第一章

   4

 あの魔書の魔力が開放された時点で手遅れなのは、パチュリー自身が一番良く分かっていた。封印を施したのは自分自身なのだ。完全に封印を解かれたあの魔書がどんなことをするかも分かっている。
(止めなきゃ、あの魔書は危険すぎる)

 どこの誰が封印を解いたのかはおおよそ検討がついていた。おそらく犯人は間違いなくあの人間の魔法使いだろう。
しかし腑に落ちない点がある。

彼女は愚直だが馬鹿ではない。むしろ魔法使いに必要な見識と知恵を兼ね備えた優秀な人間だ。
なぜ封印されていたのかを考えれば、自ずとその行動の愚かさに気づくはず。

パチュリーにはそれが理解できなかった。そうせざるを得ない状況も思いつかなかった。
 禁書庫へ最短ルートで最速力で向かっているが、胸にたまっている焦燥感は少しもぬぐえない。

 開けっ放しの禁書庫の扉を視界に捉えた時だった。禁書庫からこちらへ猛スピードで飛び出してきたモノクロの影。
 その姿を見間違えるはずがない。たびたびこの図書館に来ては魔導書を漁っている人間、霧雨魔理沙だ。

「あのバカっ……!」
 罵倒の言葉を呪詛のように口にしている間に、パチュリーの頭上を追い越していく。そしてそのまま弾幕のようなスピードで、図書館の出口へ飛び抜けていった。

 パチュリーも逃がすまいと急ブレーキをかけ、一八〇度方向転換する。無理な体勢のせいで、肺がよじれ、咳きがこみ上げてくるがそれを我慢。

 追いつけると思っていないが、それでもここで足取りを失うよりはマシだ。
 途中で咲夜やレミィに会えば、彼女らに協力を請うこともできる。魔理沙を止められるとすれば、この紅魔館には彼女らと後一人ぐらいしかいない。

 運良く彼女らと鉢合わせしてくれれば、例え事情を知らなくても足止めしてくれるかもしれない。
 そんな薄い望みを抱きつつ、パチュリーも図書館の出口へ急いだ。



 紅魔館のメイド長、咲夜に休息はほとんどない。
人の里への買い物を済ませ、昼間に起きてきた主人を寝かしつけた後は、妖精のメイドに指示を出しつつ、自ら館の掃除にいそしむ。それが終われば今度はディナーの準備だ。

 この紅魔館に来てから変わらぬ生活だ。その生活に咲夜は幸せを感じていたし、なにがあっても続けるつもりだった。

それもこの館の主を敬愛するが故のことである。愛らしくも気高い主に仕える喜びは何物にも代え難い。館の門番や魔女にはその感覚に疑問を持たれるが、彼女は気にしない。

それはイコール自分が誰よりも主の魅力を理解していることに繋がる。周りの者との違いを知るたびにそう実感していた。

そんな充足した時間を味わっていた時だ。
赤いカーペットが敷かれた廊下の上を、ものすごい速度で近づいてくる影が一つ。地下の図書館へ続く廊下からだ。

 この紅魔館でそんな速度で移動するのは、礼儀を知らない愚か者しかいないのを咲夜は良く知っている。そしてその愚か者とは、買い物行く途中に出会った人間だということもすぐに察しがついた。
(また図書館に盗みに入ったのね)

 毎度毎度懲りないと嘆きつつも、本気で怒らない図書館の主にも問題があるのではないか、そう思うことがある。

彼女が主の友人である以上、あの魔法使いとの関係についてとやかく言うつもりはない。だが、この館での狼藉を見逃すほど甘くもない。

「止まりなさい、魔理沙!」
 口だけで止まらないのは百も承知なので、一緒に銀のナイフも彼女に向かって何本も投げつける。
「うわっ! あぶなっ!」

 いきなりの弾幕で驚いてはいるが、咲夜が投げたナイフはかすりもしていない。だが本気度合いが伝わったのか、魔理沙はおとなしく咲夜の前で止まった。

「いきなり危ないじゃないか、メイド」
「盗人のくせによくそんな態度でいられるわね」

 確たる証拠はないが、咲夜はそう決めつける。間違っていれば茶菓子を出して機嫌をとり、あっていればそのまま成敗すればいいだけのこと。

横暴だが、魔理沙相手にはこのくらいがちょうど良い。
「客人に対する礼儀がなってないメイドだな。私のどこが盗人なんだ」
「その手に持ってる本よ」

 いつも魔理沙が手に持つのは箒か、ミニ八卦炉という煎餅みたいな板だ。それ以外のものはここから持ち出したものと考えてよい。

「だってよ、エルの書。お前、盗人扱いされてるぞ」
「?」
 本に話しかける魔理沙の姿に、咲夜は眉をしかめる。

咲夜に言いたいことを理解していない上に、そんな行動を取れば誰でもあやしむ。
 気でもふれたのかと思ったが、自分を欺く演技かもしれないと、咲夜はその本を注視する。

『盗人のそしりを受けているのは汝だ、星の預言者よ』
「しゃ、しゃべった……?」
 聞こえてきた声に咲夜は我が耳を疑った。

 魔理沙が腹話術をしているというお遊びレベルではない。
 こんな低い男の声を魔理沙が出せるはずはないし、間違いなく本から聞こえてきた。

「冗談が通じない奴だな。とりあえず、目の前にいるメイドを無害にする方法を教えてくれよ」
『然り』

 魔理沙の希望に応え、本は一人でに開かれる。
そこから溢れる嫌な威圧感が咲夜を襲う。それが魔力なのかどうなのかは、魔法使いでない咲夜には判然としない。

「ちっ……」
 その圧力に咲夜は舌打ちしながら魔理沙との距離を取る。ここで咲夜は距離を詰めて至近距離でさっさと決着させるつもりだった。

 だが、本から受けるプレッシャーがそれを許さなかった。
(すごく不気味)

 たかが本一冊に弱腰になっている自分が不甲斐なく思えてくる。だがそれ以上にしゃべる本に咲夜は気圧されていた。

「さぁ、いくぜメイド!」
 まごまごしているうちに、ぶつぶつと魔理沙は本を片手に呪文を唱え始める。

 もう戸惑っている猶予はなかった。ここで魔理沙を止めなければ、先制を許すことになってしまう。
咲夜は空間を操る能力で一気に魔理沙との距離を詰める。

「……おお、愛する者よ、汝が意志するのならば立ち去るがよい! 分かれたるものを一体に出来る絆は愛以外にない……」

 魔理沙は呪文の詠唱を止めようとしない。呪文に集中してしまっているのか、すぐ近くまで迫っている咲夜に気づいていないのかもしれない。

「好機!」
 多少痛い目を見てもらうつもりで、咲夜は大量のナイフをどこからともなく顕現させる。
 間髪入れずにそれらのナイフは一直線に魔理沙に向かう。

 しかし魔理沙に向かって投げられたナイフは、ことごとく彼女の手前ではじかれた。
(障壁? 同時に二の魔法を使っていた?)

 事態が理解できず、咲夜は混乱してしまう。まさかいつも直球、真っ向勝負をする魔理沙が小細工してくるとは思いもしていなかった。

「……永劫に渡りて呪われよ! 地獄」
初撃を防がれたショックを受けたまま、咲夜は魔理沙と目が合った。

いや正確には魔理沙が目を合わせてきた、と言った方が正しい。完成した魔法が瞳術に類するものだったのだろう。

「赤い……眼……」
 果たしてそれは完成した魔法によるものなのか、使った魔法の反動なのか。

それは判然としなかったが、咲夜はその赤い瞳に見覚えがあった。
既視感ではなく既知の感覚。

かつて対峙した彼女の、冷徹で非情で血のように赤い瞳と魔理沙の瞳は同じだった。
似ているという次元ではなく、そっくりなのだ。自分をこの紅魔館に導いた彼女の瞳とその瞳はうり二つだった。

(そんなことあるはずが……)
 否定しようとしても自分の感覚が否定する。

その瞳は自分の運命を変えたあの瞳に間違いないと。
咲夜はその瞳から眼を離すことができなかった。

できるはずがない。瞳そのものが魔力を持ち、見る者を離さない邪眼なのだ。
魔理沙の瞳の中に吸い込まれていく錯覚の中、咲夜の意識は懐かしさを抱きながら遠くなっていった。



「本当に無害になったな……驚きだ」
 足下で気を失っている咲夜の様子を観察しつつ、魔理沙はそんな感想を漏らす。
 そうなるように望んだ本人が一番驚いていた。

『次起きる時にはねじれた運命から解き放たれているだろう』
「ねじれた運命? 変な小細工でもしたのか?」
 気になる言葉に魔理沙はエルの書に問う。

『暗示をかけるのに邪魔な故、運命を正しく修正した。それだけのこと』
「運命ね……。ま、いいか」

 魔書の答えを魔理沙はあまり真剣に受け止めなかった。
 運命が簡単に操れるはずがないという当たり前の感覚があった。それに使った魔法も大がかりでもなければ、魔力を大量に消費するものでもなかった。

いくら強力な魔力を持った魔導書だからといって、魔理沙は人間の運命を簡単に修正できるとはつゆほども思っていない。それは魔法使いの当然の思考だった。

(でも、私の願いは叶えてる。今はそれで十分だ。細かいことはあとでゆっくり考えればいい)
「さて、パチュリーに見つからない内にさっさと逃げるか」
 再び箒にまたがり、魔理沙は紅魔館を後にした。
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