冒頭

廃線跡を訪ねて

東武鉄道熊谷線が廃止されて今年で早14年が過ぎようとしています。 去る3月9日(部分日食のあった日)に廃線跡を訪ねて来ました。

上熊谷駅付近

上熊谷駅のホーム
写真1 上熊谷駅のホーム
途切れた線路
写真2 途切れた線路
熊谷と上熊谷の間は秩父鉄道の敷地を借りていたわけですが、訪れた時には線路はそのまま残っていたのですが、踏切では熊谷線の線路はアスファルトで埋められていました。また上熊谷駅のホームは島式ホームで1番線が秩父鉄道、2番線が東武鉄道として使っていたのですが、ホームからの転落防止のためか2番線側には金網が張られていました。(写真1)線路は上熊谷駅を出て約300mは残っていましたが、上熊谷から2つ目の踏切の先で途切れていました。(写真2)しかし考えてみれば秩父鉄道は、この線路をうまく使うと熊谷駅と石原駅の間を複線として利用できる様になるはずなのですが、なぜ利用しないのでしょうか。

原島(上熊谷・大幡間)

工事中の看板
写真3 工事中の看板
舗装された線路跡
写真4 舗装された線路跡
次に上熊谷駅と大幡駅の間にある熊谷市原島地区の廃線跡を訪れてみた。この辺りの道路は狭くて曲がりくねっていたものが多かったのだが、やっと予算がついた様で廃線跡を道路として整備中であった。現場に立てかけてあった工事の案内看板によると「東武熊谷線跡地緑道整備工事」となており、平成8年度末(平成9年3月17日)完成予定で工事が進んでいる様で、すでに舗装が完了していました。廃線跡もまもなく立派な道路として再利用されることでしょう。(写真3,4)

大幡駅跡

大幡駅跡
写真5 大幡駅跡
大幡駅跡は国道17号線の熊谷バイパスがオーバークロスしているすぐ南です。この辺りでも道路への転用の工事が進行中でしたが、まだアスファルト舗装はされておらず砂利道のままでした。大幡駅はかつて列車の交換設備があったため、道路は駅構内の跡だけ道幅が広くなっています。(写真5)また敷地境界の柵は昔のまま残っていました。かつて駅舎のあったあたりは住宅が建っていました。

奈良〜妻沼

奈良付近
写真6 奈良付近の道路
奈良から妻沼までの線路跡は早くから道路に転用されています。(写真6)道路は線路の跡を忠実に進みかつて撮影の名所(?)であった福川を越え妻沼駅の跡へと続きます。


妻沼駅跡

防風林
写真7 ホームの防風林
安全第一
写真8 安全第一
妻沼駅のあったあたりは大きく変わってしまいました。かつて熊谷線廃止の代替として運行を開始した急行バスは旧駅舎から出ていたのですが、駅の東側に広がっていた田圃を住宅地として開発し、旧駅舎を取壊して道路を作り、さらにバスの終点をも移してしまいました。したがって旧駅舎のあったところは今やニュータウンの入口となっており、すぐ 前には「カスミストア」ができました。かつてホームの風除けとして植えられていた杉の並木が昔の面影を伝えています。(写真7)また駅構内にあったソテツの木と安全第一を掲げた緑十字のモニュメントが残っていました。(写真8)



キハ2002

キハ2002
写真9 キハ2002
かつて熊谷線を走っていたキハ2002は駅跡の北東約100mにある妻沼町中央公民館の敷地内の展示してあります(写真9)。ここに掲示してある由来には次の様に記述されています。たしかに地元では東武鉄道熊谷線という正式名称は通用せず、妻沼線と呼ばれていました。しかし‘特急カメ号’と呼ばれていたのは事実の様ですが、キハ2000ではなく先代のB2型機関車だったと聞いています。





由  来
この車両キハ2000型気動車は東武鉄道妻沼線
(熊谷−妻沼間10.1キロ)で開通時(昭和18 年
12月)使用のB2型蒸気機関車に代わり、昭和 2
9年2月以来運行し鉄道廃止の際、東武鉄道(株)
が町に寄贈した。定員109人時速65キロ所要 時
間17分で、田園をトコトコ走る姿から‘特急 カメ号’
と呼ばれ長く町民に親しまれた。
昭和58年6月1日 移設を終えて
妻 沼 町




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