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文の機能と 叙法性


工 藤 浩




一 文と その機能


 たとえば、次のような文章断片を、思い浮かべていただきたい。

  朝から浮かぬ顔をしている。きのう酒を飲み過ぎたのだ
  道行く人が傘をさしている。雨が降ってきたようだ

 話したり書いたり 聞いたり読んだりする 言語活動の場に、現実態として現われてくる <文(sentence)> もしくは <発話(utterance)> と呼ばれるものは、話し手と聞き手との伝え合い(communication)の機能を はたす 最小の単位であるが、同時に、通常は <単語> と呼ばれる 既成の 記憶のなかに たくわえられた要素を組みあわせて作られる構造物でもある。
 それを文法論の立場から とらえなおして言えば、言語活動の所産として見られた <文> は、言語作品(いわゆる談話と文章とを あわせて こう呼ぶ)という構造体の中で はたらく要素であるとともに、単語から組み立てられる構造体でもある。つまり、研究領域としては、いわゆる文章論と構文論との二つの領域、分析レベルに またがるものであり、両者を つなぐ(媒介する)単位、エレメントである。これから述べようとする、文の はたらき(機能)の複雑さは、この二重性によって もたらされるものと考えられる。
 文の内部に分け入って分析的に言えば、文の主要部として機能する <述語> は、文の中に要素として含まれている諸単語を統合する(内的な)機能を もつとともに、自らの属している文を、場面・段落の中の一要素として 他の文と結びつけ 関係づける(外的な)機能をも はたす。
 先の例で言えば、「飲み過ぎたのだ」という述語は、「きのう・酒を」という文の成分を統合するとともに、前文の「朝から浮かぬ顔をしている」という現象の <記述> に対して、その結果に対する原因について <説明> するものとして、自らの属する文を関係づけている。また、「降ってきたようだ」という <推定> 述語は、「雨が」と対立的に結合するとともに、前文「道行く人が傘をさしている」という、それ自体としては現象の <記述> にすぎぬ ことがらを、自らの推定の <根拠> たらしめる、つまり、<根拠と推定> という関係のなかに 自他ともに 位置づけるのである。
 以上の例は「連文」── 文の連接を以下こう呼ぶ ── の場合だが、同じことは、複文における 従属節と主節との関係においても、現われる。また、連文・複文ともに、順序を逆転させることもできる。それぞれ、一括して例示しよう。
[例文における( )は 省略可能、/は 置換可能(な類義例)をさす。]

<記述 と 説明(的推量)>
  朝から浮かぬ顔をしている。酒を飲み過ぎたのだ(ろう)
  朝から浮かぬ顔をしているが、酒を飲み過ぎたのだ(ろう)
  酒を飲み過ぎたのだ(ろう)。朝から浮かぬ顔をしている。
  酒を飲み過ぎたのか/のだろう、朝から浮かぬ顔をしている。

<根拠 と 推定>
  道行く人が傘をさしている。雨が降ってきたらしい/ようだ
  道行く人が傘をさしているところを見ると、
               雨が降ってきたらしい/ようだ
  雨が降ってきたらしい/ようだ。道行く人が傘をさしている。
  雨が降ってきたらしく/ようで、道行く人が傘をさしている。

複文の場合、従属節の形が「朝から浮かぬ顔をしているが」「道行く人が傘をさしているところを見ると」のように接続関係が言い分けられたり、逆順の場合は、「酒を飲み過ぎたのか/のだろう」のような挿入句の形をとったり、「雨が降ってきたらしく/ようで」のように中止法の形をとったりして、<文法的な形づけ> を異にする点で、そうした制約のない連文とは異なっている。連文関係によっては、いわゆる接続詞の使用に差が出ることもあるが、それは義務的=文法的なものではない。通常 文法論の対象が複文までとされ、連文が文法論の対象とされないのは、このためである。つまり、顕在的な <形づけ> を受けないために、文法論の対象とは 通常 みなされないのだが、潜在的にもせよ、環境に対する対他的な <関係づけ> が存在していないわけではない、と わたしは考える。
 次に、次のような肯定・否定表現(「みとめかた」の範疇という)も、現代日本語では、一文の範囲を越え、連文の間で照応をもつ。同じことは、複文関係でも言える。やはり一括して示す。

  ここには三人しかいないから/。だから、麻雀が出来ない
 ×ここには三人(だけ)いるから/。だから、麻雀が出来ない
  ここにいるのは三人(だけ)だから/。だから、麻雀が出来ない

 まず、はじめの二例に注目すると、論理的な数量としては、「三人しかいない」も「三人(だけ)いる」も同じだが、「麻雀が出来ない」という否定文と共起できるのは、前者の否定文の方だけである。しかも、おもしろいのは、同じ「三人(だけ)」でも、「三人(だけ) いる」という修飾語用法とは異なり、三例めのように「三人(だけ)だ」と述語用法として用いられると、「麻雀が出来ない」という否定文と共起できるようになる、ということである。したがって、この現象は、文法的(形式的)な否定性と呼応しているのではなく、麻雀をするのに必要な「<期待値>四人に達していない」という否定的な <評価性> が、この照応を ささえ うながしているのだと考えられる。
 同じ形をした 要素としての単語が、文(構造)の中で、修飾するのか 述定するのか という <文の成分> としての機能の違いに応じて、異なった意味を もたされるのである。「部品」としての潜勢(デュナミス)的な意味と、「部分」としての顕勢(エネルゲイア)的な意味との差だと言っていいかもしれない。
 ちなみに、単語が文の中で もたされる意味(もしくは「意味合い」)が、辞書的な意味(もしくは「意義」)にくらべて、はるかに複雑で ふくみ・ふくらみを もつのも、このためだと考えてよいであろうが、今回は これ以上 立ち入れない。話を、文法的な方面に限らせていただく。
 ついで、小説の地の文など「物語り(narrative)」の文体(語り口)では、過去の出来事の記述において、単純相「した」と持続相「していた」というアスペクト形式が次のような連文的機能をもつことも、すでに よく知られている。(たとえば 寺村秀夫1984)

  その夜は金沢のホテルに泊まった。翌日、能登に向かった。
  その夜は金沢のホテルに泊まっていた。夜中に地震があった。

客観的事実として同一の「その夜 金沢のホテルに泊まった」という事態は、「翌日」の出来事「能登に向かった」との <連なり> の中に置かれるときは、単純相「泊まった」の形で表現され、同じ時間帯の「夜中」の出来事「地震があった」との <出会い> として描かれるときは、持続相「泊まっていた」の形をとるのである。つまり、単純相「した」と持続相「していた」との使い分けは、事態の客観的な時間の長さによるものではなく、他の出来事との関係のなかで決定されるものなのである。(参照 奥田靖雄1988)
 やはり同様の現象は、接続助詞「と」で つなげられる複文でも見られる。たとえば、

  太郎は、家に帰ると、すぐ風呂に入った
  太郎が家に帰ると、奥さんがあわてて電話を切った
  太郎が家に帰ると、奥さんが風邪をひいて寝ていた
  太郎が新聞を読んでいると、こどもがゲ─ムをしようと言った

において、持続相を用いない 前の二例は、同一主体であれ別主体であれ、「家に帰る」出来事と「風呂に入る」や「電話を切る」出来事とは、同一場面での即時・瞬時の差とはいえ、<連なり> の関係にある。主節か従属節かに持続相を用いる 後の二例は、「家に帰る」と「寝ていた」とが、「新聞を読んでいる」と「〜と言った」とが、同一場面での <出会い> の出来事として とらえられている。
 以上 見てきたように、出来事の述べかた(叙法性)と、出来事間の時間関係の とらえかた(時間性)とは、一般に、構文的機能と連文的機能との「二重の機能」を はたす、といってもいいのではないかと思われる。ラテン文法以来の伝統的なグラマチカが、そしてレトリカが、いわゆるテンス・ムードの記述と説明に多くのスペ─スを さ いてきた、その所以も、ここにあるのであろう。
 ところで、近代言語学の一分野としての「文法論」や、その下位分野としての「構文論」は、一般的に言って、特定の場面や文脈の中で決まってくるような、個々の発話行動に特有な側面は、もちろん切り捨てる。たとえば、
  ぼくは、君を きのう ここで待っていたんだよ。
という文(発話)を扱うとして、それが表わす、時間と空間と人間関係に定位された一回一回の場面的な指示(「ぼく・君・きのう・ここで」が何を指すか など)や、その場限りの感情的な態度や発話の意図(親しみか なじりか うらみ言か など)は、文法論者の観察や理解の対象では もちろん あるが、分析の対象としては採り上げない。不当な抽象にならぬように注意しながら、ときに いとおしみつつ、切り捨てる(捨象する)。
 たとえば、次のような連文構造の中に置かれた場合の情意的なニュアンス(ふくみ)は、文の音調(intonation)によって それなりの色づけを受け取るだろうが、文法(制度)として定着した特性、パターン化されたタイプとは、まだ言えないであろう。

  ・どうして来てくれなかったの。なにかあったの。
    ぼくは、君を きのう ここで待っていたんだよ。
  ・なにをやってたんだい。ひどいやつだなあ。
    ぼくは、君を きのう ここで待っていたんだよ。
  ・ぼくは、君を きのう ここで待っていたんだよ。
    雨は降ってくるし、おかげで、風邪ひいちゃったよ。

 しかし、次のように図式化できる文の意味と機能の<型(pattern)>は、まちがいなく文法論の分析対象であり、そうした文の型の中に一般化して やきつけられた <陳述性predicativity> の刻印は、具体的な場面から文法面で抽象されても、文から消え去りはしない。

  一人称シテ 二人称ウケテ 過去  の     行為
   ぼく(ガ)   君を   きのうここで待っていた(コト)
      は                   んだ  よ
   主  題    述          部   説明と告知

 右の例で言えば、<説明> という陳述的な意味を表わす「のだ」は、主題(thema)「ぼくは」についての説明として、述部(rhema)「君をきのうここで待っていた」を結びつける機能(構文機能)を はたすとともに、前後に置かれた文に対しても、その事態なり言明なりに対する <説明> として、自らを含む文を結びあわせる機能(連文機能)をも はたすのである。
 この連文機能までは、文法論としての構文論が、連文論・文章論と分野を分かつにしても、その切り結ぶ接点もしくは分水嶺として、自ら取り扱わなければならない分析対象だと わたしは考える。

二 叙法性(modality)の組織

二・一 「叙法性」という範疇の とらえかた について
 ここで叙法性(modality) というのは、時間性や題述性などとともに、上述の <陳述性> の下位類をなすものであり、形式的に言えば、動詞の形態論的範疇としての <叙法(mood)> に対応して たてられる構文論的範疇である。現代日本語の叙法は、次のような語尾変化(屈折)による三語形を中核にもち、
 子音語幹(五段)  母音語幹(一段)    混合(変格)
   kak-u     oki-ru  uke-ru   k-u-ru       叙述法
   kak-e     oki-ro  uke-ro   k-o-i        命令法
   kak-oo    oki-yoo uke-yoo   k-o-yoo       勧誘法
ついで、次のような助動詞の膠着による 述語の合成体や、
  動 詞┐┌スル/シテイル┐┌(φ)だろう らしい みたいだ
  形容詞┼┤       ├┼(ダ)そうだ
  名 詞┘└シタ/シテイタ┘└(ナ)のだ  (ノ)ようだ
次のような「派生」「複合」の語形成手順による 文法的な派生体、
  書か-ない
  書き-そうだ  -たい  -たがる  -ます
  なり-やすい  -にくい / -がちだ  -がたい
などを、周辺に従える範疇である。[「φ」は 記号ゼロの意]
 さらに、形式的な独立性を保持する「補助動詞」「形式語」などとの組合せによる「分析的な形式」として、
   思う(思われる) 見える(見られる) 言う(言われる) 聞く
   ちがいない  きまっている  すぎない  ほかならない
  かも しれない  わからない / か知らん [→ かしら]
  しても いい   しては いけない   しなけれ ならない
  はずだ わけだ ことだ ものだ つもりだ / 様子だ 気だetc.
  ことが できる  ことに する  ことが ある
   必要が ある おそれが ある 可能性が ある 節が ある
   公算が 大きい 見込みは 小さい / ことは 必至だ etc.
などがある。
 以上 全体をとおして、一般的に、前のものほど文法化・形態化されており、後のものほど語彙性が高く文法性が低い。最後の二行にその一部を掲げた、新聞や論説などに多用される「迂言的」な表現などになると、形態論レベルの「叙法形式」どころか、構文論レベルでも「叙法性形式」と見なせるか、議論の余地があるだろう。これは、<文法化grammaticalization> の度合いの問題であって、実際には連綿として連なっていて、一線で区切ることは出来ないだろうと思われる。以上のような諸形式の連続性は、「膠着」タイプといわれる日本語にとって、本質的に避けがたい連続性であって、境界画定にあまり神経質になるのは、少なくとも得策ではないと思われる。
 以上のような連続的な広がりにおいて存在する叙法性表現の定義としては、次の三つの学説が主要なものと考えられる。すなわち、
  H. Sweet (1891) A New English Grammar. Part I. の序説における "mood" の定義として、
  主語と述語との間の種々に区別される諸関係を表わす文法形態
があり、山田孝雄(1908)の「陳述」に受け継がれており、
  O. Jespersen (1924) The Philosophy of Grammar. における "mood" の定義として、
   文の内容に対する話し手の心の構え (attitudes of the mind)
があり、時枝誠記(1941)の「辞」にその精神は受け継がれており、
  V. V. Vinogradov(1955)「構文論における基本的な諸問題」における "modal'nost'" (原文ロシア語)の定義として、
   発話内容と現実との様々な諸関係を表わす文法的形式
があり、奥田靖雄(1985)などの「モダリティ」に受け継がれている。
 このうち、イェスペルセンの定義が、最も単純明快であり、また基礎的なものだとは思われるが、それを修正・精密化したかに見える、現代の通説的定義、
  文の内容に対する 話し手の 発話時の 心的態度
を、日本語に機械的に適用しようとすると、
  彼は 行き-たく-ない-よう-でし-た。
といった文において、過去形をとりうる「たい」「ようだ」/「ない」のようなものが、ひとしなみに(真正の)モダリティから除外されることになりかねないように見えるが、それでよいだろうか。この論法でいくと、英語の Modals (法助動詞)は、"must" のみという奇説を生じるのでは、と心配になる。
 また「です・ます」は、どうなるだろうか。「でした」「ました」と過去形になるからといって、過去における聞き手に対する「ていねい」の態度ではあるまい。過去の出来事に対する 発話時の「ていねい」の態度であろう。「のです」も「のでした」の形はあるが、過去における「説明」ではあるまい。「会いたかったよぉ!」と久々に再会して発することばが、単純過去の願望であろうはずがない。
 たしかに、渡辺実(1953)の叙述─陳述連続説や南不二男(1964)の文四段階説などが明らかにしたように、接辞や助辞の形態的な相互承接順序は、文の意味機能的な階層性を、大局的な照応の傾向として反映してはいるが、一対一的な対応関係にあるわけではないのである。(参照 工藤浩1989)
 肯定・否定の「みとめかた」との関係から言っても、「したくない」は、「したい」という希望の欠如ではなく「しない」ことの希望であるし、「すべきで(は)ない」も、「すべき」ことの否定ではなく「しない」ように「すべきだ」という当為である。こうした形態と意味との「矛盾」は、ときに若い世代に「行かないべきよ」とか「教えないべきじゃん」とか言わせたり、熟年世代でも、断筆宣言をした筒井康隆氏などをして「書くべきか書かざるべきか」などと、(エセ)擬古的表現を採用させたりもしていて、形態的な相互承接順序と、文の意味機能的な階層性との、大局的な照応の根強さを うかがわせる。「とめてくれるな おっかさん」という江戸語的表現から、「とめないでくれよ おかあちゃん」といった現代的表現への歴史的な変化も、この大局的な照応の ひとつの現象であろう。「してほしくない ─ しないでほしい」のように類義形式として併存し、意味・機能の棲み分けへ ── 前者は 否定的 <希求> にとどまり、後者は 否定的 <依頼> へ向かうかに見えるような事例も、ある。(後述)
 このように、叙法性形式と テンスや みとめかたとの関係は、複雑にからみあっており、機械的な割り切りは禁物である。

二・二 本稿での定義と その説明
 以上のように考えて、あいまいでも、対象を広めにとって研究を出発させるために、<叙法性> を 次のように定義しておく。
  話し手の立場から定められる、文のことがら的な内容と、
  場面(現実および聞き手)との関わり合い(関係表示・関連づけ)
  についての文法的な表現形式。
この定義を分析的に説明すれば、外部との関係における要点は、
  言語場を構成する必須の四契機である、話し手・聞き手・素材
  世界・言語内容、という四者間の <関係表示> である。
ということであり、文の内部における部分関係としての要点は、
  叙法性は <客体面と主体面との相即> として存在する。
   客体面 = 文の <ありかた>  存在の「様式 mode〜mood」
   主体面 = 文の <語りかた>  話者の「態度〜気分 mood」
ということである。外的には、現実(状況)や聞き手との関係づけによって、いわゆる <場面・文脈的な機能> が生じ、内的には、意味・機能の、次のような <両面性> を生み出す。
 この両面性は、文内における位置によって、表面化したり裏面化したりはするが、デュナミスとして基本的には常に共存する、と考えてよいように思われる。
【例証一】助詞「か」の意味構造における、主体的な<疑問>性と 客体的な<不定>性との からみあい
 文末の終止用法「あした行かれますか?」において、<疑問性> が表面化し、文中の不特定詞用法「どこか遠くへ行きたい」において、<不定性> が表面化し、そしてその中間の「どこからか、笛の音が聞こえてくる」のような 挿入句的な間接疑問句の場合に、<疑問性> と <不定性> とは ほぼ拮抗する。
【例証二】助動詞「ようだ」の意味構造における、客体的な<様態>性と 主体的な<推定>性との からみあい
 「まるで山のようなゴミ」「たとえば次のように」などの「連体」や「連用」の「修飾語」用法においては、ことがらの <比喩性> や <例示性> といった ことがらの <様態性> の面が表立っており、「どうやら まちがったようだ」のような「終止」の「述語」用法において、主体的な <推定性> が表面化することになるが、「だいぶ 疲れているようだ/ように見える」のように、<様態性> と <推定性> とが ほぼ拮抗する場合も多いし、「副詞は まるで ハキダメのようだ」のように、<様態性> ないし <比喩性> の叙述に とどまることもあって、複雑である。この複雑さは、(構文的に)副詞の使用をも うながすが、連文構造の中で意味解釈の方向が定まることも多い。
【例証三】過去形「した」の意味構造における、ムード性とアスペクト性とテンス性との からみあい
 現代日本語において、終止の位置にたつ場合、現象記述的な動詞文「きのう田中さんが来まし。」において、典型的な <過去> を あらわし、「いけない、きょうは女房の誕生日だった。」や「そうだ、あした田中さんが来るんだった。」といった名詞文やノダ文などの、判断や説明をあらわす 非記述的な文において、<想起性> というムード的な意味が表面化したり、「奇しくもその日は父の命日であった。」や「そう言って、大きなため息をつくのであったのでした。」のように <詠嘆性> や <回想性> といったムード・テンス的な意味が あらわれたりする。連体や条件の位置にたつと、「あした雨が降った場合たら、中止します。」のように、<以前>ないし<完了・実現>といった相対的テンスないしアスペクト的な意味をあらわし、はては、「うがった考え/?彼の考えは うがっている」「変わった人/あの人は変わっている」など、意味変化を受け、形態変化も喪失しつつ、連体詞化ないし状態詞(第三形容詞)化するものも、ある。
 従来、文の中での「位置」のちがいや、他の部分との「きれつづき(断続関係)」にもとづく「機能」のちがいといった <構造> 的な <条件> を精密に規定しないまま、叙法性形式(助詞・助動詞)の意味の「本質」を「主観的か客観的か」もしくは「主体的か客体的か」などと、単純二項対立的に峻別しようとする論議が多かったが、多くは実り豊かな論争にはならなかった。どちらにも 一面の真理は やどっているのだから、ある意味では当然だと言うべきであろう。

二・三 分析の観点と基準
 文の機能は、二重であった。文の要にたつ叙法性形式の振る舞い(機能)も、二重である。その二重の振る舞いを記述するために、叙法性形式は、少なくとも二つの観点から記述されることになる。
 まずは、その形式の、文の<部品・要素>として もちうるポテンシャルな特性が記述され、ついで、その形式の、文の<部分・成分>として はたらくアクチュアルな特性が記述される。そして、しめくくりとして、両者の記述結果の分析と総合が試みられ、その見やすい形として体系的な <分類> が提示される、というのが理想なのであるが、研究の現状は、その理想に ほど遠いところに ある。
 まず、第一の「ポテンシャルな特性」の記述のための切り口(観点)としては、時間性と みとめかたと 人称性といった、他の文法範疇との相関関係が あげられる。その分析の基準については、ここでは一覧的に列挙するに とどめる。第三節で、一事例研究として、ひとつの形式を とりあげて、具体的な適用を試みる。

 ・時間性(テンス・アスペクト)との接続関係と、
  その相互作用的な変容の ありかた。
  ・前にテンスの対立を もった出来事を、うけるか どうか。
  ・後にテンスの対立が、あるか、ないか。
   対立が、まともな対立か、見せかけの対立(中和)か。
   対立が、機能変容していないか、
       機能負担量(使用頻度)に かたよりが ないか。
 ・みとめかた(肯否)の対立を もつか どうか。どんな対立か。
 ・疑問文の中に もちいうるか、どうか。
  もちいた場合、確認的/熟考的 など、機能変容するか どうか。
 ・文の人称性の特質(一般/不定/特定など)との共起関係。

 第二に、叙法性形式の「アクチュアルな特性」の個々の記述と、総括的な分析・分類において、まず とられるべき観点は、文内において たちうる機能的位置は なにか、ということである。
 かつて金田一春彦(1953)が、ダロウ・ウ・ヨウ・マイなど「不変化助動詞」という形態に着眼して提出した問題も、「引用節」の問題をひとまず棚上げにして言えば、その たちうる機能的位置が <終止述語> に限られる という構文特性を もった形式の問題として、とらえなおされる ことになる。
 通常の助動詞は、<終止述語> のほか <中止述語> や <条件述語> や <連用修飾> <連体修飾> 等の機能的位置に たちうる多機能の形式だということになり、その機能的位置ごとに、つまり、連文構造や複文構造の中で記述を深める必要がある、ということになる。
 <発話時> の <話し手> の <態度〜関係づけ> という特性に分析される、構文論レベルの叙法性の研究としては、まずは <終止述語> という機能的位置において、分析が開始されなければならない。たとえば、助動詞「ようだ」を、不変化助動詞「だろう」と比較しながら分析しようとするとき、まず比較対照されるべき対象は、連体形「ような」の用法や連用形「ように」の用法ではなく、終止形「ようだ」の用法なのである。

二・四 分類案の仮説的提示
 <叙法性> の研究のためには、 <時間性> と <人称性> との分化を主たる基準にして、まず「文の構造・陳述的なタイプ」を、次のような三種に分類しておく必要がある。

二・四・一 文の構造・陳述的なタイプ
 a 独立語文 ── テンス・人称、分化せず
   「感 嘆 文」:キャッ、ゴキブリ!  オーイ、お茶!
   「疑問兆候」:ウン?  エッ?  はあ?!
   「応 答 文」:はい ええ / いいえ いや / もちろん   「よびかけ」:田中さん! おにいちゃん! (弟よ!)
 b 意欲文 ── テンス・人称に、制限あり
   ・命令〜依頼文(二人称):ポチ、来い!
               田中さん、こちらに来てください。
   ・勧誘文(一・二人称) :さあ、行こう。
               田中さん、一緒に 行きましょう。
     決意文(一人称)  :(ぼくが) 行こう。
 c 述語文 ── テンス・人称、ともに基本的に制限なし
   ・叙述文(いわゆる「平叙文」)
     無題文〜物語り文〜現象文(「が」)
      しとしとと 雨が 降りつづいている/いた。
     有題文〜品定め文〜判断文(「は」)
      人間というものは、悲しい動物である。
   ・疑問文
     一次的疑問文 ─ 質問文・確認文・試問文・問い返し文
     二次的疑問文 ─ 熟考/感嘆/依頼/修辞的な 疑問文

二・四・二 叙述文の 叙法形式 一覧
 右の、文の構造・陳述的なタイプの中で、叙法性が もっとも はなやかに分化しているのが <叙述文> であり、以下に、その <叙述文> における 主要な叙法形式を、一覧的に例示する。
 AとBに大別する基準は、前接部にテンスの対立を もつ(A)か 否(B)か である。その他、先に二・三節で触れた種々の分析基準がどう適用され、この分類が えられるか については、工藤浩(1989)に述べたことがある。この一覧は、次節に とりあげる形式の背景をしめすためのもの ということで、細部は省略させていただく。

A 基本的(主体的)叙法性 ───「叙述の様式」
 a 捉えかた─認識のしかた
    断定⇔推量:するφ⇔するだろう
        伝聞:そうだ / という(話だ) (んだ)って
        推論:はずだ / ということになる
  a' たしかさ─確信度:にちがいない かもしれない かしら
  a"見なしかた─推定:らしい / と見える
         様態:ようだ  みたいだ
 b 説きかた─説明のしかた
    記述⇔説明:するφ⇔するのだ
        解説:わけだ
B 副次的(客体的)叙法性 ───「出来事の様相」
 c ありかた─出来事の存在のしかた(Sein)
        兆候:しそうだ
        傾向:しがちだ  しかねない  なりやすい
           しないともかぎらない することもある
        可能:することができる しうる -られる
        必然:するφ  (デ)なければならない
 d あるべかしさ─行為の当為Sollen(規範)的なありかた
        許容:しても いい  しても かまわない
       不許容:しては ならない しては・たら いけない
       不適切:すると いけない したら・ては いけない
        適切:すれば いい したら いい すると いい
        適当:した・する方が いい / する・したが いい
        必要:しなければ ならない しなくては いけない
           せざるをえない しないわけには いかない
        当然:す(る)べきだ / するものだ することだ
 e のぞみかた─情意(感情と意志)のありかた
        願望:したい  したがる
        希求:して ほしい して もらいたい
        意図:するつもりだ  する気だ
        企図:して みる  して みせる  して おく

三 「してほしい」における、意味と機能の相互作用

 最後に、ひとつの例証として、叙法形式が、他のみとめかたやテンスや人称性の範疇との相関の中にあり、自らの構文的な位置にしたがって意味と機能に変容をきたす、そのありさまを素描してみたい。相対的に成立が新しく、歴史的にも地域的にも位相的にも、いまだ変容(ゆらぎ)の中にあると見られる「してほしい」を例に取り上げよう。B副次的叙法性のe「のぞみかた」に属する形式である。

三・一 形態・統語論的性格
 まず、形態(語構成)的には、中止形「して」と補助形容詞「ほしい」との組合せによる「分析的形式」であるが、活用はイ形容詞型であり、連用形副詞法を もたない点は、いわゆる感情形容詞や願望態「したい」と同様である。
 ただ、願望態が「とても行きたいところ」「水が/を飲みたい」のように、程度副詞をとり、ガ/ヲの交替があるのと異なり、
  ?とても 買ってほしい。   ?非常に 読んでほしい本
   この本 を/?が 買ってほしい。
などとは言いにくい点、統語(文構造)的には、形容詞(述語文)性は低い。(なお「この本 買ってほしいのだ」のように、本を選択指定的に とりたてる「が」は、格機能より とりたて機能が卓越した例であり、別扱いすべきものである。)

三・二 陳述論的性格
 終止・肯定・現在で A基本的叙法性の形式がつかない(単純終止の)場合、主体が一人称に制限される点も、基本的に願望態「したい」と同じである。しかし、願望態の否定体が「したくない」だけで「×しなかりたい」とは言えないのに対し、「してほしい」の否定体としては、否定が前に来る「しないでほしい」と、後に来る「してほしくない」との二つの形がある。「してほしくない」は、形は「ほしい」という希求の否定であるが、意味的には、希求という気持ちの欠如 ── これは「してほしいの/わけではない」や「してほしくない」が表わす ── ではなく、「しない」ことの希求である。「すべきで(は)ない」も、意味的には当為の欠如ではなく、「しない」ように「すべきだ」という意味だ、ということは、先にも述べた。これらと似た <対極> 的な性格は、評価形容詞「よくない・このましくない」や感情形容詞「おもしろくない・うれしくない」など、評価や好悪の感情を表わす形容詞にも見られることで、当為や希求の裏にひそむ「評価性・感情性」の現われではないか と考えられる。
 こうして、「してほしくない」と「しないでほしい」とは、外形ほどのちがいはない、類義的な形だということになるわけだが、まったくの同義であるわけではない。両者には、人称関係の表現に差が出て来る。前者「してほしくない」が
  でも、、もうあの人に帰って来てほしくない
  なんかに 同情など、してほしくないな。
  あの人には 来てほしくないわ。
のように、一人称の主体や二人称・三人称の相手が、ともに表現される形で用いられることが少なくないのに対して、後者「しないでほしい」の方は、表現されない用例の方が圧倒的に多い。
  もう見送らないでほしいな。
  そんなに、気にしないでほしい
  あんなことは、もうけっして、しないでほしいの。
 また、後者「しないでほしい」の方は、二人称を表現する場合も、
 ?君に(は)もう 来ないでほしい。
と、ニ格(与格)で言うより、
  君は もう 来ないでほしい。
のように、格としては「はだか格(=名格)」の <主題> として言う方が ふつうである。この点、前者「してほしくない」は、ニ格の
  君には もう 来てほしくない。
の類例は、実例を もとめうるが、次のような主題タイプの
 ?君は もう 来てほしくない。
の類例は、手元の資料には なかった。「あの人は ともかく、君は ……」といった対比性の高い構文では言えるような気もするが。
 以上のような、人称と格体制のちがいは、「してほしくない」の方が、希求の叙述文としての性格を より濃く とどめているのに対して、「しないでほしい」の方は、依頼文としての性格を獲得しつつある、ということの現われだと考えられる。
 次に、テンスをからませて、過去形「してほしくなかった」と「しないでほしかった」とを比べてみたいのだが、実例が極度に少なくなり、残念ながら確実なことは言えなくなる。
 手元のデータベース(約三五二MB) ── 主要データは、新潮文庫二七〇編分の近代小説と、一九九五年一年分の毎日新聞全紙面と、一九九七年九月から二〇〇二年八月まで満五年分の朝日新聞主要紙面 ── で検索してみると、次のような数値になるのである。
  してほしくない   一九七例  しないでほしい  三七四例
  してほしくなかった  一〇例  しないでほしかった  三例
 この数値から、しかし、少なくとも次のことは言えるだろう。現在形の「しないでほしい」が三七四例で、四者の中で もっとも多く、過去形の「しないでほしかった」が三例で、とびぬけて少ないことは、「しないでほしい」の方が「依頼文としての性格を獲得しつつある」という先の分析を補強するものであり、「してほしくない」と「してほしくなかった」とが、量的にその両極の間にあることは、「してほしくない」も「してほしくなかった」も、「希求の叙述文としての性格を より濃く とどめている」ことの現われであろう。叙述文こそ、まともなテンスの対立をもちうる文のタイプなのだから。
 逆に言えば、叙法性表現が はなやかに活躍する場は、発話時に直結する場であり、形態的には <終止の現在の肯定> という無標の出発点的な形式が使用される場である、ということにもなる。

三・三 希求から 依頼へ
 先にふれた「しないでほしい」ばかりでなく、出発点的な肯定体「してほしい」も、終止の位置で用いられた場合は、依頼文的な価値をもつことが、それ以上に多くなる。しかし「してほしい」という分析的形式自体は、連体・条件など文中の位置にも たち、人称的にも主体が一人称に限られるわけでもなく、また過去や否定の形をも とりうるものであって、それらに共通する「してほしい」自体の意味は、<依頼> ではなく、他者への <希求> であった。
 こうした「してほしい」が、依頼に準ずる <意味> を実現しうるようになるのは、形態的に <肯定> の <現在> の形をとり、構文機能的に <終止> の位置に たったうえで、さらに、構文意味的に <一人称のシテ> と <二人称のウケテ> と組合わさる場合であり、
  一人称のシテ  二人称のウケテ  動作の希求
   わたしは     あなたに   来てほしい。
という文は、依頼文に準ずる文とも解釈しうるようになる。しかし厳密には、この文はまだ、希求の叙述文としての性格の方が基本的であろう。というのは、この文は、
  じつは わたしは あなたに 来てほしい のです
のように、「じつは」という副詞や「のだ」という助動詞と共起しうるのだが、「のだ」が叙述法の形にしか後接しないことは いうまでもないことであるし、「じつは」という副詞も、
 ×じつは 来てください。 / 来てくださいませんか。
のような依頼の文には用いられないものだからである。
 それが、意味上の <一人称のシテ> が文法的に消去され、<二人称のウケテ> が、<補語> としてではなく、<独立語> として、あるいは <主題> として機能する場合には、かぎりなく依頼文に近づく。それは次のように図式化できるが、左の「機能的構造2」は、依頼文や勧誘文など <意欲文> の基本文型でもあったのだ(10頁【二・四・一 文の構造・陳述的なタイプ】参照)。

 意味的構造 : 一人称のシテ 二人称のウケテ 動作の希求
 機能的構造1:  主題     補語    叙述性述語
  <叙述文>   わたしは   あなたに   来てほしい。
         わたしは   あなたに   来てほしくない。
   ↓
 機能的構造2:  <消去>  独立語/主題  意欲性述語
  <意欲文>     φ     田中君、すぐ 来てほしい。
           φ     きみは、もう 来ないでほしい。

三・四 さらに 願望へ か
 ここ三、四十年ほどの間に、「してほしい」は、次のような <無意志> 的な出来事にも、多く用いられるようになってきたようである。その際、その対象は、ガ格で出てくる。また、連体の例もある。
  こういう若者 もっと ふえてほしいんです。
  もっと 雨 降ってほしいですね。
  かかってほしい ベストテン (あるテレビ番組の企画名)
次のような例も、動詞としては意志動詞であるが、二人称者がガ格で出ており、依頼文というより、むしろ願望文に近い。
  子犬/坊や/わたし の横には あなたが いてほしい
    (小坂明子作詞「あなた」(1973年世界歌謡祭 グランプリ受賞曲。JASRAC 出0506222-501)
  小林瑞代1996『あなたが そばに いてほしい』(Wings comics)
 これらの用法は、願望文「あると いい(なあ)」「あったらなあ」などへの接近もしくは競合と言えるだろうか。かりに そうだとして、その機能分担は どのようなものになるのだろうか。同じく願望といっても、より意欲(表出)的か より叙述的かといった 叙法性のちがいだろうか、実現可能性の大小といった 事態の様相性のちがいだろうか、せつなさ・はかなさ といった 主体の感情・評価性のちがいだろうか。むろん、これらの特性は択一的である必要はない。しばらく、推移をリアルタイムで見まもっていきたいと思う。

[参考文献]
Sweet, H.(1891) A New English Grammar, Part I. Introduction. Oxford UP, London.
       [半田一吉(抄訳)1980『新英文法─序説』(南雲堂)]
Jespersen, O.(1924) The Philosophy of Grammar. George Allen & Unwin, London.
         [半田一郎(訳)1958『文法の原理』(岩波書店)]
Vinogradov,V.V. (1955) "Osnovnye voprosy sintaksisa predlozhenija"
           (構文論における基本的な諸問題)[1975『ロシア語文法 著作集』(ナウカ)所収]
山田孝雄1908『日本文法論』(宝文館)
時枝誠記1941『国語学原論』(岩波書店)
奥田靖雄1985『ことばの研究・序説』(むぎ書房)
────1986「まちのぞみ文(上)」(『教育国語』85)
────1988「時間の表現(1)(2)」(『教育国語』94・95)
寺村秀夫1984『日本語のシンタクスと意味U』(くろしお出版)
金田一春彦1953「不変化助動詞の本質1・2」(『国語国文』22巻2・3号)
渡辺 実1953「叙述と陳述 ─述語文節の構造─」(『国語学』13/14)
南不二男1964「述語文の構造」(国学院大学『国語研究』18)
工藤 浩1989「現代日本語の文の叙法性 序章」(『東京外国語大学論集』39)

──くどう・ひろし/東京外国語大学教授──
(原文 たて2段ぐみ)


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