるものが多いことは、こうした事情による。
 それと同時に、具体的で形象的な意味をもつ本来の擬声擬態語から、しだいに一般化された意味を獲得しながら、
    かなりはっきり(と)言う。ずいぶんのんびり(と) 話している。
など、他の副詞一般と異なり、程度修飾を受けうるようになったものや、更に
    ぴったり(と)合う        きびきびと立ち働く
    ぴったりな(の)服        きびきび(と)した動作
    服が ぴったりだ         動作が きびきび(と)している
のように、不整合ながら活用を半ばもつに至るものも存在し、両者の間は連続的につながっている。
 そのため、両者の共通性を優先させて、これら情態副詞を形容動詞とともに、用言または体言の一種と考える説もある(松下大三郎「象形動詞」、川端善明「不完全形容詞」;金田一京助「準名詞」、渡辺実「情態詞」など)。逆に、副詞法の形容詞・形容動詞の連用形を副詞(に転成したもの)と見なす説も古くからある(最近では鈴木重幸)。
 次に、意味の面では、その名の如く、
    ゆっくり・さっさと・そろそろ・べちゃべちゃ・滔々と
    のんびり・せっせと・てきぱき・ぺちゃくちゃ・堂々と
    たくさん・たんまり・どっさり/おおぜい/すべて・ほとんど・ほぼ
など、外的・内的な動作の様態(やり方)や量的な状態(あり方)を表わすものが多数を占めるが、そのほか、
    かつて・あらかじめ/しばらく/しばしば・たまに
    まだ・もう/ようやく・とうとう
    突然・不意に/たちまち・すぐ
など、時に関するもの、
    わざと・あえて・ことさら(に)/つい・思わず・うっかり
など、意志や態度に関するもの、
    一緒に・互いに/みずから・直接・かわりに/おのおの・めいめい・それぞれ
など、行為者関係に関するものなども、通常この副詞に入れられて、まとまりはよくない。
    なんとなく・どことはなしに/なんか・どこか/
など「不特定性」を表すものも、副詞と名詞の間を浮動していて、位置づけ未詳である。
 以上のうち、時に関するものは、動詞述語に限らず、
    彼は、いつも やさしい
    かつて このあたりは 淀橋浄水場だった
    まだ 来ていない / ぐずぐずしている  / 明るい / 小学生だ
    もう 来ている  / ぐずぐずしていない / 暗い  / 中学生だ
など形容詞述語・名詞述語とも共起できるものがあり、また述語のテンス・アスペクト形式と呼応関係をもつところから、「時の副詞」として別に立てる考え方も有力になっている(川端善明ほか)。その他も、一口に動詞を修飾するとはいっても、動詞のどの側面とかかわるかとか、どんな種類の動詞と結びつくかなど、動詞の下位分類の問題と並行して、今後さらに整理・再編成される余地を残している。
 先述した情態副詞と形容動詞連用形との関係の問題に関連して、意味の面でも、情態副詞の方が (動作中の)動的な様態を表し、形容動詞連用形の方が (変化結果の)静的な状態を表すという違いがある、と指摘されることがあり、たしかにそうした傾向も認められるが、
    夕陽が赤々と燃えている。   半紙を黒々と塗りつぶす。
    夕陽が真っ赤に燃えている。  半紙を真っ黒に塗りつぶす。

    廊下をしずしずと歩く。    休日をのんびり過ごす。
    廊下を静かに歩く。      休日をのどかに過ごす。
などを比較してみても、必ずしもそうとも言い切れず、結びつく動詞が 状態変化や現象を表すか 人間の行為や動作を表すかという方がきいている場合も多いようである。

1.1.2.程度副詞
 これは、状態性の意味をもつ語にかかって、その程度を限定する副詞である。結びつく相手 すなわち状態性の意味をもつ語は、品詞としては いろいろなものにまたがる。

 @まず基本的な用法として、形容詞・形容動詞と結びつく。たとえば、
「たいへん楽しい」「もっと早く歩け」「かなりきれいな花」「至って健康だ」など。
この結びつきには、ほとんど語彙的な制限がない。以下は、それぞれ制限つきであるが、
 A情態副詞・連体詞の一部:「とてもはっきり言う」「ずいぶん大きな人」
 B状態性の動詞(句):「たいへん疲れた」「非常に興味がある」
 C相対的ひろがりをもつ時間・空間の体言:「ずっと昔」「もっとこっち」
などとも結びつく。

 @の形容動詞に関連して、一般に名詞とされるものでも、メタファー的な述語として用いられると、臨時的に性質状態の側面が表面化して、
    いいトシをして、あの男もずいぶん子どもだね
    あいつは、かなり政治家だよ
などと、程度副詞を受けるようになる。形容動詞への移行の第一歩である。
 Aは前述したように、形容動詞に準ずる性格をもつものである。こうした 程度副詞を受けうる副詞・連体詞を 一活用形だけの(不完全)用言と見なす考え方も、有力になりつつある(古くは松下大三郎から、杉山栄一をへて、近くは川端善明など)。「ハキダメ」としての副詞の整理整頓には、必要なことと思われる。【ただし、この一活用形だけの(不完全)用言とする考えは、活用する点に用言の本質を求める立場では、用言をハキダメにするとしか見えないであろう。この件に関しては、用言も、単に形態的にだけでなく構文的に規定する立場が必要とされるのである。】
 Bの状態性の動詞を程度修飾する用法に関連しては、
    ごはんをたくさん食べる。
    友人が多数出席した。
などと用いられる、 <量> を表わす情態副詞や名詞とまぎれやすいが、これらは@の形容詞形容動詞を修飾する用法をもたない点で、程度副詞と区別される。
 ただし、程度副詞の中には、程度用法だけでなく、
    ごはんをすこし食べる
    ごはんをもっと食べなさい
    友人がかなり出席した
のように量の用法をももつものが少なからずあり、両用法・両語群の親近性・隣接性は否めないが、量の用法の場合は、状態性をもたない動詞と共起する点で、結びつく語の分布が程度の用法と異なっており、両者は区別すべきである。
 Cの用法は、「ちょうど十二時」「ほぼ百人」「もう一つ」「ただ一人」など、数詞を限定するものとともに、副詞が体言を修飾する特殊用法と、一般に説かれるが、程度副詞が結びつくのは「時間空間」の体言に限られ、数詞(数量名詞)を限定する副詞とはやはり分布が異なるので、別に考えた方がいい。
 話を強調したい気持ちから、斬新な表現が好まれる程度表現の中には、
    おそろしく大きな  とてつもなく高い  例年になく暑い夏
    猛烈に暑い     ばかに元気だ    予想外に高い値段
    目立って多い    とびぬけて速い   ばかげて太い柱
など、評価・注釈的な彩りを持った程度を表わす 用言の副詞法も多く含まれている。
    すごく・ひどく / 非常に・はるかに / 極めて・至って
などは、こうした段階をへて、元の意味をすり減らしながら程度副詞に移行してきた あるいは 移行しつつあるものである。
 なお、いわゆる副助詞も、
    見るからに おそろしいほど ばかでかいやつだ。
    まわりがいやになってしまうくらい おしゃべりなんだ。
などと、程度の副詞句をつくるが、これらを「形式副詞」として扱う考え方もある(森重敏・内田賢徳/奥津敬一郎など)。

 以上の情態副詞と程度副詞は、被修飾語たる用言の属性的な意味(語彙的な意妹)の面を修飾するものであり、その用言がどのような用法[陳述(=述べ方)的な意味]に立っても用いられる。たとえば、
    ゆっくり歩く    −歩け       −歩けば    −歩かない
    もっと大きい    −大きくなれ    −大きければ  −大きくないと
などのように、断定か命令か仮定かなどの違いにかかわりなしに用いられる。この点、次に述べる陳述副詞とちょうど逆であり、情態・程度副詞をあわせて、陳述副詞に対し、「属性副詞」と呼ぶことがある(山田孝雄)。


1.1.3.陳述副詞[叙述副詞・呼応副詞とも呼ばれる]
 これは、否定・推量・仮定など、述語の陳述的な意味を、補足したり明確化したりする副詞であり、
    けっして行かない    たぶん行くだろう    もし行ったら
のように、一定の陳述的意味をになう形式と呼応して用いられる。代表的なものとして、

    <否定>:けっして・必ずしも/たいして・ちっとも・ろくに・めったに
    <推量>:きっと・おそらく・多分/さぞ
    <否定推量>:まさか・よもや
    <依頼〜願望>:どうぞ・どうか・ぜひ
    <条件>:もし・まんいち・仮に/たとえ/いかに・いくら/せっかく
    <疑問>:なぜ・どうして/はたして・いったい
    <比況>:あたかも・さも・いかにも・まるで

などが通常あげられる。
 典型的な陳述副詞は、情態・程度の属性副詞とは逆に、もっぱら述語の陳述的な側面にかかわって、属性的な意味の側面には関係しない。その現われとして、
 @たとえば「おそらくこの事件の解明はこれ以上進展しないだろう。」という文から、陳述副詞「おそらく」を取り除いても、文のことがら的内容には変化がないこと、
 A「けっして行かない・−大きくない」など用言述語だけでなく、「けっして犯人ではない」など体言述語にも自由にかかりうること、という二つの副次的な特徴を指摘することができる。
 ただし、一般に陳述副詞の代表的な例としてあげられるものの中にも、「大して・ろくに・さぞ」など、否定や推量と呼応する性格をもつとともに、程度や情態の属性的な意味とも関係する性格をあわせもつものがあり、これらは上の二特徴はあてはまらない。
    これは 大して おもしろくない ≠ これはおもしろくない
    さぞ つらかったでしょうね ≠ つらかったでしょうね
     *彼は 大して 犯人ではない。
     *彼は さぞ 犯人だろう。
 また、疑問と呼応する「なぜ・どうして」は、理由という状況(取りまく形で存在する別の事態)的な意味をもつため、「なぜ彼が犯人なのですか」のように、体言述語とも関係しうるが、「なぜ」を取り除くと、理由をたずねる文がイエスかノーかの判定をたずねる文にかわってしまう。つまりAの特徴はもつが@の方はもたない。
 なお、比況(ようだ・みたいだ)と呼応するものについては、比況自体を <陳述> とは認めず、似かよいの度合いを限定する程度副詞の一種とみなす考え方もある。
 以上とは逆に、山田孝雄のように、以上のような形式上の呼応が明瞭なものだけでなく、「いやしくも・さすが」など必ずしも「呼応」現象をもたないものも、断言(強める意)を要するものとして陳述副詞と考える立場もある。こうした、いわば中心的・典型的でないものについては、陳述性という意味・機能を重視するか、呼応性という形式を重視するか、また陳述あるいは叙述という概念をどう捉えるか、という問題がからんで説がわかれるのである。(第3節で詳述)
 更に渡辺実は、陳述副詞にあたるものを「後続する本体を予告し誘導する」機能をもつ「誘導副詞」と捉えなおした上で、
    もちろん我輩は大政治家である。
    事実この帽子はスマートだ。
    幸い京都に住むことになった。
など、「後続する叙述内容に対する表現主体の註釈を表わすもの」や、
    せめて半額でも……
    おまけに次男まで……
など、「素材概念を誘導対象とするもの」をも一括する考えをしめしている。射程が広く興味ぶかい説だが、「事実」「おまけに」あたりになると接続詞(の機能)との関係が問題になってくる(第6節で再述)。

 以上の三分類のほか、「こう・そう・ああ・どう」をとくに「指示副詞」と呼ぶことがある。これらは具体的内容をもたず、特定の場面や文脈の中で、話し手を基準にして ある情態を指し示す(直示する)もので、指示代名詞とともに <コソアドの体系> をなす点に特色がある。通常の文法的分類では、「どう」は陳述(呼応)副詞、その他は情態副詞の一種と見なされている。ただ、「こう暑くては……」や「そうは食べられない」のように、程度副詞ないし呼応副詞的用法にも立つなど、文法的にも特異性をもつ。


 次に、副詞の、他の品詞との関係や副次的な用法にも触れておこう。

1.1.4.他品詞からの副詞への転成
 副詞には、体言や用言の特定の語形(いわゆる文節の形)から移行してきたものが かなり多い。これまでにも いくつか触れてきたが、ここで まとめておこう。まず、
    いっぱいある    よく故障する    極めてむつかしい
  cf) 残りの一杯     良くできている   奥義を極めて
などのように、連用修飾の形が独自に意味および機能に変化をきたして、活用や曲用(格変化)のシステムから はみだしてきたものが多いが、また、「常に・まさしく・堂々と」などのように、それ自身は さしたる変化を受けないが、他の活用形が失われた結果、孤立して副詞に編入されるものもある。また、「思う存分」や「ことによると」のように、連語や句形式のものが一語化して副詞に移行してきたものもある。意味機能の変化にせよ、活用形の喪失にせよ、一語化にせよ、その副詞への移行の度合いには連続的に様々な段階があり、境界に一線を引くことはむつかしい。副詞と認定するか否かは学者により異同が大きい。
 問題になるものも含めて 主なパターンを示せば、次のようになる。
 @体言から:いちばん・じっさい/いまに・力まかせに/すりひざで・はだしで/花と(散る)
        /心から(感謝する)・頭から(否定する)
 A動詞から:さしあたり・くりかえし/決して・至って・強いて・はじめて・とんで(帰る)
        /例えば・言わば/思わず・残らず
 B形容詞から:よく・あやうく・すごく・まさしく/少なからず・あしからず
 C形容動詞から:常に・非常に・やけに・ばかに/たしか・たいへん・けっこう
 D連語・句から:案の定・念のため・どっちみち/なんとなく・間もなく・なにもかも
        /いずれにしろ・ややもすると・なんといっても(なんたって)
 E副詞化の接辞:皮ごと・我ながら・商売柄/事実上・期待通り/散歩がてら

1.1.5.副次的用法
 副詞は、はじめに述べたように、単独で連用修飾語に立つのが基本であるが、中には、次のような副次的用法をあわせもつものもある。
 @「の」を伴い連体修飾語となるもの
    たくさんの人 / 一層のさびしさ / まさかの時
 A「だ・です」を伴い述語となるもの
    まだだ / もうちょっとだ / まだなかなかだ
この二つの用法は、副詞以外の連用形式にも、
    北海道への旅行      花を見ての帰り道
    電話は彼からでした    話は歩きながらだ
などの類例がある。渡辺実はこうした現象を「連用展叙の有形無実化」と呼んで、連用機能の原理的説明を試みている。簡単に言えば、連用修飾−被修飾の関係の主導権は、被修飾の述語用言の「統叙」にあり、「連用展叙」は、あってもなくてもいい二次的なものだ、ということである。述語中心の構文観──同様の考え方に「入れ子型構文」(時枝誠記)、「述語一本槍」(三上章)、「単肢言語」(河野六郎)などもあり、かなり有力である──に基づく興味深い指摘だが、すべての副詞がこの副次的用法を持つわけではないことも同時に説明できるように、原理とその適用条件とが求められて然るべきであろう。

 以上は、主として 明治以降 西洋の言語学と出会ってのちの 副詞の通説的な取り扱い方であったが、ここで簡単ではあるが、それ以前の扱いをも含めて、副詞の研究史を振り返って見たい。急ぎすぎた近代化を経験した日本語学も、冷静に近代以前をふりかえってみる必要がありそうである。「歴史は繰り返す。………二度目は喜劇として」という悲喜劇を、できれば避けるためにも。

1.2. 「副詞」研究史 略

 古く、中世の秘伝の歌論書『春樹顕秘抄』では、「魂を入る手爾葉(テニハ)の事」の項に「ただ・なを・など・いとど」が、副助詞「さへ・だに」とともに挙げられている。現在知られている限りでは、副詞に相当する語に言及した もっとも古いものと言われている。
 江戸期に入り、こうした考えに対して、栂井(トガノイ)道敏が『てには網引綱』(明和七年 <1770>刊)において「てには用意の事」の二項目に、
 近代てにはの諸注に魂を入るてにはとて「ただ「猶「さへ「だに「など「いとど」等を出せり。この説いかが。「さへ「だに」はてにはにて「唯「猶「など「いとど」は詞なるを相混じて抄出せる、その理なきに似たり。かかる杜撰なる書を秘伝などいふ事かたはらいたき事也。
と述べて、鋭く批判している。「秘伝」を非難するあたりは、学問の公開性・近代性の問題が絡んで興味深いが、それはさておくとして、副詞と副助詞との機能の共通性だけでなく、形態上の相違をも捉えており、副詞研究の先駆と言っていい。
 富士谷成章(ナリアキラ)は、『脚結抄』(安永七年 <1778>刊)の大旨(オホムネ)において、
 名をもて物をことわり、装(ヨソヒ)をもて事をさだめ、挿頭(カザシ)・脚結(アユヒ)をもてことばをたすく
と述べ、現在のほぼ副用語にあたるものを、体言にあたる「名」、用言にあたる「装」、および助詞・助動詞にあたる「脚結」と対立させて、「挿頭」と呼んでいる。身体の比喩による命名を用いて品詞分類するとともに、「物を理り(=事割り)」「事を定め」るという言い方で、主述ないし題述関係とも言うべき文構造にも触れている。また、その命名法にも明らかだが、『挿頭抄』(明和四年 <1767>成)でも
 頭にかざしあり、身によそひあり、下つかたにあゆひあるは………
と明言しているように、文中の位置・語順からも規定している。全体に、語と文との基本的な相関を捉えた、大局的でしかも構造的な分類になっていて、挿頭=副詞に関しても、その語順(文中の位置)と「たすく」る機能とに注目しているのである。
 彼の『挿頭抄』は、挿頭語彙を五十音順に並べた(作歌のための)辞書であるが、その中に現行の情態副詞は含んでおらず、かわりに指示詞「こそあど」を含んでいる。従来はこれを、現行の副詞と比べて「混乱」したものと見なしているようだが、そうではなくて、意味・機能の面で、陳述・評価〜程度・接続・指示など、なんらかの点で「話し手の立場(基準)」に関与しつつ「ことばをたすく」る語群を、一類として考えていたと解すべきだと思われる。富士谷成章の「挿頭」は、副詞の形態(位置)と機能と意味とを、総合的に見事に捉えている、と評してよいと思われる。ただ、あまりに時代を先取りしており、用語も独特であったため、長く跡を継ぐものが出なかった。
 鈴木朖(アキラ)『言語四種論』(文政四年 <1821>成)では「はた・又・いで・あに・そもそも・まだ・なほ」が「詞に先だつてにをは」としてあげられている。富士谷成章と同様、テニヲハに類似した機能と語順とに注意したものであるが、機能を重視するあまり形態をやや軽視しているという点で、富士谷成章より後退していると言うべきかもしれない。
 なお、形態重視(機能無視)を特徴とする「八衢(ヤチマタ)学派」──『詞の八衢』を著した本居春庭(宣長の子)の流れを汲む学派──においては当然のことだが、東条義門『玉の緒繰分』(嘉永四年 <1851>刊)では、活用しない点を以て、副詞を「体言」と見なしており、また、富樫広蔭『詞玉橋』(弘化三年<1846>成)では、大きく「言(体言)」「詞(用言)」「辞(助詞助動詞)」の三種に分け、「言」に五種「詞」に六種「辞」に五種の差別を設ける包括的な分類を示しているが、しかしそこに、副詞の場所はない。

 明治に入ってしばらく続いたいわゆる「模倣文典」を克服し、国学の成果と西洋文典の分類との「折衷」に成功したと言われる大槻文彦1897『廣日本文典』は、「模倣文典」が副詞としていた形容詞連用形を形容詞に救い出した功績はあるが、しかし副詞それ自体については、とくに取り立てて言うべきことは言っていない。
 山田孝雄(ヨシオ)1908『日本文法論』は、冒頭に述べた「副用語」の性格をもつ品詞として副詞を規定し、いわゆる接続詞・感動詞をも接続副詞・感動副詞と呼んで副詞の一類とする。通説の副詞は、山田の「語の副詞」にあたるもので、情態・程度・陳述副詞の三分頼も、山田の分類・命名にもとづく。つまり、近代における副詞研究の出発点をなしている。ただ、情態副詞――実は大部分はのちの形容動詞――を副詞とした点は、西洋文典のadverbに引きずられた大槻文彦と同様で、富士谷成章の後継者を自任するにしては、成章の「挿頭」の真義が理解できずに、かえって後退している、というべきかもしれない。
 松下大三郎1928『改撰標準日本文法』は、副詞を「叙述性の無い詞であって、属性の概念を表わし他語の上へ従属して其の意義の運用を調整するもの」と規定し、接続詞と「於て・以て」など(の後置詞)とをそれぞれ接続副詞・帰著副詞と呼んで副詞に含めつつ、情態副詞の大部分は、
    威風堂々と行進する。
のように、独自の主語「威風」をとれるところから、述語になれる性格つまり「叙述性」を認めて「動詞」[形容詞を含めた用言(verb)に相当]として除く。松下のいう「属性の概念」というのが、少なくとも 現在 通用の意味では理解不能なのだが、「叙述性の無い詞」という捉え方は肝腎な点をついているように思われる。副詞に関しては、案外 松下が、富士谷成章の後継者と言ってもいいかもしれない。
 時枝誠記(モトキ)1950『日本文法 口語篇』は、彼の詞辞非連続説から言って、一般に格をもたない国語の品詞の中で、例外的に連用修飾という「格表現が本来的に備つてゐる」特殊なものとして、情態・程度副詞に当たるものを副詞とする。副詞は詞辞理論にとって、厄介物でアキレス腱となった。時枝の後継者たちが「副詞の整理(解消のこと)」を強行しようとしたのは、そのためである。「けっして…ない」などの陳述副詞は、その全体を一つの陳述が上下に分裂して表現された「一つの辞」であるとして、副詞から除こうとした。この陳述副詞の捉え方は、「詞に先だつてにをは」と捉えた鈴木朖の近代版と言っていい。
 このほか副詞の範囲認定については、もっとも広い山田と、もっとも狭い時枝とを両極として、その間に広狭さまざまな説がある。
 なお、品詞論から構文論的特徴をいっさい排除しようとする徹底した形態主義の立場に立てば、品詞としての副詞は、形容動詞(語幹)とともに解消されることになる。【水谷静夫・鈴木一彦。ともに時枝文法の継承者で、その考え方は東条義門の近代版である。】
 副詞をどう扱うかという問題は、構文論的特徴を、形態論的特徴や意味論的特徴とともに、品詞論の中にどう位置づけて取り込むかという、文法研究の方法の根本問題と密接に結びついている。副詞は、実態として「ハキダメ」であるからこそ、文法研究の方法にとっては「砥石」となるのであり、それに無頓着な文法学説にとっては「アキレス腱」ともなるわけである。

 以上で副詞全般の概観を終え、次に「文の陳述的なタイプ」との関係を見ることになるが、その前に、「陳述性(predicativity)」や「叙法性(modality)」という用語・概念について ひとわたり見ておきたい。詳しくは第1章に説かれることになっているが、そこでも説かれる(であろう)ように、この用語もまた、学者によって用法がまちまちな 大変な「多義語」なのである。

2)「陳述性」「叙法性」の概要と「陳述副詞」「叙法副詞」の概観

2.0. 陳述性

 これから 本章で問題にする <叙法副詞> というのは、山田孝雄1908が創設した「陳述副詞」の一部、ただし、中核的な一部を占めるものである。山田は、用言の二大要素として、 <属性> と <陳述> とを考え、それに応じて「語の副詞」を「属性副詞」と「陳述副詞」とに二大別したのであった。山田の「陳述」という用語は、その後、あいまいなもの、未分明なものとして批判され、渡辺実1953、 1971の「叙述」と「陳述」や、芳賀綏1954の「述定」と「伝達」に代表されるような精密化を受けてきた。
 それと同時に、その精密化の流れの底流には、文が大きく二つの側面に分たれること、すなわち、詞的か辞的か(時枝誠記)、客観的か主観的か(松下大三郎・金田一春彦)、対象的か作用的か(森重敏)、ことがら的か陳述的か(鈴木重幸・南不二男)など、学者により用語はさまざまで、したがって内容にも異なりがありはするものの、文にそうした大きな二側面あるいは二要素があることは、山田以来、多くの学者によって共通して認められていると言ってよいように思われる。
 ここでは、「陳述」という ある意味では 手垢のつきすぎた用語を、そうした二大別の一つとして、つまり広義に用いることにしたい。すなわち、 <陳述性・のべかた・predicativity > という用語を
 単語や単語の組合せが、言語活動の最小単位である「文」として成り立つために持たされる、話し手の立場から取り結ばれる文法的諸特性
の総称として用いることにする。この <陳述性> という用語のもとに、具体的に何を理解すべきかについては、まだ分からないことが多いが、少なくとも、
  叙法性・かたりかた modality   :叙法語形 分析形(-カモシレナイ) 叙法副詞 イントネーション
   評価性・ねぶみ evaluativity  :副詞句(アイニク カンシンニ) 分析形(-ニカギル)
   感情性・きもち emotionality  :間投詞(マア モウ) 分析形(-テナラナイ) 特殊拍
   対人性・もちかけ (phatics)   :間投詞 間投助詞 終助詞
   待遇性・ていねいさ(politeness):「です・ます/φ」 「お−」
  題述関係・係り結び theme-rheme :係助詞「は・も/が/φ」 語順
   対照性・とりたて (focusing)  :副助詞・副詞(ダケ サエ / タダ トクニ) プロミネンス
などが、問題になるだろう。
 こうした文の陳述性のうち、副詞あるいは副詞的成分に関係のあるものとしては、a)叙法性、b)評価性、c)対照(とりたて)性、の三つがあると思われる。例を挙げれば、
  a)たぶん晴れるだろう。 / どうぞこちらに来て下さい。
など、推量、依頼といった、文の語り方=叙法性に関係するもの、
  b)あいにく雨が降ってきた。 / 奇しくもその日は父の命日だった。
など、文の叙述内容に対する話し手の評価的な態度に関係するもの、
  c)ただ君だけが頼りだ。 / 少なくとも十年はかかる。
など、限定、見積もり方といった、文の特定の部分の「とりたて」───表現されていない 他の同類の物事との範列(範例)的(paradigmatic)な関係の中で 問題の語句に対してどのような取り上げ方をするかということ───に関係するもの、
の三つである。
 こうして、陳述副詞の下位分類としては、
        ┌─a)叙法副詞
   陳述副詞─┼─b)評価副詞
        └─c)トリタテ副詞
のように、とりあえず考えて、話を先に進めることにする。
 このうち「文の陳述的なタイプ」に直接的に関与ないし干渉するのは、叙法副詞であるが、評価副詞(および評価的な程度副詞)や とりたて副詞も、みずからの住まう環境として文の陳述的なタイプを選ぶ。
 また、時の副詞や、その他の情態副詞の中にも、以上とは異なる種々の理由から、文の陳述的なタイプとの共起制限のある語群が、存在する。
 以下、この順序で見ていくことにするが、文の陳述的なタイプとの関係が直接的な「叙法副詞」が中心となる。また、網羅的な実態記述をめざすというよりは、いくつかの具体的な記述を通して、その記述方法について検討することに、重点を置くことにする。

2.1. 叙法性(モダリティ)
 文の叙法性(modality)という用語は、本章では、動詞の形態論的カテゴリーとしての叙法(mood)に対応する、文レベルの構文論的カテゴリーとして用い、両者を区別して扱う立場に立つが、従来の研究を概観するしばらくの間は、両者の違いを見ないことにする。
 叙法あるいは叙法性の規定のしかたとしては、大きく分けて、二つの立場がある。ひとつは、 <文のことがら的内容に対する話し手の(心的)態度> といった主体的・作用的な側面から性格づける立場であり、もうひとつは、 <文のことがら的内容と現実との関係> とか <主語と述語との関係のありかた> といった客体的・対象的な側面で性格づける立場である。
 この二つの立場に関連しては、日本文法の世界では「助動詞」をめぐる金田一春彦と時枝誠記との論争が有名である。
 英文法の世界では、私のとぼしい知識のかぎりでも、O.Jespersen(1924) の mood の定義「文の内容に対する話し手の心的態度[心の構え]」(訳本 p.460)は、前者の代表であり、彼によってあまりにも簡単に批判されてしまった H.Sweet(1891) の mood の定義「主語と述語との間の色々異なった[種々に区別される諸]関係を表わす文法形態」(訳本 P.118)は、後者のひとつの代表と言えそうである。
 ロシア文法においては、これまた、管見のかぎりで言わせてもらえば、V.V.ヴィノグラードフ[Vinogradov(1955)]に代表される「発話(rech' ≒ speech)の内容と現実とのさまざまな諸関係を文法的に表現する諸形式」(p.268)といった、客体的に規定する立場が主流をなしているようである。そのさいヴィノグラードフはまた、「具体的な文では、人称性・時間性・叙法性の意味は、話し手の観点から定められる。しかし、その観点自体は、発話の瞬間における、話相手との関係、および、文に反映され表現される現実の <断片・切れはし> との関係の中における、話し手の客観的な位置によって規定されるのである」(同頁)と述べることも忘れていない。ちなみに、この論文とほぼ同一内容のものが、1954年のアカデミー文法(ソ連・ロシアの学士院に直属するロシア語研究所が、ほぼ10年ごとに刊行する、かなり大部の標準的な文法書)の、第二部シンタクスの序説の一部におさめられていて、アカデミー文法の基調をなす考え方である(なお、1960年のアカデミー文法はこの年のものの復刻である)。
 70年と80年のアカデミー文法(シベドワ責任編集)では、叙法性を、客観的なものと主観的なものとに二分して扱っている。客観的叙法性とは、「文内容と現実との関係」であって、主に動詞の叙法(mood)形式や文音調(イントネーション)によって示される;主観的叙法性とは、話し手の文内容に対する関わり方(otnoshenie ≒ 関係〜態度)であって、語順や文音調(プロミネンス・ポーズ)や挿入語[≒陳述副詞や間投詞]などの補足的な文法手段によって示される;という。
 V.Z.パンフィロフ[Panfilov(1971, 1977)]は、これらの問題を、文の形式的シンタクスのレベルと、文のアクチュアルな分析(伝達機能的シンタクス)のレベルという、二つのレベルの別に関連させて、再編成しようとしているようである。これが、V.Mathesius をはじめとするプラーグ学派の流れをも汲むものであることは疑いない。その点では、イギリスの M.A.K.Halliday(1970)が、"Modality" を interpersonal な機能のものとし、"quasi-modality" による "Modulation" を ideational な機能のものとして区別しつつ、その絡みを見ようとしているのも、同趣のものと言えようか。
 以上、叙法(性)の学説の概観としては、きわめて荒っぽく抜け落ちも多いことだろうが、その規定のしかたに、近代の「主観−客観図式」との関係で、種々の議論があることが分かっていただければ、それで良しとしなければならない。

 さて、こうした、主体的な面から規定するか、客体的な面から規定するかという理論的な対立があるということは、どちらかが完全な間違いだということでない限り、規定されるべき現象にその両側面が絡んでいる、ということでもある。ヴィノグラードフが明言していたように。そして、日本でも若き金田一春彦1953が、最終的には一方を切り捨ててしまうのだが、ひとまずは指摘したように。
 たとえば、「彼も行くらしい」という文において、ラシイと推定しているのは誰かと問えば、それは話し手である(主体の作用面)し、行クラシイという蓋然的な状態の主は何(誰)かと問えば、それは「彼(も)」である(客体の対象面)。つまり「らしい」は、前者・作用面から見れば <話し手の推定的な態度> であり、後者・対象面から見れば <一定の蓋然的な状態> 、くだいて言えば、「彼(も)行く」ということがら内容が、現実との関係において一定の蓋然性(ラシサ)をもっていることを意味している。金田一は、時枝の詞辞論を批判する勢いがあまって、前者の見方を否定するのだが、その後の、渡辺実1953や南不二男1964の研究が示唆するように、この二側面を二者択一的に見るよりも、連続的に見る方がいいだろう。すなわち「彼も行きそうだ」のように <出来事の様態性> とでも言うべき対象面が強く押し出されているものもあり、「彼も行くだろう」のように <話し手の推測性> という作用面が強く押し出されているものもあって、対象面、作用面どちらかにかたよるにしても、この二側面は同居し得るのだ、と。
 「彼も行きますか?」「はやく行きなさい」のような、質問や命令の叙法については、ほとんどの学者が一致して <話し手の態度> という面を基本と見ており、それは表面的には決して間違いではないのだが、それと同時に、話し手の置かれている現実との関係において <不確定、不確実なことがら> を聞き手に質問したり、 <まだ実現されていないことがら> を聞き手に命令したりするのだという(あまりにも当然な)ことも、見逃してはならないのである。確定したことを質問することは、遊びとしての「クイズ」や教師の「試問」など特殊なものに限られるか、あるいは「どこに目がついているんだ」のように「叱責」になることも、また、すでに実現していることを「ざまを見ろ」とか「うそをつけ」などと「命令」すると、「罵倒」や「難詰」になるのも、そうした対象面の性質が、質問や命令という作用面の「質」に絡んでいるからである。心的態度の面のみを見るのは、やはり一面的だと言うべきである。対象面(noema)なき作用面(noesis)など、そもそも ありえないのである。
 時枝の詞辞論は、現象学を根本において誤解ないし曲解しているように、私には思われる。また、O.Jespersenの mood の定義の中にある "attitude of the mind(心の構え)" は、訳本の日本語「心的態度」よりは、対象面にも目配りのきいたことばのように思われる。「構え」でも「態度」でも、なんらかの "対象に対する" ものであり、どちらでも大した違いはない。問題は、「心の」という名詞の所有格を「心的」という形容(動)詞で訳し(理解し)たことにあるのだろう。「心的」がいつの間にか「主観的」にすりかわるのが、現今の日本語・日本文化の通例である。
 このように考えてきて、本章では <叙法性 modality > を
  話し手の立場から定められる、文の叙述内容と 現実および聞き手との 関係づけの文法的表現
と規定しておくことにする。平たく言ってしまえば、この定義のポイントは、話し手、聞き手、現実(状況)、それに文の叙述内容という、言語活動の場における必須の四契機──K.ビューラーのオルガノン・モデルを思い起こされたい──の間の関係表示(関連づけ)が叙法性である、と見なす点にある。また、それだからこそ、文の文法的な、陳述的なカテゴリーの中核をなすとも言えるのである。
 この叙法性の性格を、もう少し分析的に規定するなら、客体−対象的なことがらの側面から言えば、文の <ありかた> 、つまり存在の「様式 mode,mood」であるとともに、主体−作用的な話し手の側面から言えば、文の <語りかた> 、つまり話し手の「態度・気分mood」である。金田一−時枝論争のようにそのどちらか一方だというのではなく、主体−作用面と客体−対象面との総合として、あるいは相即として、叙法性は存在すると考えるべきである。この二側面は、具体的には、たとえば次のような形で現れる。
@助詞「か」における、主体的な<疑問>性と 客体的な<不定>性との統一
 文末の終止用法「あした来られますか?」において <疑問性> が卓越し、文中の体言化用法「どこか遠くへ行きたい」において <不定性> が卓越し、そして、その中間の「どこからか、笛の音が聞こえてくる」のような挿入句的な(間接疑問の)場合に、両性格はほぼ拮抗する。

A助動詞「ようだ」における、客体的な<様態>性と 主体的な<推定>性との統一
 「まるで山のようなゴミ」「たとえば次のように」などの「連体」や「連用」の「修飾語」用法においては ことがらの<比喩〜様態性>や<例示性> の面が表立っており、「どうやらまちがったようだ」のような「終止」の「述語」用法において 主体的な<推定性> が表面化することになるが、「だいぶ疲れているようだ/ように見える」のように、<様態性>と<推定性> がほぼ拮抗する場合も多いし、「副詞はまるでハキダメのようだ」のように、<比喩性>ないし<様態性> の叙述にとどまることもあって、複雑である。そのため、学者間の「あれかこれか」の論争の種になっている。
 文内での「位置」の違いや、他の部分との「きれつづき」に関わる「機能」の違いといった <環境または条件> を精密に規定しないまま、助詞・助動詞の意味の「本質」を「あれかこれか」とあげつらっても、水掛け論になるだけである。どちらにも一面の真理は、やどっているのだから。


2.2. 基本叙法と副次叙法
 以上のようにあらまし考えたうえで、その内部を見ていくことになる。
 まず、叙法性を、言語活動の最小単位としての<文>の<統一と成立>のための特性の一つだとする点から考えれば、叙法性のもっとも基本的なものは、その関係づけ(ここでは、態度といっても大過ない)が、@発話時のもの、A話し手のもの、という二つの特徴をもつものである。「しよう・しろ・してくれ・するだろう・するそうだ・するか」などの形式がこれであり、また終止の位置に立った「する。/した。」が、上の有標的な形式(marked form)と「対立」して、無標的な形式(unmarked form)として <断定> をになうとすれば、それもここに入る。これは芳賀綏1954 のいう意味での「陳述」、すなわち <述定> と <伝達> とにあたる。
 これに対して、金田一春彦1953 がつとに指摘しているように、
  ・彼はつかれているらしかった。       <過去形>
  ・銃声らしい物音が遠く聞こえてい。    <連体形> <主文過去形>
などは、話し手の推定とは言えても、その推定は発話時のものではない。
  彼はつかれていたらしい。          <終止現在形>
の場合は、終止の位置に立つ現在形であることによって、発話時の話し手の推定という基本叙法性をもつのだが、「らしい」という助動詞自体としては、テンスの対立をもち、連体形【もしくは自立形の連体用法】をもつ点で、上の「だろう」などとは区別しなければならない。また、やや特殊な例を引くようだが、
  ・彼女の話では、彼は来ないかもしれないそうだ
のような「かもしれない」は、ことがらの可能性(不確定性)を示すという対象的な性格の方が強いが、これを不確実な判定という作用面で見るとしても、その判定作用の主は、直接的には「彼女」であり、話し手はそれを取り次いでいるのである。
 このほか「するようだ・しそうだ・するにきまっている・すると見える」等々の形式が、過去形をもち、連体形・条件形など文中の位置に立つ語形(または用法)をもち、また、判定作用の主が必ずしも話し手ではない、といった性格をもつ。これらを、「副次叙法」と呼んでおく。先の叙法性の規定のうち、「話し手の立場からする」という部分が間接化される点で、副次的である。
 以上は、認識系の、いわゆる判断様相的な叙法であるが、行為系の、願望や当為の叙法にも、同様の副次的なものがある。たとえば、
  ・ぼくも 行きたかった。    <過去形>
  ・行きたい人を さがす。    <連体形>
  ・彼も 行きたいらしい。    <主体三人称>
のように用いられる「したい」は、副次叙法である。このほか「しなければならない・してもいい・してはいけない・するつもりだ」等々の形式が、行為的な副次叙法として挙げられる。
 ただ、こうした副次叙法の諸形式も、
  ・ぼくは 行きたい。
  ・ぼくは 行くつもりだ。
のように、一人称主語をとり、自らは終止の位置に立って現在形をとる場合には、発話時の話し手の関係づけ=態度と一致する。また、
  ・きみは 行かなければならない。
  ・きみが 行くといい。
などでは、二人称主語その他の条件のもとで、命令や勧誘に準じた性格をもつ。これらを、助動詞・補助動詞という要素(部品)としてではなく、文の述語という成分(文の部分)として見るときには、基本叙法(に転化したもの)と見てよいのかもしれない。
 こうした、助動詞・補助動詞として見るか、文の述語として見るかという区別、ややラフに言い換えて、形態論的な叙法(ムード)として見るか、構文論的な叙法性(モダリティ)として見るかという問題は、以下、叙法副詞との構文的な関係を見ようとするときに、重大な問題として立ちあらわれてくるだろう。【第3節参照】


2.3. 叙法副詞
 本章でいう <叙法副詞> とは、以上見てきたような副次叙法をも含めた文の叙法性に関わりをもつ副詞であると、とりあえず規定しておく。
 日本語においては──多くの言語と同様に、あるいはそれ以上に──述語が文の叙法性表現の中核である。基本的には、述語の叙法が文の叙法性を決定する。叙法副詞がなければ文の叙法性が定まらない、というような文は、少なくとも日本語にはないだろう。
 日本語では、
    *けっして 行く。
とは、決して言わず、
    けっして 行かない。
と、述語を否定形にしなくてはならない。この点、
    Je n'y vais jamais.
    Никогда не буду.
など、フランス語の"jamais"やロシア語の"Никогда"と同様であって、
    I'll never go.
のように言える英語の"never"とは異なる。また、条件表現にかかわる「もし」は、
    *もし雨が降って(降った)、行かない。
とは、決して言わず、
    もし雨が降ったら(たなら)、行かない。
と、従属節述語を条件形にしなくてはならない点も、
    If it rains,………        cf. It rains.
のように言える英語の"if"とは異なる。
 叙法副詞は、必要に応じて 述語の叙法の程度を強調・限定したり 文の叙法性を明確化したりするものであって、文構造上必須のものではない、つまり任意的であって義務的ではないという意味では、「語彙的」な(文法的ではない)表現手段である(R.Jakobson)。ただ、その語彙的な内容が、実質概念性が希薄で、形式関係性が濃厚であるという意味では、「文法的」である。ここでは、叙法副詞を、文の叙法性の「語彙・文法的」な表現手段だと考えておく。
 叙法副詞の文法的な記述は、その語彙・文法的な意味と 文法的な機能──他の文の部分との関係の中での役割──とを、相関するものとして見ることになるだろう。細部の議論に入る前に、叙法副詞の代表例を一覧しておくことにする。

2.4. 叙法副詞 代表例一覧

A 行為的な叙法
 a)基本叙法
  1)依頼───どうぞ どうか なにとぞ なにぶん / 頼むから
  2)勧誘・申し出etc───さあ まあ なんなら(なんでしたら)

 b)副次叙法
  3)願望・当為etc───ぜひ せめて いっそ できれば なんとか
             なるべく できるだけ どうしても 当然 断じて
     cf) 意 志───あくまでも すすんで ひたすら いちずにetc.
       意 図───わざと わざわざ ことさら あえてetc.


B 認識的な叙法
 a)基本叙法
  4)感嘆・発見etc───なんと なんて なんともはや
  5)質問・疑念  ───はたして いったい / なぜ どうしてetc.
  6)断定───勿論 無論 もとより / 明らかに 言うまでもなく
  7)確信───きっと かならず ぜったい(に) 断じて
  8)推測───多分 恐らく さぞ 定めし 大方 / 大概 大抵
         / まさか よもや / たしか もしや さては
  9)伝聞───なんでも 聞けば  cf) D情報源 〜によればetc.

 b)副次叙法
  10)推 定───どうも どうやら / よほど
  11)不確定───あるいは もしかすれば ことによると ひょっとしたら
          / あんがい
  12)習慣・確率etc───きまって かならず きっと
          / とかく えてして ややもすれば ともすると
          / いつも よく / 大抵 大概 普段
  13)比況───あたかも まるで ちょうど / いかにも さも
  14)否定
   イ)否定判断性───けっして / まさか よもや / 断じて
     部分否定性───必ずしも 一概に あながち まんざら
     とりたて性───別に 別段 格別 ことさら
   ロ)程度限定性───たいして さほど さして ちっとも すこしも
             一向(に) でんで / まるで 全然 まったく
   ハ)動作限定性───ろくに めったに さっぱり ついぞ たえて
     (不可能)    とても とうてい なかなか どうしても
     (疑問詞)    なんら なんの なにも なにひとつetc.
   ニ)慣用的偏性───毛頭 皆目 寸分 とんと おいそれと(は)etc.
     cf) 否定的傾向───所詮 どうせ どだい なまじ へたに
       (相対的テンス) まだ もう いまさら
  15)肯定───かならず さぞ ぜひ
     cf) 一般の程度副詞 ある種のアスペクト副詞

 ※ A 行為的叙法にも、B 認識的叙法にも用いられるもの
     きっと かならず 絶対(に) 断じて / もちろん 無論


C 条件的な叙法
  16)仮定 条件───もし 万一 かりに / いったん
            / あまり よほど / どうせ 同じ
  17)仮定逆条件───たとえ たとい よし よしんば
  18)逆条件(仮定〜既定)───いくら いかに どう どんなにetc.
  19)原因・理由───なにしろ なにせ 何分 / さすがに あまり
  20)譲   歩───もちろん たしかに なるほど いかにも
  21)譲歩〜理由───せっかく


D 下位叙法 sub-modality
  22)確認・同意───なるほど 確かに いかにも 全く / 道理で
  23)うちあけ ───実は 実の所 実を言えば 本当は 正直(言って)
    思い起し ───思えば 考えてみると 思い起せば
  24)証拠立て ───現に 事実 じっさい だいいち
    たとえ  ───いわば いうなれば 言ってみれば
  25)説き起し ───およそ そもそも 一体 大体 本来 元来
    (概括)     一般に 概して 総じて
    まとめ  ───結局 畢竟 要するに 要は つまり 早い話(が)
   (はしょり)    どうせ どっちみち いずれにせよ 所詮 とにかく
  26)予想・予期───案の定 やはり はたして
          cf) めずらしく 案外(に) 意外にも / かえって
  27)観点〜側面───正しくは 正確には 厳密には /詳しくはetc.
            技術的には 時間的には 文法的にはetc.
    (情報源)    〜によれば 〜に従えばetc.   cf) 9)伝聞


 この一覧の中に、二つ以上の欄にまたがって現れるものがあるが、これには、同時に二重の叙法性をもつもの(まさか・よもやetc.)と、多義語もしくは「構文的同音語」(Greenbaum(1969)p.6)とみなしたもの(はたして・きっと・まるでetc.)とがある。前者は説明する必要もあるまい。後者については、第5節で論じる。
 「たしかに・きまって・できれば」など、副詞とするか用言の一語形とするかについて、また、「言うまでもなく・ひょっとしたら・実を言うと」など、語としての単位性について、つまり、副詞への「語彙化(lexicalization)」の程度について議論の余地のあるものも、このリストに挙げてある。とくに、「D下位叙法」の項に目立つことに留意されたい。これについては、最後の第8節で「副詞の品詞論上の位置」という問題として考えよう。

 さてこの一覧では、大きくA〜Dの四種に分けたが、これを二分法的に整理してみれば、次のようになるだろう。

    叙法副詞 ─┬─呼応─┬─文末述語─┬─行為的な叙法副詞     A
          │    │      └─認識的な叙法副詞     B
          │    └─従属述語───条件的な叙法副詞     C
          └─非呼応─────────下位叙法副詞       D

ABCの三種は、いわゆる呼応現象をもつものであり、Dは、用いられる文の陳述的なタイプがほぼ叙述文に限られるという叙法的な共起制限はある(だからこそ叙法副詞の一種なのだ)が、積極的に一定の述語形式と呼応する現象が見られないものである。次にABCのうち、AとBが主文の述語と呼応する(しうる)ものであるのに対し、Cは、原則として複文の従属節の述語と呼応するものである。細かいことを言えば「もちろん………だ。しかし………。」や「もしこれがぼくのものだったらなあ。」といった独立用法もあるが、それは二次的なものとして扱ってよいだろう。最後に、Bが話し手または動作主の願望や意志に関わりなく、存在または実現する事態の認識(知)に関するものであるのに対し、Aは、話し手または動作主の願望や意志(情意)に基づく行為に関するものである。
 AとBにはそれぞれ、先にも触れたように、a)基本叙法に関わるものと、b)副次叙法に関わるものとが区別しうるが、これについては第4節で、具体例を挙げて議論しよう。AとBの両叙法にまたがる「きっと」などを、※印をつけて特立しておいたが、これは第5節で「多義性・多機能性」を議論するための便宜である。


3)「どうぞ」の呼応する形式───「形式」とはどんなものか───

 この節では、叙法副詞が「呼応する形式」とはどういう性格のものか、という点について「どうぞ」を例にして考えてみることにする。「どうぞ」が共起して用いられる形式としては、「してください」が代表的なものとして挙げられるが、そのほか「してくれ・してちょうだい・してくださいませんか」などや「していただきたい・(するよう)お願いします」などと共起して用いられることもあり、現象的には多様である。多様ではあるが、これらを一括して≪依頼≫の叙法を表わす形式と見なすことは、まずは常識のレベルで許されることだろう。
 ただ、ここで注意しておかなければならない大事なことは、「お願いする」という動詞自体や「していただきたい」という組合せ形式自体が、 <依頼> の叙法的意味をもっているわけではない、ということである。たとえば、「していただきたい」という形式が次のような形で用いられた文には、「どうぞ」を共起させることは出来ない。
   *どうぞ─┬─a 来ていただきたい方々に連絡しているところです。
       ├─b かれはあなたに来ていただきたいのでしょう。
       ├─c わたしはあなたに来ていただきたかったのです
       └─d わたしはあなたに来ていただきたくない
「どうぞ」がなければ、a〜dの文は文法的になんの問題もない文である。つまり、「していただきたい」という組合せ形式(分析的形式)は、連体(a)など文中の位置にも立ち、人称的にも、主体が一人称に限られるわけでもなく(b)、また、過去(c)や否定(d)の形をもとりうるものであって、それらに共通する「していただきたい」自体の基本的な意味は、依頼ではもちろんなく、「自行自利(シテモライ)」の「謙譲(または丁重)」の「願望」とでも言うほかはない──簡略化して「丁重」な「希求」と言ってもいい──ものである。こうした性格の「していただきたい」が依頼に準じた <意味> を実現し得るようになるのは、形態的に <肯定> の <現在> の形をとり、構文機能的に <終止> の位置に立って、構文意味的に <一人称のシテ> と <二人称のウケテ> と組合わさるという条件のもとでである。つまり、
  e わたしは あなたに 来ていただきたい。
という文は、「依頼文に準ずる文」とも解し得るようになる。しかし、厳密にはこの文はまだ、「希求の叙述文」としての性格の方が本質的であろう。というのは、この文は、
  e' じつは わたしは あなたに 来ていただきたい(のです)。
のように、「じつは」という下位叙法副詞と共起しうるが、この「じつは」は
   * じつは 来てください。 / 来てくださいませんか。
のような依頼の文には用いられないものなのである。また、「どうぞ」と共起させる場合も、
   ?どうぞ わたしは あなたに こちらに来ていただきたい。
という「わたしは」という主語のついた文は、非常に落ち着かない 不自然な文である。
  f (あなたに/は) どうぞ こちらに来ていただきたい。
のように一人称主語がない方が、許容度が高くなるだろう。二人称補語の「あなたに/は」もない方がふつうだが、こちらは相手を <指定> したり <対比> したりする必要のある場面では、顕在してもおかしくないだろう。
 なお、「どうぞ」と「していただきたい」との共起そのものに、まだ 不自然さ(構文的混線contamination性)を感じる人もいること(たとえば 大正2年生まれの 林 大 氏の ご指摘)は確かだが、そ(うした世代)の場合は、「どうぞ」の代わりに「どうか」と共起させた例で、同様の趣旨のことが言えるのではないかと思う。
 こうしてみると、「していただきたい」という組合せ形式が依頼に準じた <意味> を獲得するためには、構文意味上 <一人称のシテ> が必要なのだが、依頼(あるいは命令)の叙法の述語として <機能> するためには、意味上のシテならぬ、構文機能上の主語が、表現上の単なる省略としてではなくて、文法構造上の制約として <消去> されなければならないのではないか、と思われてくる。この現象は、
  ・(あなたが) 行きなさい。
  ・(あなたは) 残ってください。
といった命令文・依頼文において、命令・依頼という発話行為の主体である話し手が一人称主体の形では、文の中にけっして顕在しえないことに対応する現象なのであろう。叙述文の一種に組み込まれる願望や希求といった副次叙法とは異なり、いわゆる命令文の一種である依頼の叙法として機能するためには、話し手自らを対象化して一人称主語として表現することが許されない───というか、対象化して表現すれば、叙述文に変質してしまう───のだと考えられる。
 ちなみに、fの文で「あなたに/は」という聞き手を指示する補語が表現されない方がふつうであることは、命令文が通常「主語なし文」であることに対応する事実であろう。命令文では、聞き手を指示する語は、
  ・、さっさと行きなさい。
  ・田中さん、こちらに来てください。
のように、呼びかけの独立語として機能するのが基本である。
  ・君は、さっさと行きなさい。
  ・田中さんが、こちらに来てください。
といった形で主語や主題として表現されるのは、fの場合と同様、指定性または対比性といった「とりたて性」のある場合に限られるのである。
 なお、こうした「君が/は 行け」型の文は、主語・主題をもつことによって、
  ・君が 行くべきだ。
  ・君は 行かなければならない。
のような、当為をあらわす副次叙法形式による叙述文に近い性格をもたされるのではないか。つまり、「君が行け」型の文は、「君、行け」という命令文と「君が行くべきだ」という当為の叙述文との間にあって、中間的あるいは二面的な性格をもつ文なのではないか、と考えられる。
 以上の「していただきたい」と基本的に同じことが、「お願いする」にも言える。くりかえしをさけて、論証例をあげるに止めさせてもらう。
   *どうぞ─┬─a よくお願いすれば、ききとどけてくれるだろう。
       ├─b 彼は、彼女にきてくれるよう、お願いするらしい。
       ├─c わたしは、彼にきてくれるよう、お願いし
       └─d わたしは、彼にきてくれるよう、お願いしない
  f どうぞ 一日も早く来てくださるよう、お願い申し上げます。
  ?e どうぞ 私は一日も早く来てくださるよう、お願い申し上げます。

 さて、以上のことから、叙法副詞の呼応する <形式> は、たとえば「していただきたい」や「お願いする」の「終止形」といった、単語−形態論レベルの形式ではなく、文の中で他の一定の単語と結びつきながら機能している述語−構文論レベルの形式なのだ、と言えるだろう。「どうぞ〜してください」のような形態論的な依頼形(丁寧な命令形)と呼応する場合は、こうした二つのレベルの別をわざわざ言う必要はないのであるが、それは、依頼形が、文−述語の叙法性が語形態にまで十分にやきつけられた形式だからである。
 形態論的な語形変化が、構文論的な意味機能の基本的な表現手段(grammatical processes)である以上、形態論的な形式と構文論的な形式とが 基本的な部分で一致するのは当然である。後述する橋本進吉のように「呼応」を形態論的な形式においてのみ見ようとする立場が 一応は 成り立つのも、このためである。だが、それとともに、構文論的な意味機能の表現手段が語形変化に限られるわけではなく、語順(文中での位置)やイントネーション、それに他の文の部分との結合関係(とくに人称関係)なども表現手段として働くのである以上、呼応の形式を形態論レベルでのみ見ることは許されない。

 こうした区別は、次のような場合にも、現実に意味をもってくる。
  a たぶん 彼は行く。 / 私も行く(ことになる)。     <推量>
  b 断じて (私は) 行く。                 <意志>
のような文に用いられた「たぶん」や「断じて」を記述・説明する場合や、
  a' きっと 彼も行く。 / きっと私も行ける。      <推量>
  b' きっと あしたまでに (私が) 届けに行く。       <意志>
のような文に用いられた「きっと」の多義性を記述・説明する場合、つまりは、いわゆる無標の(unmarked)形式が問題になる場合である。
 aとbの違い、a'とb'の違いは、「行く」が動詞の「終止形」あるいは「断定形」だといった形態論レベルの説明だけでは、解けない。bの「断じて」や b'の「きっと」が呼応しているのは、「行く」という語彙的に <意志行為> を表わす動詞が、形態的に <非過去形> をとり、構文意味的に <一人称のシテ> と組み合わされることによって得られた≪意志表示≫の叙法をになった述語である、という記述が最低限必要である。(先の≪依頼≫の場合と異なり、≪意志表示≫の場合は、一人称主語の構造上の消去は起こらない。) そのほか、たとえば、

  ・もし雨が降った場合/時は、来週に延期します。      <仮定>
  ・あまり大きいものは、かえって不便です。         <条件>
  ・せっかくたたんだ洗濯物を、メチャクチャにされた。    <逆接>
  ・けっしてひとりで行ってはダメですよ。          <禁止>
  ・とてもひとりで行くのは無理だ。            <不可能>
  ・どうやらなにかかくしている節がある。          <推定>

などなど、一般に「相当形式」とか「準用形式」とか呼ばれているものも、ここでいう構文論的な形式(あるいは「迂言的形式」)と考えられる。こうした文に用いられた副詞の記述においては、これらの形式を条件づけている文構造──たとえば「〜のは無理だ」や「〜節がある」が、これこれの理由から主文の主述関係ではなく「合成述語(complex predicate)」化している、といったようなマクロな階層構造──の分析が必要とされるだろう。【5.2.節参照】

 以上のように叙法副詞の呼応を考えるということは、橋本進吉1929(1959)が、山田孝雄の陳述副詞を「感応副詞」または「呼応副詞」と捉えなおしたうえで、「山田氏の陳述副詞のうち、確かめる意及び決意を表はすものは、必ずしも、言ひ方を制限しない」として、「かならず・是非・所詮」などを呼応副詞から除こうとした、そのような立場には、本章は立たないということである。橋本流の形式本位の立場をつきつめていけば当然起こり得る傾向、そしてじっさい一部に存在する傾向、たとえば「たぶんあしたは晴れるよ。」や「たぶん晴れそうだね。」などの文を <たぶん………だろう> という呼応の「乱れ」と見るような、形式主義的かつ規範主義的な傾向と、その裏返しとしての「本来陳述副詞はどんな述語と呼応するのが標準的な用法か、ということについて、あまり厳格なことは言えないような感じもする」(島田勇雄)というような、言語事実に対して良心的ではあるが、構文現象の基本に対して懐疑的・消極的になってしまう傾向とを、同時に克服したいのである。
  <呼応> というのは、むろん形式に現われる現象であるが、その「形式」は、なにもいわゆる助動詞じつは接尾辞(複語尾)や助詞(助辞)や活用形に限られはしないのである。形態素(morpheme)や助辞(particle, clitic)がつかないことも、無標形式(unmarked form)という一つの形式(語形)であることはもちろん、文内の位置(position)や分布(distribution)といった形で現われる、他の語との <結びつき> とその <構造的型> もまた、いわば「構文論的な文法形式」なのである。


4)副次叙法の副詞をめぐって

4.1.「ぜひ」について

 第3節で見た「どうぞ」の場合は、その共起する形式が「してください・してくださいませんか・していただきたい(のですが)」等々にわたるとはいっても、それらは構文論的な単位としては <依頼> の形式として統一的に見うるものであった。その意味では「どうぞ」の呼応は単純だとも言える。
 ところが、「ぜひ」という副詞の場合は、もう少し事情が複雑であって、次のような諸形式と共起して用いられる。

@ 依頼・命令:してください; しろ; してくれないか etc.
・「まさか。いま時、そんなことが出来ますか。結婚式は今夜挙げてしまいますよ。明日から汁粉屋でもやろうと思うんです。午後店開きをするからぜひて下さい」(あすなろ物語)
・「十月になれば入内される。そうなっては手おくれだ。もしかして主上のご寵愛をうけられるようなことになれば、万事休す、どんな求婚者も、すごすごと引き下らねばならぬことになる。たのむ。入内される前に、ぜひよい機会をつくってくれ。たのむ」(新源氏物語)
・「それは、是非私にやれと言われれば、一年や一年半は存分に暴れて御覧に入れます。しかしそれから先のことは、全く保証出来ません」(山本五十六)
・「いや別に君の能力がどうこう、という問題ではなく、むしろその逆で、原島さんが君の力を見込んだ上でぜひこっちの編集部に来てくれないか、と頼んできたのですよ」(新橋烏森口青春篇)
A 勧誘・意志:しよう・する; するつもりだ etc.
・「行こう、是非行こう!」(痴人の愛)
・「玉枝はん、早うようなって、また、竹神のお父つぁんの墓へまいりにきとくれやす。わいも、福井へ商売にきた時はぜひよせてもらいます」(越前竹人形)
・「違えねえ。でも今夜は是非医務室へ忍び込んで、暫く命を延ばすつもりだ」(野火)
B 願望・希求:したい; してほしい・してもらいたい etc.
・「いえ本当です。二年まえ見えた時、先生のお話をしたら新聞で知っていて、是非お会いしてお話を伺いたい、と大変な熱のあげようでした」(花埋み)
・「しかし、僕はぜひ肺摘をやってもらいたいのです。」(草の花)
・「会って話したいことがある。今夜、ぜひてほしい」(女社長に乾杯!)
C 必要・当為:しなけばならない・スル必要がある; すべきだ etc.
・「そうだ加藤君、きみにはぜひヒマラヤに行ってもらわねばならない」(孤高の人)
・「そりゃそうだが、向うの人は速記を取られるのはいやだというのだ。しかし、こっちとしちゃ是非その話を取っておく必要があるので、一つ骨が折れるだろうけれども、蔭でやってくれないか。」(路傍の石)
・「後藤閣下はヨーロッパに留学はなさっておいでですが、まだアメリカをごらんになっておりません。アメリカには学ぶべきことがたくさんあり、とくに閣下のごとく新領土経営の責にあるかたは、ぜひ視察をなさるべきです」(人民は弱し官吏は強し)
 以上のように、「どうぞ」と比べて共起の範囲が広いが、無制限ではない。
       *ぜひ きのう私が行きました。
       *ぜひ いま田中くんが走っている。
       *ぜひ あしたは晴れるだろう。
などの、ごくありふれた <認識−記述> 的な叙法の叙述文───テンスが過去・現在・未来という(論理的に)典型的な形で分化している文───には用いられない。
 先述の橋本進吉1929(1959)が「必ずしも言ひ方を制限しない」という言い方で、「ぜひ」を呼応副詞から除こうとしたとき、この自明とも思える現象は、実証家として稀代の碩学であった彼の目からも、こぼれ落ちてしまったのだろう。語形態のみを「形式」とする方法になれた目には、おそらく見えてこないのである。これは個人の力量の問題ではなく、研究方法のなせる業である。
 なお「ぜひ私も行きました。」という形の文が もし言えるとしたら、それは、
    ・そうと知っていたら、私も ぜひ行きましたのに(ものを)。
     ?そうと知っていたら、私だって ぜひ行きましたよ。
のような反実仮想の場合であろう。反実仮想の「過去形」は、叙法形式の一種であって、意味的に確定した過去の表現ではないため、「行きまし(た)」が、未確定事態に対する意志性をもつことを排除しないのである。とは言え、「ぜひ私も行きましたのに。」という終助詞化した「のに」のついた実例なら けっこう あるが、「ぜひ私も行きました(よ)。」という形の実例は、後述の「近代語データベース」[小説と新聞中心。現在約 230MB= 1億1500万字分]にはなかった。
 こうした「条件」ないし「環境」の確認も重要である。一般に、特殊な用法は特殊な条件の下に現象する。「直観」やら「内省」に基づいて、ある用法が言えるか言えないか(文法的か非文法的か)と、条件を無視ないし捨象して(多くの場合は見落として) 判定していく方法が、(少数の天才や達人は別とするにしても)きわめて危険な方法であるのは、このためである。
 このように、「ぜひ」という副詞にも一定の叙法的な制限があることは確かであるが、その「制限」をどのように規定するかとなると、橋本進吉ほどの学者が一般化に失敗したことからも察せられるように、ことはそれほど簡単ではない。まず、問題になるのは、共起形式のなかに「したい」などを始めとする副次叙法の形式が含まれていることである。そして、じっさい、
  ・私も是非あなたに一度あの長老を見せたかったんです。(青銅の基督)
  ・御父上も是非ご覧になりたいだろうと考えまして………(シナリオ戒厳令)
のように「ぜひ」は、発話時ならぬ過去の願望を表わす文にも、話し手ならぬ文主体(感情主? 有情主体)の願望を表わす文にも、用いることができる。また、国立国語研究所(工藤浩担当)の副詞資料にはなかったが、
  ・私のぜひ行ってみたい国はアフガニスタンです。
のような純然たる連体節──「ガノ可変」(三上章1953)のものと一応しておく──に用いられる用法も、あり得るだろう。国語研の資料になかったということの意味については、またあとで考えることにして、「ぜひ」が過去の願望形式とも、一人称以外の文主体の願望表現とも、さらに連体節の願望とも共起し得るということは、「ぜひ」が副次叙法に関わる副詞であり得ることを意味している。

 このことは、「どうか」と比べてみると分かりやすくなる。
  ・どうか倅が中学を卒業する迄首尾よく役所を(ママ)勤めて居たい。(平凡)
  ・どうかまにあいますように。(シナリオ 忍ぶ川)
のように「どうか」は、前節で見た「どうぞ」とは異なり、聞き手をめざさない、内心の願望や祈りを表わす文にも用いられるのだが、また、
      ┌─私はあなたに一度あの長老を見せたかったんです。
  *どうか─┼─御父上もご覧になりたいだろうと考えまして……
      └─私の行きたい国はアフガニスタンです。
といった用法には立たない点で、「ぜひ」とも違っている。つまり「どうか」は、 <話し手の発話時の> 願望なり祈りなのであるのに対して、「ぜひ」は、文あるいは節の <有情主体> の <テンスの対立を持つ> 願望であり得るのである。
 そうだとすると、
  ・ぜひ 今度来てくれ。 / 来てください。
  ・ぜひ 行こうよ。   / 行きましょう。
  ・ぜひ 私も行きたい。 / 行くつもりだ。
など、発話時の話し手の、依頼や勧誘や決意、あるいは願望や意図を表わす文に用いられた場合であっても、「ぜひ」という副詞は、その文の <話し手性> <発話時性> といった基本的叙法性の面には、直接は関わらない、と見た方がよいことになるだろうか。
「ぜひ」という単語の意味の「統一的な把握」のためには、まずは、そうした見方をしてみることが必要だろう。一つの語に一つの「本質」的な意味(あるいは「意義素」)を求めたいという、ある意味では 素朴な欲求が 研究者に生じたとしても、不思議はない。そうした欲求は、「ぜひ」と共起しうる/依頼・命令・決意・願望・当為/等々の述語に共通して存在し、かつ、
   *ぜひ私も行った。 /  *ぜひ彼が走っている。 /  *ぜひ晴れるだろう。
等々の「ぜひ」と共起しえない述語には存在しないような、「意味特性(semantic features)」を抽出するように、我々に命ずるだろう。そうした抽出作業の結果、依頼・決意・願望等々の述語の叙法性に関しては、概略、
  依頼「してくれ」=[実現の必要性]+[話し手の聞き手への要求]
  決意「しよう」 =[実現の必要性]+[話し手の自らへの要求]
  願望「したい」 =[実現の必要性]+[有情主体の自らへの要求]
といった具合に「成分分析(componential analysis)」ができたとしよう。すると、「ぜひ」はその述語に含まれる[実現の必要性]という副次叙法的な意味特性(もしくは、それを有する形式)と呼応する副詞だ、ということになるだろう。【意義素論者 服部四郎氏なら、こう分析するはずである。】

 以上のべてきたことを、南不二男(1964、1993)の 文の四段階理論にひきあてて言えば、次のようになる。
「ぜひ」は、B段階の連体節には収まるが、A段階の「−ながら」句には収まらない。
    ・ぜひ手に入れたかったが、やっと手に入った。
     *ぜひゆっくり歩きながら、彼はこんなことを言った。
   cf. できるだけゆっくり歩きながら、彼はこんなことを言った。
「どうか」は、連体節には収まらないが、
    ・どうかあしただけでも晴れてほしいものだ、雲行きは怪しいなあ。
のようなC段階の「−が」節には収まる。
「どうぞ」は、
    ・どうぞ、こちらに来ていただきたいのです、(いかがでしょう)。
のような、ほとんど終助詞的といっていい用法の「が」節には収まるが、この用法【三尾砂1942のいう「半終止」の用法】は、C段階というよりはD段階に近いというべきものである。すくなくとも、
     *どうぞ、こちらに来ていただきたいから/し、お呼びしたのです。
など、他の典型的なC段階の従属節には収まらない。
 こうして、「どうぞ」は[相手(=聞き手)]の出てくるD段階の副詞、「どうか」は[自分(=話し手)]のC段階の副詞、「ぜひ」はそれ以前のB段階の副詞、ということになるだろう。

 このようなエレガントな記述が得られることは、たしかに魅力的である。しかし、これだけの記述では、なにか大事なことを分析しえていないという思いが残る。妙な言い方になって恐縮であるが、じつは南不二男(1964:15)では「ぜひ」がD段階の要素として挙げられていたのである。ただし、その後の南(1967,1974,1993)では、言及がひかえられているようである。南氏も、迷っておられるのだろう。
 私の常識的な日常的言語感覚もまた、「ぜひ」をB段階の要素だといってすませておくことに違和感がある。「どうか」をC段階の要素だとした点も同様である。こうした常識感覚(いわゆる「直観」)を生み出しているのは何かと言えば、おそらく、どういう用法にどれだけ使用されているかという使用量(使用頻度)の実態であるだろう。国語研の資料によれば、「どうか」は、全96例のうち84例(87.5%)がD段階の依頼形式と共起して用いられており、「ぜひ」も、全119例のうち93例(78.2%)が、C・D段階の発話時の話し手の、願望・決意・命令・依頼等の叙法形式と共起して用いられているのである。つまり逆から言えば、「どうか」をC段階だとする根拠は、わずか12.5%の使用例であり、「ぜひ」をB段階だとするのは、たかだか21.8%の使用例を基にして言っているのだ、ということになる。
 このように考えてくると、ある用法が可能か否か(〇か×か)という二項対立的な記述方法の機械的な適用は、それだけでは十分な記述が得られないというばかりではなく、少数の特殊例の性格を、一般的な基本性格にまで不当に拡張するという論理的誤りを犯す危険さえあるのではないか、と思われてくる。
 しかし、結論を急がず、別の例も見てみることにしよう。

4.2.「主体」的な推量と、「客体」的な蓋然性

 いままでは、「どうぞ」にせよ、「ぜひ」「どうか」にせよ、A)行為的な叙法を例に考えてきた。ここで目を転じて、B)認識的な叙法についても見てみよう。問題の多そうな「推量」的な副詞をとりあげることにする。ここでははじめから数値を示そう。問題の副詞が、どのような形式と どのくらい 共起して用いられているかを、表にして示す。

            |    |      |
      す に に | だ | の | | よ | か | せ す    推
      る ち 決 は ろ と で ら と う し も だ ぬ る    量
      φ が っ ず う 思 は し 見 だ そ し ろ と 節  計  以
      ・ い て だ ・ わ な い え み う れ う も が    外
      の な い  ま れ い  る た だ な か 限 あ
      だ い る  い る か    い  い  ら る
                    だ     ぬ
───────────────────────────────────
きっと   139 38 8 3 66 12      1 4 8      279 85
かならず  17 5 2 1 11                  36 146
ゼッタイ(ニ)  48                        48 38
……………………………………………………………………………………………
おそらく  31 18  1 112 5 10  2   1   2      182 --
たぶん   19 1  2 74   1  1    2 3      103 --
さぞ           52   1      1        54 --
おおかた   2 1    24   1              28 13
たいてい   3    1  7                 11 80
たいがい   2      4                  6 33
……………………………………………………………………………………………
どうやら   5         1 29  10       1  46 39
どうも   13 1        6 24      1       45 385
ヨホド・ヨッポド 6 2     7   2 12 9 3    2     43 150
……………………………………………………………………………………………
あるいは         3 2 4       53 3 1    66 69
モシカスレバ    2    1  1 1 11       30       46 --
ヒョットシタラ   2         7       16 1     26 --
コトニヨルト    1         4        7 1 1    14 --
あんがい    1     1   3  1    1  8       15 81
───────────────────────────────────
[表の注記]
・「もしかすれば」の項は、「もしかしたら」「もしかすると」を含む。条件の形−バ・−ト・−タラを包括する点、「ひょっとしたら」「ことによると」項も同様。【半角カタカナになっている部分は、小文字指定のひらがなであるべきもの。表を乱さないための便法である。許されたい。】
・その他の副詞の項は、表に出した形以外を含まない。たとえば、「ぜったい(に)」は「ぜったい」と「ぜったいに」とを含むが、「おそらく」には、「おそらくは」を含まず、「さぞ」には「さぞや」「さぞかし」「さぞさぞ」を含まない。
・述語形式の項(見出し)は、代表形である。たとえば「らしい」には、「らしく」「らしかった」「らしい(人)」などを含み、「−のではないダロウか」には、「−のではないか」「−のではないだろうか」のほか、「−のではありませんか」「−のではあるまいか」等々を含む。
・呼応すべき述語部分が省略された用例は「計」の中に数えていない。倒置文は含む。そのさい「来るよ。きっと」のような句点で切れたものも倒置と見なして含めた(ただし1例のみ)。

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 この表を見れば、推量的な副詞群は、四つにひとまず分けられよう。かりに名まえもつけておけば、
  @確 信:きっと かならず ぜったい(に)
  A推 測:おそらく たぶん さぞ おおかたetc.
  B推 定:どうやら どうも よほど
  C不確定:あるいは もしかすれば ひょっとしたらetc.
しかし、四つに区分しうるということ以上に、ここで重視したいのは、この四種の相互関係、いわゆる連続的な関係である。連続は、二つの面で言える。
 ひとつは、対象面から言えば事態実現の確実さ(蓋然性)が、作用面から言えば話し手の確信の度合いが、@からCの方向で低くなっていくことである。この面では、C不確定(不確信)の延長上に「はたして/いったい……(だろう)か」「さあ(どうかなあ)」などの <うたがい> や <ためらい> を表わすものが位置するだろう。また、@確信(確実)の手前に「もちろん・むろん」などの <断定(確認)> がある。@の「きっと」などは断定に近いものではあるが、それはあくまでも話し手にとって未確認(未確定)の事態についての“推量判断”である。その点、
・「やっぱり、奥さまは、きのうの勧告を、拒否なさいましたか?」
 「退職勧告? もちろん拒否したよ」と志野田先生は言った。(人間の壁)
・「もちろん、私も、賭けてるわ」と一語一語切るやうに言った。(闘牛)
・妻は無論喜んで私を迎へた。(野火)
無論、ぼくは、あなたの病気を、重要な研究対象と考へてゐる。(木石)
などの如く、話し手に既に確認された事態(の報告)について用いることのできる「もちろん」「むろん」とは明らかに異なっている。「もちろん」の類をかりに <断定(確認)> と呼んで、 <推量> の一種としての <確信> と区別しておく。
 このように、スル・スルダロウ・シソウダなどを区別しつつも、未確認推量の下位類という、程度差をもった同類であると考えることによって、
・今日は来れないわよ、多分。地の人の宴会だから。(雪国)
・あなたがいなくなると多分私はそういう用ばかり多くなりそうよ。(女坂)
などの例を、呼応の乱れとしたり、呼応には厳格なことが言えないとしたりすることなく、それが少数例の非基本的用法としてある(ありうる)ことを、正当に記述し説明することが可能になる。

 連続的な関係のもうひとつの面は、@「きっと」A「たぶん」B「どうやら」C「あるいは」などの叙法性の強弱である。B「どうやら」とC「あるいは」には、
・ある日、どうやら梅田へ出掛けたらしかった。(夫婦善哉)
・この智恵子にどうやら秘かに慕情を寄せてゐたらしい松下は、 <中略> ニヤニヤし乍ら、どうしたいと言った。(故旧忘れ得べき)
或ひは召使かも知れなかった。(野火)
あるひは協カ者たり得たかも知れなかった者も、ある事情から、その頃は急速度にわしに背を向けて離れて行った。(生活の探求)
の如く、過去や連体節内の推量−蓋然性と呼応する用法が、少なからずある。「どうやら」では 46例中11例がこの用法で 23.9%、「あるいは」では 66例中7例で 10.6%である。これが、@「きっと」A「たぶん」「おそらく」になると、
・それはきっと刑務所のなかで何度も考えつくされた話にちがいなかった。(真空地帯)
・おれはきっとてめえが尋ねて来るときがあることを見ぬいてゐて、 <中略> 知らせてやりたかったのだ。(あにいもうと)
・それが、一度や二度のことなら、たぶん、佐蔵にわからずにすんだかもしれなかった。(子を貸し屋)
・この辺には多分沢山ゐる筈の同じ画家仲間が、どうしてこの家を見過してゐたらうかを疑った。(真知子)
恐らく他の女動手を使ってゐるのにくらべて、三倍も四倍も、能率がちがふにちがひなかった。(木石)
・彼は恐らくこの半年間といふもの、手を通したことがないと思はれる皺だらけの制服を着、 ……… <下略> (故旧忘れ得べき)
の如き例がないわけではない。しかしその数量は、「きっと」279例中 7例で2.5%、「たぶん」103例中 7例で、6.8%、「おそらく」182例中 14例で7.7%、である。

 さて、こうした数値をどう見るか。たとえば「たぶん」は、6.8%とはいえ、過去・連体節内の推量−蓋然性の用法に用いられる以上、副次叙法だと見るべきだろうか? 内省にもとづいて可能か否かとテストしていく研究者なら、まちがいなくそうするだろう。 6.8%もあるのだから。
 たしかに、無と有(6.8%)とは質的に異なる。その限りでこの方法はまちがっていない。しかし、6.8%の用例と 93.2%の用例と、そのどちらでその語の基本性格を規定すべきか、ということが問題にならないような方法は、歴史的社会的所産としての言語の研究方法としては、極めて危険なものである。言語現象には常に「中心的なものと周辺的なもの」とがある、というプラーグ学派の主張したテーゼ[cf. TLP 2(1966)]に同意するならば、とれない方法である。
 過去・連体節内の推量−蓋然性の用法の使用頻度は、@「きっと」では 2.5%、A「たぶん」では 6.8%、「おそらく」では 7.7%、C「あるいは」では 10.6%、B「どうやら」では 23.9%、となっているが、この数値は、やはりすなおに、叙法性の強から弱への連続と見るべきであろう。そしてCの不確定、Bの推定ないし様態より、さらに対象的ことがら的なものとして、「きまって」「いつも・よく」「とかく」など、習慣的・反復的な事態の起こる「確率」に関する副詞があると見るべきだ。先の表にも示した「大抵」「大概」などは、「大抵の男」「大概の物」のような実体量を示す数量詞の用法から、
山に行く時はたいてい深田久弥と一緒だ。(私の人生観)
・山上という女は十時ごろには大概帰って行った。(暗夜行路)
のような、事態の確率を示す用法をへて、
・大将のことだから、大抵出かけて来るだらうけれど…。(多情仏心)
・例の(考えておこう)だから、大概いいだろうと思う。(暗夜行路)
のような、推量と呼応する用法を派生しかけている、と推測される。「おおかた」の場合は派生が一応完了して、多義語もしくは同形異品詞として分化している。「大抵・大概」は、いまだ過渡的な状態にあると思われるが、共時的研究としても、こうした(叙法副詞から見て)周辺的なものも、そういうものとして記述すべきだろう。そしてそのさいの手がかりは便用量であろう。質的なちがいは量的なちがいとして現象するのである。

 前節まで、基本叙法と副次叙法とを質的に異なったものとする点に力点をおいて考えてきた。本節では、両者を程度差をもって連続するものとする点に力点をおいて考えた。この二つの見方は、けっして矛盾・排除しあうものではない。量的な推移の「変」と質的な転換の「化」【あわせて「変化」】との相互作用の問題であって、比喩的にいえば「段階的に連続している」のである(森重敏1965、pp.34-6)。≪分類≫とは本質的に、<段階差>と<連続相>とを、平たく言えば相違点と共通点とを、同時に捉えなければ出来るものではない。そして、その具体的な姿は、言語によって異なった形をとるだろう。外国語の分析を日本語に「翻案」もしくは単純に「適用」するような方法は、科学とは、少なくとも人文科学とは言えない。しかしそのたぐいが、いかに多いことか。
 個別言語には、特殊相ばかりでなく普遍相もむろんやどっており、人文学者 V. von フンボルトの言う「比較言語研究」───現代風にいえば、対照的(contrastive)研究ないし対比的(confrontational)研究、および類型的(typological)研究───は、もちろん成立すると思われる。だが「分類学的言語学」を、おそらくは最低の鞍部で「乗り越え」てしまった人たちの中には、“universalな意味分類”の名のもとに、英語の分類にひきあてて日本語を分割しておきながら、両言語には興味深い共通性・平行性が見られる、などといった循環論に陥っている人たちもいるように見える。日本語学史にひきあてて言えば、鶴峯戊申1833『語学新書』以前とも言うべきこうした傾向が、副詞研究にのみ見られる特殊現象であれば幸いである。


5)単語の多義性・多機能性と その「やきつけられかた」

5.0. 呼応と共起

 前に3.2.節で、「たぶん」は 6.8%の用例ではなく93.2%の用例の方で、基本的性格を記述すべきだと述べた。では、23.9%の副次叙法用法と76.1%の基本叙法用法とをもつ「どうやら」は、どうだろう。76.1%という過半数が基本叙法と共起しているから基本的叙法副詞だと単純に言ってしまうのは、おそらくまずいだろう。なぜなら「ゆっくり」のような全く叙法に関わらないと思われる副詞でも、副次叙法的述語と共起する例が過半数をしめることはないだろうから。また、共起現象の数値を単純にウノミにすると、たとえば「とっとと」という副詞は、命令と共起した例が過半数【私のデータベースでは、34例中20例(58.8%)】をしめるから、命令と呼応する叙法副詞だ、ということになりかねない。
 ここには問題が二つある。一つは、「ゆっくり」などの非叙法的な副詞をも含めて、一般的な基準として「叙法度」を計る方式を求めることができるかどうかということ。これは私の手にはあまる。その道の専門家に任せたい。
 もう一つは、「共起」することと「呼応」することとは、並行関係にあることも多いが、原理的には区別すべきかもしれない、という問題である。こちらは、避けて通るわけにはいかない。こちらに一応の解答を出さなければ、数量的方法も求められないだろう。
 「共起」現象は、同じレベル(節clause)に同居しているということだから、比較的簡単に形式化しうるだろう。ただし「同じレベル」かどうかは、結局は、意味抜きには不可能だろうが、その難問を避けるために、「明白に」一つの節しかない単文のみで検証するという「便法」もあるだろう。
 これに対しして、「呼応」は、単なる同居ではなく、<むすびつき> であるから、つきつめていけば <意味> 的関係である。「ぜひ私も行きたい。」の「ぜひ」を、話し手の願望と呼応していると見るか、有情主体の願望と呼応していると見るか、ことがらの実現の必要性と呼応していると見るか、という問題が生じるのも、このためである。最終的には、分析者の解釈力が問われることになる。
 しかしまた、「共起」と「呼応」が基本的に───あるいはこの際、大多数の場合というべきか───並行関係にあることも、まぎれもない事実である。先の「とっとと」も、
・そう言って、今までそうじをやっていた小僧が、そうじのしかたを簡単に教えて、とっとと向こうへ行ってしまった。(路傍の石:山本有三)
・しゃんと腰をのばして、とっとと歩いている。(厭がらせの年齢:丹羽文雄)
・「………」いい置いて雪州和尚は、隠寮の方に曲る廊下をとっとと奥の方へ入った。(雁の寺:水上勉)
のような用法を自らは使用しないという世代も、すでに存在するかもしれない。上の3例は、私のデータベースに現れた もっとも現代に近い作家のものであるが、うち二名はすでに物故者である。【補記:丹羽文雄氏は、ご存命であった。不用意を深くお詫びする。】
 とすれば、「とっとと」は叙法副詞化の傾向にあるとは言ってよいのかもしれない。ただし「とっとと………出て行け/歩け/しまえ」など、退去・消滅の意の動詞にほぼ限られる傾向にある、慣用句性の高いものではあるのだろうが。(cf.「皆目」「寸分」「とんと」)
 「共起」はいわば量的現象、「呼応」は質的関係だが、質的なものが量的現象を生じるとともに、量的現象が質的変化をもたらすとも、一般的に言える。文の中での意味機能が、使用のくりかえしの中で、しだいに単語の意味機能として「やきつけられていく」のである。「共起」と「呼応」とが、基本的なところで並行することは、不思議なことではない。
 ここで、話をもうすこし具体的にしよう。

5.1.「きっと」と「かならず」
 前節で <確信> の副詞として扱った「きっと」は、ほかに次のような用法にも立つ。
・明日は屹度入らしって下さいましね。(或る女)
・よろしい、きっと糾明しましょう。(自由学校)
・新さん、済まない、そのうちに、きっと行くよ。(末枯)
など、依頼・命令・決意・意志表示(約束)といった <意欲> 的な叙法と共起する用法に44例、
何か嘘をつくと、その夜はきっと夜半に目が覚め。(田園の憂鬱)
一盃やるときっとその時代のことを思出すのが我輩の癖で………だって君、年を取れば、思出すより外に歓薬が無いのだもの。(破戒)
・高いノックの先触れで入って来たのは、三日に一度きっと帰ってゐる富美子であった。(真知子)
など、一定の条件の下にくりかえして起こることがらの <確率> の高さを表わす用法に41例である。これは、前節末にふれた「きまって・いつも」「よく・往々にして・えてして」などと類義関係をなすもので、過去や連体節内の用例も珍しくはない。ところで、 <確信> の用法は279例であった。
 ふつうはこうした場合、これらの諸用法を「きっと」が多義語だとして説明するだろう。つまり「きっと」は、叙法(確信と意欲)の副詞でもあり、確率の副詞でもあると考えるだろう。アクセントは違うが、「きっとにらみつける」「きっと申しつけたぞ」の「きっと」も同一語と考える(歴史主義的な)立場では、情態副詞でもあるとするだろう。
 しかし、先に4.1.節で触れた、単語の意味の「統一的な把握」をめざす研究者にしてみれば、安易に多義語とせず、「きっと」の「本義」もしくは「意義素」を追求すべきだと言うかもしれない。その立場に立って、「きっと」を <きわめて高い確率で> とか <例外なく> とかの意味だと考えて、確信や命令の叙法と共起する場合も、図式的に示せば
   ・〔きっと彼は来る〕φ/ダロウ。
   ・〔きっと来〕いよ/てね。
の如く、「きっと」はことがらの確率を限定するのみで、叙法とは呼応しない、累加もしくは包摂の関係にあるのだ、と「入れ子」式に考えるのも、(形式)論理的には一応可能である。その立場では、「きっと」は叙法副詞ではなく、「客観的な確率」を表す副詞(状態副詞か)にすぎないということになる。じっさい、そうしている学者もいる(いた)ようだ。しかし、こうした論理が通用するのは、「きっと」だけを見ていればの話である。
 「きっと」に似た副詞に「かならず」がある。
必ずあんたを狙ってこっちへ来るだろうな………。(シナリオ女囚701号)
この男をマークすれば必ず奴は現われる………。(同上)
のような、特定の個別的なことがらについてのアクチュアルな <確信・推測> と共起する用法に36例、
必ず無傷でお返ししよう。(シナリオ宵待草)
・はい、必ず参ります。(シナリオ華麗なる一族)
・私も裁判には必ず一緒に行ってやるからな。(シナリオ狭山の黒い雨)
のような、アクチュアルな決意や意志表示という <意欲> と共起する用法に29例、
一匹が鳴くと必ず何処かで又一匹が呼応する。(麦と兵隊)
・父は勝った時には必ずもう一度遣らうと云った。(こころ)
生あるものは必ず滅する。(阿部一族)
のような一定の条件の下にくりかえされることがらや、普遍的な現象などの確率が(ほぼ)100%であることを表わす、副次叙法の用法に、これがいちばん多くて、96例用いられている。
 以上のほか、
・この面、頭に叩き込んで、必ずひっ捕えて来い………いいな。(シナリオ女囚701号)
年頃になったなら必ず木下と娶はして欲しいといふのであった。(河明り)
のような、命令や希求と共起した例が9例、
・所有者が真に所有権を主張したい品物は、必ず戸の内側に納わなければならない。(自由学校)
のような、義務・必要と共起した例が12例ある。
 しかし、これらのうち、とくに後者は、個別的な出来事ではなくて一般的な命題が多く、また、前者のように個別的な出来事であっても、『河明り』の例のように、希求という叙法に関わっているのか、「年頃になったなら、木下と娶は」すことが「必ず」という確率であってほしいと希求しているのか、疑わしいものもある。 <確率> の用法に加えるべきかもしれない。じつは、先に <確信> と <意欲> の用法とした中にも、太字イタリックで示した「条件」をもった各1例のように、あるいは <確率> の用法とすべきかと疑われる例がないわけではない。こうした疑問が「きっと」にくらべて、はるかに多く出るのも、「かならず」の基本的用法が <確率> であるためである。
 さて、このように「きっと」と「かならず」は、用いられる用法の範囲としてはさしたるちがいはないように見えるが、各用法の使用量の <分布> は明らかに異なっている。

         確信   意志命令   確率     (位置づけ未詳)
   きっと    279    44      41
   かならず   36    29      96        (21)

 一語一義的に考えた方がよくはないかという誘惑は、「かならず」の場合に、とりわけ強い。確信的推量と呼応する機能も、それを限定強調する意味も、「きっと」にくらべて、その「やきつけられかた」が弱いのである。「きっと」と「かならず」とを、ともに一語一義的に考えるのは、両者の構文的な機能(用法)のちがいを、そしてそれに応じてやきつけられた(やきつけられつつある)意味のありかたのちがいを、見過すことになる。
 「きっと」は多義的に考えてよいが、「かならず」は一義と考えるべきだとするのは、「かならず」と「きまって」との、次のようなちがいを説明しにくくするだろう。
   かならず─┬─あした来て下さい。        <依頼文>
   *きまって─┴─あしたは晴れる。         <未来予測の叙述文>
「きまって」と「かならず」とのちがいを一つの意味で区別しようとすれば、おそらく〔習慣的・反復的なことがら〕という意味特性の有無ということになるだろう。使用範囲(外延)の広い「かならず」をひとからげに規定しようとすれば、当然その意味特性(内包)は希薄な、抽象的なものとならざるをえない。
 それは仮によいとしても、次には「きっと」との、次のようなちがいを論ずる基盤を失うことになるだろう。
   *かならず─┬─あの子はどこかに行ったのだ。 <説明文>
        ├─あれは鈴木さんだよ。     <名詞文>
   きっと ─┴─田中さんは来ませんよ。    <否定文>

 内包の希薄な、それだけ抽象的な語である「かならず」が、なぜ説明文や名詞文や否定文に用いられないのか、説明不能になるからである。【補記:「かならず」は 「確信」の 用法の ばあいも もちいられる 文は「記述文(≒現象文)」に かぎられるが、「きっと」のほうは そうした 制限は なくなり 「説明文(≒判断文)」にも もちいられる、と ちがいを かんがえる ことができる。「きっと」の 多義定着性が 「かならず」より たかく 感じられたのは、こうした 文種の ちがいも あったからだと おもわれる。】
 他の関連語との比較をしなければ、意義素説や本義説は成立しやすい。論理的「抽象」能力さえあれば、たいていの人にできることである。しかし、いくつもの類義語との比較・対照をすれば、つまり体系的に記述しようとすれば、そうは問屋が卸さない。体系の中心に近い基本的な語ほど、「網の目状」に結びつく語は多いものである。
 そしてじっさい、使用頻度の高い基本的な語彙の多くは多義語である。それは外延的に広い諸用法に立ちつつ、内包を貧弱なものにしないための、必然的ななりゆきなのだと言っていい。多義語を生み出したのは、人間の叡知である。「あいまいさ(ambiguity)」と抱き合わせの「両刃の剣」としての叡知であったのである。
 なお、「機械言語」と違って人間言語は、その「あいまいさ」をも単純に弱点とはしていないことも忘れてはならない。メタファー・掛詞・地口・駄洒落などなど。科学を自然科学としてしか理解できない頭脳に、「言語の科学」は無理かもしれない。あるいは、無謀であるかもしれない。
 ちなみに、一語一義説とは対極をなす、単語の意味を「用法の総体」だとする説もまた、極端で受け入れがたい。文の中での用法(意味と機能)が、すべて単語にやきつけられた性質ではあるまいから。また、文の意味が単語の意味の総和以上のものであることは、今では言うまでもあるまい。そうでなければ、そもそも構文研究など、おこりようもなかったろう。
 一語一義説も、意味=用法説も、いずれも単語の <意味> を、あるいは <語形> に あるいは <用法> に、一対一に対応させようとする <単純なもの(simplicity)> への憧れであり、記号に対する理想(ideal)もしくは幻想(vision)である。私にも共感するところが全くないわけではないが、「自然言語」の、とりわけ「副詞」の真実は、この両極の間に、どこまで 身につけ やきつけられたものとしてあるか、という形で存在するように、私には思われる。


5.2.「ぜひ」について ふたたび
 以上見てきたように、構文的な意味・機能が使用のくりかえしの中で、単語にやきつけられるのだとすれば、そしてそれが共時的には、使用量のかたよりとして現象するだろうと考えるならば、さきに4.1.節で「ぜひ」を[実現の必要性の強め]という意味特性をもつ副次叙法的な(B段階の)副詞だとした扱いは、再考を要することになるだろう。すでに述べたように、国語研の副詞資料に見られた119例(名詞用法や「−に(も)・−とも」などを除いた数)の中には、内省によってありうるとした純然たる連体節内の用例は一例もない。これは、まずは、資料の貧弱さを示すものと考えるべきかもしれない。
 これは、かれこれ20年ほど前の数年間に手作業で集めた国語研の副詞資料[小説・論説文・映画シナリオ 計84作品]についての反省であるが、現在私の使用しているパソコン用「近代語データベース」[小説と新聞中心で、現在約 230MB= 1億1500万字分。分かりやすく言えば、文庫本約150冊の小説と、1995年一年間の新聞全紙面と1997〜1999年三年間分の新聞主要紙面が、データの主要部分である。]に「グレップ(grep)」という文字列検索をかけてみると、1732例(国語研資料の約14.5倍。名詞用法や「−に(も)・−とも」なども排除した数)が検索されるが、この中にも「純然たる連体」の例はないようである。「1億1500万字」のデータベースのうちの1732例といっても「有限」であることに変わりはないが、ざっと目を通すだけでも大変な量であることも確かで、こうした資料体(corpus)にもないとなると、「純然たる連体」に用いられる用例というのは、文法の「現実性」よりも「可能性」に賭けたくなる性癖をもちがちな文法学者の「内省」が生み出した幻影で、それが作業仮説としての「ニセの研究課題」もしくは「サマツな研究課題」を作り上げる役割を果たしてしまったのかもしれない、と反省してみる必要もありそうである。
 しかし、こうした資料の中にも、
是非、お話したいことがあるの。入らっしゃいよ、さァ。(自由学校)
・君の力で是非手に入れてほしいものがある。(シナリオ華麗なる一族)
・私はそれまでに、ぜひ一軒いとま乞ひに行って来たいところがあるので、手廻しに少し早く起きたんですよ。(桑の実)
など、「〜こと/もの/ところ/ひとetc.がある」という形(以下「Nがある」式と呼ぶ)の「連体」の例なら11例ある。だが、この「Nがある」式の文の構造は、

   a)私(ニ)は || (ぜひ)行って来たい|ところが || ある。
    ──── ─────────────── ───

のような、“存在構文”の構造ではなくて、

   b)私 は || (ぜひ)|行って来 たいところがある。
     ───  === ──── ========

という構造ではないかと思われる。つまり「Nがある」式の形式は、「合成述語(complex predicates)」に近づいたものであって、「ぜひ」が連体節に収まった例と見なすには無理があるのではないか、と思われる。そう思われる根拠は二つ指摘できる。

 一つは、いわゆるガノ変換ができないことである。
   私は─┬─(ぜひ)お話したいことがある。
   ?私が─┼─(ぜひ)手に入れてほしいものがある。
   *私の─┴─(ぜひ)あなたに紹介したい人がある。
もちろん、
   私(ぜひ)お話したいことは(が)、この点にある。
は可能だし、
   私(ぜひ)君の力で手に入れてほしいものが、ここにある。
も、おちつきはわるいが、不可能ではないかもしれない。しかしこれらは、問題の文とは明らかに意味が異なり、構造的にも異なるa型の存在構文である。さらに、「〜人がある」の場合は、「[無情主体]−ある」と「[有情主体]−いる」との対立がからみ、
   *私のあなたに紹介したい人が、ここにある(あります)。
という「存在構文」は、ちょっと言いがたい。
  cf.私は、(きょう)あなたに紹介したい人が あります。
という「準所有構文」と比較されたい。

 これが第二の根拠に関連するのだが、
   私は、ぜひあなたに紹介したい人がある
という、いわば「非人格」的用法を、「いる」に置きかえて、
    私は、ぜひあなたに紹介したい人がいる
のように、半「人格」化することまでは、構造を変えずに可能かもしれないが、
   *(私は)ぜひあなたに紹介したい人がいらっしゃいます
と尊敬語化することは、意味・構造を(a型に)変えずには不可能である。「(私は)……たい人がある」の「人が」は、存在文の主語ではなく,「私は」を主語とする「準所有文」の補語である。(参照:高橋太郎・屋久茂子1984)
 なお、第一の根拠のガノ変換の例文で、「私が」に ?をつけておいたが、これは、「私」が焦点ないし新情報となるような文脈では一応可能であろう。ただし、三尾砂のいう「転位の判断文」として、
  ・彼ではなくて、私が、(ぜひ)あなたに手に入れてほしいものがあるのです
のように、文末は「〜のです」の形になるだろうが。

 以上二つの現象は、「Nがある」式を「合成述語」に転化したものと断定する証拠としては、十分ではないのであるが、「ぜひ」が連体節に収まった証例とは言いがたいことの証拠には十分なるだろう。たしかなことは、「Nがある」式が「ぜひ」と比較的に共起しやすい特徴的な迂言的(periphrastic)形式だということである。
 ひとしく、形式的に「連体」とはいっても、おおざっぱに言って、
  ・ぜひ来てもらいたい田中君に連絡する。      <純然たる補語>
  ・ぜひ来てもらいたかった人が来ていない。   <逆接性をもつ主語>
  ・田中君は、ぜひ来てほしい人です。          <述語名詞>
  ・ぜひ行きたい人は、手をあげなさい。   <条件句性をもった主題>
  ・ぜひ会いたくなった時は、電話します。 <条件句性をもった状況語>
  ・ぜひたのみたい用がある。             <Nがある式>
のような例で、上から下へ行くにしたがって「被連体語」の実質体言性が弱まり、「ぜひ」の使用量は高まるのではないか、と推定される。ひとしく「連体」とは言っても、その関係する体言が、文全体の中でどんな役割=機能をはたしているか──たとえば、主語か補語か状況語か述語か、またあるいは、逆接的か条件的か中立的か、など──にしたがって、その体言の「体言らしさ」も異なり、そこにかかる連体節の叙法性の強さ(三上章のいう「ムウ度」)も異なるといえそうである。「ぜひ」の叙法性あるいは陳述的な性格の本格的な記述としては、おそらく、ここまで問わなければならないだろう。単純に文末述語を中心とした文の陳述的なタイプに従属しているわけではないのである。
 こうした複雑さをはらむ「連体」を、十把一絡げに副次叙法か否かのメルクマールの一つとした 先の4.1.節の記述は、やはり単純化のそしりをまぬかれない。そこでは、「ぜひ」は、それと呼応する接尾辞「−たい」等と同じ扱いを受けていたことになる。それがおかしいことは、国語研の『雑誌90種』の調査資料で言える。
────────────────────────────────────────
      総数  中立的名詞 述語名詞 条件的名詞 形式名詞 Nがある式 合計
────────────────────────────────────────
 90種 タ イ 662  27(4.1)  11(1.7)  13(2.0)  38(5.7)  10(1.5)  99(15.0)
    -------------------------------------------------------------------------
 資料 ゼヒ  37   0     0     0      0     3(8.1)  3( 8.1)
────────────────────────────────────────
 副詞 ゼヒ 119   0     0     0     1(0.8)  11(9.2)  12(10.1)
────────────────────────────────────────
これは、どんな体言にかかる連体節の中に、どのくらい用いられているかを示す表である。カッコ内は%。これによって、「ぜひ」が「−たい」より叙法性が強いことが見てとれよう。またも三上章1953のことばを借りれば「ムウドを硬化する作用」(p.309)を「ぜひ」にも認めなければならない。「ぜひ」がB段階的な副次叙法性をもつことは否定できないし、また否定する必要もないのだが、同時に、C・D段階的な基本叙法性が、かなりの程度にやきつけられている、と見なす必要もあるのである。この問題は、今後さらに、叙法副詞と述語の叙法性との通時的調査をふまえて検討されるべきであろう。歴史的存在である言語は、共時的な研究にあっても、いわば、どの方向に向いているかという「ベクトル」をも記述しなくてはならないように思われる。【より詳しい記述の例としては、工藤1996「どうしても考」を参照されたい。】
 なお、
   ・どうぞ/どうか/ぜひ/なるべく、お立ち寄りください。
の四つはどうちがうか、その使い分けは? という日常的な疑問に対して、それぞれD段階、C段階、B段階、A段階という異なった段階の要素で、たとえば「なるべく」は
    なるべくゆっくりと歩きながら、みんながはやく追いついてくれることを心の中で願っていた。
といった「ながら」句におさまる用法もある、という指摘をすることは、程度副詞との隣接関係を物語るものとしては貴重だが、それだけでは、先の使い分けの疑問に対する答としては十分ではないだろう。「なるべく」も依頼文に用いられることが少なくないからこそ、上の疑問も出て来るのだということの確認が、文法研究においても、出発点であるとともに到達点の一部にならなければならないのである。


6)「下位叙法」の副詞(成分)について
 「下位叙法」の副詞と仮称するものの語例は、前掲のリストにD類としてあげたが、この類については、いまだ分析が十分でない。その下位区分も便宜的なものにとどまる。
 まず、実例をいくつかあげよう。
実は当初予想していたよりかなり悪い状態で、正直なところ、当行としても困っているのです。(シナリオ華麗なる一族)
・あんた、本当はお芝居じゃなくて、うちの座長が好きなんじやない?(シナリオ旅の重さ)
思えば、長い一月あまりだった。(自由学校)
・それは少年たちの心の悲劇を表現した悲しい詩である。いわば少年たちの訴えであり、告白である。(人間の壁)
・方法は容易に見付かるのである。現にアメリカにそのサンプルがあるではないか。(厭がらせの年齢)
 これらは、述語部分だけでは表わしきれない、さまざまな文の叙法性を表わし分けるものである。とはいえ、まったく新たな叙法性をうみだすのではなく、述語によって基本的に定められた叙法の大枠───叙述文(≒平叙文)ないし確認要求文───の中で、その下位種としての 種々の のべたてかた(すなわち「下位叙法」)を表わし分けるものである。
 ここでいう「叙述」の叙法とは、願望や当為の副次叙法をも含む。下位叙法の副詞は、一般に、
   *じつは ─┬─ 君が行きなさい。
   *つまり ─┴─ 一緒に行きましょう。
のように、 <命令・勧誘> の叙法には用いられないが、
   じつは ─┬─ 君が行くべき(なの)だ。/君が行かなくてはいけない(のだ)。
   つまり ─┴─ 一緒に行きたいのです。/一緒に行ってほしいのです。
など、当為・必要や願望・希求の副次叙法を対象化して(「−のだ」と)“のべたてる”叙法には用いられる。これをも含んで <叙述> の叙法と言う。また、
   *じつは ─┬─ あなたはあした出席されますか?
   ?つまり ─┴─ かれはほんとに来てくれるだろうか。
など、基本的・中立的な <質問・疑問> の叙法には用いられないが、
   じつは ─┬─ あなたはあした出席されるんでしょう?
   つまり ─┴─ かれも来てくれるんではありませんか?
のような、一定の答を予期しつつ、同意や確認を相手に求める「質問」文には用いられる。これを <確認要求> の叙法と呼んでおく。

 さて、このように下位叙法の副詞は、おおむね叙述ないし確認要求の述語としか共起しない、という叙法的共起制限をもつ。前節で私は、「共起」と「呼応」は並行する、と言った。また「呼応」はつきつめれば意味的関係だ、とも言った。ならば、この下位叙法副詞の共起制限も呼応ではないか、と問題にしてみる必要があろう。じっさい
    思えば、不幸な生涯でした。
では、過去の「回想」的な叙述法と、
    案の定、来なかった/来ていない。
では、過去・現在の「確認」的な叙述法と呼応している、と見ることも出来るかもしれない。
 問題は、そうした叙法的意味が述語の形式の中に どこまで やきつけられていると見るか、にかかっている。それが「思えば」「案の定」などの副詞と共起する環境において、臨時的な、随意的(facultative)なものとしてあるのだとすれば、呼応ではない。副詞こそがその下位叙法性を決めているのだから。しかし、それが述語の意味としても やきつけられていると見ることができるなら、呼応だということになる。だが、そう見るための形式的根拠があるだろうか。
 「ことによると」という複合的な叙法副詞と、「−かもしれない」という複合的な叙法助動詞とは、おそらく、歴史的に相互に影響を与えながら、挿頭と脚結として、その形式と意味とを定着させてきたのだろう。「間違いなく」と「−にちがいない」など、形が似すぎていて、実際に共起することはまれだろうが、挿頭と脚結との相互関係を考えさせるものとして、象徴的なものではある。叙法副詞と述語の叙法形式とに、こうした相互作用があるのだとすれば、単純な割りきりは つつしまなければならない。じっさい、
   ・思えば、遠くへ来たもんだ
   ・どうせ、負けるにきまっている
   ・所詮、遊びにすぎない
といったような共起の傾向がないわけではない。さらに、先に触れた「じつは」と「つまり」など、一般化して <うちあけ> と <まとめ(はしょり)> とアダ名しておいた類は、「−のだ」と共起する例が半数近い。この「用言+ノダ」に、本来的な判断文述語である「体言+ダ」をあわせて、 <説明> の叙法を表わす形式と見なせるのなら、もはや呼応と言うべきかもしれない。「D下位叙法の副詞」は「B認識的叙法の副詞」へと連続する、と まずは 考えられる。それにもかかわらず、B'とせず Dとして一類をたてたのは、そうした形式の見出しがたい語が、少なくないからである。形式を見出さぬまま、述語に文の叙法性を読みこんでしまっては、誤まった述語絶対主義に陥って、いわば すべては述語が表しているということになり、文の部分間の "相関関係"や"相互作用" を見落とし、構文関係に単純な "主従関係" しか見られなくなるからである。

 以上、いくつかの叙法副詞の具体的な記述を通して、その記述方法について考えてきた。そのようにした理由は、副詞の体系的な分類が 完成には ほど遠いからであった。叙法副詞は、述語の叙法性と「一対一」的な呼応をするものではなかった。とすれば当然、述語の叙法体系とは別の、副詞なりの体系があるはずである。2.3.節の「一覧」──分類とは言えぬ一覧──は、残念ながら その独自性を十分には映し出せていないのである。今後の研究に期待すべきところは大きい といわねばならない。

 残り少なくなった紙幅で、このほかの副詞と「文の陳述的なタイプ」との関係を、粗々 見ていくことにしよう。

7)その他の副詞と文の陳述的なタイプ

7.1. 評価副詞(成分)

7.1.1. 次のように、
    ・さいわいあの人が来てくれた。
    ・あいにく主人は外出しております。
    ・意外にも女性が多く集まった。
    ・かれは、感心によく働く。
    ・かれは、親切にも道をていねいに教えてくれた。
文頭または主題の直後に位置して「文の叙述内容に対する話し手の評価を表わす」語句を、文の「評価成分」と言うが、これらも、
     *さいわい君が来てくれ。。
     *あいにく外出しないで下さい。
     *ぼくたちも、感心に働きましょう。
などと、命令文や勧誘文に用いることはない。
    ・君はあした、あいにく都合が悪いんだったっけね。
    ・彼はあした、さいわい時間があいているんだね。
のように「念押し」的に確認を求める疑問文に用いられることはあっても、
     ?君はあした、あいにく都合が悪いですか。
     ?彼はあした、さいわい出席できますか。
などと、なんの「前提」も「含み」もなく質問するのは、やはり不自然であろう。
 このように、評価成分に陳述的なタイプと共起制限があるのは、評価を下すためには、その対象が実現している(さいわい晴れタ/テイル)か、少なくとも実現が予定されている(さいわい晴れソウダ)必要があるからだと考えられる。つまり、評価という陳述性が、評価対象として ことがらの <実現>ないし<予定> を求めるために、未実現のことがらを要求する命令・勧誘や、未確認のことがらに対する中立的質問といった叙法と なじまないのである。
 下位叙法を含めた叙法副詞が、述語の叙法との間に、相似た性質どうしの「呼応」とか「相互規定」といった相関的な関係をもつために 共起制限が生じるのに対して、評価成分の場合は、いわば、みずからの住む環境(住まい)を選ぶために 共起制限が生じるのだ、といった違いがあるだろう。

7.1.2. ここでいう評価成分とは、機能的には「文の叙述内容に対する」もの、つまり対立するもの、独立するものであって、一次的には叙述内容を詳しくするものではない。次のように、意味的には評価を表すといえるものでも、行為や出来事のあり方を限定するものは、ここでいう「評価成分」ではない。
     太郎は 上手に 歌を歌った。
     ご飯が おいしく 炊けた。
これらは、文の叙述内容としての、行為(中)の様態や、出来事の(成立後の)状態を、価値の側面から限定するものであり、叙述内容の内部にあってそれを詳しくする(情態副詞に似た)修飾成分である。そのため、これらは、
     太郎、上手に 歌を歌え/歌おうよ/歌ったか
     ご飯が おいしく 炊けない/炊けたらなあ/炊けたか
など、種々の叙法性をもつ文に自由に用いられ、「文の陳述的なタイプ」に基本的に制限がないのである。
 また、「さいわい(に)」「感心に」の場合は、「さいわいにも」「感心にも」と「も」がついてもつかなくても、大した機能の違いはないが、「親切にも」の場合は「も」がつくかつかないかで大きな違いがでる。
     太郎は、親切にも、地図を書いて道順を教えてくれた。
     太郎は、地図を書いて、道順を親切に教えてくれた。
の場合では、主題の直後に位置する「親切にも」の方は、行為自体は限定しておらず、太郎の行為に対する評価用法と見られるわけだが、動詞の直前に位置する「親切に」の方は、「やさしく、ていねいに」といったような意味の方向にずれており、行為の様態を限定する修飾用法と見られる。そして、次のように「親切にも」は命令文に用いられないが、「親切に」の方は用いられる。
     *太郎、親切にも、地図を書いて道順を教えてあげなさい。
     太郎、地図を書いて、道順を親切に教えてあげなさい。
 「も」はつかないが、語順が主題の直後に位置し、読点のついた(話しことばでは、小休止のおかれた)場合、
     太郎は、親切に、地図を書いて道順を教えてくれた。
のような例は、どう考えたらいいだろうか。「も」の果たす役割、語順および読点や小休止の果たす役割と(両者の関係と)について、いろいろと考えてみてください。

7.1.3. ここで、評価成分の〈代表的な型〉と〈代表的な語例〉を一覧しておく。
[  ]に括った例は、境界事例として問題になる例である。

 a)「−φ」形式:「−も」不要 評価用法のみ
  コト:あいにく(ト) さいわい(ニ、ニモ、ニシテ) 不幸にして(ニモ) [あたら めでたく]
     運悪く 運よく 折悪しく 折よく / 不運に 幸運に [さすが(ニ・ハ)]
       [ちょうど 都合よく いい按配に いい具合に  (動作修飾へ)]
     珍しく 不思議に(ト、ヤ) 奇妙に    [妙に 変に  (状態修飾へ)]
  ヒト:かわいそうに 気の毒に 感心に 生意気に 物好きに お節介に

 b)「−も」形式
 b1)形態が固定的なもの
    奇しくも いみじくも はしなくも ゆくりなくも はからずも
       [早くも(時へ) / 辛くも 脆くも 心ならずも(動作修飾へ)]
       [よくも 曲がりなりにも / いやしくも 仮にも(叙法副詞へ)]
 b2)修飾用法が稀で、ほぼ評価用法専用 (「内容」の連用用法はある)
  コト:残念にも 惜しくも 不本意にも 無念にも 心外にも 
  ヒト:奇特にも 卑怯にも 非常識にも 不覚にも 無能にも 
 b3)評価用法「−も」 ⇔ 修飾用法「−φ」 両用型
  コト:うれしくも 悲しくも なつかしくも 情けなくも 愉快にも 不愉快にも
     不当にも 空しくも 皮肉にも / 意外にも[案外(ニ) (程度・叙法へ)]
  ヒト:大胆にも 不用意にも うかつにも 親切にも けなげにも 頑固にも

 c)「−ことに(は)」  
  形容詞:うれしいことに 悲しいことに 不思議なことに 気の毒なことに
  動 詞:驚いたことに 困ったことに 馬鹿げたことに びっくりしたことに

 d)「−(もの)で」
    変なもので 妙なもので 正直なもので 意地の悪いもので / 案に相違で

 e)「−ながら」
    残念ながら 遺憾ながら はばかりながら 失礼ながら 不本意ながら
    当然のことながら 簡単なことながら ばかばかしいことながら
 f)その他、前置き節・挿入句など
    恥かしい話ですが  まことに残念ですが  / 事もあろうに
    あに図らんや  果せるかな  悲しいかな  やんぬるかな


 一覧の最後の、逆接ないし前置きの形のe)とf)は、次のように意志表示文や依頼文にも用いうる点で、a)b)c)の代表的な評価成分と異なる。この点を以て、e)とf)を評価成分からはずし、「注釈成分」という別の部類とする考えもあり得るが、ここではこれ以上深入りしないことにする。
 e) まことに残念ながら、    お断わりします/断ってください。
 f) まことに残念ですが、    お断わりします/断ってください。
 b) *まことに残念にも、     お断わりします/断ってください。
 c) *まことに残念なことに、   お断わりします/断ってください。

 f) あいにくですが、      お断わりします/断ってください。
 a) *あいにく(にも)、      お断わりします/断ってください。
 c) *あいにくなことに、     お断わりします/断ってください。

 最後に、品詞論的処理について一言するなら、形態的に固定しているb1)と、その形での用法が評価専用であるa)は、品詞としても「評価副詞」としてよいだろう。b2)は「−に思う」のような内容の連用用法を別扱いしてよければ、評価副詞に含ませうる。b3)は、形容詞と扱うべきだろう。c〜f)は、もちろん単語としての副詞ではない。


7.2. 評価的な程度副詞
 次のような程度副詞にも、同様の共起制限が認められるが、
    ?非常にはやく走りなさい
    *たいぶたくさん作ってください
    *とてもゆっくり歩きませんか
    *なかなかじょうずに書こう
これも、程度性の裏面に潜む評価性のためと考えられる。
   ・もっと正直に言ってみたまえ。(人間の壁)
   ・こう良人を、何とかして理解し、何とかしてもっと好きになろうと、
    努力もしてみたつもりだった。(人間の壁)
   ・すみませんが、もう少し後にして頂けないでしょうか。(人間の壁)
   ・もう少しましなことを考えたらどう?(シナリオ津軽じょんがら節)
のような「累加性」の程度副詞は、命令や決意や勧誘の叙法にもよく用いられるし、
   ・ボリュームをちょっと大きくして下さい
   ・ジャケットの袖口をすこし短くしてみましょう
のような、評価性が薄く数量性の濃い(量副詞に隣接する)程度副詞も、比較的自由である。
 また、程度副詞の場合は、「累加性」のものなど一部を除いて、もともと <静的> な性質や状態を表す形容詞を限定するという基本性格のために、命令等の <動的> な陳述的なタイプとなじみにくい、という意味的な要因も関係しているだろう。ただ、そうした意味的要因だけなら、情態副詞を限定する用法に立って、
    ・けっこう堂々と自分の意見を述べた。
のように、叙述文では言えるのに、
     *けっこう堂々と自分の意見を述べなさい。
のように、命令文で言えないのはなぜか、説明がつかないだろう。程度副詞の「程度」は、単なる <状態量> ではないのである。深入りできないが、程度副詞は、一方で評価副詞に接し、他方で数量副詞や数量名詞(数詞)に接する、なかなか複雑な語群なのである。


7.3. とりたて副詞
 とりたて副詞の「文の陳述的なタイプ」との照応は、類全体として一定の性格をもつと言うよりは、個々の副詞の「とりたて」方に従って、相性のいい「陳述的なタイプ」がおおよそ決まっているという感じである。これは、基本的には「とりたて」が、文中の語句の取り扱い方を規定するという点で、述語を中核として定まる文の陳述的タイプから見れば、階層のレベルが一段下の、二次的な位置を占めるためかと考えられる。
・私は何千万といる日本人のうちで、ただ貴方だけに、私の過去を物語りたいのです。(こころ)
・彼は今単に一つの交渉を持つて来ただけの話であつた。(闘牛)
・どうやら彼は専らこの作業のため、こゝヘ来てゐるらしい。(野火)
・今回のことは、ひとえに家庭教師であった私の教育の至らなさでございます。(シナリオ華麗なる一族)
のように用いられる <排他的限定> の「ただ・単に・もっぱら・ひとえに」や
・この莫大なる力の源泉は、正に第五階級の知性の中にこそある。(原子党宣言)
・貴女の犯罪の出発は正しく愛の欠乏から起きたものと判断します。(シナリオ約東)
・いま日本の教育に課せられている問題は、ほかでもなく、この土台の切り替えをふくんでいるのである。(ものの見方について)
のように用いられる <選択指定> の「まさに・まさしく・ほかでもなく」は、ほぼ叙述文専用と言っていいだろう。ただし、「ただ」と「もっぱら」は、
    ・いまはただ自分のことだけを考えていなさい。
    ・しばらくの間、もっぱら調査に従事していて下さい。
など、命令・依頼文にも使用可能かと思われる。

 「近代語データベース」によれば、「もっぱら」の場合は、全449例(もっぱら|専ら)のうち、命令文に用いられたのは、
・マラルメ、ヴェルレエヌの名家これに観る処ありて、清新の機運を促成し、終に象徴を唱へ、自由詩形を説けり。訳者は今の日本詩壇に対て、専らこれに則れと云ふ者にあらず、素性の然らしむる処か、訳者の同情は寧ろ高踏派の上に在り、はたまたダンヌンチオ、オオバネルの詩に注げり。(上田敏「訳詩集」)
・「もっぱら、道三の領内の野を焼き、村を掠め、青田を刈れ。道三の軍が出てきたら、いっさい戦わずにさっさと城に逃げこめ」(「国盗り物語」)
といった文語調のもののみであった。口語文体では、
・エリツィン氏は、ユーゴ問題はもっぱら政治的手段で国連などを通じて解決すべきだという。その声を強めるために必要なのは、遠回りではあっても、やはりロシアの政治的、経済的安定である。(9904朝日社説)
という当為の副次叙法のものが1例あっただけである。

・「禁止」"verboten"は、ドイツの秩序を守るためのドイツ人得意の言葉で、それは特にナチスの天下で横行していた。(ものの見方について)
・人間の子供を教育するには、それだけの手数をかけなくてはならないのだ。殊に小学校の六年間、人間の基礎をかたちづくる一番大切な期間である。(人間の壁)
・謙作と石本とは以前からもよく知つてはいたが、取り分けその時から親しくするようになつた。(暗夜行路)
・「鍋わり」と人人の呼んで居た渕は、わけても彼の気に入つて居た。(田園の憂鬱)
・私は元来動物好きで、就中大好だから、……… (平凡)
のように用いられる <特立> の「とくに・ことに・とりわけ・わけても・なかんずく」や
・この作品を論じたのは、主にコンミュニズムに近い立場を持つている文芸批評家たちであつた。(火の鳥)
・重役陣や製作陣の御助力を得て、主として財政的な方面で力を洋ぎたい、というような語を彼はした。(火の鳥)
のように用いられる <おもだて> の「おもに・主として」
・だから、骨董という代わりに、たとえば古美術などといってみるのだが、これは文字通り臭いものに蓋だ。(私の人生観)
のように用いられる <例示> の「たとえば」など、名詞句の取り上げ方とでもいった(文の二次的間接成分的な)用法のものは、命令文等にも比較的自由に用いられるだろう。
・仕事は、才能よりむしろ忍耐力で進めて行くものでね。(シナリオ砂の器)
・学会の中心は、君は別だが、どちらかといえばぼくら経清人グループより、教育者のほうが多かった。(シナリオ人間革命)
いっそ碗は、生涯を幽居に暮した方がよかったかもしれぬ。(シナリオ婉という女)
のように用いられる <比較選択> の「むしろ・どちらかといえば・いっそ」や
・ばかに若くみえるね。少くともハワイあたりから帰つて来た手品師くらゐには踏めますぜ。(あらくれ)
せめて母上だけには、米のお粥をあげたいが……(シナリオ婉という女)
せいぜい牛相撲ぐらゐの時代なのだ、いまは。  (闘牛)
のように用いられる <見積り方> の「少なくとも・せめて・せいぜい」など、他の語句や事態との比較・対比性の強いものも、動的な命令や願望の叙法にも用いられるだろう。というより「いっそ」や「せめて」の場合は、<事態実現の期待> とでもいった叙法性の文に限られ、単純な事実報告的な叙述文には用いられない。
 それに対して、
・自由党の名士だつて左程偉くもない。況や学校の先生なんぞは只の学者だ。(平凡)
・告白──それは同じ新平民の先輩にすら躊躇したことで、まして社会の人に自分の素性をさらけださうなどとは、今日迄思ひもよらなかつた思想なのである。(破戒)
のように用いられて、類推的に <価値の軽重> を問う「いわんや、まして」や
・わが国体の尊厳は、たかだかエチオピア国体の尊厳と同一レベルだということになる。(革命期における思惟の基準)
たかが博打くらいで、そうそう長いことぶち込まれとってたまるかよ。(シナリオ旅の重さ)
のように用いられる <評価> 的な とりたての「たかだか・たかが」になると、先の(ことがらや行為に対する)評価副詞と同様に、命令等の叙法には用いられず、ほぼ叙述文専用である。

7.4. その他の副詞
 以上のほか、例えば <過去> を表す副詞や <無意図> を表す副詞が、
     *かつて/さっき 出かけなさい。
     *つい/ふと いやなことは忘れてしまいなさい。
などと 命令文に用いることはできないことは、もはや 言わずもがなであろうか。これら、時の副詞や無意図性の副詞に、命令・依頼文等に用いられないという性格をもつものがあるのは、過去や現在の「確定性」や「無意図性」が、命令・依頼文等の叙法となじまないためであり、「文の陳述的なタイプ」との照応ということは、これらの副詞にとっては 二次的な(結果的な)ことがらに属すると見てよいと思われる。(cf. 宮島達夫1983)
 だが、「もう」と「すでに」、「まだ」と「いまだ(に)」、「たまに」と「まれに」などの類義的な副詞が、

    ・も う 家に帰りなさい。
     *すでに 家に帰りなさい。

    ・ま   だ 残っていなさい。
     *いまだ(に) 残っていなさい。

    ・たまには 遊びに連れていってやれよ。
     *まれには 遊びに連れていってやれよ。

    ・すぐに/ただちに 行って下さい。
     *まもなく/じきに 行って下さい。

のように、命令文や依頼文に使えるものと 使えないものとに 分かれることは、どう考えたらいいであろうか。共通しているのは、言えない方の多くが 文体的に 文章語的であることだが、文章語が命令の叙法になじみにくい と言っていいかどうか。少なくとも それだけではあるまい。評価副詞と程度副詞のところで言ったような、確定事態に対する評価性とか、事態の動態性か静態性か、といったことも関係しているだろうか。あるいは、これらの副詞のもつ時間性──アスペクト性や相対的テンス性や動作様態(局面)性 あるいは 頻度性や間隔性など──自体に、なにか違いがあるのであろうか。このあたり、テンス・アスペクト研究者に意見を聞きたいところである。
 このあたりの問題は、他の研究の補強材料として、副詞を部分的に、いわば「つまみ食い」的に利用しているかぎりは、おそらく どうにもならないであろう。今後の、若い人たちの活躍に期待するところは、きわめて大きいと言いたい。


8)おわりに──副詞の品詞論上の位置──

 先に1.1.4.節で見たように、副詞は一般に他品詞から転成したものが多いが、本章で重点的に触れてきた「陳述的」な副詞の場合、「じつは・本当は・要は」とか「要するに・思うに・考えてみるに」とか「実を言えば・言ってみれば/どちらかと言えば/どうしても・なんといっても」とか「実のところ・早い話(が)/妙なもので」といった、形態上、単位性が問題になるものが、かなり多い。このことをめぐって三つのことを指摘して、本章のしめくくりとしたい。

 まず確認しておきたいことは、これらは単位性に問題があるとはいえ、なんらかの程度に一語化ないし慣用句化[語彙化(lexicalization)]したものであるということである。それには、語形変化の退化、格支配・被修飾性の喪失、それに使用量といった形式的な裏付けが、それなりの程度に指摘できる。
 ex) *実を言う。   *実を言わない。   *実を言え。
    *私がつくづく思えば、遠くへ来たもんだ。 cf)今にして思えば
    ?非常に厳密には、これは副詞ではない。  cf)非常に厳密に言えば

 第二に、これらが慣用句(的なもの)としてあるということは、裏を返せば、その母体として、もっと自由な組合せのものがあるということである。
・僕は……まあ、結論から言いますと、いまの沢田先生の御提案には、急には賛成しかねると思うんです。(人間の壁)
極端ないい方ですが、日本の軍隊のなかに道徳はなかったと私は思います。(人間の壁)
・これは公文書であるから煩瑣なかわり詳細克明に事実を伝えているように見えるかも知れないが、よく読んでみると、これまで私が記したことと少しちがっている部分がある。どちらが誤りかというと、奇妙な話だが公式の死体検案記録の方が誤りなのであって、田淵義三郎自身がそのことを証言している。(山本五十六)
などの「前置き」的「注釈」的な従属節がその例だろう。下位叙法や評価の副詞とは、その無限の母体の中から、なんらかの必要があって、複合副詞へと凝結し、定着しつつあるものなのだろう。こうした、母体としての従属節と、凝結・定着としての副詞という関係は、このほか、
  頼むから・お願いだから、悪いけど・よかったら
などが、「なんなら・できれば」ほどではないが慣用句的なものとして、行為系の叙法副詞「どうぞ」類へと連なり、
・朦朧と硝子の面に映る自分の顔の赤さを撫で廻しながら、然し瀬川はまた言葉を続けて、「……全然冗談と云うわけでもないが……。もし四五日のうちに……勿論態々でなくってもいいんだが、ひょっとして信さんに遇いでもしたら、一遍話しといてくれないか。正月早々からあんまりだらしのない話だけれど、実際ここんとこ、ちょっと手詰ってるんだから……」(「多情仏心」)
・「何しろ甲斐は利口な奴だからな。下手をして此方の不利を先方に握らすような事をしては大変だから、――然しどうしたら君の夜逃げが最も自然に見えるかな」(志賀直哉「赤西蠣太」)
・「私が毎日々々店頭を散歩しているうちにとうとうこの霊異な音を三度ききました。三度目にどうあってもこれは買わなければならないと決心しました。仮令国のものから譴責されても、他県のものから軽蔑されても――よし鉄拳制裁の為めに絶息しても――まかり間違って退校の処分を受けても――、こればかりは買わずにいられないと思いました」(夏目漱石「吾輩は猫である」)
などが、条件系の叙法副詞「もし」類に彩りを添えているだろう。
 こうして、陳述副詞は全体として、前置き的・注釈的な従属節を母体とする品詞だ、ということになるだろう。【川端善明は、副詞を「語的形態の中に句的体制をもつ」ものとする興味深い考えを説いているが、具体的には以上のような脈絡の中で、私なりにこの考えを理解することができる。】

 最後、第三点。陳述副詞が、他のことがら的な成分からは切り離された、独立語的、遊離語的な機能を果たすことは、すでに指摘されているところだが、いまそれに関連して
・このvisionという言葉は面倒な言葉です。生理学的には視力という意味だし、常識的には夢幻という意味だが、………〈下略〉(私の人生観)
厳密には、これは病気ではない。(新聞記事)
の如く、助詞「は」を伴い、語順も文頭(節頭)に位置して独立化する、27)「観点〜側面」の下位叙法副詞があったことを思い出していただきたい。この「生理学的には」「厳密には」などは、「観点」と見なせば 叙法的だが、ことがらの「領域・側面」と見なせば ことがら的───成分的には、状況語や側面語───だといった性格をもつ 二側面的な存在である。それだけに、陳述副詞化の第一歩が、文構造的には、修飾語や状況語といったことがら成分の <独立化>[露obosoblenie, 英absolutization(?)] にあるのではないかと思わせる。
 ほとんど同じことが、先にも触れた、

    親切にも:行為評価 ── 親切に(教える) :評価的行為様態
    意外にも:事柄評価 ── 意外に(大きい) :状態評価〜評価的程度
    奇妙にも:事柄評価 ── 奇妙に(気になる):評価的現象様態

のような、「も」のありなしによって、評価成分になったり別の成分になったりする事例にも言えるし、また、

        陳述的        |   状態〜数量・程度的
    ───────────────┼─────────────────
    ・じっさい、………だ     |   実際に 調べてみる
    ・たぶん、………だろう    |   多分に おほめをいただく
    ・格別、………でもない    |   格別に 愛着を示した
    ・あまり、………ではない   |   あまりに………なので(すぎる)

のように、語尾「に」を消失して叙法副詞化するものも、同様の事例と言っていいだろう。

 こうして、陳述副詞の機能の一般化として、ことがら的な <修飾語> とは区別して、感動詞や接続詞とともに <独立語> とする考え方が出て来る。ただし、述語の陳述的なタイプとの照応を重視すれば <陳述語> を、一つの成分として、あるいは独立語の下位類として立てることになるだろう。
 そして、ことがら的な <修飾語> として働くいわゆる「情態副詞」の大半は、用言へ「(不完全)形容詞」として送り返すことになるのではないか。それは、「形容詞」の側の、<性質>や<状態>や<様態>といった <静態>性の「意味の体系性」にとっても、むしろ好ましいことではないだろうか。【補記:「のんきに/な」と「のんびり(と)」、「せわしなく/い」と「せかせか(と)」などの類義関係や、「いそいで・あわてて」と「ゆっくり・ゆったり(と)」などの反義関係などの意味体系を扱うためには、実際問題として、情態副詞を用言の仲間として扱う必要がある、ということである。cf. 西尾寅弥1972。】
 いよいよ「ハキダメ」からの逆襲が始まろうとしている。しかし、確実な結論を出すためには、さらなる検討がもちろん必要である。


[付記] この第3章は、巻末の参考文献欄に示した工藤の旧稿のいくつかを、あるいは 部分的に書き改め、あるいは 要約し、あるいは 書き足して、一般向けに まとめなおしたものであることをお断りしておきます。


■参考文献■

内田 賢徳1975「形式副詞」(『国語国文』44-12)
大槻 文彦1897『廣日本文典』(自家蔵版)
奥津敬一郎1975「程度の形式副詞」(『都大論究』12)
川端 善明1964「時の副詞(上)(下)」(『国語国文』33-11・12)
─────1983「副詞の条件」(『副用語の研究』明治書院)
金田一京助1941『新国文法』(武蔵野書院)
金田一春彦1953「不変化助動詞の本質1・2」(『国語国文』22−2・3)
工 藤  浩1977「限定副詞の機能」(『国語学と国語史』 明治書院)
─────1982「叙法副詞の意味と機能」(国語研『研究報告集(3)』 秀英出版)
─────1983「程度副詞をめぐって」(『副用語の研究』 明治書院)
─────1985「日本語の文の時間表現」(『言語生活』No.403)
─────1989「現代日本語の文の叙法性 序章」(『東京外国語大学論集』39)
─────1996「どうしても考」(鈴木・角田編『日本語文法の諸問題』 ひつじ書房)
─────1997「評価成分をめぐって」(川端・仁田編『日本語文法 ── 体系と方法』 ひつじ書房)
河野 六郎1989「日本語の特質」(『言語学大辞典 2』「日本語」の項 三省堂)
杉山 栄一1956「副詞の境界線」(『国語学』24集)
鈴木 一彦1959「副詞の整理」(『国語と国文学』36-12)
鈴木 重幸1972『日本語文法・形態論』(むぎ書房)
高橋太郎・屋久茂子1984「<〜が ある>の用法」(国語研『研究報告集(5)』秀英出版)
時枝 誠記1941『国語学原論』(岩波書店)
─────1950『日本文法 口語篇』(岩波全書)
西尾 寅弥1972『形容詞の意味・用法の記述的研究』(国語研報告44 秀英出版)
芳 賀  綏1954「“陳述”とは何もの?」(『国語国文』23-4)
橋本 進吉1935「国語の形容動詞について」(同1948『国語法研究』所収 岩波書店)
─────1929「日本文法論」(同1959『国文法体系論』所収 岩波書店)
松下大三郎1928『改撰標準日本文法』(中文館)
三 尾  砂1942『話し言葉の文法 言葉遣篇』(帝国教育会。1995復刊 くろしお出版)
─────1948『国語法文章論』(三省堂)
三 上  章1953『現代語法序説』(刀江書院 1972増補復刊 くろしお出版)
水谷 静夫1957「日本語の品詞分類」(『現代国語学 II』筑摩書房)
南 不二男1964「述語文の構造」(国学院大『国語研究』18)
─────1967「文の意味について 二三のおぼえがき」(国学院大『国語研究』24)
─────1974『現代日本語の構造』(大修館)
─────1993『現代日本語文法の輪郭』(大修館)
宮島 達夫1972『動詞の意味・用法の記述的研究』(国語研報告43 秀英出版)
─────1983「状態副詞と陳述」(『副用語の研究』明治書院)
森 重  敏1959『日本文法通論』(風間書房)
─────1965『日本文法──主語と述語──』(武蔵野書院)
山田 孝雄1908『日本文法論』(宝文館)
吉沢 義則1932「所謂形容動詞に就いて」(『国語国文』2-1)
渡 辺  実1949「陳述副詞の機能」(『国語国文』18-1)
─────1953「叙述と陳述──述語文節の構造──」(『国語学』13/14 )
─────1957「品詞論の諸問題──副用語・付属語─」(日本文法講座1 明治書院)
─────1971『国語構文論』(塙書房) 

なお、明治より前の文献は、『玉の緒繰分』以外は 次に翻刻されている。
福井久蔵(編)『国語学大系』全10巻 (復刻版 国書刊行会)のうち
      「語法総記」1・2, 「手爾波」1・2
東条義門『玉の緒繰分』は、次に翻刻されている。
三木幸信(編)『義門研究資料集成(中)』(風間書房)

Bu¨hler, Karl (1934, 1965[2]) Sprachtheorie. Gustav Fischer Verlag, Stuttgart.
  脇阪 豊 他 訳 1983-5『言語理論(上・下)』(クロノス)
Greenbaum, S.(1969) Studies in English Adverbial Usage. Longmans. London.
  郡司・鈴木 監訳 1983『英語副詞の用法』(研究社)
Halliday, M.A.K.(1970) "Functional Diversity in Language as seen from a Consideration of Modality and Mood in English" Foundations of Language 6
Jakobson, Roman (1963) Essais de linguistique ge'ne'rale.
  川本 茂雄 監訳『一般言語学』(みすず書房)
Jespersen, Otto (1924) The Philosophy of Grammar. George Allen & Unwin. London.
  半田 一郎 訳 1958『文法の原理』(岩波書店) 
Lyons, John (1977) Semantics. vol.2. Cambridge Univ.P.
Mathesius, Vile'm (1975) A Functional Analysis of Present Day English on a General Linguistic Basis. [J.Vachk ed.] Mouton, The Hague. 【チェコ版は(1961)】
  飯島 周 訳 1981『機能言語学』(桐原書店)
Panfilov,V.Z.(1971) Vzaimootnoshenie jazyka i myshleniya.(言語と思惟との相互関係) Nauka. Moskva.
────── (1977) "Kategorija modal'nosti i ejo rol' v konstituirovanii struktury predlozhenija i suzhenija" (叙法性のカテゴリーの、文構造と判断構造との組み立てにおける役割」(『言語学の諸問題』'77-4 )
Sweet, Henry (1891) A New English Grammar. Part I. Oxford Univ.P. London.
  半田 一吉 抄訳 1980『新英文法─序説』(南雲堂)
TLP 2(1966) Travaux linguisitiques de Prague. 2. Les proble`mes du centre et de la pe'riphe'rie du syste`me de la langue. Academia. Prague.
Vinogradov,V.V.(1950) "O kategorii modal'nosti i modal'nykh slavakh v russkom jazyke."(ロシア語の叙法性のカテゴリーと叙法(副)詞について)
─────── (1955) "Osnovnye voprosy sintaksisa predlozhenija"(文のシンタクス(構文論)における基本的な諸問題)[どちらも、1975年の『ロシア語文法 著作集』ナウカ社、モスクワに所収]


■資料一覧 (国語研カードシステム)■
 (詳しくは『国立国語研究所年報』16〜18、 27を参照されたい)

T 文学作品
 国木田独歩1898『武蔵野』
 泉 鏡 花1900『高野聖』
 伊藤左千夫1906『野菊の墓』
 島崎 藤村1906『破戒』
 田山 花袋1907『蒲団』
 二葉亭四迷1907『平凡』
 森 鴎 外1913『阿部一族』
 有島 武郎1913『或る女』
 鈴木三重吉1913『桑の実』
 夏目 漱石1914『こころ』
 徳田 秋声1915『あらくれ』
 芥川龍之介1915『羅生門』
 久保田万太郎1917『末枯れ』
 佐藤春夫1918『田園の憂欝』
 菊 地 寛1919『恩讐の彼方に』
 武者小路実篤1919『友情』
 志賀 直哉1921『暗夜行路』
 長与 善郎1922『青銅の基督』
 正宗 白鳥1923『生まざりしならば』
 里 見 トン1923『多情仏心』        ※トン=(弘+淳)補助漢字2877
 宇野 浩二1923『子を貸し屋』
 宮本百合子1926『伸子』
 宮沢 賢治1927『銀河鉄道の夜』
 小林多喜二1929『蟹工船』
 横光 利一1930『機械』
 野上弥生子1930『真知子』
 永井 荷風1931『つゆのあとさき』
 谷崎潤一郎1933『春琴抄』
 尾崎 一雄1933『暢気眼鏡』
 室生 犀星1934『あにいもうと』
 佐多 稲子1936『くれない』
 阿部 知二1936『冬の宿』
 高 見 順1936『故旧忘れ得べき』
 川端 康成1937『雪国』
 島木 健作1937『生活の探究』
 中山 義秀1938『厚物咲』
 堀 辰 雄1938『風立ちぬ』
 火野 葦平1938『麦と兵隊』
 船橋 聖一1938『木石』
 岡本かの子1939『河明かり』
 太 宰 治1939『富嶽百景』
 丹羽 文雄1947『厭がらせの年齢』
 井 上 靖1949『闘牛』
 伊 藤 整1949『火の鳥』
 獅子 文六1950『自由学校』
 井伏 鱒二1950『本日休診』
 大岡 昇平1951『野火』
 野 間 宏1952『真空地帯』
 三島由紀夫1954『潮騒』
 石原慎太郎1955『太陽の季節』
 円地 文子1957『女坂』
 石川 達三1959『人間の壁』

U 科学説明文・論説文など
 小林 秀雄1934-51『私の人生観』
 笠 信太郎1950『ものの見方について』

(以下『現代日本思想大系25・科学の思想T』から)
 長岡半太郎1936「総長就業と廃業」
 武谷 三男1947「革命期における思惟の基準」
 湯川 秀樹1948「物質世界の客観性について」
 渡 辺 彗1948「原子党宣言」

(以下『現代の教養6・学問の前線』から)
 石田英一郎1965「抵抗の科学」
 藤森 栄一1965「旧石器の狩人」

V 映画シナリオ
 『年鑑代表シナリオ集』1971〜74年版(ダヴィッド社)から以下の作品
 71:やさしい日本人
   水俣──患者さんとその世界
   婉という女
   女生きてます
   八月の濡れた砂
   遊び
   男はつらいよ──寅次郎恋歌
 72:約束
   忍ぶ川
   女囚七〇一号──さそり
   旅の重さ
 73:戒厳令
   人間革命
   時計は生きていた
   狭山の黒い雨
   津軽じょんがら節
   日本沈没
 74:華麗なる一族
   極私的エロス・恋歌1974
   妹
   わが道
   砂の器
   宵待草
   田園に死す


■電子化資料 一覧■

「近代語データベース」
   以下の CD-ROM版所収作品を テクストファイル化したものである。

    『CD-ROM版 新潮文庫の100冊』
    『CD-ROM版 新潮文庫 明治の文豪』
    『CD-ROM版 新潮文庫 大正の文豪』
        【以上三点に含まれる重複作品は調整済み】

    『CD-ROM版 毎日新聞 '95』(全紙面)
    『CD-ROM版 朝日新聞──天声人語・社説('85〜'89)』
     その他、新聞社のサイトから主要紙面をダウンロードしたもの('97〜'99)


    「青空文庫」のうち、上の新潮文庫版と重複しない作品
    「日本文学(e-text)全集」【以上と重複しない作品】
     その他、インターネット上からダウンロードしたもの
        【以上三点は、統計外の補充資料として用いる】

    『電子資料版 中学高校 国語教科書』
        【重複作品多し。統計外の補充資料として用いる】

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