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[書 評]
渡辺 実 著
『国語意味論 ─ 関連論文集 ─』

工  藤   浩


 本書は、著者 渡辺実氏の意味論に関わる既発表の論文を 次のごとく6章22節に ととのえて まとめた論文集である。

第一章 意義の構造
 1 意義・言葉・経験  2 意義特徴および類義対義・比喩 
 3 多義の様相     4 意義内項・意義外項
第二章 日本語の意義傾向
 5 対象的意義・主体的意義 6 認識の言語、伝達の言語 7 わがこと・ひとごと
第三章 用語と表現
 8 日本語と和歌    9 日本語と散文     10 日本語と小説
第四章 意義記述
 11 指示語彙「こ・そ・あ」      12 不快語彙「すさまじ」「にくし」など
 13 心状語彙「にくむ」「ねたむ」など 14 時間空間語彙「さき」「あと」など
第五章 副用語への試行錯誤
 15「もっと」     16「よほど」  17「多少」   18 程度副詞の体系
第六章 副用語の振舞い
 19「せっかく」    20「つい」   21「なかなか」 22「さすが」
 総説的位置をしめる 第一章と第二章との それぞれ冒頭を飾る文章は、教科書『日本語概説』の該当個所を「軸に加筆したもの」だが、その他は「標題を改め」はしたものの 内容は「発表当時のままとし、手を加えないのを原則とした」とあり、本書に先行して書きおろされた『さすが! 日本語』(2001)の基になった論文も、本書で読むことが出来る。1971年に出た『国語構文論』以降、『伊勢物語』『枕草子』などの古典の注釈と、その『平安朝文章史』としての把握とに進まれる一方で、「対象的意義・主体的意義」「わがこと・ひとごと」といった 本書の基底をなす視座から、指示語、感情語彙、程度や評価にかかわる副用語などを主たる対象領域として、なが年にわたって積み重ねられてきた著者の「意義」論関連の記述と分析とが 一書に まとめられている。
 第一章第1節「意義・言葉・経験」において、「開いた経験の輪と閉じた言葉の輪とをつなぐ、通路のごとき媒体こそが、意味と呼ばれるもの」であって、「意味は……本質的にひとりひとりのものであ」り、集団に共通な「明示的意義」を媒介にして「経験の喚起」と「暗示的意味の肉づけ」にまで行く「言葉と経験と意味との三位一体」としての把握が理想とされる。その点、ソシュール記号学の「ラング」の「所記」を意味と考える構造主義的な立場とは、趣きをやや異にしていると言うべきだろう。意味の「実存」的とも言える こうした把握のしかたは、第二章における「意義傾向」の捉え方や、第三章における文学語彙の扱いなどに現われるばかりではなく、第四章以降の記述各論の扱う対象自体 ―― 指示語、心状語、時間空間語彙、程度副詞、評価副詞など ―― の選択にも、強く作用している。読者は、まず このことを理解しておくべきであろう。
 第2節以降では、温度形容詞などを例にとりながら、意義を「弁別的意義特徴の束」として記述しうるとした上で、「意義特徴」に「優先順位」を認めることによって、類義・対義・多義を整序的に扱おうとし、動詞「さす」を例にとりながら、「意義の内項と外項」という枠組みで、用言のいわゆる<結合価>を扱う。ここまでは、概して現代の意味論の常識的な線であるといってよいだろうが、動詞「かねる」などを例に、意義外項の「融入」による内項化として、接尾動詞化(しかねる)や 副詞化(かねて)を説明しようとするところには、著者の独創的な興味深いアプローチが見られる。
 第二章では、「対象的意義−主体的意義」「認識の言語−伝達の言語」「よそごと/ひとごと−わがこと」といった、著者の意味論のキーワードとも言うべき対概念が「意義傾向」という名で、つまり 欧米の諸言語と異なる日本語の独自な「意義傾向」として扱われる。言語の深みにおいて普遍的と信じられる対概念が、個別諸言語の<文法化>と<語彙化>とにおいて、特殊相として立ち現われてくることの 不思議さ・おもしろさが、著者の「意味」経験を刺激するのであろう。書名に日本語意味論ならぬ「国語」意味論を採用する著者の言語観・意味観は、読者の言語観・意味観と対決を迫ることもあろう。少なくとも それを回避する形で、本書は 抜き読みされてはならないはずである。
 第三章「用語と表現」は、以上のような意義の構造と傾向との現われを、古代和歌や 紫式部日記をはじめとする平安散文や 近代の堀辰雄『風立ちぬ』といった作品などに探ろうとする、語彙の表現・文体論的な研究である。ここで読み合わせ考え合わせられるべきものは、『平安朝文章史』において「人間と言葉との関わりを見る視点」から、一回かぎりの「個性的な作品」でありながら その奥に「文章史(とも言うべき一つの流れ)を形成する」ところに 日本人の「精神の傾向」を探ろうとする、著者の基本姿勢にかかわる発言(跋)と、その実践結果であろう。著者の認識と関心とに従って、分析対象は一貫して選ばれており、気まぐれな記述の集成ではない。
 第四章「意義記述」は、第二章のキー概念の具体的な適用として、指示語彙と時間空間語彙との間に、不快語彙・心状語彙とを はさむ形で、具体的な記述が進められる。
 第五章「副用語への試行錯誤」は、程度副詞の個別的記述に はじまって、その体系化に及び、第六章「副用語の振舞い」は、評価的な副詞の種々相を たどりつつ、最後を飾る形で、<難語>「さすが」の共時態と通時態との総合が試みられる。このふたつの章が、著者の もっとも心血を注いだ領域であり、本書の中でも とりわけて圧巻である。

 本書の跋に、「構文論的職能と名付けて意味が構文上果すはたらきを抽象し、意味そのものを捨象することで、文法論の独立をはかろうとした」『国語構文論』を受けて、「これと対になるような」『国語意味論』を まとめるべく、「残りの半円として もっと発展させてみたい」論文を あつめたのだと著者はいう。「論文集は著書ではない」という考えは今もかわらないものの、「知力・体力・気力が……根気よく はたらかなくなった」ため、論文集の形になった、ともいう。体系志向の強い 強靱な論理力のもちぬしの 著者にして、やはり そうなのか、との感に うたれる。著者は、「総攻撃の采配」をふるうべき「意味の体系」を どんな形で構想されていたのだろうか。どんな章立てを考えておられたのであろうか。読者の想像を刺激してやまないものがある。
 たとえば、この論文集の一つの要をなす副用語に関して、現在では すくなからぬ量の 辞書的記述と教科書的解説が 学界を にぎわしていながら、なお この著者にして 体系的・組織的著書を なさしめえなかったとすれば、それはなぜか、単に個別的な記述や分析の 量的多寡の問題に とどまることなく、対象を捉える理論と方法の問題として 問い返されなければならなくなるだろう。「意味そのものを捨象することで、文法論の独立をはかろうとした」という形で語られる「構文論」と「意味論」との関係の捉え方、つまり 理論の枠組み自体を、問題にせざるをえなくなるだろう。一言で言えば、職能(機能)と意義(意味)との関係のありかた、いわゆる相互関係・相互作用を、どの深さで読み解き、どのような広がりにおいて見てとるか、その一点に かかってくるように、評者には思われる。
 <形態が意義をにない、意義が職能をになう>という関係で捉えられた、意義と職能との関係からして、「意味そのものを捨象することで、文法論の独立をはかろうと」することは ひとまず可能だとしても、「これと対になる」意義論を「残りの半円としてもっと発展させてみ」ることは、はたして理論的に可能であろうか。職能の「閉じた」システムと 意義の「開いた」システムとの違いから、また とりわけ、意味の実存的規定からしても、意義論が構文論に比して、はるかに複雑な体系になるだろうことは、容易に推測されることである。だが、著者の驥尾に付して副詞研究を始めながら、いまだ一書をも なしえていない評者としては、これ以上の一般論・抽象論は さしひかえる。
 以下、主たる問題領域を副用語に しぼり、評者の立場からの疑問点をいくつか具体的に指摘することで、書評の責めをふさぐこととするが、その際、非礼にわたることを恐れつつも、紙幅の関係で、単刀直入な表現になることに、あらかじめ寛恕を乞いたい。
 第一章第3節「多義の様相」において、「多義整理の作業仮設」(p.34)として、「仮設0 関係項目をより多く持つ用法を、意義記述のための、より基本的な用法と扱う」という基本仮説が立てられる。これは、たとえば動詞「さす」の用法のうち「看護婦が 私の右腕に 両手で 太い注射器を さした」が「私は 出刃包丁で 賊の背中を さした」より基本的だという作業仮設であり、この動詞の場合は これでもよいのかもしれないが、はたして そう一般化してよいものだろうか。「太郎が (手で) お皿を 回した」より、「太郎が (片手で) メモを 隣の係員に 回した」の方が基本的だと言ってよいだろうか。多義の派生には、たしかに関係項目の多から少への縮小によるものもあろうが、むしろ関係項目の少から多への拡大によるものの方が一般的ではないだろうか。【補記:著者は この作業仮設について、通時的な意味派生とは きりはなして、共時的な「意味記述」のための作業仮設だと ことわっているので、このままでは 的を射ていないことになるが、評者の批判は、共時と通時との きりはなし自体に むけられていると、理解していただければ さいわいである。紙幅にあわせた省筆による不備を おわびする。】
 また、この作業仮設では、関係項目の持ち方にかかわらず、語に一貫した意義が存在することが前提されていて、関係項目は、その抽象的な意義の発見の、いわば「補助線」として扱われているように見える。補助線であれば、数が多い方がたしかに有利であろう。そこでは、関係項目の枠組みが、たとえば「皿を まわす <ものの変化> → 皿を 隣に まわす <ものの移動>」や「こどもを 教える <人への働きかけ> → こどもに 英語を 教える <人への情報移動>」といったセットに見られるような、語の多義を条件づける「型」のシステムとしては扱われておらず、「意義の内項」を知る手がかりとしての「意義の外項」でしかないように見える。基本的に、語の意味が関係項目の型を決定するとしても、逆に、関係項目の型が語の意味を変えるという反対方向の逆作用もある、という相互的な関係が、少なくとも積極的には捉えようとされていないように見える。これは、<意義が職能をになう>という、評者には やや一面的にひびく、『国語構文論』以来の理論的枠組みが影響しているのではないかと思われる。
 そして、この作業仮設は、第五章以降の副用語の意義記述においても、あるいは明示的に、あるいは暗黙の前提として、適用される。

 第五章では、副用語の意味・用法を記述する手だてとして、その諸用法を「モデル」に整理し、そのモデルごとの用法が成り立つための<条件>として、(a) 語彙的条件、(b) 評価的条件、(c) 構文的条件、(d) 表現価値の方向(発話の意味という水準)、という四つの条件(ないし観点)が立てられて、分析的に検討が加えられていく。詳細は省略せざるをえないが、従来の構造的意味論でも常識的になっている「語彙的共起制限」に相当する(a) 語彙的条件ばかりでなく、(b)〜(d)の条件を組み込んだ枠組みが、「主体的意義に富む副用語」の記述に採用されていることが、本書の方法の一大特徴をなすと言ってよいだろう。本書所収の諸論文によって、副用語の意味記述も、学問的なレベルが一段と高められたことは、まちがいない。20世紀後半の副詞研究の、一期を画する到達点であり、ひとつの達成である。その功績を十分に認めた上で、その驥尾に付す形で、評者の意見や感想を率直に述べることにする。
 まず、上の4条件の相互の関係、具体的には、著者が(b) 評価的条件としてあげるものと、(a) 語彙的条件や(c) 構文的条件とするものとの関係が、いまひとつ明瞭でないように思われる。著者が(c) 構文的条件とするものは、当該の語が、陳述(終止)するか再展叙(従属節化)するかといった職能(断続関係)も、また、それぞれの下位種における、断定/命令、肯定/否定、順接/逆接、仮定/確定、といった陳述的(モーダル)な変容も含む。評者は、前者を構文機能的関係、後者を構文意味的関係と区別したいのだが、それは さておくとしても、こうした構文的条件が評価的条件と密接にからむことは、「なかなか・けっこう」など評価的条件に制約のある程度副詞が、一般に命令文に用いえないという構文的条件をもつことからも、容易に推定されることである。
 また、「Xは Yより __ Aだ」とモデル化しうる比較構文や、「Xは __ Aだ」とモデル化しうる計量構文という「型」もしくは「モデル」が、(c) 構文的条件と どのような関係になるのかも、いまひとつ明らかではない。
 あるいは著者の本意は、こうしたモデルの「型」自体、(a)〜(d)の4条件の総合としてあるものであり、この4条件自体は、そのモデルを帰納することを理論的に正当化する作業と、その抽象化されたモデルを具体的に肉づけし 副次的な意味・機能特性を付与するといった 記述を具体化する作業との、いわば<上昇−下降>を繰り返すような ダイナミックな分析のプロセスに欠かせない、モメント(契機)なり観点なりの 備忘のためのリストであり、必ずしも体系・構造的になっていない、だからこそ「試行錯誤」(第五章標題)なのだ、ということなのかもしれない。しかし、そうだとしても 記述の方法・手順としては、やはり もう少し整序しておく必要を感じる。
 評者に、とりたてて言うほどの別の成案があるわけでもないので、この4条件に即して言うとすれば、(a) 語彙的条件は、(b) 評価的条件とは異なり、動作/状態、意志/無意志といった、文法構造との関係の中で下位範疇化される「語彙範疇(品詞・下位品詞)」もしくは「範疇的な意味」の体系へと精錬すべきものであり、(c) 構文的条件も、機能構造的なものと意味構造的なものとに振り分けながら、形式化・パターン化しておくべきものではないか。もしそう考えてよいとすれば、この(a)と(c)とは、ともにモデル文型の<形式(表わし)>的側面をなし、(b) 評価的条件は、その語の「意義」とともに、モデル文型の<内容(表わされ)>的側面をなすことになるのではないだろうか。つまり「評価的条件」は、意義にとっての外的な条件ではなく、語彙条件と構文条件とに支えられた評価的な意味なのではないか。「客観的・明示的意義」にかぶさるような形の「主観的・暗示的な意味」だとしても、文レベルで文法的【語彙・構文的】に条件づけられた意味であろう。そして、(d) 「表現価値の方向」は、著者も言うとおり、発話レベルの「含意 implicature」もしくは場面・文脈から臨時的に付加される「含み connotation」であろう。(b)と(d)との境界が、歴史的にも地理的にも、その社会(的定着)化と個性(的文体)化との「ゆらぎ」の中にあって、見さだめがたさを感じさせることが、ときにあるにしても。
 第18節「程度副詞の体系」で、前節まで「計量」系とされてきた「とても」の類が、「判断構造」にもとづいて「発見」系と捉え直されるのだが、これも、「判断」という名が示すように、<(終止)述語>という構文条件のもとでの意味であろう。なるほど、「あの部屋はとてもきたない」(p.305)は 発見だとしても、「彼はとてもきたない部屋で勉強しています」といった連体句においては、「発見」性は、ないか うすれるだろう。陳述か再展叙かという構文的条件の違いが、その語の意味(の側面)に逆作用的に影響する。こうした相関関係を方法的に明確化しておかないと、意味の抽象の精粗がアドホックになる恐れがある。「主体的意義に温かい」日本語という仮説ないし基本想定が、ときに深読みを引き起こしているのではないかと、評者には思われる場合もある。
 また、たとえば「多少」の評価的条件は、「話し手の期待に反する」なのか「世間常識ほどではない」なのか、つまり、「主体的意義」の「主体」が、社会化された主観(共同主体)か個人的な主観(個別主体)かといった違いや、さらには、話し手か、述語に対する主体(主語者)か、動作主/感情主か、といった違いについても、著者はむろん自覚的ではあるが【経験/直観的には 無自覚ではないが】、方法・手順的には、さらに厳密化し精密化する余地を残しているように思われる。
 本書の末尾を飾る、第21節と第22節における「なかなか」と「さすが」の通時態の扱いは、現状において まことに困難な領域に 新たな探求の方向を示したものとして、きわめて貴重なものだが、ひとこと無い物ねだり的な感想を言わせていただけるならば、現代共時態において失われてしまった意義の構造の「穴」(ミッシング・リンク)を、過去の共時態の諸用法の中に見いだそうとして再構築された、もろもろの共時態の諸用法の枚挙のように見えなくもない。一つの可能な解釈という域をこえて、歴史的な説明の域に高めるためには、その語の内的な多義構造の推移・転換のみならず、他の類義・対義的関係にある語群との(張り合い)関係という、語彙体系的な要因の解明が、また、場合によっては言語外的な誘因【文化的/時代潮流的な 状況/背景】の探求も、必要になってくるのではないだろうか。
 我々は、浜田敦「「やうやう」から「やっと」へ」を、方法論的序説として巻頭に据えて、大阪市立大学の共同研究として まとめられた『国語副詞の史的研究』をも 遺産として もつ。そこにも また、共同研究者らの個性による、通時的記述の いくつかのタイプを見ることが出来るが、今回、それに比して より機能的な構造的通時論の見本を手にしたことになり、後進の者には、貴重な導きの糸が またひとつ ふえたことになる。
 著者は、1949年に「陳述副詞の機能」を世に問い、1953年に「叙述と陳述」という理論的整序を行なって以来、一貫して20世紀後半の国語(文法)学を理論的にリードしてきた。本書は、その著者の構想した意味の体系論のトルソとも言うべきものである。意味研究を志す者が、一度は対面・対峙し、ときには対決して、問題の宝を探りだすべき一つの高峰である。21世紀の日本語学が、これを迂回するバイパスの道を進むようなことがないことを願って、筆をおくことにする。

妄言多謝

(2002年2月20日発行 塙書房刊 A5判 392ページ 本体価格 8,000円)
―― 東京外国語大学教授 ――


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