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文法研究ノート抄

3)文の 機能・形成性 など

「つなぎ」の 近代性  「は」と「も」―― とりたて と 接続  時間と 叙法と つなぎ

「ただしい」と「すぐれた」     品詞の 提示順     「べきだ」と「したい」

体言の 運用(提示)       用言の 活用(叙述)       相言の 装用(修飾)

「形式名詞」(松下)    「補助動詞」(橋本)     《補助述詞》(Auxiliaries)


■「つなぎ」の 近代性

0)以前 ある ところで、テンスの対立を もった 連体節を うける「つなぎ」(接続詞)とも いうべき 品詞 「ほどに さかい(に)/ために くせに ところ(が に) ばあい(に)/ときに まえに あとで/かわりに わりに だけに …」といった ことばが つかわれだした ことが、日本語の 近代語性を 特徴づける ポイントの ひとつだと のべた ことが ある。(奥田靖雄 没後10年 シンポジウム 2012年)

1)これは、「肥大化した接続助詞を造語することが時代につれて増加するという大勢」を 指摘し、「未分化から分化を経ての統合」という ながれを みる、通説と いっていい 阪倉篤義の とらえかた(『日本語表現の流れ』第三章 条件表現の変遷 p.137)の 延長線上に ある ものだが、おなじではない。ちがいを あえて いいたてれば、複文の 句関係と テンス ムードとを 分離分析した うえで、それを 統合総合して 表現する ように なった こと(分析的表現化)を 歴史の 質的な 転換点の ひとつと みるか どうか という 点で ちがっている のである。おおきくは、O. イェスペルセンの 言語発達論(ex. 総合から 分析へ)と、奥田靖雄の 補助語的品詞(ex. 後置詞 つなぎ むすび) 発展論とに みちびかれており、日本語史の 具体的な 研究では、中村通夫の「分析的傾向」(ex. 意志形と 推量形との 分化)の 指摘に おおきな 影響を うけている。

 時間(テンス)と 論理(条件)とを 分析的に 表現する ことによって、たとえば つぎのような、未来の 目的や 計画の 予定や 希望や 推量を 理由 根拠(必然 因果的な 確定条件)に して、達成手段である いまの 行動を 動機づける、という 時間と 論理の 交錯する 表現も 可能に なる。

    ふゆに スキーに い   く ために/ので、いまのうちに アルバイトして おかねを ためておくのです。  未来(目的行為)
    ふゆに スキーに いきた い か ら/ので、いまのうちに アルバイトして おかねを ためておきます。   現在(行為希望)
    ふゆに スキーに いくだろう から、いまのうちに アルバイトして おかねを ためておかなければなりません。現在(行為推量)
  cf. ふゆに スキーに い っ た ために/ので/から、おかねが すっからかんに なって、どこにも いけない。 過去(実現行為)

未来を きりひらく ために 現在は あると、将来の 目的を めざし 計画を たてて 行動する こと、つまり 観念的に 時間を さきどりして 因果関係を くみたてる ことができる ようになる ことが、社会の 近代化の 過程には 必要と されたのだと おもわれる。また、つぎのように、

    試験まえに ちゃんと 勉強したのなら、こんな 点数、とる はず ないぢゃ ないの。

過去の ありそうもない 状況を あえて 仮定して、現在の 状況から その 仮定の 蓋然性(可能性)を うたがう 「背理法」的な 表現を 古代語では 表現できた のであろうか。できごとの テンス(未成立/成立)と、条件帰結関係の 仮定/確定(または 未定/既定)とが、くいちがって 並行しない ばあいが、近代的な 人間社会では おおくなってきた のではないだろうか。もちろん、つぎのような 反実仮想 といった ムードの、「過去」の 助動詞未然形の「仮定」表現が ある ことは 定説だが、例は すくなく、和歌に 「… せば (… まし)」の かたちでのみ みられる という。

    よのなかに たえて さくらの なかりせば はるの こころは のどけからまし(伊勢 82段、古今 53)

過去の 助動詞「き」の 活用は、カ行系と サ行系との 補充法的な システムを なしており、近代的な 解釈の 投影(あてはめ)である 可能性も 否定しきれない。「補充法」自体、形式の ちがいよりも 意味機能の にかよいを 優先して 同語と 認定する 仮説(学説)であって、学者の 整合的「解釈」そのものである。うのみには できない。臆測するに、この「せ(ば)」は、形式用言「す」未然形の 仮設性 (<連用体言+設定 cf. かりに …と する) が 多分に のこっている 慣用語法である ものを、のちの 学者が「仮定法過去」的に 解釈して 過去(回想)辞として 再構成した 結果ではないか と おもうのだが、どうだろうか。なお 「ほり す>ほっす」「おもみ す>おもんず」「-に す>-ず」なども 比較 参照。

 念のため。山田孝雄『奈良朝文法史』が あげている「せば」は 全11例、うちわけは、
    ありせば 2、しりせば 4、なかりせば 1、ふきせば 1、
    なりせば 2、ふりにせば 1。
であり、山田が 形式用言(サ変)説を 否定する 論拠に した、「なりせば」2例は、「形式用言(存在詞)」なら 問題は ないはずだし(cf. ありせば 2例)、うち「みやこなりせば」は、有名な「駿河なる 富士の高嶺に …」と おなじ、半自立の「みやこに あり(と) せば」の 例であると すれば なおさらであり、「ふりにせば」の「に」は、完了の助動詞(確めの複語尾)ではなく、判定(の 存在詞の 省略)の「あまま(雨間)も おかず ふるに (ありと) せば」[=やむ まも なく ふる(のだ)と すれば] の 意ではないかと 推測される。「ふり/ふる]の 部分は、万葉がな表記ではなく、表語漢字「零」であり、よみは「ふりにせば」の ままでも、ここを 賓格として 解釈する ことは 可能かもしれない。反例が これで すべてなら ―― そう あるべきだと おもうが、形式用言「す」未然形 という 語源説を 否定する 論拠は なかった ことに なる。『平安朝文法史』に 赤染衛門集の「… きえにせば」が あがっているが、証拠には ならないだろう。「‐にせば」の 伝承が あった 証拠には なるかもしれないが。山田も とくに 説明は していない。一般に、孤例の 処理 というのは なんとも なやましい もので、論定には 慎重であるべき はずだが、どういう 経緯で 教科文法の 定説に なってしまった のだろうか。わたしの 高校生時代には 「(せ) ○ き し しか ○」と、さきの 業平の うたとともに 暗記させられた ものである。

 以上は、古代語において「過去の 仮定(未然形)」が あったと かんがえる ことを うたがった のであって、反実仮想の 存在自体を うたがった のではない。じっさい、「ませ(ましか)ば」の 推量系や 「ずは・なくは」の 否定系が 現実と ちがう 場面を 設定(仮想)しているし、「… ものならば」といった 形式名詞+判断系の 表現も、古今集「よみびとしらず」時代には つかわれている。
 このほかにも 専門家の 意見を あおがなくては いけない 問題も のこっている ことだろうが、こうした、未来事態を 既定と みなしたり、過去事態を 仮定と みたてたり という 表現は、意味機能的に テンスと 条件関係とに 分析された ものを 総合してこそ 表現できる ことである。その 必要から、テンス対立を もった できごと(節・句)どうしを 接続する「つなぎ」が、社会の 近代化の 過程で うまれてきて、「ば・と・たら」の 条件形(用言の 非テンス語形)との 二本立ての 文法システムに なり、「(する/した)なら」の「判断条件」が 両者を 媒介する 中間的な 位置に たつのである。その 歴史的な 移行期に、偶然仮定の「たら(ば)」や 必然仮定の「なら(ば)」が 独立して もちいられはじめた ことが、のこされた「恒常条件」を とおして、「すれば」形が 旧「已然形」から 新「仮定形」へと 移行するのを たすけた ことについては、阪倉篤義 松村明 小林賢次らの あきらかに した とおりである。「すると」が テンスを もたない 条件形に なったのも、格助詞としての (基準)用法から、「…と ひとしく・おなじく・同時に」>「…と いなや・そのまま・すぐに」>(その 副詞部分 脱落)>「…と」(独立)、という ながれで 成立したと みる こと(ex. 岡崎正継 小林賢次)で 説明できるし、偶然性の「たら」との システム内の はりあい関係が 「すると」に 一般(恒常)性を もたせた ことも 無理なく 説明できる。…… と いった ぐあいに、文法カテゴリーや 構文機能の (下位)システムを 設定し、その 内外の 相互作用を みる ことによって、阪倉の 通説は、補強/修正できる ように おもうのである。

2)阪倉の 研究の 基礎に ある 山田文法 時枝文法には テンスや ムードの 文法的カテゴリーは なく、参照した 松下文法の「動詞の拘束格」の 分類も、汎時的で 論理(普遍)的な 分類であって、『標準日本文法』と 『標準日本口語法』とに 小異は あっても、それは 日本語の 歴史的な 展開を 反映した ものではない。阪倉に、要素の 増加という「表現の推移」は みえても、文法システムの 歴史、テンス ムードや 複文構成の 表現の 展開、質的な 転換は みえてこない のである。テンスや ムードといった 文法的なカテゴリーや 複文関係という 構文的機能を 無視して、「複語尾・助詞」「辞的表現」や「詞・原辞」の 汎時的な 論理分類のなかで 分類要素(語形式)が 交代したり 増減したり するのを 記述 分析する 方法では、要素の 量的な 変遷が 視野に はいってくる だけで、文法システムの 質的変化を みわたす 展望(視界)は えられない。なまいきな いいかた ではあるが、山田文法 時枝文法も、松下文法も、分類の わくぐみ自体は、非動態的で 純「共時」的な ものなのである。よく いえば、汎時的 普遍的に あてはまる 論理的な わくぐみ(framework) なのである。現実態としての 歴史は、不変の わくぐみ(潜勢態)の なかでの 項目の 移動や 交代に すぎない。『奈良朝/平安朝 文法史』『日本文法 文語篇/口語篇』『標準日本 文法/口語法』相互を 比較の こと。

 古代語の <条件 単独システム> から、近代語の <条件/接続 選択システム> への 展開の 歴史が 複文の レベルでの はなしだ とすれば、同様の ことは 単文の レベルでも いえる 可能性が ある。かかりむすび という 形式的な 呼応現象が 崩壊していく ことは 日本語学の 教科書でも よく とりあげられるが、文の 構造が 古代語の <かかり-むすび 呼応卓越システム> から、近代語の <格+とりたて 関係明示システム> に 展開する、と 「文構造」の 歴史的な 展開として とかれる ことは まず なかった ように おもう。なかで、森重敏1959『日本文法通論』は、「係結的断続関係」「論理的格関係」という ことばで 概括的な 論及は しているが、おしむらくは 意味原理主義とでも いうべき、非「形式」的な 方法が じゃまを したのか、具体的な 文構造の 歴史の 探究には むかわず、「文体論」的な 考究に 飛躍してしまった ように みえる。

 そのため いまも なお、<格・とりたて(副)・かかり、終・間投、接続(条件)> という《助辞》の 分類は、時代を こえて 適用できる、汎時的に 不変の「論理的な わくぐみ」の ままであって、外部からの 刺激に 応じて、内部の 相互作用によって 自身が 展開 変化する 動的システムとしての 歴史言語学の 概念に なっておらず、実質(名詞 動詞など)を ともなった「文法的な カテゴリー」としては 不十分というか、無規定に ちかい。いわば、わく(外延)だけ 規定されて、なかみ(内包)の 規定が ない、からっぽ(空虚)な いれもの(形式)である。松下流に いえば、原辞論と 詞論との 混同であり、「相」や「格」の 文法的な カテゴリーも うまれない。松下は その点では 一歩を すすめたのだが、その カテゴリー論が 淵源(=本質)主義に わざわいされ、(要素も) 変化せず (全体も) うごかない ものなのである。ねっこは 19世紀以前的に「本質は 不変」で、なまえだけは ヘーゲルを しっていた 山田より ふるい「百科全書」派なのである。
 それが 不要だと いっている のではない。それでは 不十分だと いっている のである。念のため。この文章こそ、理屈(わく)ばかりで おもしろい 記述(なかみ)が ともなわないのは なさけない かぎりだが、古代語〜近世語の 不勉強の たたりで、どうしようも ない。「木を見て森を見ず」ならぬ「森を見て木を見ず」の たぐいであり、具体的な 歴史の「かたり」には、将来の 日本語史研究者に 期待する しか ない のだろう。  


 ■「は」と「も」―― とりたて と 接続 ――

0)ここに のべる ことは、基本的に いいふるされた ことである。はなしの 展開に ちょっとした くふうを して、あたらしい メニューの ように みえてくる のであれば うれしいのだが、さて どうだろうか。

 「が」と「は」の つかいわけ などと、格助詞の「が」と 係助詞の「は」とが セットに して 問題に される ことは おおいが、係助詞どうしの 「は」と「も」が セットに して 問題に される ことは、日本語教育など 現代語の 世界では おおく なかった。実用上の つかいわけは 問題にならない からであろう。しかし 文の くみたてかた 構造や その いわゆる 文型 sentence pattern の 諸タイプを 問題に する ように なると、「は」と「も」は、かなり 重要な パタンを した、種々の 文タイプ sentence types に でてくる 基礎的な 文法語形である。

1)さて、むかしの はなし、

    をとこ すなる 日記といふ ものを をんな してみむとて するなり。

という 土佐日記の かきだしについて、「おとこも」というのは、論理的には「おとこが」の 意味だろうに なぜ「も」なんだ、などと 高校生が 予習していて おもったり、古典教師も その ちがいを 解説してくれたり したのであったが、こういう かんがえかた自体、近代的論理による 解釈の ひとつであって、じつは この「も」は、「おんなも」してみる ことによって 対比されていた「おとこも おんなも」どっちも ふくまれてしまう 結果の 状態に 着目した 表現なのである。現代でも、かいものに ついてきた こどもが おみせの なかで おかあさんに むかって 、

    ねぇ、ぼくの おかしも かってよ。

と いう ばあいの「ぼくの おかし」も、もちろん かった 結果「ぼくの もの」に なるのであって、「ぼくの (いま もっている) おかし」の 商売を しようという 表現ではない ことは、いうまでもないだろう。
 この、「対象の を格」か 「結果の を格」か という 格的意味の ちがいは、名詞と 動詞との むすびつき という 連語構造の 型によって 基本的には あらわされているのだが、ときに 場面の ちがいに よってしか ちがいが わからない 二義性を もつ ばあいも 生じる。売買関係や 貸借関係 といった 結果も だいじな ばあいに おおい ようである。事態を 動的な 動作 変化として とらえるか、静的な 状態 結果として とらえるか という ちがいは、広義の アスペクト性の 表現の 問題であり、古代語の「つ・ぬ」の つかいわけ における 動作/変化 もしくは 意志持続/無意志瞬間 の 問題にも つながり 興味ぶかい ものが あるが、いまは はなしを ひろげすぎない ことにする。

2)動的にしても 静的にしても できごと(事態)は、さらに それが 他の ものとの 比較(とりたて)関係によって、「Aは …、Bは …」と 分離対照的に とらえるか、[Aも …、Bも …」と 包含対比的に とらえるか、という ことも だいじな 着目点として、日本語の 古代から 近代に わたって 一貫して 表現を うけてきた。名詞の 格関係や 動詞の アスペクト などが タテの syntagmatic な 結合関係なら、とりたて(比較)関係は ヨコの paradigmatic な 選択関係である。いわば 縦横無尽の 関係づけである。ただ、古代語は、

    [をとこ すなる 日記]といふ [ものを をんな してみむ]とて するなり。
    [いにしへ しかに あれ]こそ ⇔ [うつせみ つまを あらそふ]らしき。        (万葉 13)

    くにみを すれば、[くにはら けぶり たちたつ]、[うなはら かまめ(鴎) たちたつ]。
      [うまし くにそ ⇔ あきづしま やまとの くに]                 (万葉 2)
    [父母 枕の かたに]、[妻子ども 足の かたに] くく(囲)みゐて、うれへ さまよひ …。(万葉 892)

注)「こそ ⇔ らしき」は、動詞文の 已然形呼応の 逆接従属節への かかりではなく、形容詞型活用助動詞の 判断文では 連体形(体言)どめの 喚体的な文への 詠嘆的な かかり、つまり「ぞ・なむ」と 同種の かかりであった 可能性も あるが、ふかいりは しない。
の ように、対比 対照といった 比較を うける [できごとの 範囲] 内での <かかり-うけ> としての 提示関係が 優先して 表現される。「は・も」は、<かかり-むすび> としては 形式的に 無標的であって、単文か 重文か 合文か 有属文か によって その 照応範囲は 伸縮するが、他の 有標の「ぞ・なむ・や・か・こそ」も ふくめて、<かかり> 卓越の システムの 時代だと いっていい。近代語に なる ほど、

    おとこ する ものと いわれる 飛行機の 操縦という ものであっても
    おんな してみていいだろう と おもって 試験を うけてみた のです。

とか

    おかあさんの かいものには ついてきた けれども
    おかしの ならんでいる ところにも おかあさんを ひっぱって いくんだ。

といった ように、<格+とりたて/接続> 関係を 明示する ことが おおい。
 この 土佐日記冒頭の「ものを」は、名詞の を格で(も)あるが、文のなかで 逆接の 関係的意味が(も) 準備されている ことに(も) 注意しておきたい。(この まえの 文自体、「も」使用の 例証に なるだろう。)

 このように、「は」という 分説−対照 ばかりでなく、「も」という 合説−対比も、日本語で このまれる 分別(関係づけ)であって、もののみかたの 二大分割と いっていい かもしれない。「Aと Bと(は)…/Aか Bか(も)…」という 並立(ならべ)関係の 基礎分割でも あり、「では ない/でも ある」「ては いけない/ても いい」といった 否定/肯定の 「みとめかた」(主述関係認定)の 分析にも 対応している。

3)ところで、

    ひと をし ひと うらめし あぢきなく よを おもふ ゆゑに もの おもふ みは (小倉百人一首 後鳥羽院)

という うたでは、「も」は、かたちの うえでは 名詞に 付着しているが、意味の うえでは 「ひとが いとおしいとも、また ひとが うらめしいとも、おもわれる」という ぐあいに、感情内容としての (引用)句に ついているとも かんがえられる。意味的な 句の 分節が 形式的な 語の 分節として 現象する わけである。これも 現代でも、

    たばこ すうが、さけ のむ。
    たばこ すっても、さけ のまない。

は、

    たばこを すう 習慣、さけを のむ 習慣 ある。
    たばこを すう 習慣 あるが、さけを のむ 習慣 ない。

と、論理的には 等価である。

 語と 文とに 分節されている ことは、人間言語の 本質的な 性質であるが、根源的な 分析−総合関係に ある だけに、両者に くいちがいや きしみ、移行や 併存など 相互作用的な 交渉も おこるのである。峻別できると おもうのは、部分と 全体との 相関が みえない からである。

4)語の 格関係が 句の 接続関係に 拡張された こと自体は いいふるされた ことだが、いいかげんに おもっていては いけない ことは、その 移行の さい 用言準体法や 形式名詞など 名詞句(節)を 構成する 形式が 関与していた ことである。

    やすみが とれた か  ら、海外旅行も できたんです。    (終止法+接続助詞 < 準体法+格助詞)
  cf. やすみを とった ことから、次年度の 契約を うちきられた。  (形式名詞+格助詞)

    やすみが とれた ので、海外旅行に でかけました。      (原因と 結果の 記述)
    やすみが とれた ため、海外旅行に でかけられました。    (主文の 原因の 指定)

 接続助詞「ば」自体、その 有力な 語源説が、たとえば「ゆかば < ゆかんば < ゆかむは」の ように 「む」の 準体法が 想定されているし、一説に よれば、その「む」は 「も」の 活用(母音変化)した「助動詞」であり、「(お)も-ふ [思]」は 接辞を ともなって 動詞化した ものだと いう。ぬ > いぬ、つ > うつ、へ > うへ、もふ > おもふ であって、逆では ないだろう。ねっこは 地下ふかく からみあっている。

5)「は」は 他と はっきりと 区別して とりたて、「も」は ぼかして 他を ふくめて とりたてる。それが、語の レベルで あらわれた とき 「とりたて」と よび、句の レベルで あらわれた とき 順接/逆接の 「接続(条件)関係」と よぶ わけだが、その ふたつの レベルが 交錯して 現象する ことが あるし、歴史的に 移行しても、もとの ものも きえず、共存している わけである。その 区別が 択一的でなく、未分化的に 融合(共存)していて、形式的な 呼応で いわば 作用域を かぎっていた 現象を、じつは 「かかり(むすび)」関係と よんでいた のではなかったか。
 「は・も・ただ(φ)」は、無標であって、対比対照される 複文では その 従属節内部、単文では 終止形と よぶ 通常の 文末まで、「ぞ・なむ/や・か」は 連体形(体言止め)の 喚体の(に準ずる)文の 文末まで、「こそ」は 已然形の 逆接従属節まで を 作用域として 強調卓立(強調的な とりたて)を おこなう、と みるのである。ついでに、「の・が」も、やはり 連体を 中心にする 従属節(非文末)を 作用域とする 主項目の 提示/表示なのではないか。連体(格)助詞 主格助詞などと よばれているが、格明示性は よわい。「主格・対格」といった 主要な 格関係は、無標(ただ φ)の「名格〜一般格」によって あらわされるのが 基本である。「連体」も 複数 あったと いうが、連体関係が ゆたかであった というよりは、関係自体が 解明しきれていなかったと いうべきではないか。のちに 「の」が 連体助詞、「が」が 主格助詞に 展開した ことから 変化傾向を 逆算して、「の」は 従属節を 包容する こと(⇔ も=包含)に、「が」は 従属節内で 指定する こと(⇔ は=分離)に、もともとの 機能は あったのだ と、基本助詞の 四角関係(二重二項対立)#を 推測したくなる。個々には、すでに 指摘されている ことなのだが、どうだろうか。

    機能\領域   制限なし   従 属 節

    個 別 化   は(分離) ― が(指定)   #十字分類と いいたかったのだが、
            |      |       トラウマの ひとも いる らしく、
    類 縁 化   も(包含) ― の(包容)    辞書にも ない 俗称 らしいので。

 「かかり(むすび)」関係が 卓越していた 時代には、格と とりたての 関係は 背後に (未分化的に) ひそんでいて、「格・とりたて」関係が 明示される ように なった 「閉じた表現」(阪倉)の 時代には、「かかりむすび」呼応関係は 消滅して、とりたて(比較)関係に 融解 変質した、と かんがえていい ように おもう。

 こう かんがえてくると、古代語において たとえば 「わが きみ」⇒「わが おもふ きみ」「わが こふる きみ」といった [連体+名詞] 構造の 拡大が 複文の 重要な 発生要因であった と かんがえられる だけでなく、近代語化の 過程で 格から 接続が 発生した 媒介として「形式名詞」が 関与している ことも、しっかり 評価すべきである。文法(論)において、名詞が 無機能だ なんて、ありえない ことなのである。
 


■ 時間と 叙法と つなぎ ―― 陳述論 と 複文論 ――

1)「時間と 叙法と つなぎ」という 三題噺となれば、南不二男の 文4段階理論との 関係に すすんでいく ことになる。いくつかの 修正を くわえなくては いけないのだが、議論が 錯綜しそうなので、そのまえに おおざっぱな 結論を 図式に して 一覧させてもらう。

    段 階:代  表  語  形     代表機能   出現 範疇・語形 etc.  「主語」

    A段階:して/しながら/しつつ    修 飾 形   格支配 ヴォイス    所動主体
    B1段階:すれば/したら/すると    条 件 形   肯否 アスペクト    主格主語
    B2段階:ので−のに/ために−くせに  原因 目的  テンス 述語様相    とりたて
    C段階:から/け(れ)ど(も)/が/し  理由 前置  叙述法(推量・説明)   題目提示
  cf. D段階:と/なんて (との・という)   引用 話法  命令法 勧誘法     (よびかけ)

おおきな 修正ポイントは、南の B段階を B1と B2とに わける ことに ある。時間(テンス)の 対立を もつか どうかが 判定基準である。テンス対立の 有無の 重要性は 前々回の「つなぎの 近代性」で あきらかだと おもい、くりかえさない。
 ただ、節(clause)と 句(phrase)とを 区別する 尺度として 主語が つかえる 西洋の ことばと ちがって、その 省略が おおく 基準としては つかえない 日本語では、かわりに 述語部分の テンスや ムード、さらには アスペクト ヴォイス といった 文法カテゴリー(範疇)が つかえる という ことは、日本語で 検証 確認する だけでなく、普遍的に 提起しても いいかもしれない。文や 述語の 陳述論、主文末の 陳述論と 従属節述語の 陳述論(複数) という 部分領域が どうやら (並列的でなく) 階層的な 構造を なしている らしい ことが、日本語では、膠着的だと いわれる 形態的な 分離性・順列性から 推定され、述語部分以外の 部分も 同様だと 意味的照応の (入れ子的な) 重層性から 推論される のである。
 かつて べつの ところで しめした ものを ちょっと 修正して、形象的な 図式として しめせば、おおよそ つぎの ように なる。


        太郎        花子      写真  見         (素材)
                   に       を  せ(る)       A
         (が)            全く      な(く)      B1
           きのう 特に    は          (あっ)た     B2
     多分   は                        だろう  C
  ねえ                  ね                ね D
 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
  ねえ、多分 太郎は きのう 特に 花子にはね 全く 写真を 見せなかっただろうね

2)B2段階と C段階との ちがいとして、C段階では「だろうから」という 推量表現が 前接可能である ことが、永野賢以来 その「主観性」に 注目して いわれている わけであるが、おなじ C段階に「−のだから」という 説明叙法の ついた 用法も ある ことに 注意すべきである。

    かぜを ひいた か  ら、学校に いけず 一日 いえで ねて いました/いたんです
    かぜを ひいた のだから、学校に いかず ずっと いえで ねている べきだ/ほうがいい

「から」が 事実の 理由を 記述したり 説明したり する だけなのにたいし、「のだから」は これから とるべき(当為の) 行動を 判断する 根拠(=判断理由)を、「説明+から」の かたちで あらわしている のである。できごとの 描写 記述の レベルの 表現か、判断 説明の レベルの 表現か という 差を、従属節「から」の まえの「のだ」述語が あらわしている と いっていい。「−のだが・−のだし」などにも おなじ ことが いえるだろう。主文における 現象(動詞)文と 判断(名詞)文との 区別は、従属節においても 「のだ」の 付加によって くりかえされる のである。
 「だろうから」も、ただ 主観的だ という のではなく、推量という 間接的な 認識による 思考過程を ふくむ「理由」だから、客観的な できごとの「原因」を あらわす「ので」と ちがう のである。人間の 思考過程を とおす「知的な 心理過程」という 意味で「主観的」なのである。

3)ひとつ ふたつ 境界現象について 注記しておけば、A段階の 代表の「しながら」については、南も すでに いっている とおり、

    … 牧師の 説教を よくは わからぬながらも、きいて 感服していた。
    しっていながら、しらない そぶり。

といった、肯否や アスペクトが あらわれるのは、順接的な 同時(併行)用法ではなく、B1段階の 逆接的な (同所)併存用法である。
 「して」の ばあいは、南は やや 微妙な いいかたを しているが、

    帽子も かぶらないで/ずに、でかけていった。
  cf. 帽子も かぶらない すがたを した ままで、でかけていった。

と 否定に なると、修飾用法から 半分 (継時)並列〜(同時)並立に 移行しかけた、半自立句性の 中間的な 事例に なる と かんがえられる。
 着脱可能な みなり(服装)「帽子を かぶって」と、「手を たたいて (よろこんだ)」「みみを そばだてて (きいた)」といった、着脱できない 身体の みぶり(表情)とは ちょっと ちがってくるだろう。「手を たたかずに」「みみを そばだてないで」とは 通常 いわないし、「手を たたかずに(拍手しないで)、不満の 意を 表した」と いえば、あきらかに B1段階の (手段性を もった) 別の 動作の 並列である。

4)この 南の 文段階理論は、陳述論と 複文論とを 総合しうる モデルとして 興味ぶかい ものであるが、汎時的に 不変な 図式ではない。B2段階と C段階が 近代に 生じた 層(段階)である ことは いままでの 議論で あきらかであろうし、のこりの A B1 Dの 段階も 形式の ことなり量は すくなく 意味機能的にも 未分化的であって、中古かなものがたりの 連綿と つづく 文章を みても、かなり 並列的 連想的な つながりで 非階層的であった ように 推定される。江戸期の 文章の 展開を ふくめて、どう モデル化できるかは 専門家に まかせたい。

 細部に わたれば、まだまだ ふれなくてはならない 事例も たくさん あるのだが、すべて はしょって、「の」という 準体助詞とも 形式名詞とも よばれる ちいさな <名詞化辞> だった ものが、日本語の 歴史の なかで 必要と される 構文上の 機能に 応じて、文中の「つなぎ:ので・のに」としても、文末の「むすび:のだ」としても、おおきな はたらきを してきた ことを ここでも 確認しておきたい のである。しかも、その ルーツが 従属節(おもに 名詞節)全体に ざっくり 包容的に かかる 辞であったと 推定される ことも、従属節の 包容から、後略による 代理へ、前置従属句の 名詞句としての 統括へ、さらに つなぎ(接続詞 = 従属節統括)、むすび(補助述詞 = 主文統括)へ、といった 歴史的な みちすじを あらあら おもいうかべてみると、日本語の 歴史(history 由来 縁起 ものがたり)への つきせぬ おもいが わいてくる。

付)いま なんとなく 回顧的な 気分に ひたっている。いままで かく チャンスが なかったが、南不二男さんは、大学院で 非常勤講師として 1年、国語研では 直属の 上司 体系部長として 数年、指導したり 相談に のってくれたり した。大学院の 指導教官 松村明の もとで はじめて 研究発表したのが じつは 条件表現で、阪倉篤義の 変遷研究と、宮島達夫の 意味記述とを くみあわせて 研究課題を さぐった ものだったのだが、その席上で、「たら・なら」の 独立化の 過程や 「ほど・さかい」といった 形式名詞の 頻用傾向などを、先生は 示唆してくれた。
 国語研 入所当時の 体系部長は 西尾寅弥さん、語彙研室長は 宮島達夫さんで、文法における 語彙の 基礎的重要性を おしえてくれた。わたしの 所属した 文法研の 室長は 高橋太郎さんで、さいわいな ことに、当時 奥田靖雄から ひきついで、動詞連体節や 『にっぽんご 4の下』(文論 試作版)に とりくんで 複文を 概観記述する とともに、動詞形態論 とくに テンス アスペクトを 研究し、しかも 大の 議論ずきで あった。
 「叙法副詞」執筆時の 部長は 空席で、林大 所長の 兼務であった。難産だった この 論文の ぬきずりを ていねいに よんでくれた うえに、所長室に わざわざ よんで 数時間に わたって、構文上の 混淆(Kontamination)や 異分析(metanalysis)が 歴史的な 言語変化のうえに はたす やくわりの 重要性を めぐって、(義父)橋本進吉の 有名な「切符の切らない方」の 例を かわきりに、えんえんと かずおおくの 具体例を あげて おしえてくれた ことが あった。大正2(1913)年うまれの 林所長にとって、「どうぞ …… していただきたい。」という 例は、「どうぞ …… してください。」と「どうか …… していただきたい。」との コンタミナツィオーンではないか というのが、そもそもの 発端だったと おもう。近代日本語の いき証人としても、日本語史家としても 卓抜な はなしであった、と 記憶する。ノートは もっていかなかった。ぬきずりの 余白や 表紙うらに かきこんだ メモだけが わずかに のこっている。それが もったいない ことだったのか、さいわいしたのか。はなしは おおいに はずんだし、19世紀的な 歴史的研究の 必要性 重要性だけは、わたしにも じゅうぶんに つたわった。「ソシュールより パウルを!」(メモより)
 おもいかえせば、ひととの めぐりあわせが とても さいわいであった ように おもう。国語研では、所長は 別格として、所員は 飲食時に 毎日のように 質問や 議論が できた。あいては めいわくだった かもしれない。ときに ゆめの なかでも おおごえで 議論していた という。こころのこりと いえば、わたしの いた 当時の 国語研は、計量研究 はなざかりの 時代(岩淵所長時代)の 余波も あり、林大 田中章夫 土屋信一 といった そうそうたる 日本語史研究者が そばに いたにも かかわらず、史的研究の はなしは 気楽に できない 雰囲気だった ことくらいだろうか。


■「ただしい」と「すぐれた」

 2002年に 奥田靖雄が しに、2015年2月に 鈴木重幸が しに、ついで 12月に 宮島達夫が しんで、いわゆる 教科研文法の 主要メンバーが みんな あのよに さった ことになる。おりしも わたしも「70にして こころの ほっする ところに したがって、のりを こえず」(論語為政)とか 偉人の いう としにも なったので、すこし つつしみの ない はなしを してみる ことにする。わたしの ばあい、のりを こえる ちからは ないだろう。

1)宮島は 生前、2006年の「言語研究における主観と客観」という『ことばの科学 11 奥田靖雄追悼号』に のせた 論文の 末尾を、

「すぐれた日本語」とは、どのようなものか。この問題に、この場でこたえようとすれば、主観主義におちいるだけである。いまできることは、せいぜい、「ただしい日本語」であることが「すぐれた日本語」の1つの条件になるはずだから、われわれは、まず「ただしい日本語」をあきらかにする研究をするのだ、というくらいのところだろう。「ただしい日本語」の研究さえ、主観的な評価を無視できない。まして、「ただしい」から「すぐれた」に達するには、飛躍が必要かもしれない。客観主義のたちばから模範解答風にいえば、その飛躍もまた、文体論や修辞学といった<科学>の建設によって一歩一歩近づいていくことを期待すべきである、ということになるだろうか。しかし、ただしい科学的な結論は1つしかない、といってほかの議論を抑圧した事実をみたあとでは、客観的な科学の建設をそれほど素朴に信じることはむずかしくなっている。
と むすんでいる。「すぐれた日本語」というのは、宮島自身が いうように 1956年の「教科研テーゼ」の 「子どもたちを すぐれた 日本語の にない手に そだてあげる ことが、国語教育の 基本的な 目標である」を うけた ものであるが、「ただしい日本語」というのは、おそらく 1953年の 奥田靖雄著『正しい日本文の書き方』を うけた ものだと おもわれる。漢文に対しては 和文、欧文に対しては 邦文、というのが 当時も あったと おもわれるが、あえて 原文では それより 普遍的に さす 語として、世界のなかでの「日本語の文(章)」という 意味で 「日本文」という 複合語を つくって つかったのであろうが、標準的な 言語としては 定着していない ようである。外国に関しても、英文 仏文 独文 中文 … という 略称(二字漢語)は あっても、イギリス文 フランス文 ドイツ文 中国文 … などとは ふつうには いわない ようだから、とくに かわった ことでは ないのかもしれない。また、「すぐれた」は「日本語」だけでなく「日本語の にない手」全体に かかると みられる ことは、「ただしい」も「日本文」だけでなく「日本文の書き方」全体に かかると みる ことができる ので、これ以上 えだはの 問題には かかわらない ことにする。
 ここで 重要なのは、当時の 民科言語部会の 共同研究として おこなわれていた という「ことばなおし」の 材料を つかって、実際の 例が 日本語の 文法法則に かなっているか どうかを かんがえながら、奥田が 理論的に 日本語文法を 説明しようと こころみた、そんな (集団的作業を もとに した) 著書の なまえが まっさきに うかんだ という ことである。つまり、民科の 共同作業の 初期の 目標が「ただしい 日本文の かきかた」であり、教科研国語部会の たちあげの 目標が「すぐれた 日本語の にない手」の 育成だったのであり、どちらも 当時の 会員にとって 共同の 目標と なる、価値の たかい ものであったのである。「ほかの議論を抑圧した事実」が おきる までは。
 たとえば「うまく・じょうずに」は、形容詞連用形か、副詞か。可能の「よめる・おきられる・することができる」などは、格に かかわる たちば(voice)の 一種なのか、行為の ありかたに かかわる モダリティの 一種なのか。希望の「したい」は、派生形容詞か、動詞の 希望態(という 派生態)か、動詞の 希求形(という 活用形)か。……… 理論的な 対立が かんたんには 統一できない ばあいも おおい。その 対立が 言語の がわの 移行的な わたり(過渡)形状に 起因する ばあいは、共存できて すくわれる。「一方的に かたづけては いけない」(「単語について」著作集言語学編(3) p.31) と 相対化する ちからが はたらくから。可能と 希望は おそらく 歴史的な 移行であって、それほど 深刻には ならない。対立が、 人間の がわの わくぐみの つくりの ちがいに 主として 起因する ばあいは、学問的な 妥協の 余地が ほとんど なく、もじどおり 「主観的な 価値観の 対立」に なりやすい。通念=公理の「聖域」に 検討を くわえる ことによって 相違や 対立が 止揚できる ばあいも あるが、とかく 感情的な 対立に なりやすい。渦中の 当事者は、「客観的な科学の建設」に 冷静に むかうより、離合集散してしまうのが ふつうである。
 「うまく・じょうずに」を 形容詞連用形と する 『語彙教育』+『文法教育』の 時代から、副詞と する 『にっぽんご 4の上 文法』+『日本語文法・形態論』の 時代を へて、妥協し 共存する 『にっぽんご 6 語い』+『語彙教育』の 時代へ という うごきは、稀有の 妥協であったと おもう。当時の 教科書作成の うごきや すりあわせの ポイントを、事務局的な 冷静な 記録として どこかに のこしておいて いただきたいが、奥田原案という 教科研国語部会編『あたらしい にっぽんご』(2014)の、これから あるべき 副詞の 解説を 想像してみると、どちらの たちばにも 中正な「冷静な 記録」というのは ありえない のかもしれない。唯一 ありうる としたら、どっちでも たいした 問題ではない、主要品詞の 最周辺に 位置して 語彙と 文法との 融合する 現象の 境界的な 処理に すぎない、と みる 角度から 対立自体を 止揚できた ときだけであろう。


2)その 研究会会員にとって 重要な 意味を もつ 奥田靖雄著『正しい日本文の書き方』を、奥田靖雄著作集は いまのところ 完全に 無視している。言語学編に 採録も せず、採録しない 理由すら 言及しない。推測すれば、樋口文彦編(1997)「奥田靖雄の著作目録」(『ことばの科学 8』)に 「はしがきの部分とまえがきの部分を執筆」と ある ことに したがって、奥田の 著作と みとめなかった のだろう。これは、奥田の 言(記憶)に したがった 処理だったと おもわれるが、<他の ひとの したがきを もとにした 執筆の 部分ではなく、単独執筆の 部分は ここだけだ>という 意味に 理解すべき ものだと おもわれる。たとえば 第5章「動詞の つかいかた」の 活用についての 部分など 内容的にも 奥田にしか かけないし、用語の 点でも 「文 sentence / Satz」のことを 「文章」と よんだり;「構文論 Syntax」のことを 「文章論」と よぶ;ふるい ドイツ文法の 慣用も、(戦前の 教育を うけた) 奥田の 当時の 用語法であって、戦後 時枝文法の 洗礼を うけた わかい 世代の 文章には みられない(引用注の 必要な) 用語である。「ことばなおし」の 共同研究を もとにして 執筆されたのは まちがいないだろうし、この 動詞の 章にも、「ことばなおし」例に かかわる したがき原稿が あった ことは 否定しないが、論作原稿段階の たとえば《活用表》の つくりかたに関する 執筆は 奥田の ものと かんがえる べきである。その ポイントは、

1) 古代語では 「せむ」ひとつだったのが、近代語では 意志勧誘の「しよう」と 推量の「するだろう」とに 歴史的に 分化発展した 活用形と みる こと、 cf. イェスペルセン「総合から 分析へ」、中村通夫「意志形と推量形」「現代語の 分析的傾向」

2) 過去推量としては、つかわれかた(用法)の 実態に したがって 「しただろう」を 膠着的な かたちであっても 採用して、より 融合的な かたちであっても「したろう」は ふるい 文語形として、口語の 活用表からは はずした こと、 cf. フンボルト "Energeia"

3) 総じて、形態論(主義)的な かたちづくりより、(構文論も ふくむ)「文法的な 対立」つまり《表現形式の 選択》を 優先して 重視した こと、 cf. サピア "form" = ["pattern"(結合型) + "type"(選択類)] = ["process"(みちすじ) + "concept"(なかみ)]
であり、奥田(教科研)文法の 出発として 記念すべき「動詞活用表」の 初出文献なので、あえて 一言する。田丸文法や 宮田文法などの ローマ字文法と 決定的に ちがうのが この 3点であり、「外形としての 形式」より 《意味選択(形成用法)としての 形式》を 重視した のである。

 そして 共同研究者だった 鈴木重幸は、1989年の「動詞の活用形・活用表をめぐって」(『ことばの科学 2』p.118)の 段階に なっても、2006年の「奥田靖雄の初期の言語学論文をよむ」(『ことばの科学 11』p.37)の 時期に なっても、肝心の「文法的カテゴリー」や「主観主義」の 真義、あるいは フンボルトの「はたらき = Energeia」と ソシュールの「ラング 体系」との ちがいの 無理解を 露呈している くらいだから、『正しい日本文の書き方』の 共著者とは かんがえにくい ように おもう。著作集編集委員(会)の 意見を ききたい。

【なぜだろう】「文法的な 対立/形式」が エネルゲイアに はたらくなら、「形態論的な カテゴリー/体系」は 半分 エルゴンに なりかけ、というか つねに 危険に さらされている 保守(慣習)的な 存在であり、そこに しがみつくのが 奥田の いう「形態論主義」である。鈴木重幸『日本語文法・形態論』には、こうした 用語が やや 混用されているが、第2部「形態論」の 序説においては、かっこつきの「文法的(形態論的)」という 併記も みられ、形態論/品詞論 という 用語も じゅうぶん 整理して 区別されていない ところが ある。なぜ こんなことが おきるのか?
――― 優等生の 模範解答風には どう 説明するか。わたしの 推定結果は 「品詞論の はなし」の 末尾の「引用文献」に 注記した。
    ついでに、「ぽつり」の「つれづれ」の 19)「ペンネーム」まで よんでいただければ さいわい。のりは こえていないと おもう。
調子に のって、もう ひとこと。『ことばの科学 2』の 湯本筆録(<奥田口述)の 解説(p.4)においても、「形態論的なカテゴリー」と「文法的なカテゴリー」とが 無規定ながら 使用主体べつに 区別して 表現されている ように みえる。さらに、おそれおおくも「ことばなおし」を ほどこすなら、 『文の モダリティー・テンポラリティーが (単語の) 動詞へと 凝縮する ものとして 動詞の活用を あつかい、(文のなかで) 述語のベースとして はたらく (システムとして) 動詞の活用を まとめる』といった 研究が「これからの 言語学研究会の 課題と なってくる のだろう」という 趣旨の 発言で むすばれる。「これからの 課題」と いいながら、わたしには、まるで「文法的な カテゴリー/形」の 例として、「動詞の活用」を みる みかた(観点 接近法)の 特徴を いっている ように きこえる。
 ついでに 脱線ながら、このことは 「動詞の活用」に関して 奥田靖雄の これまでと、言語学研究会(の 会員)の これからとを わけた ことに なり、この 研究会における「孤立 孤高」状態が 晩期の 奥田の 不幸の 根源に あった ように おもう。以後、ソビエト崩壊期の ロシア語文法にしか たよる ものが なくなっていく。わかき 奥田の まなんだのは、伝統文法の 方法と、日本語の 現実である。
 ほんとに「ただしい科学的な結論は1つしかない」段階が あるなら、研究会の 活動 使命は おわり、「あとは 実践のみ」である。


■ 品詞の 提示順

 前項の 第1節の 末尾を むすぼうとして、はたと 気が ついた。予定を かえさせてもらう。

1)奥田原案という 教科研国語部会編『あたらしい にっぽんご』(2014)の 副詞の あつかいについて である。この テキストの ほか 資料が 自宅に なかったので、研究所で たしかめる まで おくれた。編集委員には 先刻 あきらかだった のかもしれないが、わたしは 気づかなかった。

 『にっぽんご 4の上 文法』では、「副詞」という 語は p.109(『形態論』では p.461)まで でてこない。この テキストは、構文論(第1部 文法序論)と 品詞論(第2部 形態論)とが きっぱり わけられていて、第1部 序論では 「修飾語」の ところでも「副詞」は でてこない。他の 品詞名も 同様で、「文の くみたて」は 「単語」と その「意味」とで 説明されている。形式論理的に 体系的な 分類が なされていると ちょっと いやみも いってみたく なる ほど 厳密である。それに対して『あたらしい にっぽんご』のほうは、もくじの かぎりで いっても、全17(章)の うち、

2.単語          (7)副詞
3.文の くみたて(1)   (6)動詞が したがえる 副詞
14.副詞          (1)副詞の 意味   (2)副詞の つくり方   (3)副詞の はたらき
の 3回 でてくる。経験的な 提示から 理論的な 整理へと 配置される。まず 文の 単語への 分節における (語彙的)意味が しめされ、ついで 文の 構造における 動詞=述語との 機能関係が とかれ、最後に、1)意味、2)形式=語構成(転成)、3)機能 が まとめられる のである。形式論理的な 配置 説明ではなく、弁証法論理的に らせん階段を のぼる ように、経験から 理論へと 3段に わけて のぼっていく。
 こうした 順序の ばあい、体言=名詞、用言=動詞、連体修飾=形容詞、連用修飾=副詞 と、西洋語と 同様に 4つに わけても、体言・モノ=名詞、用言・コト=動詞、相言・サマ=状詞 と 3分した うえで、その 連体形を 形容詞、連用形を 副詞と 西洋では いう としても、両立しえない 深刻な 対立とも おもえない。連用修飾=副詞=状詞連用形は、語彙と 文法とが 融合する 形式であって、連体修飾=形容詞=状詞連体形と 比較しても、

    形容詞=状詞連体形        副詞=状詞連用形

   地理に くわしい ひと      * 地理に くわしく はなす  cf. 地理を ―
   あいそが いい ひと       * あいそが よく はなす   cf. あいそ(も) よく ―

という 格支配や 主格結合が、副詞=状詞連用形では なくなり、

   とても はやい ひと        とても はやく はしる
   かれより じょうずな ひと     かれより じょうずに つくる

という 程度限定や 比較表現は 共通する。うえの 例は、モノの 状態か コトの 状態かで ちがうから ことなってくるし、したの 例は、どっちも なにかの 状態だから 共通する のである。つまり、相違点を 優先するか、共通点を 優先するかの ちがいであって、論理的には どっちも ありうるし、相互に 移行しあう ことも ありうる。


2)と かんがえてきた ところで、「品詞の 提示順」と いえば『にっぽんご 4の上』にしても『あたらしい にっぽんご』にしても、それだけで かんがえるのではなくて、シリーズを なす 他の テキストも かんがえなくてはいけない ことに 気づいた。『にっぽんご 4の上』の ばあいなら、『にっぽんご 2 もじ はつおん ぶんぽう』に 「14 ようすを さししめす たんご」や 『にっぽんご 3の上 文法』に 「15 ふくし」が まえに ある ことに 注意しなければならないし、『あたらしい にっぽんご』の ばあいなら、『一年生のにっぽんご・下』に 「ふくし」や 『二年生のにっぽんご』に 「14 ふくしで ひろげた ぶん」も あった ことに 注意した ほうがいい のかもしれない。以上 すべて、わたしは テキストの もくじで しっている だけで、じっさいに おしえた ことも なければ、教材の 教育学的な 観点から 考慮した ことも ない。したがって、「品詞の 提示順」については、正面から 問題にする 資格がない のかもしれない。『にっぽんご 4の上』の ばあいも、『にっぽんご』シリーズ全体としては やはり 経験から 理論へ という 順序が 考慮して 配置されている 点では、やはり 新版とも いえる『あたらしい にっぽんご』と 同様なのである。しかし、それを 考慮しても 単体としては、単語(品詞)と 文(文の部分)との 相互関係に関して、『にっぽんご 4の上』のほうが 形式論理的な 分類 配置に なっており、『あたらしい にっぽんご』のほうが 弁証法的な 段階発展を 考慮した 分類 配置に なっている ことは、かなり はっきりと ちがっている。「品詞の 提示順」については、不十分な 分析では あっても、要点を 撤回までは しなくても よさそうである。

 奥田が 副詞に関して このように かんがえていたか どうかは くわしくは わからないが、状詞(形容詞)連用形説と 単純な 排他的な 対立と かんがえていなかっただろう とまでは いえそうに おもう。文の部分が、『4の上』の 修飾語・規定語の 二分割から、新版に あたる『あたらしい にっぽんご』では 修飾語に 統一した うえで 連体-と 連用-とに 下位分類したのも、暗示的である。じつは この点については ふるくから、奥田靖雄1954「日本語の文法的クミタテ」では「キメツケ・コトバ」が「名詞キメツケ」と「動詞キメツケ」とに わけられていた のであり、『文法教育』でも 当然 「規定語」(≒形容詞)が 「連体規定語」(≒連体形)と「連用規定語」(≒連用形)とに わけられていた のである。「規定語」(≒形容詞)と「修飾語」(≒副詞)とに いきなり (平板的に) わける『4の上』のほうが かわっている のである。新川忠「副詞の意味と機能」(『ことばの科学 7』)にも かかわらず、対立や 相違は ちいさく なっていたと みるべきでは なかったか。あえて いってしまえば、『にっぽんご 4の上』は 新体系の 分別・対立の 段階に あたり、『あたらしい にっぽんご』は 新体系の 総合・統合の 段階に ちかづいたもの ではないか。

 わたしは と いえば、「解法 solution の 非唯一性 non-uniqueness」[Yuen-Ren Chao(趙元任 1934) Readings in Linguistics (I, 1957)所収]という 東洋の うんだ 世界的叡知に、しばらくは ならっていたい 気分である。「客観的な科学の建設」に 絶望しない ためにも。


■「べきだ」と「したい」

0)奥田文法に対して 工藤が 異を たてている 問題としては、いま ふれた「副詞」の 問題の ほか、もうひとつ「べきだ」と「なければならない」の どちらが 基本的な 位置に たつと みるか という、動詞述語の パラダイムの つくりかたの 問題も ある。『品詞論の はなし』の「第5章:動詞述語の パラダイム」の 第2節、とくに 第3項「歴史的な 分化発展」にも のべた ばかりであるが、補説すべき ことが あたらしく 生じたので それを おぎなった うえで、ふるい はなしを まじえながら また ちがった 観点から 説明しなおしてみる ことを ゆるしてもらいたい。

1)まず、奥田が 生前「べきだ」を どう あつかったか を 補説する。著作集言語学編(3)の 巻末の 索引は、「語形・単語索引」が 別に まとめられている ことに うかつに 気づかず、発見が おそくなったが、言語学編(2)に 初出の「現実・可能・必然(その4) ―― すればいい、するといい、したらいい ――」の 第2節である。くわしい 書誌については 著作集の「掲載論文初出一覧」に ゆずるが、おおよそ「べきだ」は、

……… そういうことで、この論文では、ぼくは「すればいい」の意味をあきらかにしながら、それが隣接する、いくつかの述語形式の意味とどこでちがってくるのか、しらべてみることにする。
 (2)しかし、「すべきだ」におきかえて、おかしくないような「すればいい」の使用例はそんなにあるわけではない。(「べきだ」の意味を) ……… 排除することができる。……… ひきあいにだす必要はない。
 ところで、「すべきだ」を述語にする文は、/動作Pの実行は当然である/という、はなし手の評価的な判断をつたえている。かつ/実行が必要である/ということであれば、この文は 必要表現のひとつのタイプである、ということになる。……… (以後の 用例も 説明も すべて 略)
 (3)しかし、「すればいい」を述語にする文は、そのような(引用注:「すべきだ」の文脈のような)意味構造のなかに配置されているわけではない。………
という 文脈のなかで、つまり 主対象「すればいい」との 比較の ために ふれられた 文脈のなかで、やや ついでに 簡略に あつかわれている という 感じである。この くだりには 北京外国語大学版と 小異が あって、それなりに 興味ぶかいが、主として 論文の 技法というか、表現・修辞的な 面が おもな ようなので、こんかいは ふかいりしない ことにする。
 国語学では、「べし」の連体形に 「だ」が 連接した「連語」あつかいに しただけで おわりの ようだが、鈴木重幸名で まとめられた『文法教育』や『形態論』では、「検討をなお要する」とは いいながら、「当然の助動詞」(p.234)や「むすび」(p.487)として とくに とりだして あつかっているのは、注目すべきである。とくに『文法教育』は 2ページに わたる くわしさであり、―― なぜか『形態論』は 形態・文体面のみ(半頁)に 後退するが、―― うえに 引用した 奥田の あつかいは、その『文法教育』(ここは 宮島達夫の 分担執筆か) を うけて 一歩を すすめた 感じである。「当然」かつ「必要」な 動作を あらわして 「必要表現のひとつのタイプである」という いいかたで、「(し/で)なければならない」(必要〜必然表現の 代表)のほうが 基本的な 位置に あり、「(す)べきだ」は その 外郭的な 位置に あると いっている ように きこえる。

 また、「動詞論 ―― 終止形のムード ――」という、2つの 未公刊の 講義プリントでは、「合成述語」の ひとつとして「すべきだ」が あげられている(p.173, p.190)。ほとんど おなじような あつかいだが、あとの かきなおし版の 琉大講義のほうでは、「すでに一時的なモーダルな意味を表現している終止形が、二次的なモーダルな意味をもつところの、補助的な単語とくみあわさって、合成の述語をなしながら、レベルのことなる、いくつかのモーダルな意味の複合をつくっている」と、文の モーダルな意味の「複合」の 説明が くわしくなっている。論文末の p.195 では、「複合」は さらに「レベルのことなる … ヒエラルキー的な構造」とも よばれ、文・述語の 重層的な 関係の 説明が 精密に なっていく。おなじ エピローグでは、「してもいい、すればいい、しなければならない」の 《可能動詞・必要動詞》と ともに、「したい」を 《欲求動詞》という「cognitive の体系」の なかに みとめる、形態論的な みかたも しめされている。ただし 本人の 意識では、どちらも 未公刊であろう。
 資料として、国語研の『現代雑誌90種の用語用字 (3) 分析』の「べし」の 統計分析 p.86(意味) と p.109(文節形) は、たいへん やくだつ。宮島達夫が 担当。ただ 「たい」は 形容詞派生の 接辞と みた ために、表から はずされて わからないのが おしまれる。接辞でも、 別表としてでも のせてほしかったと おもう。宮島個人なら そう したと おもうが、一言居士の 水谷静夫(時枝の 弟子)が 「統計学」上の 理由で 反対したのだと おもう。徹底した 形式主義者であり、金田一春彦も かつて 不変化助動詞で えじきに された。

 脱線ついでの おもいでだが、わたしは わかいころ、のこされていた 資料カードを みせてもらって、コピーして 文法分析の 補充資料に つかわせてもらったのだが、分類(カード配列)は すでに なされており、「接辞」の 意味(ex.「めでたい ねむたい」/ 動詞連用+たい)、ガ/ヲ 交替などが 優先されていたが、終止/連体/連用 などの 活用形用法別も じゅうぶん 考慮されていて、連体形の 部分的な コピーが 比較的 容易であった ように 記憶する。順序が もう みだれてもいいよ と いってくださったのだが、コピーしない 部分に 山(しきり)カードを はさむ ことで だいたい すんだ ように 記憶する。宮島さんも 興味を もってくれた らしく、わたしの 叙法副詞論文に つかったのだが、その 表の 数値に「カイ二乗検定」という ものを かけたらね … と わざわざ 計算してくださって、もっと 検討を ふかめる ようにと、おしえてもらった おもいでも ある。ただの 語彙論者と おもわず、正真の 文法学者と しって、もっと 本気で 議論しておけばよかった と くやんだが、それは 東外大に うつって 宮島の ふるい 著作 論文を よんだ あとで わかった からである。わかった きっかけは、国語研を やめる ときに、H. Sweet の A New English Grammar を 東外大に 配置移管しないで 国語研図書館に のこす かわりに、宮島さんの 私物の 本を くれたのだが、そこに わかき 宮島が かきこんでいた メモが なみなみならぬ ものだった からである。宮島私物を 直接 国語研に 寄贈すればいい わけだが、メモで よごれているからと いっていた。だが その メモが よみたかったのだ。なぜって、もう 時効だと おもうが、駒場でも 本郷でも 東大図書館の 文法書に、小見出し 要旨 強調などの にた みおぼえが あった からである。コピーの ない 時代の 図書館本には、わかい ひとには わからない、いろんな ことが あったのだ。宮島さんも、わたしへの 餞別の つもりだったのだと おもう。ほんとに「よごれている」と おもっていたのなら、失礼であろう。

 さらに ついでに、奥田さんからも、最終講義の 宮教大『国語国文』版に 加筆訂正を てがきで かきこんだ 本、つまり『序説』版の 原稿に なった『国語国文』を もらった。よごれたのしか なくて わるいな、と いいながら くれたが、きれいな 雑誌も のこっていた ことは わかっていた。『序説』の 掉尾を かざる 最終講義、その 推敲の しかたを わたしに みせたかったのだと おもう。結果だけなら 両者を 比較してみれば わかるが、かいたり けしたり また もどしたり する すがたは みえない。最終講義版「文のこと」にも、当日の プリント版も ふくめて 3種 ある ことになる。録音テープまで ある。すべて、わたしの「おたから」である。『序説』に「言語過程説について(1)」を いれるか どうかで やりあいも あったが、関係は わるくなかった。それだけに 『序説』の まぼろしの 初版の <補>の 校正ミスは ゆるしがたかった。奥田も そう おもった らしく、初版本の 刊行年が はこや 表紙と おくづけとで ちがう。
 なお「文のこと」という 論文は、内容が おおきく ちがう、1)『序説』所収版、2)『教育国語』第1期版、3)『教育国語』第2期版 と 3種が ある。奥田の ずいぶん 執心した 題名であり、これについても なつかしい やりとりが あったのだが、《具体化》の 3段階を ふんでいる ことだけは 注意すべきである/してもらいたい(のだ)。……… 最後は 自慢話めいた。おしゃべりゆるしてほしい

2)しかし、こうした 共時的な (論理)意味論的な あつかいとは 逆に、歴史的な 分化発展の 方向は 「べきなり」が 古代末期に さきに たぶん 漢文訓読の なかで うまれ、そのあと 近世に なってから、やはり オランダ語や 英語の 翻訳語として 「(し)なければならない」(など [否定+不可能]の 構成形式)が うまれたのである。つまり、「せむ」から 「しよう」と「するだろう」が 分化発展した ように、

すべし ─┬─ すべき なり ── す(る)べきだ … 行為叙法:義務 (<行為の 妥当〜当然)
     └─ すべき はづ ── する はずだ … 認識叙法:推論 (<論理の 妥当〜当然)
「すべし」から 「べきだ」と「はずだ」とが 分化発展した と みるのである。もうすこし 一般化して いえば、古代語では、叙実 fact の「す」に対して 「せむ」が 叙想 thought として 基本対立し、その 外郭に「べし」などが 妥当性評価 validity を あらわす といった システムから、近代語では、叙述文のなかで 認識叙法か 行為叙法かに おおきく わかれ、行為叙法の 文は 命令などの 意欲文に 展開 移行しやすい と かんがえる。奥田の「まちのぞみ」性に 相当する 機能も、行為叙法が になうと かんがえる。いま「叙述文」の 叙法システムの 図式だけ しめせば、
できごと ─┬ (なりゆき) ── ものの なる こと ───┬─ みなしかた ┬─ 推量
【認識】  └─ しごと ─┬─ できる ひと:ありかた─┤       |
        【行為】 ├─ すべき こと:なしかた─┤       |
             └─ したい さま:のぞみかた┴─ たしかさ ─┴─ 説明
                      【行為】    【認識】   【認識】

                      行為様相    述語様相   基本叙法
                          \  /      /
                          副次叙法(様相)  /
                             \    /
                               叙法性
と なる。とくに 説明は しないが、わかりにくい ところは、「文の叙法性 序章」の 「一覧」と その 説明を ほぼ そのまま つかっていただきたい。相互承接の 中間地帯に 位置する「述語様相」だけ、二分法上 基本(的)から 副次(≒客観的)に かわったが、大差は ない。まさに 中間体である。まえは 前接の できごとの テンスの 有無で きったが、今回は 自分を ふくめた 部分の テンスの 有無で きった。テンスを もつ ものを 副次的な「様相」に 位置づけた までである。奥田との ちがいが わかる 程度に 概観図式が わかってもらえれば、まずは ことが たりる。

 従来の 国語学では、正統の「べし・べき・べく・べからず」などの かたちに めを うばわれて、「べきなり」が、「源氏物語」や「宇津保物語」などに すでに あらわれる ことに 気づいておらず、文法辞典や 文法詳説の たぐいに 説明も なく; 資料の かたよりも あり、「べい」も 関東方言としてしか あつかわれず、江戸町人層の 「べい(なら)・べし(\/)」の 特異用法に 通常は 気づいていない; ために、「検討」より まえに「文献調査」が 必要である。明治初期の 普通文として 当時 ベストセラーとして うけいれられた という 福沢諭吉の『学問のすすめ』にも、「べき(もの)なり」が 多数 つかわれており、近世文語にも いきつづけていた のではないか と 推定されるし、「べきだ」の つかいはじめは 夏目漱石や 二葉亭四迷らであるが、江戸っ子の 漱石のほうが 四迷の『平凡』より さきである ことは、出自的にも 暗示的だと おもう。
 「なければならない」など「ながい かたち」が 学界では 注目され、形式的な「分析的な 傾向」とも 一致して 田中章夫 宮島達夫 らによって さかんに 研究された ことも あって、「べきだ」のような 非嫡子的な 新興形が 認知されるのを おくらせ、システム内の 位置を あやまらせた のではないか と わたしは かんがえる。「ながい かたち」が しかも ゆれる 語形で 基本だ というのも、わたしの 形式感覚には あわない。


3)認識と 行為との 対立は、かつて「叙法副詞」の 二分法的な 分類に みられる ことを しめした ことが あるが、

叙法副詞 ─┬─ 呼 応 ─┬─ 文末述語 ─┬─ 行為叙法 ─┐…(意欲文 展開)
      │      │       └─ 認識叙法 ─┴─ 叙述文 段階
      │      └─ 従属述語 ─── 条件叙法 ─── 複 文 段階
      └─ 非呼応 ─────────── 下位叙法 ─── 連 文 段階

★「副詞と 文の陳述的なタイプ」の 第2節末尾(『モダリティ』p.191)の 表に 加注。
同位対立の 様相も しめすが、また 行為をも 認識する という、相互承接順序に 現象する 上位下位の 包摂(階層)関係の 様相も しめす。この、一見 矛盾した ような 弁証法的な「対立 かつ 包摂」(→ 階層)の 関係は、言語には よく みられる。「が/は」「条件/接続」「いいきり/おしはかり」などにも みられる ことは すでに 論じた ことも あるが、「自動/他動」も みかたによっては ここに いれてもいいだろう。動詞の レベルでは「自動詞−他動詞」と 同位対立するが、文意味(対象事態)の レベルでは「他動事態(ヒトが モノを Vt.) → 自動事態(モノが Vi.)」という 意味(真偽値 内包)的には →の 方向で「含意」しうるし、対象事態の 範囲(外延量)の 観点から「集合(論)」的には「他動事態範囲 < 自動事態範囲」の 大小(包摂)関係に なる。ちょっと ややこしいが、みかた(内包/外延)の ちがいにすぎず、どっちでも 上位下位の 包摂(階層)関係である。そもそも「有標/無標 marked / unmarked」の 関係自体、ここの 例と かんがえられる 面を もつ。文構造も、「文の部分」の 関係も 「文の段階」(南)の 関係も 矛盾しない。矛盾する ように おもうのは、形式論理的な 二値論理(二分法)に とらわれている からである。


4)「べきだ」の 位置づけに 関連して、「したい」の 位置づけについても ちょっと のべておきたい。こんな 連想が はたらくのも、わかいころ「したいこと と すべきこと」という タイトルで 研究していた ことが しばらく あったからであるが、当時は、奥田靖雄の「まちのぞみ文」(希求文)を 中心にした モダリティ研究と その 複文研究への 適用の グループ研究、いわゆる 第4期の 研究に はずみが ついている ときであって、わたしの ちいさな 構想などは すぐに 孤立無援の 状態に おちいって、へたをすれば すなおに 集団研究に 協力しない「分派活動」とも みなされかねない 研究会の 雰囲気も あって、わたしも 言動を つつしみ くらまさざるをえない ときも あったのである。けっきょくは 奥田も、語の 文法システムとしては、「したい」の かたちを「欲求動詞」(モドゥス)と するか、「動詞希求形」(ムード)と するか という 決着は つけられなかった ようである。奥田著作集の 索引で 関係の 用語を つかった 諸論文を 比較参照されたい。なお そのさい 奥田は、自分の 研究を 語(品詞)としての 動詞論と いっていて、積極的な 課題としては 形態論と いっていない ことにも 注意すべきだろう。形態論の「土台」性について、「…… 形態論的なアプローチは成立するし、ゆるされるし、必要になる。その使用において、…… という事実さえわすれなければ。」(未公刊プリント『言語学編(2)』p.214) と いっているのも、あくまで「(文)使用」の 用法の 優先性の もとに なのであり、「終止形はその(文の)表現手段のうちのひとつ」にすぎない のである。現代の 研究課題は、発展しつつある 文システムの 重層的な 構造全体 なのであり、形態論は、「先行」して 研究すべき「土台」の 面も あるにしても、命令〜依頼〜勧誘など とくに 対人関係においては、保守化〜形骸化の 傾向も しめしがちだろう。たとえば、命令「あそべ」/依頼「あそんで(くれ)」/勧誘「あそぼ(う)」の 諸用法の、機能と 形式との 現状を じっくり 観察してみればいい。奥田が 注目した「まちのぞみ」性も、文の レベルと 語の レベルとで やくわりを 分担しながら、その 分担の しかたが 移行しやすい 領域だろう。さらに 「奥田論ノート」の なかの 「ふたつの modus」に かいた ような、文と 語との、主体面と 客体面との、相互浸透や 相互移行の 現象も ありうる ことであって、歴史の 一様態においては 共存しうる、「解決(解法)の 非唯一性」(趙元任)という みとおしを、あらたに する。

 時間論における「完了 perfect」と おなじく、叙法論においても 「希望 タイと 当然 ベキ」は 移行〜両義的な かたちだ と 自覚的に 認定すべきだった のである。いまさら リベンジする 気力も 体力も もはや なく、やや 未練がましく きこえる かもしれないが、構想の おおよそだけは かいておきたい。いまなら、《行為様相は、可能を 中心にした「ありかた」の <できる ひと> が、希望を 中心にした「のぞみかた」の <したい さま> の もと、当然を 中心にした「なしかた」の <すべき こと> として、あらわれる》というのを キャッチ-フレーズに つかいたい。

 「したい」文の 分析と 記述は、おおきくは 形式面・内容面の 2つ、こまかくは 5つの 局面(文の 側面 plane)に わけて、おこなわれる。

   1) 形態の 面では、イ形容詞と おなじ 活用を する。修飾連用形が ない点も 感情(感覚)形容詞と おなじである。
   2) 統語の 面では、「ヒトは モノが/を 〜したい(のだ)」のように、形容詞文性も 動詞文性も、ふるくから ある。(松村明論文#)

この ふたつは、ときに「形態統語論」などとも いわれ、保守(慣習)的に なりやすい 文法(化)の "process"(みちすじ)の 面である。

#『「水を飲みたい」という言い方について』(『江戸語東京語の研究』所収)のこと。これによれば、「を…たい」のほうが「が…たい」より ふるい かたちだ という 調査結果を もとにして 論が すすめられるのだが、こういう 有標の 形式だけを 調査し、「(ヒトは) 水φ のみたい」とか「のみたい 水」とか 該当箇所が 無標の 用法を 調査しないのは 問題である。この 無標形式は、無標でありうるだけ 基本的な 用法に ちかいと みるべきで、「が…たい」の 形容詞性のほうに ちかい という 可能性が たかい のである。すくなくとも、調査の 範囲に ふくめるべきだった のではないか。有標形式だけの 調査から、形容詞性より 動詞性のほうが かえって ふるい くらいだ という 結論を だすのは まったく 逆で、有標形式「を」を わざわざ 表現する ことを おおく 必要とするのは、動詞性の 用法のほうが むしろ 非基本的だからであって、動詞性のほうが あたらしい 用法だと 認定する ほうが 自然な 判定ではないか。
――― もっと たどたどしく だが、そんな 趣旨の わたしの 卒論方法篇の 資料解釈批判に対して、築島裕助教授からは、方法に 無理解な、実証主義の 作業手順の 説諭を ながながと いただいたが、かえって 松村明教授からは、無標(零記号)についての 好意的な 弁護発言を/が いただけて、やっと 合格。形態素主義形態論主義では、《無標形式》や 《文(配置)形式》は いまも 盲点の ままだ。
 松村教授の 名誉の ためにも、もう ひとこと。そのさい、『主格表現における「が」と「は」の問題』も、「零記号」を くわえるべきだった のかも とも いわれ、松下文法の 「単説(無助辞有題)」と「平説(一般格無題)」との 区別の 問題にも ふれられた。実証主義でない 国語学者も いるのかと すくわれた。いきさきの ない「暴力学生」は、図書めあてに 院進学でも するか という 気だった。
これに 文法(化)の "concept"(なかみ)の 面も くわわって つくられる 文としては、すくなくとも つぎのような 3つの、(構造的)パタンを 文形式として あらわれる、(機能的)タイプの 叙法形式の 文を 多義〜移行的な システムとして 分析し、記述する 必要が ある。(基底 サピア学)

   3)「あぁ、(それφ) くいてぇ!」のような、独立語(一語)文的な 表出的な 叙法の 文も あり、  (cf. 語幹用法「くいたッ!」)
   4)「ほんとは だれでも それφ/が/を 〜 したい(のだ)。」のような、叙述文的な 記述〜説明的な 叙法の 文も もちろん あるが、
   5)「それφ、どうか 〜 してもらいたい。」のような、意欲文的な 命令・依頼的な 叙法の 文にも 移行しやすい。

――― まったくの スケッチであるが、たとえば「くいてぇ」のような 音融合形のみに なって 「くいたかった」など 他の 活用形を なくしたと すれば、その 方言では それを 希望(希求)形と 記述する 可能性も たかまるだろう。存続〜完了(派生体)の「たり」が 活用を うしなう とともに、意味機能も かわって「過去形」に 変化した ことも、ほぼ 明白な 歴史的な 事実なのだから。奥田も、「欲求(動詞)」から 「希求(形)」への 意味機能変化も かんがえていた ようである。方言でも、「くいたか!」とは いえても、「くいたか もん(ば)」といった 連体の かたちも 考慮して、「語幹形」に 統一されるか、むしろ「不変化形容詞」と される かもしれない。「不変化形容詞」とすれば 先祖がえりかも。たとえば「こ=やま、こ=てを かざす、こ-づく、こ-だかき、こ=にくらし」の「こ(小)」。以上、事実の スケッチと 仮定に すぎないが、おおきくは、形容詞性から 動詞性へ、さらに (行為の) 叙述文性へと うごいている と 推測されるが、いまだ 過渡期の 移行的な 様態に あると みられる。
 語源は、「ねむ-たし・おも-たい」などの 分離(詳説p.268)と いっても、「いたい」の 接辞化(旧通説)と いっても けっきょくは おなじに なって、どっちでも いい/双方 合流だ と おもうが、発生は 古代末期である。万葉の「振り(い)たき袖」を べつ(はげしく振る袖)と かんがえる べきなのは 詳説同頁に したがう。古代語の 希望表現が、「もが##/な・ね」など 係・終助詞系と 「ま(く=)ほし」「ば=や」といった「熟語」的な 分析的な形式とから なるのに対して、近代語は、システムが おおきく かわってから、歴史は まだ あさいと みるべきである。

 奥田の「まちのぞみ文 → 希求形」という、文の機能レベルから 語の形態レベルにまで 定着しつつある という かんがえは、まだ 時期尚早であり 「希望的観測」による 錯視ではないか などと いったら、閉門では すまずに、破門だった かもしれない。
## 山田文法の 希望喚体「〜もが」は、述体「〜も あらぬ か」からの 省略と かんがえる 浜田敦の ほうが わかりやすいし、「みてしがな、えてしがな」も 「し」という 回想複語尾連体形ゆえの 喚体性を わざわざ いわなくてもいい ように おもう。かわりに、
1) 基本:「かれ・かく」などの 指示詞「か」を もとに、文の 位置や おとの パタンなどの (文の)形式を かえて、
2) 連濁:文中(対象語)の 体言に 下接 連濁して、対象 モノの (連体従属節における) 指定(特定)辞「が」が うまれ、
3) 位置:主文末(述語)の 体言や 用言連体形に 下接し 判定辞化して、詠嘆〜疑問の「か」が うまれ、(もと 林大説)
4) 連濁:さらに、連濁し 結合指名性が くわわって、事象 コトの (実現〜仮想する) 希望(欲求)辞「が」が うまれた、
という 移行 転成とは みられないだろうか。なお、浜田 省略説とも 排他関係ではなく、両立し 合流しうると おもう。山田の「喚体句」というのは、本来 普遍的な 体言句の 表現特性 その 国粋精神によって みまちがえた 国語の 幻影の 特殊性ではないか。「もが・てしが」といった 2〜3音節の 基本辞 というのは、わたしの 形式感覚 sence が ゆるさない。ふつう 連接や 熟語を 想定すべき ものであり、「まく=ほし」や「ば=や」と とくに あつかいを 区別すべき ものだろうか。論理が つごうよく ぶれていないか。

【さきの「し」も、なぜ 回想性を 想定するのか。卓立の 係助辞「し」とは かんがえられないか。やはり 指示詞「し」からだろう。
 過去を 否定して 「回想」と 作用的に 解釈した うえでの「(せ) ○ き し しか」という 補充法 採用も、再検討を 要しないか。】


■体言の 運用(declension 提示 presentation)

0)しばらく、品詞論の 歴史版、というか 品詞発展論 または 動態品詞論とも いうべき ものに ふれたい。どんな 順序で のべたら わかりやすいか とか、どんな 説明を したら 理解されやすいか とか、あまり くふうも せずに、無手勝流で いく ことにする。「不逞遊民」を 自分流の あだなと して、「こころの ほっする ところに したがって」(論語 為政)、おいさきの みじかい ところを いきていく ことにした。

1)高校の 古典文法で、いちばん 印象づけられ、しかし なっとくの いく 説明の もとめられなかった ものが、「係り結び」の 法則と 「の・が・つ・な …」という 連体(格)助詞の 優位である。まともな 連用(格)助詞は 「に・と」ぐらい、主格「が・の」や 対格「を」は 強調の ときのみで、基本は 無標である。まっとうな すなおに 根源を うたがう 疑問は、いままで おだててくれていた 古典教師からも しかし 受験のために 封じられた。通説を うたがって、受験に 有利な ことは ないと。大学に すすんでも 高価な 史料は かえない 貧乏書生は、現代語(理論)文法に むかわざるをえなかった。いまも 資産家か 年金生活者にしか いえない 疑問なのだろうか。
 めだつ 結果の「連体修飾」と、「係り結び」という 「曲流終止」との 呼応現象に、めを うばわれていないか。"Simple is the best." という、物理の 教師から ならった ばかりの ニュートンの ことばを おもいうかべていた。―――「が」は 指示詞の「か」の 連濁形であり、強調形だ、「の・な」は 場所の「に」格の 母音交替の 連体の かたちだ、「つ」は 「と」格(<指示詞「と」)の 母音交替の 連体の かたちだ。連体は 原因と 結果とが 逆で、強調する ことが 本質であって、強調される 場所(結果)が 連体節(副文)に すぎない のではないか。叙述化して 説明する まえに システムの 全体の すがた(Gestalt)を まず おもいうかべてほしい。細分化した 通説を うたがうには ぜもとも 必要な ことなのだ。

         主文    副文    場所    連体    機能     音パタン
分離(分説)    は     が     と     つ     焦点(・)   破裂音
包含(合説)    も     の     に     な     範囲(□)   鼻音
cf. 繋辞     そ     し     か     ―     指示(未分)  カ行 サ行
 「な・や・よ・を」など、意味機能の ちがいで いれなかった いくつかを のぞいて、1音節の 基本助辞は いちおう 網羅できていると おもう。この 表は、のちに 日本語学に すすんでからの かんがえも とりいれて 整理した 表であるが どこまで 実証できる 基本助辞の 直観図式か、自分でも よくは わからない。でも はかばまで もっていかないと、のりを こえるとも おもえない。文献時代には、「の・が」ともに 連体用法も 主格用法も 確立しているので、静的に 記述する だけでは なにも みえてこない。後代に、「が」は 主格(指定)専用、「の」は 連体専用に なった という 事実(結果)を もとに、文献時代以前を (内的再建的に) 推定しなければならない。わたしが 推論し 考察するのに もっとも たよりに なった 研究は、山田孝雄『奈良朝文法史』と 佐伯梅友「萬葉集の助詞二種」(『萬葉語研究』所収。卒論か)との 2つの 基礎論であり、助辞図式の ヒントに なったのは、初期の 森重敏「上代係助辞論」の 大構想の 論述(国語国文 1冊全頁)と、青木伶子の「主語承接の「は」助詞について」の、「が・は」を 陳述的に 対比する 実証的な 構文研究であった。どちらも 卒論かと おもわれるし、山田のは 著名な 博士論文の 副論文であったか。山田と 森重は いいたりない 論述は ないと おもうが、佐伯と 青木の「主語」用法は 「主格」とは 別だ という 議論も あったのではないか。
 この システムの なかでも もっとも するどい 論点に なるのは、「が」と「の」であろう。「が」と「の」は、通説の ように 連体と 主格との 助辞ではなく、「が」は 副文=従属節のなかでの 分説、つまり「指定」の 助辞であり、「の」は 副文=従属節の 範囲の 合説、「包容」(<「にある」が 原義)の 助辞である、と かんがえる のである。「と」は 分離=焦点としての 場所、「に」は 包含=範囲としての 場所である。「つ・な」は 例が すくなく、さらに 再建的 推測的だが、それぞれの 連体(体言前置)か、旧場所 ないし 旧定位ではないか。
 「繋辞」の「そ」は 名詞文の「うまし くにそ」の「そ」で、のちに やはり 連濁して 係助詞「ぞ」に なった もの、「し」は 形容詞文の「やまとし うるはし」に 脚韻的に もちいられる「し」で、やはり もとは 指示詞である。「うまし くに / すがし め」の「し」は 従属〜連体関係の 繋辞と みうる。疑問詠嘆の「か」も、もとは 指示詞「か(れ/く)」の 疑問点指示の 用法に あろうと 推定しているのは 林大(『萬葉集大成 6』)であるが、その 竹柏会の 歌人学者の、古代を いきる 直観は 信じうる。さらに 場所の「ありか」の「か」にも 通じるだろう。


2)現代語でも つかわれる「が」の (選択)指定の 用法とか 総記の 用法とか いわれている 「とりたて」的な 用法のほうが 歴史的にも ふるい 起源的な 用法であった のであり、(中立的な) 主格用法などと いわれる 「論理」的な 用法が やはり 中世以降に 従属節内での 用法という 制限も なくしつつ 定着してきた 用法なのである。なお、「指定」が 陳述機能として 本質的に あり、その 結果として 「総記」= 網羅量性を 現象的には もつ のである。択一すべき ものではない。「指定」を 母語人に対する 国語教育界に いた 奥田靖雄が いいだし、「総記」を 外語人に対する 日本語教育界に いた 黒田重幸が いいだした (久野すすむ[日章/2]は 普及の 功労者である) というのも、ゆえなしと しない。
 現代語の「の」も、鈴木康之の 詳細な「の」格の 研究を みても、意味的には さまざまな ものを ふくんでいても、機能的には 体言節の 内部内に かぎられるが、ふるくは、

かぜ まじへ あめ ふる よ            訳:… よであって
あめ まじへ ゆき ふる よは
すべも なく さむくし あれば
      …                  (貧窮問答歌 冒頭部)

あしびきの やまどりの をの しだりを      訳:… しだりおの ように
ながながし よを ひとりかも ねむ          (百人一首 柿本人麻呂)

のような、いわゆる 同格の 用法や、序詞の 用法の ように 連体機能に いれていいか 議論の ある 用法も あって、結果としては 連体節を 中心に はたらく としても、副文(従属節)内(≒文中≒非文末) という 範囲(場所)を 包括する 機能の 助辞と みたほうがいい のではないか。古代では「よのなかに たえて さくら なかりせば」とは いえても、近・現代では「さくらの なかったら(なかったなら)」とは いえず、「さくらが なかったら(なかったなら)」と いい、「かぜが ふけば おけやが もうかる」とは いっても、「かぜの ふけば」とは いえず「かぜの せいで/ために」なら いえる ことからしても、「の」の 使用範囲は 従属節から 連体節に せばれられていると いってよさそうである。近・現代の「が」の 主格用法は 動詞(現象)文において 基本であり、指定用法は 名詞(判断)文において 基本である というように 相補的な 分布を しめす などという ことも あって、「が」と「は」との つかいわけは、文構造において 中立叙述の 格機能と 中立判断の 題目機能との 対立としても あらわれ、体言の とりたて機能において 指定と 対比との 対立としても あらわれ、連文の 情報構成において 未知=新情報と 既知=旧情報との 対立としても あらわれ、その 総合的な とりあつかいについて 現代語研究者を なやましている。単純化という 貧困化も、よく みられるが。
 「に」と「と」とが、場所にしても 相手にしても 結果(名詞)にしても 状態(形動)にしても、「に」のほうが 一般的であり 恒常的である のに対して、「と」のほうが 特定的であり 一時的である という ちがいも、「に」が「も・の」という 合説系の 「範囲(□)」性の 助辞であり、「と」が「は・が」という 分説系の 「焦点(・)」性の 助辞である という システム全体の 位置どりに よるのだと かんがえられる。


3)近代語での 体言(名詞)の 文のなかでの 運用(declension 曲用とも)は、基本的に 動詞述語との タテの 結合関係である「格」関係パタン(シンタグマ)と、おなじ 種類の 体言のなかから ヨコの 選択関係を とらえた「とりたて・対照」関係タイプ(パラディグマ) という 縦横二重の 関係のなかに 提示され 運用される ような システムに、歴史的に 変化する。歴史的な 変化の おおきな ながれ(drift)は、

体言運用の 変化:古代の <卓立(焦点化)> 単独構造から、近代の <格+とりたて> 二重構造へ
と 図式化できる。ただし、近代の 二重構造が 形態的に 分離されるのは、「には・でも・とさえ・からしか・までなんか」のように、与格以降の「意味的な格」であって、主格「なまえは まだ ない」や 対格「さんまも まだ とらない」の 基本的な「文法的な格」は、格無表示(松下文法の 一般格)である。主格・対格という 基本構文関係が 無標であっても かまわないのは、動詞のほうに 自動詞・他動詞、うけみ・使役 といった ヴォイス表現が 語彙 文法に わたって 形態的に 明示されるからである。接辞的には -ル/-スの 対であり、活用的には 強弱(四段/一段)の 対である。接辞のほうは 存在〜生起動詞「あり〜なる」と 動作〜行為動詞「す〜なす」とに 関連が あるだろうと かんがえられている。活用のほうは「つく/つける」「たつ/たてる」「すすむ/すすめる」「むく/むける」といった 《ものの 変化》では 変化=自動が 四段(強変化)に なり、逆の「ぬく/ぬける」「やく/やける」「わる/われる」「をる/をれる」といった《ひとの 行為》では 行為=他動が 四段(強変化)に なる。つまり 語彙的な意味が 土台(原基)の 意味を なす ものが 四段(強変化)を とり、派生の 意味の ほうが 一段(弱変化)を とるのが 原則の ようである。《ものの (おのづからの) 変化》ではなく、《ひとの (みづからの) 行動〜動作》の 意味の ばあいは「ひとが たつ/ひとを たたせる」「ひとが むく/ひとを むかせる」のように 自動(自行)−使役の 対を なして、自他の 対には ならない。歴史的な 意味の 変化が からむので、識別には 注意が 必要である。本居春庭『詞の通路』の「自他の詞」六段も、文の 格構造における 動詞形態 という 観点から みなおすべきだろう。
 おおまかに いえば、名詞は 卓立か とりたてか 題目かは ともかく、陳述的な 関係づけに 重点が おかれ、格的関係など 連語的な 関係づけは 動詞の ヴォイス形に 重点が おかれる。かたちづくりの 面でも 名詞(+助辞)のほうが 孤立-分析的であり、動詞(+接辞)のほうが 膠着-融合的であり、緊密な「複合体」=中心性も 動詞のほうに あり、名詞のほうは 放出された「結合体」=補足性を もつ。「述語一本槍」(三上章)とか 「単肢言語」(河野六郎)とか 静態図式的に 規定する ことは 構造の とらえかたを せばめる おそれがある にしても、日本語の 文の 中心が 動詞述語のほうに ある ことは 形態的な 証拠を あげて いえそうである。河野的な 類型論的な 類別にしても、その 言語の 比較対照も あくまで 相対的な ものであり、歴史的に 変化する 動的な 状態に ある ものだ という ことを わすれない ことが 肝要である。
 「荒海や 佐渡に よこたふ 天の川」の「よこたふ」という 他動詞は 「よこたはる」という 自動詞としての (破格)用法だと 芭蕉研究者は、ながく 正気で かんがえている ようだが、助辞「が・を」も なく、動詞も 「自動詞=他動詞」では 基本の 主体−客体関係は なにが あらわすのか。英語や 中国語の ような 文法的な SVOの 語順に したがうのでもない としたら、せいぜい 意味 蓋然的な SOV〜OSVの 語順による「荒海(が) 佐渡に 天の川(を) よこたふ」という おおきな みたてと みるのが、文法・意味的な 法則に したがった、すなおな よみであろう。【まえに かいた「音数律」を みてほしい。通説の 不条理を くりかえしたくは ないので。】

 格と、とりたてや 連体化(もと卓立機能)との 関係については、こまかくは つぎのような マトリックスが つくれそうで、さかいは 連続的な 様相を 呈しそうだが、議論を 錯綜させない ように、ふかいりは しない。渡辺文法に くわしい 機能解釈が あった。

   前\後 は   も   の
   が   ×   ×   ×
   を   △   (○)   ×   △=をば   (○)=をも:文章語的
   に   ○   ○   ×   場所(範囲)性 → ぶたい
   と   ○   ○   ○   構成者指定性 → なかま
 また、古代語以来の 伝統で、「わが おもふ いもに … / わたしが すきな いろは …」「ちちははを みれば たふとし / みずを のめば 元気になる」のように、「が・を」が 明示されるのが おおいのは、連体や 条件の 従属節の 内部においてであり、陳述的に いろづけられない ところ(連語構造)において なのである。そこに「は・も」卓立構造が 日本語に 一貫する 根源的(fundamental)な 性格を みる べきであろう。
 いわゆる かかりむすび という ものは、古代の <卓立(焦点化)> 単独構造から、近代の <格+とりたて> 二重構造へ という 歴史のなかで、古代を 特徴づける 特異な「法則」であって、中世 近代には きれいに きえてしまう、一時代を 性格づける だけの 特殊現象なのである。「は・も」が 無標の 卓立で、主文末の 終止形と 呼応したり、複文のなかで「かかり(むすびの) ながれ」を おこしたり するが、日本語の 時代を 一貫する 本性的な 性格を もつのに対して、いわゆる 「かかりむすび」は 有標の 卓立である とともに、古代語の 一特性に すぎない のである。
 已然形で むすぶ「こそ」が 卓立的な 叙述による 述体的な 表現であり、他の 連体形で むすぶ「かかり」は 喚体的な もの(体言どめ 連体どめ)が 倒置して うまれた 表現と みられる。已然呼応の ほうは、「問題 あり、…」が 「問題こそ あれ(ども)、…」という ぐあいに 補語の 卓立強調が 述語逆接性を 譲歩的に くわえる ものであり、現代でも「問題 あるけれど/あっても、…」のように、おなじような いいかたが ある。連体呼応の ほうは、「… しつる(は)、われ。」のように 連体準体法の 題目の かたちの 文が 倒置して「われしつる。」のような 連体形どめの (準)喚体的な 文と なって 強調詠嘆性が くわわった ものである。現代語に 直訳して いえば、「まどガラスを わったのは わたしです」という 分裂文(It is … that ― )とか ひっくりかえし文とか いう 語順転位の 文を もういちど 語順を ひっくりかえした「わたしこそが まどガラスを わったのです」に 相当する。ふつうの 現象(動詞)文が「わたしが まどガラスを わった」だから、連体の 係り結びは 「… こそが ― です」という「転位の判断(名詞)文」(三尾砂)に ちかいと かんがえるのである。起源を どう かんがえる としても、形式呼応の 特異な 現象に めを うばわれがちだが、「は・も」といった 形式呼応の ない 無標の 卓立構造のほうが 基本的な 表現形式であって、有標の かかりむすびは 卓立システムのなかで 強調的で 特殊な (周辺的な) 表現形式に すぎず、歴史的にも 確立から 崩壊まで 一時代(古代語)を 特徴づける 現象だ というのが、動的な システム論としては 肝腎な ことなのである。江戸期 国学以来の 国語学が 古代を 理想化〜規範化して みつづけている みがまえ(attitude)が、古代日本語の 特殊性を 日本語一般の 本性(他言語との 対照特質)と とりちがえていた だけなのではないか。

 三上章の「コトと ムウド」という 文二分観を おもいだしてほしい。「が」以降の 格は コトに 属し、「は」以降の 題目関係は ムウド(陳述)に 属する のである。二重構造 といっても、ただ 対等なのではなく、文論(ムウド)レベルの「とりたて」と、連語論(コト)レベルの「格」とを 区別する とともに、統合しなければならない。その レベルへの 区別においては 三上と 奥田と 工藤とに おおきな 差は でないが、その システム全体への 統合の しかたに 三者に おおきな ちがいが でる。主として 「ムウド とりたて」面を、比較的 単純な 様相において みるか、文構造面 文機能面 連文構成面といった 諸側面 planes に わたり、諸レベルも からんで あらわれると 多面・階層的に みるか、という ちがいであろう。
 ちなみに、Ch. フィルモアの「ことがら(proposition)と モダリティ」の「格文法」の もとは、三上章である。三上章の もとは、Ch. バイイの dictum と modus との 区別に あるらしい。『新訂版 序説』第3章2(節)。フィルモアは もと 進駐軍関係者、たぶん 通信(暗号解読)関係だろう。奥さんも 日本人(日系人)女性だそうだ。国境を またいで キャッチボールされた 研究の 普遍性と、歴史的な 継承の 順序にも 注意してほしい。この ながれにおいては、主として コトの 面の 分析において 具体化の 進展が みられる。


■用言の 活用(conjugation 叙述 statement)

1)古代語の 主要な 叙法性形式は、

              | 肯 定 | 否 定 |
              ├─────┼─────┼────┬────
              |  す  | せ ず | 事実 | 現 実
              ├─────┼─────┼────┼────
     (未然形_)    | せ む | せ じ | 想念 |
              ├─────┼─────┼────┤ 非現実
     (終止形__)   | すべし | すまじ | 適切 |
              └─────┴─────┴────┴────
     《つづき》/      m−b    -nz-
         /《おと》 唇鼻−唇濁 舌鼻濁摩擦

のように 構造化できそうに おもわれるが、有標の 4形式「せむ−せじ/すべし−すまじ」は、それぞれ 認識的な「推量」や「推論(推定)」も、行為的な「意志」や「当然(当為)」も、うちに ふくんでいる、あるいは とけこませている。多義か 融合かは いまは とわない ことにして、主語の 人称性との 共起に もとづく 文構造のなかで 表現しわけられている。これらの 語形式の 意味は いちおう《想念〜かんがえ》《適切〜妥当》だと かんがえると して、さらに 共通に もつ 一般的な 意味特性は 《非現実性》であろう。そこで 古代語の 主要な 叙法性は、無標的な ペア「す−せず」との あいだに 《現実−非現実》の 基本的な 対立を なしていると かんがえられるだろう。また、「つ・ぬ」という たしかめ/完了の 形式も、「めり・なり」という 推定/ 証拠性の 形式も、否定の いいかたが なく、肯定だけの 現状に 即した 表現らしいし、「き・けり」という 回想/過去も 山田孝雄・細江逸記によれば 目睹(体験)/伝聞(証言)の ちがいだ という ことでもあり、現実・事実・現状を 基礎に すえた システムだと かんがえられて、おおよそは 英独仏露の 西洋の ムードシステムと 同型かと 仮定できる。それに対して 近代語では、

       せ む─┬─しよう    行為:意志   融合活用形 : テンスなし
           └─するだろう  認識:推量   膠着活用形 : テンスあり

       すべし─┬─すべきだ   行為:当然   動詞派生態 = 動詞複合体
           └─する はずだ  認識:推論   合成述語体 = 述語複合体

のように、行為的な「意志」と 認識的な「推量」、行為的な「当然」と 認識的な「推論」とが、分化して 表現される ように なってきている。上の「せむ」の 分化の 例は、中村通夫1941「東京語における意志形と推量形」(『東京語の性格』1948 所収)が あきらかに した ことであり、奥田靖雄1953『正しい日本文の書き方』が 活用表の テンス・ムードの 組織化に とりいれた ことであるが、下の「すべし」の 分化の 例は、工藤が それらの あとを おう ように より 一般化して、《行為−認識》の 分化の ひとつとして 主張しようとする ものである。「せじ/すまじ」の ような 否定性も 融合していた かたちも、「しない ように しよう / しないだろう」の ように 分析的に 表現されるのが ふつうであろう。「もう わたしは しまい / もう あのこも すまい」という いいかたも なくはないが、文語的であり、気どりや 荘重などの 気分を ともなう。

近・現代語の (意味機能の) 分析的な 傾向が 一般 ふつうに みられる ことも、中村通夫1957『現代語の傾向』(NHK国語講座)などが のべる ところであり、田中章夫も やや かたちつくり(語の ながさ)に かたよりながらも、注目してきた ところである。ただ、田中章夫1965「近代語成立過程にみられる いわゆる分析的傾向について」と なづけて 記述された 諸研究が、中村通夫の 歴史の みかたより、むしろ 永野賢の「複合辞」研究の 関心に にていて、はては 合流していき、「分析的な 傾向」の もつ 言語史的な 大局的な 重要性は みうしなわれがちに なった。「しよう」と「するだろう」や 「べきだ」と「はずだ」は、とくに 語形は ながくなくても、古代 → 近代の 歴史においては 「せむ」や「すべし」の 融合表現からの「分析表現」なのである。「いわゆる」づきの「分析的傾向」は 形態だけの 問題ではない。スィート・イェスペルセンの 英語史や、パウルの 印欧語〜ドイツ語史や、メイエの ヨーロッパ語〜フランス語史 なども ふまえた、言語の 歴史の おおきな ながれ(drift)については、中村通夫や 松村明や 奥田靖雄たちは 大局的な 理解を もっていた けれども、その後の 時代風潮は、永野賢の「複合辞性」や、田中章夫の「長い表現パターン」といった、みやすい 語形形成に 関心が あつまっていく。言語表現の 歴史の おおきな《分析的な傾向》は、その後 わすれさられた ままの ように みえる。 (2018.07.02. 加筆)

 古代語においては、ツリー(樹形図)状に 二分法的に くみたてを 概括すれば、

       認識対象─┬─無標:現 実  realis ……………………………………fact
            └─有標:非現実 irrealis ─┬─未然形接続: む 想念 thought
                          └─終止形接続:べし 適切 oughtness

といった ふうに 区分できる 基本システムの まわりに、(否定表現の 欠如した ものも おおく)
    未然系:様相(仮想)化 まし、+時間性:けむ らむ
    終止系:様相(推定)化 らし、+証拠性:めり なり
などが、補強の 膠着表現として 位置する。「助動詞」(要素)は すくなくは なかったが、くみあわせは 付着(加算)的な「用言複合体」であって、種類も 慣用的に 定型化された 表現が おおく、バラエティは おおくは ない。時代とともに 要素数も 減少し 膠着の 複合体制が 崩壊していったのは、述語の くみたてかたに 階層構造という あらたな 展開が あったからである。旧体制の 崩壊は、新体制の 勃興であり、交代である。

 近代語においては、認識・表現の 作用面は、無標/有標で 《断定/推量》と《記述/説明》とに 十字分類(マトリクス分類)され、

           ┌──────┬───────┐
           │  する  │ するだろう  │
           ├──────┼───────┤
           │ するのだ │ するのだろう │
           └──────┴───────┘

認識・表現の 対象面は、おおきく 《行為 (意志)−事態 (認識)》と 階層的に 大別され、

         ex.   "must"─┬─しなければならない:行為 必要 義務
             「必然」 └─にちがいない   :認識 確信 確定
             "may" ─┬─してもいい    :行為 許容 許可
             「可能」 └─かもしれない   :認識 不確定 不確信

         # "must" "may" 「必然」「可能」は、論理(シソーラス)的な意味項を、英語や 日本語で 表記した もの。

何段階かに 分属され くみあわされる ように なったのである。要素の システム機構に ペア構造(対立カテゴリ)が 階層的に 構造化されて、いわば 多重機能(乗算)化したのである。くわしくは、次節に 動詞の パラダイム、第3節 文の 階層構造に わけて、説明する。 (2018.07.04. 加筆)


2)暗中模索と いうのか 試行錯誤と いうべきか、周辺部は ねんぢゅう かわる 現代語の 叙法性形式の 一覧表であり、つねに 試作ではあり、思索の 途上であるが、べつの ページ「品詞論の はなし」第5章と 共通する 基礎的な 説明は ごく 簡略化してあるので、必要なら 併読してほしい。

動詞活用 (陳述活用)  [終止活用のみ:陳述するのに 義務化された テンス・ムード対立(ペア・有無)を 組織] … *

                    記述      説明
    叙述  断定  現在      する      するのだ
            過去      した      したのだ
        推量  現在      するだろう   するのだろう
            過去      しただろう   したのだろう
    意欲  勧誘          しよう
        命令          しろ
        依頼          して(くれ)

拡張活用 (事態構成)  [連体活用にも:テンスを 連絡に、選択した コトに 必要な アスペクトや みとめかたを 構成] … **

          \ アスペクト      完成(全一)           不完成(継続)
        テンス\みとめかた   みとめ    うちけし     みとめ     うちけし

        現 在         す る    しない      している    していない
        過 去         し た    しなかった    していた    していなかった

    +アスペクト性:準備性 しておく してある / 方向性 してくる していく / 局面性 しはじめる etc.


合成述語体   内容:述語様相 (ダブルテンス)
    様相  (証拠性) ようだ らしい / そうだ はずだ / (確信度) かもしれない にちがいない
    評価  (適格性)ても/ば/と/たら いい   (不適格性)ては/ば/と/たら いけない … #

動詞派生態   内容:行為様相 (後テンス) … ##
    様態  なり/し そうだ がちだ やすい / うる できる / してしまう(無意志化)
    情意  したい してほしい してもらいたい / するつもりだ してみる しようとする
    当為  すべきだ するものだ / しなければならない せざるをえない / ほうがいい

  # 合成述語体の 評価に いれた 諸形式は、動詞派生態の 当為に いれた ほうがいい かもしれない。
    連続的な 推移が あると みてほしい。前テンスは ないが、名詞述語には つきうる。
    逆に 動詞派生態の 当為に いれた 諸形式は、名詞述語にも つきうる 傾向〜ゆらぎが ある。

  ## 旧稿「文の叙法性 序章」(1989)の 分類・表現とも あわせれば、
    様態=できる ひとの ありかた
    情意=したい さまの のぞみかた
    当為=すべき ことの なしかた

*「ていねいさ」の「します・おもいですよ・教師でした」などは、(述語)活用には いれずに、「文体使用」の 問題として、「ごはん・ご指示・ご講義 / おなら・お食事・おビール」などや 「いらっしゃる・こられる・おいきになる /もうしあげる・おもちする」などの 敬語表現と ともに、語彙・文法(語形成)・文体(場照応)的に あつかい、理論文法(文構成則)からは ひとまず はずす べきか。実用文法では、文字・音声・語彙 造語・文体 位相 などの 基本概要は、必須知識である。「経済」的に 学習できる「ことばの きまり」の すべてが、音声も あいさつ語も 数量表現も 「文法」であり、辞書と 文法書とが 入門期の 二大装備である。念のため、ひとこと。

**「みとめかた」は 述語なら 体言述語にも あるが、連用活用(同時形)では、「テレビを みながら 勉強するな」は、「テレビを みないながら 勉強しろ」とは いえず、対立は ないと みる。「帽子を かぶらないで/ずに 外出する」は、中止法的な 面も あり、修飾〜中止的な「して−しないで V(動詞)」の かたちは、慎重な 検討が 必要だ。中止(並列)から 連用(従属)への うつりゆきと ゆらぎ。

 行為様相の 動詞派生態のうちの「様態:なり/し そうだ …」が 非意志の 事態と 意志的な 行為との わかれていく 多義の 場所であり、情意以降は 基本的に 意志的な 行為にかかわる 形式であるが、「してしまう」だけは 意志行為を "つい うっかり"《無意志(事態)化》する 特別な 機能も もつ。意志的な 完遂態「よんでしまえ」の 意味も あり、無意志的な 不本意「ころんでしまった」の 評価的な 意味も ある、その 中間 過渡の ところに、意志動詞の 無意志化の 反行為叙法的な 用法「つい うっかり はなしてしまう/った」が 位置づくらしいのも おもしろい。

 かつて 「き・けり/つ・ぬ/たり・り」の 6語で あらわしわけた ものを、いまは 「た」1語でしか あらわしわけられないと なげく 古典語学者には、くみあわせの 能力は ないのだろうか。くみあわせの ちからが 理解 会得できないと、上の 近代の 叙法性システムの 要素一覧も わけが わからないと おもう。助動辞要素を 系列化して 相関図に まとめられる ことで 安心できる ひとは、赤・黄・青 3色の 交通信号のほうが、赤・白 2色の 「手旗信号」より 近代的な 装置だし、信号としての 識別機能が たかいと おもう ような ひとなのだろう。崩壊してしまった 古代語の システムから みちびかれた「普遍言語のモデル」が、現代人にも 世界にも 通用すると おもえる ひとなのだ。「推量域」は 「む」付近に、「形容域」は 「し」付近に あるのに、「時間域」だけが 2つの 頂点「き」「あり」付近に あるのも 気にならない のである。ただ、古代語特定の システムとしては、「熱の はいる … 古文読み」の ちからは いかして、相関図を 修正 補強しないと もったいない 気もする。まずは、「あり」は 言語表現の 原点(発話現在)であり、その他の「域」の 認識地に 位置する のだから、図は 90度 右回転させる べきである。ついで、「つ・ぬ」も 周辺の 楕円軌道ではなく ――「焦点」は (文学者的な) 初歩ミスと みて、上段の「発話時空」に 《つ → あり → ぬ》という 配置で、

   動作完結+近づき ――→ 陳述 ――→ 変化発生+遠のき
   してしまってきた     いま     なってしまっていく   「里言」注記

という 意味・視角関係に なるのではないか。《いま》という「時間の切実さ」を いう 論を 改釈した。「つ」は 以前(旧)世界に 動作を「うつ≒すつル」完結(完了)であり、「ぬ」は 以後(新)世界の 変化に「いぬル(≒いく)」発生(完了) なのではないか。全体像は、配置だけに なるが、

   リ・タリ  メリ・ナリ  ラシ
       \   |   /
        \  |  /
         \ | /
      つ ―→ あり ―→ ぬ [発話時空の かまえ]
          / \
      ケリ /   \  ラム
        /     \
      き ――――――― む(ジ)
     (過去)  ケム  / \(想像〜予想 → 未来)
             /   \
            マシ    ベシ(マジ) [∵ m〜b]
  ------------------------------------------------------→

 * し(形容域)は 図表から 除外する。∵「らし・まし」のみ 関与。分散して、情態化接辞と みなす。(上図 2018.07.15. 増補)

という、発話現在「あり」から みた 時間(様相)認識と、「あり・む」から わかれでた 様態・推定や 想像・妥当などの 叙法認識とが 分岐する 平面図(ひろがり みとり図)が できる。ひらがな表示が 1拍基本の 基幹辞であり、カタカナ表示は その近傍の 2拍基本の 複合・派生辞である。
 立体的で 動的な イメージを だいじに したい 詩人的な 感性は わからないでも ないが、立体図形や 球体は、上図(平面)の 三角形も おなじく、トポロジー的には とじているから、要素の 増減や 推敲は かんたんではない。kとsの 辺には 助動辞が ないから、肝心の 四辺形は カタチを なさない のである。mとsとの 辺には「まし」が あるが、かきおとしている。辺の 助動辞の 存在を 無視すれば、頂点4つだけでは、立体の 四辺形=四面体か、 平面の 四角形か、識別さえ できない。この たぐいは 学的作業とは みなさない。著者も 図形認知に ぼけてるが、出版社の 編集・校正も なにを やっていたのか。(藤井貞和2010『日本語と時間』p.41, 120. 岩波新書)

 近代語では 具体例を だして、形式の くみあわせの ちからを みよう。たとえば 「太郎は きのう(は) かいてしまっている。」という 文における 述語形式は、有標の 派生態である 完遂「してしまう]と 完了(perfect)「している」という 意味を あらわす だけではなく、無標形式(零記号)だが、 現在時間と 断定叙法をも 動詞の 終止形として あらわしている。完了「している」は、アスペクト(拡張)活用形の「派生用法」の 終止形という、やや 特異な (歴史移行的な) 位置に たち、いいかえれば アスペクトから テンスに 移行する 途上の 中間形態、いわゆる「現在完了」なのである。さらに、ここの 無標の 断定叙法は、構文的には 既定(〜一般)主題成分「太郎は」と 結合して 品定め(判断)文に なるので、構文的な 意味機能としては 《現在までの 経歴の 解説》なのである。これを「学生は/が きのう(は) かいてしまった。」と 比較してみると いい。時間・叙法という 基本的な 陳述の しかたが ちがうので、文を こえて 連文的な 機能も かわってくる だろう。後者の 文は、既定/未定 主語成分の、完遂(有標)した 過去(有標)の できごとの 記述叙法(無標)であり、物語り(現象)文として はたらくのである。あるいは さらに「太郎は きのう(は) かいてある。」という 「準備状態」の 文と みくらべてみるのも いいだろう。「学生は/が きのう(は) かいておいた。」という「準備行為」の 文とも、とおく 関連を もつだろう。前者は 現在の 準備状態の 判定であり、後者は 過去の 準備行為の 記述なのである。なお、「きのう(は)」という 時間の 状況成分も 各文で いろいろ ちがいが 生じそうだが、いまは、正解が 1つに 統一できない 可能性も あるので、応用的な 発展問題と いうか、歴史的な 機能変容の 可能性の 問題として、かんがえてみてください。ともあれ、文章・文・語 という 表現レベルの なかで、述語構造・構文機能の もつ 文の かたち(文タイプ・文パタンなど)の 表現は、とても 語要素の 総和だけでは あらわしきれない のである。(2018.07.13. 16. 加筆)

3)文の 階層構造との 関係を みよう。広義の 叙法性に はいる 文法的カテゴリーなどを ゴシック体で めだたせる ことにする。

    段 階:代   表   語   形  代表 機能  文法的な カテゴリー・語形など
    A段階:して/しながら/しつつ    修飾 補充  格支配 比較 自他 ヴォイス
    B1段階:すれば/したら/すると    条件 並列  行為様相 肯否 アスペクト
    B2段階:ので−のに/ために−くせに  原因 目的  述語様相 テンス とりたて
    C段階:から/け(れ)ど(も)/が/し  理由 前置  叙述法(推量・説明) 主題
    D段階:と/なんて (との・という)   引用 話法  意欲法(命令・勧誘) もちかけ

A段階を のぞいて、B1段階から D段階までの 4つの 段階に わたっている。D段階の《意欲法》(テンスなし)、C段階の《叙述法》(テンスあり)が 動詞活用を 構成する 《(基本)叙法 mood》である。のこりの《副次叙法(=様相) mode》の うちが、B2段階の《述語様相》と B1段階の 《行為様相》《肯否》とに きれいに わかれるのは 偶然ではなく、段階を わける 基準が (前部)テンスの 有無だからであり、B1段階と B2段階とを 区別するのが 工藤の 南不二男に対する 批判 修正の 肝要な ポイントでもある。わたしの 文法システムにとっては 階層の 下位区分ではないのだが、南理論との 連絡を つけ、読者の 混乱を さける ためにも、B1・B2と よぶ ことにした。

 以上の 現代語の 状態に対して、古代語では、たとえば「せむ(せう)」(想念)の 形式は

「われ いかむ」「なんとしても いかう」は 意志、
「火の用心、さっしゃりませう」は 命令/勧誘、
「ゆき ふらむ」「あめが ふりませう」は 推量、
と、主語の 人称性と あいまって、意志・命令・推量などの 叙法的な 意味機能は あらわされるのだから、「想念」の 形式の 機能としては 「現実」と 対立する ひとつの 段階と かんがえてよく、けっきょく 無標の「現実」を "ものがたる" A段階と、命令形「せよ」も ふくめて、有標の「非現実」を "しなさだめ" する B段階の 2つの 段階、つまりは「属性と 陳述」(山田孝雄) 「コトと ムウド」(三上章) などの 文二分観と 一致する。平安時代の 物語文学の 平板な 文連鎖の 印象とも みあう。文の 階層構造も、歴史的に 変化する 文法の コンセプト(内容)であって、論理的な 不変の わくぐみでは ないのである。
 中世の 文献では、「〜なり / 〜ぢゃ」や「〜ゾ」などの 説明〜(評価)判断文が めだって おおく なってくるが、そうした 体言(準体)文末表現を もった 新文体 (和漢混交文・抄物・法語 etc.) が 文の 階層構造 多層化の ひきがねにも なったと おもわれる。《体言への 連体表現 ⇒「有属文」化 ⇒ 階層構造》の ステップを ふみ、品詞としては 《形式名詞(松下) ⇒ 吸着語(佐久間) ⇒ つなぎ・むすび(奥田)》といった 機能変化 だろうか。複文に 「連体的なタイプ」(有属文)と 「接続的なタイプ」(合文)との ふたつが 区別できても、絶対的な 区別ではなく、前者から 後者に 移行する ことは、山田学説でも「常識」になる のではないか。形式名詞から「形式副詞」とか 機能的に よびかえる 学者(森重/奥津)が いたり、吸着語を さらに 多機能活用的に「準詞」とか 位置づけかえる 研究者(三上)も いたり したではないか。なお ふるく、「この かは(皮)は もろこしにも なかりけるを、からうじて もとめたづね えたる。…」(竹取物語)とか、「をとこも すなる 日記と いふ ものを をむなも してみむとて するなり」(土佐日記)といった、うそ・虚構の 表現に 動詞連体形+「なり」を もちいた ことに、説明用法[(も)のだ]は 発している のであろう。

 階層構造から はなしは 体言に もどるが、体言は 助詞なしには 無機能(文法無表示)だと なってしまう 公認学説(山田〜渡辺)は、歴史的な 事実に あわず、常識的ではない。連体を うける という 機能が 体言では だいじなのだ。用言活用は 「きれつづき」でいいが、(基本的に) 文中の 体言は 「うけつづき」が だいじなのである。助詞が 補助語・付属語である ことについて、語には かわりは ないと 語形式 中心主義を 主張するよりも、自立語とは ちがう ものとして 形式・機能ともに 高低・濃淡を みるのが アルタイ型(膠着)言語では だいじなのである。成章の「あゆひ」や「かざし」も、文中の 位置・機能に 注目したのであり、西洋の 単語性には とくに こだわっていない。助詞・複語尾(山田)も、付属語・付属形式(服部)も、西洋との 接触によって 学問を 近代化していく ときには なんとか 通過せざるをえない 手法(装置)段階だった のだろうか。
 《体言+用言 係り結び構造》や《用言+複語尾 複合体構造》という「日本語の特質」も、あくまで 古代日本語の 特徴にすぎず、その後 歴史的に 《体言 格+とりたて 二重提示》《用言 カテゴリ多重 階層構造》を 特徴と する 近代日本語の システムに 展開した のである。山田文法も 「日本近代文法の父」というよりも 「最後の国学者」(世評)に よる 《国学文法の 理論的大成》と 位置づけを かえて、いまや、研究史(視座・観点)的に 具体事例を あげて 批判できて いいのではないか。国学文法とは、古道復興 古典尊重の 精神に もとづく 文法である。(2018.07.07-9. 加筆)



■相言の 装用(junction 修飾 modification)

0)いままで のべてきた 体言の 提示と 用言の 叙述とで、人間言語の 本質を なす 二語文は 成立するが、それらを 修飾して 拡大する 成分が 相言であり、品詞としては 日本語では 状詞ひとつで 構成されるが、西洋語では 形容詞と 副詞との ふたつの 別品詞に 対応する。

         日本語       西洋語

         体―用       体―用
          \/        │ │
          相        形―副

のような 配置関係に なるが、3項鼎立か、4項並立(2項対立×2重)か という 要素数も 構造 相関図も ちがう。たがいの 民族的な 言語どうしが 接触し 相互作用する、言語の 連合 平衡化の 現象は、要素や 構造の おりあいを つけて、移行関係にも はいりうる であろうか。

1)日本語の ばあい、かつて 状詞=相言は、活用する 点で 動詞=用言と いっしょに されていたが、「活用」の しかたが そもそも ちがうし、ふるく 無活用の 体言=情態言(ex. たか-やま たか-とぶ / しろ-の しろ-き)にも つながる、中間的 二面的な 品詞だと みた ほうがいい。
 已然形と 未然形とは、動詞用言の 動作間の 前後(タクシス)性に あわせて つくられた 活用形であり、上古の 状詞=相言には 区別なく「け」形が あるだけで、中古には「あり」が 介入(母音融合〜脱落)した「補助活用 けれ かれ」として つくられた ものである。
 「あゆひ抄」以来 動詞活用に あわせて 活用図は つくられているが、連体「き」は ともかくとして、連用の 構文機能は、動詞(イ段エ段)と 状詞「く」とでは 並行しない。 動詞と 動詞との 連用関係は 基本的に 《並列》〜《原因/方法》であり、状詞と 動詞との 連用関係は 基本的に 《修飾》である。動詞−動詞の 修飾は、「いそぎ・くりかえし」や「あわてて・とんで」など 語彙的な意味が 特別な ものに かぎられるし、状詞―動詞の 並列〜原因は、「あまく(し)て よく たべられる・きれいで(にして にて) このまれる」など、古代では「(し)て」が 累加され 近代では 融合して 別形に なっった かたちが ふつうである。つまり 構文機能的にも 形態成立的にも、活用図は 別に つくられるべき ものである。
 活用成立については、川端善明の 研究が いままでの なかでは いちばん 詳細で 説得性も たかい ように おもわれるが、論理展開を ここまで むつかしく いわなければ いけない ものなのかな というのが 正直な 感想である。言語の 集団制作性が 論理を 淘汰的に 単純な くみたてに するような 気も する。ネイティブの 表現者の 直観を 満足させる 説明に なっているか、と サピアなら 自問 自省するだろう。いま、わたしの 理解できた 範囲で 解説すると、活用の 出発は 連用形の「く」であるが、これは ク語法とも いわれる 形式名詞(体言化助辞)と 同系統の ものであって、いわば 相言=情態言の 無標形(はだか形)が 動詞用言に 前置される ことによって 修飾機能を はたす ものであり;連体形「き」は その かたちに 独立化要素の "i" が くわわった もので、実体体言化され 後置の 体言と 同格的な 機能を はたした ものであり、印欧語の 照応的な 同格関係と 意外な 共通性も もつ ものであり;「け」の かたちは、その「き」に 体言被覆形で 情態言化する "a" 韻(母音交替)が 融合した もので、即自的な 情態言(さま)が 対自的に 実体(もの)化された のちに ふたたび 情態言化(止揚)された「ことがらの ありさま化」 つまり 不定形 infinitive であり、文献時代には 推量 否定 ク語法 といった 用法が のこっているに すぎないが、不定形の「ことの ありさま化」つまり 情態句措定性と 矛盾は しない。ク語法が 回帰(反復)的に 想定されたり 使用されたり する、重層(いれこ うめこみ)的な 関係に ある ことも、「論理的な 矛盾」なのではなくて、語レベルから 文(句)レベルへの 発展の 契機(Moment 動的要因)なのだと かんがえる べきである。
 活用成立については 未詳な ところも のこるが、原理的に 想定される 構文的な 機能の ちがいだけでも、相言を 用言に いっしょに いれておく 通説に したがう だけでは 十分ではなく、相言は、形式的にも 体言とも つながり、体言と 用言との 二面的な 性格を もって、中間的で 第三者的な 位置を しめる 成分 品詞である ことは なっとくしてもらえる のではないか と おもう。


2)英語、というより 世界共通語としての 宿命、いいかえれば 法則の 簡略化について やや 空想的な 想像を のべさせてもらいたい。
 日本語とは 逆に、印欧語の 形容詞は、体言名詞 noun と 性・数・格で 照応する ことに 注目されて、実体体言 substantive noun に ひきつけられて 形容体言 adjective noun という ように 大別された。だが、また be動詞と くみあわさって predicative 用法を もつ ことでは 用言性を もつ わけだが、ふつごうな 例外現象を 排除して 簡単化する 対照類型化の みがまえ(研究態度)の なかで、日本語と 印欧語とは 正反対だ という わかりやすい 通念が 固定化する。さらに 照応現象の 有無によって、形容詞と 副詞とを 別品詞と みる 4項図式も 常識化する。しかし、

格・数・性・人称 などが「一致する」と よく いいならわしている ような 現象は、しいて いえば シンタクスには 不要な ものであり、こうした ヨーロッパ語の「非論理的な 複雑さ」や「機能的な 差異を ともなわない ような 複雑な 活用組織」は、表現の 必要というより、「慣用の 圧制(暴虐)」であり、「惰性」でしか ない。(要旨)
と サピアの いう「圧制」の なくなった 共通語としての 英語(非「ヨーロッパ語」)では、形容詞というより、状詞の 連体形と みた ほうがいい かもしれない。というのは、形容詞−名詞に 照応の なくなった 英語においては、"-ly" に おわる 副詞(=状詞連用形)と 動詞との 関係と 並行して かんがえる 障害は なくなる からである。「"-ly" 副詞」については、E. サピアも、"Language" の「VII. Drift」の p.169 に、
"-ly" 副詞は、もとの 形容詞に おもく もたれかかっていて 独自の 活力は もたず、(リーと) ラリって のばして いっている 感じだ ("-ly" drags psychologically)。(副詞と 形容詞とが) いごこちよく いっしょに している ためには、意味の 実際上の 範囲も ほとんど おなじだし、ニュアンスも ちかすぎるので、"-ly" 副詞は、あきらかに やくにたつ かおは していても(in face of …)、《不変化語(invariable word)》に むかう ながれ(drift)に のみこまれて、そう とおくない 将来に きえていきそうだ。
と 1921年には 予想していたのだが、ほぼ 1世紀後の 現在も なくなってはいない ようである。これは どうして なのかと かんがえてみれば、この "-ly" は、もはや 品詞転成の 派生接辞では なくなり、"-s" (三単現/複数)と おなじ ように、不変化語への ながれに 抵抗する (活用の) 語形(form)と なって、よくは まだ わからない「形式渇望 form cravings」を シンボル化する (かたちどる) 形式に なったのではないか。「三単現」= 人称 数と 時称とは、つまりは 主−述叙述関係に かかわる 語形変化である。修飾関係の 照応は なくなっても、《主−述叙述関係》、つまり 文事態の 主体と 時間の 形式化に 「うえ かわき(cravings)」に にた 感覚(feeling)が のこるのだ としたら おもしろい。修飾関係の 部分関係の 照応が なくなる ことが、連鎖反応的に、副詞という 不変化語(品詞)を 状詞の 連用形(活用)に かえる という 再構造化まで はたす としたら、これも また たのしい。空想でしか まだ ない ものを 披露に およんだ。としは とりたい もので、なんでも めいどの みやげに なる。すもうとりの まねを して いえば、奥田と サピアの 副詞論に 恩がえしが できた ことになる。わたしにとっては 最高の みやげばなしである。


3)相言として はたらく 品詞の 状詞は、基本的には 修飾語として 機能して、「連用形く」や「連体形き」を もつ わけだが、二次的には 述語(述定)としても 機能して、「終止形し」も もつ。その「し」が いわゆる ク活用では 語尾として、シク活用では 語幹末として はたらく 複雑な 現象が、成立を むつかしく している。中世以降は 「し-し」「-しき → し-い」によって 表面上は 統一されたのだが、成立については 前々節の 体言の 卓立機能の ところで ふれた 以上には ふかいりできない。ただ おおまかな スケッチでも、相言の 歴史としては、活用の 種類として あらわれてくる 語彙的な 種類に ふれておく べきであろう。構文的な 機能じたいには おおきな 変化が みられない ようだから、活用を 構成する 種類が 主として 歴史を 構成する ように おもわれる のである。例によって、歴史の ポイントを かきこんだ 図式表に まとめた。

無活用時代:文献以前:たか やま、たか とぶ、(枕詞) たかてらす たかひかる

                      
                     古 代 語
ク活シク活:古代前期:うまき さけ、うまし 国そ、うましき 世  # ク活=状態、シク活=情意の 傾向
なりたり活:古代後期:<−に+あり、−と+あり        # 上古:連用=情態言「たまも ゆららに」が 先行

                      
                     近 代 語
擬音と/た:中世以降:ゆうゆう(と) −している −した    cf. たり形動 形式用言「す」の アスペクト形式
体言で/の:近世以降:はだかで  はだかだ  はだかの     cf. なり形動「で・な」、体言「で・の」
      近世以降:はやくちに はやくちだ はやくちの    cf. なり形動「に・な」、体言「に・の」

用言て/た:近代以降:かわいている かわいた/まがっている まがった # 状態詞系へ:連体 終止形;アスペクトの 状態
      中世以降:いそいで あわてて とんで/あらためて はじめて # 様相詞系へ:中止形;修飾的様態、並列的様相
説明の 文章の 表現力より、図表の ゲシュタルトの 喚起力の ほうが 簡潔であり、形象的で 理解されやすい ような 気がする。かんたんに ポイントだけ 説明しておけば、いわゆる 活用の 成立は、「−く・−に」という 体言無標形や 擬音情態形に、i 独立形や a 被覆形なり、活用繋辞の「あり」なりが、付着して 構成された ものと おもわれる。出発は、副詞 というより、体言(情態言)の 無標形式と みるべき ものである。中世以降の 用言からの 転成に、ふたたび 連体形(形容詞)と 連用形(副詞)の 品詞的な 分化の うごきも あるかの ようにも みえるが、動詞の 属性としての 語彙的な 状態・様態(主要品詞の 状態詞<状詞)と、その他の 文法的な 機能の 補助品詞(様相詞<制限詞)とへの 分化と みるべきだと わたしは かんがえている。その他の 中世以降の 主要品詞からの 品詞転成は、発展途上の ゆらぎのなかで まだ いろいろ ためしている 感じで、まだ 安定した 活用システムを 確立してはいない ようにも みえる。「___的な/に」の 空欄に めずらしい 漢語や 外来語を いれて 状詞を つくるのは 文法的には 簡単だが、発信者のみが 文法的な 簡便に はしって、受信者には 語彙的な 不都合も おきている、公共的な コミュニケーションに 不通 難解など「しらしむべからず、よらしむべし。」の 姿勢 態度が 生じる 弊害も、いちじ 新聞 雑誌を にぎわしていた。明治以降の 近代化は まだ 150年、現代の 文化の 基礎は、先進国 というより、まだ 発展途上国と いった ほうが ふさわしい。言文一致も 標準語も、まだ おわった わけではない。「戦後」の 平和ボケに なれ、経済格差に ならされて、理想の 論じられない ような 社会状況が、いちばん こわい。


■「形式名詞」(松下)

0)いままでは あれや これやと 気くばりして、システムの 全体像に せまろうと つとめてきたが、しばらくの あいだは かたの ちからを ぬいて、とくに あたらしみも ない けれど、日本語の 歴史の 展開の しかたを かんがえるには だいじな 話題について 重点的に かいていきたい と おもう。ぬけおちも おおくなる かもしれないが、気楽に よむ ことができる 簡便性も うまれる かもしれない。気分的には、古稀を すぎた としよりが あそびごころを もった しごとを ゆったり はじめようとする ウォーミング アップである。


1)「形式名詞」という 用語は、教科文法のなかに とりいれられた、すくない 松下文法の 用語の ひとつである。
 松下大三郎は、『標準日本文法』(1924)の「名詞の細分」の 項で、「形式名詞」を、

   形式的意義ばかりで実質的意義の欠けた概念を表はす名詞である。(p.206)

と 定義し、文章「説話」の なかでは「他語を以て …… 実質的意義を補充しなければ意義が具備しない」もの として、

   者 筈 の ため こと 由 所 かた

を つかった 文例を あげている。その 文例を あげるのは 略すけれど、ここでは、もとの「名詞」性の たかい ものが 優先されている。
 それと ともに、「概念の表はし方が分業的であるから …… 名詞の最も発達したものである」とも、「欧州語には形式名詞がない」とも 指摘した うえで、「事物を名づける」という 名詞の 定義では、形式名詞は「這入らなくなる」と、文法(機能)としての 問題の おおきさも 予感している。
 そして 具体例を 9ページに わたって くわしく 検討した うえで、

   用法によって形式名詞性副詞や形式名詞性動詞の名詞部になるものがある。
   様(ヤウ)などは形式名詞性動詞の名詞部になる場合の方が多い。

とも 指摘する(p.226)。おおよそ、前者「形式名詞性副詞」が 奥田文法の「つなぎ(接続詞)」に あたり、後者「形式名詞性動詞の名詞部」が 教科研文法の「むすび(繋辞)」に あたる。
 松下大三郎1930『標準日本口語法』(p.24-5)では、

   問題は形式名詞を従来の所謂る名詞の中に入れるかどうかにある。
   従来の品詞別、名詞、代名詞……は不合理である。

と いい、さらに、頭注部に、

   従来の九品詞では説けない。

と わざわざ 注記する。この 最後の 著作において 松下大三郎は、形式名詞に おおきな 問題の ある ことには 気づいていて、その後の 発展が おおいに 期待される のであったが、翌年 脳溢血に たおれて、その後「言語さえ不自由な重い病床」の ひとと なってしまう のである。


2)松下の いう「名詞には はいらなくなる」という 性格は、のちに 佐久間鼎によって「吸着語(の 用法)」(『語法の研究』1940)として、三上章によって「準詞」(『序説』1953)として、分析説明が 発展させられるのだが、用語については せっかく 教科文法に 定着しかかっているので 「形式名詞」の ままで とおす ことに する。

 と すれば、広義の 形式名詞は、つぎの おおきく 3つの 用法を もつ ことに なる。

   1) 基本的には 補語の 名詞部分としての 用法     狭義「形式名詞」
   2) 補充の 連体部が 従文に 昇格し、その末部に つく「つなぎ(接続詞)」
   3) 補充の 連体部が 主文に 昇格し、その末部に つく「むすび(補助述詞〜繋詞)」

佐久間は 主として 1)と 2)とに 注目して「吸着語」と よんだのだし、三上は 1)〜3)の 全部を 「準詞」の 活用と みたのである。三上は、たとえば「の」という 準詞は (代表)語幹、「ので」が 中止形、「のに」が 連用形、「のだ」が 終止形と、活用システムと みたのである。ふつうは 「ので・のに」は 接続(助)詞、「のだ」は むすび(助動詞)という ように、別々の (補助的品詞の) 機能用法の ちがいと あつかうだろうが、まずは それらを ひとまとまりと みた ことに 意義がある のである。佐久間が、英文法の 関係代名詞と 関連づけて 2)は 注目したが、3)は べつものと みて 無視していた ように、論理的(演繹的)な (事理の) 解説に したがっていた 西欧科学応用の 開発者であった のに対して、三上は、1)〜3) の すべてに 日本語の 形式システムの 関連を みいだした うえで、それについての 実証的(帰納的)な 研究に したがった 現代文法探究の 研究者だった のである。先駆者の しごとには いきすぎが つきものであって、その 現代語法研究史における 功績は 画期的に おおきい。研究史に かかわる 用語関係の めんどうくさい 問題は、以上で おしまいに しておく として、教科文法的に 問題を 簡潔に まとめれば、形式名詞は、

   1) 名詞用法 : 文中成分に
   2) 接続用法 : 従文末尾に
   3) 述語用法 : 主文末尾に

の 3用法を もつ わけだが、だいじな ことは、この 3用法が 歴史的な 発展として 文の 位置の ちがいに 応じて 文のなかで 生じた という ことである。いうまでもない ことだが、語としての 品詞(性格)変化は、文のなかでの 語の 機能配置に はじまる のである。


3)やはり 具体的な 例を だして、解説した ほうが わかりやすく なるだろう。代表的な 形式名詞としては、「もの」でも 「こと」でも 「ところ」でも いいが、その《カテゴリカルな意味》もしくは《意味の 範疇化機能》が、文法(化)機能の 展開にも ふかく かかわってくる ようなので、「もの」を 主と して、「ところ」を 副と して、例解していく。

 「もの」も ふるくは 「もののけ・ものいみ」とか 「ものに ゆく みち」とかの 表現に のこっている ように、実質名詞としての 用法も あった はずであるが、ふかいりは しない。形式名詞としては、すでに いわれている ように、「こと」が 時間的に 変化する コトガラの 範疇を 意味する のに対し、「もの」は、時間的な 変化の 面は 無視して、空間的に 存在する 実体性の 範疇を 意味する ようである。「ところ」は、場所・位置の 範疇的な 意味も あるが、より抽象的な 場面・シーン といった 範疇も あらわし、

   犯人は、倉庫の かたすみに かくれている ところを 捜査中の 警官に つかまった/みつかった。(ヒトの 行動の 自動詞)

といった おもしろい 表現を 日本人は このむ ようであり、教員時代には 留学生から よく 解説を もとめられた ものである。この 「… ところを」には、補語(対象語)性も あり、状況語性も あわせもつ というのが ミソなのであろう。これと 関連して、「ビールの ひえたの」という 表現も、「ひえた ビール」と 完全に 同一視は できない、状況/事態的な コト性の 意味(ふくみ)を よみとる べきなのだろう。一方では、

げたで けんかを する。      黒板で たし算の 練習を する。   手段−モノ名詞
にわで すもうを とる。      黒板の ところで おしゃべりする。  場所−トコロ名詞
台風で ものおきが こわれた。   げたの ことで 兄弟げんかに なった。原因−コト名詞
のように、語彙の カテゴリカルな意味が 助辞の 文法的な意味の 区別に 作用し、形式名詞「ところ・こと」の 使用によって 文法的な意味の 交代も おこる、という 典型的な 例も あれば、他方では、歴史上 やや 混線的な 混淆・変質を ともなったり、異質な 意味の 微妙な 混在を しめしたり する、上述のような 過渡的・両義的 〜 派生的・周辺的な 例も ある のである。

 ところで はなしは とぶ ようだが、

   をとこも すなる 日記といふ ものを をんなも してみむとて するなり。

という 土佐日記の かきだしにおいては、「日記といふ ものを … するなり」という、未知の 引用すべき ものを を格補語に するのが おもての 関係であるが、文のなかに ある 「をとこも」と「をんなも」との 対比によって、<… もので あるが/あっても> という 対比の 複文の 意味機能(おおきくは 逆接条件)も、文のなかでは うらに 準備されている。それが のちに、
 としごろ うれしく おもだたしき ついでにて たちよりたまひし ものを、かかる 御せうそこにて みたてまつる、かへすがへす つれなき いのちにも はべるかな。(源氏物語、桐壷。広辞苑から まごびき)

 はやく あきらめれば いい ものを、いつまでも こだわっていて 未練がましい。(広辞苑 いちぶ 改変)
といった 「逆接の 接続助詞」に なったのであり、現代語の 例文の「ものを … こだわる」には 格助辞の 性格も ただよっている。感覚・感情動詞の 格関係における を格と に格との 交代現象が からんでいて、解釈も ゆれるか。だが、基本的に 格関係と 接続(=句格)関係とは 二者択一すべき 関係には ない という ことが だいじな ことなのである。接続詞という 補助的品詞が 確立すれば、前接の 用言の 活用形が 連体から 終止に かわる(「… だ ものを」)のも、「…だ(ろう) から/が/し」や「…だ のに」に すでに おこっていたり おこりつつある ことである。
 ついでながら、終止(断定)形や 推量形に 接続する 語を 「接続助詞」と よぶ ことは、正当化できるだろうか。引用の「と」も ふくめて、「助詞」と よぶ ことは、山田文法〜橋本文法の 意味では なく、西洋文法的な "particle" の 訳語としての 補助的品詞だ という 意味で、正当化される だけである。語の 《機能の 独立/補助性》の 問題と、語の 《形式の 自立/付属性》の 問題とは、相関は もちろん するけれども、いちおう (相対的に 独立する) べつの 問題だと かんがえるべき 補助的品詞の 領域も ある のである。
 やや 唐突だが、サピアの「語」の 考察は ふかい。ネイティブの リアリティを なっとくさせない ような、めんどうな 構造規則などとは 根本的に ちがう。はなしてが じっさいに (無意識に) つかえる 構成規則である 必要が ある。分析者である まえに、表現者である べきなのだ。この点、時枝誠記の「観察的な立場」と「主体的な立場」との 関係に かかわる 基礎づけも 正当である。
 辞書によれば 順接関係の 例も ある ようだが、「せっかく たたんでおいた ものを、こどもに めちゃくちゃに されてしまった」では 逆接的(想定外)だが、「せっかく いただいた ものを、だいじに あつかわなくては ばちが あたるよ」では 順接的(理由)であって、どちらも かつて あった ことは なっとくできるが、現代語には つたわらなかったのは、「かぜを ひいてしまった もので …」のような (なりゆき的な) 理由・根拠の「もので」が 別に 成立して、順逆を いいわける ように なった からではないか。さらに、接続用法にも 述語用法にも もちいる 「だって、やさいなんか きらいなんだ もの/もん(、たべらんないよ)。」[(…)内は 下略可能] といった「だって … だ もん」は こどもの 常套文句であり、自分の 理由(好悪)と 世間の 理由(慣習)との 不一致を くるしみつつ なおし/ならし ながら、「社会化」していく のである。


4)述語用法や、いわゆる「終助詞」用法については、簡潔な 例解で すませようと おもう。

みずは 100℃で ふっとうする。(しなさだめ文)   cf. いま 給湯室で おゆが ふっとうしていたよ。(ものがたり文)

ダイオード という ものは、二端子半導体素子の 総称で、整流・検波・増幅・断続などに ひろく つかう ものである。(広辞苑の 説明文を もとに、標準の 文パタンに 整形改変)
後者の 例文は 「ダイオード」という 未知の 対象を 総称の 主題に して、一般的に 定義する 名詞判断文(しなさだめ文)に する ものであるが、前者の「みず」の しなさだめ文の 例文が しめす ように、常識的に よく しられた ものであれば、名詞の 総称主題用法と 動詞の 無時間用法という 基本的な「無標」(土台)用法で あらわす ことができて、形式名詞「もの」が なくても さしつかえは 生じない のである。「もの」は 一般化の「形式名詞」だと いっていいが、なくても 文の かたちだけでも 表現しうる ものであり、《任意の 語彙形式》なのである。ところが、
まちがいに 気づいた ばあいには、すぐに 訂正する ものである。(当然:動詞原形に)
なんて ばかな ことを した/する ものか/ものだ。       (感嘆:個別〜一般)
わかいころは よく ここを はしっていた ものである。     (回想:習慣過去に)
といった 用法に なると、文のなかでの 語(自立語+付属辞)の 用法から だけでは 十分に 説明できず、文法機能の 補助語としての 独自の (とは いっても 文パタンの なかでの) 用法として、特別に 記述する 必要が おこってくる であろう。さっきの「だって … だ もん」の 用法は、理由の 接続用法と 感嘆の 述語用法とが 合流し 情緒的に 強化されて、こどもごころに 愛用される ものなのでは ないだろうか。
文法的な 義務用法か:語彙的な 任意用法か:という ちがいは、有無 ○× 二分ではなく、濃淡の 程度差を ともなって あらわれてくるから、その「精密な」境界画定は 神経質な 研究者を なやませる。歴史現象には 程度差を もった 連続性が あると 理解している 研究者は、大局的な ながれを 重視して、トリビアル(些末)な ちがいには こだわらない。「神が 宿る」という「細部」と、「些末」との ちがいは、精密化は できない、「価値」に 重点が あるから。だいじな ことを 「細部」に わたって 「厳密」に かんがえる ことが できる だけである。そのとき ぬけおちた ものが 結果として トリビアル(些末)なのである。一方の チャンスが 他方の ピンチである というのが 価値の たちばなので、みかたの くいちがいや あらそいも おこる。文化科学は、自然科学と ここだけは ちがってくる。
 時間を かければ もっと くわしく できる はなしも ありそうだが、もう やめておく。だいじな こと、つまり 語(=外的な形式・エルゴン)の 形態や 機能は、文のなかでの 配置や 音調に ささえられながら、その はたらきの 総合(=内的な形式・エネルゲイア)によって うまれ かわってくる ものであり、文法システムは、不動の メカニズム(機構)の ようには かんがえられない、という ことを 強調して おわりに する。



■「補助動詞」(橋本)

0)もともと、形式的には 自立語の 性格を たもった まま、機能的には 付属語の 助動詞と おなじような 性格を もつ 語を いう 用語であって、「ている・てしまう」の ような「て」を うける ものだけでなく、「く/で ある・いらっしゃる」や、「よみは/も するが」「運動(を) する・いたす・なさる」なども いれる ことも あるが、ここでは 「て」を うける 補助動詞だけを あつかう ことに する。他は、「むすび(補助述詞)」であったり、「動詞を 名詞化して とりたて(接続)化する 例」として あつかったり、「[連用+動詞]と [連体+名詞]との あいだの 修飾変換」(連体節は 無限反復にも 詳細内容にも しうる)として べつに あつかった ほうが、文法の 内容が ゆたかに なるだろうと おもう からである。
 「て」を うける 補助動詞は 本動詞と 活用は ほとんど おなじであって、前項の「形式名詞」が そのあとに いわゆる 助詞などが ついて 文の 機能を 種々に かえた ばあいと ちがってくる。基本的に 動詞の 活用は 述語であって、終止形は 主文述語、連用形は 中止節述語、連体形は 連体節述語、条件形は 条件節述語、といったように 文のなかでの「きれつづき」に 対応している。活用形の ちがいも、興味ぶかい ものが あるが、ここでは はなしを 単純化して、主文述語の 終止形に かぎる。もっとも 動詞らしい 性格である。


1)「ある/いる / そびえている/にている」など 少数の 状態動詞を 例外としながら、「している」は 「する」と ペアを くんで、《継続相−完成相》の 文法的な 対立を 形成している。その 継続相の まわりに 有標性どうしの ペア「してくる−していく」が あり、「くもってくる・はれていく」のように 主として 状態変化の 動詞の ばあいに、変化が ちかづいてくるのか;とおのいていくのか;という 方向的な 展開性の ペアを、継続性の 下位概念として あらわしている ように おもわれる。

 アスペクトに つづく 「やりもらい(利益態)」であるが、

してやる ―― してくれる (外 ― 内)   cf. コ―ソ   原動 ― 受動
  |                   |      |
してもらう                 ア     使役
(授 ― 受)
という 三項対立の ひとつの イメージである。cf. に しめした「コソア」の 図式が、コソと コアとの 2組の 2項対立である というのは 三上の 考案した ものだったと おもう。「そうこう・あれこれ」は あっても、「ああそう・それあれ」とは いわない とか いっていたと おもう。その アイデアを ヴォイスや やりもらいも 同様に かんがえていいか と いいたい のである。原動−受動・原動−使役や、やり-くれ・やり-もらいは あるが … などと、三上が どこかに いっていたか、自分の かんがえだした ものか、記憶が 自信ない。あるいは、
授 に格:してやる (外) ―┬― (内) してくれる    能動:原動(自行) ―┬― 使役(=ひと他動)
             |                       |
受 が格:      してもらう           受動:      うけみ
のような T型の 対立か、くわしく 説明も せずに、しろうとの アイデアに すぎないが、読者の 意見を ききたい ところである。
 以上の アスペクトと やりもらいとは (指示詞や ヴォイスも) すでに くわしく 研究されているので、いま ふれた こと以外の くわしい 研究内容は それに まかせて、わたしは おうちゃく させてもらおう と おもう。


2)このほかに 「してみる・しておく・してしまう」といった もくろみ(意図性)に かかわる 1群が ある。「してみる」が ためし(こころみ)の 行為、「しておく」が 準備の 行為である ことは 問題ないと おもうが、もくろみの「しておく」は、アスペクトの「してある」と

しておく ――― してある
先行準備    結果状態
もくろみ    アスペクト
のような 対立の 関係に なるではないか。「しておく・してある」も どちらも 意志動詞にしか つかないし、どちらも 「している」形式を もたない、という 重要な 共通点が あるのである。もくろみの「しておく」は、準備事態の 先行段階の 行為を しめし、アスペクトの「してある」は、準備事態の 結果段階の 状態を しめす ことから、おもてか うらか という ちがいは あっても、どちらにも もくろみ性と アスペクト性との 性格が もたされる のではないか。つまり 「しておく・してある」の ふたつは、もくろみと アスペクトとを あわせもった 《動作様態》の 代表形式と していい ように おもわれる。

 《動作様態》の もうひとつ「してしまう」については、「アスペクトと 評価 ――「してしまう」の 意味の ありかた ―― 」を かいているので、簡潔に まとめれば、
1) 意志完結:さっさと かいてしまいなさい。/ あそびたいので、はやく かきあげてしまった。
2) 無意志化:あには てを きってしまった。/ あねは コップを わってしまった。
3) 評価用法:あめが ざんざんぶりに なってしまった。/ 台風が 堤防を 決壊させてしまった。
のように 3大別すべき 用法であろう。1)と 3)とは よく しられていると おもうが、2)の 無意志化 というのが、とくに ここで いいたい ことである。1)の 意志的な 完結用法と、3)の 無意志的な 評価用法とを、いわば つなぐ 用法であるが、
おにいちゃんは ナイフを つかっていて、つい てを きってしまった。
おねえちゃんは コップを あらっていて、うっかり おとして わってしまいました。
のように、「つい・うっかり」などの 副詞と いっしょに、「きる・おとす・わる」など もと 意志的な 他動詞を 無意志用法に かえる のである。自分の からだの 部分に かかわる「再帰」用法が おそらく はじめに あって、「コップ」のような 所有物・所属物へと そとに ひろがっていく のであろう。評価用法では 「あめ・台風」のような 人間に 影響を およぼす ものの 自動詞(使役)事態にも 「てしまった」が つきうるのだ。

 動詞述語の 派生態としては、このほか「しそうだ・すべきだ / したい・しない」などの かたち(広義 状態化)も あるが、「て補助動詞」に かぎって いえば、アスペクト(時間様態)、やりもらい(利益関係)、動作様態(意図性)の 面で 動詞述語の 文法カテゴリを くわしく している。



■《補助述詞》(Auxiliaries)

0)「補助述詞」という 用語は、教科研文法、鈴木重幸1972『日本語文法・形態論』では「むすび」で おなじみの ものであって、こと あたらしく 名称改称に およぼうとする のではないのですが、英文法の "Auxiliary Verb" は ふつう「助動詞」と 訳されていて、それでも けっこうなのですが、SVOとか SVOCとか いう 文型を いう さいの "V" は 述語の 意味であって、"Auxiliary Verb" は 訳して 「補助述語」、品詞らしく 「詞」を つけて、「補助述詞」というのも そう 奇を てらった ものでもない という ことです。
 最近では "Auxiliaries" と 後略するのは 「補助詞」と するに ちかいが、日本語の「繋詞(むすび)」が 主文末の 位置に あって、「機能を むすぶ」ものと かんがえるのと、どちらも 普遍性も 特殊性も あわせもつと いっていい。「繋詞(むすび)」は、1954年「日本語の文法的クミタテ」で 奥田が 命名した ものと おもわれるが、その命名が ロシア語文法 たとえば ヴィノグラードフの 文法から ただ 直訳した だけの ものではない ことを、「後置詞(あとおき)」「接続詞(つなぎ)」とともに あえて ことあげしておきたい。


1)補助動詞が 動詞の 派生態を 構成する のに対し、むすび(補助述詞)は、動詞だけでなく、形容詞や 名詞の 述語と くみあわさって 合成述語を 構成する ものであって、おおくは 「する/した ようだ/だった」のように 前後に ダブルテンスをもつ ことも 特徴を する。

措定〜断定:だ である です であります
様態〜推定:ようだ みたいだ らしい / と みえる
伝聞〜引用:そうだ / と きく という

説明〜推論:のだ わけだ はずだ
詠嘆〜焦点:ものだ ことだ ところだ
確定〜確信:かもしれない にちがいない

評価〜当為:しても/すると/すれば/したら いい / しては/すると/すれば/したら いけない
といった、認識的な 叙法性の ものと、評価的な 叙法性の ものとが 代表例に なるが、ダブルテンスに関しては、「そうだった」(伝聞の 過去形)や「にちがいなかった」(確信の 過去形)などは 例が すくないし、あっても まともの テンスというより、モーダルな 確認的な 意味に かたよる ようである。この 延長線の さきに「(よ)う・だろう・まい」などの「不変化助動詞」と よばれる ものが 存在するのだと おもわれる。より客観的な 断定・様態の ものが テンス形を おおく もちいられ、より主観的な 伝聞・確信の ものが テンス形を ほとんど もちいられない、という 内部差を もつのである。
 「評価〜当為」の 例は、条件的な 語形だから 前部に テンスは もともと こない。事態の 認識は 前部の テンスが そろっている ことが 必要である のに対して、行為の 評価であるから、テンス以前の 行為の ために 前部に テンスが ないのも 理の 当然なのである。テンスの ある 事態と、テンス以前の ありようの 行為との ちがいも、注意した ほうがいい。事態の「接続詞」と、行為の「条件形」とが、二段の 階層に、つまり テンスの ある B2の 階層と、テンスは ないが 肯否の みとめかたが ある B1の 階層とに なっている のである。念のために いえば、南不二男の ABCD 4段階の 説では おなじ B段階(連体節)と されるが、工藤の 修正案では、みとめかたの B1段階と、テンスの B2段階とに わける けれど、このことが 「みとめかた+条件形」と「テンス+接続詞」の 問題を あつかうのに だいじだと かんがえている。

 補助述詞の すべてでは ないが、「形式名詞+だ」の 構成の ものが おおいので、ひとことする。現代でも 断定の ばあい、「だ」の かたちは 名詞にだけ つくものだし、「です」でも せいぜい 名詞と 形容詞までで、「ゆくです。」とは いわない。それが、古代語で いえば 「Nなり」だけだったのが、「日記といふ ものを … するなり」のように、「V連体形+なり」が いえる ように なった ことが 画期的な 歴史変化の 発端なのである。これは 連体形が 準体法という 名詞化の 用法を もっていた からであり、のちには、意味的には 未分化な 準体法が すたれて、「の」を はじめとして 「やう・さう・もの / げ …」などの 形式名詞が やくわり分担を はじめた ことが 日本語の 表現史に めだつ 展開の ひとつと いっていいと おもう。ほんの おおすじの ながれだけであるが ひとことして、あとは わかい ひとに 期待したいと おもう。


2)さまざまな 補助述詞が あって、さまざまな 合成述語が つくられている なかで、それらが どう システム化されるか、なにが 中心的で なにが それらに つきしたがうか、については まだ わからない ものが おおい。奥田靖雄1984「おしはかり」の 冒頭には、

     いいきり(断定)  おしはかり(推量)
記述   す  る     するだろう
説明   するのだ     するのだろう
のような 叙述叙法の 十字分類が 提案され、拡張するには、その「する」の ところには、テンス・アスペクトの
     完  成     継  続
現在   す  る     している
過去   し  た     していた
が それぞれに はいると かんがえている ようである。この 推量「−だろう」と、説明「−のだ」とが えらばれたには、表現形式の 使用頻度 というか 選択使用の 重要度に よるのであって、いわゆる 形態論的な 従属度などに よった ものではない。フンボルトの いう エネルゲイアは 文の 選択使用において こそ あらわれる のであって、エルゴンとしての 形態(概念)論は ときに「慣習の専制(暴虐)」(サピア Language p.98)に なってしまい がちである。かつての 日本語の ローマ字文法、田丸文法でも 宮田文法でも、過去推量は、江戸期以来 すたれゆく「したろう」であって、あたらしい かたちの「しただろう」では なかった ことを おもいだしてみると いいだろう。「した」との かたちの 類似においては、「したろう」のほうが 「しただろう」より ちかい ことは たしかであろう。しかし 現在の 推量の ばあい、「あめが ふるでしょう」の かわりに 「あめが ふりましょう」を つかっていた 気象庁の 役人の ふるい 言語感覚は、NHKの 記者の 言語感覚から 当時から 批判されていた のである。気象予報文は、気象庁の 権限(権威)で かかれる ものであって、NHK(半民間)に かきかえる 権限は なかった のである。文語文に 権威が あった のかもしれないし、さらに ふかよみすれば、現代の 推量文ではなく、文語文の 想念文(意志+命令+推量etc.)のほうが つごうよかった、かも。
 形態論では、推量「−だろう」にしても、説明「−のだ」にしても、「補助述詞」という 別語の 活用形であって、合成述語全体の「するだろう」や「するのだ」などを 「する」の 活用形の ひとつとは みなす たちばに たたないだろう。形態論は 膠着や 分析の プロセスの ものは、別の語の 問題と きりはなす だけで、合成述語全体を 合成機能体として 他の形式と 関連づけて 記述すべき 形式とは みないのが ふつうである。「形式名詞」や「補助動詞」や「補助述詞」のような 補助的な品詞は、形式的には 自立しながら、機能的には 補助的に なって、歴史的に「矛盾」した もしくは「両義的」に なった 形式であって、それを 形式的に きりはなす だけでは、歴史の 機能の 発展を あつかう ことには ならない のではないか。奥田は、そうした 傾向を「形態論主義」と よんで、語の形式の あつかいは すっきりさせるが、複雑に 構成して 発展しつつある 文の機能は、2語以上の 連語で 構成されたり、位置や 音調で あらわされる ものは、みおとしてしまう と 批判した のである。
 機能的には、認識的な 方法の ちがいによる《断定−推量》と、表現的な 方法の ちがいによる《記述‐説明》とが より基礎的な ものとして えらばれている と おもわれるし、『雑誌90種 …』(1964)の 使用頻度の 調査においても、「だろう」と「のだ」の 使用頻度は 他の「助動詞・補助動詞」の 頻度と くらべても、相当 たかい 頻度を しめしている。「助詞・助動詞の用法」を 担当した 宮島達夫が 意味機能分類を くふうして、「だろう」と「のだ」との 使用頻度が ちゃんと わかる ように 分析してある。なお、林大1964「ダとナノダ」(講座現代語6 口語文法の問題点)も 一連の 調査の 副産物だ。タイトル自体が 対立を しめしている。林大が 橋本進吉の むすめむこでなく、もっと 自由に 文法事実に 発言できれば、というのが そばに いた わたしの ありえない はかない 夢想であった。

 この 3つの 補助品詞についての はなしは、しんどい 形式上の 問題を すべて かってに はしょって、自分の いいたい 機能のことに すすむ という かってな はなしに なっている。おおまかな 形式と くわしい 機能 という、としよりの あそびごころの ひとつと おおらかに みていただきたい。おいさき みじかいので、いいたい ことだけを いう。奥田らの 苦心して たちあげた 文法の 要点は いかがであった だろうか。



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工藤 浩 / くどう ひろし / KUDOO Hirosi / Hiroshi Kudow


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