第一章

   3

 思いの外、封印の準備がスムーズに進んでいたのを、パチュリーは内心非常に安堵していた。あの魔導書の封印に必要な物が、一つでも時間の経過でダメになっていないかという危惧があった。だが実際にはどれ一つとして欠けたものはなく、順調そのものだ。

「あとはこれと……この魔石を……こうして、と」
 図書館の東の奥にある禁書庫で、一心不乱に作業を続けていたパチュリーはおもむろに額に浮かんでいた汗を拭った。普段汗をかくようなこととは無縁な生活だっただけに、それなりのしんどさも感じていた。

(これで封印の儀式に移れそうね)

 この三日間、本を読むのも惜しんで作業してきたことが報われると思うと、かいた汗も体のだるさも気にならなくなってくる。多少無理をしているのは承知しているが、ここまで来たら最後まで一気にやりきってしまいたいという思いがパチュリーにあった。

(でも儀式には集中力が必要だから、少し休まないといけないわ……)
 できることならさっさと封印を施してしまいたいが、最後の最後で集中力が尽きて失敗しましたでは元も子もない。

儀式は単純な魔法と違って、持続させなければいけない集中力の時間は圧倒的に長い。もっと専門的な儀式は下準備に一ヶ月以上かかり、儀式自体も三日三晩不眠不休というのもある。
(さすがにそこまでのものは私には無理)

 精霊魔法、属性魔法を得意としているが、それ以外は得意とは言い難いし、体力のいる魔法は特に苦手だ。
そもそも魔法には体力など必要ないというのがパチュリーの持論であった。

「……こほっ」
 肺に引っかかるような感覚を覚え、パチュリーは口を押さえ軽く咳きをした。

 部屋の掃除は封印の準備に入る前に、小悪魔の司書に大急ぎでやらせたので、今のは埃に依るものではない。

(無理をしてきたツケが回ってきてみたい)
 持病の喘息の発作がひどくなれば、それこそ儀式どころではなくなってしまう。

「儀式はやっぱり休憩してから、か」
 そう呟いた後にもまた咳きを一つ。

ただ不思議と憂鬱な気分にはならない。儀式の前で神経が興奮しているせいなのかもしれない。発作のことはさておき良い兆候ではあった。気分の高揚は、儀式を行う上で重要なファクターだ。

(休憩で飲むのはお茶じゃなくて珈琲の方がいいわね。この気分が醒めないように)
 紅茶は鎮静作用が強い。パチュリーは普段から落ち着くために紅茶を愛飲しているが、今日は特別だ。

 一種の名残惜しさを感じつつも、ある程度得られた達成感に酔いながら、パチュリーは禁書庫を足早に出て行った。



 胸の高鳴りを抑えるのに魔理沙は必死だった。この鼓動が彼女に聞こえてしまわないか心配してしまうくらい、魔理沙の心臓は大きく脈打っている。熱くもないのに額に浮かんだ汗を静かに拭った。

(思わぬ発見をしてしまったな)
 正に行幸というべき発見だ。

場所は紅魔館の地下の図書館。人の丈の三倍以上ある本棚が立ち並ぶ場所で、魔理沙は箒にまたがって散策をしていたところだった。そこにあやしげな部屋から出て行く図書館の主の姿を見つけたのだ。

 ただ見つけたのなら見つからないようにするだけなのだが、彼女の様子が少し変だった。喘息の発作を起こしているのに、興奮冷めやらぬ表情をしていたのだ。

魔理沙は直感的に、あそこの部屋には何かおもしろそうなものがあると判断した。
(あれは人には見せられない秘密の本があるに違いない)

 あの朴念仁のパチュリーが興奮していたのだ。どれだけすごい本があるのか、魔理沙にも想像もつかない。
 そう考えるだけで魔理沙の胸が踊った。霊夢より強くなりたい云々以前に、一人の魔法使いとして血が騒いだ。

 気配を悟られないよう本棚の上に身を隠し、パチュリーの姿がいなくなったのを待った。その時間がどれだけ待ち遠しいことか。

(落ち着くんだ……ここで見つかったらお宝が拝めない)
 パチュリーが出て行った部屋に、何かがあるかはっきりしないのに、魔理沙の脳内では宝物庫にすげ替えられている。

 視界から遠ざかっていくパチュリーの姿が消えるのを見計らって、魔理沙は行動を開始した。
「すぐ戻ってくるかもしれないから、手早く済ませるか」

 袖をめくる仕草をしてから、箒を掴んだ本棚から飛び立ち、くだんの部屋の前まで緩やかに滑空する。
 黄ばんだ呪符の貼られた扉の前で足を床につけ、魔理沙はその扉をまじまじと見つめ始めた。

「なるほど……これは対魔の札か」
 何度かこの図書館でひっかかったことのある類の呪符だったため、魔理沙にはすぐに判別がついた。日頃の行いが珍しく良い方向に働いている。

(ついてるついてる)
 頬が緩むのを自覚しながら、魔理沙は扉を開け中へと足を踏み入れる。

 普段なら封印されてるようなものには正面突破と称して、正々堂々強烈な魔法を炸裂させていた。もしここでそんなことをしたら、呪符の効果で反射した自分の魔法で身を焦がすどころか、パチュリーに気づいてくださいと言うようなものだ。

「まさに宝物庫……だな」
 薄暗い部屋の中、視界を広げるため光の魔法を手に灯し、周りを見渡した魔理沙は嬉しそうに口の両端をつり上げた。

 等間隔に立っている台座の上と、その上に安置されている本。それらの本一冊一冊が相当貴重なものだと見た目からして分かる。台座にも何かしらの魔法がかかっており、本の保存状態を維持するためのものだろう。

「ん、あれは?」
 その中でも唯一自ら光りをほのかに発している本があった。

台座の周りには儀式に使うような魔法の道具が並べられており、これから何かを始めようとしていたように見える。更にその周りにはその道具の余りが散乱しており、そこの部分だけ非常に生活感が漂っていた。

(この本を使って実験をしていたのか?)
 まどろっこしい手順が必要となる儀式魔法は、魔理沙の苦手とするところで、どんなことをしようとしていたか皆目検討がつかない。

「ま、そんなことはどうでもいいか」
 これから拝借する本をどうしようとしていたかは、その中身を見ればおおよそは分かるだろう。今そんなことを気にしても仕方がない。

 床に砂で描かれた魔方陣を踏み越え、魔理沙は台座に置かれた本の前に立つ。
『……え、……ん』
「うわっ! しゃ、しゃべった……」

 魔導書からかすかに聞こえてきた声に、魔理沙は大げさに飛び退く。
「しゃべる魔導書か……かなりの珍品だな」

 今までそれなりに多くの魔導書を読み解いてきた魔理沙だが、しゃべる魔導書を見たのはこれが初めてだった。知識としてはあったが、実際にあるかどうか疑っていたくらいだ。

貴重なものには違いないが、それ以上に気味の悪さが先行してしまう。
「もっと口やかましくしゃべるイメージがあったんだが、そうでもないんだな」

 最初よりも警戒した様子で、魔理沙は再度祭壇に近づく。
『……』
 のぞき込むように魔導書の状態を確認するが、先ほどのような反応はない。

 おそるおそる魔理沙は手を伸ばし、魔導書を手にする。表題を確認しようとするが、かなり古い本なのか、表題があったかどうかすら判別ができなくなっていた。

裏表紙を見るが、そこにはなにも書かれていない。どんな種別の魔導書か見た目では全くわからないようだ。
もう一度しゃべるかどうか確かめるために、魔理沙は魔導書を上下に振るが反応はない。

「応答がないな……寝てるのか?」
 表紙をドアをノックするように叩くが、小気味いい音がするだけで声は聞こえてこない。
 中身を確認しようとしたところで、魔理沙は魔導書の謎に気づいた。

「封印されてるのか」
 本はいくら力を入れても開けられず、中身が確認できない。本自身がそれを拒んでいるというよりかは、誰かが意図的にそういう封印をかけているようだ。

(魔力の反応が二つ。この魔導書と……パチュリーになるのか)
 となると、パチュリーがここで行っていたのか、その封印を解くためか、もしくはその逆か。
「封印の解除なら残念ながら得意分野だぜ」

 パチュリーの意図がどうであれ、一度借りると決めた以上中身を見なければ魔理沙の気は収まらない。目の前の宝箱を危険だからといって回避するような性分ではない。

 魔理沙は魔導書を手に持ったまま、おもむろに呪文を唱え出す。封印の種類は数限りなくあるが、それを解く手段はあまり多くない。

 中でも魔理沙が得意とするのは、かけられている封印をより強い魔力で吹き飛ばしてしまうものだ。力押しで強引に解いてしまおうという実に彼女らしい方法である。
「……戒めの鎖を解け!」

 すぐに封印解除の魔法が完成し、一瞬の閃光が部屋を覆う。
「これでよし、と。おーい、これでしゃべれるだろう?」

 フレンドリーに問いかけると、魔理沙の右手にあった魔導書は勝手に開き、あるページを示す。
「『汝の意志するところを行え。それが法の全てとならん』? 意味深な言葉だな」
 そんな感想を漏らした後、魔導書から風のように魔力の波があふれ出た。

帽子が飛ばされそうな錯覚に、魔理沙は思わず頭を抑え、片目をつぶる。だが実際には風は起こっていない。そう思わせるくらい強力な魔力が放たれたのだ。

『我が預言者よ。星の預言者よ』
 それが落ち着くと、魔導書から聞こえてきたのは低い男の声。歳を積み重ねた貫禄と威厳のある声色だ。

「お、ようやくまともにしゃべれるようになったか。星の預言者って私のことなのか?」
『私を手に取ったものが即ち、星の預言者となる』
「選ばれた勇者じゃないと開かないってわけじゃないんだな」

 それはそれで残念だなと思いつつ、魔理沙はその魔導書を手に、箒にまたがる。
あれほどの魔力の放射があれば、パチュリーはすぐにかぎつけてここに来るだろう。それまでにここをでなければいけなくなる。

『然り。汝は選ばれた者にあらず』
「正面切って言われると傷つくぜ。なぁ、お前はなにができるんだ? あと表題がないんだが、名前とかあるのか?」

『我が名はエルの書。二二〇の節を持ち、手に取った者の望む道を示すもの』
 魔導書、エルの書の言葉に喉が鳴る。空を飛ぼうとしていた手も止まる。

 その言葉の意味を魔理沙は敏感に読み取っていた。
もしこの魔導書の言うことが本当であれば、魔理沙の望みは叶う。そう確信させるだけの魔力をこの魔導書は秘めている。

 自分の望みを言っていいか、魔理沙の中にためらいが生まれる。
だからといっていつまでもここで黙っているわけにもいかない。

「私は……強くなりたい。あいつよりも。できるか? お前にそれができるのか?」
 意を決し、魔理沙は切実に訴えた。
『汝の意志はその手を介して伝わっている。答えは可。我は汝の意志するところを行う導《しるべ》となろう』

「本当になんだな……信じていいんだな」
『汝の意志に我はただ従うのみ。さぁ、我に命じるがいい。されば何者も拒絶する事はないだろう』

 魔理沙の問いに答えていないが、この魔導書は待ち構えている。魔理沙が命じるのを。
 あっさりと自分の願いが叶ってしまうことへの畏れに、魔理沙は身を震わせた。

 夢ではないと何度も自分に言い聞かせ、はやる気持ちを落ち着かせようと、深呼吸を繰り返す。
「エルの書よ、私を、この霧雨魔理沙を――」

 ようやく平静になり、エルの書に命令しようとしたところで、魔理沙はこちらに近づいていくる気配を察した。

該当する人物は一人しか思い当たらない。
「パチュリーか!」

 悠長にお願いする暇はなくなってしまった。無防備にここにいれば、多少強引な手を使ってでもエルの書を取り返そうとするだろう。それほどこの魔導書は人を引きつける魔力がある。
今はここから一刻も早く逃げることが先決だ。

 魔理沙はまたがったままだった箒に魔力を込め、ふわっと浮き上がる。
「とりあえず命令するのは安全なところに行ってからだ!」

 お預けをくらった気分だが、楽しみを後回しにすると思えば我慢はできる。
 魔理沙は全速力で部屋から飛び出していった。
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