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副 詞

 品詞の一種。語形変化をもたず、単独で用言またはそれ相当の語句を修飾(限定・強調)することを基本職能とする語。通常「わざわざ・ゆっくり」などの情態副詞、「もっと・やや」などの程度副詞、「けっして・おそらく」などの陳述副詞、の三つに下位分類される。形態上、用言のように活用することも(いわゆる助動詞・接続助詞を付着することももちろん)なく、また体言のように種々の格助詞を付着すること(格変化)もない。つまり、広義の文法的語形変化をもたない。用言や体言は構文上、述語(走る・きれいだ/花だ)や主語(花が/走るのが)となるのをはじめとして、連休修飾語(走る(人)・きれいな・花の)、連用修飾語(走って(帰る)・きれいに/(補語)花を・花に…)など、種々の職能に立つが、活用や格変化などはそうした複数の職能を表わし分けているのである。これに対して副詞は、文中での働きが連用修飾という一つの職能にほぼ固定された語であり、そのため活用や格変化をもたないのである。活用・格変化をもたず一つの機能に固定されているという点は、連体修飾語にのみなる連体詞、接続語にのみなる接続詞、独立語にのみなる感動詞も同様であり、いずれも文の骨子たる主語述語になりえず副次的依存的な職能に固定されているところから、副用語と総称される。また副用語は一般に修飾語を受けえない点でも体言用言と異なる。他に依存するばかりで他を依存させる余裕をもたないのである。時・数量を表わす名詞は、「きょう行きます」「りんごを三つ買う」「友人が多数出席した」のように単独で連用修飾語となる点で副詞と同様であるが、「きょうが・残りの三つを」など格変化もあり連体修飾も受けうるところから、品詞としての副詞とはせず、名詞の副詞用法として扱う。また「美しく咲く」「きれいにかたづける」なども、それ自身の働きは副詞と同じであるが、「美しい。」「きれいな」などとともに、語彙的な意味や程度修飾を受けることの共通性から活用系列をなすと考えて、それぞれ形容詞・形容動詞の連用形副詞法として扱う。こうした通説での扱いは、英語のadverbのそれと異なるところがある。たとえば、todayは用法によってadveb(副詞)でもありnoun(名詞)でもある(同形異品詞)とすることがふつうであり、またcleanlyは、cleanというadjective(形容詞)に-lyが接尾してadverbに派生した(品詞の転成)とするのがふつうである。(転成の副詞の項参照)
【主な異説】山田孝雄は、いま述べた副用語の性格をもつ品詞として副詞を規定し、いわゆる接続詞・感動詞をも接続副詞・感動副詞と呼んで副詞の一類とする。通説の副詞は山田の「語の副詞」にあたるもので、情態・程度・陳述副詞の三分頼も、山田の分類・命名にもとづく。松下大三郎は、「叙述性の無い詞であって、属性の概念を表わし他語の上へ従属して其の意義の運用を調整するもの」と規定し、接続詞と「於て・以て」などとをそれぞれ接続副詞・帰著副詞と呼んで副詞に含めつつ、情態副詞の大部分には「叙述性」を認めて「動詞(いわゆる用言)」として除く。時枝誠記は、彼の詞辞非連続説から言って、一般に格をもたない国語の品詞の中で連用修飾という「格表現が本来的に備つてゐる」特殊なものとして、情態・程度副詞に当たるものを副詞とする。「けっして…ない」などの陳述副詞は、その全体を一つの陳述が上下に分裂して表現された「一つの辞」であるとして、副詞から除こうとする。このほか副詞の範囲認定については、山田と時枝とを両極として広狭さまざまな説がある。なお、品詞論から構文論的特徴をいっさい排除しようとする徹底した形態論主義の立場に立てば、品詞としての副詞は形容動詞(語幹)とともに解消されることになる(水谷静夫・鈴木一彦)。副詞の問題は、構文論的特徴を、形態論的特徴や意味論的特徴との関係において、品詞論の中にどう位置づけるか、という根本問題と密接に結びついている。
【情態副詞】動作作用または事態のあり方を表わして、主として動詞を修飾する副詞。「ついに完成した」「おのずと分かる」「すぐ(に)行く」「ゆっくり(と)歩く」など、多くは語尾にト・ニを持ち、または添えて使う。語構成上、「ハタンと・でんと/ガタッと・さっと/ゴトリと・ふわりと/ガタガタ(と)・ぐにゃぐにゃ(と)/ドタバタ(と)・すたこら」などの型をした擬声擬態語を多く含み、日本語の特色の一つといわれる。また、右の「ガタガタ」などをはじめ、「道々・一々・口々に/いきいき(と)・思い思い(に)・おそるおそる/ちかぢか・青々と・ひさびさに/重々・内々(に)」など、さまざまの要素の畳語形が多いことも、この副詞の語構成上の特徴としてあげられる。動作などのあり方を表わし動詞を修飾するという機能は、この副詞のほか、形容詞・形容動詞の連用形によっても果たされることは前述したとおり。情態副詞の命名者山田孝雄は、形容動詞の語幹「静か・堂々」などをも情態副詞と扱ったが、吉沢義則・橋本進吉らによって、文語でナリ・タリ、口語でダの語尾をとって活用する「静かなり・堂々たり/静かだ」などは形容動詞という品詞として立てうると提唱され、現在での通説となっている。(文語のタリ活用は口語ではすたれたため、口語では「堂々と」を副詞、「堂々たる」を連体詞として扱うことが多い。二活用形に限られた不完全形容動詞とする説もある)。こうして現在いわゆる情態副詞(山田説と区別して状態副詞とも)は、形容動詞と意味機能に一定の共通性をもちながらも、活用しえない点で、いわば取り残された語群である。擬声擬態語や畳語という特殊な構成をした語が多いこと、また語尾にト・ニをとるものが多いことは、こうした事情による。とともに、特殊的形象的な意味をもつ狭義の擬声擬態語から、より一般的な意味を獲得しつつ「かなりはっきり」「ずいぶんのんびりと」など、他の副詞一般と異なり修飾語を受けうるようになったものや、更に「ぴったり(と)合う・ぴったりな(の)服・ぴったりだ」のように、不整合ながら活用を半ばもつに至るものが存在し、両者の間は連続的につながっている。そのため、両者の共通性を優先させて、これら情態副詞を形容動詞とともに、用言または体言の一種と考える説もある(松下大三郎「象形動詞」金田一京助「準名詞」、波辺実「情態詞」など)。逆に、副詞法の形容詞・形容動詞の連用形を副詞(に転成したもの)と見なす説も古くからある(最近では鈴木重幸)。また意味の面では、その名の如く質的ないし量的な状態を表わすものが多数を占めるが、そのほか、「かつて・あらかじめ・しばらく」など時に関するもの、「わざと・あえて・ことさら(に)」など意志態度的なもの、「直接・ともに・互いに」など関係的なものなども、通常この副詞に入れられて、まとまりはよくない。とりわけ時に関するものは、動詞に限らず「いつもやさしい」「かつてここは都だった」など形容詞・名詞述語と共存するものがあり、また述語のテンス・アスペクトと呼応関係をもつところから、時の副詞として別扱いする考えもある(川端善明)。その他も一口に動詞を修飾するとはいっても、動詞のどの側面とかかわるかとか、どんな種類の動詞と結びつくかなど、動詞の細分の問題と並行して、今後さらに整理・細分される余地を残しているように思われる。
【程度副詞】状態性の意味をもつ語にかかって、その程度を限定する副詞。結びつく相手すなわち状態性の意味をもつ語は、品詞としてはいろいろなものにまたがる。@まず基本的な用法として、形容詞・形容動詞と結びつく。たとえば、「たいへん楽しい」「もっと早く歩け」「かなりきれいな花」「至って健康だ」など。この結びつきにはほとんど制限がない。以下、それぞれ制限つきであるが、A情態副詞・連体詞の一部:「とてもはっきり言う」「ずいぶん大きな人」、B状態性の動詞(句):「たいへん疲れた」「非常に興味がある」、C相対的ひろがりをもつ時間空間の名詞代名詞:「ずっと昔」「もっとこっち」、などとも結びつく。なお@の形容動詞に関連して、一般に名詞とされるものでも、臨時的に性質状態の側面が表面化されて「ずいぶん子どもだね」「彼も相当政治家だ」などと程度副詞を受けることがある。Aは前述したように、形容動詞に準ずる性格をもつものである。(杉山栄一は、こうした程度副詞を受ける副詞連体詞を一活用形だけの用言と見なす)。Bの状態性動詞を程度修飾する用法に関連しては、「ごほんをたくさん食べる」「友人が多数出席した」など、"量"を表わす情態副詞や名詞とまぎれやすいが、これらは@の形容詞形容動詞を修飾する用法をもたない点で、ふつう程度副詞と区別される。
ただし、程度副詞の中には、程度用法だけでなく、「ごはんをすこし食べる」「ごはんをもっと食べなさい」「友人がかなり出席した」のように量の用法をももつものが少なからずあり、両用法・両語群の親近性は否めない(量の用法の場合は状態姓の動詞以外とも共存する)。Cの用法は、「ちょうど十二時」「ほぼ百人」「もう一つ」「ただ一人」など数詞を限定するものとともに、副詞が体言を修飾する特殊用法と説かれる。なお、斬新な表現を好む程度表現の中には、「おそろしく大きな・とてつもなく高い」「猛烈に暑い・ばかに元気だ」「目立って多い・とびぬけて速い・ばかげて太い柱」など、ある特定の用言の批評的な程度を表わす副詞法が多く含まれている。「すごく・ひどく」「非常に・はるかに」「極めて・至って」などは、こうした段階をへて程度副詞に移行してきた、あるいは移行しつつあるものである。なお、いわゆる副助詞「おそろしいほど・目立つくらい」なども程度の副詞句をつくるが、これらを"形式副詞"(の一部)として扱う説もある(奥津敬一郎・内田賢徳)。以上の状態副詞と程度副詞は、被修飾語たる用言の属性的な意味(語彙的な意妹)の面を修飾するものであり、その用言がどのような用法(陳述的な意味)に立っても用いられる。たとえば、「ゆっくり歩く・−歩け・−歩けば・−歩かない」「もっと大きい・−大きくなれ・−大きければ」などのように、断定か命令か仮定かなどにかかわりなしに用いられる。この点、次に述べる陳述副詞とちょうど逆であり、情態・程度副詞をあわせて、陳述副詞に対し、属性副詞と呼ぶ(山田孝雄)。
【陳述副詞】叙述副詞・呼応副詞とも。否定・推量・仮定など、述語の陳述的な意味を補足・強調し明確化する副詞であり、「けっして行かない」「たぶん行くだろう」「もし行ったら」のように、一定の陳述的意味をになう形式と呼応して用いられる。代表的なものとして、 <否定>「けっして・必ずしも/たいして・ちっとも・ろくに・めったに」、 <断定〜推量> 「きっと・おそらく・多分/さぞ」、 <否定推量>「まさか・よもや」、 <願望>「どうぞ・どうか・ぜひ」、 <仮定>「もし・たとえ」、 <疑問>「なぜ・どうして」、<比況>「あたかも・さも・まるで」などが通常あげられる。典型的な陳述副詞は、情態・程度の属性副詞とは逆に、もっぱら述語の陳述的な側面にかかわって、属性的な意味の側面には関係しない。その現われとして、@たとえば「おそらくこの事件の解明はこれ以上進展しないだろう。」という文から、陳述副詞「おそらく」を取り除いても、文のコトガラ的内容には変化がないこと、A「けっして行かない・−大きくない」など用言述語だけでなく、「けっして犯人ではない」など体言述語にも自由にかかりうること、という二つの副次的な特徴を指摘することができる。ただし、よく代表的な例としてあげられるものの中にも、「大して・ろくに・さぞ」など、否定や推量と呼応する性格をもつとともに、程度や情態の属性的な意味とも関係する性格をあわせもつものがあり、右の二特徴はあてはまらない。疑問と呼応する「なぜ・どうして」は、理由という状況的な意味をもつため、「なぜ彼が犯人なのですか」のように、体言述語とも関係しうるが、「なぜ」を取り除くと、理由をたずねる文がイエスかノーかの判定をたずねる文にかわってしまう。つまりAの特徴はもつが@の方はもたない。また、比況(ようだ・みたいだ)と呼応するものについては、これを"陳述"とは認めず、にかよいの度合いを限定する一種の程度副詞とみなす説もある。逆に山田孝雄のように、以上のような形式上の呼応が明瞭なもののほか、「いやしくも・さすが」などをも断言(強める意)を要するものとして含めて考える立場もある。こうした、いわば典型的ならざるものについては、陳述性を重視するか呼応性を重視するか、また陳述あるいは叙述という概念をどう捉えるか、という問題がからんで説がわかれるのである。更に渡辺実は、陳述副詞にあたるものを「後続する本体を予告し誘導する」機能をもつ"誘導副詞"と捉えなおした上で、「もちろん我輩は大政治家である。」「事実この帽子はスマートだ」「幸い京都に住むことになった」など、後続する叙述内容に対する表現主体の註釈を表わすもの(呼応現象はない)や、「せめて半額でも…」「おまけに次男まで…」など、素材概念を誘導対象とするものをも一括する考えをしめしている。射程が広く興味ぶかいが、同時に「事実」「おまけに」あたりになると接続詞(の機能)との関係が問題になってくる(市川孝)。なお、「こう・そう・ああ・どう」を指示副詞と呼ぶことがある。これらは具体的内容をもたず、特定の場面や文脈の中で、話し手との関係からある情態を指し示すもので、指示代名詞とともにコソアドの体系をなす点に特色がある。通常の文法的分類では、「どう」は陳述(呼応)副詞、その他は情態副詞の一種と見なされている。ただ、「こう暑くては…」や「そう食べられない」のように、程度副詞ないし呼応副詞的用法にも立つなど、文法的にも特異性をもつ。
【転成の副詞】副詞には、体言や用言の特定の語形(いわゆる文節の形)から移行してきたものがかなり多い。「いっぱいある」「よく故障する」「極めてむつかしい」(残りの一杯、良くできている、奥義を極めて…)などのように、連用修飾の形が独自に意味および機能に変化をきたして、活用や格変化のシステムからはみだしてきたものが多いが、また、「常に・まさしく・堂々と」などのように、それ自身はさしたる変化を受けないが、他の活用形が失われた結果、孤立して副詞に編入されるものもある。また、「思う存分」や「ことによると」のように、連語や句形式のものが一語化して副詞に移行してきたものもある。意味機能の変化にせよ、活用形の喪失にせよ、一語化にせよ、その副詞への移行の度合いには連続的に様々な段階があり、境界に一線を引くことはむつかしい。副詞と認定するか否かは学者により異同が大きい。問題になるものも含めて主なパターンを示せば:@体言から「いちばん・じっさい/いまに・力まかせに/すりひざで・はだしで/花と(散る)/心から・頭から(否定する)」A動詞から「さしあたり・くりかえし/決して・至って・強いて・はじめて・とんで(帰る)/例えば・言わば/思わず・残らず」B形容詞から「よく・あやうく・すごく・まさしく/少なからず・あしからず」C形容動詞から「常に・非常に・やけに・ばかに/たしか・たいへん・けっこう」D連語・句から「案の定・念のため・どっちみち・なんとなく・間もなく・なにもかも・いずれにしろ・ややもすると・なんといっても(なんたって)」など。なお、「皮ごと/我ながら/散歩がてら(事実上/期待通り)」など、副詞化の接辞(あるいは形式副詞)によるものもある。
【副次的用法】副詞は、はじめに述べたように、単独で連用修飾語に立つのが基本であるが、中には、次のような用法をあわせもつものもある。@「の」を伴い連体修飾語となるもの‥:「たくさんの人・しばらくの滞在/一層のさびしさ・かなりの人々/まさかの時・もしもの場合」など。A「だ・です」を伴い述語となるもの:「まだだ・こうでした/もうちょっとだ/まだなかなかだ」など。この二つの用法は、副詞以外の連用形式にも、「北海道への旅行」「花を見ての帰り」「電話は彼からでした」「話は歩きながらだ」などの類例がある。渡辺実はこうした現象を「連用展叙の有形無実化」と呼んで、連用職能の原理的説明を試みている。
【研究史・名称】古く『姉小路式』(室町初期か)では「魂を入るべきてにをは」として「ただ・なほ・いとど」が副助詞「だに・さへ」と一緒にしてあげられている。富士谷成章は現在のほぼ副用語にあたるものを、「名」(体言)「装」(用言)および「脚結」(助詞・助動詞)と対立させて、「挿頭」と呼び、その依存的機能の面や語順にも着目している。彼の『挿頭抄』(明和四年 <1767>)は挿頭語彙を五十音順に並べた辞書に相当する。銘木朗『言語四種論』(文政四年 <1821>)では「はた・又・いで・あに・そもそも・まだ・なほ」が「詞に先だつてにをは」としてあげられているが、やほり語順やテニヲハと類似した機能に注意したものである。東条義門『玉の緒繰分』(嘉永四年 <1851>)では、活用しないところから「体言」と見なされている。副詞という名称は、オランダ文典のBijwoordenや英文典のadverbの訳語として、羽粟洋斎『教諭新法』(文化十一年 <1814>)、飯泉士譲・高橋重威『和蘭文典字類』(安政三年 <1856>−同五年)や、足立梅景『英吉利文典字類』(慶応二年<1866>)などに見える。ただ有名な鶴峯戊申『語学新書』(天保四年 <1833>)ではまだ副詞ではなく「形容言」となっている。明治以降、副詞の名称が広く一般に採用されるようになったが、その定義のしかたや所属語彙の範囲については、現在に至るまで異同が大きい。 →副用語

【参考文献】『広日本文典』大槻文彦。『新文典』橋本進吉。『日本文法学概論』山田孝雄。『改撰 標準日本文法』松下大三郎。『日本文法口語篇』時枝誠記。『国語法研究』橋本進吉。『日本文法 理論篇』吉沢義則。『新国文法』金田一京助。『国語構文論』渡辺実。『日本語文法・形態論』鈴木重幸。『日本文法通論』森重敏。「副詞研究文献目録稿」吉田則夫(『広島大学方言研究会会報』21)。「時の副詞」川端善明(『国語国文』33-11.12)。「副詞の境界線」杉山栄一(『国語学』24集)。「程度の形式副詞」奥津敬一郎(『都大論究』12)。「形式副詞」内田賢徳(『国語国文』44-12)。「接続詞的用法をもつ副詞」市川孝(『お茶の水女子大学・国文』24)。「副詞の整理」鈴木一彦(『国語と国文学』36-12)。「日本語の品詞分類」水谷静夫(『講座現代国語学』K)。

(工藤 浩)



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