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1−A1

私には、物心ついたとき──もしかしたら生まれたときから既に持っていたと思える記憶があった。
江戸時代の街らしき場所に暮らす人間として生きてきた記憶である。
その記憶が何であるのかを考えたときに、最も単純に思い浮かんだ仮定が、それは前世の記憶ではないか、というものだった。
だが、それは思いつくと同時に否定していた。
私が前世の存在を信じるだけの理屈が見つけられないということが理由の一つである。
少なくとも、既存の前世だの転生輪廻だのといった思想の矛盾点なら、いくらでも挙げられるのだから。

とはいえ、別に私はガチガチの唯物論に凝り固まっているわけではない。
神様だって特に宗教色に染まらない単純にスケールの大きい存在としてなら宇宙のどこかにいるかもしれないとも思うし、超能力も人体の機能が上手くかみ合えばそのいくつかは発現するかもしれないと思っている。
とにかく、現代科学で説明できないからといって、一方的に存在しないと否定するつもりなどさらさら無いのだ。
が、先に言ったとおり、どうにも昔から前世とか転生輪廻とかいう考え方だけは納得できなかった。
またそれに付随する形で、前世や転生輪廻の前提条件である魂(あるいはそれに類するもの)の存在についても同じくといったところである。
別にこの思想の存在を認めないというわけではないのだが、どう考えても、生物的な死を自我の終焉だと認めたくないが故に生まれたとしか思えないこの思想を、実在するかもしれないと思わせるには、穴が多すぎるのだ。

もう一つの理由は、その記憶に、全くと言っていいほど現実感を感じないということがある。
それこそ映画(それも自分の好みではないもの)を見たような感じで、記憶の主体である人物の思考と自分がリンクしておらず、前世の自分とするには、あまりに自分らしくない行動をとりすぎているように思えるのだ。
といって、過去に見た時代劇やらの記憶が綯い交ぜになって出来上がった架空の記憶かということは考えもしなかった。
記憶自体が幼い頃から存在し、かつ自分が知識として知らなかったことさえその記憶の中で描かれていることから、その可能性は十分に否定できたからだ。

だが、このようにいくつかの仮定を否定したとしても、現実に私の中に記憶は存在してしまっていることは変わらない。
別の仮定として、例えばどこかパラレルワールドのような世界にいる人物と意識が繋がっているのではないかといった仮説の上に仮説を重ねたようなものはいくつか思いついたが、仮説の部分が多すぎて単なる想像でしかないものばかりである。
結局頭の中で考えるだけではこれ以上先に進めないということが、私が研究者を志すきっかけになったのは間違いない。

 

 

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