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特集・これからの日本語教育(『月刊言語』17-9)

外国語学習と日本語教育


工 藤  浩


 この表題は編集部から与えられたものである。「日本語教育」ということばは、現在、「国語教育」と縄張りを分け合うようにして、 <日本語を母語としない人に対する言語教育> のことを、ふつうは意味している。そうだとすると、日本語教育は当然、外国語教育の一つであり、「外国語学習と日本語教育」という、この並列は、はとんど同義反復的であり、気のきかない題名だという事になりそうである。だが、どうやら、そこらあたりに編集部の「たくみ」がかくされているようにも思える。
「外国語学習と日本語教育」という並列に意味を求めるとすれば、一つは、理論的な面で、外国語教育ないし学習についてのこれまでの学問的蓄積に、日本語教育が大いに学ぶ点があるということであろうし、もう一つは、教授法ないし教師の資質という面で、日本語教育にたずさわる人が、自ら外国語学習で苦労したことがあるかどうか、たとえそれが失敗であれ、外国語学習に伴う諸問題を体験しているかどうかで、自分の教える学生に対する教育的配慮が違って来るはずだ、ということであろう。そのどちらの面においても現在の日本語教育は問題をかかえているのではないか、というのが、表題の「ふくみ」になるのであろう。後者については、私が語るとすれば懺悔録にしかならないので、省かせてもらう。

 日本で外国語学習と言う時、大多数の人にとって、それは中学・高校における英語の学習であり、大学に入れば、フランス語、ドイツ語、スペイン語などに対象が広げられるが、それは概して言って、B.L.Whorfのいう「標準的平均的ヨーロッパ語(SAE)」である。こうした英語を中心とした西欧語の外国語学習には、その国の文学や思想や文化を理解することなど、さまざまな目的なり目標なりがあるわけだが、言語学的な面での目標の一つとしては、外国語の語彙・文法の体系を知り、ものの見方・捉え方を学ぶとともに、外国語を通して母語たる日本語を見つめ相対化して捉える姿勢を身につけること、つまり、 <対照> 的なものの見方を身につけること、ということがあげられる。日本語を「国語」として、より豊かに洗練されたものに高めるために学習するのとは別に、外国語学習が、日本語を他の言語の鏡に照らして、相対的、客観的にその性格を見定めるのに役立つならば、日本語の教育と研究にとっても、大きな意味がある。
 なお、ついでに言うなら、国語教育と外国語教育とは密接な連関の中に組織されるべきである。たとえば、英語の母音の体系的な学習は、標準的な日本語(いわゆる標準語)の母音体系と対照される必要があり、日本語の母音体系の認識が先行もしくは並行しなければならない。そしてその認識はまた、母音体系の異なる方言の行われる地域での「国語教育」にも役立てられるはずのものである。

 日本語と、西欧語とりわけ英語との対照研究には、すでに少なからぬ蓄積がある。それがどれだけ日本の外国語教育に役立てられているか、さだかには知らないが、私の学生だった頃は「習うより慣れろ」「理屈を言うより丸暗記」であったのに比べて、中学生の息子を通して知れる限りでも、現在ではかなり工夫が凝らされているように見受けられる。
 たとえば、英語の "I" "you" のような話し手・聞き手を端的に表示する「人称代名詞」と違って、日本語では話し相手によって、自分のことを「わたくし、わたし、ぼく、おれ」とか、相手のことを「あなた、きみ、おまえ」とか言い分けなければならず、かなり性格が異なる;さらに、目上には最も敬意の高い「あなた」も使えず、「先生、部長、お客様」など、別の職階などを表わす名詞を用いなくてはならない点でも、日本語の人間関係の表わし方と英語のそれとは根本的に異なる;というようなたぐいのことを、得意げに話す息子を見ていて、英語教育も変わったもんだと、今昔の感を深くする。
 かつて、英語・ドイツ語・フランス語などの大言語との「対照」において照らし出されて来たことは、「日本語は非論理的だ」などという主張に典型的にあらわれていたように、日本語・日本文化の劣等感の表明であるか、そうでなくとも、日本語の異質性・特異性の強調にすぎない場合が多かった。たとえば、「主語が <省略> される事が多く、場面によりかからなくては文意が明瞭でない」とか、「述語が文末にあるため、文末になるまで文意が明瞭でなくて不便だ」とか、「英語のようなきちんとしたテンス・時間表現がなく、スルとシタとが簡単に交代してしまう」とか、「日本語の受身は、自動詞からも作れる(雨に降られる)し、他動詞でも非情・無生物の受身は自由には作れないし、多く迷惑の含みがぬぐいきれない点で、特異だ」など、など。
 この一昔前の「劣等感」は、日本が「経済大国」になるにつれ、「日本(語)らしさ」の見直しという、優越感と劣等感とがないまぜになった、文字通りのコンプレックスとなったようにも見えるが、この際大事なことは、双方の言語の <体系どうし> を比較対照するということである。アメリカのE.SapirやB.L.Whorfが力説したように、平均的西欧語のカテゴリーを基準として、それに引き当てて他の言語を分析あるいは分断すべきではない。このことは、語彙体系のような比較的ゆるい「開いた」体系の場合は、問題がそれほど深刻でないせいか、かなり成果をあげて来たように思われる。

 では、文法の面ではどうであったろうか。日本語のいわゆる「主語論争」は、主語と述語との間に <数や人称(や性)の呼応・一致> の見られる西欧語に対し、それと同じ意味での「主語」は日本語にはない、というあまりにも自明なことに端を発している。通説的日本語文法が、翻訳文法として十分な吟味もへずに、主語・述語の存在を文の定義に用いていたことに対して、それは十分正当な批判であり得たし、さらには日本語では、「が、を、に」などの格関係とは別に、助詞「は」による <題目−叙述> 関係があり、その方がむしろ卓越的である、というような重要な指摘までなされたことは、十分評価すべきである。文法においても、一方的な翻訳から、対等な対照へと進んで来た。
 ただ、あえて言うなら、形態的な呼応のあるものにしか「主語 subject」という用語は用いないという論理は、ロシア語のように性・数・格の曲用体系をもつ名詞こそが名詞と呼ばれるべきで、日本語には「名詞」はない、という極論を誘わないだろうか。【「人称代名詞」においては、そうした議論がじっさいに存在することは、周知のことであろう。「名詞」において】そうならなかったのは、対照の相手がロシア語ではなかったこと、また、対照の相手の英語が曲用変化をほとんど失っていたこと、という二重の僥倖によるのだろうか。まさかそうではあるまい。名詞という品詞にとって、性と数は本質的でないし、【名詞にとって本質的な】格の表示は、必ずしも形態変化によらなくてもいいからである。英語の「名詞」が曲用変化を失いえたのもそのためだ。
 構文論的な単位「主語 subject」にとって、形態的呼応の有無がどれほど重要なのであろうか。その見きわめがつくまで「主語」の使用を遠慮するとまで、日本語文法が西欧語に義理立てする必要があるとは、私には思えないし、 <対照> の精神にも反するだろう。日本語の主語と英語の subject とは、これこれの点で共通し、これこれの点で相違する、と言えばすむことである。ただ誤解のないように申し添えたい。こんな偉そうなことが言えるようになったのも、「主語抹殺」に生涯を捧げた「土着主義」者、三上章のお陰である面が大きい。西欧主義には土着主義で対抗せざるを得なかったのである。どちら【の陣営】も <西欧 対 日本> という図式からは逃れられなかったのだ。私たちは、ポスト三上の時代を生きなければならない。

 日本語の名詞には <数> の範疇はないと言われ、「三人の学生」でも「一人の学生」でも「学生」でよいのだと教えられる。それだけを教えられた学習者は、少し離れたところに立っている複数の人間を指して、「あの人」とか「彼」とか言ってよいのかと思ってしまうかもしれない。複数の三人称は「あの人たち」または「彼ら」であり、「あの人」「彼」は単数を表示するのだということ、つまり小さな部分でのことだが、日本語でもいわゆる人称代名詞(人を指示・直示する語句)には、単数−複数の対立を示すものがあるのだということなど、英独仏の大言語の <数の呼応> 現象に圧倒されていると、見逃されてしまいがちである。
 また「象は鼻が長い」「こどもは野菜が嫌いだ」のような、いわゆる <二重主語構文> をとってみても、「彼(のところ)は女の子だ」「ぼくはうなぎだ」のような <はしょり文> とか <うなぎ文> とか、俗に呼ばれる構文をとってみても、平均的西欧語との比較対照だけを身につけてきた人間には、拍子抜けするほど似かよった発想・捉えかたが、日本語とアジアのいくつかの言語との間には存在するようである。「主題卓越型言語」に共通する特徴と言えるかもしれない。
 さらに、自分でパーマをかけたわけでもないのに、「姉は、美容院でパーマをかけて来た」と言って、なぜ「かけさせ(て来)た」と使役的に言わないのかとか、意図的に足を折ったわけではないのに、「彼は、スキーで足を折った」と言って、「足が折れた」となぜ言わないのか、といったような、 <動作中心型表現か、事件中心型表現か> という問題、あるいは <他動・使役性ないし再帰性と、意志・無意志性との関係> という問題においても、同様な傾向が見られるようである。もちろん、全く同じであるわけではなく、その違いが微妙なだけ、じつは扱いがやっかいである。

 日本語教育においては、学習者の母語がどんな性格の言語かによって <対照> されるべき点は、大きく異なる。英独仏西などの西欧語との対照からもたらされる「日本語の特質」も、それ自体貴重なものが多く、安逸を貪っていた国語学日本語学を目覚めさせる起爆剤としては大いに意味があったし、これからもあるだろうが、ややもすると相違点が拡大されやすい。西欧語との対照だけから一般化しては危険な問題も、少なくないように思われる。アジア・アフリカその他の諸言語をも見渡した、タイポロジカルな視野から問題を見定める努力をおこたると、片手落ちな「特質」論になりやすく、アジアをはじめさまざまな国の人々を相手にする日本語教育としては、バランスを欠くことになる。
 日本語教育の基礎をなす日本語の研究としても、西欧型「対照」研究ばかりでなく、アジアその他の諸言語の研究をも参照して、広く類型論的視野から日本語を位置づけながら、深くほりさげた研究をする必要がある。また、そうすることによって、一般言語学的にも興味深い成果が得られるようになるのではないかと期待される。
 かつては、外国語に弱いから国語学に来たと言われたものだが、今後は、外国語に強いから日本語学に来たという若い「新人類」が続出することを、「旧人類」としては期待しているのである。

    (くどう ひろし・日本文法学)


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