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■小引
 ここに掲載するのは、『日本語百科大事典』(大修館)のL−3「諸家の日本語文法論」の、もとの原稿である。(一箇所だけ、私のうかつな間違いを訂正する補記が【 】に括って加えてある。)
「署名原稿ではない」ことを理由に、「事典としては不穏当な言辞」が 少なからず 削除されたこともあり、この際 もとの原稿を「署名原稿」として ここに掲載しておくことにした。私がワープロで作成したもの以外の コピーによる図表のたぐいは、あえて載せないことにした。原本 または 大修館書店の商品『日本語百科大事典』(再版以降)をご参照下さい。
 なお、もとの原稿には、大修館版にある「小見出し」は ご覧のように なかった。図表の挿入とともに、大修館の「編集子の責任において」入れられたもので、初版にはかなりの不具合があったが、再版以降は「必要最低限の訂正」がなされて、なんとか論理だけは通るようになっている。

L−3 諸家の日本語文法論(原稿版)



はじめに
 ここでは、明治以降の代表的な文法家をとりあげて、そのおおよその輪郭と特徴について見ていくことにする。現在活躍中の学者は原則としてとりあげないこととした。個々の解説に入る前に、前史とでもいうべきものに触れておくことにしよう。
 伝統的な文献学・歌学として発達した国学の文法研究は、用言の活用や助詞助動詞の意味・用法、係結びの用法などの分野に、すぐれた成果を残したが、それとは別に、蘭学の系統からオランダ語文典にもとづいて日本語の文法を記述しようとする試みが、幕末ごろからおこって来た。その中で、鶴峯戊申(つるみね・しげのぶ)の『語学新書』(天保四1833年)は、品詞全般にわたるものとして、比較的よくまとまっている。
 明治に入ると、小学校の教科に文法科が置かれた関係で、その教科書として多くの文法書が書かれたが、なかで注目されるのは、主として英文典に基づいて書かれた、田中義廉(よしかど)の『小学日本文典』(明治七1874年)と、中根淑(きよし)の『日本文典』(明治九1876年)である。これら、後に模倣文典ともいわれ軽視されるものも、当時の国学系のものの多くが、用言の活用と助詞助動詞に触れるに止まり、必ずしも品詞の全体像が明らかでないうらみがあったのに対して、ともかくも、品詞全般にわたって一応の組織を示した点は、評価しなければならない。ただ、「善き」は形容詞、「善く」は副詞、「善し」は動詞とするなど、日本語の性格に合わないところも少なくなかった。
 一般には知られていないが、馬場辰猪(たつい)の"Elementary Grammar of the Japanese Language" 通称『日本文典初歩』(明治六1873年)と、チャンブレン Chamberlainの『日本小文典』(明治二〇1887年)は、注目すべきものである。前者は、後の文部大臣、森有礼(ありのり)が日本語を廃止して英語を国語としようという意見をアメリカで発表したのに反対して、当時ロンドンにいた馬場が英語で書いて刊行したものであり、後の山田孝雄をして「国語擁護の大恩人」といたく感激させたもの。当時俗語と呼ばれて卑しめられ、文法などないと思われていた日本語の日常語にも、きちんとした文法があることを示した功績は大きい。後者は、当時帝国大学の外国人教師であった著者が文部省に委嘱されて日本語で書いたもので、外国人に文部省の著作をさせたということで、愛国者の憤激をかったものであった。テンス・ムードに基づく動詞の活用表(パラダイム)が採用されている。
        <図1> 
のちに大槻文彦が、「活用に活用を生じて、章魚(たこ)の八脚あるに、脚毎に、又、八脚を生ずる如き図」と呼んだものである。どちらも、直接の影響を後世に与えたわけではないが、間接的に後の学者の発奮材料になった点は、注目に値する。なお、Chamberlain には、ほかに"A Handbook of Colloquial Japanese" (初版明治二一1888年)がある。

 大槻文彦(おおつき・ふみひこ 1847-1928)の文法
 こうした状況のなかで、国学以来の伝統的な研究の成果と西洋文法の方法・成果とをたくみに調和させ、一応の体系化に成功したものとして登場したのが、大槻文彦『広日本文典』『同別記』(別記というのは、本文の考証や論拠や余論などを集めたもの)である。これが出版されたのは明治三〇1897年であるが、それ以前明治二二1889年に出た『言海』(第一冊)の巻頭をかざった「語法指南(日本文典摘録)」は、本書のもとの原稿から摘録したものというから、その年までにはおおよそ出来上がっていたものと思われる。本書は、民族語としての国語の統一・標準語の制定に資することをめざし、また、そのための教育用に編まれたものであり、また、辞書の見出し語の品詞表示のためという実用上の目的ももっていたため、<単語とはなんぞや>とか<文とはなんぞや>とかいった本質論はないが、日本語の全体を見渡した上での穏当な結論に達している。
 品詞としては、「名詞、動詞、形容詞、助動詞、副詞、接続詞、弖爾乎波(てにをは)、感動詞」の八つの品詞が立てられている。「弖爾乎波」というのは、現行のいわゆる助詞のことだが、これは当時「助詞」という言葉が、いわゆる助動詞をも指すことがあったためらしい。名詞につくもの(格助詞に相当)、用言につくもの(接続助詞に相当)、種々の語につくもの(副助詞・係助詞に相当)、の三類に分けて説明している。終助詞・間投助詞に相当するものは、感動詞の中に入れられている。その他、形容動詞・連体詞が立てられていないなど、細かい点は異なるが、現在の学校文法の基礎はここに築かれた、と言っていい。
 従来、「咲く花」「流るる水」のような動詞の連体形も、連体(=形容詞的)修飾語だからということで、品詞としても(動詞の分詞形から転成した)形容詞とする傾向があったが、そうした文の中での職能と語の性質としての品詞とは区別すべきことを明らかにした。また、日本語の形容詞は、活用し単独で述語にもなりうる点で、西欧語の adjectiveと異なっており、同一に考えるべきではないと主張して、「善き・−く・−し」を形容詞の活用として統一したことも重要である。(ただし、述語用法をあまり強調し過ぎるのも危険であろう。形容詞は、「−く・−き(−い)」の連用形・連体形の修飾用法の方が基本的であり、終止形「−し(−い)」の述語用法は二次的だと思われる。それは発生論的に、連用・連体がカ行音で、終止のみがサ行音であることからそう推定されるばかりでなく、古代語や現代語の共時論的な分析(たとえば使用頻度)からもいえることである。)
 文の中での職能と品詞との関係については、副詞の扱いの部分ではまだはっきりしないところが残されている。形容詞連用形の副詞法や、時・数を表わす名詞などを、「副詞に用ゐる」とか「変じて副詞となるもの」とか言っているのは、品詞として副詞だとしているのか、用法として副詞的な用法だとしているのか、ややはっきりしないところがある。(はっきりしないのは、じつは副詞の品詞論的扱いが大問題だからだ、というべきかもしれない。単純に文の中での職能と品詞とを峻別して、「雨がいま、ひどく降っている」の「いま」や「ひどく」を名詞や形容詞の副詞法として、副詞ではないとするのが本当にいいのかは、現在でも議論の余地がある。語論と文論との関係というのは、永遠の、最初にして最後の問題なのかもしれない。) 
 「 -れる・-せる・-たい」など動詞に膠着する接辞を、単語とみなし「助動詞」という一品詞としたことは、現在の学校文法にも受け継がれているわけだが、はやく山田孝雄や松下大三郎が批判したように、理論的には問題である。しかし、実際の動詞の活用表や助動詞の扱いにおいては、述語の法 mood、時 tense、相 voice 等の文法的なカテゴリーを組織的に扱っていて、助動詞を動詞から切りはなしたことがそれほど大きな欠陥にはなっていない。助動詞が動詞・形容詞の直後に配置されている、という点にも注意すべきだろう。こうした点が、のちの橋本進吉や時枝誠記と大きく異なるところである。
        <図2>
 西洋文典の conjugationと、日本語の「活用」との性格の違いを説き、「助動詞」を立てざるをえないと主張するあたりには、先駆者の「産みの苦しみ」を感じとらざるをえない。西洋語と異なる日本語独自の、述語の複雑な階層的な構造が十分には明らかになっていなかった当時としては、チャンブレン流の活用表が、「活用に活用を生じて、章魚(たこ)の八脚あるに、脚毎に、又、八脚を生ずる如き図」(『別記』自跋)に見えて、修正不可能に思えたとしても、やむをえないことであったと言うべきなのであろう。世の人はとかく「折衷文典」と気軽に言いがちだが、折衷とは、なまなかの業ではないのである。
 文章篇(いわゆる構文論にあたる)には、とくに言うべきこともないが、「呼応」の部分には、複文における自動詞・他動詞の呼応、時テンスの呼応、特性副詞の呼応など、おもしろい指摘がある。
 なお、国語調査委員会の名で出た『口語法』『同別記』は、実質的には大槻の手になるものである。また、大筋において大槻文法に従いながら、その名詞の格の扱いをはじめ、いくつかの記述を修正し、松下文法への橋渡し的な位置を占めるものとして、三矢重松『高等日本文法』(明治四一1908年)がある。

 山田孝雄(やまだ・よしお 1873-1958) の文法
 山田孝雄の研究領域は、広範囲にわたり、国語学のみならず国文学・国史学にも及んでおり、まさに「最後の国学者」と呼ぶにふさわしいが、その中でも、中核を占めるのが文法である。富士谷成章(ふじたに・なりあきら)をはじめとする国学の成果を受け継ぎ、スヰートの英文典やハイゼの独文典をも十分に吸収したうえで、豊かな言語事実の分析を基にし、しかも理論的にも整合性の高い、雄大な文法体系を築きあげたのである。主要著書としては、『日本文法論』(明治四一1908年)と『日本文法学概論』(昭和一一1936年)があげられ、口語を扱ったものとしては『日本口語法講義』(大正一一1922年)があるが、主たる関心は文語にあった。
 言語の基本的単位である<語>と<文>とに対応して、論も大きく「語論」と「句論」とに分かれる。語論と句論は、それぞれ性質論と運用論とに分けられる。

図3 <山田文法の構成>
  文法論─┬─語論─┬─性質論……品詞・下位品詞の分類・記述
      │    └─運用論……語の転成・複合 語の位格 語の用法
      └─句論─┬─性質論……句の分類(喚体と述体) 下位分類
           └─運用論……単文と複文(重文・合文・有属文)

 品詞としては、富士谷成章の四分類(名・装よそひ・挿頭かざし・脚結あゆひ)を受け継ぎながら、「厳密なる二分法」にしたがって、<図4>のように整然と組織した。

図4 <山田文法の語の大分類>
  語─┬─観念語─┬─自用語─┬─概念語………体言(代名詞・数詞を含む)
    │     │     └─陳述語………用言(形式用言・複語尾を含む)
    │     └─副用語………………………副詞(接続詞・感動詞を含む)
    └─関係語………………………………………助詞

山田は、大槻の「助動詞」を、「独立してなんらかの思想を代表するもの」としての単語ではないと批判して、正当に動詞(用言)の語形の一部分としての<複語尾>と認定したが、その山田も、助詞は「独立観念を有せざる」にもかかわらず、単語(関係語)と認定した。この不徹底は、ただちに松下大三郎1908(書評)に批判された。それに対して山田は『日本文法学概論』p.397 で、
……助詞は一層それ(引用注:副詞のこと)よりも抽象的形式的になれるものなり。然れども、単語たることを失はず。その単語たることを失はざる所以は、文法上他の品詞と対立するに足る職分、寧ろ、他のものが助けらるゝ地位にありてこれが助くる地位にあるを以てなり。<中略>これを観念よりいへば、助詞は他の補助たるに止まる如くなれど、職能よりいへば、他の語が助詞の助を乞ひてはじめてその地位を保ちうることを見る。されば、これらは、決して他の品詞以下の価値を有するものにあらざるを知るべし。
と弁明しているが、この点は、山田自身すぐつづけて、助詞は「用言の活用複語尾と相待ちて」日本民族の思想運用上の様式を網羅していて重要だ、と言っているように、複語尾も同じであるはずで、単語以下の単位でも「他品詞に対立するに足る職分」を持つことは出来るのである。単語以下の単位であることは、「他の品詞以下の価値を有するもの」であることを、必ずしも意味しない。助詞を単語だと主張するためには、もっと別の、形態的独立性などをもってしなければならない。おそらく山田の頭には、英語やドイツ語の単語としての前置詞のイメージとともに、副助詞・終助詞など形態的独立性の高いものが、浮かんでいたのであろう。それはともかく、助詞は<図5>のように分類される。
    <図5>    (概論p.404)
 先の図4にもどって、「自用語」は文の骨子たる主語・述語になるもの、「副用語」は自用語に依存するものである。いわゆる接続詞・感動詞をも、副詞の一種としている。動詞・形容詞、それにいわゆる助動詞にあたる複語尾・形式用言(存在詞)をも含めた「用言」の本質は、<陳述の力>をもつこと、つまり述語になれることだとしている。
 山田文法では、いわゆる文論を「句論」と呼ぶが、その句・文を定義するのに「統覚」あるいは「陳述」という用語をもってしたこと、また、句を大きく述体の句と喚体の句に分けたことが、特色としてあげられる。
 「文」とは「統覚作用によりて統合せられたる思想が、言語といふ形式によりて表現せられたるもの」であり、「一の句」とは「統覚作用の一回の活動によりて組織せられたる思想の言語上の発表」である。文は句から構成される構成体、句は文を構成する素という関係にあるとされる。単文は一つの句からなる文、複文は二つ以上の句からなる文、というわけである。ここでいう<統覚作用>とは思想の統合作用のことで、一つの思想には一つの統合点があるという考えにもとづいている。この「統覚」と類義的な用語として「陳述」があり、のちに特異な意味をもった文法用語に変身させられるのだが、山田の言う<陳述>は、「述べる= predicateする」という、文字どおりの意味をもった用語として使われているようである。これは「陳述」が文法用語でないということではない。山田は、「陳述」つまり述べることの本質を、いわゆる主語と述語との統合(統覚)に見ているのである。「陳述といふ精神的作用の対象とするものは主位観念と賓位観念との関係といふ現象」である。「用言が陳述をなすに用ゐらるるときの位格」を<述格>と呼び、この陳述の能力のみが言語として表わされるものを論理学でcopulaというが、それにあたるのは、日本語では、「存在詞」(なり・たり、である・だ・ですetc.) だけだという。「述格に立てる語をふつう述語といふ」が、述語としての用言は、ふつう属性(いわゆる語彙的な意味)の面(格としては賓格)をも混一して存するものである、という。
 いわゆる文の成分にあたるものは、<語の運用論>のうちの<語の位格>で説かれる。「呼格・述格・主格・賓格・補格・連体格・修飾格」の七種が立てられるが、このうち、「用言の根本的用法は述格に存し、体言の根本的用法は呼格に存す」という。つまり、用言=述格を中心とするのが<述体の句>(いわゆるふつうの文)であり、「妙なる笛の音かな」のように、体言=呼格を中心とするのが<喚体の句>だというのである。述体の句は、さらに説明体・疑問体・命令体の三つに分けられ、主語の人称との関係にも触れられている。喚体の句は、希望喚体と感動喚体とに分けられ、また、述体と喚体との交渉(相互関係・移行関係)にも触れられている。
 <句の運用論>において、複文が、二つ以上の句が相集まって一体となった文として扱われる。「花も咲き、鳥も鳴く」のように、前後対等の資格で並立関係(混合的関係)にあるものを「重文」と呼び、「花は咲けども、鳥は鳴かず」のように、対等の資格でしかも合同関係(化合的関係)にあるものを「合文」と呼び、「花の咲く庭が良い」のように、「独立性を奪はれ他の文中に於いて一の語と同じやうに用ゐられ」る附属句(花の咲く)をもち、主従関係にあるものを「有属文」と呼んで、区別している。
 山田孝雄の文法研究は、田舎で国語教師をしていた時代に、生徒から出された「は」についての質問に答えられなかったことから始まるという。このエピソードは、たしかに彼の文法研究の特徴をよく伝えている。係結びを中心として、助詞の研究と文の研究とに彼の本領があり、助詞をあくまでも単語だと主張したのも、故なしとしない。
 ちなみに、松尾捨治郎『国語法論攷』(昭和一一1936年)は、係り−結びを中軸にして文法論を組織したものとして、注目に値する。また、山田文法に基本的に従いながら、いくつかの修正を試みたものに、安田喜代門『国語法概説』(昭和三1928年)がある。名詞の格や動詞の法の扱い、感動詞や代名詞の品詞論上の位置づけにすぐれたところがある。さらに、いろいろ奇抜な着想を示した三宅武郎の「音声口語法」(『国語科学講座』昭和九1934年)も、山田文法を継承するところがある。

 松下大三郎(まつした・だいさぶろう 1878-1935) の文法
 松下大三郎は口語文法から出発した。少年の頃読んだ『中等教育日本文典』(落合・小中村共著)とスヰントンの英文典とを比べて、その体系の優劣のはなはだしいのに驚いた彼は、「英米人に日本文典と英和辞典とを与えれば日本の文が作れる」ような、そんな日本文典の完成に任じようと志を立てた。彼には現代の実用が問題であった。始めから、古代語の体系に目を雲らされることなく、現代語の体系化をめざすことができた。山田孝雄との差はここにある。また、先達として大槻文彦もいた。彼はすなおに西洋文典に学びつつ、日本語の現実に立ちむかうことができた。本格的な形態論的体系を構想しえたのである。
 言語に「原辞・詞・断句」の三階段があるとし、「詞」を<文の構成部分 parts of speech>としての単語 word と考えることによって、<詞の副性論>という画期的な試みが可能になり、日本語の重要な文法的カテゴリーのほとんどが取り出された。そこには、西欧語にはない日本語独自の、敬語や利益態や題目態などのカテゴリーも、もちろん含まれている。大槻が試みて失敗に終わった理論的体系化に、いちおう成功したのである。
 「原辞」とは、接頭辞や接尾辞、それにいわゆる助動詞や助詞のことであり、詞=単語を構成する単位を指す。原辞論は、形態素論であり、語構成論である。「断句」とは、いわゆる文のことであり、したがって、断句論はいわゆる文(構文)論に当たるはずだが、そうはなっておらず、構文論に当たるのは「詞の相関論」である。松下には、文(断句)は単語(詞)の算術的総和に等しいという考えが強く、断句は詞の連なり(連詞)に等しい。詞と断句とを二つの「階段」だと言いながら、両者の質的な違いには無頓着である。断句それ自体の性質を扱う断句論は、実質的にはないに等しい。しかし、その分だけ<詞論>は内容豊かである。原辞論を含めた文法学の部門の構成は次の通りである。

図6 <松下文法の構成>
 ┌─原辞論………………………………………………………形態素論・語構成論
 └─詞論─┬─単独論─┬─詞の本性論……………………品詞・下位品詞の分類
      │     └─詞の副性論─┬─相の論……文法的派生体のカテゴリー
      │             └─格の論……屈折(語形)のカテゴリー
      └─相関論…………………………………………構文論

 <詞の本性論>において、品詞としては、「名詞・動詞・副体詞・副詞・感動詞」の五つが立てられる。いわゆる助詞・助動詞は、原辞であって単語=詞ではないから、品詞ではもちろんない(原辞論においてそれぞれ、静助辞・動助辞として扱われる)。松下の言う「動詞」とは、いわゆる動詞のほか、形容詞・形容動詞をはじめ、擬音語・擬態語などの状態副詞をも含めたもので、「叙述性のある」もの、簡単に言えば、主語をとりえて述語になれる品詞である。したがって、たとえば「学生だ」のような名詞述語の形も「名詞性の(変態)動詞」であり、「堂々と」も「選手団が威風堂々と行進する」と言えるから動詞(無活用の象形動詞)だ、ということになる。
 <詞の副性論>のうち、<相>とは、「連詞または断句(=文)中における立場に関係しない詞の性能」つまり、文法的な派生のことをいい、<格>とは「断句における立場に関する性能」つまり、屈折(文法的な語形)のことをいう。あるいは、現代言語学の用語で言い換えて、相とはparadigmaticな関係のカテゴリーであり、格とはsyntagmatic な関係のカテゴリーだと言ってもいいかもしれない。
 たとえば、動詞の相として、原動(する)と使動(させる)、原動(する)と被動(される)との対立(ヴォイス)とか、「してやる・してもらう・してくれる」のような利益態(やりもらい)とか、「する・した・しよう」の時相、「している・してある」の既然態、「してしまう」の完全動(といったテンス・アスペクト)とか、「すべきだ・していい・してはいけない」などの可然態(ムード)とか、いわゆる尊敬・謙譲を含む尊称や、卑称、荘重態といった敬語関係など、さまざまな文法的カテゴリーが扱われている。
 名詞の格と、動詞の格は、<図7・8>のように、整然と組織されている。
     <図7・8>
名詞の一般格とは「月明らかなり」「ぼく、パン、食べたよ」など格助辞を伴わないもの(ゼロ格・なまえ格nominative)で、これを主格などと別に立てたのは注目される。
 さらに「格の間接運用」として、
     「格の実質化(≒名詞化)」:「人との争い」のようなもの、
     「提示態」:題目態・係の提示態・特提態など、いわゆる副助詞・係助詞のついたもの、
     「感動態」:いわゆる終助詞・間投助詞のついたもの、
     「格の含蓄」:いわゆる省略、
の四つが説かれる。
 <詞の相関論>(いわゆる構文論)においては、成分の統合・配列・照応の三つが説かれる。<成分の統合>においては、関係自体は「従属と統率の一関係だけ」だとするが、その関係のし方に「主体・客体・実質・修用・連体」の五種があるとし、これは「世界人類に共通普遍の範疇」だという。なお提示態(いわゆる副助詞・係助詞のついた形)はすべて修用語の一種とされる。<成分の配列>では、意識の流れの方向によって正置法と倒置法とがあるという。<成分の間接関係>とは、たとえば「こどもが大きくなる」における「子ども」と「大きく」との関係のことで、その先後=語順は<述語との統合の親疎>に起因するのが原則だが、この原則は<概念の新旧>によって崩されるといい、さらに、題目語(−は)は「旧概念の最も著しいもの」だとも指摘している。たとえば、「日曜日にはあの人を訪ねる」と「あの人は(=をば)日曜日に訪ねる」。最近流行している「情報理論的分析」の先駆である。<成分の照応>としては、係結び法と未然法を説いている。
 前述したように、文としての独自性、つまり文の陳述性の研究が手うすなのはさびしいが、狭義のsyntax(統語論)としては、当時の研究の最先端を行っていると言っても過言ではない。

 <原辞論>は詞の材料である原辞の性質やその結合を扱う。原辞の分類は<図9>のようになっている。
     <図9>    (p.47)
このほか、用言や動助辞の活用や、原辞の相関=結合(いわゆる語構成論)を説く。この原辞論と詞論がアメリカ構造言語学流の形態論の先駆をなすことは、すでに指摘されていることだが(森岡健二1965)、それと同時に、論理主義だとする古くからの評価も当たっている。この二つの評価が両立しうるのが松下の特徴なのであって、論理=意味と、形態との一対一的な対応が信じられていた「古き佳き時代の大文典」と言うべきなのである。
 口語に関して『日本俗語文典』(明治三四1901年)で新機軸を打ち出した松下も、『標準日本口語法』(昭和五1930年)では、原辞論を中軸にすえて記述し、外見上の組織としては学校文法とたいして変わらないものに見えるが、これは、普及のためのやむをえない妥協だったと言うべきかもしれない。記述のなかみは、体系性を失ってはおらず、豊かである。

 橋本進吉(はしもと・しんきち 1882-1945) の文法
 橋本文法の最大の特徴は、言語の形式の面に注意を払ったことであり、橋本の日本語文法における貢献もそこにあり、またそこにしかない。言語の単位として、文・文節・語の三つを立てるが、それぞれ従来の意味的な定義の他に、形式的な規定があたえられる。
 たとえば、<文>の外形上の特徴として、「1 文は音の連続である。2 文の前後には必ず音の切れ目がある。3 文の終には特殊の音調が加はる」の三つがあげられる。
 また、「文を分解して最初に得られる単位であつて、直接に文を構成する成分(組成要素)」、つまり松下文法の「詞」にあたるものを、橋本は<文節>と名づけるが、その規定のしかたは、「文を実際の言語として出来るだけ多く句切つた最も短い一句切り」というものであり、さらに、その形の上の特徴として、
  1 一定の音節が一定の順序に並んで、それだけはいつも続けて発音せられる。
  2 文節を構成する各音節の音の高低の関係(即ちアクセント)が定まつてゐる。
  3 実際の言語に於いては、その前と後とに音の切れ目をおくことが出来る。
  4 最初に来る音とその他の音、または最後に来る音とその他の音との間には、それ
   に用ゐる音にそれぞれ違つた制限があることがある。
の四つがあげられる、といったぐあいである。
 文節はさらに「意味を有する言語単位に分解することが出来る」として<語(単語)>が取り出される。問題になるのは「独立し得ぬ語であつて、いつも独立し得べき語(詞=自立語)と共に用ゐられる」もの、つまり「辞=付属語」を単語としたことである。そのため、橋本も気づいているように、辞のうち、とくにいわゆる助動詞は、語でない接尾辞と「純理的」には区別し難く、しいて差を求めても、自由に規則的に他の語に付くか、慣用あるものだけに限って付くか、という「程度の差」に過ぎないのである。橋本は、いわゆる助動詞を単語と認めない山田や松下の正当さを「純理」において認めながら、大槻以来の通説に妥協する。それが苦もなくできるのは、形式主義に必然的に伴う相対主義のためだろう。つまり、単語か接辞かという単位のレベルに関する質的な違いも、形式だけを見ていれば、結局はすべて量的・相対的な「程度の差」に還元されてしまい、どちらの見方にも一理はあるということになって、それならば、通説に従うのも「便宜」だということになってしまうのである。とはいえ、この問題をめぐっての橋本は、学者として慎重であり、最終的な判断は留保しているようにも見える。(そういうものが、国定教科書のもとになったことについては、また別に論ずべきことだろう。なお、助詞は問題なく単語だとする橋本の考え方は、接辞を派生(単語つくり)に限定して考えているからである。文法的な語形つくりの接辞または語尾(たとえば「起きる・起きろ」の「 -る・-ろ」や「行く・行け」の「-u・-e 」)をも視野に入れるならば、「純理的」には、松下がしたように助詞のうち、少なくとも格助詞と、終止・連体形以外の活用形につく接続助詞は、接辞または語尾とした方がいいことになる。のちに触れる佐久間、三尾、三上らをも参照)
 品詞分類の概要を示そう。その特徴は、彼自身が「職能」と呼ぶ、文や文節を構成する上での形式的な特徴に基づいて分類されていることである。とくに、助詞の分類は、語の切れ続きや接続のしかたなどに基づき、整然とした分類を示した。
     <図10・11>
 また、上とは別の辞の分類として、助動詞・準体助詞・準副体助詞の三つは、それぞれ用言・体言・副体詞の三品詞の資格を付与する、つまり準用するものと見て<準用辞>とし、終助詞・間投助詞の「切れるもの」を<断止辞>、その他の「続くもの」は、なんらかの関係を表わすものと見て<関係辞>とする、三大別も示した。
 さらに、二つ以上の辞が重なって詞に附く時の辞の順序についても、「準用辞───関係辞───断止辞」の順序の指摘をはじめ、詳しい観察をしめしている。
 以上のように、橋本は文・文節・語の形式上の特徴に関してすぐれた観察を示したが、意味を極力排除しようとしたために、その扱いはどうしても要素主義的になり、シンタグマティックな構造は比較的よく捉えられるが、パラディグマティックな体系を捉える視点は欠如している。たとえば、文節がどのような要素から組み立てられるかという構造面は、意味を考慮しないでもある程度は捉えられるが、組み立てられた種々の文節が互いにどのようなパラディグマティックな関係にあるか、つまり、どのような体系をなしているかは、意味を考慮せずには不可能なので、文法的カテゴリーと呼べるものは、まったく捉えられない。(個々の助詞助動詞の意味記述としていかにすぐれていようと、それは辞書的意味記述であって、カテゴリーとは言えない。ちなみに、亀井孝『文語文法概説』の助詞助動詞の配列が五十音順であり、この段階ではこれでよいと言っているのは、亀井一流の含み(皮肉〜自嘲)のある言葉である。)
 文の場合は、体系だけでなく構造も、意味抜きには捉えられないので、構文論と呼べるものはないに等しい。のちに<連文節>の概念が提示され、文の構造の重層性が多少は捉えられるようになったのだが、それは「二つ以上の文節が結合して、意味上あるまとまりを有すると見られるもの」を連文節としたからにほかならない。その意味の考慮も、どこに続くかという、関係の形式面だけである。その意味では、よくもわるくも橋本は形式主義を守り通したと言うべきなのであろう。
 橋本には、「古き佳き時代」の山田孝雄や松下大三郎に見られたような体系性・包括性はない。橋本自身、「国語法要説」の端書きで述べているように、言語の形の方面の研究によって「従来の説を補ひ又訂す」ことをねらったのであって、体系性よりも<方法の近代化・精密化>をめざしたものというべきなのだろう。橋本の弟子のひとり服部四郎は、のちにアメリカ言語学流の精密な記述主義的形態素論(の方法)を輸入・加工し、日本語に適用したが、その受け入れ準備を橋本が行なったとも言えるだろう。
 ところで、復古思想・国粋イデオロギーのうずまく暗黒の昭和時代にあって、橋本が、学問の近代化・形式化に自己限定しつつ、あれこれ思い悩んだハムレットだとすれば、ドンキホーテとして勇ましく登場したのが、次の時枝誠記である。

 時枝誠記(ときえだ・もとき 1900-1967)の文法
 時枝誠記は、「言語過程説」に基づいて文法を構築した。言語過程説とは、「言語」の本質は構成された実体としての言葉にあるのではなく、話し、書き、聞き、読む言語活動それ自体にあるとする学説である。したがって、「文法」も表現過程の違いにしたがって組織される。まず、言語活動の単位として、語・文・文章の三つが「質的統一体」として取り出される。文章を単位として取り出し「文章論」を立てたことが特徴的である。
 「語」は、言語活動の社会的習慣の型として「観察的な立場」から文を分解して得られるような単位ではなく、「言語主体の意識に於いて、すでに単位的なものとして存在してゐる」ものだという。そして、「一語」とは「思想内容の一回過程によって成立する言語表現である」と定義されるのだが、これは、「たけのこ(筍)」「なのはな(菜の花)」は一語として意識され記憶されるものだが、「動物の子」「椿の花」は二語あるいは三語の組合せだ、ということを「過程説」にふさわしく言っただけのことである。つまり、この「主体的な立場」からする定義自体は、常識的なものに過ぎず、まちがいとも言えないが、「観察的な立場」からの検証や裏づけをほとんど否定してしまったことは、のちに触れる「詞辞非連続説」の問題とも密接な関係があり、注意すべきである。
 品詞としては、「概念過程を経た」「客体的表現」としての<詞>と、「概念過程を経ない」「主体的表現」としての<辞>が、二大別として取り出され、<詞>に「名詞・代名詞・動詞・形容詞・連体詞・副詞」それに「接頭語・接尾語」が、<辞>に「接続詞・感動詞・助動詞・助詞」(それに、特殊なものとして「陳述副詞」)が属すとされる。たとえば「彼行くだろう」における「行く」という動詞=詞は、主語「彼」の動作を表わすが、「だろう」という助動詞=辞は、主語「彼」の推量ではなく、主語がなんであろうと常に話し手の推量を表わす。「も」という助詞=辞も、周囲の事情との関係で、「彼が行く」という事実に対して、「共存」とでもいうべき話し手の認定の仕方(「限定」)を表わすという。このように<辞>は、話し手のなんらかの態度・気持ちを概念化・客体化せずに直接的に表わす(表出する)ものだとするのである。「彼も行きたいのだろう」のように用いられる「たい」は、「だろう」と異なり、話し手の希望ではなく、主語「彼」の希望を表わすから、辞=助動詞ではなく、詞=接尾語だとする。 
 文の構造としては、西欧語が主語と述語が釣り合う「天秤型」をなすのに対し、日本語では、詞と辞が包み包まれる<入子イレコ 型構造>をなす、という。   
    <図12>                             
助詞や助動詞のないところには、「零記号の辞」(■で表わされる)があるとされる。
 詞と辞を「概念過程」を経たか経ないかの「次元の違い」に基づいて区別した以上、それは有か無かという二者択一的な対立であって、中間物は認められないから、終助詞をより主体的な辞、格助詞をより客体的な辞、とするわけにもいかないし、命令形「行け」のように、詞と辞が共存するように見えるものがあっても、それは二回の表現過程であり、一語ではありえなくなる。単語の「主体的」定義からして必然的に、用言の活用その他に「零記号の辞」を想定せざるをえなかったし、形容動詞「静かだ」は、体言=詞「静か」と助動詞=辞「だ」とに分割せざるをえなかったのである。のちに、大野晋や渡辺実らの批判・修正を受けても、そのいわゆる「詞辞連続説」を頑強に否定したのは、理の当然である。連続説を受け入れることは、「一語=一回過程」とする「主体的立場」からの語の根本的な定義を否定することになり、ひいては、言語過程説自体を崩壊させることにつながりかねないからである。(じつは、命令形と形容動詞の扱いは、1941『国語学原論』と1950『日本文法 口語篇』とでゆれている。『原論』で、命令形「立て・起きろ」の「-e・−ろ」を辞としたり(p.350-1) 、形容動詞を単語「詞」扱いしたりした(p.244) のは、理論化の不徹底だったのであり、のちに『口語篇』で修正・整備されるのである。)
 その意味で、時枝誠記が連体詞と副詞を、「連体修飾語か、連用修飾語以外には用ゐられない」もので、「格表現がその語の中に本来的に備つてゐると見るべきもの」だとしたのは、詞辞理論にとっては、残された唯一の矛盾であった。時枝は、形容動詞の語幹は、辞書の見出しにもなり、一語と「意識することは決して困難ではない」が、副詞や連体詞は常識的に全体で「一語と考へざるをえない」として、この自己矛盾に耐えたのだが、時枝の弟子たちは、この矛盾を矛盾ではなく、理論整備の不徹底だとして、副詞と連体詞をも、形容動詞と同様に、語ではなく「詞+辞」の「句」だと強弁した。かすかに残っていた常識・現実感覚すら、「理論」のためにはかなぐり捨てられる。だが、連体詞や副詞を句だとして品詞論から排除するなら、用言の活用形の諸用法も、句の問題として品詞論から排除されなければならなくなる。時枝の弟子たちは、亜流の宿命として理論の整合性を守ろうとしたが、それはただ、理論(語論)のなかみをますます貧弱なものにすることにしかならなかった。(語論・文論とは別に「句論」をたてて、そこで詳しく扱うというなら、それでもいいが、そういう風にも見えない。「句」は「質的統一体」のひとつとしてはあげられていないからだろうか?)
 時枝は、文法学を、外形にとらわれずに「言語における潜在意識的なものを追求し、これを法則化するもの」だとし、また、「観察的な立場」より「主体的な立場」に優先権を与えた。この、きわめて主観主義的な心理主義が、言語形式を無視した観念論的分析に時枝を陥れた、と言っていいだろう。彼の本領は、伝達論、場面論、それに文章論など、言語活動の面に関する新分野の開拓にあった。文法論の分野においては、従来から言われていた文の二側面、たとえば山田文法でいう「属性」と「陳述」との関係の問題を、きわめて単純な形で提示することによって、いわゆる「陳述論争」を引き起こし、論議を「活性化」させたという点に、学史上の意義を認めるべきなのだろう。
 なお、古文の解釈文法の分野においては、連用形の述語格と修飾格との判別とか、連体形の諸用法の記述とか、興味深い分析を示している。古代語の分析において、あれほど意味や用法を重視した彼が、文法論においては、たとえば形容動詞の否認の際のように意味を軽視する態度を採ったことは、詞辞理論の理論的な要請であるとはいえ、惜しまれることである。理論の重要性、あるいは恐さとは、こんな所にあるのだろう。

 以上の、通常の文法学史で扱われる人たちとは別に、学界の傍流としてではあるが、昭和十年代の「主流」が研究をひたすら矮小化して行く時代にあって、見過ごせない活躍を示した人たちがいた。その一人として、ゲシュタルト心理学の研究者・紹介者としても有名な佐久間鼎(さくま・かなえ 1888-1970)がいる。佐久間は、はじめアクセントの研究をしていたが、それがひと段落すると、現代語法の研究に乗り出して来た。心理学その他の科学に造詣の深い彼は、ゲシュタルト心理学、とくに「場」の理論に基づき、「全体」=構文から出発する、いくつかの斬新な分析を示した。
 その例として、まず<コソアド=指示詞>の本質の解明があげられる。佐久間は、いわゆる代名詞を「名詞の代わりになる語」とする考えを否定し、「直接に対象を指示する」のがその職能だとした上で、従来の近称・中称・遠称という区別を否定し、「これ」は話し手自身の勢力範囲((=われ)のなわばり)に属すものを指し、「それ」は話し相手の勢力範囲((=なれ)のなわばり)に属すものを指し、「あれ」はそれ以外の範囲のものを指す、という、人称代名詞や場面と関連づけたすぐれた説を唱えた。
 また、<動詞論>においても、さまざまなカテゴリーをとりだし、わかりやすい分析を示した。従来の古代語に依存した六活用形を否定した「活用表」、自動詞−他動詞の対応、テンス・アスペクト、やりもらい等々、全般に、松下大三郎・小林好日(よしはる)らを継承発展させたもので、三尾砂や金田一春彦・鈴木重幸らに受け継がれて行く。
 構文の分野では、「の・だけ」や「こと・もの」など、従来、準体助詞・副助詞や形式名詞に分属させられていたものを一括して、<吸着語>を設定した。これは「一つの文全体をさえ受けとめて、まとめて、いわばそれを体言の資格で種々の格に立てるというはたらきをもつ」もので、「人や事物や場所や時や方式や程度や理由などの範疇あるいは領域を規定する役目」を受け持ち、コソアドが、「指示の役割を現場に関係づけて営むのとともに、両方が相まって具体的な内容の表現を遂げる」という、西欧語の関係代名詞と似たはたらきをする点に注目している。それに関連して、述定と装定の区別とその関係にも注意している。これは、 Jespersenの nexusとjunctionの翻訳だが、「述定」をひるがえして「装定」にするのがかなり自由で、格別の造作を必要としないのが、日本語の一つの特色だとする。たとえば、「雨が降っている」⇒「降っている雨」のように。
 さらに、ビューラーの「表出・訴え・演述」という言語の三機能に基づいて、<構文の機能による三種別>を立てた。「表出」の文とは、「ああ」など感動詞からなる文、「訴え」の文とは、「オイ君!」「こっちへ来い!」など呼びかけや命令の文で、いずれも主語や述語をもともと備えない文だという。「演述」の文は、「いいたて文」とも呼ばれ、ことがらを述べたてる役目をつとめるために、多くの場合に主語と述語とを備え、いくつかの構造に分化しているという。そこで、「いいたて文」は、「事件の成行を述べるという役目に応じる」<物語り文>と、「物事の性質や状態を述べたり、判断をいいあらわしたりするという役割をあてがわれる」<品さだめ文>とに分けられ、<品さだめ文>はさらに、性質・状態を表わす<性状規定>の文と、いわゆる判断を表わす<措定>の文とに分けられる。それぞれ、動詞文・形容詞文・名詞文に、ほぼ当たる。
 いいたて文─┬─物語り文………………………………動詞文 :〜が(どうか)する
       └─品さだめ文─┬─性状規定の文……形容詞文:〜は(こうこう)だ
               └─判断措定の文……名詞文 :〜は(なにか)だ
 この構文の種別は、前述した時間表現(テンス・アスペクト)や空間表現(コソアドなど)が、物語り文ないし動詞文で基本的に分化することや、「が」と「は」の使い分けが基本的には物語り文と品さだめ文との区別に対応することなどを説明しうるものとして、重要である。また、提題の「は」など、場に関連づけた助詞の分析にも、興味深いものがある。「は」によって、一定の「課題の場」が設定され、「は」は、その「提起した題目について残りなく行きわたることを示すところに本領をもつ」という。
 以上のように、文法論としての体系性・包括性は高くないが、新しい視点からの興味深い分析あるいは問題提起を行なった。全般に、啓蒙的な文章として書かれたこともあり、つっこみがやや不足で、西欧の先進科学の紹介・適用にとどまっている、と批判される面もなきにしもあらずだが、昭和十年代の暗黒時代における一条の光明ではあった。

 佐久間のあとを追うようにして、やはり心理学を武器に、現代語文法の分野に清新な風を送った人に三尾砂(みお・いさご 1903-【1989】)がいる。三尾も、「場」との関係を重視し、現代の話しことばを真正面から研究した。佐久間に、ゆうゆうと江戸川柳の世界に遊ぶ風も見られたのとは、一味違っている。
 『話し言葉の文法(言葉遣篇)』では、文末のダ体・デス体・ゴザイマス体という文体の違いを基本的な区別とし、その文体の種別に応じて、興味深い文法的事実があることを指摘した。まず、動詞の活用表、原動詞と派生語との区別などにおいて、松下より新しい段階に達している。<活用形>を「活用しきった単語形」と規定し、いわゆる助動詞や接続助詞のついた全体を活用形とし、「肯定活用」(読む)「否定活用」(読まない)「ていねい活用」(読みます)の<三活用系列>と、「派生語」(読ませる・読みたいetc.)とを取り出して体系づけ、また、それを統括する現在の語彙素lexemeにあたるものを「原動詞」と呼ぶ考え方も示している。こうした<活用>の考え方は、宮田幸一1948をへて、鈴木重幸1972の形態論につながっている。
【補記:この段落の解説は、私の読みの浅さを物語る勘違いで、この新しい活用の捉え方は、戦後の改訂版『話しことばの文法』のものであった。この部分(「まず、動詞の活用表……」以降 次の段落のはじめの「また、」まで)は、お詫びして削除したい。】
 また、主節がていねい体(デス体)である場合に、「が・から・ので・と」などの接続助詞を伴う接続部や、文中の体言にかかる連体部の活用形が、ていねい体(デス体)になるか、それとも普通体(ダ体)のままか、という「文の内部におけるていねいさの表現」について、詳しく調べている。これは、従属節の陳述性の度合い(「陳述度」)の問題であり、のちに三上章の単式・軟式・硬式の考え方その他に受け継がれて行く。
 『国語法文章論』では、「場」との関連において、「現象文」「判断文」「未展開文」「分節文」の四種を区別した。<現象文>は「場の文」とも呼ばれ、「場そのものが文となったもので、時所的制約のもとに眼前の事実をそのまま表現したもの」で、「〜が+動詞」の形が典型である。<判断文>は「場を含む文」とも呼ばれ、課題と解決の二項からなる文で、「〜は〜だ」の形が典型だとされる。その下位類として、「〜は〜で、〜は〜だ」のような対比の判断文、「〜なら〜だ」のような仮定題目の判断文、「私が社長だ」のような<解決が+課題だ>の形をした転位の判断文が立てられる。<未展開文>とは「場を指向する文」で、「あ、梅だ」のような、いわゆる一語文・独立語文にあたる。<分節文>とは「場と相補う文」で、「これは何だ」に対する答えとしての「梅だ」のような、いわゆる省略文にあたる。現象文と未展開文は、題目・テーマのない「無題の文」、判断文と分節文は、題目・テーマのある「有題の文」である。こうした文のとらえ方は、松下・佐久間を受け継ぎ発展させたもので、次の三上等に引き継がれていく。
 なお三尾1939で、山田孝雄の「陳述」を、異質なものを未分化的に含むと批判して、断定作用と統一作用とを区別すべきだと主張した点も、のちの渡辺実1971の「叙述〜統叙」と「陳述」との区別など、その後の陳述論に影響したかと思われ、注目に値する。

 佐久間・三尾の系統に属しながら、「主語抹殺論」をひっさげ、きわめて論争的な態度を学界に対してとりつづけた人物として、三上章(みかみ・あきら 1903-1971)がいる。その執拗な主語抹殺〜廃止の論は、かえって彼の積極的な面までおおいかくすきらいもあった。
 主語抹殺論の真意は、格関係の重視、主題−解説(題述)関係の重視、そして、その両者のレベルをはっきり区別すべきことの主張にあった。前者は、格文法や valency理論の先駆であったわけだし、後者は、プラーグ学派のV.Mathesius の機能的分析よりは遅れるが、F.Danesらの意味的・文法的・機能的関係という三つのレベルを区別する考え方や、イギリスやアメリカの、テーマ−レーマ関係、トピック−コメント関係の分析に、先行もしくは並行するものであった。三上は日本語の独自性を重視する「土着主義」を標榜するとともに、欧米の言語学の動向にも注意を怠らなかったのである。
 三上は、文を、客観的世界の事柄を表わすコトdictumの面と、話し手の態度・捉え方に関わるムードmodus の面とに分析し、ガ格・ヲ格・ニ格などの格関係はコトに属し、〜ハ・〜デハなど提示語ないし題目はムードに属す、とした。コトをムードが包む形で文が成立すると考え、題目関係は格関係の上に付け加えられるとした。たとえば、「象の鼻が長いコト」から、何を題目化するかによって「象ハ鼻が長い」や「象の鼻ハ長い」ができると考えている。さらに、「は」の分析から進んで、「東京には空がない」のような<存在構文>や、「大根は輪切りにします」のような一般的操作を表わす<料理型>構文など、従来見落とされていた文型をいくつも指摘し、文型研究にも大きく寄与した。
 また、いわゆる複文的な構文関係に、<単式・軟式・硬式・遊式>の区別を提唱した。これは、十分組織だってはいないが、後の南不二男1974のABCD理論(従属句研究)に先行するものである。<単式>とは「不定法部分(=コト)の内部に終始する関係」にあるもの、<複式>とは「不定法と外部の関係」にあるものであり、複式のうち、「(結局は)不定法と馴合って巻込まれてしまうもの」を<軟式>、「(あくまでも)不定法と馴合わず外部に踏止まるもの」を<硬式>と呼ぶ。<遊式>とは、いわゆる挿入句で、「不定法部分と無関係で、内部にある時も治外法権的」にふるまうものだという。おおざっぱに言えば、単式が南のA、軟式がB、硬式がC、遊式がDの一部、にあたる。そして、これを用いて、活用形や接続助詞や副詞の分析に新しい光を当てた。たとえば、「寝坊したために/ので/から 遅刻した回数は 少ない」の例で、単式の「ために」は、「回数」にかかる連体節内に収まり問題ないが、「から」は、硬式だから連体節に収まらず、したがって「寝坊したから、遅刻した回数は少ない」というパラドックスになリ、軟式の「ので」は「から」に近いが、「ために」と同じ意味になる可能性もあり、中間的だとする。また、活用形に関しては、たとえば単式の「中止法(〜して)」は、「固有のムウドもテンスも備えていない」もので、「次に来る用言の言い切り次第で遡及的に決まる」ものと見た。「手をつないで歩け」の「つないで」は、事実上「つなげ」の意味を含むが、それは次の「歩け」が命令形であることによって決まる、というのである。 
 彼は生涯、体系だった文法書を書かなかった(比較的まとまっているのが『現代語法新説』だが、これとて体系的とは言いにくい)。軽妙な語り口とウィットにとんだ行文のため、必ずしも理解しやすいとも言えなかった。また、肝心なところで議論が脇道にそれてしまうきらいも、なきにしもあらずであった。一つの文法学説と呼ばれにくいのはそのためだろうが、従来の文法学説が見落とし、あるいは考えもつかなかった、いくつかの重要な問題点を提出し、また解決の方向を示しもした。とにもかくにも、彼は、日本語文法の楽しみを教えてくれた。時枝誠記とは別の意味で、文法学界に活気を与えてくれたのである。

(工 藤  浩)



<参考文献>
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────1897『広日本文典』『同別記』(私家蔵版)
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────1922『日本口語法講義』(宝文館)
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松下大三郎1901『日本俗語文典』(誠之堂。1980年勉誠社から復刊)
─────1924『標準日本文法』(紀元社)
─────1928『改撰標準日本文法』(中文館。1930年訂正版。1974年勉誠社から復刊)
─────1930『標準日本口語法』(中文館。1977年勉誠社から復刊)
─────1908「山田氏の日本文法論を評す」(『國学院雑誌』14巻10−12号)
橋本進吉1934「国語法要説」(『国語科学講座』Y。1948『国語法研究』所収)
────1959『国文法体系論』(岩波書店。大学での講義草稿などを集めたもの)
時枝誠記1941『国語学原論』(岩波書店)
────1950『日本文法 口語篇』(岩波書店)
────1950『古典解釈のための日本文法』(1959増訂版 至文堂)
佐久間鼎1936『現代日本語の表現と語法』(1951改訂版。1966補正版。復刊くろしお)
────1940『現代日本語法の研究』(1952改訂版 厚生閣。復刊くろしお出版)
────1941『日本語の特質』(育英書院。『日本語のかなめ』はこの改訂新版)
三尾 砂1942『話し言葉の文法 言葉遣篇』(帝国教育会。1958改訂版法政大出版局)
────1948『国語法文章論』(三省堂)
────1939「文における陳述作用とは何ぞや」(『国語と国文学』16巻 1号)
三上 章1953『現代語法序説』(刀江書院。1972くろしお出版から増補復刊)
────1955『現代語法新説』(刀江書院。1972くろしお出版から復刊)
────1960『象は鼻が長い』(1964増補版 くろしお出版)
────1975『三上章論文集』(くろしお出版)

国語調査委員会1916『口語法』  (大日本出版)
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三矢重松1908『高等日本文法』(増訂版1926 明治書院)
松尾捨治郎1936『国語法論攷』(文学社。1960追補版 白帝社)
安田喜代門1928『国語法概説』(中興舘)
三宅武郎1934「音声口語法」(『国語科学講座』Y 明治書院)
服部四郎1960『言語学の方法』(岩波書店)
宮田幸一1948『日本語文法の輪郭』(三省堂)
鈴木重幸1972『日本語文法・形態論』(むぎ書房)
渡辺 実1971『国語構文論』(塙書房)
南不二男1974『現代日本語の構造』(大修館)
寺村秀夫1983-85 『日本語のシンタクスと意味T・U』(くろしお出版)

福井久蔵1934『増訂 日本文法史』(成美堂。1981年国書刊行会から復刊)
徳田政信1983『近代文法図説』(明治書院)
鈴木重幸1966「学校文法批判──「文節」について──」 (『教育国語6』 
        のちに、鈴木重幸1972『文法と文法指導』(むぎ書房)に再録)
────1976「明治以後の四段活用論」(『教育国語44』 のちに、松本泰丈編1978『日
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古田東朔1976「文法研究の歴史(2)」(『岩波講座 日本語6 文法T』)
森岡健二1965「松下文法の方法」(『国文学 解釈と鑑賞』30巻12号)
『国文学 解釈と鑑賞』30巻12号(1965) 特集「文法学説の整理」
『月刊 言語』10巻 1号(1981) 特集「日本文法のすすめ───1」

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