第一章

   5

 先ほどから喘息の発作が胸騒ぎ以上に騒がしい。めまいも起こっており、視界が安定しない。
これ以上ひどくなると吐き気を催すことも、パチュリーは経験上知っている。

 非情にまずい状態なのは分かっていた。自分の体のことは自分が一番知っている。
魔書の封印を解かれてしまったことで、緊張の糸を切らしてしまったせいだろう。
高揚感で抑えられていた発作は徐々に酷くなり、今では満足に飛ぶこともできない。

「止めなきゃ……魔理沙を、止めなきゃ……」
 ふらふらな状態で廊下の上を飛びながら、うわごとのようにパチュリーはその言葉を繰り返していた。
 おそらく魔理沙は紅魔館から出ているだろう。だから魔理沙を追おうとはしていない。

パチュリーの今の目的は、自分の代わりとなって魔理沙を追える人物を見つけること。外を飛び回って彼女を見つける自信などパチュリーにはない。

 そもそも図書館にひきこもってばかりで、幻想郷の地理など本の中でしか知らない。そんな自分が行くよりかは、誰かに頼む方が確実だと思う方が自然だ。

「……あれは、咲……夜」
 パチュリーが見つけたのは、廊下にうつぶせ倒れ、気を失っている咲夜の姿だった。
(魔理沙にやられたと見て間違いないわ)

 この紅魔館でも咲夜を気絶させられる者などそうそういない。主人であるレミィですら手を焼く程の実力者だ。

倒れている咲夜のそばで足をつき、パチュリーは彼女を起こそうと手を触れそうになったときだった。
咲夜は突然目を見開き起き上がると、パチュリーの手を勢いよく弾いた。

「……っ」
 パチュリーが手を引っ込めた時には、咲夜は距離を取って立ち上がっていた。
 そしてなぜか敵意むきだしてパチュリーをにらみつけている。

「咲夜? ……あなた、いったい、どうしたっていうの?」
 ただならぬ雰囲気に、パチュリーも戸惑いを隠せない。普段紅魔館に住んでいる相手に、このような態度を見せることなどなかった。

「その名前で呼ぶな、魔女」
 吐き捨てるように投げつけられた言葉に、パチュリーは少なからずショックを受けた。彼女が紅魔館に来てから、そのような冷たい態度は一度としてなかった。あったとすれば、紅魔館に来る前の話だ。

喘息の発作に追い打ちをかけるように、肺が締め付けられる気分になる。
咲夜がこのような言動に陥った原因を考えて、すぐに合点のいく結論が出た。
(あの魔書が細工をしたということね)

 魔理沙が望んでこんなことをするはすがない。あの魔書に言われるまま魔法を使ってしまったのだろう。
(だから危険なのよ、あの魔書は)

 もし今目の前に現れたらすぐに燃やしたいくらいの気分だが、それ以上のことを考える余裕もない。
目の前にいるかつてのメイド長は、もはや味方ではなかった。

 咲夜は銀のナイフを一本取り出し、それをパチュリーに向けた。
「吸血鬼の居場所を答えれば、命は残しておいてやろう」
「は?」

 なぜここでレミィの居場所を聞かれるのか、パチュリーには理解できなかった。おそらく体調が良くても、理解することはできなかっただろう。

「とぼけるな。貴様が吸血鬼の友人であることは知っている。だからその居場所を聞いているのだ」
 それに言葉遣いもおかしくなっている。他人行儀で高圧的な物言いは、その態度と相まって妙に合っていた。

(そういえば、そうね。貴女は元々……)
飼い慣らされた番犬ではなく、血を求めてさまよう狼。

首につなげられた鎖など咬みちぎってしまうほど荒々しい獣。
 そしてそれ以上の気高く美しい誉れある狩人。

 パチュリーが初めて咲夜と出会ったときがそうだった。生半可な手段では、手なずけることも叶わない人間だった。
「こほっ、こほっ……懐かしいわ……」

 未だ続く吐き気とめまい、時折せり上げてくる咳きは容赦なく集中力と呼吸を乱す。
そんな状態でもパチュリーは微笑んだ。

不利なほど燃え上がる性格ではないが、昔はそうでもなかったのを漠然と思い出す。それは魔法使いになる前の記憶だったかもしれない。

「あの魔書にどんなことをされたか知らないけど、レミィの居場所を知りたければ、力ずくで聞きなさい。正々堂々スペルカードルールで勝ってね」

 小脇に抱えていた魔導書を開き、パチュリーは空いている手を咲夜にかざす。
 それを見た咲夜は挑戦的な笑みを返した。

「それがお前の答えか。もっと魔女は賢いものだと思っていたぞ」
 咲夜とパチュリーの視線が交錯する。初手の読み合いから先手後手の探り合い、そしてスペルカード宣言のタイミングを計り合う。

(今の体力だと使えるスペルは一回が限度。咲夜のスペルの弱点をつく)
 変貌する前の咲夜の行動パターンは読みやすかった。だが、今の咲夜のスペルは読めそうにない。
そうなるとパチュリーが取り得る手段は自ずと決まってくる。

スペル宣言は後出し、かつ迅速にそれを行い、短期で決着をつける。
スペル宣言が遅くなれば、それだけ隙をつかれやすくなる。今のパチュリーに弾幕を素早く避ける余裕はない。咲夜の弾幕ごと彼女を倒してしまうつもりだった。

「奇術『エターナルミーク』!」
 咲夜のスペルカード宣言と同時に、彼女の前に無数のナイフが現れる。
(悪手よ。時間と空間を操る選択肢を捨てた時点で貴女の負け)
パチュリーのスペル宣言はそれからすぐだった。

「金符『メタルファテーグ』
 金属疲労を意味するそのスペルは、あらゆる金属の堅さを無くさせる弾幕をばらまく。その弾幕は咲夜のナイフは当然のこと、人間の鉄分、カルシウムをも脆くする。

 高速で放たれるナイフは全てパチュリーの弾幕によって脆くなり、折れ、曲り、砕けていく。パチュリーの弾幕はそれにとどまらず、咲夜へと迫る。
「ちっ、味な真似を!」

 更に本数を重ねて一つの大弾に集中させてナイフを投じる。しかしそれらも先ほどと同じように無力化されてしまう。
「全く効かないのかっ!?」

 弾幕の相性の悪さにようやく気づいたようだった。
その時には弾幕は咲夜の眼前にまできていた。食らえば一発でおしまいなのは、パチュリーであろうが咲夜であろうが一緒だ。

その弾幕を咲夜は体勢を崩し、床を転がりつつも辛うじてかわす。頭につけていたヘッドドレスがその拍子で派手にずれる。

四つん這いになって横っ飛びをして距離を置く。その際、ずれたヘッドドレスを自棄気味にパチュリーの弾幕に投じる。

投げられたヘッドドレスはナイフと同じ運命にはならなかった。弾幕をすり抜けていびつな放物線を描き、軽い音を立てて廊下に落ちる。
「……」

 咲夜は続けて迫り来る弾幕をアクロバティックに避けていく。その中で視線を頻繁にヘッドドレスへ向け、先ほどのことを気にしている様子だった。

その証拠に、ナイフを出現させたり、構えたりする素振りを見せるが、弾幕を張ろうとはしない。打開策を探して、パチュリーの弾幕を観察しているようだ。

「無駄よ、勝負はついたようなものよ」
 パチュリーはそこで更に弾幕を厚く張る。

時間をかけて追い詰めるつもりは最初からない。最短でこの弾幕ごっこを終わらせるつもりだった。
 一筋の汗がパチュリーの頬を伝う。

(……お願い、咲夜がやられるまでもって)
 パチュリーの体はとっくに現界を迎えていた。普段なら無理せず倒れて、誰かに介抱されるのを待つ。だがパチュリーには倒れられない理由がある。

咲夜には負けられないという意地と、間接的にであるにせよ咲夜を昔の彼女にしてしまったという罪悪感。
その二つがパチュリーを支えていた。

 パチュリーの弾幕はその密度を薄めることなく、間断のない状態を維持している。咲夜はその中をあきらめずに避け続けている。だがあちらから弾幕を再度貼ろうとはしていない。

何か企んでいるのは明白だ。それが読めない分気味悪さも同時にパチュリーは感じていた。
(あきらめの悪い……)

 それはパチュリー自身にも言えることだが、背負っているものが違う。今はどんな無理をしてでも咲夜を倒しておく必要があった。
このまま咲夜をレミィに会わせるわけにはいかない。加えてもしレミィの妹に出会ったらと考えると、気が気でなくなる。

自分の失態で咲夜を失ってしまったら、レミィにどんな顔をすればいいのか分からなくなる。
咲夜はレミィのお気に入りだ。好きの度合いで計るなら、自分よりも圧倒的に咲夜の方が上と言っていい。

(貴女のためでもあるの。いい加減やられてっ……)
 時間が経てば不利になるのはパチュリーの方だ。咲夜がねばればねばるほど、パチュリーの勝ちは遠のく。

 もしかしたらそれを察して避けることに集中しているのかもしれない。体調の悪さは傍から見ても分かるくらいだ。

 それでも弾幕の勢いを弱めるわけにはいかない。みすみす咲夜に有利な時間を与えてしまうようなものだ。

咲夜も神経を集中して避け続けているはずである。密度の濃い弾幕の中でいつまでもノーミスというわけにもいかないだろう。

(むしろそう思いたいわね。余裕で避けられるような弾幕ではないと思ってるけど)
 大弾の大きさと密度のせいで、パチュリーの位置からは咲夜の姿はほとんど見えない。時折、咲夜の体の一部が視界に入る程度だ。そんな視界の中で咲夜は未だ無傷でいる。

「……こほっ……」
 ほんの一回の小さな咳払いだった。その一回でわずかばかり集中力が落ち、パチュリーの弾幕はその密度を弱まった。

 次の瞬間、弱まった弾幕に向かって咲夜は走り出していた。
大弾と大弾の間隙をぬって、咲夜はナイフを無数のナイフを投じる。

隙間が空いてもそれはその瞬間の出来事で、動きのある弾幕はすぐにナイフの進路に立ちはだかる。
咲夜のナイフは全てパチュリーには届かなかった。

しかし咲夜はその結果に落胆も驚きもしていない。薄くなった弾幕に向かって突き進み、パチュリーとの距離を詰めている。
(まずい……っ!)

 至近距離での弾幕ごっこではお互いが危険な状態になってしまう。
ただ、咲夜だけが危険という状態ではない。パチュリーが咲夜と同じ舞台に上がってしまったら勝機はない。

 弾幕の密度を元に戻そうと、パチュリーはスペルを唱えようとした。
「あ……っ、う……」

 出そうとした声が出ず、パチュリーはその場に膝と魔導書を持っていた手をつく。空いた片手で胸を押さえ、激しく咳き込み始めた。

 顔を上げて咲夜の様子をうかがう余裕も、パチュリーにはもう残っていない。発作が落ち着くのを待つしかできなかった。

「そこまで肺を病んでおきながら、ここまで粘るとはな」
 パチュリーの頭上から咲夜の声が聞こえてくる。いつのまにかすぐそばまで来ていたようだ。
 勝者の余裕なのか、その声はひどく落ち着いている。

 両目をつぶって咳き込んでいたパチュリーは片目を辛うじて開けると、床が湿っているのに気づく。
(これは……血。私のではない)

 激しい咳きはしているものの、喀血をした覚えなかった。そうなると必然的に血を流しているのは咲夜ということになる。

「お前がもう少し長く弾幕を張っていたら、負けていたのは私だった」
 咲夜の言葉を信じるなら、紙一重で負けてしまったようだ。
 紙一重でも負けは負け。悔しさは変わらない。

「その様子ではしゃべることもままならないだろう。今日のところは引き上げる。次はそうなる前に白状するんだな」
 その言葉を最後に咲夜はゆっくりと歩き出す。

(白状するもなにもレミィはこの屋敷にいるわよ……バカメイド)
 徐々に遠ざかる足音を聞きながら、パチュリーは胸中で愚痴った。



 レミリアがパチュリーを見つけたのは、それからすぐのことだった。

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