The biography of Gou Yuehua

05-03/14

3.だらしのない言動が大過のもと

 私は、生意気にもよそのテーブルからバナナを自分のところへ取って来たり、ホテルのシーツで靴を磨いたり、口汚い乱暴な言葉が口から次々と出て来たり、ひどくだらしない言動をしていた。普段からこんな調子だから、別に恥ずかしいとは思わなかったが、コーチ達は私の言動について打合せをし、「こんな選手はもう2度と使わない」という結論を出した。

 これは試合で負けることよりもえらいことになったと思い、大阪に着くと、私は泣きながら自分の過ちを反省した。

 日本を離れる前、コーチ達は後半から良くなったと認めて、私を中國青年合宿チームに残す事を決めた。ところが、私は自分の涙にコーチ達が同情してくれたのだと思い込み「北京に残りたくない、故郷へ帰して下さい」と益々意地悪くなってきた。

 本当のところ卓球が大好きで、卓球をやるためにどんな犠牲も惜しまないのに、どうしてその時、この心にもない言葉が口から出てきたのだろう。

 似たような過ちは4年後、つまり第34回世界選手権大会の直前にも繰り返している。当時、私はすでに男子団体戦の主力メンバーに決まっており、国際卓球連盟から、1977年の世界第2シードにランクされていた。

 ところが大会に備えて国内で行われた前哨戦の中で、いろいろな話題が出てきた。男子チームの反省会で皆から耳の痛い意見をだされたが、私はそれが受け入れられなくて「世界選手権の団体戦には出られない」と又意地の悪いことを言った。しかし、その言葉が口から出た途端、顔が紅潮してくるのが自分でも分った。

 前回は弱いのに強がりを言い、今回はチームの大黒柱として活躍することを期待されているのに弱音を吐いてしまった。どうしてこんなに矛盾が多いのだろう。

 人間は肝心な時に意地を張って大過を犯すようなことを戒める必要があるのではないだろうか。

 紅葉の美しい北京の秋、1973年のこの時、私の卓球に重大な革命が起こり、私のプレーや、タイプも軌道に乗り始め、新しい道を探り始めた。

 私は沈んだ気持ちで武漢で終わった全国大会から帰ってきた。当時、ナショナルチームの総監督を務めていた徐寅生先生は何回も私と話し合い、「これまでの表ソフトの速攻をやめて、裏ソフトに変え、暗いと思われている道に挑戦し、新しい道を開こうではないか」と説得した。

郭躍華自伝05***思い出の日本遠征***

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